たぶんこれでマスターできる「ドイツの歴史」

ヨーロッパのほぼ中央、中西部に位置するドイツ連邦共和国は、人口8,108万人、総面積357,121㎢で16の州からなる連邦国家。今やヨーロッパの国家の中で政治的にも、経済的にも中心的な役割を担っているドイツですが、現在、私たちが「ドイツ」と呼んでいる国の形になるまでは様々な紆余曲折がありました。ドイツが東西に分断されていたことでさえ歴史の1ページになりつつある今、改めてドイツが「ドイツ」になった歴史について見て行きたいと思います。

ドイツ人の祖先・ゲルマン民族が登場するまで

ローマ帝国の衰退とゲルマン民族の侵入

現在のドイツを含む地域はローマ帝国の時代には「ゲルマニア」と呼ばれ、ローマの支配を受けていない地域でした。
今でもそうですがこの地域は当時もゲルマン民族・スラブ民族など様々な民族が定住し、独自の文化を形成していました。
ローマ帝国は数度にわたってこの地域に遠征し、征服を試みました。
しかし紀元9年、トイトブルク森の戦いでローマは大敗を喫し、これ以降はライン川とドナウ川がローマ帝国とゲルマニア地域の国境となりました。

長きにわたったローマ帝国の隆盛も次第に斜陽に転じると、ローマとゲルマニアの国境地域にも動揺が始まります。
ゲルマン諸族が散発的に国境を越えてローマ領内に侵入するようになったのです。

そして375年、アジア系のフン族に押し出されるように東ゲルマン所属の一派、ゴート族が大挙してローマ領内に押し寄せる事態となります。
これが「ゲルマン民族の大移動」の始まりです。

ゴート族をはじめとする東ゲルマン諸族は南ヨーロッパに部族国家を建国しますが、次第にローマ人に同化されていきます。
これに対して後から移動を始めたフランク族をはじめとする西ゲルマンの諸族はローマ軍に徴用されつつ勢力を拡大していきました。

ローマの滅亡とフランク王国の成立

西ゲルマンの一派、フランク族は他の部族を糾合しつつ勢力を伸ばし、さらにローマ軍の傭兵として他の部族を撃退しつつ領地をあたえられ、次第にローマ帝国内に溶け込んでゆきます。
451年、アッティラ率いるフン族がガリアに侵攻、これに対してローマ軍はフランク族をはじめとするゲルマン諸属の協力を得て辛くも撃退します(カタラウヌムの戦い)。
しかし皮肉なことにこのことがフランク族のさらなる侵入を許すことになるとともに、ローマ帝国の崩壊を決定的なものにするのです。

476年、ゲルマン出身の傭兵隊長オドアケルによって西ローマ帝国最後の皇帝の帝位は奪われ、帝国は滅亡しました。

ローマ帝国の崩壊の混乱の中でフランク族は他の諸族を併合しつつ勢力を拡大し、481年にはメロヴィング家のクロヴィスによってフランク王国が建国されます。

他のゲルマン諸族がアリウス派のキリスト教を受容する中、いち早くカトリックに改宗したフランク王国は旧ローマのラテン系住民の支持を獲得することに成功し、さらに勢力を拡大してゆきます。

ただ、フランク王国の王位は絶対的なものではありませんでした。
メロヴィング家の支配はその後、トゥール・ポワティエ間の戦いでイスラム勢力の侵攻を撃退したカール・マルテル率いる宮宰家・カロリング家にとってかわられます。

ローマ皇帝となったドイツ人 中世ドイツのはじまり

カール大帝の戴冠とフランク王国の分裂

カール・マルテルの子・小ピピンが王位に就いた(カロリング朝)後、その子カール(大帝)は現在のドイツ北西部にあったザクセンを平定、南部のバイエルンも勢力下におきます。
さらにアジア系遊牧民のアヴァールを撃退して西ヨーロッパ地域の政治的統一を推進した彼は、800年にローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を授かります。
カール大帝はアーヘンの自らの宮廷にアルクィンを招き、「カロリング・ルネッサンス」と呼ばれる、古典古代(ローマ)文化、カトリック、ゲルマン文化の要素を融合した独自のヨーロッパ世界を作り上げることに貢献しました。

カール大帝の死後、フランク王となったその子ルードヴィヒ1世は、フランク族の慣習に従い、その領土を分割相続しようと考えました。
はじめはロタール・ピピン・ルードヴィヒに、末弟のカールが生まれたのちはその4人(このうちピピンは早世します)に領土を分割しようとしたのです。

ルードヴィヒ1世の死後、その子らが争った結果、843年にフランク王国は東フランク王国(ルードヴィッヒ)・西フランク王国(カール)・中フランク王国(ロタール)の3つに分割(ヴェルダン条約)されました。
続いて870年にはそのうちのひとつ中フランク王国の一部をロタールの死後、再分割(メルセン条約)した結果、現在のドイツ・フランス・イタリアの原型ができました。

神聖ローマ帝国 キリスト教世界の盟主として

911年にカロリング朝が断絶した後は、諸侯の選挙によって王を決める「選挙王政」に移行します。
その後10世紀初頭にザクセン朝が成立、オットー1世はレヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退し、さらにイタリアに遠征して教皇を助けるなどの活躍により、962年にローマ教皇からローマ皇帝の冠を授けられます。
オットー1世(大帝)は西ヨーロッパ世界の盟主となり、この後の東フランク王国の国王はドイツ支配にとどまらない、キリスト教理念に基く普遍的な帝国を目指すことになります。
これが「神聖ローマ帝国」と後に呼ばれ、ドイツが「ドイツ」としての国家となる萌芽であるとともに、「国民国家」としてのドイツ形成を妨げる一因となるのです。
こうして西ヨーロッパ世界では、政治的権力を象徴する皇帝と宗教的権力を象徴する教皇のふたつを頂点とした権力が生まれたのですが、一方でこれがいくつかの問題を生みました。

歴代の皇帝は教会組織を通じて帝国支配の強化を図り、教会組織の側も皇帝と結びつくことで組織強化を図っていました。
さらに皇帝は“ローマ皇帝”としてイタリア、ローマを支配することを目指してイタリアに進駐するなど、教皇に圧力をかけるようにもなります。

拡大するドイツとドイツ人皇帝の苦悩

ローマ教皇と対立するドイツ人皇帝

歴代の皇帝の姿勢が教皇との間に緊張関係を生み、やがては「叙任権闘争」に発展しました。
教皇グレゴリウス7世は皇帝による聖職者の選出に反対し、ザリエル朝の皇帝ハインリッヒ4世を破門しました。
すでに十字軍も数度にわたって行われ、教皇の権威は頂点に達していました。
諸侯たちは皇帝の権力が強化されていくことに恐れを抱いており、教皇の権威を利用してハインリッヒ4世を廃してしまおうと教皇側に立ちます。
政治的危機を感じたハインリヒ4世は自ら北イタリアのカノッサに出向き教皇に謝罪し許しを求める「カノッサの屈辱」と呼ばれる事件に発展します。
一時は教皇側に軍配が上がったかに見えた叙任権闘争でしたが、この後勢力を挽回したハインリヒ4世が武力でグレゴリウス7世をローマから追い払う事態となり、両者の争いは一進一退の様相を呈します。
ハインリヒ4世の後を継いだハインリヒ5世は長引く闘争により皇帝権力が弱体化していくことを懸念して、1122年に教皇側とヴォルムスの協約を結び、叙任権闘争を決着させました。

しかし、懸念していた皇帝権力の弱体化はとどめることができず、諸侯は領邦君主としてそれぞれの所領の支配強化に専念し、後の領邦国家化への道を開いてしまいました。

東方植民によるドイツの拡大

12世紀には封建制度が安定してくる一方で、十字軍及び歴代皇帝のイタリア政策によって皇帝の権力は弱体化し、代わりに各諸侯の領邦国家が力を持つようになります。
さらにアーヘンやケルンといったドイツ各地の有力な都市は「帝国都市」として、皇帝から様々な特権を獲得するようになりました。
北ドイツでは北海やバルト海に面した港湾都市が商業により繫栄します。
中でもリューベックは「ハンザ同盟」の中心都市として栄えました。

一方でそれまでスラブ人の居住地域だったエルベ川より東の地域にドイツ人が移住する「東方植民」も盛んに行われるようになります。
現在のベルリンを含むブランデンブルク辺境伯領が置かれ、13世紀にはドイツ騎士団がバルト海沿岸に進出。
こうしてドイツ文化がこの地域に流入しました。

さらにこの後、グーツヘルシャフトと呼ばれる農民からの徴収制度によって富裕化した貴族が「ユンカー」として台頭、近代ドイツ国家の形成の一翼を担います。

このように各領邦で領主権が拡大していく一方で、神聖ローマ皇帝の権力はさらに弱体化してゆきます。



大空位時代とハプスブルク家の台頭

フリードリッヒ2世が死去し、その跡を継いだ子のコンラート4世が在位わずかでこの世を去ると、ホーエンシュタウフェン庁は断絶します。
その後、皇帝の地位を継ぐ有力な家門はなく、有力な領邦君主による選挙によって皇帝を選出するという事態に至ります。
領邦君主側は力のない者を皇帝とすることで皇帝の権力をさらに抑えようと図ったのです。
諸侯同士の争いからドイツ人以外の皇帝候補が擁立されることもあり、イングランド王の弟やカスティリヤ王など、諸侯が別々の候補者を立てて争いました。

さらにローマ教皇も度重なるイタリア遠征など、皇帝からの教会への干渉に手を焼いていたため、強い権限を持つ皇帝の登場を望みませんでした。

しかし、こうした状況は帝国(ドイツ)の荒廃を招き、さらにフランス・カペー家が帝位を狙ってきます。
これには諸侯も教皇も納得がいかず、やむなくスイスの弱小領主だった「ハプスブルク家」に白羽の矢を立てたのです。

自らが帝位を狙っていたこともあり、これを不服としたボヘミア王オカタル2世が反発しました。
しかしハプスブルク家のルドルフ1世と争い、マルヒフェルトの戦いで勝利したルドルフ1世が晴れて皇帝となります。

弱小であったが故に皇帝に選出されたハプスブルク家の皇帝は、この時獲得したオーストリアを基盤として、ヨーロッパの各国の王室との婚姻政策を進めてスペインやネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー)に領土を拡大、次第に力をつけて行きます。

変わりゆくカトリック世界とドイツ

カトリックとプロテスタント~対立の時代の幕開け

ヴィッテンベルク大学の神学教授・マルティン・ルターは1517年、「95か条の論題」を発表し、カトリック教会の贖宥状(免罪符)販売を批判します。
ルターの投じたこの一石が、この後ドイツ、そしてヨーロッパ世界を揺るがす「宗教改革」の始まりとなります。
カトリック教会を中心とするキリスト教によって普遍的な一元的支配を目論むハプスブルク家の皇帝はルターを断罪しますが、これに対抗するザクセン公はルターをかくまい、ルターはそこで新約聖書のドイツ語訳を完成させました。

こうして、ドイツは宗教的にも分裂、カトリック側とプロテスタント側に分かれた諸侯が互いに争う時代に突入してゆくのです。

ハプスブルク家の皇帝・カール5世にとっては、国内の宗教問題に加えて、イスラム教のオスマン帝国の圧力にも対抗する必要がありました。
カール5世はいったんルター派に譲歩する姿勢を見せますが、すぐに前言を翻すなどの態度をとり続けたため、ルター派と衝突します。
ルター派諸侯は同盟を結んで皇帝に対抗したため、戦争状態となりました。

この戦争を収拾させるために結ばれたのが「アウクスブルクの宗教和議」と呼ばれるものです。
これによって領邦君主に宗教の選択権が認められます。
一方で個人の宗教選択の自由は認められず、新教のうちルター派以外(カルヴァン派など)は認めませんでした。
皇帝は帝国内をカトリックに統一することはできなくなりましたが、新教側にも不満の残る内容だったのです。

30年戦争と荒廃するドイツ

1618年、ボヘミアのプロテスタントの反乱に端を発した30年戦争はドイツの諸侯のみならず、ヨーロッパの国々がそれぞれカトリック側とプロテスタント側に分かれて、ドイツ国内で戦闘を行いました。
文字通り30年の長期にわたって戦われた戦争は、はじめこそ宗教的対立の色合いの濃いものでしたが、次第に領主、国家の間の利権争いとなって行きます。
力をつけつつあったハプスブルク家に反ハプスブルク勢力が対抗する図式が戦争を複雑なものにしました。
スペインは「スペイン=ハプスブルク」として皇帝側に協力します。
しかし同じカトリックのフランスは反ハプスブルクの立場で新教側について参戦するなど、宗教的対立は政治的な対立へと変貌してゆくのです。

1648年、30年戦争は終わります。
しかし長い戦争によりドイツ国内は疲弊し、さらにそこにペストの流行が追い打ちをかけたため人口は激減しました。

この戦争の結果、皇帝と教皇により結びついたひとつの西ヨーロッパ世界は崩壊します。
これ以降、主権を持つ国々が周辺の他国と勢力均衡を保ちながら、合従連衡を繰り返すようになるのです。

近代のヨーロッパと分裂するドイツ

領邦国家と統一への道のり

皇帝側の事実上の敗北によりハプスブルク家は弱体化し、神聖ローマ帝国の権威は失われます。
神聖ローマ皇帝の地位は名目上のものとなり、皇帝は事実上「オーストリアの皇帝」となってしまいました。
ドイツは300もの領邦に分かれた領邦国家として存在することになります。
また、戦勝国フランスによりエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)を割譲され、この後の独仏間の遺恨を作りました。
このような国際秩序を規定することになった「ヴェストファーレン条約」はこの後の国際法の原点であると同時に、フランス革命以前の西ヨーロッパ世界のあり方を決めたのです。

「ヴェストファーレン体制」とも呼ばれるこの時期のドイツでは、これ以降ドイツが現在の「ドイツ」になって行く流れが生まれていきます。
ただし、この時点ではその流れは大きくふたつに分かれていました。

ひとつは、依然としてオーストリアを中心とした大きな領土を確保し、有名無実とはいえ「神聖ローマ皇帝」の地位を世襲化していたハプスブルク家が生み出す流れです。

そしてそれに対抗するもうひとつの流れはドイツの北方、ブランデンブルク辺境伯領とドイツ騎士団領を合わせた地域を領有するプロイセン公国でした。

300にも分かれた領邦国家群の中にあって、このふたつの勢力のどちらが統一国家としてのドイツの盟主となるのかを争うことになるのです。

プロイセンとオーストリア・統一に向かうライバル

両雄の対決はまず、オーストリアの継承とシレジアの領有権という問題をきっかけとして起こります。
これが「オーストリア継承戦争」と呼ばれる戦争です。
ハプスブルク家に男子の継承者がなく、女子のマリア・テレジアがその家領であるオーストリアを継承することになりました。
神聖ローマ皇帝は男子にしか継承権がなかったため、彼女の夫が帝位につこうとしますがフランスはこれを好機として攻撃してきます。
さらにプロイセン公国のフリードリッヒ2世は彼女の夫に投票する条件としてシレジアの領有権を求めてきました。
マリア・テレジアはこれを拒否したため、戦争となったのです。
この戦争の結果、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝位は確保されますが、シレジアはプロイセン公国のものとなってしまいました。

失地の回復を狙うマリア・テレジアはそれまで長年にわたり敵対関係にあったフランスと結び、再びプロイセンに挑みます。
これが「七年戦争(1756-63年)」です。

この戦争はプロイセンにとっては苦しい物でした。
一時はロシアとも結んだオーストリア側にベルリンを占領されるなど苦境に立ちます。
しかし、ロシアの女帝エリザベートが死去し、ピョートル3世が跡を継ぐと戦況が変わります。
ピョートル3世はプロイセンのフリードリッヒ2世の信奉者だったため、単独講和してしまったのです。

この後、プロイセンとオーストリアが講和し、プロイセンのシレジア領有は確定、強国としてヨーロッパ列強の勢力争いに加わり、やがてドイツ統一の盟主となることになります。

高揚する民族意識 ナポレオン戦争とドイツ

ナポレオンによる神聖ローマ帝国の崩壊

1787年、フランスで起こった「フランス革命」はフランス国内のみならず、ヨーロッパの各国に波及、あるいは影響を及ぼしました。
ドイツもその例外ではなく、自国への波及を恐れた君主たちは革命を潰そうと干渉を始めます。
「対仏大同盟」と呼ばれる列国とフランス革命政府によるフランス革命戦争の始まりです。
やがて革命の混乱の中からフランスにおいてナポレオン・ボナパルトが台頭し、1804年にはフランス皇帝として帝政の開始を宣言。
強大な軍事力をもって周辺国を飲み込んでゆくようになります。
これが「ナポレオン戦争」です。

1805年、ナポレオン率いるフランス軍はバイエルンに侵攻、ウルムの戦いでオーストリア軍を撃破しウィーンに入城します。
さらにアウステルリッツの戦いでオーストリア・ロシア連合軍はナポレオン率いるフランス軍に敗北しました。
翌1806年、西南ドイツの領邦諸国は親ナポレオンの「ライン同盟」を結成させられ、事実上、ナポレオンの統治下にはいります。
ここに至りヴェストファーレン体制の中で名目のみとはいえ保たれてきた神聖ローマ帝国は、皇帝フランツ2世の退位により完全に解体しました。
フランツ2世は以降、オーストリア皇帝フランツ1世となります。



ドイツ民族意識のはじまり 解放戦争

この時点で中立の立場をとっていたプロイセンがフランスに対して宣戦布告します。
しかしイエナ・アウエルシュタットの戦いで大敗し、フランス軍がベルリンに入城。
ポーランド分割によって獲得していた地域の一部と、エルベ川より西の地域を失いました。
こうしたナポレオン戦争での敗北は、バラバラだったドイツ人の国民意識をまとめ、高揚させたといいます。
哲学者・フィヒテによって「ドイツ国民に告ぐ」という講演が行われました。
さらにプロイセン軍では軍制改革が行われました。

しかし、破竹の勢いだったナポレオン率いるフランス軍も、大陸封鎖令を破ったロシアに攻め込んで大敗を喫します。
この機に乗じた各国はナポレオンに抵抗を始めました。
特にドイツではこの戦いを「解放戦争」と呼びます。
1813年のプロイセンの宣戦布告に始まったこの戦いは、同年のライプツィヒの戦いでのプロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン連合軍の勝利と、その後翌1814年のパリ陥落に至るものです。
ライン同盟は解体しナポレオンは退位、ナポレオンによるドイツ支配は終焉を迎えます。

民族の統一を模索するドイツ人

1814年から、ナポレオン戦争後の体制を定める会議がウィーンで開催されました。
会議はヨーロッパをフランス革命以前の体制に戻すことを目指しますが、各国の利害が衝突しました。
なかなか進まない会議の状況は「会議は踊る、されど進まず」と言われ、あまりにも時間がかかったため、その間にナポレオンがフランス皇帝に復位する事態となります。
これに慌てた列国が妥協点を見出し、さらにナポレオンを再び敗北に追いやって、ようやく「ウィーン体制」と呼ばれる反動体制が出来上がりました。

ウィーン体制の下、ドイツではライン同盟が廃止されオーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立します。
オーストリアの宰相・メッテルニヒの指導の下、ドイツ国内では保守的な政治体制が保たれました。
この期間は他の西欧諸国に比べると自由主義・民族主義の運動は活発に行われませんでした。

一方のプロイセンはラインラントを獲得しました。
しかし、この新領土が「飛び地」であったため国内の物流に支障がありました。
北ドイツ関税同盟はそういった背景から成立します。
他のドイツ領邦諸国もこれに対抗してそれぞれ関税同盟を成立させますが、これがドイツ全体では悪循環を生み出すこととなり、1833年にプロイセンの主導の下で「ドイツ関税同盟」に統合されます。
この同盟がドイツの産業革命を飛躍的に進展させました。
同時に、この後のプロイセン主導のドイツ統一への道が開かれたのです。

統一ドイツの誕生 ドイツ第2帝政

自由主義・民族主義の芽吹きと挫折

1848年2月のフランス二月革命の勃発は、ドイツ国内で産業革命が著しく進展した結果台頭したブルジョワ層と知識人によって、自由主義・民族主義的な改革を求める三月革命としてドイツに波及します。
オーストリアでは民族主義・自由主義的憲法を求めた暴動の最中でウィーン体制を支えた宰相・メッテルニヒは半ば宮廷に見捨てられるように国外へ逃亡します。
さらにハンガリーやボヘミアを抱える多民族国家・オーストリアでは民族問題も深刻なものでしたが、これらの地域の民族主義的運動はオーストリアによって鎮圧されます。
自由主義的な運動も次第に武力による弾圧により鎮静化させられます。

プロイセンでもフリードリッヒ・ヴィルヘルム4世が先王の約束した憲法制定を拒んだため、ベルリンで自由主義者による暴動がおこりました。

この混乱の最中、自由主義者らによるフランクフルト国民会議が招集されます。
この会議においてドイツの統一はその方向性を「オーストリアを含む大ドイツ主義」を諦め、「プロイセン主導の小ドイツ主義」による統一へと定めました。
しかしプロイセン王・フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世が会議からの皇帝就任要請を拒絶したため、自由主義的なドイツ統一はかないませんでした。

プロイセンによるドイツ統一の達成

ユンカー出身のオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン首相に就任するとドイツは統一への道を急速に進んでゆくことになります。
ビスマルクは「鉄血政策」と呼ばれる軍備増強路線をとり、君主制による統一を推進します。
手始めにシュレズビッヒ・ホルシュタインの領有問題でデンマークと争い、オーストリアと共に統治することとします。
次いでその管理問題でオーストリアとの間に紛争を起こして、普墺戦争で勝利してオーストリアを完全に統一ドイツの埒外に追いやります。

そしてプロイセンによる統一に反対するカトリック勢力を統一ドイツに取り込むために民族主義を利用するため、フランスとの間に普仏戦争を引き起こしてこれに勝利をおさめ、ドイツ統一を果たしたのです。
こうしてドイツ帝国(第2帝政)が成立しました。

普仏戦争の勝利によりエルザス・ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)を割譲し、さらにパリ・ベルサイユ宮殿でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝戴冠式を挙行したドイツに対し、フランスの「対独復讐心」は強いものでした。
これに対してビスマルクは外交上の均衡関係を築いてフランスを孤立させる対応をとります。
この均衡関係はヴィルヘルム2世が即位しビスマルクを更迭して親政を開始するまでの間、有効に機能していました。

皇帝の世界戦略と帝政ドイツ崩壊

ビスマルク体制崩壊と第1次世界大戦

ヴィルヘルム2世は親政開始と同時に帝国主義的な拡張政策に転換します。
植民地獲得競争にも積極的に乗り出し、モロッコ事件などで列強を刺激します。
イギリス・フランス・ロシアと対立し、フランスを孤立させるためにビスマルクの築いた体制は破綻、むしろ次第にドイツが孤立する事態となりました。
1914年にサラエボ事件が発生、オーストリアがセルビアに宣戦します。
ドイツはオーストリアとの同盟を理由にロシア・フランスに宣戦布告します。
同時にベルギー・ルクセンブルクに侵入(シュリーフェン・プラン)したため、イギリスの対独参戦を招きました。
こうして第1次世界大戦が勃発すると、ドイツの思惑とは異なり泥沼の長期戦となります。

次第に追い込まれたドイツは敵国の艦船・船舶を潜水艦により無警告で攻撃する「無制限潜水艦作戦」を実行します。
これにより開戦から戦争に加わらなかったアメリカが参戦する事態を招き、さらに戦況を悪化させます。

1918年、ドイツの敗色が濃厚となった中、キール軍港の水兵の反乱を契機としてドイツ革命が発生すると、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダへ亡命します。
ドイツ帝国は崩壊し、ヴァイマール共和国が成立しました。

敗戦国ドイツの苦悩

戦後の対独講和条約であるベルサイユ条約は、敗戦国ドイツ(ヴァイマール共和国)に対し過酷な条件を課しました。
軍備は制限され、多額の賠償金に加えて、領土的には特に普仏戦争の結果割譲したエルザスとロートリンゲンをフランスに返還することになりました。
ドイツ国民は国土が直接的な戦場とならなかったこともあって敗戦の意識が希薄だったうえに、ベルサイユ条約の過酷な条件に対し不満が蓄積してゆきました。
また、ドイツ革命が結果的に配線を決定づけたと考える人々はヴァイマール共和政府に対しクーデターを起こしました(カップ一揆)。

賠償金の支払いは困難を極めました。
ドイツ国内ではインフレが進み、賠償金の支払いが滞る事態となります。
フランスはこれを条約不履行とみなしてルール占領を敢行、これを契機にさらにインフレが進行するという悪循環が起こります。
これに対しても左右両派から反発が起こり「ミュンヘン一揆」などの反乱がおこったのです。
それでもシュトレーゼマン内閣の時期には賠償金の支払いに関しても条件が緩和され、インフレ対策も功を奏し、経済と政情も安定してきます。
ロカルノ条約を締結し、国際連盟に加盟、ドイツは国際社会に復帰することとなります。

第2次世界大戦とドイツの敗北



ヒトラーの台頭とナチス・ドイツの誕生

1929年にアメリカの株価暴落に端を発した世界恐慌が起こると、ドイツの経済状態も悪化します。
それに伴って政治情勢も再び混乱を始めます。
そして、この混乱に乗じてアドルフ・ヒトラー率いるナチ党が政権を掌握するのです。
政権を獲得したヒトラーは国内的にはアウトバーンを整備するなど、公共事業により経済の立て直しを図る一方で、「ニュルンベルク法」に代表される人種政策を実行します。
さらに再軍備を宣言し、ベルサイユ条約で非武装とされたラインラントに進駐しました。
オーストリアも併合してもなお拡張路線をとるヒトラーは、続いてチェコ・スロヴァキアに対しズデーテン地方の割譲を要求しました。
これに対してイギリス・フランスが反発したため、ムッソリーニ政権のイタリアが仲介役となってミュンヘン会談が設けられました。
この会談でヒトラーはズデーテン地方を獲得する引き換えとして「今後、領土拡張はしない」と約束します。
しかしこれを破ってチェコ・スロバキアを併合するのです。

さらにヒトラーは犬猿の仲と言われたソヴィエト連邦のスターリンと「独ソ不可侵条約」を締結、後顧の憂いを絶ったうえで、ポーランドに侵攻を開始します。

第2次世界大戦とナチス・ドイツの敗北

ここに及んでイギリス・フランスはドイツに対して宣戦布告をして第2次世界大戦がはじまりました。
緒戦はドイツの電撃戦が成果を収め、フランスが降伏、さらにイギリスを除く西ヨーロッパを制圧する勢いで勝利してゆきます。

しかしその後、ドイツは次第に勢いを失ってゆきます。
ドイツはイギリス本土に上陸しようと、その制空権を奪取しようとしましたがこれに敗北。
さらに独ソ不可侵条約を破って独ソ戦に突入しますが、冬の気候に阻まれ、加えてソ連の粘り強い抵抗により撤退、膠着状態となりました。

太平洋ではドイツの同盟国・日本がアメリカと戦争状態になり、これに呼応してドイツもアメリカに宣戦布告します。
しかし、ソ連のスターリングラードに攻め込むも、逆に包囲されて大敗。
もうひとつの同盟国・イタリアも連合国に降伏してしまいます。
さらに連合国は北フランス・ノルマンディーに上陸(ノルマンディー上陸作戦)、各地でドイツ軍は劣勢となり敗色は濃厚となりました。

ベルリンがソ連軍により包囲され、総攻撃が行われます。
そのさなかでヒトラーは自殺。

1945年5月、ドイツは連合国に対して無条件降伏したのです。

ホロコースト ナチスドイツのユダヤ人迫害

ここでナチス・ドイツのユダヤ人迫害について触れておきたいと思います。
ドイツの歴史上、最大の暗部であり非常にデリケートな問題ですが、詳細な検証は他の機会に譲るとしても、避けては通れない問題なのです。
ドイツに限らずキリスト教世界においてユダヤ人は「キリストを磔刑に送った民族」として忌み嫌われていました。
さらに第1次大戦後のドイツには『ユダヤ人と社会主義者の「背後からの一撃」』が敗北の原因であるという考えもあったようです。
このような情勢の中で反ユダヤ主義・ユダヤ人の排除を標榜するヒトラーが政権を獲得します。

ナチスは「ニュルンベルク法」によりユダヤ人の公民権を剝奪、さらにユダヤ人企業や工場は解散させられ、名前をユダヤ人とわかるように改名させられるなど、次々と差別化してゆきます。
そのさなかに「水晶の夜事件」が発生、駐仏ドイツ大使がユダヤ人青年に殺害されたことを契機にユダヤ商店やシナゴーグが襲撃を受けました。
この事件をきっかけにしてナチスはさらに様々な権利をはく奪したのです。

一方でナチスはユダヤ人を国外へ移住させる方法を模索していました。
国内のみならず開戦後は占領地域のユダヤ人をも移住させる計画は結局どれも頓挫してしまい、ゲットーと呼ばれる集住地域を形成してそこへ押し込めるなどしました。
しかし最終的な解決方法として「絶滅収容所」を建設し「大量殺戮」を行うことを選択します。
「ホロコースト」と呼ばれる組織的な迫害は強制労働・人体実験・ガス室・死の行進など様々な形で行われ、正確な犠牲者は明確になっていませんが、推計600万人とも言われる虐殺が行われたのです。

この記事ではドイツの民族的統一を扱ってきましたが、その過程で見られた歴史の暗部についてあえて触れたうえで、この後の分断と統一の歴史を見ていきましょう。

分断されたドイツと再統一への道

東西冷戦とドイツの分断

第2次世界大戦後、ドイツは連合国の占領・管理下に置かれます。
東側の国境はオーデル‐ナイセ線とされ、そこから東の地域はポーランド領となりました。
これによってかつてドイツ統一の原動力となったプロイセン所縁の地を手放すことになります。
ベルリンも連合国によって4つに分割されました。
その後、連合国間でソ連と西側諸国の対立・「冷戦」が始まると、西側占領地域で実施された通貨政策にソ連が反発、ベルリンへの陸路を封鎖し、対抗した西側諸国が物資を空輸するなど、緊張関係が強まります。
こうした一触即発の状況の中でドイツの占領状態も変化します。

1949年5月、米・英・仏の占領下にあった地域では自由主義・資本主義国家としてドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立します。
これに対抗してソ連は同年10月に占領地域をドイツ民主共和国(東ドイツ)として共産主義国家を樹立させます。
こうしてドイツの東西分裂は決定的なものとなったのです。

その後も東西ベルリンの間に「冷戦の象徴」とも言われた「ベルリンの壁」が設けられ、東西の対立は続きます。

その後、ドイツ社会民主党のヴィリー・ブラントが政権に就いた70年代以降は関係が正常化して行きます。
 ポーランドとの国境を「オーデル・ナイセ線」とすることも認めるなど東側諸国との関係を改善させるなかで、曖昧な形ながらも東ドイツを国家として承認しました。

再統一からヨーロッパの大国へ

ソ連の書記長ゴルバチョフが始めた「ペレストロイカ」の波が東ヨーロッパに押し寄せた結果、東欧各地で民主化の動きが加速度的に発生します。
しかしその中でも東ドイツは頑なに民主化を拒み続けました。
東ドイツは、他の中東欧の共産主義国家群が民族主義と共産主義というふたつのイデオロギーに支えられていたのに対し、「共産主義」が国家としての存在を守るイデオロギーでした。
したがって、東欧革命の波に乗じることは西ドイツとの差異をなくし、共産主義国家・東ドイツの存在を否定してしまうことになりかねなかったのです。
東ドイツの政府が外からの情報を遮断し、かたくなな姿勢を通そうとしたのはこういった事情でした。

しかし間もなく、民主化したハンガリーからオーストリアを経由して西側へ出国する市民が増え、押し寄せる情報の波によって東ドイツ政府も事態を無視できない状況になります。
1989年11月、東西ベルリンを隔てていた壁の検問所がなかば自発的に開かれ、さらに壁が破壊されます。
東西の往来が可能になったのです。

それから1年を待たずしてドイツは再統一されます。
社会主義政権下で疲弊しきった東ドイツを西ドイツが飲み込む形で、ドイツは再びひとつになったのです。

その後現在に至り、ドイツはヨーロッパの大国の地位を回復、1992年に発足したEUの中核国となりました。

苦悩と歓喜の歴史を感じる国・ドイツ

ドイツという国の歴史は、統一を模索しながらも分断・分裂を繰り返すドイツ民族の長い苦悩の歴史です。
そして現在、ようやく統一されたドイツ。
歓喜に包まれたこの国の過去の苦悩の痕跡は各地に、ライン川から望む城などの建造物や、中世の趣を伝える都市の景観などによって残され、訪れる人々を魅了し続けています。
ドイツの歴史は、ヨーロッパ世界の歴史の変遷、対立し、戦い、そしてひとつになった「今」につながる風景を私たちに見せてくれているのです。