1都市に2言語が存在するのはなぜ?不思議な都市、ブリュッセルの歴史

ベルギー王国の首都ブリュッセル。関東と同じくらいの面積の小さな国なのに、フランス語地域とオランダ語地域に大きく分けられます。「小さなパリ」と呼ばれることもあるブリュッセルは、ひとつの都市なのに、フランス語とオランダ語とが共存しているのですよ。国がふたつに分裂して、お隣のフランスとオランダに吸収合併されないように、首都ブリュッセルではふたつの言語を守っているのでしょうか。不思議な国の不思議な首都、ブリュッセル。さあ、その歴史に足を踏み入れることにしましょう。

ブリュッセルという都市はこうしてできました

ブリュッセルという都市はこうしてできました

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「ブリュッセル」に隠されたふたつの意味

言葉にはそれぞれ意味がありますね。
都市や村落の名前にも、もちろん意味があります。
わかりやすい例を挙げますと、オーストリアのチロル地方にあるインスブルック。
「イン川にかかる橋(ブリュッケ)」からインスブルックになったわけです。
ではブリュッセルはどうでしょうか。
「ブルック」と「セル」に分けてみると、少しわかりますね。
ブリュッセルには、フランス語でいうと「センヌ川」が流れていますので、「センヌ川にかかる橋」という意味が「ブリュッセル」だ、と考えていいでしょう。
しかしこれはあくまでも、フランス語での理解。

ブリュッセルは、フランス語とオランダ語が共存している都市ですから、オランダ語のことも考えなくてはなりません。
オランダ語で「ブルック」は「沼」という意味。
ずいぶん違っていますね。
それから古いオランダ語で「セラ」は「人が住む場所」つまり「村」ということなので、これらを合わせてみると、「沼の村」となります。
現在のオランダとベルギーを併せて「ネーデルラント」と呼んでいた時代もありましたが、これは「低い土地」という意味。
しかも、日本語にするとわからなくなってしまいますが、複数形なのですよ。
沼地に人が住みついて、あちこちに村ができて、ブリュッセルもそのうちのひとつだった、ということでしょうね。

ここにキリスト教の教会が建てられました

もともとケルト人が住んでいたこの地域を、ローマ人が支配するようになりました。
ローマ人は、この湿地帯に住む人々を「ベルガエ人」と呼び、それが現在のベルギーの国名のもとになったというわけですね。
その後ゲルマン民族が侵入したのですが、ケルト人もゲルマン民族も文字をもっていなかったので、文字で書かれた記録というものは、ローマ人が書いたもの以外何も残っていません。

ブリッセルについての最初の記録は、なんと7世紀。
それはあくまでも伝説なので、どこまで事実なのかわかりませんが、今日ブリュッセルの教区教会がある場所に、聖ミカエルを祭る教会が建てられた、ということになったいます。
聖ミカエルというのは、剣を振りかざして、天国の門を守護する「聖人」。
大天使なので人間ではありませんが。

695年には、カンブレーの司教ヴィンディツィアヌスが「ブロセラ」で病気になったという記録が残されています。
「プロセラ」とはブリュッセルの古い呼び方だった、というのは想像できますね。
この頃には、キリスト教の司教もここを訪れたということですね。

ブラバント公国の時代に都市が発展しました

ブラバント公国の時代に都市が発展しました

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ブラバント公国にできたブリュッセル伯領

ローマ帝国に侵入したゲルマン民族は、いくつかの王国を建国しましたね。
それらの王国のなかから出たフランク王国が、ヨーロッパを「統一」して、800年にシャルルマーニュ(カール大帝)が西ローマ皇帝になったのでしたが、「統一」といっても、ここから始まる中世の封建制社会のこと、各地に散らばっている封建領主たちは、ときには領地をめぐって争ったのでしたね。
その一方で皇帝は、封建領主たちの領地である封土を認める権利を持っていました。
東フランク王から初代神聖ローマ皇帝になったオットー大帝は、966年に「ブルオセラ」に特許状を与えています。
もちろんこれも、ブリュッセルの古い名称ですね。

当時のブリュッセルを領有していた下ロレーヌ公シャルルは、ブリュッセルを流れるセンヌ川の中にある島に城を築き、山の上には聖グドゥラ礼拝堂を建てました。
977年から979年のことでしたが、いつ戦争になるかわからない時代ですのから、領主の宮廷は、自然の堀に囲まれた城、というわけですね。
ここを起点にして、ブリュッセル伯領が成立。
当時のブラバントにできた4つの伯領のひとつでした。

ブリュッセルは飛躍的な発展を遂げました

ブリュッセル伯領は、1047年に司教区になり、聖グドゥラ礼拝堂も、教区教会に昇格。
中世の華やかな文化がここから始まったのでした。
ブリュッセルもこの時期に大躍進。
ブラバント公アンリ一世は、1225年に、ロマネスク様式で建てられていた教区教会を、ゴシック様式のバジリカに改築しました。
バジリカとは、司教のいる聖堂よりは下ですが、教区教会よりはひとつランクが上の教会のこと。
この教会を中心にした地域が、アンリ一世から都市の特権を与えられ、周囲4キロにわたって市壁が築かれたのでした。

この都市には職人が住みつき、都市の中心にあるバジリカの周囲には大きな市が開かれ、大マルクト広場と呼ばれるようになったのでした。
ブリュッセルもこれですっかり、中世都市の風貌を備えることになったのですよ。
ブラバント公の宮殿も建設され、ブリュッセルはこれでもう、ブラバント公国の首都。
周囲のいくつかの都市とともに、ブラバント公国の政治にも参加するようになったでした。

しかし、その栄光も長く続くことはなく、1356年にブラバント公ジョアン三世が3人の娘を残して死んだとき、フランドル伯ルイ二世が継承権を要求し、ブリュッセルを包囲。
ブラバント継承戦争が始まってしまいました。

ブルゴーニュ公国の華麗な宮廷文化の中心

ブルゴーニュ公国の華麗な宮廷文化の中心

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危機の時代を乗り越えて都市は発展しました

ジョアン三世の娘であるジョアンナ公女は、ブリュッセルから逃亡してしまいましたが、残った市民たちがフランドル軍に徹底抗戦。
ブリュッセルを守り抜いたのでした。
アンリ一世のときの市壁ではもう役に立たないことがわかったので、1356年から1383年にかけて、その2倍の規模の市壁が建設されました。
一度はブリュッセルを捨てた公女ジョアンナと、その夫ルクセンブルク公ヴェンツェルの時代が始まったのでした。
現在のブリュッセルを取り囲む大通りは、この市壁のあとなのですよ。

1420年には、大マルクト広場に市庁舎と最初の同業者組合の家々が立ち並びました。
市壁に守られた都市の中心に、市が開かれる広場があり、その広場には教会と市庁舎がある、というのがヨーロッパの中世都市に共通した特徴ですね。
ブリュッセルももちろん、その例外ではありませんでした。
都市に住みついた職人たちは、その職種によって、ギルドとかツンフトとか呼ばれる同業者組合をつくり、都市の政治の実権を握っていたのですよ。
ブリュッセルをフランドル軍から守ったのも、この市民たちでしたね。

ブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷

1430年に、ブルゴーニュ公フィリップ善良公がブラバント公国を継承しました。
ワインの産地として知られているブルゴーニュから、ブリュッセルに宮廷を移したフィリップ善良公はまた、フランドル伯でもありましたから、フランス王国と神聖ローマ帝国の間に、ブルゴーニュ公の支配する国ができたということになりますね。
そしてブリュッセルはその国の首都。
職人たちの集まるブリュッセルはまた、毛織物などの産業の中心。
それを所有するブルゴーニュ公は、フランス王や神聖ローマ皇帝より裕福だった、とも言われていますね。

ヨーロッパでは、宮廷や市民が裕福になると、彫刻や彫金や絵画のような文化が栄えました。
この時代に、ピーター・ブリューゲル父がブリュッセルに住むようになったのですよ。
ブリューゲルのあの壮大な画風は、息子や弟子たちに受け継がれ、時代を画する流派にまでなったのですが、彼らが残した絵画のかなりのものが、なんとウィーンの美術史博物館に収蔵されています。
それはフィリップ善良公の後継者であるシャルル突進公が、フランス王国と神聖ローマ帝国とを股にかけた壮大な夢を追いかけたあげく、1477年にナンシーの戦いで戦死してしまったことに原因があるのです。

ハプスブルク家が支配するようになりました

ハプスブルク家が支配するようになりました

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ブルゴーニュのマリーもブリュッセル生まれです

シャルル突進公は、自分の一人娘マリーと、ハプスブルク家の皇帝フリードリヒ三世の息子マクシミリアンとを婚約させました。
ハプスブルク家は得意の政略結婚で領地を増やしましたが、それはまた逆に言えば、相手に自分の領地を取られる危険もあるのですよ。
フランス王家であるヴァロア家の分家出身のシャルル突進公は、この結婚によって神聖ローマ皇帝に一歩近づこうとしたわけです。

ブルゴーニュ生まれのマリーを一目見たマクシミリアンは、たちまちその魅力に取り込まれてしまいました。
というのも、マクシミリアンが生まれたヴィーナー・ノイシュタットは、宮廷というにはいささか物足りない、小さな都市でしかなかったからです。
当時、ヨーロッパ随一の宮廷だったブリュッセル。
マリーはその輝きを身にまとっていたわけです。

シャルル突進公が戦死したあと、マクシミリアンは「最後の騎士」として、美しいプリンセスのもとに駆けつけたのでした。
たった5年の結婚生活でしたが、1478年にブリュージュで「美公」と呼ばれる長男フィリップ、1480年にブリュッセルで長女マルガレーテが誕生。
マリーの死後、このふたりが、ブルゴーニュ公国とブラバント公国を相続することになりました。

スペイン領ネーデルラントになりました

フィリップ美公は、ブルゴーニュ公国とブラバント公国はもちろん、ハプスブルク家の領地であるオーストリア公国なども統治しなくてはなりませんでした。
カスティリア=アラゴン王女フアナと結婚して、しばらくはブラバントに住んで、娘マリアをやはりブリュッセルで産んでいるのですが、こちらも相続問題が発生。
カスティリア=アラゴン、すなわちスペインまで継承しなくてはならなくなってしまったのです。
しかし、スペイン王になった直後に急死、フアナも気がおかしくなってしまったので、結局、1500年にヘントで生まれた息子カールが、スペイン王カルロス一世になったのでした。

スペインから遠く離れたブラバントやフランドルは、フィリップ美公の妹マルガレーテが総督になって統治することになりました。
ブリュッセル生まれのマルガレーテは、宮廷をメヘレンに移しましたが、その後1531年からは、ブリュッセルがまたブルゴーニュ公国の首都に。
そして、スペイン王カルロス一世の死後は、その息子のフェリペ二世が、この地域を一括してスペイン領ネーデルラントとして相続。
宮廷都市ブリュッセルは、スペインからの遠隔操作を受けるようになったわけです。

スペイン領ネーデルラントは分裂してしまいました

スペイン領ネーデルラントは分裂してしまいました

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スペイン王フェリペ二世に抵抗しました

スペイン王フェリペ二世は、ヨーロッパだけではなく、当時のスペインが海外に所有していた広大な植民地も支配しており、文字通り「日の沈まぬ帝国」の皇帝。
ただし、父親のスペイン王カルロス一世が同時にまた神聖ローマ皇帝カール五世だったのとは違って、あくまでもスペイン王フェリペ二世。
この時代はまた、ちょうど宗教改革の時代で、あちこちで宗教戦争が起こっていましたね。
それはまた、農民が領主に反旗を翻す農民戦争であったり、貴族たちが、遠くから自分たちを支配している名目上の領主への抵抗だったりもしたのでした。
スペイン領ネーデルラントこそ、まさにその典型的な例。

若いころのゲーテの作品に『エグモント』という悲劇がありますが、これはちょうどこの時代にフェリペ二世に抵抗した伯爵の名前。
領主に反抗したため、1568年に、ブリュッセルの大マルクト広場で処刑されたのでした。
当時、貴族は処刑されないことになっていましたので、これはまさに逆効果。
ユトレヒトの同盟が結成されて、スペインへの抵抗はますます強くなるばかり。
この同盟はのちに、ネーデルラント北部の独立へとつながりました。
ネーデルラント南部からは、貴族や有力市民たちが国外脱出。
おもにアムステルダムに逃れましたが、そのため、ブリュッセルは経済的に没落してしまったのですよ。

ウェストファリア条約によって南北が分裂

17世紀前半は、ヨーロッパ全体が大変な時代。
ペストの被害も大きかったのですが、なんといっても三十年戦争。
ネーデルラントでは、北部がプロテスタントでオランダ語、南部がカトリックでフランス語と、宗教も言語も分かれていたのですよ。
ブリュッセルはこれまで、このネーデルラントの首都として機能してきたのですが、もう限界。
ふつうの世界史では三十年戦争ですが、この地域ではそれ以前、フェリペ二世の時代から争いがあったので、なんと、八十年戦争などとも言われることもあるのですよ。

ともかく、1848年のウェストファリア条約で、北部ネーデルラントの独立が認められ、ブリュッセルを首都とする南部ネーデルラントは、スペインの支配下のまま残されることになったのでした。
しかし、スペインはもう、かつての力をすべてなくしていましたから、今度はフランスがこの地域に手を出してきました。
フランスはちょうど、「太陽王」ルイ十四世の時代。
小さな国が独立を守り抜くというのは、大変なことだったのですね。
ルイ十四世の軍隊は、西フランドルとヘネガウを占領。
フランス語を話す人がいるからフランスだ、という理屈なのですが、それはどうやら大国の考えだったようです。

ハプスブルク家からの独立を達成しました

ハプスブルク家からの独立を達成しました

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オーストリア領ネーデルラントになりました

ブリュッセルの中心部である大マルクト広場は、1695年に、3日間にわたってフランス軍から砲撃を受け、破壊されてしまいました。
もう、騎士が一騎打ちするなどという時代ではなく、また、敵の攻撃から都市を守っていた市壁も、役に立たなくなっていたのですね。
1697年に和議があり、フランス軍は撤退したのですが、その後まもなく、スペイン王カルロス二世が子どもを残すことなく死んでしまい、スペイン継承戦争が始まったのでした。

1701年から1714年まで続いたこの戦争で、フランス王家のブルボン家がスペイン王を継承するかわりに、スペイン領ネーデルラントの南半分は、スペイン王家と同じハプスブルク家、オーストリアのハプスブルク家の所有になりました。
1740年にハプスブルク家の皇帝カール六世が死んただめに、オーストリア継承戦争が起こりましたね。
しかし、「女帝」と呼ばれたマリア=テレジアがこれを見事に乗り越えました。
そのとき、マリア=テレジアの夫フランツ一世の弟であるロートリンゲン公カールも、ハプスブルク家のために力を尽くしましたので、マリア=テレジアの妹マリア=アンナと結婚し、オーストリア領ネーデルラントの総督に任命され、ひとまず安定したのでした。

ベルギー王国の独立までにはもう少し時間がかかりました

その後、1780年にマリア=テレジアが死んで、息子のヨーゼフ二世の単独統治になったとき、姉のマリー=クリスティーヌ夫妻はネーデルラント総督に任命されました。
その理由というのが、マリア=テレジアのお気に入りだった姉のマリー=クリスティーヌ夫妻を、ウィーンから追い出すためだったのですよ、ブリュッセルはたしかに、ウィーンからは遠いのですが、ブルゴーニュのマリーの時代のことを思い返してみると、時の流れの重さを感じますね。
ネーデルラント総督夫妻は、ヨーゼフ二世の急進的な改革に反対するブリュッセルの市民たちの声に、熱心に耳を傾けました。
平和を愛したマリア=テレジアのお気に入りだっただけのことはありますね。

1789年、フランス革命が起こり、やがて王政が廃止され、フランスは共和国となりましたね。
オーストリア領ネーデルラントでも、同じ年の10月にブラバント革命が起こり、「ベルギー連合国」が宣言されました。
ブリュッセルもついにこの「独立国」の首都。
しかし1794年、フランス共和国の軍隊にあっさり制圧され、今度はフランスに編入されてしまいました。
その後まもなく、ナポレオンのフランス帝国に取り込まれることに。
そのナポレオンもやがて失脚。
ウィーン会議の最中、エルバ島から脱出したナポレオンは、ワーテルローでの最後の戦いで敗北しましたね。
そのワーテルローは、ブリュッセルの近郊にあるのですよ。
1815年、ウィーン会議で、オラニエ公ウィレム一世を国王とするオランダ王国と合体が決定。
ネーデルラント連合王国ができたのでした。

ベルギー王国の首都ブリュッセルの誕生

ベルギー王国の首都ブリュッセルの誕生

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1830年に「小さなパリ」ブリュッセルでも革命が起こりました

ウィーン会議の結果、フランスではブルボン家の王朝が復活しましたね。
これは、メッテルニヒ体制といって、ヨーロッパを旧体制に戻し、旧体制を維持していこうとするものでしたね。
しかしながら、動き始めた歴史を逆転させようなどとは、無理な話。
かつてのスペイン領ネーデルラントを復活して、それを連合王国にしてみたところで、オランダとベルギーは、それぞれ別の道を歩いていましたから、今さら、ということですね。
言語に宗教、それに文化的にも、かつてのネーデルラントの北部と南部とでは、ずいぶん異なっていますし、それに、北部に組み込まれる形で統一国家になったわけですから、ブリュッセルを首都とする南部の反発は大きかったでしょう。

1830年に、パリで七月革命が起こり、ルイ十六世の弟ルイ十八世が王位を追われ、オルレアン家のルイ=フィリップが市民に選ばれた王となりましたね。
このときの市民は、ブルジョワと呼ばれていました。
「小さなパリ」ブリュッセルでも、オペラを観て感激したブルジョワたちが、新聞社や銀行を襲い、それが革命に発展したのでした。
そのオペラとは、スペインの圧政に抵抗して立ち上がったナポリ市民を描いたもの。
9月にはオランダ軍との市街戦があり、多数の死傷者が出てしまいましたが、10月4日、ネーデルラント連合王国から独立することを宣言。
しかし、このままでは終わりませんでした。

分裂の危機をはらんだベルギー王国の誕生

革命のさなか、独立を宣言したから独立できる、というものではありません。
ヨーロッパの場合は、当時の五大国、イギリス・プロイセン・オーストリア・フランス・ロシアが承認しなくてはならなかったのですが、各国それぞれの思惑があり、場合によっては戦争、などということにもなりかねませんでした。
ブリュッセルを首都とするベルギーは、北部がオランダ語地域で南部がフランス語地域というように、言語的にはふたつに分かれています。
このベルギーをふたつに分割して、北部をオランダ、南部をフランスにする、という案もあり得ますね。
フランス革命のときにネーデルラントを併合したフランスは、ここでもまた、その案を支持するでしょう。
そうすると、フランスが大きくなって、五大国の均衡が崩れてしまうかもしれませんね。

ということで、ロンドン会議が行われ、そこで出された結論は、オランダ語地域とフランス語地域に大きく分けられるベルギーを、分割してオランダとフランスに合併させることなどはしないで、このまま統一された王国にする、ということでした。
国王として、ザクセン=コーブルク家のレオポルド一世が戴冠。
1831年、念願のベルギー王国誕生の瞬間です。
首都はもちろん、ブリュッセル。
長年の夢が叶った、と考えていいでしょうね。
しかしもちろんまだ、分裂の危機が消滅した、とは言えませんが。

ブリュッセルは産業革命時代の首都として発展しました

ブリュッセルは産業革命時代の首都として発展しました

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万国博覧会も開催されました

19世紀はまた産業革命の時代。
独立した王国の首都となったブリュッセルは、このとき生産力が飛躍的に向上したのです。
もともと毛織物などの手工業が盛んな地域。
工場への転換はスムーズだったようですね。
首都ブリュッセルの人口も、それに応じて増大。
フランス語地域には、フランスからの人口流入もあったのですよ。
かつて市壁に囲まれていた旧市街ではもう、この人口増加についていけません。
そこは、時代の流れから取り残された歴史的地域。
この頃はまだ、「世界文化遺産」などという考えはなかったのですが、まさにそれの先駆的存在だったということですね。

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、新しい建物が次々に建設されました。
1866年から1883年に裁判所、1873年に証券取引所、1905年に完成した凱旋門など、いろいろ挙げることができるでしょう。
新しい時代を表現するユーゲントシュティルの建築家、ヴィクトル・ホルタは有名ですね。
1897年には万国博覧会が開催されましたが、それがまた建築ラッシュに拍車をかけました。
ベルギーはアフリカに植民地を持とうとしていたのですが、このとき「植民地宮殿」が建設されています。
それは現在、王立中央アフリカ博物館になっているのですよ。
ブリュッセルの市内と郊外とを結ぶ、11キロメートルの長さの華麗な大通りも、このとき建設されました。

ブリュッセルはおおきく2の地域に分かれます

ベルギー王国が、オランダ語地域のフランデレンとフランス語地域のワロン、それに面積はごく小さいですがドイツ語地域に分かれていることは、もうご存じですね。
首都ブリュッセルは、場所としてはオランダ語地域にあります。
そして内部はフランス語とオランダ語が併用されていて、通りの名前なども、フランス語とオランダ語で書かれているのですよ。
19世紀には、オランダ語地域にあるために、オランダ語の影響力が強かったのですが、産業の発展とともに、ブリュッセルはフランス化する傾向にあったのでした。

レオポルド一世を継いだ息子レオポルド二世が即位したのは、1865年。
ちょうどこの時代が、ブリュッセルの経済的発展とフランス化の頃。
レオポルド二世は、子どものときにはオランダ語の教育を受けさせられたのですが、これがかえってあだになり、あまりオランダ語は得意ではなかったようです。
バイリンガルの人も少なくないでしょうが、国民すべてがバイリンガル、などということはあり得ないでしょうね。
ただし、1898年に「平等法」が制定され、法と勅令においては、オランダ語とフランス語とが平等に扱われるようになったのでした。
しかし、「小さなパリ」と呼ばれることもあるブリュッセル。
さて、20世紀にはどうなったのでしょうか。

二度の世界大戦を経験して

二度の世界大戦を経験して

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永世中立国ベルギーの首都ブリュッセル

大国フランスとドイツにはさまれたベルギー王国は、その成立当初から、永世中立国を宣言していました。
しかし、いざ戦争となると、敵軍はどちらからでも攻めてきますね。
ベルギーは、フランス革命のときにそれを経験したわけですが、1914に起こった第一次世界大戦のときは、ドイツ軍が侵攻。
リエージュで激しい戦闘が行われたのでした。
10月には、ブリュッセルもドイツ軍により占領。
ヨーロッパで戦争が起こったとき、中立を守り抜くことの難しさがよくわかりますね。

第一次世界大戦後は、ベルギーも経済的危機に陥りました。
それに加えて、そもそもフランス語とオランダ語に分裂する危機が、これをきっかけにして増大しますね。
ナチに支配されたドイツは、これを利用しようと狙ってきました。
1932年から1938年、この問題に対してブリュッセルは、2言語体制になったのでした。
しかし、1939年、「電撃戦」を掲げたドイツはポーランドに侵攻。
翌年は、ベルギーもフランスも占領されてしまいました。
ブリュッセルがドイツ軍に占領されたのは、1940年5月11日。
もう軍事力で抵抗する力はベルギーには残っていなかったのですよ。
その後、レジスタンス活動があり、ブリュッセルがドイツの占領から解放されたのは、1944年9月3日のこと。
戦争はもう少し続きますね。

ヨーロッパ連合の「首都」ブリュッセル

ドイツの敗北によって、第二次世界大戦は終結。
1951年には若いボードゥアン一世が王位を継承して、戦後の復興期が始まったのでした。
二度の大戦の経験から、1958年にはヨーロッパ経済共同体(EWG)の本部がブリュッセルに置かれました。
そしてその同じ年に、また万国博覧会が開催され、その遺産として、「アトミウム」という建造物が今も残されていますね。
1967年には、北大西洋条約機構(NATO)の本部が、パリからブリュッセルに。
これでもう、ベルギーは他のヨーロッパ諸国から、攻撃されたり占領されたりする心配はなくなったわけです。
なお、EWGがのちに、ヨーロッパ連合(EU)発展することはご存じですね。

戦後の復興期は、進歩が素朴に信じられた時代ですが、光のあるところには必ず影があるということで、ブリュッセルも、新しい建造物が次々に建設させる「表通り」と、貧困層の住む「裏通り」に分かれてしまいました。
1967年5月22日には、その「進歩」をフランス語で名前にしたデパート「ア・リノヴァシオーン」が火災。
300名以上の死者が出たのですよ。
それについ最近、2016年5月22日には、爆弾テロ事件がありましたね。
それでもなお、ブリュッセルは、ヨーロッパ連合の建物がいくつも建てられた地域のある、ヨーロッパの中心都市であり続けることでしょうね。

ブリュッセルは世界平和の象徴かもしれません

小さな王国ベルギーの首都ブリュッセル。
国が小さいからといって、その歴史は小さくなんかありませんね。
1989年にブリュッセルは、互いに独立した19の自治体に構成される都市になりました。
ベルギー王国自体も、1993年に、3つの「言語共同体」と3つの「地域共同体政府」からなる連邦国家に。
世界には多数の民族や言語がありますが、国家や地域の枠を越えて、平和に共存できる可能性を、ブリュッセルは示しているのではないでしょうか。
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出発地

目的地

大人 子供 幼児

大人:ご搭乗時の年齢が11歳以上、子供:11歳未満 幼児:2歳未満