ハンガリー・ブダペストの歴史 成り立ちから、人気の観光都市になるまで

幅広いドナウ川の両岸にまたがる大都市ブダペスト。ブダの城丘に立つ伝説の聖イシュトヴァーン王の騎馬像は、オスマン・トルコに占領され、その後はハプスブルク家に支配されたハンガリーの「今」を見守っているようです。ハンガリー王国の首都だったのに、国王はハンガリー人ではない。そんなことを想像できますか。ウィーンよりブダペストの方が、人口も多く宮殿も立派なのに、国王はウィーンのハプスブルク家。その後はナチに占領され、空爆で瓦礫の山になってしまったブダペスト。見事に復興した街並みに、ハンガリー人の底力を感じますね。

起源は古代ローマ帝国の要塞都市アクインクム

ローマ帝国の防衛線、ライン川とドナウ川

ローマ帝国の防衛線、ライン川とドナウ川

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「ローマは一日してならず」という有名なことわざは、きっと誰でも知っていることでしょう。
ローマから始まって、イタリア半島を統一し、地中海全域の支配者となったローマ帝国。
アルプスを越えてガリア(現在のフランス)を征服し、西はイベリア半島、北は海を渡ってイングランドまでを領土にしました。
ローマ人から見ると、風俗も習慣も言語も文化も異なるゲルマン人は、意外に手強い相手だったのです。

そこで、ライン川からドナウ川を自然の要塞にして、ローマ帝国と勇猛果敢なゲルマン人の世界との境界線ができました。
さらにローマ人たちは、これらの川岸にいくつもの要塞を築いたのでした。
ハンガリーはその頃、パンノニアと呼ばれていました。
このパンノニアに築かれた要塞都市アクインクム、それがブダペストの最初の姿です。
今もその遺跡は、ドナウ川沿いを走る鉄道の窓から見ることができます。
ブダペストは、ブダとペストとオーブダ(古いブダ)とが合併してできた近代都市ですが、ローマ帝国時代のアクインクムは、のちにオーブダと呼ばれる地域にありす。
現在のブダの北側です。

マジャール人がこの地を制しました

395年にローマ帝国が東西に分裂し、475年にはゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国が滅亡。
ゲルマン人たちはいくつかの王国を建国します。
パンノニアには、アジアの騎馬民族とされているマジャール人が侵入し、ここに国をつくりました。
マジャール人とはすなわちハンガリー人のことですが、ハンガリーの「ハン」の読み方を変えれば「フン」となり、中央アジアにいたフン族の子孫である、という説もあります。
もちろんこれは事実無根のこと。
ただ、ハンガリーの平原では牧畜が盛んで、マジャール人と馬との密接な関係は、否定できませんが。

ゲルマン人の世界では、800年にフランク族のカール大帝がローマ教皇から帝冠を授けられ、中世が始まりましたね。
マジャール人の部族では、クルサーンという人物が最高の地位にあり、アールパードという人物が軍事力を握っていました。
905年にクルサーンは暗殺され、アールパードが最高権力者となったあと、このアールパードも907年に死亡。
しかしその息子たちが後継者となり、マジャール人の王国ができます。
宮廷はあちこち移動しますが、最終的にはアクインクムのあった場所に落ち着きます。

ドナウ川の右岸がブダで左岸がペストです

ドナウ川の右岸がブダで左岸がペストです

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アクインクムの対岸にあったコントラ・アクインクム

古代ローマの要塞アクインクムが、マジャール人の王国の首都ブダになったわけですが、アクインクムの対岸に、コントラ・アクインクム、すなわち「アクインクムの対岸」という町がありました。
ハンガリー人はここをハンガリー語で、「ペシュト」と呼んでいます。
ですから、ブダペストは、ハンガリー語の発音ではブダペシュトなのですが、ふつう日本語ではブダペストになっていますね。

13世紀初めに、ペシュトにドイツ系住民が移住してきて、この町をドイツ語で、「オーフェン」と呼びました。
オーフェンとは、英語でオーブン、つまり「かまど」の意味です。
ではなぜドイツ系住民が自分たちの住む町を「かまど」などと呼んだのか。
答えは簡単、ハンガリー語のペシュトが「かまど」という意味だからです。

もっとも、この町を「かまど」と呼んだのは、実はハンガリー人ではなく、ブルガール人、古代のブルガリア人でした。
ペシュトは、そのブルガール人の言葉から来ています。
ローマ人がつくった町に、ブルガール人とハンガリー人、さらにドイツ人が入ってきたということで、ハンガリーの首都ブダペストの国際性、と考えていいでしょうか。
ただし、19世紀にはこの国際性によって民族間の闘争が起こるのですが。

キリスト教に改宗した聖イシュトヴァーン王

キリスト教に改宗した聖イシュトヴァーン王

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ローマ帝国では、キリスト教が国教になりましたが、ゲルマン人もマジャール人も、もともとはキリスト教徒ではありません。
マジャール人の王国では、アールパート家の王イシュトヴァーンが、1000年12月31日に、キリスト教に改宗します。
その後およそ300年、アールパート家の王国、アールパート朝が続きました。
ハンガリー王の王冠は、聖イシュトヴァーンの王冠と呼ばれていますが、それはこの王に由来するものです。
現在はブダペストの国会議事堂に保管されています。

この王については、その死後に3つの伝説が生まれました。
伝説ですから、事実ではなかった可能性もありますが、それほどこの聖イシュトヴァーン王はハンガリーの国民に慕われていたわけです。
キリスト教徒になった最初のハンガリー王イシュトヴァーンは1038年に死にますが、死後さまざまな奇蹟を起こしたことで、1083年には聖人として認められます。
奇蹟を起こす王の右手は、ブダペストの大聖堂に保管されています。
また、王の騎馬像は、ずっと後の時代、城丘の上に立てられ

死後に奇跡を起したことで列聖、つまり聖人にされることがありますが、イシュトヴァーン王の死体の右手が、その貴重な遺物です。
イシュトヴァーン王が死んだのは1038年、列聖されたのは1083年で、聖なる右手は現在、ブダペストの大聖堂に鎮座しています。
また、現在ブダペスの城丘には、聖イシュトヴァーン王の騎馬像が立っています、彼の目はこれからも、ハンガリーの平原とそこを貫流するドナウ川を見つめ続けることでしょう。

要塞都市ブダの発展と対岸のペスト

要塞都市ブダの発展と対岸のペスト

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モンゴル襲来がきっかけでした

聖イシュトヴァーン王は、ブダではなく、ドナウ川の少し上流にあるエステルゴムだったのですが、ブダがいつ頃からハンガリー王国の中心になったのか、どうやらあまりよくわかっていません。
聖イシュトヴァーン王の時代から200年以上も後の1241年春、突如モンゴル軍がハンガリーに襲来します。
その勢いはすさまじいもので、ハンガリー全土はたちまちその猛馬に踏み荒らされてしまいます。
当時の王はベーラ四世。
ペスト防衛に全力を傾けましたが、たちまち敗北。
対岸のブダは、とりあえず難を免れましたが、それは、ドナウ川という自然の防壁のおかげでした。

しかし、このドナウ川も、冬には凍結してしまいます。
中世のヨーロッパでは、冬には戦争をしないというのが常識だったのですが、モンゴル軍にそんな常識は通用しません。
氷の上を渡って攻め込んできたモンゴル軍に、たちまち敗北。
1242年1月にブダの王宮は落城し、ベーラ四世は逃亡するほかありませんでした。
この時代の王宮は、ベルサイユ宮殿などとはちがって、戦争のための城塞と考えてください。
ヨーロッパ各地を荒らし回ったモンゴル軍でしたが、その後まもなくいなくなってしまい、ベーラ四世はブダに戻ってきます。
落城したブダは現在のオーブダで、ベーラ四世は現在のブダの場所に、どんな敵にも負けないような強固な城壁を備えた王宮を建設しました。

ペストもブダより少し遅れて都市が発展しました

オーブダは廃墟になりましたが、新しいブダには王宮のほか、ペストから逃れてきた市民たちも住みつき、宮廷都市として発展していきます。
現在聖イシュトヴァーン王の像が立っている城丘に城壁をめぐらせて、防備を万全にした都市、それが新しいブダです。
ドイツ系の住民たちはおもに、聖母マリア教区教会の周囲に住みました。
この教会は、現在はマーチャーシュ教会と呼ばれています。

1301年にアールパート家の王アンドラーシュ三世が死んだあと、アンジュー家が王位を継承するに際して、市民は反抗し、アンジュー家のカーロイは、要塞都市ブダに立てこもった市民と戦うことになりました。
1347年に、アンジュー家のラヨシュ大王が市民権を認めることで、この戦闘も終息しました。
ブダは名実ともに、ハンガリーの首都になったのでした。
対岸の都市ペストは、モンゴル軍の襲来のあと、おもにハンガリー系の住民で占められていました。
市民権を振りかざすブダのドイツ系市民とは対照的に、彼らは、城壁のない農業都市の市民に甘んじるほかありませんでした。
この頃は、ハンガリーではブドウの栽培が盛んに行われています。
有名なトカイワインを生産するトカイ地方は、ペストの東にあります。

マーチャーシュ一世のときが黄金時代でした

マーチャーシュ一世のときが黄金時代でした

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ルネサンス様式の王宮ができました

マーチャーシュ一世は、1443年にトランシルヴァニアのフニャディ家の出身。
トランシルヴァニアは現在ではルーマニアの西部地方になっていますが、もともとはハンガリー王国の東部地方でした。
このときにはすでに、オスマン・トルコとの戦いが行われており、彼の父親は勇敢に戦った軍人でした。
1458年にハンガリー王に選ばれ、即位します。
神聖ローマ帝国もそうでしたが、ハンガリー王国も選挙王制になっていたのです。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒもハンガリー王の候補になりましたが、時期尚早と判断したのか、フリードリヒ三世はこれを断りました。

マーチャーシュ一世は、1476年にナポリ王国のベアトリーチェと結婚し、ルネサンスの文化をブダとペストに持ち込みました。
ブダの王宮はルネサンス様式に改装され、ハンガリー王国の首都としての偉容を示す立派なものになったのです。
一方、ペストにある聖母マリア教区教会も大規模な改修が行われたので、国王の名を取って、マーチャーシュ教会となります。
このマーチャーシュ教会に隣接するヒルトン・ホテルは当時の建物で造られていて、壁にはマーチャーシュ王のレリーフが残っています。

マーチャーシュ一世はペストに力を入れました

ブダはこうして、ルネサンス様式の宮殿によって、王国の首都としての偉容を誇るようになりました。
しかしまた、ブダはドイツ系市民の力が強く、なんと公用語もドイツ語でした。
そこでマーチャーシュ一世は、これまでブダに遅れを取ってきたペストの発展に力を注ぎます。
市民の力も強くなり、外国の品物を交易するブダに対して、ペストは国内のさまざまな品物が並ぶ市が立ちました。
これまで農村都市だったペストにも、他の都市と同じように外壁が造られ、都市としての姿を整えます。

1470年には、ペストの市民もようやく「王国自由都市」の市民としての権利が与えられました。
ペストの市民は、ドイツ系住民が多かったブダの市民とは違って、おもにハンガリー人の商人たちから成っていました。
マーチャーシュ一世の経済力も、ペストの市民が支えになったと言っていいでしょう。
この力でもって、神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世との確執に立ち向かい、1485年には皇帝をウィーンから追い出したのです。
ハンガリー人でないとはいえ、マーチャーシュ一世の時代はまさに、ハンガリー王国の最後の黄金時代と言えるかもしれません。
1490年の王の死をもって、この黄金時代は終わりに向かいます。
なお、マーチャーシュ一世の像は、現在ブダペストの英雄広場に立っています。

オスマン・トルコに支配された時代がありました

王国は三分割されてしまいました

マーチャーシュ一世は、巧みな外交で、オスマン・トルコとの全面戦争を回避してきましたが、そのあとハンガリー王になったポーランド系のヤゲロー家のウラースロー二世は、なんとトルコへの十字軍を呼びかける始末。
それは1514年のことでしたが、1526年には逆に、オスマン・トルコの大軍が攻めてきて、それに挑んだモハーチの戦いで、ヤゲロー家のラヨシュ二世王は戦死してしまいました。
ヤゲロー家最後の王の死で、ハンガリー王位をめぐる争いが起こりましたが、最終的にはハプスブルク家が王位を継承します。

オスマン・トルコのスルタンであるスレイマン二世は、いったんはブダに無血入城しますが、このハンガリー王位をめぐる争いに巻き込まれることになりました。
ハプスブルク家のフェルディナント大公は、1527年にブダに入城。
しかし、ハンガリー系の住民の支援を受けたトランシルヴァニアの公サポヤイと、オスマン・トルコのスレイマン二世は手を組んで、これに対抗したのでした。
結局1541年に、フェルディナント派の立てこもるブダは破壊されて、オスマン・トルコの支配下に入ってしまいます。
ペストも放火され、ブダとペストの黄金時代は完全に終了。
ハンガリー王国自体も、ハプスブルク家、トランシルヴァニア侯国、そしてトルコ帝国の占領地に三分割。
この時代はなんと、1686年まで続いたのです。

温泉文化が栄えたのはオスマン・トルコのおかげです

温泉文化が栄えたのはオスマン・トルコのおかげです

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ハプスブルク家を王とするハンガリー王国の首都は、ウィーンに近いブラティスラヴァに移り、ここでハンガリー王の戴冠式が行われるようになりました。
女帝マリア=テレジアも、ハンガリー王に戴冠したのはブダではなく、ブラティスラヴァでした。
スレイマン二世が無血入城したのに、その後のハンガリー王をめぐる争いで破壊され焦土と化したブダとペストでしたが、オスマン・トルコの支配のもとで、急速にオスマン化していきます。
まず宗教の問題です。
オスマン帝国はイスラム教の国家なので、キリスト教の教会がイスラム教のモスクに改造されました。
マーチャーシュ教会ももちろんモスクです。
ディアスポラといって、ヨーロッパ各地に散らばっていたユダヤ教徒たちも、ユダヤ教のシナゴーグを破壊されてしまいます。

こうして、ハンガリー王国の首都だったブダとペストは、すっかりオスマン・トルコの都市に改造されてしまうのでした。
ただ、悪いことばかりではありません。
ブダのドイツ系商人に代わってムスリム商人が入ってきたので、ブダペストは西と東とをつなぐ重要なポイントとして発展します。
それにもう一つ、ブダペストは、市内のあちこちに温泉があり、人気の観光スポットとなっています。
これは、温泉をこよなく愛したオスマン・トルコによる占領の成果なのですよ。

ハプスブルク家の支配が始まりました

ハプスブルク家の支配が始まりました

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オスマン・トルコの第二次ウィーン包囲

1683年、オスマン・トルコはウィーンを包囲します。
これを第二次ウィーン包囲といいます。
1529年に第一次ウィーン包囲があったため、ハプスブルク家はウィーンの市壁の外側に、グラシスと呼ばれる広大な土手を造り、この第二次包囲に備えていました。
そしてついに、その日が来たというわけです。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝レオポルト一世は、トルコの攻撃を恐れて、ウィーンから逃亡してしまいます。
残った市民たちは、城壁の一部を破壊されながらも、必死に抵抗したのでした。
ポーランド王ヤン・ソビエスキーの援軍により、ウィーンの周囲に野営していたトルコ軍は背後から攻撃を受け、武器も捨てて逃げ去ったのでした。
ハプスブルク軍は逃げ惑うトルコ軍を追撃し、1687年に、ブダを包囲し落城させます。

こうしてブダとペストはオスマン・トルコから解放された、とも言えますが、今度はハプスブルク家に支配されることになりました。
1699年のカルロビッツ条約で、もう二度とオスマン・トルコの脅威にさらされることはなくなったのですが、ハンガリー人にとっては、ハプスブルク家の支配を心から歓迎できるはずもありません。
トルコ人に代わって、今度はドイツ系住民が流入したのです。
ブダとペストの復興もなかなか進まず、「王国自由都市」の特権も回復できません。
1703年から1711年まで続いた、ハプスブルク家に対する解放戦争まで起こる始末でした。

ヨーゼフ二世の改革はブダペストをどう変えたのでしょうか

ハプスブルク家の支配に対する解放戦争が終わったあと、神聖ローマ皇帝カール六世は、古い土台のうえに新しい小さな宮殿を建設します。
ちょうどこの頃はバロック時代の最盛期。
ただ、ハプスブルク家の宮廷はウィーンにあり、ハンガリー王でもあるとはいえ、ハンガリーの宮廷にはいません。
ブダは、ハンガリー王国の首都なのに、国王不在の宮廷というわけです。
1740年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール六世が死んで、マリア=テレジアがハプスブルク家の全領土を相続します。
しかし、ここでオーストリア継承戦争が起こり、ハプスブルク家は窮地に追い込まれてしまうのです。
ブラティスラヴァでハンガリー王に戴冠したマリア=テレジアは、生まれたばかりのヨーゼフを抱いて、泣きながらハンガリーの宮廷で援助を乞いました。
その必死の姿に、ハンガリーの貴族たちもさすがに感激させられました。

ハンガリーには、マグナートと呼ばれる大土地所有者がいて、彼らが国王不在の王国を実際に支配していました。
彼らの力なしには、女帝マリア=テレジアも、この戦争を遂行できません。
ハンガリーから兵力をもらう見返りに、ハンガリー王国はさまざまな特権が認められ、1749年から70年にかけて、ブダに大宮殿も建設されます。
母に抱かれてハンガリーに連れて行かれたヨーゼフも、今や神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世。
改革者として知られるヨーゼフ二世の時代に、ブダとペストは建築ラッシュ。
市民の生活も向上し、この時代の豚とペストは、今日のブダペストの華やかな姿に負けていなかったでしょう。

三月革命はハンガリー人の希望を打ち砕きました

三月革命はハンガリー人の希望を打ち砕きました

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ハンガリー人によるハンガリー王国への希望

ハプスブルク家の皇帝は、ハンガリー王でもありボヘミア王でもある、という奇妙な存在で、ウィーン以外にもいくつか、国王不在の宮廷をもっていました。
ハンガリーの場合、プラティーンと呼ばれる副王がブダの宮廷にいて、この副王が事実上国王だったわけです。
19世紀になると、民族意識というものが明確になってきます。
ブダにもペストにも、ハンガリー人のほか、ドイツ系住民もスラブ系住民もいましたが、この民族意識は、ハンガリー人こそがこの地の支配者である、という方向に向かっていったのでした。

それまでハンガリー宮廷の公用語は、ハンガリー語ではなくラテン語だったのです。
ラテン語は、長い間ヨーロッパの共通語として、とくに文書ではよく用いられてきました。
有力な貴族にも、トランシルヴァニアやクロアチアの人たちがいたことを考えると、共通語のラテン語が採用されたことの意味がわかるてせしょうか。
ハンガリー語で「民族」のことを「ネムゼット」といいますが、ハンガリー王国をハンガリーのネムゼットの国家にする、という希望が生まれたというわけです。
コシュートに代表される、マ

三月革命でひどい目に遭いました

19世紀前半は、ハンガリー人の民族意識が強くなる時代でしたが、また、ハンガリー人による文化や芸術が栄えた時代でもあります。
文化人や政治家たちがカフェに集まり、自由に議論したり自分の作品を創作したりしたカフェ文化。
ウィーンのカフェ文化はよく知られていますが、ブダとペスト、とくにペストのピルヴァクス・カフェがその中心だったのです。
もうひとつ、出版業と新聞が果たした役割も、忘れてはいけません。
自由な議論は、ときには現状否定へと、民衆を駆り立てることもあります。

1848年、パリで二月革命が起こり、フランスは七月王政が倒れて共和国になりました。
それがドイツやオーストリアにも飛び火して、この民族意識に灯を付けたのでした。
ドイツやオーストリアでは三月革命と呼んでいますが、同じ革命でも、オーストリアでは、ハンガリー人やチェコ人による独立戦争、という様相を呈していました。
1849年8月に、ハンガリーの反乱者たちは敗北し、ハプスブルク家の軍事力によるハンガリー支配が強化されてしまいます。
これを「新絶対主義」と呼んでいます。
この時代に、「農奴解放」や「ユダヤ人解放」が行われて、ハンガリーも経済的には発展し、ブダもペストも急激な人口増加の時代を迎えたのでした。

オーストリア帝国とハンガリー王国の対等の関係

オーストリア帝国とハンガリー王国の対等の関係

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アウスグライヒとは、「平坦にすること」です

三月革命で、ハプスブルク家は18歳のフランツ=ヨーゼフを皇帝にすることで、帝国の安泰を図ります。
ドイツ人・ハンガリー人・チェコ人・イタリア人など、10以上もの民族が入り組んだ状態で暮らしているハプスブルク帝国。
どのように区切ってきても、単一民族の国家など作ることはできません。
どうすればこの帝国を維持することができるか。
どう考えても、名案が浮かんでくるはずもありません。
1853年に皇帝は、ウィーンの城壁を散歩中に、あるハンガリー人に襲われます。
これがきっかけとなって、ウィーンの大改造が行われますが、ブダとペストもそれより少し遅れて、都市の大改造に着手。
それでなんとか、いろいろな地域と民族からなる「帝国」の偉容を示そうとしたのです。

1859年のソルフェリーノの戦いにより、イタリアは独立に成功、イタリア王国となります。
また、ドイツ帝国を民族国家にする意図を掲げたプロイセン王国と、1866年に戦って敗れ、オーストリアはドイツから排除されてしまいます。
1867年、オーストリア帝国を大きく2つに分割し、東半分のハンガリー王国は、外交と軍事以外は完全な独立国となりました。
これをドイツ語でアウスグライヒといい、ふつう日本語では「妥協」と訳していますが、もとの意味は、デコボコのものを平らにする、という意味なのです。

ウィーンより立派なブダペストになりました

1867年6月8日、皇帝フランツ=ヨーゼフと皇帝妃エリーザベトは、マーチャーシュ教会でハンガリー王としての戴冠式を行いました。
ウィーンの宮廷が気に入らなかったエリーザベトはブダがとても気に入り、ブダの市民たちもこの美貌の王妃が気に入ってしまいました。
フランツ=ヨーゼフとエリーザベトの末娘マリー=ヴァレリーも、1868年にペストで誕生しています。

ブダとペストとオーブダが統一されてブダペストになったのが、1873年。
ウィーンよりも大きな都市が、ハンガリー王国に生まれたのです。
1890年から1903年にかけて、ネオバロック様式で左右対称の新しい王宮が建設され、これまでの2倍の大きさになりました。
なんと、ウィーンの宮廷のホーフブルクよりも立派なものに仕上がったのですよ。

問題は、ブダとペストの間を流れるドナウ川。
オスマン・トルコの時代に舟橋が架けられましたが、それだけでは役に立ちません。
ハンガリー人たちが何年も苦労して、1849年にセーチェニ橋が完成。
アウスグライヒ以後は、積極的に橋の建設が行われました。
1876年のマルギット橋、この橋は1900年に橋と島を結ぶ部分ができて、その島はマルギット橋と名付けられ、観光名所になっています。
1896年、フランツ=ヨーゼフの名前をとったフェレンツ=ヨージェフ橋。
1903年には、1898年にジュネーブで暗殺された王妃エリーザベトの名前を与えられた、優雅や吊り橋エルジェベート橋。
それから、1896年の建国千年祭のときに、ロンドンに次いで世界で2番目に古い地下鉄が建設されたことも忘れてはなりません。

二度の世界大戦とブダペスト

二度の世界大戦とブダペスト

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オーストリア=ハンガリー二重帝国は崩壊します

1914年7月28日、アウスグライヒによりできたオーストリア=ハンガリー二重帝国は、セルビアに宣戦布告し、第一次世界大戦が始まってしまいます。
「始まってしまいます」というのは、こんなに大きな戦争になるなどとは、この二重帝国の人たちは予想していなかったからです。
戦争が始まっても、ブダペストは平穏そのもの。
第二次世界大戦のような空襲もありません。
ただ、戦争が思いがけず長引いて、物資は不足するし、戦闘が行われている地域からの難民が、ブダペストにも押し寄せてきて、事の重大さが知られるようになりました。

この戦争は、兵士たちの反乱がきっかけで終わることになり、1918年にオーストリア=ハンガリー二重帝国も、戦争続行不可能になってしまいました。
二重帝国は崩壊し、いくつかの後継国家が生まれました。
ハンガリー王国も、短期間で倒れた赤色革命を経て、海軍提督ホルティが摂政となる「王のいない王国」になってしまいます。
1920年、ベルサイユ条約ではなくトリアノン条約により、ハンガリー王国は、スロバキア・クロアチア・トランシルヴァニアを失い、およそ3分の1の国土になったのでした。
ハプスブルク家最後の皇帝カール一世は、オーストリア皇帝は退位したけれど、ハンガリー王は退位していないので、ハンガリー王として復活することを試みましたが、もちろん失敗するに決まっていますね。

第二次世界大戦とその後のブダペスト

1929年、ニューヨークの株式市場の暴落をきっかけに始まった世界大恐慌は、イタリアのファシスト党やドイツのナチ党に人気を与えてしまい、ついに第二次世界大戦に突入。
ハンガリーはドイツ第三帝国の同盟国になりました。
度重なる空襲により戦意を喪失したハンガリーを、1944年にナチが占領したのです。
攻め込んでくるソ連軍を止めるため、ドイツ軍はドナウ川に架かる橋を、次々と破壊。

第二次世界大戦後の混乱ののち、1948年にハンガリーはソ連と同じ社会主義国家になり、スターリンの支配下に入ってしまいます。
西側の資本主義国家の発展に取り残される結果となってしまいました。
1956年の文化人や学生たちの抵抗運動は、ソ連の戦車によって鎮圧されました。

筆者も、ヨーロッパがまだ「鉄のカーテン」で東西に仕切られていた頃、永世中立国オーストリアの首都ウィーンにいました。
ブダペストに旅行するのに、ビザは必要ですし、手荷物検査は厳重でした。
ただ、オーストリア=ハンガリー二重帝国時代の名残か、オーストリア人はビザなしで自由にハンガリーに出入国できたのですよ。
そして1989年のベルリンの壁崩壊後、東ドイツの市民がハンガリーとオーストリアの国境を越えて西ドイツに亡命しましたね。
ブダペストは、まさに東と西との架け橋です。
観光都市として人気のあるブダペストですが、その複雑な歴史を知れば、もっと楽しくなりますよ。

ハンガリーの人たちの気概を感じるブダペスト

ブダとペストが一つの都市になったのは、ブダペストの長い歴史から見れば、つい最近のこと。
アジア系とされるハンガリー人は、スラブ人の国々に囲まれ、ハプスブルク家の支配下にありながら、独自の文化を創造してきました。
筆者の知り合いにハンガリー人もいますが、困難な状況にぶつかっても、それにじっと耐えながら、それでも自分を見失わない、そんな性格を感じさせてくれます。
ブダペストの長い歴史に、そんなハンガリーの人たちの気概が込められているのではないでしょうか。
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