フランスの歴史でこれだけは知っておくべき9つのこと

公開日:2019/3/22 更新日:2020/3/6

5.ブルボン朝成立、ルイの台頭

 

5.ブルボン朝成立、ルイの台頭

 1589年、ナヴァール王アンリが、フランス王に即位したことで、ブルボン朝が成立します。
そしてアンリは、政情の混乱を避けるためカルヴァンからカトリックに改宗し、保守派にすり寄りました。
その上で、1598年にはナントの勅令によって宗教的な寛容を示します。
しかしそういった策略も実を結ばず、アンリは、1610年に狂信的なカトリック教徒の凶刃に倒れることになりました。

アンリの死後、ルイ13世が即位します。
ルイ13世はこれまでよりもさらに王権の強化を推し進めていきます。
アンリは三部会の開催を拒否し、官僚制・常備軍の整備をさらに進めたのでした。
そして、1618年より起こった三十年戦争では、カトリックという宗教的な立場よりもフランスの国益を優先して新しい教派を支援し、ブルボン家の勢力を拡大させ、カトリック派の反感を買います。

1643年に、このルイ13世が死去し、まだ5歳と幼かったルイ14世が即位しました。
宰相のマザランがこれをよく補佐し、1648年にはアルザス地方とロレーヌの3都市を領土に加えています。

1661年には、宰相マザランが死去したために、その後ルイ14世の親政が始まりました。
ルイ14世は、さらなるブルボン家の勢力の拡大を図ったために、より一層の財政充実をもとめ、当時の財務長官のコルベールをその任にあたらせます。
コルベールは、かつてのフランス東インド会社を再建し、重商主義政策を推進しました。

当初は、イングランドのステュアート朝と友好的でしたが、名誉革命によってオランダ総督であったウィレム3世がイングランド王として即位すると、対英関係は再び悪化しました。

イギリスとの抗争は長期に渡り、フランスは財政的な困難によって劣勢に陥っていきます。
フランスでは、国内の富裕層であったカルヴァン派がフランス国外に流出したうえに、贅沢の限りを尽くして建築されたヴェルサイユ宮殿もフランスの財政にとって大きな負担になったのでした。
イギリスとの抗争が長期化することは、フランスにとってこういった財政的困難をさらに大きいものにしたのです。

太陽王とまで呼ばれたルイ14世の時代の「絶対王政」は、フランス人民1人1人にまで国家権力が及んでいたわけではありませんでした。
18世紀になると、パリでは多くのカフェが営業されます。
そのカフェが社会批判の社交場となりました。
このカフェのような、王の統治が及ばない空間で生まれた世論は、啓蒙思想につながっていきます。
こうした中でも、ルイ16世の時代まで王朝は持続しましたが、こういった世論によって絶対王政は限界を迎える様になりました。

6.フランス革命!バスチーユ牢獄襲撃やヴァレンヌ事件

 

6.フランス革命!バスチーユ牢獄襲撃やヴァレンヌ事件

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 1789年7月14日、バスティーユ牢獄襲撃事件が起き、フランス革命の契機となります。
このパリでの事件が伝えられると、その戦火はフランス全国にまで飛び火し、農民達が暴動を起こして、貴族や領主を襲い、借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生しました。

これらの動きを受け、国民議会は、8月27日に人権宣言を採択するに至ります。
しかし、この時点ではまだ主権は国王にあったので、議会による法律の制定には国王の承認が不可欠でした。
ルイ16世は、議会から提出される民衆主導の法令の可決を拒絶し、これらの法案を承認することを拒否します。
民衆を侮蔑していた王妃マリー・アントワネットなど、国王の周りには強硬派しかいなかったということも影響しているでしょう。

こういった政治的の影響によって、フランスの物価が高騰したために、これに怒ったパリの女性達が武器を手に市役所の広場に集まり、そのままヴェルサイユ宮殿に乱入したうえに、国王と議会に食糧を要求しました。
その一部は暴徒と化し、ルイ16世はこの圧力に負けて、人権宣言を承認します。
そして、それ以後はパリのテュイルリー宮殿に移り住むことになります。
ルイ16世は、パリ市民からの監視を受けながら暮らすことになってしまったのです。

これらの革命勃発によって、貴族などの多くの特権階級が国外への亡命を始めていました。
1791年に国王と民衆との仲介者としての役割を果たしていたミラボーが死ぬと、過激化する革命を恐れたルイ16世も、スウェーデン貴族のフェルセンの助けを借りて、オーストリアへ逃亡しようと企てます。

そして、ルイ16世一家はパリからの脱出を図りましたが、国境まであと少しのヴァレンヌで国民に見つかり、パリへ連れ戻されてしまいました。
この事件は、フランス全土に衝撃を与えるとともにルイ16世の反革命思考が暴露され、国民の怒りを買ってしまうことになります。
それまでは比較的に見て多数を占めていた国王擁護の国民からの支持をも失ってしまったのでした。

1792年の4月、革命政府のオーストリアに対する宣戦布告によって、フランス革命戦争が勃発します。
しかし、貴族階級であるフランス軍の士官達は、革命政府に非協力的であり、そのためにフランス軍は各戦闘で戦いに敗れます。
マリー・アントワネットは敵方であるオーストラリアにフランス軍の作戦を漏えいさせることすらしていました。

しかし、フランス軍はヴァルミーの戦い以後からに反攻に転じ、敵軍を国境の外にまで押し戻します。
戦いで活躍した義勇兵は、多くの下層民階級によって組織されていたこともあり、そういった人々の政治的発言力が増大していきました。
そういった背景から、ついに共和政府が誕生します。

そして、その共和政府は、ルイ16世を革命裁判にかけました。
戦争の際に、ルイ16世がフランス政府や国民を裏切っていた数多くの証拠が提出され、国民公会はルイ16世の死刑を議決します。
約2万人の一般市民の目の前で、ルイ16世はギロチンによって処刑されました。
同じ年には、マリー・アントワネットも、市中を引き回された末に処刑されます。

7.第一共和制の誕生!その後の王政復古まで

 

7.第一共和制の誕生!その後の王政復古まで

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 ルイ16世の処刑後、共和政府によって貴族や教会から没収した土地の再分配が行われました。
革命期の政治家ロベスピエールは、王妃マリー・アントワネットや王党派のダントンらを処刑すると、恐怖政治を行うようになります。
しかし、このロベスピエールも1794年にクーデターにより失脚し、処刑されてしまいます。
そして1799年、ナポレオン・ボナパルトがクーデターにより新政府を樹立するとその独裁権を握りました。

それから5年後の1804年、ついにナポレオンが皇帝に即位します。
その後、ナポレオンはトラファルガーの海戦・ロシア遠征などによって、欧州諸国に戦争を仕掛けました。
ナポレオンが起こしたこの一連の戦争はナポレオン戦争と呼ばれます。
しかし、ナポレオン率いる帝国軍はライプツィヒの戦いに敗れたことをきっかけに1814年に退位することになり、戦後処理のためのウィーン会議の決定でエルバ島へ流刑されることになりました。
しかし、その翌年の1815年には、エルバ島から脱出したナポレオンは復位します。
しかし、今度はワーテルローの戦いで完敗し、ナポレオンは再び退位の憂き目に遭いました。
そのナポレオンの失脚後、今度はルイ18世がフランス国王に即位します。
このブルボン家の復古は、諸外国によって承認されました。

よく保守反動的な体制といわれるウィーン体制ですが、かつての絶対王政へ完全に回帰したわけではありませんでした。
選挙による立憲君主政が採用され、法の下の平等や所有権の不可侵、言論の自由なども認められていました。
すなわち、かつての厳しい身分制の枠組みは復活しなかったのです。
しかし、1ルイ18世の弟シャルル10世が即位すると、亡命した貴族への補償を行うなどしてさらに王権復古的な政治を推し進めます。
こういった政策に対して、王への反発が強まったため、シャルル10世は、アルジェリアへの出兵によって関心を逸らそうとしましたが、1830年には七月革命が起き、シャルル10世も失脚の憂き目にあります。
しかし、この革命は立憲君主派によって起こされたため、共和政には移行することはなく、オルレアン家のルイ・フィリップが王として選ばれました。

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