観光の前に知っておきたい!オーストラリアの歴史

エアーズロックやグレートバリアリーフ、美しいビーチなどの広大な自然、コアラやカンガルーなどの愛らしい動物たち、オーストラリアは、語りつくせない程のたくさんの魅力であふれている国です。英語圏で治安も落ち着いているこの国は、旅行先としてだけでなく、ワーキングホリデーや語学留学先としても非常に人気がありますよね。そんなオーストラリアがもともと流刑囚を収容する流刑地であったことは有名ですが、その他にも様々な興味深い歴史を持った国でもあります。それらの歴史についてのちょっとした知識があれば、オーストラリアをもっと楽しむことができるでしょう。こちらでは、そんなオーストラリアの様々な歴史についてご紹介していきたいと思います!

オーストラリアってどんな国?

 歴史についてお話しする前に、このオーストラリアがどのような国なのかを見ていくことにしましょう。
その国の地理的な条件や文化についての理解があることは、史実に対する想像がふくらみやすいという点で歴史を理解するのにとても役に立ちます。

 オーストラリアは、オーストラリア大陸本土とタスマニア島、そしてその他の多数の小島から構成されているオセアニアの国です。
大陸的に隔絶された国ですが、近くには、パプアニューギニアやインドネシア、ニュージーランドなどの国があります。

 オーストラリア大陸は、地理的な特徴として、高度の低い大地が一面に広がる、比較的フラットな大陸です。
東部には、2230mの最高峰コジアス山を含むグレートディバイディング山脈がそびえています。

 では、気候の方はどうかというと、シドニーやメルボロンといった大都市のある東側は温暖湿潤の快適に過ごしやすい気候です。
そして、オーストラリアの中心を取り囲むようにグレートサンディ砂漠などの砂漠が集まっています。
大陸の北東の方は熱帯雨林気候で、その海の中には、サンゴ礁が広がるグレートバリアリーフが有名です。

 首都メルボルンやシドニーは、人口400万人前後の大都市で、世界的に見ても経済がとても活発な都市を有しています。

流刑地やゴールドラッシュ!オーストラリアのユニークな歴史

 オーストラリアは他の大陸から隔絶されているという地理的な条件もあり、長い間他国の文明の影響を受けず先住民による独自の文化が発達しました。
しかし、西洋諸国の度重なる航海の結果、その存在が西欧の人々の知るところとなります。
西欧の人々は、この大陸をはじめは流刑植民地にしましたが、1850年代に金鉱が発見されてからは、金脈を求める人々を惹き付けました。

 こうした過程の中で西欧からの侵略者と先住民であるアボリジニの、または侵略者同士の衝突や確執を乗り越えつつ、オーストラリアはやがて近代的な連邦国家へと姿を変えていくのでした。
これから、その興味深いオーストラリアの歴史について見ていきましょう。

西欧による大陸発見以前、アボリジニの歴史!

 西欧諸国による植民地化の以前、オーストラリアの地には先住民アボリジニがのどかな生活を送っていました。
研究によると、アボリジニたちももともとこのオーストラリアの地に存在していたわけではなく、他の生活地からこの大陸に渡りついたようです。
彼らが上陸した時期は、5万年から12万年以上前ではないかと言われています。
推定の差が7万年もあることから、はっきりとしたことはまだまだ不明だということです。

 では、そのアボリジニたちはどこから流れ着いたのかというと、これも諸説あります。
アボリジニの人骨化石で、約4万年前のものとされる「ムンゴマン」と名付けられた化石の分析から様々な説が派生しました。
彼らの骨格的な特長から南インドからとする説や、アフリカからやってきたのではないかという説など様々ですが、今では南インドから来たというのが有力説なようです。
ちなみに、氷期時代のオーストラリアは、飛び石のように並ぶ島々によってオーストラリアとつながっており、高度な航海技術などが無くとも渡りやすい地域だったと考えられています。
彼らの先祖もその島々を渡り継いでこの大陸を目指したのでしょう。

 その後、地殻変動などでオーストラリア大陸が周りから隔離されてからは、諸外国から隔絶された場所だったという認識されています。
しかし、そのような大陸配置になってからもわずかながら下界との交流はあったようです。
約4000年前には、インド人とアボリジニとが混血していましたし、アボリジニのなかでは、西欧の来訪前からも、黒人や白人たちとの交流があったという伝承があります。
また、アボリジニの残した壁画の中にインドネシアのものと思われる帆船が描かれていることからも交流があったということが示唆されています。

白人主義による侵略の悲劇

 このように僅かばかりの交流をしながら、アボリジニたちは独自の文化の中でその営みを続けていましたが、1642年、オランダ人のアベル・タスマンのオーストラリア発見によって西洋人たちの目に止まることになるります。
タスマンが発見した当時は、アボリジニの人口は100万人ほどだったそうで、使われている言語だけでも200、その部族数にいたっては、700を超えていました。

 18世紀後半に入ると、イギリスはオーストラリアの植民地化政策を本格的に進めるようになります。
そして、資源獲得や流刑地化のためにアボリジニへの迫害が行われました。
イギリスから流刑を受けた移民たちのなかでは、狩りと称して、レジャーでも楽しむかのように多くのアボリジニを虐殺するという冷酷な囚人もいて、アボリジニたちの命は脅かされるようになります。

  また、1828年になると、イギリス人兵士にアボリジニを自由に殺害する権利を与えるという法律が施行されました。
この悪法によりアボリジニたちの人口は9割以上減少します。
さらに1876年には、タスマニアン・アボリジニの最後の生存者の死亡により、純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅に追いやられました。
1900年代に入ると、アボリジ二全体が絶滅寸前の人種「死にゆく民族」として指定されるほど人口が減少していきます。

イギリスによる植民地支配

 以上、アボリジニの歴史について見ていきましたが、ここからはイギリス軍などの西欧諸国から見たオーストラリアはどのように映ったのか見ていきましょう。
 

 18世紀の後半のイギリスは、資源の獲得や流刑地の建設のため、開発を本格的に進めるようになります。
1780年代、イギリス国内では産業革命によって職を失った失業者が都会に集中し、そういった中から犯罪者が激増しました。
当時のイギリスでは軽犯罪であっても収監するという法制度がなされていたのもあいまって、イギリス国内の収容施設はどこも満員という状況でした。
これに加えて、これまで流刑地として利用してきたアメリカが1776年に独立したために、イギリスにとっては巨大な流刑地を喪失してしまうという事態に陥りました。
そのために新たな流刑地として巨大なオーストラリア大陸を必要としていたのです。

 そしてイギリス政府は、退役した海軍将校アーサー・フィリップ を総督に任命し、オーストラリア大陸での植民地建設を命じます。
そして、1787年、フィリップを長とした第1船団は、兵と500人ほどの兵と800人の流刑囚を乗せてオーストラリアの地へ赴きました。
この船団は、翌年の1月26日に上陸し、イギリスの名において入植を開始します。
これを記念して、1月26日は「オーストラリアの日」と呼ばれる祝日になりました。
その後、第2船団、第3船団と続いて上陸していきます。
入植を開始するなかで、イギリス軍がアボリジニを殺害したり、逆にアボリジニよってイギリス軍が襲撃されたりといった事件が起こるのでした。

 監視のために囚人たちと共に上陸したイギリス軍将校らは、この未開の地を独断で私有化し、船荷の購入権を独占しました。
入植直後の当時、まだ食料品などの必需品を自給できない状況のなかで、彼らは船荷を押さえることにより利益を得るようになります。
また、それだけでなくまだ現地では通貨がないことを利用し、通貨の代わりに輸入したラム酒を使うことで巨利を得ました。

 イギリスは、刑期を終えた囚人や一般移民に土地を無償で供与し、自営の農民とすることを企図していましたが、その狙いは早くも崩れ、移民の間で経済的な格差が進みます。
フィリップ総督はこれを是正しようとしたために富裕層との間で確執が生まれ、その座から降ろされることになりました。

 イギリスが後にオーストラリアとなるこの地の植民地化を進めた理由には、日本が関係していることはご存知でしょうか。
イギリスは、当時まだ鎖国政策により国交を遮断していた日本との貿易を開く中継点としてこの地を利用しようという目論見があったのです。
しかし、どれだけ呼びかけようとも日本は鎖国政策を維持したため、貿易を開くことは結局できないまま、日本という販路に希望を見ていたイギリス商人はとても失望したことでしょう。

軍内部の「ラム反乱」!?

 1806年、新しく総督となったウィリアム・ブライは、軍の横暴を排除するために、軍にとっての重要な収入源であるラム酒の決済手段化を禁じたのました。
しかし、軍の実力者たちはこの命令に服従したりはしません。
元将校ジョン・マッカーサーらがブライに反発。
軍の兵たちもこれに同調します。
そして、「ラム反乱」が起こりました。
少佐ジョージ・ジョンストン率いる兵たちが総督府を襲撃したうえに、ブライを1年以上もの間幽閉したのです。
ちょっと破天荒すぎますよね。

 そして、副総督を自称するようになったジョンストンは、短期間ではありましたが植民地の実権を握りました。
しかし、その専横は長くは続きません。
植民地でのこういった事態を知ったイギリス本国は、ラクラン・マクォーリー新たに派遣し、ジョンストンを本国に送還して軍法会議に掛させたのです。
その後、ジョンストンは軍籍を剥奪され、植民地軍も本国に召還されます。
それ以後、マクォーリーは、正式な通貨の流通をすすめ、病院や道路、銀行などの生活インフラ建設を推進して、現地の生活環境を向上させていきました。

大陸の名付け親、フリンダーズ

 イギリスは、植民地化を更に進めるために、ジョージ・バスとマシュー・フリンダーズに調査を命じます。
彼らが1795年から実施した調査は、沿岸の地図の作成に貢献しました。
フリンダーズは、古代ギリシア人によってその存在を信じられていた「テラ・アウストラリス・インコグニータ」という名の道の大陸にちなんで、「オーストラリア」という名にしてはどうかとイギリス海軍に提案しました。

 そしてこのオーストラリアは流刑植民地としての性格を変えていきます。
タズマニアが1825年に分離したのをはじめとして、ヴィクトリア、クィーンズランドなどがそれぞれ独立の植民地となっていきました。
また、1868年には、全ての植民地が流刑制度を廃止しました。

ゴールドラッシュに沸くオーストラリア!

 1851年にエドワード・ハーグレイヴスが金鉱を発見しました。
これを聞き付けた人々がオーストラリアに大挙して押し寄せ、アメリカに次ぐゴールド・ラッシュが発生したのでした。
しかし、これには弊害もありました。
労働者たちが金鉱を掘り当てることに必死になり、働かなくなってしまったのです。
大量の労働者が流出してしまったメルボルンでは市としての機能が麻痺しかけてしまいます。
メルボロンは、対策として「メルボロン市の辺りで金塊を発掘したら賞金を与える」との通達を出したほどでした。
すると、本当にメルボロン周辺で金鉱が発見され、苦肉の策として出された市の通達は、逆に人々の採掘熱を高めるという結果になってしまったのです。

 まだ国家体制がしっかりしていなかったオーストラリアで発生したゴールド・ラッシュは、アメリカでのそれよりも遥かに大きい影響をもたらしました。
オーストラリアの人口は倍以上に膨れ上がり、そのなかでも中国人の発掘団の数は多く、欧米人らにその存在を脅威とみなされます。
これが後に、有色人種への排斥運動に発展していき、白豪主義へと繋がっていくのでした。

 この時、オーストラリアでは採掘者に重い採掘料を要求する規制を実施しており、これに反発した大勢の鉱夫たちが、ユーリーカ砦に籠城し、反乱を起こしました。
反乱事態は、約15分という短時間で鎮圧されましたが、その首謀者は許されたうえに、彼らの要求がほぼ全面的に認められることになりました。

 このユーリーカ砦の反乱は、オーストラリアにおいての労働運動の原点ともいわれています。
これ以後には、オーストラリアの各地で労働組合がつくられるようになり、労働者の権利意識を変えるきっかけとなりました。

オーストラリアが抱えた暗部、白豪主義

 オーストラリアでのゴールドラッシュによって、現地の経済は潤うことになりましたが、良いことばかりをもたらしたわけではありませんでした。
前述にて少し触れましたが、それは西欧人による人種差別的な思想につながっていくのです。
 

 オーストラリアでは、先住民であるアボリジニなど特定の民族への迫害や差別は、植民地支配の開始時点からありましたが、19世紀の後半からは、白人の優位を原理とする「白豪主義」が蔓延しました。

 その大きな要因となったのがゴールド・ラッシュです。
前述しましたが、オーストラリアに金脈を求めて渡ってきたのは西欧人だけでなく、中国人も相当な数が流入していました。
そして金の発掘をめぐって競争相手である白人採掘者との衝突が頻繁に起こったのです。
そういった白人の持つ反感は、中国人への移住を制限する規制となって表れていきます。
そして、その対象は金鉱を求めてきた中国人だけに留まらず、砂糖生産のために来たオセアニアの人々や真珠採取の労働力として渡って来た日本人などの他の有色人種にも波及していったのでした。

 有色人種の排除のための手段として使われたのが「ナタール方式」という語学試験です。
これは、試験官がヨーロッパの言語で文章を読み上げ、それを書き取らせるというものでした。
オーストラリアは、このナタール方式の試験を利用することで、移住希望者の属する言語圏によってふるいをかけたのです。

 こうした有色人種排除の動きと併せて、関連の法制の整備も進んでいきます。
植民地政府は1855年、移住してくる中国人に課税する移住制限の法を施行します。
こうした動きは、周辺の植民地にも影響し、例えばニュー・サウス・ウェールズでは、「有色人種制限及び取締法」というストレートなネーミングの法律が制定されました。
そして、法律だけでなく連邦憲法の条文にも堂々と人種差別的な法律が制定されることになります。
それが、連邦憲法の第51条です。
この条文のなかには、有色人種のみに規制を加える特別法の制定権利を連邦議会が持つことが明記されました。
この条文が思考されてからは、様々な人種差別的な法律の制定根拠として機能していきます。
このようにしてオーストラリアは、有色人種差別を法制化した世界で初めての国となりました。

 こういった白豪主義は、20世紀の半ばまで国全体の政治的思想として機能します。
20世紀になると日本が軍備の拡張を進めていたことを警戒し、その矛先を日本へと向けました。
しかし、宗主国のイギリスは日本と日英同盟によって同盟関係を結んだりしていたので、対日政策を軸としてイギリスとはよく対立していたのです。

オーストラリアからみた2つの世界戦争

 その後、時代は進み、人類初の世界戦争、第一次世界大戦が勃発します。
オーストラリアは、宗主国であるイギリスと共に連合国の一員として参戦しました。

 当時の首相アンドリュー・フィッシャーは、「最後の1人、最後の1シリングになるまで」という言葉を発し、戦争が開始してすぐに、オーストラリア海軍を派遣し、南太平洋にあるドイツの植民地を占領しました。
また中近東やヨーロッパには、義勇兵を派遣するなどして、各地を転戦しました。
この義勇兵部隊はオーストラリアとニュージーランドの合同部隊で、その両国の頭文字を取り、ANZACと呼ばれました。

 戦争が熾烈を極めるにつれて、死傷者が増加したため、義勇兵による戦争の遂行は困難になっていきました。
オーストラリアの法律では正規軍を海外派兵することを禁じていましたが、当時の与党であった労働党は、国民投票を実施して、海外派遣の是非を問います。
この一件で国内は意見が二分し、結局は僅差で否決されました。
この件のために労働党から不信任案を出されヒューズは、労働党を離れ、新たにナショナリスト党を結成し、再び国民投票を行いましたが、これも否決されます。
戦争が終結した時には、結局オーストラリアは、約40万人もの兵を義勇兵として派兵していました。
当時のオーストラリアは人口500万に満たないという規模でしたから、国民の実に10%近くもの兵が動員されています。
そのうち死者数は59,258人でした。

 戦争終結後、首相ヒューズが全権大使としてパリ講和会議に向かいます。
会議のなかでは、ドイツの植民地の帰属について日本と激しく争うことになります。
結局、赤道をから北側を日本が、南側をオーストラリアが確保するということで妥結を迎えました。
しかし、日本から提案があがった人種平等案については反対し、案の採用を阻止しました。
当時の白豪主義による差別意識がどれほど高かったのかがうかがえるエピソードです。

第二次世界大戦でのオーストラリア

そして、その後、世界は再び戦火に包まれました。
1939年9月1日、ついにドイツがポーランドに侵攻したのです。
当時の首相であったロバート・メンジーズは、第一次大戦の時と同様に、宗主国イギリスの参戦によってオーストラリアも戦争当事国になったと表明。
直ちに、中東・地中海の沿岸に、それに引き続き、北アフリカ地域に兵を派遣しました。

 1941年12月、パールハーバーの悲劇が起こります。
その当時の首相ジョン・カーティンは、日本に対し宣戦布告をしました。
日本軍は東南アジアを次々に侵略していきますが、そのなかでもシンガポールの陥落によって、オーストラリアは危機感を覚えます。
すぐそこまで日本が攻めてきていると、脅威を感じたオーストラリアは、中東に派遣していた兵を帰還させ、自国の防衛線に備えさせました。
当時、苦戦を強いられていたイギリスは、オーストラリアに支援を行うほどの余裕はなく、これに失望したオーストラリア国民は、アメリカを頼るといった論調の世論を形成します。
1942年にダグラス・マッカーサーがオーストラリアに赴き、最高司令官として戦争を指揮したということもあり、オーストラリアの外交の主軸がイギリスからアメリカに方向転換するきっかけとなりました。

 日本軍は、1942年の2月から7月にかけてオーストラリア大陸北部への爆撃を行いましす。
そして、5月には潜航艇によってシドニー港を攻撃しました。
しかし、ミッドウェイ海戦以後、日本軍は劣勢に陥り、そのまま本土上陸が行われることはありませんでした。

大戦終結!オーストラリアの戦後

 大戦後、連合国側のオーストラリアは日本に進駐します、日本で開かれた軍事裁判には自国から裁判長を送り込み反日論を展開させました。

 第2次世界大戦終結後、オーストラリアにとって次の脅威となったのが共産主義国。
その盟主となったのはイギリスではなく、世界一の大国へと成長していくアメリカでした。

 オーストラリアの経済面では、以前よりもイギリスなどの欧州を相手とした取引が減少し、日本やアメリカとの貿易を増やしていました。
これには国内に根強く残る反日感情から反対もありましたが、「日本の共産化を防ぐために豊かな経済環境を整える必要がある」と主張し、国内の反対を弱める工作をしました。
その後、今日に至るまで日本とは良好な経済関係を築いています。

冷戦時代のオーストラリア

 1965年、ヴェトナム戦争が開始されるとオーストラリアも自国の兵を派遣しました。
しかし、この戦争は凄惨を極め、死傷者がかなりの数に上り、国内から批判の声が上がります。
結局ヴェトナムからは完全撤退することになりました。

 その後、共産圏を警戒しながらも共産国との関係を良好に築いていきます。
東ドイツなど共産国との国交を正常化させ、関係を改善しました。
泥沼状態に陥ってしまったヴェトナムからの撤退が示すように米国の対共産圏戦略の批判もしましたが、アメリカとの関係を安全保障の主軸とする方針は維持し続けました。
この頃からのオーストラリアは、自国を小国でも大国でもない「ミドル・パワー」としての役割を果たすために独自の外交戦略を模索し始めます。

 国内の方では、先住民たちが長い間求め続けていた土地の所有権を承認しました。
また、政府は高福祉政策へ舵をきるようになります。
「メディバンク 」と呼ばれる新たな健康保険制度の整備や、学校授業料の無料化なども行いました。
しかし、この高福祉政策により歳出が大幅に増加し、国家財政を圧迫することになります。
この当時の石油危機の影響も加わって、インフレや失業率の上昇が起こり、連邦議会で野党は緊縮財政への方向転換を主張して、与党の予算案の審議を拒絶するようになりました。

 議会の混乱を国家の危機を感じた連邦総督のジョン・カー は、首相を解任し、代わりに自由党党首のフレイザーを暫定的な首相として任命します。
こうして予算法案は上院で可決されたものの、下院ではフレイザー首相の不信任が可決されてしまいました。
これを受け、カー総督は議会を解散させます。
名誉職に過ぎないと考えられていた連邦総督が法的な最高権力者としての力を行使したこの事件は、大きな論争に発展しましたが、首相は憲法に従いその職を退きました。



米ソの対立が緊迫するなかでのオーストラリア

 ソ連によるアフガニスタン侵攻を巡って米ソが激しく対立したために、この2つの大国は関係諸国を巻き込み「新冷戦」と呼ばれる緊張状態を迎えました。
この時、オーストラリアは、ソ連のインド洋進行に対抗すべく、自国の基地をアメリカ軍に使用させるなどし、反ソに同調する構えを見せて対米関係を強化します。
また、南アフリカ共和国でのアパルトヘイトを激しく非難し、ジンバブエの独立を支持するなど、イギリスが抱える問題に関して影響力を行使しました。
オーストラリアが関係を深めたのはアメリカだけでなく、周辺のアジア諸国との関係性をも重視しました。
例えば、ASEANからの要求を承諾し、ヴェトナム難民を大量に受け入れたことが示すようにアジア諸国との良好な関係の構築にも努めます。
そういった政策には、第三世界での主導者としての実力をアピールする狙いがあったといえます。

オーストラリアの現代

 2000年にはビッグイベント、シドニーオリンピックの開催地になりました。
シドニーオリンピックといえば、日本人からすると高橋尚子さんがマラソンで金メダルをとったことでも記憶に残っているかと思います。
このシドニーオリンピック以降、オーストラリアに来訪する観光客の数は増加していきました。

 そして2007年に、ついにオーストラリア政府はアボリジニなどの先住民に対する公式な謝罪を行います。
長い間虐げられてきたアボリジニでしたが、政府がこれを謝罪したことは歴史的な事件でした。
これを「オーストラリアのベルリンの壁崩壊」と報じたメディアもあるほどでした。
謝罪によって賛否はありましたが、現代に生きる力なき人々にとって励ましとなるような事件であったことは間違いありません。

 戦後間もない頃は、日本に対して否定的な政策をとったオーストラリアでしたが、現在では日豪はとても良好な関係を築いています。

魅力あふれるオーストラリア

以上、オーストラリアの歴史を概説的にご紹介していきましたが、いかがだったでしょうか。
その起源が流刑地であるために、どうしてもその歴史に対するイメージが暗いものになってしまいがちではありますが、オーストラリアは様々な問題を乗り越えてきました。
アメリカと同じく開拓地であったオーストラリアは、若くして先進国となった国独特のエネルギーに満ち溢れています。
そんなオーストラリアの魅力を是非肌で直接感じてみてください!それでは、ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました!