観光の前に知っておきたいバルセロナの歴史

アントニオ・ガウディの未完の傑作、サグラダ・ファミリアがあることでもよく知られるカタルーニャの州都、バルセロナ。1992年にオリンピック開催地として選ばれて以降、この地を一目見ようと観光に訪れる人は後を絶ちません。バルセロナといえばなんだろう?と人々に尋ねれば、その答えは人それぞれ。口々に異なる答えが返ってくるのです。サッカーがお好きな方なら「FCバルセロナのホーム!」、アートへの興味が深い方は「ダリ美術館やガウディ建築群がある街!」、グルメを愛する方は「なんといってもバルで食べるタパスが最高!」とバルセロナの様々な楽しみ方を知ることができるでしょう。そんな、人々を魅了して止まないバルセロナの歴史についてご紹介していきたいと思います。バルセロナへ訪れたいという方は、必見です。

バルセロナってどんな街?

バルセロナってどんな街?

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 歴史をご紹介する前に、バルセロナがどういった街なのか、基本的なところをおさらいしておきましょう。
バルセロナが地理的・文化的にどういった街なのかということを頭に入れておくことは、史実に対して想像を膨らませる材料を得られるという点でとても大切なことです。

 地中海を望む港町バルセロナは、スペインとフランスを隔てるピレネー山脈から、約160km南に位置するバルセロナ県の沿岸部に佇んでいます。

 そのバルセロナ市の人口は約160万人で面積は101.4㎢です。
これは兵庫の宝塚市や神奈川の横須賀市とほぼ同規模といえますので、日本の都市と比べても小さい方ですが、経済圏でとらえればこの3~4倍ほどの規模になります。
スペインのなかではマドリードに次ぐ都市です。

 バルセロナを大きく二つの地区に分けると、城塞をその起源とする旧市街と、グリッド線のように正方形で整然と区切られた新市街によって構成されています。
日本の東京と同じく、都心部をぐるりと取り囲むかのように周辺地に人口が流れている、ドーナツ化現象を抱える都市です。

 バルセロナは、地中海性の気候を持った都市。
暖かくで湿いのある冬、乾燥する夏が特徴だといえます。
イベリア半島の東岸に位置する都市バルセロナには、大西洋からの西風が、低い湿度を保ったままの状態で到達しますが、これは、緯度、大西洋への近さ、地形が、バルセロナの夏が乾燥しないことの理由となっているのです。
雪が降ることはあまりありませんから、海から遠く離れた丘や都市の奥では、わずかに霜が降りるだけというのが一般的といわれています。

まだまだ謎多きバルセロナの起源

まだまだ謎多きバルセロナの起源

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 バルセロナの起源については、様々な民族間の争いが入り乱れていたこともあってあまり明確には分かっていません。
しかし、伝説によれば、紀元前200年頃にハミルカル・バルカ将軍率いるカルタゴ人によって開かれたバルチーノが最古の都市だと言われています。
ハミルカル将軍といえば、あの勇猛果敢なハンニバル将軍の父親になります。
ちなみに、バルセロナが誇るフットボールチーム、FCバルセロナの愛称「バルサ(Barça)」は、ハミルカル将軍の姓である「バルカ(Barca)」にちなんだそうです。

 このカルタゴ人の支配の後、紀元前20年頃になるとこの地にローマ人が進出し、新たに植民都市パルキノを築きます。
バルセロナ誕生の直接の起源は、このパルキノだという説が最も有力です。
この当時の遺跡は、バルセロナ市歴史博物館で展示されており、直接目に触れることができます。

 

戦い止まぬバルセロナ

 4世紀になるとローマ人は、パルキノの町をローマ軍の宿営地に作り替えるための工事を行いました。
旧市街の地図の中や、未だに残るローマ時代の城壁の破片にその当時の名残りを見ることができます。
パルキノの地は、二本の清流に挟まれた子高い丘だったそうです。
丘の頂上には十字架が置かれ、そして広場がつくられ、ローマ人はそこを都市の中心としました。
そして、その脇にアウグストゥス神殿を建立したのです。

 5世紀(415年)に、このパルキノは、フランク王国との戦いに敗れ、パルキノ含むイベリア半島へ逃げ込んできた西ゴート王国によって支配されます。
当時の近代都市として優れていたパルキノは、短い間でしたが西ゴート王国の首都とされたこともありました。

 そして、8世紀(711年)になると、今度は西ゴート王国が、イスラム勢力のウマイヤ朝によって脅威にさらされます。
西ゴート王国は、その猛攻によって国王のロドリゴを失い、大打撃を受けました。
ウマイヤ朝はこれに乗じ、その勢力を更にキリスト教圏へ延ばしていきます。
これが、いわゆる「レコンキスタ」の幕開けです。

700年に及ぶレコンキスタ

700年に及ぶレコンキスタ

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 バルセロナを大きな戦火の中に置くことになるこの「レコンキスタ」は、バルセロナについて語る上では欠かすことができません。
レコンキスタとは、718年から1492年まで700年以上に渡って行われた、キリスト教国のイベリア半島を取り戻すための活動を総称した呼び名です。
レコンキスタを日本語訳にすると「再征服」とでもなるでしょうか。
ウマイヤ朝のムスリムによってその国土を奪われたことが、このレコンキスタが起こる原因となります。

 ウマイヤ朝は、イベリア半島を統治するにあたっては、征服された人々に対して改宗を強制するようなことはせず、ユダヤ教やキリスト教を信仰しても構わないという態度をとったのです。
しかし、それは「”ジズヤ”を納めるのならば」という限定付きの信仰の自由でした。
ジズヤとは、日本語的な表現でいうところの人頭税のことです。

 ウマイヤ朝によって設定されたジズヤは高額なものでした。
これを乱暴な表現で言ってしまえば、お金持ちには信仰の自由を与えるが貧乏人には与えないという意味に捉えることもできるでしょう。
ジズヤを払うことができない人々の選択肢は3つありました。
イスラム教徒になるか、国外逃亡か、あるいは反乱を起こすかです。

ペラヨ、レコンキスタの灯火を点じる

 718年、西ゴート王の孫であると自称するペラヨが、イベリア半島の北にあるアストゥリアス地方にてキリスト教徒たちを率いて蜂起し、アストゥリアス王国を新たに築きました。
歴史学者の多くは、レコンキスタの開始を、ペラヨが蜂起したこの年に置いています。

 722年(もしくは718年)になると、コバドンガの戦いにおいてペラヨはムスリムを相手に勝利します。
この戦いでの勝利は決して大規模なものではありませんでしたが、ほとんど負けなし状態であったイスラム勢力に対して初めての勝利を手にしたことはとても重要な意味を持つことでした。
これ以降、アストゥリアスはレコンキスタのため拠点となっていきます。

 時を同じくして、カンタブリアのペドロ公がイスラム勢力を相手取って蜂起していました。
ペラヨとペドロは両国で連携していくことを決めます。
また両国のつながりは、ペドロ公の息子のアルフォンソ1世とペラヨの娘との結婚によって、血によっても結び付けられました。
それから間もなく両国は統合されます。
こうして確固たる地盤を築いたアストゥリアス王国は、少しずつ南への反攻を開始したのでした。

バルセロナの独立

 イベリア半島を席巻したウマイヤ朝でしたが、750年になると内乱により、同じムスリムであるファッサードにより滅ぼされます。
ウマイヤ朝亡き後、バルセロナの地にやって来たのは、カール大帝率いるフランク王国軍でした。
そしてフランク王国のスペイン辺境領に組み入れられることになります。

 10世紀になると、滅ぼされたはずのウマイヤ朝が現れ、再びバルセロナを占領します。
ウマイヤ朝はファッサードに一度は滅ぼされながらも、ウマイヤ家の王族、アサドは自らの装束を売るなどして必要な闘争資金を得、命からがらアフリカ南西部に逃げ込んだのでした。
そしてそのアフリカの地でウマイヤ朝再興のための足固めをします。
そして、遂には756年、コルドバに後ウマイヤ朝を復活させ、かつての領地であったバルセロナを含むイベリア半島を再び占領したのでした。

 しかし、バルセロナは、フランク王国からの援助を受けずにこの後ウマイヤ朝を追いやります。
このことによって、バルセロナはフランク王国から独立し、カタルーニャ君主国を建国しました。

レオン王国建国、そしてアブド3世

レオン王国建国、そしてアブド3世

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 頻繁にキリスト教勢力からの侵攻を受け、9世紀の半ば頃から、後ウマイヤ朝の体制は揺らぎ始めていました。
各地の司令官や王侯が勝手に独立をたくらみ、そこにキリスト教徒の反乱が相まって、それを鎮めるのに精力を傾けなければならなかったのです。
最も大きな反乱はトレドで起こったもので、それを静めるのには20年以上もの時間がかかりました。

 アストゥリアス王国は、この混乱に付け込んでいきます。
そして、徐々にその勢力を拡張していき、10世紀の初頭になる頃には、ドゥエロ川より北の大地をその支配下におさめることになるのです。
アストゥリアス王国は、914年のガルシア1世の代に新たにレオンへ首都を移し、レオン王国へ改名しました。

 そして、イスラム勢力の様子も見てみましょう。
こちらは、912年にアブド3世が即位すると、後ウマイヤ朝の統治能力はだんだんと回復し始めます。
アブド3世は、ウマイヤ朝内部の反抗的勢力やキリスト教勢力の頭を抑えて国内の安定を図りつつ、同時に内政にもその優れた能力を発揮していたのだというから驚きですね。
優秀な彼の統治下で、アル・アンダルスの経済は一気に発展しました。
ですが、あくまで後ウマイヤ朝のピークはこの時期とされています。

 この頃には、北アフリカの方ではファーティマ朝が興りました。
そして、その指導者は、アラビア語で指導者を指す「カリフ」を自称します。
それを意識してのことでしょう、アブド3世は、それまでのアミールという呼び名から、「コルドバのカリフ」という名称を使うようになります。
そしてアブド3世は、ジブラルタルを越えてモロッコへ軍を差し向け、ファーティマ朝との戦い始めました。

  932年になると、アブド3世は、今度はキリスト教勢力を倒すため、自らが軍を率いて北へ目指しましす。
後ウマイヤ軍は北の都市を次々と攻撃し、ついには重要な都市であるサラゴサを攻略しました。
キリスト教勢力とムスリムの反乱勢力は、この緊急事態にそれぞれ強く団結したのです。
939年、シマンカスの戦いでキリスト教勢力に軍配が挙げられました。
そしてアブド3世は拠点であったコルドバまで敗退を喫するのです。

それ以降は、アブド3世は主に北アフリカに関心を向けるようになります。
後ウマイヤ朝は、一時はモロッコの過半を制圧するほどその勢力をのばしますが、だんだんファーティマ朝が力を取り戻し、963年になると、アブド3世はセウタをという国を持つすのみとなりました。
敗退した後ウマイヤ朝は、再度イベリア半島にその視線を戻すことになります。

カスティーリャ伯領とマンスール

カスティーリャ伯領とマンスール

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 レオン王国の東の地域は、「城」の意であるカスティーリャの名で呼ばれていました。
後ウマイヤ朝の北上に防ぐため、レオン王国は、この東部地域を統合して、司令官としての役割を与えたうえで、フェルナン・ゴンサレスをカスティーリャ伯としました。
しかし、カスティーリャは将来的には独立し、ゆくゆくはレオン王国の玉座を奪おうとするようになります。
951年になると、フェルナン・ゴンサレスはレオンの王座を要求するようになります。
これによってカスティーリャとレオン王国の間に深い溝が生まれました。

 その結果、958年、レオン王であるサンチョ1世は、カスティーリャ軍によって国を追われることになりました。
サンチョ1世は、なんとムスリムである、後ウマイヤ朝に通じます。
そして、こんな取引を持ち掛けるのです。
「私が王位へと復帰した後には、臣従と領土を譲り渡そう。
その代わり今援軍を頼めないか。」この取引によってサンチョ1世は援軍を引き出すことに成功します。

 ウマイヤ朝の援軍によって、960年、レオンの玉座にサンチョ1世は復帰します。
しかし、あろうことかサンチョ1世は、後ウマイヤ朝との約束を全て無視するのです。
北アフリカの方の戦線が硬直状態にあった後ウマイヤ朝は、これをきっかけに攻めの最優先順位をイベリアに切り替えました」。
おれに対し、キリスト教勢力は再び連合を結び、シマンカスの戦いを再現しようとします。
しかし、今回の後ウマイヤ軍は戦力を集中させていました。
キリスト教勢力の連合軍は大敗を喫し、バルセロナやパンプローナまで危機にさらされることとなります。

 976年になると後ウマイヤ朝でヒシャーム2世が即位しました。
彼は幼年だったので、大臣のムハンマドがその後見を務めます。
すると彼に嫉妬したガーリブが謀反を起こし、今度はムスリムの方からキリスト教徒へ連携を呼びかけました。
その相手は、カスティーリャです。
ムハンマドは、直ちに討伐軍を差し向け、ガーリブを破り、その矛先をカスティーリャに向けました。
キリスト教勢力はまた連合によって防ごうとしましたが、ムハンマドのクレバーな策略にハマってしまい、まるで抗することができませんでした。
このムハンマドの侵攻はイベリア半島全土にわたり、バルセロナ、パンプローナ、ポルトといった都市までも侵攻が進められました。
これによってキリスト教勢力は完全に敗北を喫し、次々に後ウマイヤ朝に服従を誓います。
サンチョ2世などはムハンマドに娘を献上したほどです。

レコンキスタの最後

レコンキスタの最後

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 12世紀になるとバルセロナは、アラゴン連合に含まれる一国として、その力を拡大していきます。
この時、バルセロナは囲壁を新しく普請し、活気のある港町へと変わっていきます。
しかし、そんなバルセロナも15世紀に入ると衰退の一途を辿っていきます。
その理由は、カタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国とが統一されたためでした。
これによって政治や経済の中心は、バルセロナからマドリードへと移り変わり、バルセロナの重要性が大きく減じられたのです。
バルセロナにカタルーニャ語を話せる人が多いのは、このような歴史的状況が影響していたのでしょう。

 そして、レコンキスタの顛末ですが、最終的にはキリスト教国にその軍配が上がりました。
ムスリムはグルジアに追い詰められたうえに、国内で大きな内乱が勃発していたのです。
キリスト教国はそこに漬け込み、一気に後ウマイヤ朝を叩くことに成功します。
そうして700年もの永い間続いたレコンキスタはようやく決着を見せました。

スペイン承継戦争以後、閉塞されるバルセロナ

スペイン承継戦争以後、閉塞されるバルセロナ

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 バルセロナは何度か荒廃や閉塞の憂き目に会います、1640年のカタルーニャ共和国以後になると、その都市としての重要性を失い、整備がされないまま放置され、荒廃してしまいました。

 また、1701年から1714年のスペイン継承戦争の間には、このバルセロナの地で3度の包囲戦が行われており、この時期に受けた傷もバルセロナの荒廃を加速しました。
スペイン承継戦争といえば、スペインの王座を巡って対立することで有名な戦争ですが、この戦争は、バルセロナの町の人々に大きな犠牲を強いりました。

 ピーターバラ伯のチャールズ・モードントは、第1次バルセロナ包囲戦でバルセロナを占拠します。
、カタルーニャの方はカール大公が、バレンシアの方はピーターバラが駐屯するということに決まりました。
ポルトガルとのの国境付近では、ベリックが優勢に軍を進めていましたが、ジブラルタルの奪回を主張していたフェリペ5世とルイ14世の方針を、なんと無視したために1704年にフランスへ連れ帰されてしまいます。
そしてその代わりに、テッセがスペイン方面の軍司令官に就任しました。

 そして、同盟軍は、第2次バルセロナ包囲戦では防御戦を戦うことになります。
同盟軍はスペイン軍からの激しい攻撃に耐えるどころか、逆に進軍しマドリードを落としました。
しかし、すぐにフェリペ5世に取り返されたため、1713年にユトレヒト条約を締結せざるを得ない状況になります。
バルセロナが落ちた後は、カタルーニャの同盟軍も退却してしまったため、バルセロナは孤立してしまいました。
しかし、それにも関わらず、バルセロナ市民たちはフェリペの兵へ抵抗し続けたそうです。

 こうして、バルセロナ側の敗北が決まり、バルセロナは降伏の態度を示します。
これでカタルーニャはフェリペによって平定されることとなりました。
フェリペ5世は、カタルーニャの自治権をはく奪し、カタルーニャ語を使うことを禁止させ、その他にも大学の廃止などによって、バルセロナ含むカタルーニャは閉塞を強いられていきます。

バルセロナの大拡張工事

 19世紀に起こった産業革命は、スペインにもその恩恵をもたらしました。
バルセロナには、数多くの新しい産業や機械が導入され、それにより労働者も国内へ流入してきたため、人口が急激に増加しました。
しかし、同時のバルセロナの市域は大昔に作られた市壁の内側だったので、急激に人口が増えてしまうと、その不衛生さから病気が蔓延しかねないと危惧を持たれます。

 そこで、その解決のために市域の大拡張工事が計画されたのです。
拡張計画は一般から募集され、コンペティションによってイルデフォンソ・セルダという設計士の立案した工事計画が採用されました。
この計画のもとで、中世の城壁は崩され、城塞は都市公園に転用されたりと歴史的・文化的に重要なものが損なわれていきました。
しかし、こういった整備計画によってバルセロナの復活が明確になり、1930年代には人口100万人を超えるような大都市に成長していました。
しかし、あまりにも突然の人口の急増に、住宅や公共施設、交通などの対策・施策が追い付いつけていなかったようです。

スペインに暗い影を落としたスペイン内戦

 1931年スペイン革命が勃発します。
王制を否定し、共和制を取り入れるために起きたこの革命は、まさに新時代の幕開けを予感させるものでした。

 しかし、時は1936年になると、軍事クーデターをきっかけにしてスペイン内戦が起こります。
スペイン内戦の間(1936年 から1939年にかけて)、バルセロナは、共和国政府の側につき、無政府主義運動者の人たちの拠点となりました。
しかし、それも1939年にフランコ率いる軍勢に侵略を受けてしまうことになります。
その後は数十年間もの長い間、恐怖政治と抑圧が続く暗い時代が訪れます。
独裁者フランコ政権の時代にも、スペイン承継戦争の際と同じようにカタルーニャ語の使用が弾圧されることとなりました。

 1970年代になると、反政府運動が始まり、政府の動きを民衆が牽制するという流れが起こされました。
そして極め付けは、独裁者フランコの死です。
フランコの死をきっかけとして、バルセロナは文化的活動の中心としてその特色を放つことになり、それが今日のバルセロナのように繁栄する都市となったことへ繋がったのでした。

バルセロナが熱く燃えた!バルセロナオリンピック

バルセロナが熱く燃えた!バルセロナオリンピック

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 1992年7月25日から8月9日にかけての期間において、ついに待ちに待ったバルセロナオリンピックが開催されました。
このバルセロナオリンピックは、冷戦の終結後初の夏季オリンピックとなります。
バルセロナが開催地に決定されたのは、1986年の国際オリンピック委員会(IOC)総会でのこと。
サマランチIOC会長の出身地であるスペインカタルーニャ自治州バルセロナでのオリンピック開催が実現のもとなった瞬間です。

 バルセロナは、かつての1936年のオリンピック開催予定地の選考で、ベルリンに得票差で敗れてしまった苦い経験があります。
その後、これを不服としたスペインがベルリンオリンピックをボイコットし、ベルリンオリンピックに対抗するかのような形で同じ時期に人民オリンピックを計画したのです。
しかし、スペイン内戦の勃発によって、それさえも叶いませんでした。
以上のような経緯を踏まえてのバルセロナ開催決定です。
そしてこのオリンピックでは、1936年の当時に作られたスタジアムがそのまま使用されました。

 オリンピック開催によって、バルセロナが持つ魅力は世界中の知るところとなります。
オリンピックによって観光客の増加の効果は確かにあったようで、オリンピック開催は間違いなくバルセロナに素晴らしい恩恵をもたらしました。

 そしてこのバルセロナオリンピックは日本人にとっても親しみやすい要素がいくつかあります。
それというのも、オリンピック体育館を日本人建築家の磯崎新が設計したほか、開会式でのマスゲームの音楽は坂本龍一が作曲したことに加え、閉会式で実際にオーケストラを指揮するといった、協議以外の場面で日本人の活躍が見れたということも日本人としては興味深い大会となりました。

 また、このバルセロナオリンピックから、アマチュアに限らずプロの出場も全面解禁されました。
このことによって、各競技の水準が劇的に上がったそうです。

バルセロナを愛した芸術家、アントニオ・ガウディ

バルセロナを愛した芸術家、アントニオ・ガウディ

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 ここからは、歴史を少し離れ、バルセロナが世界に誇る芸術家たちについてご紹介していきたいと思います。
まずは、サグラダ・ファミリアやカサ・ミラでよく知られるアントニオ・ガウディについて。
バルセロナの中には、たくさんのガウディ作品が存在しています。
独特の形状と鮮やかな色彩は、見る人に強い印象を与えます。

 ガウディは、バルセロナで建築を学び、バルセロナでその作品を築き続けました。
パトロンであった繊維会社の社長エウセビオ・グエルから支援を受けながら、作品作りに没頭していきます。
そんな彼の人生最後をかけたとてつもない未完の大傑作といえば、誰もがサグラダ・ファミリアと答えることでしょう。

 彼は精神のすべてをこの作品に傾けましたが、制作過程とは別のところでなかなかうまくいきません。
親族や大事な友人の死が相次ぎ、これにより仕事に手がつかなくなってしまうことが多くなってしまったのです。
また問題はそれだけではありませんでした。
バルセロナ市が財政危機に陥ったため当初の予算は凍結、そしてそれに加えて、パトロンのエウゼビ・グエイがなくなってしまいました。

 しかし、この頃の不幸な体験の数々がガウディに変化を与えたと言われています。
彼は創作以外のことに時間を取られることを嫌うようになり、サグラダ・ファミリアの制作にこれ以上高められないほどの集中力を消費するようになったのです。

 

バルセロナを愛した芸術家、サルバトール・ダリ

バルセロナを愛した芸術家、サルバトール・ダリ

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 次にご紹介する、バルセロナにゆかりのある芸術家は、シュルレアリスムな作品とダリ自身のエキセントリックなキャラクターでとても有名です。
バルセロナにはそんなダリの独創的な美術館があります。

 ダリは、ピカソのキュビズムや印象派の画家らの影響も学生時代には受けましたが、シュルレアリスムと出会ってからは、ひたすらそれを貫いています。
ダリが持つエピソードは推挙にいとまがありません。
そのほんのちょっとをこちらでご紹介してみましょう。

 ・1936年にダリが描いた「内乱の予感」がスペイン内戦を予言していたのだと自画自賛している。

 ・講演で潜水服姿で現れるも、酸素上手く供給されず死にかけたことがある。

 ・象に乗って凱旋門まで歩かせたり、「リーゼントヘア」といいながらフランスパンを頭に乗せる。

 ・報道陣の前に喜んで登場するなど、取材陣に多くのネタを提供。

 単に自己顕示欲を満たしたいがためとも思えるこういった行為は、同業者である他の画家達からうとまれることもあったようです。
また、ピカソたちからも大きな反感を浴びせられていたフランシスコ・フランコを堂々と支持するなど、政治的な奇行もあった。

 最近では、ダリの絵だけでなく、彼自身の肖像写真も人気であるようです。
それだけ見た目のインパクトが強いということでしょう。

 このようなことを知ると、ダリは生まれついての奇人というイメージがどうしても強くなってしまいがちですが、実際には、彼は根っからの奇人だったというわけではなかったようです。
心から親しい友人と接している時は、とても繊細で気の細やかな常識的な人だったといわれています。
おそらくですが、彼の奇行の数々も絵や彫刻と同じように彼の芸術のひとつであったのかもしれません。

芸術、歴史、風景、なにもかもが素晴らしい街バルセロナ

 以上、バルセロナの歴史や魅力、そしてバルセロナにゆかりのある芸術家たちを紹介していきました。
冒頭でも述べたように、バルセロナがどういう街であるかという問いに対する答えは人それぞれ極端に違ったりします。
違った答えが返ってくるたびに、バルセロナが持つ多様性、バルセロナが持つ様々な表情に驚かされます。

 バルセロナに行かれる時は、ご自分なりの楽しみ方で、「バルセロナはどんな街なのか?」その答えを見つけてられたらいいですね。
ステキな街バルセロナを味わっていただきたいと思います。
それでは、最後にここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

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