かつては地中海最強だった!?美しき水の都・ヴェネツィアの歴史

誰もが一度は耳にしたことがあるはずの都市・ヴェネツィア。英語名はヴェニスと言います。ゴンドラが街の中を行き交う、「水の都」というイメージがある方も多いと思います。ロマンチックで美しい街ですよね。そんなヴェネツィアですが、なぜ水の都となったのでしょうか。それには、ヴェネツィアが歩んできた長い歴史が関係しているんですよ。では、これからヴェネツィアが飛ぶ鳥を落とす勢いを誇った時期を含めて、ご紹介したいと思います。

ヴェネツィアってどんな都市?

ヴェネツィアってどんな都市?

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ヴェネツィアはイタリアの北東に位置する一都市です。
イタリアというと、長靴のような形をしていますよね。
その長靴の履き口部分、半島の付け根付近にある港町がヴェネツィアです。
アドリア海に面し、向こう側にはクロアチアやアルバニアなど東欧への入口となる国々があるバルカン半島があります。

中世(500~1500年ごろ)はヴェネツィア共和国の首都となり、一国として地中海でも大きな存在でした。
その栄え方と、運河が街中に走っている独特の景観の美しさから「アドリア海の女王」、「アドリア海の真珠」と呼ばれました。
よく、「○○のヴェネツィア(ヴェニス)」という呼び方をされる都市がありますよね。
それらはすべて、ヴェネツィアの美しさにあやかったものなんです。

さて、ヴェネツィアの最大の特徴と言えば、運河ではないでしょうか。
実際、街の道路はすべて水路で、自動車や自転車は走れません。
そのため、水上バスや水上タクシー、フェリーなどでみんなが移動します。
ゴンドラは観光目的となっていますが、水路をゆっくりと行く姿は風情がありますよね。

なぜ運河の街となったのかというと、ヴェネツィアがヴェネタ潟という湿地帯の上にできたからなのです。
6,000~7,000年前に氷河が解けて海になり、そこに土砂が溜まってできあがったそうですよ。
そこを人々が干拓して住めるようにして、ヴェネツィアの原型ができ上がったのです。

現在のヴェネツィアは、そのようなヴェネタ潟の上にある街が中心ではありますが、もちろんイタリア本土側にも都市があります。

ヴェネツィアの昔々からヴェネツィア共和国誕生まで

ヴェネツィアの昔々からヴェネツィア共和国誕生まで

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ヴェネツィアという名前の語源は、「ウェネティ人の土地」というラテン語だそうです。

伝説ではありますが、ヴェネツィアの成り立ちをご紹介しましょう。

5世紀頃にヨーロッパ北部からゲルマン人が矢って来て侵略を始めました。
それから逃げるため、北イタリア付近の住民はヴェネツィアが後にできる湿地帯へやって来たのです。
湿地なら敵は入って来られないということで選んだのですが、自分たちが住むために干拓をすすめたのでした。
これが452年のことで、ここからヴェネツィアの歴史が始まったのです。

人々は自分たちで政府をつくり、自治を行っていました。
当時最強だったローマ帝国はすでに東西に分裂しており、ヴェネツィアは東ローマ帝国の支配下ではありましたが、その東ローマ帝国の力は弱まってきていてあてになりません。
しかもそれにつけこんで他の民族が侵入してくるようになってきました。

そこでヴェネツィアの人々は自分たちで何とかしなくてはと考えます。
7世紀末には総督を選び、共和制の形を整えて、ここから1797年まで約1,000年続くヴェネツィア共和国が誕生したのでした。
この長さは共和国として史上最長です。
ルイ14世などがいたあのフランス王政の時代ですが800年ですから、1,000年も同じ統治体制が続くというのは、すごいことなんですよ。

ヴェネツィアのスゴイところ、教えます

史上最長の共和国だったヴェネツィアがすごいということは言うまでもありませんが、その他にもヴェネツィアがとても先進的ですごかったところがあるんです。

まず、信教の自由と法の支配が徹底されていたこと。
昔は王の血縁ならたいてい無罪放免になってしまうものでしたが、ヴェネツィアでは、罪を犯したものはちゃんと罰を受けることになっていました。
現在の法治システムの原型が、すでにこの国では機能していたのです。

そしてもうひとつは、北イタリアの一都市国家にすぎない存在でありながら、香辛料などの貿易によって世界中の商売を牛耳った時期があるということですね。

ここからは、ヴェネツィア共和国としてのヴェネツィアの歴史について見ていきましょう。

敵が多いからこそ一致団結!共和国初期

敵が多いからこそ一致団結!共和国初期

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ヴェネツィア共和国となって最初の1世紀ほどは、国内をまとめあげる時間でした。

しかし、周りの国々はそんなことはお構いなしにと攻め込んできます。
特に、ヨーロッパへ侵攻してきたイスラム勢力や、ハンガリー付近にいたマジャール人などは脅威でした。
そのため、ヴェネツィアの人々は結束して国を守らなくてはという意識に目覚めたのです。

9世紀になると、人々は元々住んでいた島から現在のヴェネツィアがあるヴェネツィア島に大移動しました。
この理由もまた外敵の脅威で、当時の西ヨーロッパをほぼ手にしていたフランク王国が攻撃を加えてきたのでした。
しかし、移住を余儀なくされたとはいっても、ヴェネツィアは当時最強に近かったフランク王国に対し抵抗を続け、結果として独立を保ったのです。
人々の結束力の強さと、ヴェネツィアの国としての底力を見せつけた瞬間でした。

アドリア海への進出と自国アピール

アドリア海への進出と自国アピール

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群雄割拠とも言える当時のヨーロッパ・地中海世界では、自国の存在を示すことが何よりも重要でした。
フランク王国に抵抗したヴェネツィアも、より自分たちの存在を強くアピールするために、ある手段を取りました。

それが、「守護聖人」の選定です。

守護聖人って?

キリスト教由来の人物、例えば「聖○○」などと言ういわゆる「聖人」を、自分たちの国の守護聖人として選び、自分たちがその聖人に守られているというアピールは、キリスト教が大きなウエイトを占める当時のヨーロッパにあってはとても重要なことでした。

もちろんヴェネツィアも守護聖人を求めます。

そこで選んだのが、「聖マルコ」でした。

聖マルコとは、新約聖書の「マルコによる福音書」を記した人物とされています。
そして、彼の遺骸がエジプトのアレクサンドリアに埋葬されているという話を聞きつけたヴェネツィアは、イスラム教徒の勢力にやがてそこが荒らされ奪われてしまうと考え、それならば、と自分たちが赴いてその遺骸を持ち帰ったのでした。
それが828年のことです。

軍事と国力を強めていくヴェネツィア

聖マルコを自分たちの守護聖人とすると、国家としての自信をつけたヴェネツィアは軍事面の強化へと進み始めました。
中欧や東欧のスラヴ人やイスラム勢力を駆逐し、アドリア海の制海権を手にしたのです。

そして991年、弱体化を続ける東ローマ帝国からは免税の特権を得ることに成功しました。
この特権は、帝国内の商人ですら持っていなかった、「超プレミアム」な特権だったのです。
ヴェネツィアが帝国すら脅かすような力をつけていたことの証明ですよね。

11世紀初めには、現在のクロアチアのアドリア海沿岸一帯であるダルマチアを征圧し、アドリア海を完全に自分たちのものにしました。
ここから、ヴェネツィアの全盛時代が幕を開けることになります。

アドリア海を手にするということは、巨大なフランク王国と東ローマ帝国の間で、小国ヴェネツィアが生き延びる唯一の手段でした。
それをよくわかっていたからこそ、ヴェネツィアはアドリア海をものにすることに全力を注いだのです。

1,000年余りの歴史を持つ「海との結婚」

1,000年余りの歴史を持つ「海との結婚」

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ちょうどこの頃、ヴェネツィアでは変わった儀式が行われるようになりました。
1000年頃のことと言われています。

儀式の名前は「海との結婚」。
何だか想像力をかき立てられませんか?

海との結婚の儀式は、復活祭と同じ時期に行われます。
復活祭とはキリストが死後3日目に復活したことを記念した日のことです。

その日になると、ヴェネツィア総督がブチェンタウロという豪華で巨大な黄金の船に乗り込み、多くの船を引き連れて海へ出ます。
そして海に指輪を投げて、海との結婚の儀式がとり行われるんですよ。
これは今でも続いています。

「海との結婚」の背景

1000年頃始まった海との結婚の儀式は、やがてキリスト教色を強めていきました。

当時、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の仲は険悪でした。
というのも、神聖ローマ皇帝は当時の教皇・アレクサンデル3世を認めず、対立教皇を独自に立てていたためです。

そんな両者の争いの中、ヴェネツィアは神聖ローマ帝国と争い、やがて教皇と帝国を和解させたのでした。
そのため、教皇はヴェネツィアに深く感謝し、自分の指輪をヴェネツィア総督に贈り、毎年指輪を海に投げ入れるようにと命じたのです。

これ以降、毎年海との結婚の儀式が行われるようになりました。

海へ指輪を投じる時、必ず唱える言葉があります。

「我々は汝、海と結婚する」というフレーズで、海とヴェネツィアの強い結びつきを感じさせるものになっています。

貿易国トップへのカギは香辛料!

貿易国トップへのカギは香辛料!

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中世に東ローマ帝国内での免税特権をゲットしたヴェネツィアは、やがてアジアとの貿易に目を向けるようになりました。
その重要なルートとなったのが、シルクロードです。
ローマから中国まで、ユーラシア大陸を横断する貿易ルートは東西の文化の交流にも大きな役割を果たしました。

また、海路を利用した香辛料貿易の仲介にも乗り出します。

香辛料貿易というと、ここから少し先の時代になる大航海時代に盛んになったようなイメージがあるかもしれませんが、すでにヴェネツィアが取り組んでいたんですよ。

香辛料、特にコショウやシナモン、ナツメグなどは気候の良い東南アジアが原産で、手に入りにくいものでした。
そのため、コショウなどは貨幣の代わりに使われるほど高価なものだったそうです。

そんな香辛料がどうやってヨーロッパに運ばれてきたかご説明しましょう。

まずはイスラム教徒の商人たちが手に入れて紅海経由で地中海沿岸へ持ってきたのです。
紅海はアラビア半島とアフリカ大陸の間にある湾で、後にスエズ運河が造られたところですね。

そして、イスラムの商人が持ち込んだ香辛料は、トルコやシリア、エジプト付近にやって来ていたヴェネツィア商人に買い取られ、ヨーロッパへと運ばれたのでした。
これをレバント貿易と言い、ヴェネツィアが国力を付けた最大の要因です。

香辛料が大人気となった背景には、当時のヨーロッパの食文化の影響もありました。
肉食文化が高まってきて、肉の味付けや長期保存の方法として香辛料が王や貴族に重宝されたのです。
彼らは金に糸目を付けず、結果として香辛料は高額で取引されるようになりました。

ヴェネツィアの躍進を生んだもうひとつのきっかけ:十字軍

香辛料貿易で莫大な利益をあげたヴェネツィアですが、ここにもうひとつ、彼らの躍進のきっかけがあります。
それが十字軍でした。

十字軍とは、イスラム勢力の支配下にあったキリスト教の聖地・エルサレムを奪還しようとする運動です。
キリスト教国の指導者たちの呼びかけや、一般の人々の宗教への意識の高まりが、十字軍を始めるきっかけでした。

第1回十字軍は11世紀末に行われ、イスラム勢力を破った人々は十字軍国家なる小国家を現地につくりました。
しかしヴェネツィアは、当時の貿易相手でもあったイスラム王朝をはばかり、最初は十字軍に参加しなかったのです。

ただ、やがて方針を転換し、十字軍支援に回ります。
こういうところはさすが商売で身を立てた国家と言えるでしょう。
また、強国の間で生き延びるための最善の策である、大勢力に本気でたてつかないことを忠実に実行したのです。

そしてヴェネツィアはパレスチナにできた十字軍国家のひとつ・エルサレム王国での名目自治権を得ました。
今までに得ていた免税特権などを合わせると、これでヴェネツィアは地中海東部の貿易を独占する道筋をつけたというわけです。

はじめは十字軍に消極的だったヴェネツィアですが、一度協力を始めるとそれを利用して自治権まで得てしまいました。
抜け目ないというか、切れ者というか、やはり長く続く国というのはこうでないといけなかったのですね。

ついに海外進出、最強海軍国家へ!

ついに海外進出、最強海軍国家へ!

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12世紀になると、ヴェネツィアはさらなる貿易事業の拡大をもくろみます。

まず行ったのが、国立造船所「アルセナーレ」の建設でした。
ここにヴェネツィアは国力を注入し、戦闘と商いの両方に仕える船を開発したのです。
当時は1日に1隻を造ってしまうほどだったそうですよ。
すさまじい勢いで造船していたことがわかります。

これによってヴェネツィアの海軍は強力なものとなり、地中海を手にしようとする勢いがはっきりとしてきました。

また、貿易が盛んになるにつれて、ヴェネツィアは世界中から商人が集まるようになりました。
それと共にお金を取り扱うことが多くなり、ここで世界初の銀行の為替業務も始まっています。
各国の大使館もできて、一躍国際都市となったのでした。

ただ、このように強くなってしまったため、ヴェネツィア商人が他国の商人から恨みを買うこともあったそうです。
戦乱に乗じて追放されたり投獄されたりしたこともあったんですよ。

この後も続いた十字軍の遠征により、ヴェネツィアはさらに領地を増やしていきました。
そして東地中海からトルコ北側の黒海のエリアも手にし、これが結果としてマルコ・ポーロが黒海沿岸から中央アジアへ向かう足掛かりとなったのですよ。

13世紀末にはライバルの海洋国家・ジェノヴァ共和国と戦い勝利をおさめ、15世紀後半には指折りの海軍都市国家となっていったのでした。

ヴェネツィアが生んだ稀代の冒険家:マルコ・ポーロ

マルコ・ポーロという名前を聞いたことがありますか?

ヴェネツィアが生んだ偉大なる冒険家・商人だった彼は、私たちの住むアジアとヨーロッパ世界をより近づけた人物なのです。

そんな彼についてご紹介しましょう。

1254年、ヴェネツィア商人の息子として生まれたマルコ・ポーロは、17歳の時に父と叔父に付いてアジアへと出発します。
これが1271年頃のことで、約15,000㎞もの長い旅を終えて帰国したのはその24年後、1295年のことでした。

この時のアジア諸国での見聞をもとに著した「東方見聞録」は、後にフランス語・ドイツ語・ラテン語・イタリア語などで出版され、多くの国に極東の国々のリアルを伝え、実はアジアが富み栄えていることを客観的に発見したのです。

彼は中国を訪れ、当時の王朝・元でフビライ・ハンに仕えました。
フビライ・ハンといえば元寇で日本に攻め込んできたあの行程ですね。

その時おそらくマルコ・ポーロは日本についていろいろと話を聞いたのでしょう。
「黄金の国ジパング」として日本をヨーロッパに紹介したのもほかならぬ彼なんです。

帰国した彼は、豪商として成功をおさめました。
長い旅の戦利品として彼が持ち帰ったものの中には、中国の陶磁器や方位磁石などがありました。
方位磁石は開発され羅針盤となり、このすぐ後に訪れる大航海時代でひじょうに役立つこととなったのです。

ただ、羅針盤が開発されたことで他国も航海に乗り出し、結果としてヴェネツィアの地位を脅かすようになってしまったことは皮肉でもありますね。

イヤ~な敵国・オスマン帝国の出現

ヴェネツィアが全盛を迎えたその頃、小アジアの一角にあるイスラムの国が生まれました。
それはやがて力を付け、イスラムの巨大帝国「オスマン帝国」となったのです。

オスマン帝国は、1453年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現イスタンブール)を攻略し、ここで東ローマ帝国が滅びます。

危機感を覚えたヴェネツィアや他の4つの大国(フィレンツェ・ミラノ・ローマ教皇・ナポリ)はイタリアのローディで協定を結び、イタリア内の戦乱を終結させてオスマン帝国の脅威に対抗しようとしました。
この時はイタリア内には「イタリアの平和」と呼ばれる40年間が訪れ、芸術面ではルネサンスも最盛期を迎えて多くのすぐれた芸術作品が生み出されたのです。

しかし、オスマン帝国の圧力は徐々に強まっていきました。
それによってヴェネツィアの力も削がれていったのです。

1538年、プレヴェザの海戦でヴェネツィアとスペインの同盟軍はオスマン帝国に敗れ、これが決定的な敗北となりました。
ヴェネツィアは東地中海の制海権をオスマン帝国に渡すことになり、これを好機と見た他国の攻撃もあって、あれだけ栄えたヴェネツィアに斜陽が訪れたのです。

大航海時代の到来、ヴェネツィアの落日

大航海時代の到来、ヴェネツィアの落日

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1498年、ポルトガルの支援を受けた商人ヴァスコ・ダ・ガマによってアフリカ大陸最南端の喜望峰を回ってアジアに達するインド航路が発見され、ついに大航海時代の幕開けとなりました。
ヨーロッパ諸国は新たな冒険に沸き立ちましたが、ヴェネツィアにとっては落日の始まりとなったのです。

その理由は、ポルトガルがインド航路の利益を独占し、ヨーロッパ諸国はポルトガルから名産品や香辛料などを買い入れるようになったためでした。

加えて、1492年にはコロンブスがアメリカ大陸を発見していたので、太平洋や大西洋に世界の貿易の中心が移っていったのです。
その方面に力を持たないヴェネツィアにとっては大打撃でした。

ただ、ヴェネツィアも何もしなかったわけではありません。
自国の産業、特にレースやガラス工芸を積極的に支援・育成しました。
これらは現在にも伝わっています。

しかし、これだけでは海洋国家のかつての栄華を取り戻すことはできませんでした。

そしてこれ以後に断続的に起こった周辺諸国との戦争が、さらにヴェネツィアの国力を弱めていったのです。

さらに、1629年から翌年にかけて、恐怖の伝染病・ペストが流行しました。
ペストは人々を次々に死へと追いやり、わずか16ヶ月の間に5万人が亡くなりました。
これはヴェネツィアの人口の約3分の1にも達したというのですから、その勢いがすさまじいものだったことがわかります。

恐怖!死の病・ペストとは

ペストという病気は本来ネズミに流行するものですが、ノミなどが媒介することで人へ感染するようになりました。
症状によっては皮膚が黒くなることがあり、「黒死病」とも呼ばれたそうです。
医療が発達していなかった昔は、致死率の高さから死の病として恐れられました。

世界史においても何度か登場するペストの大流行ですが、14世紀にヨーロッパで発生したものはすさまじいものでした。
当時4億5,000万人いた世界の人口が、そのわずかな期間で1億も減ってしまったというのです。

ペストの大流行は、世界の言語にまで影響を与えました。
当時メインとして話されていたフランス語や、聖職者が使うラテン語などの使用者が死んでしまい、結果として残ったのが、英語を主に話す人々だったのです。
そのため、メイン言語は徐々に英語へと移っていきました。
言語体系にまで影響を及ぼすほどの伝染病、もし現在に起きたらと思うとぞっとしますよね。

ちなみに、日本では1896年に中国人によって持ち込まれ、初めての感染者が発見されました。

ヴェネツィア共和国の終焉とその後

ペストの流行でさらに弱ったヴェネツィアに、オスマン帝国は追い打ちをかけるかのように侵略を続けました。
やがて、威容を誇ったヴェネツィアの海軍も没落し、かつての栄光は見る影もなくなります。

そんな時、フランスには不世出の英雄が現れました。
破竹の快進撃でヨーロッパを制した、ナポレオンです。

ヴェネツィアもナポレオンの前にはなすすべがなく、1797年、降伏しました。
その後の条約によってオーストリアの支配下に入り、ヴェネツィア共和国は消滅となったのでした。

オーストリアの下でのヴェネツィアの状況は常に不安定で、19世紀初頭には隣のロンバルディアとロンバルド=ヴェネト王国を北イタリアに建国しますが、やはりオーストリアに降伏することとなります。
その後、イタリア本土に建国されたイタリア王国がオーストリアと戦争をした後に、イタリア王国に編入されました。
そして、イタリア共和国の一都市となって現在に至るというわけです。

世界遺産の街・ヴェネツィア

世界遺産の街・ヴェネツィア

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ヴェネツィアが誇る世界遺産として、「ヴェネツィアとその潟」が1987年に登録されました。
それを構成する遺産が数多くヴェネツィアの街中に残されています。
観光スポットとしても人気で、イタリア旅行の行先にも必ず名前が挙がりますよね。

ヴェネツィアとその潟を代表する構成資産としては、「サン・マルコ広場」が有名です。

ナポレオンが「世界でもっとも美しい広場」と評したこの広場は、ヴェネツィアの顔でもあります。

そこに面する「サン・マルコ大聖堂」は、守護聖人の項目で触れたヴェネツィアの守護聖人・聖マルコの遺骸を納めるために造られたものです。
400年もかけて造られた大聖堂は、ヴェネツィアの栄光と転落をずっと見てきたことになりますね。

また、ヴェネツィアの街の中を、S字を描いて流れる大運河「カナル・グランデ」も有名です。
両岸には様々な年代の建物が残されており、とても興味深く美しい光景が広がっています。
このカナル・グランデにかかる巨大な橋「リアルト橋」は、あまりに大きいために橋の上に店がオープンしているほどなんですよ。

そして、ヴェネツィアの産業のひとつとして有名になったガラスやレース工芸は、それぞれムラーノ島とブラーノ島で今も盛んです。
なぜこうした島でのみ発展したかというと、腕のいい職人の技術が他に流出しないように、政府が職人たちを1ヶ所に集めたためでした。

哀しみとロマンチックが同居した世界遺産

世界遺産というものには多くの逸話が残されているものですが、ヴェネツィアの世界遺産にもそうした物語がありますよ。

「ヴェネツィアとその潟」の構成資産のひとつでもある「ドゥカーレ宮殿」は、ヴェネツィアの共和国としての最盛期を今に伝える建物です。
8世紀に建てられ、改修後に現在の形となりましたが、当時貿易関係にあったイスラムの建築様式も取り入れられた、優美ながら不思議な姿をしています。

この宮殿の対岸には牢獄があり、2つの建物を結んだ橋は「ため息橋」と呼ばれました。

法の支配が進んだヴェネツィアでは、身分にかかわらず罪を犯した者は裁かれ、牢獄へと送られたのです。
その時、罪人がため息橋を渡って牢獄へ行くのですが、美しい水の都ヴェネツィアの風景を見るのは最後になるかもしれない、とため息をついたといいます。
そのため、ため息橋と呼ばれるようになったのです。

ちなみに、今では日没時にヴェネツィア名物のゴンドラに乗ってこの橋の下を通り、キスをすると、永遠の愛が約束されるということになっているそうですよ。
そのため、たくさんの恋人たちが訪れる縁結びスポットとなっています。

ヴェネツィア中が仮面であふれる「カーニバル」

ヴェネツィア中が仮面であふれる「カーニバル」

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毎年2月から3月にかけて、ヴェネツィアではカーニバルという最大級のお祭りが行われます。

ヴェネチアンマスクと呼ばれる中世風の仮面をかぶり、レースや刺繍などが豪華なドレスを着た人々が街のあちこちに現れます。

元々は15~16世紀頃にそうした装いが始まったようですが、身分の差を気にせずにお祭りを楽しめるようにと、仮面をかぶるようになったんだそうですよ。
それってなかなか先進的な考えだと思いませんか?

カーニバル自体の起源は11世紀頃にさかのぼり、近隣都市や宗教勢力に勝ったのを記念して始まったそうです。

サン・マルコ広場に人々が集まって踊るというもので、ヴェネツィア共和国が全盛となるにつれて派手になりましたが、国の衰えと共に、18世紀にはほぼなくなってしまいました。

しかし1979年からイタリア政府主導によって復活し、今では毎年300万人もの人出があるといいます。

保存された街並みと共に、1,000年以上続いたヴェネツィア共和国の全盛時代を思わせるお祭りが繰り広げられる時期は、まるで夢を見ているかのように華麗です。

美しき水の都の歴史をたずねてみよう

今ではイタリアの一都市であるヴェネツィアが、こんなにも強く影響力のある国だったとは思いませんでした。
国土が小さいからこそ、人々は団結し、生き延びるためにあらゆる手を尽くしてきたのですね。
商売から国力を強くしていった国・ヴェネツィアの歴史を、現在の美しいヴェネツィアに重ねて見てみると、観光する時もより興味深く見ていくことができると思いますよ。
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