荒れ地から最強の城、そして現在は皇居になった江戸城の歴史

皆さん、皇居に足を運んでみたことはおありですか?天皇陛下がお住まいの、あの場所です。では、そこがどうして天皇の住居になったのか、それ以前の歴史などについてはどうでしょう。そういえば、江戸城って将軍が住んでいたんじゃないのかな…と思われた方、正解です。しかし、江戸城というお城の基礎をつくったのは将軍ではないんです。どうも長い歴史がありそうですが、今回は江戸城の歴史についてゆっくりご紹介していきましょう!

江戸城ってどんなところ?

江戸城ってどんなところ?

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現在の皇居がある場所(東京都千代田区)に、江戸城は15世紀半ばに建てられました。
東京駅を出て少し歩くと、ビル街とは明らかに違う光景が見えてくるはずです。
緑が多く、東京のど真ん中にあるには少し雰囲気の違う場所ですよね。

江戸時代には「江城」、「千代田城」とも呼ばれていたそうです。

元々は15世紀に建てられた城を、徳川家康が本拠地とし、やがて江戸幕府の中心として改修したものでした。
とても巨大な城で、東西5.5㎞、南北4㎞、周囲14㎞と日本最大のものだったのです。
外堀を含めた面積でざっくりと言うと、都営大江戸線の路線図で輪っかになっている部分がだいたい収まってしまうくらいの大きさだというのですから、すごいですよね。

明治時代になると、天皇が京都から東京へと移ったために江戸城は天皇の住居となり、以後は皇居として多くの観光客を集めるようになりました。

今では周りをランニングする人も多く、ジョガーにとってはある意味憧れの場所でもあります。

では、そんな江戸城が造られてから今に至るまでの歴史を見ていきましょう。

江戸の始まりは、江戸氏

江戸城があった場所付近には、平安時代末期から鎌倉時代まで江戸氏という武士が本拠地を置いていました。
もちろん、江戸城の名前の由来はここからになります。
その江戸氏の館がちょうど江戸城の中心部分だった本丸のあたりにあったそうですよ。

しかし、江戸氏は15世紀になると力を弱め、違う勢力がやってきます。
当時関東地方に勢力があったのが扇谷(おうぎがやつ)上杉氏でした。
と言っても、この扇谷上杉氏はよく知られている戦国武将・上杉謙信とは近い関係ではなく、分家のような存在です。
とはいえ、とても強い勢力でした。

その扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌(おおたどうかん)こそ、江戸城を造った張本人です。
康正3(1457)年のことでした。

きっかけは、関東一帯で扇谷上杉氏をはじめとした多くの勢力が戦いを続けていたためでした。

道灌は有能な武将でしたが、有能すぎたために間もなく暗殺されてしまいます。
そして城は扇谷上杉氏のものになりましたが、そこは戦国時代のならわし。
新しい勢力が出てきて、城は彼らの手を離れます。
次の主は、北条早雲(ほうじょうそううん)を筆頭とした北条氏でした。

しかし北条氏も衰えるときが来ます。
豊臣秀吉が天下統一のためにこの地に攻め込み、北条氏は滅びます。
そして江戸城も開城となったのでした。

そしてやっと徳川家康の出番です。
家康の本拠地はもともと駿府(静岡県)でしたが、秀吉に命じられて渋々この地にやって来ました。
その時はひどい荒れ様だったそうですが、家康は根気よく城を修復し、日本一大きな城を造り上げていくことになるのです。

家康の苦労が実を結んだ徳川の時代

家康の苦労が実を結んだ徳川の時代

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荒れ果てた江戸城を見た家康一行は落胆しましたが、文句を言っている暇はありませんでした。
与えられた場所で再び力をつけていかなければならなかったからです。

家康はさっそく江戸城の改修に取り掛かり、次々と建物を増築していきました。
加えて城下町の整備にも力を入れ、徐々に江戸城と城下町は当代第一の城へと変貌していくことになるのです。
それに伴って、家康の力もどんどん大きくなっていきました。
何といっても、目の上のたんこぶでもあった豊臣秀吉が亡くなり、彼が取って代わるのを邪魔する者はもういなくなっていたのです。

そして、彼はついに江戸幕府を開き、将軍の地位にのぼりつめました。

そこで家康は考えます。

「江戸城をもっと大きくしたいが、自分でやるのもなあ。
よし、それなら諸国の大名にやらせればいい!ワシの力を見せつけることにもなるし、大名の力を弱めることもできるぞ」

ということで始まったのが、天下普請(てんかぶしん)でした。
諸国の大名に命令して土木工事をさせたのですが、道路や河川の工事の他、メインの目的は徳川の城を造らせることだったのです。
大名たちはぼやきながらも、時の権力者に反抗はできないと一生懸命に工事に取り組みました。

江戸城の増築工事は、この天下普請によって行われました。
大まかに言うと3回の工事があり、慶長8(1603)年から寛永13(1636)年まで続いたのです。
それが完了し、江戸城は政権の中枢にふさわしい立派な城となったのでした。

明治以降の江戸城

江戸城は日本の中心として栄えましたが、やがて明治維新の風が吹いてきます。
これまでの歴史が繰り返してきたとおり、栄えた政権はいつか終わりを迎えます。
大政奉還が実現し、将軍は政権を返上することとなりました。
そして明治元(1868)年、江戸城は明治政府に明け渡しとなり、名前を東京城(とうけいじょう)と変えたのです。

その翌年には、京都から天皇が移り、皇城(こうじょう)と呼ばれるようになりました。

ただ、大正12(1923)年に起こった関東大震災の大きな被害は免れませんでした。
加えて、昭和20(1945)年には太平洋戦争中の空襲によって大手門が焼失してしまうなど、江戸城(このことは宮城と呼ばれた)にとっては辛い日々が続きます。

しかし戦争が終わり、皇居と呼ばれるようになったかつての江戸城は、国民のよりどころとなって今に続いているのです。

江戸城に欠かせない人物!築城主・太田道灌

江戸城に欠かせない人物!築城主・太田道灌

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15世紀に江戸城を造った人物が太田道灌だということについては少し触れましたが、では、この太田道灌、どんな人物だったのでしょうか。
今は戦国時代がブームなので多くの武将が知られていますが、彼は戦国時代からはちょっと外れているので、知名度としては多少低いかもしれません。
しかし、とても能力のある人物だったんですよ。
さて、どんな人だったのでしょうか。

太田道灌は、永享4(1432)年に生まれました。
室町幕府で言うと第6代将軍のころ、だいたい3代の義満と8代の義政の間くらいのことですね。
本名は資長(すけなが)と言いました。
道灌と言うのは後に出家してからの名前ですが、ここでは道灌で統一します。

道灌は幼い頃から頭脳明晰な少年でした。
鎌倉五山(かまくらござん)という、お寺の中でもトップ5の格付けとなる名門のお寺で学び、関東の最高学府・足利学校でも学びました。
有名エリート大や東大で学んだようなものです。
あまりに頭が良すぎて、道灌の父が「こんなに頭ばかり切れては将来が不安になる」と考えたほどだったそうですよ。

波乱含みの情勢と道灌の立場

ここで当時の関東の情勢について少しご説明します。

関東には、室町幕府の出先機関として鎌倉公方(かまくらくぼう)という役職が置かれていました。
そして、それを補佐するNo.2として関東管領(かんとうかんれい)という役職もいたのです。
道灌が仕えたのは、関東管領を務めた上杉氏のひとつ・扇谷上杉氏でした。

ところが、この2つが対立するようになってしまい、始終戦ってばかりいたのがこの時代なのです。
そのため、道灌もその戦乱に巻き込まれていくこととなりました。

康正2(1456)年、若き道灌は家督を継ぎます。
関東は相変わらず戦乱の真っ只中で、気を抜く暇などありませんでした。
そして、多くの敵に対抗するためには新たな拠点として城を築く必要があったのです。

そこで道灌が建てることになったのが、江戸城でした。

戦乱の中での江戸城建設

戦乱の中での江戸城建設

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道灌が江戸城を建てたのには、いくつか変わった逸話が残されています。

ひとつは、夢のお告げで城を建てたというものでした。

そしてもう一つは、道灌の船に九城(コノシロ)という魚が飛び込んできたということからだったそうです。
「コノシロ=この城、つまりここに城を建てよ」ということだと道灌が解釈し、江戸城建設の後押しとなったといいます。

ちょっとこじつけっぽい気もしますよね。
しかしその理由には当時の状況もあって、江戸城付近にまだ居座っていた江戸氏を追い出すための口実だったとも言われているんです。
いずれにせよ、道灌は主のためにここに城を建てなければならなかったんですね。

というわけで道灌は江戸城建設に取り掛かり、翌年には引っ越してきたというのですから、その仕事の速さにも驚きます。
有能な人物は仕事が早いんです。

加えて、城を守るためとしてたくさんの神社を周りに呼びました。
今もこのあたりにその時に呼ばれた神社が続いているんですよ。

さて、関東で続いていた戦乱に話を戻しましょう。
相変わらずおさまる気配もなく続いていた戦ですが、さらに悪いことに、京都では応仁の乱が起こってしまいました。
応仁の乱とは当時最大規模の内乱で、京都が焼け野原となった上に全国に飛び火し、日本国内がそれはもう大混乱となってしまったのです。

そんな中で、道灌は主の扇谷上杉氏のために戦い続けました。
30を超える戦を生き延び、やがて彼は関東で約30年も続いていたこの戦乱に終止符を打ったのです。
文明14(1482)年のことでした。

道灌暗殺!

ところが、道灌の活躍は主にはあまり快く思われていなかったのです。

道灌のおかげて扇谷上杉氏は強くなったようなものですが、そのせいで、道灌の存在感はあまりにも大きくなりすぎてしまいました。
そのため、主は「道灌は才能を鼻にかけてワシをないがしろにしている」と反発し、「それなら道灌の策などもう必要ない!」と彼を無視するようになってしまったのです。
その動きに周囲も同調し、他の家臣たちは、道灌が謀反を企てているなど主に良からぬことばかりを吹き込んだのでした。

いつの時代も、「出る杭は打たれる」というわけです。
だんだんと主従の溝は深まっていきました。
道灌もそんな扱いに不満を抱き、「太田道灌状」という主家に宛てた手紙の中で、39ヶ条にもわたって、いかに自分が全力で尽くしてきたかを述べています。

そんな中、道灌は主の館に招かれました。
宴だとか、用があるとかといった理由を付けたのでしょうか。

そして、主の館での入浴直後、道灌は何者かによって暗殺されてしまいました。
享年55、無念の死でした。

死の間際、道灌は「自分(道灌)が死ねばこの家は終わりだ」と予言したそうです。

暗殺の理由とその影響

暗殺の理由ははっきりとはしていません。

しかし、道灌の力が強くなりすぎたために主によって排除されたという見方が強いのが事実です。

一方、扇谷上杉氏に対抗する勢力が、道灌の主に策をしかけ、結果として道灌を殺すように仕向けたという説もあります。

道灌という大きな存在が消されたことにより、扇谷上杉氏は皮肉にもバラバラとなってしまいました。
多くの家来は別の勢力へと走り、その中には道灌の息子も含まれていたのです。
そして再び内乱がはじまり、やがて西から北条早雲という新たな勢力がやって来て、扇谷上杉氏は追われることとなったのでした。

道灌の予言どおり、彼が死んだことで扇谷上杉氏は終わりを迎えたのです。

道灌の性格・逸話

道灌の性格・逸話

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道灌が幼い頃から頭が良かったことはすでに述べましたが、彼は死に際にまで和歌を詠んだという和歌の名人でもあり、戦にも負けないという文武両道の人間だったのです。
そのため、たくさんの逸話が伝わっているんですよ。
ここでは、彼にまつわる逸話の中でいちばん有名な「山吹の伝説」をご紹介しましょう。

道灌を知るなら「山吹の伝説」

道灌が鷹狩りに出かけたときのこと、急に雨が降り出してしまいました。
雨具を持っていなかった彼は、蓑を借りようと近くの農家をたずねます。

すると、一人の娘が出てきてそっと山吹の花だけを差し出しました。
道灌は「蓑を借りに来たのに、花など求めておらんわ!」と怒って帰ってしまいました。

後でその話を周りにしてみると、娘の本当の意図が判明したのです。

昔の和歌に、「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき」というものがありました。

娘はその歌に出てくる「山吹」と「実の」を「山合いの茅葺きの家」と「蓑」になぞらえて、「私の家はあいのかやの貧しい家で、みの(実の)ひとつもないのです、申し訳ございません」と答えたのでした。

それを聞いた道灌は、「自分はまだまだ精進が足りない…」と反省し、いよいよ和歌の道に励んで名人と呼ばれるまでになったと言われています。

この伝説は都内や埼玉県に伝わっているそうですよ。
ちなみに、新宿中央公園にはこの話をモチーフにした像があるので、機会があれば見に行ってみてはいかがでしょうか。

ちなみに、勇壮でカッコいい道灌像を見たい方には、JR日暮里駅前のものをおすすめします。
弓を高く掲げた道灌の騎馬像はちょっとした名物ですよ。
日暮里駅周辺には道灌山通りという地名も残っているほどです。

江戸城の構造はここをチェック!

江戸城の構造はここをチェック!

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太田道灌によって造り上げられた江戸城は、それを受け継いだ徳川家康が改修を重ね、より大規模な城として生まれ変わりました。
現在はすべてが残っているわけではなく、跡地となっている場所もたくさんありますが、当時の面影は残されています。

現在の天皇が住む御所は、かつての吹上庭園という場所にあります。
そのため、吹上御所と呼ぶ時もありますよね。
また、皇居東御苑は一般に開放された公園になっていますが、ここにはかつての江戸城の中心部である本丸・二の丸・三の丸などがありました。
また、北の丸があった場所は北の丸公園として親しまれています。
よく散策してみると、当時の跡が確認できる場所もありますよ。

将軍は江戸城のどこに住んでいた?

とにかく大きな江戸城ですが、肝心の将軍はどこに住んでいたのでしょうか。
となれば、将軍に仕える女性たちが住む「大奥」はどの辺だったのでしょう。

将軍が住んでいたのは本丸でした。
本丸の南側から北側に向かって、「表・中奥・大奥」と大まかに3つのエリアに分かれていたのです。

表では部下に謁見し、中奥は主に生活の場や仕事場であり、大奥が将軍夫人や女中の居住区でした。
もちろん大奥は将軍以外の男子は禁制でした。

大奥激震!「絵島生島事件」

大奥は将軍に仕える女性たちの生活の場であり、華やかさの極みであると同時に、権力争いやスキャンダルの舞台ともなりました。
江戸城の表の中心が将軍のいる「表」ならば、裏の中心は大奥だったわけです。

そんな大奥で、世間を驚かせる一大スキャンダルが持ち上がったことがありました。
時は7代将軍・家継(いえつぐ)の時代のことです。

大奥の女中の中でも高位だった御年寄(おとしより)という地位にあった絵島(えじま)は、ある時、将軍の生母・月光院の名代として墓参りに行きました。
その帰りに立ち寄った芝居小屋で、事件のきっかけとなった運命の出会いがあったのです。

その時の芝居に出演していたのは、人気役者・生島新五郎(いくしましんごろう)でした。
芝居の後、絵島は生島たちを宴会に招きます。
楽しい時間を過ごしたことでしょうが、そのせいで絵島は大奥の門限に遅れることになってしまいました。
御年寄といえども規則は規則、入口で騒ぎとなり、それが城中に知れてしまったのです。
当時からすれば、大奥の御年寄ともあろう人物が門限に遅れた上に、その理由が役者ごとき(当時は身分が低かった)と戯れていたからとは、とんでもない話だったのですね。

絵島生島事件の真相はいかに?

ただ、真相については謎が多いことも事実です。
裁きにかけられても、絵島は何があったのかを白状しなかったといいます。
生島はというと問答無用で島流しとなり、所属していた一座は廃業を余儀なくされました。
絵島に連座した一族の中には切腹させられた者もいましたが、絵島自身は死を免れて信濃へ追放となります。

これには、当時の大奥の勢力争いも絡んでいたのではという見方もあるんですよ。
将軍の生母・月光院と、前将軍の正室だった天英院の争いでもあり、月光院に仕えていた絵島を追放するための手段だったかもしれないというのです。

また、大奥の風紀をただすという目的もあったようでした。
大奥が存在感を増すにつれ、女性たちが奔放に振る舞うようになっており、幕府としても苦々しく思っていたんだそうですよ。

絵島は追放先でもほぼ幽閉生活を送りましたが、大奥のことはいっさい口にしませんでした。
そして、真実を胸に秘めたまま、27年間の幽閉生活の末に亡くなります。

こうして、大奥最大のスキャンダルと言われた絵島生島事件は、はっきりとした真相を得られることなく終結したのでした。

あったはずの天守の行方

あったはずの天守の行方

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城といえば立派な天守があるイメージですよね。
もちろん、江戸城にはかつて素晴らしい天守がありました。
3度にわたって建設され、金箔やしゃちほこで飾られた豪華なものだったそうですが、明暦の大火という大火事によって焼けてしまいました。

以後、天守は造られず、いま残っているのは天守の基礎部分となる天守台のみです。

天守台だけで高さが13.8mもあり、その上に建てられていたはずの天守がどれだけの高さだったか、想像すると驚きますよね。

明暦の大火って?

265年も続いた長い江戸時代において最大の大火事とされているのが、明暦3(1657)年に起きた明暦の大火(めいれきのたいか)でした。
江戸三大大火のひとつであり、その規模は江戸城や大名の屋敷、城下町などを焼き尽くしてしまったのです。
それはつまり、江戸のほとんどが焼け野原となったのと同じことでした。
死者は3万とも10万とも言われています。

謎だらけ!明暦の大火の原因

それにしても、どうしてそんな大火事が起きてしまったのかが疑問ですよね。

実は、原因は正直な所わからないままなのです。
しかし、いくつかの説があるのでそれをご紹介しますね。

明暦の大火は、別名を「振袖火事」といいました。
もしかするとこの名前は聞いたことがある方もいるかもしれません。

ある金持ちの娘が街ですれ違った美少年に一目ぼれし、やがて恋わずらいとなって寝込んでしまいます。
娘は彼が着ていたのと同じ模様の振袖を仕立てて思いを募らせますが、病

は回復せずついに亡くなってしまいました。

娘の棺にはあの振袖がかけられたのですが、なんとそれを寺男が転売してしまいます。
そして他の娘に買い取られますが、その娘も亡くなってしまいました。
そして再び振袖は棺にかけられて同じ寺へと戻ってきます。

性懲りもなく、寺男はまたもそれを転売…すると、薄気味悪い出来事が起こります。
持ち主がまた亡くなり、またもや振袖が棺にかかって寺へ戻ってきたのでした。

さすがにこれは気味悪すぎるということで、寺で振袖を供養することになりました。
そして護摩の火の中へそれを投じたのですが、その途端に一陣の強風が吹き、火のついた振袖を宙に巻き上げてしまったのです。
それは寺の軒先に落ちて炎を上げ、やがて方々へ飛び火して大火となってしまったのでした。

と、これが振袖火事の由来となった逸話です。

他にも、幕府がわざと火事を起こしたのではないかという説もあるんですよ。

というのも、当時は江戸の人口が増えすぎて、疫病や治安の悪化、人口の過密など社会問題が深刻化してしまいました。
幕府としては、人々に少し立ち退いてほしいという思いもあったのですが、それもなかなかうまくはいきません。

それならばいっそ町を焼いてしまおう、ということで、火を起こしたという話なんです。

これらの話が本当かどうかは微妙なところですが、当時の社会問題や文化が見え隠れしていますよね。

大火の影響はいろいろな方面へ

何とか火は消えましたが、このあとをどうするかが大問題でした。

江戸城のシンボルだった天守も焼け落ちてしまいましたが、幕府はそれよりもまず城下の復興を優先することにしたのです。

これによって城下は大規模に改造されましたが、結局、天守は再建されることはありませんでした。
以降、諸大名も幕府をはばかって天守を造るのを控えたり、すでにある自分の城の天守は違う名前で呼ぶようにしたりと、いろいろ気を遣う羽目になりました。

今でも災害時には車での避難によって大渋滞が起きて問題となることがありますよね。

江戸時代も今と同じでした。
人々は火事から逃げるために荷車を使って家財道具を運んだため、町中で渋滞が発生し、結果として多くの人が逃げ遅れてしまいました。

そのため、幕府は以後こうした荷車を使うことを禁止したのです。

また、広い江戸城内からスムーズに逃げられるようにと、避難経路が整備されたんですよ。
そして、罪人をいったん牢屋から解放する「切り放ち」という制度もできました。
明暦の大火の時に行われましたが、ちゃんと戻ってきた罪人が多かったそうです。

「忠臣蔵」のあの事件の現場

毎年12月になると、TVドラマなどで「忠臣蔵」を見かけることはありませんか?

浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)という大名が、吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)という旗本に斬りかかるという事件を起こし、浅野内匠頭が切腹となってお家が取り潰された結果、残された部下たちが主の仇を討ちに行くという話ですね。
時期は生類憐みの令を出した5代将軍・徳川綱吉の頃です。

その刃傷沙汰の舞台となったのが、江戸城にあった松の廊下という大きな廊下でした。

今は廊下も建物もありませんが、その場所は皇居東御苑の中に「松の廊下跡」として碑が残されています。
木々が立ち並ぶ静かな場所を、そんな歴史があったという想像にひたりながら散策してみるのも、違った楽しみ方になると思いますよ。

江戸城の「門」が現在の地名に!

江戸城の「門」が現在の地名に!

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巨大な江戸城には、とてもたくさんの門がありました。
大手門、桜田門、虎ノ門などその数は膨大ですが、ところで、こうした名前が今も残っていることにお気づきでしょうか。

地下鉄の駅には桜田門や虎ノ門がありますよね。
桜田門は警視庁に近く、歴史的には「桜田門外の変」が起きた場所として有名です。

アメリカの黒船が来航し、日本が開国へと向かったその頃、幕府の筆頭格である大老・井伊直弼(いいなおすけ)が敵対する勢力に暗殺されたのが、桜田門外の変でした。
この辺りは学校の授業で習ったのを覚えている方も多いと思います。

また、虎ノ門には今は虎ノ門ヒルズという大きなビルがありますね。
ここに江戸城の虎ノ門があったのです。

今の地図と江戸城があったころの地図を見比べてみると、誰も気づかなかった新発見に遭遇するかもしれませんね。

知って得する「二重橋」のこと

知って得する「二重橋」のこと

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現在の皇居前広場に行くと、大きな橋とその向こうにそびえる櫓(やぐら)が見えるかと思います。

櫓の名前は伏見櫓と言い、豊臣秀吉が京都に造った伏見城の櫓を移築したという言い伝えがあります。
当時、江戸城は19もの櫓がありましたが、今はこの伏見櫓と巽櫓(たつみやぐら)、富士見櫓の3つだけとなっています。

さて、その伏見櫓と手前に見える橋の美しいコラボは観光客の撮影スポットとなっているんですが、この橋を二重橋だと勘違いしている人が多いんですね。

たしかに、アーチが2つある石橋なので二重橋と言えば納得してしまうのですが、実は違うんです。

よく見てみると、その石橋の向こうにもうひとつの鉄の橋があるのが見えるはず。
それこそが二重橋で、正式名は「皇居正門鉄橋」と言います。

今でこそ鉄橋ですが、建設された江戸時代当初は木製の二重構造だったため、二重橋と呼ぶようになったのだそうです。
鉄橋になったのは明治時代のことでした。

皇居に行かれたときは、ぜひ二重橋の近くまで行って確認してみてくださいね。

500年以上の時を刻む江戸城へ行ってみよう!

一口に江戸城と言っても、様々な時代背景が積み重なって出来上がったことがわかりました。
今では皇居としてある種神聖な雰囲気を持った場所ですが、歴史を知るとさらに興味深いところになりますよね。
気軽に出かけて、当時のままの地名やゆかりの土地を散策してみると、江戸城がもっと身近に、リアルに感じられるようになると思いますよ。
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