なんで真田一族はあんなに強かったの?上田城を観光する前に知っておきたい歴史

大河ドラマ「真田丸」で、真田一族の本拠地として登場し、一躍注目の観光スポットとなった長野県・上田市。ここのシンボルと言えばやはり、真田氏の居城・上田城です。あの徳川家康を2度もこてんぱんに負かした戦国武将は、真田以外にはいないんですよ。そんな彼らの強さを支えた上田城の歴史と秘密について、知ってみたくはありませんか?ぜひご覧ください。

知謀の将・真田昌幸の上田城

知謀の将・真田昌幸の上田城

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長野県の東部、今では長野市と松本市に次ぐ規模の上田市にあった上田城は、現在は上田城跡公園となっています。
というのも、元々の城は廃城となってしまったため、堀や土塁、江戸時代に造られた建物の一部のみが残されているからです。
しかし、立派な城の姿はしっかりとうかがうことができますよ。

ここでは、上田城を築城した戦国武将・真田昌幸(さなだまさゆき)とその一族の生涯をご紹介します。

真田昌幸の処世術

上田城は、天正11(1583)年、真田昌幸が築城しました。

彼が、上田城最大のキーマンとなる人物です。

真田氏は武田信玄に仕えた武士で、昌幸の父・幸隆(ゆきたか)は武田信玄の二十四将にも数えられた重臣でした。
そのため、昌幸も信玄に仕えます。
彼の才能を信玄は見抜いており、「信玄の両眼」と呼んだ逸材2人のうちのひとりが昌幸でした。

しかし、信玄の後を継いだ勝頼が織田信長によって滅ぼされると、その後は次々と主君を変えていくことになりました。

このため、昌幸は「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と呼ばれるようになります。
比興とは「卑怯」にも通じ、信用ならないくわせ者だということで通っていたのです。

しかし、これは昌幸なりの処世術でした。
真田の家を守っていくためには、時の流れを見定めて、それに合った主君に仕えていくのがいいと考えていたのです。

徳川家康を恐れさせた男

強力な戦国大名の脅威にさらされながらも、昌幸は真田の家を守りました。
徳川家康との2度の直接対決(上田合戦)に勝ち、真田の名を天下に轟かせたのです。
彼の知略と統率力は並々ならぬものでした。

彼には2人の息子がいました。
長男が信幸(のぶゆき・のちに信之)、次男が信繁(のぶしげ・のちの幸村)です。
息子2人と共に彼は戦国の世を戦いましたが、やがて別れがやって来ます。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起こった時、彼らは徳川家康に従い、東北の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を征伐しに行く途中でした。

ここで、昌幸と信繁は石田三成の西軍へ、信幸は家康の東軍へつく選択をします。
どちらについても真田の家が残る、そんな考えがあったようです。

しかし昌幸らが参戦する前に西軍は敗れ、彼らは和歌山県の九度山に流罪となってしまいました。
厳しい流刑生活の中、最後まで家康を倒すことを考え続け、昌幸はやがて亡くなります。
慶長16(1611)年のことでした。

死してなお影響力を持つ

流刑後、戦いの場に戻ることなく昌幸は亡くなりました。
しかし、彼の強さを身を持って知っていた家康は、本当に彼を恐れていたようです。
大坂の陣が起こり、信繁が大坂城に入ったという報せを聞いた家康は、「それは親(昌幸)か子(信繁)か!?」とうろたえたほどでした。
また、昌幸の葬儀をしたいという信幸の願いもはねつけたそうです。

昌幸が去った上田城は、東軍についていた信幸が受け継ぎました。
しかし、昌幸を憎んでいた家康により、結局は徹底的に壊されてしまいます。
これで、昌幸が造った上田城は姿を消すこととなってしまいました。

天下を取り、江戸幕府まで開いた徳川家康をここまで恐れさせた人物は、昌幸の他にいません。
上田城は、そんな彼の知謀のもとに造られた城だったのです。

徳川との激闘!上田合戦

徳川との激闘!上田合戦

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2度にわたり徳川家康を退けた昌幸。
その戦は「上田合戦」と言い、天正13(1585)年のものを第一次上田合戦、慶長5(1600)年のものを第二次上田合戦と言います。

ここでは、その2回の上田合戦について、経緯や作戦を紹介していきます。
昌幸の策略の鮮やかさにご注目ください。

真田の名を高めた第一次上田合戦

第一次上田合戦は、織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたことが始まりでした。

旧織田領を巡って、上杉・北条・徳川で争いが起きましたが、その中で、昌幸は関東に一大勢力を築いていた北条氏に領地を圧迫されたのです。

そこで、昌幸は徳川家康と同盟を結びました。
この時に上田城が建設されたのです。
当時、関東に北条氏、越後(新潟県)に上杉氏と強い大名がいたため、家康が城の建設を命じたのでした。
周りを強い戦国大名に囲まれた真田の領地は、常に不安定な状況にさらされていたのです。

ところが、家康との同盟も長くは続きませんでした。
領地を巡って仲が決裂し、昌幸はなんと敵だった上杉景勝と同盟します。

今度は家康が怒りました。
そして昌幸がこもる上田城に兵を差し向けてきたのです。
第一次上田合戦の始まりでした。

第一次上田合戦の推移

上田城に進撃してきた徳川軍は7,000、迎える真田軍は2,000と、兵力差は圧倒的なものでした。

しかし、ここで昌幸の知謀が本領を発揮します。
上田城の建つ地の利を生かし、まずは徳川軍を上田城下まで撤退を装っておびき寄せました。
勢いに乗った徳川軍が城の二の丸にまで攻め込むと、今度は昌幸が城下に潜ませた伏兵に徳川軍を襲わせます。
混乱した徳川軍にさらに真田軍はたたみかけ、別働隊として別の城を守っていた長男・信幸が徳川軍を急襲しました。
しかも、ちょうど増水した川のおかげもあり、徳川軍は溺死者まで出して大損害を受けることになったのです。

この戦いにおける徳川の死者が1,300だったに対し、真田の死者は40余りだったと言われています。
上田城はびくともせず、真田の勝利に大きく貢献しました。

この大勝利で、昌幸と真田の名は戦国の世に広く知られることになったのです。
おそらく、昌幸以下、真田の人々は気分爽快だったことでしょうね。

徳川との再戦!第二次上田合戦

豊臣秀吉が天下を取ると、昌幸は秀吉に仕えるようになりました。
しかし秀吉が死ぬと、家康が徐々に実権を握り、豊臣家を守ろうとする石田三成らとの溝が深まってきます。

その時、家康は上杉征伐と称して東北へ向かいます。
それをチャンスと見た三成が挙兵したのが、関ヶ原の戦いの始まりでした。

前述のように、昌幸は息子2人と家康に従っていましたが、西軍と東軍に分かれる道を選びます。
そして彼は信繁と共に、本拠地・上田城へ戻ったのでした。
上田城のそばを、関ヶ原へ向かおうとする徳川軍が通るということを想定し、迎え撃つ準備のためでした。

第二次上田合戦の推移

上田城に向かってきたのは、家康の息子・秀忠(ひでただ)が率いる38,000の徳川軍でした。
対する真田軍の数はわずか3,000…どう見ても、第一次の時よりも不利です。

ここでも昌幸は策を練ります。
まずは降伏すると見せかけますが、急にコロッと態度を変えて「いつでも攻めてきたらよろしい」と徳川軍を挑発しました。
これなら徳川方は怒りますよね。

しかし徳川方も昌幸がひとすじなわではいかないことはわかっているので、作戦を決行します。
それが苅田(かりた)戦法というもので、城の周りの稲を刈り取り、止めようと出てきた相手を迎撃する作戦でした。

徳川方が田んぼの稲を刈り始めると、上田城から真田兵が出てきます。
しめたとばかりに徳川方は真田兵に襲い掛かりますが、真田兵は蜘蛛の子を散らすように城門の方へと逃げ出しました。

それを追いかけて来た徳川方の目の前で、いったん閉じていた城門が開きます。
再び開いた時には、目の前には鉄砲を構えた真田兵がずらりと並び、次の瞬間にはそれが火を噴いたのでした。

戦には勝ったのに敗軍の将となる

昌幸の作戦により徳川方は大混乱に陥り、結局、戦は真田方の大勝利に終わりました。

ちなみに、この戦いに手こずったおかげで、秀忠は関ヶ原の戦いに遅刻してしまい、父・家康にカミナリを落とされています。

しかし、同時に進行していた関ヶ原の戦いは西軍の敗戦に終わり、昌幸と信繁は戦に勝ちながらも敗軍の将となってしまったのです。

家康の真田に対する恨みは深く、一時は死罪も免れないところでしたが、信幸の命乞いによって、昌幸と信繁は和歌山県の九度山へ配流となりました。
そして、昌幸の建てた上田城は家康によって完全に壊されてしまうこととなったのです。

残念な結果でしたが、どれだけ家康が真田を恐れていたかがわかります。

仙石氏と上田城

仙石氏と上田城

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さて、ここからは真田氏の次の話に入ります。

壊された上田城は、領地としては昌幸の後を継いだ信之(信幸から改名)のものとなっていましたが、彼が城の再整備を江戸幕府に願い出ても認められることはありませんでした。
やはり、真田のシンボルだった上田城が再び真田のものとしてよみがえることを、幕府は警戒していたのかもしれません。

その後、元和8(1622)年になると信之は上田から少し北にある松代(まつしろ・長野市松代町)に国替えとなりました。
ちなみに、松代には武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の地が含まれています。

そして、新たに上田の主となったのが、仙石忠政(せんごくただまさ)です。

仙石氏は豊臣秀吉と徳川家康に仕えた大名で、第二次上田合戦や大坂の陣に参戦していました。
当主の忠政は大坂の陣では信繁の軍と戦ったようです。

その時の功績によって、仙石氏は上田に転封となりました。
真田を慕う領民が多い中、忠政は領内の安定につとめ、名君と呼ばれたそうです。

そして、寛永3(1626)年、ついに上田城の大改修が行われました。
櫓(やぐら)を7基、櫓門を2つ造られましたが、現在の上田城の西櫓はこの時代のものが残っています。

仙石氏の支配は忠政の次の代まで続きましたが、その後はまた新たな主を迎えることになります。

ちなみに、前藩主の真田信之と、新たな藩主となった仙石忠政との間にはわだかまりがあったという説もあります。

大坂の陣で功績を挙げた忠政が、小諸(こもろ・長野県小諸市)から上田への国替えを幕府に願い出て、幕府もこれを認めたというのです。
父が基礎を固めた上田の地を、相手が「欲しいから」という理由で渡すのは不本意だったのかもしれません。

そのため、信之は上田を出る際に藩の関係書類をすべて処分してしまったそうです。
後からやって来た忠政は、藩の内情を知るのにとても苦労したそうですよ。

仙石忠政にはそんな逸話がありましたが、次は、それ以上にインパクトある逸話の持ち主をご紹介しましょう。

仙石氏といえばこの人・「鈴なり武者」仙石秀久

上田城の新たな主となった仙石忠政には、とても有名な父がいました。
名前は秀久(ひでひさ)、豊臣秀吉が羽柴姓だった頃から仕えた、古株中の古株です。

秀久は武勇に恵まれ、早い時期に大名となりました。

しかし、九州征伐のときに大失敗をしでかしてしまいます。

秀吉が持久戦を命じたにもかかわらず、ほぼ独断で突出し戦い始め、結果として味方は大敗してしまったのでした。

秀吉の怒りを買った秀久は領地を没収され、高野山へ追放となってしまいました。

月日は流れ、秀吉が関東・小田原の北条氏を攻め始めた時のことです。

浪人となっていた秀久は、成長した息子の忠政と一緒に、わずかな手勢を率いて戦場へ駆けつけました。

その時の彼の姿は今でも語り継がれています。
派手な陣羽織を身に着け、それに無数の鈴を縫い付けていたのです。
ちょっと動けば鈴の音が鳴り響き、どこにいても目立つ姿でした。

ここに彼の決死の覚悟があったのです。
派手な姿で武功を挙げればきっと秀吉の目に留まるはず。
しかし、同時にこれだけ目立てば、敵に集中攻撃を受けるおそれがありました。
そんなリスクを覚悟した上で、秀久は戦場に馳せ参じたのです。

結果、彼は大活躍をおさめ、秀吉は彼を許しました。
そして信濃・小諸に領地を与えたのです。

箱根に仙石原という地名がありますが、この時の秀久の戦いぶりの素晴らしさからこの地名がついたという説まであるほどなんですよ。

そばの伝道師・仙石秀久

小諸を治めるようになった秀久が力を入れたことのひとつに、「そばを名産品にする」という方針がありました。
自らそば切りに参加するほどの力の入れようで、民衆は親しみを込めて彼を「仙石さん」と呼んだそうです。
そして小諸は信州そばで有名になったのでした。

国替えとなった但馬出石(たじまいずいし・兵庫県豊岡市)にも、彼はそば職人を連れていき、そこでは「出石皿そば」が名産品となりました。
いわば、彼はそばの伝道師だったのですね。

松平氏と上田城

松平氏と上田城

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仙石氏の支配は忠政の次代までしか続きませんでした。

仙石氏の後に上田城に入ったのは、徳川氏と同じ先祖を持つ名門・松平氏です。
ここから明治時代となり廃藩置県が行われるまでの7代160余年、松平氏が上田を治めることとなりました。

最初に上田に入った松平忠周(まつだいらただちか)は、文武両道である上に人間としてもよくできた人物で、8代将軍徳川吉宗の時代には老中という重職をつとめています。

6代目の松平忠優(ただます・のち忠固:ただかた)は、ペリーの黒船が来航した時の幕府の老中として政権の中枢にありました。
彼の時代には石垣や櫓の修復が行われています。

徳川氏に敵対し、徳川からも憎まれた昌幸の後を、徳川の血を引く幕府の重臣が治めるとは、運命のいたずらを感じますね。
しかし、たった40年ほどしか上田城にいなかった真田氏が今もダントツの人気を誇っているのですから、昌幸としては「してやったり」というところなのかもしれません。

2度の老中をつとめた切れ者・松平忠固

ここでは、上田を治めた松平氏を代表する人物・松平忠固についてご紹介します。

彼は幕府で2度の老中をつとめた、非常に有能な人物でした。

一度目の老中就任は、嘉永6(1853)年、ペリーの黒船が浦賀へやって来たときのことでした。
彼の開国要求に幕府は混乱し、朝廷や諸大名にまで意見を聞くなどして右往左往します。

忠固は開国派でしたが、反対派の朝廷や発言権の強い御三家の政治介入によってますます状況はこじれ、その中で彼は老中職を解かれてしまいました。

しかし、わずか4年後の安政4(1857)年、開国派の人物が老中のトップに就任したことで、忠固は再び老中職に呼び戻されました。

彼は一刻も早い日米修好通商条約の締結を主張し、天皇の許しを得る勅許は不要、幕府が今すぐに決めるべきと発言し、条約締結を主導したのです。

一見、強引なやり方に見えますが、これには忠固なりの考えがありました。

先を見る力に恵まれるも、しかし…

当時、アジアを急速に植民地化していたイギリスの手が日本に及ぶ前に、多少は穏健なアメリカと日本にも利益のある条約を結んでしまおうと考えていたのです。
そのためには、京都まで行って天皇へ伺いを立てている余裕などないと思っていたわけですね。

そして条約は勅許なしで締結され、日本は開国しました。
条約内容は不利なものでしたが、結果的に、日本はどこの国の侵略を受けることはなかったのです。
忠固は日本が生き残る道をいち早く見定めていたのでしょう。

しかし、徐々に対立を深めていた井伊直弼(いいなおすけ)が大老となると、勅許を得ずに条約を締結したとして忠固は罪に問われ、免職・蟄居の処分が下されてしまいました。

そして安政6(1859)年、48歳の若さで急死します。
あまりの突然さに、暗殺説もささやかれたほどでした。

忠固の先見の明は、上田でも発揮されていました。
開国に先駆けて、上田の特産である生糸を輸出する準備を始めていたのです。
そして、横浜が開港すると同時に生糸の輸出を始め、大きな利益を上げたのでした。
以後、明治時代まで生糸は日本の主な輸出品となりましたし、忠固は常に先を見る目があったということです。

明治以降の上田城

明治以降の上田城

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明治時代に入ると、日本の仕組みは大きく変わっていきました。
それは各藩やそれが所有する城にも及んだのです。
上田城はどうなったのでしょうか。

明治4(1871)年の廃藩置県により、上田城は明治政府に接収され廃城となり、いくつかの建物は民間に払い下げられることとなりました。

しかし後に買い戻され、昭和18(1943)年から昭和24(1949)年にかけて、南北の櫓として再移築され、現在の姿となっていきます。
平成6(1994)年には今の上田城のシンボルともいえる東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)が復元され、かつての姿を少しではありますが取り戻しました。

上田城の構造

上田城の構造

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ここでは、上田城の歴史から構造へと焦点を変えてみましょう。

城を造るに当たっては、縄張りがいちばん重要な項目とされています。

縄張りとは、城の内外での区画となる「曲輪(くるわ)」、曲輪の出入口となる虎口(こぐち)、堀や門などの配置のことです。
これで城の良し悪しが決まるとされていました。

縄張りにはいくつかの形式がありますが、上田城のものは梯郭式(ていかくしき)というものになります。
これは、本丸を城郭の隅に配置し、周りの二方向か三方向を他の曲輪で囲むものです。

上田城の場合は本丸を南側に配置し、二の丸が北・東・西を囲むようにしていました。
ちなみに本丸の一方は千曲川(ちくまがわ)の分流・尼ヶ淵(あまがふち)に接した断崖となっていたため、そこからは攻め込まれる心配はなかったのです。

こうした自然を利用した城づくりも大切なことだったのですね。

上田城に天守はあったのか?

上田城に天守はあったのか?

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城と言えば立派な天守(天守閣)を思い浮かべるかもしれませんが、上田城には天守はあったのでしょうか。

第一次上田合戦のころの資料には、上田城を指して「天守も無き小城」と評しており、後の仙石氏が再建したときにも天守は造られませんでした。

それでは、やはり上田城に天守は存在しなかったのかというと、それもまた疑問なのです。

別の資料では「天守未完成」とされており、その後は造られたというようなニュアンスもあります。
また、「御天守跡」と記入されている絵図も見つかっています。
加えて、天守につきものの金箔の鯱(しゃちほこ)の破片が出土していたり、同時期の近くの城(小諸城や松本城など)や信幸の沼田城には天守があったりしたため、もしかしたら上田城にも天守があったのかもしれないという説もあるのです。

もしそれが本当なら、昌幸が天守にのぼって城下町を眺めたりしたことがあったのかもしれませんね。

観光にも便利!上田城の見どころ解説

観光にも便利!上田城の見どころ解説

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上田城には多くの見どころがあります。
観光の時に、そのポイントや由来、逸話を知っているとより楽しく見学できますよね。
ここでは、観光にも役立つポイントを押さえながら、上田城の見どころをご紹介します。

上田城の顔!南櫓・北櫓、東虎口櫓門

上田城と言えば必ずこの風景が広がる、上田城の顔とも言える場所が、東虎口櫓門を中心とした南櫓と北櫓です。
南櫓と北櫓は上田市が買い戻し、移築されました。

南櫓は、買い戻される前はなんと遊郭になっていたというのですから驚きですよね。

ここで、東虎口櫓門の右手の石垣に注目してください。
ひときわ大きな石が埋め込まれているのがわかると思います。

これは「真田石」と呼ばれており、高さは約2.5m、幅は約3mという巨大な石です。

昌幸が上田城を築城するときに、近くの太郎山から掘り出して石垣に埋め込んだと言われています。
当時、城主は自分の力を示すために石垣に巨大な石を埋め込み、競い合うことがしばしばありました。

昌幸の没後、息子の信之が上田城を受け継ぎましたが、やがて松代の地へ移封となります。
そのときに父の形見にと持っていこうとしたのですが、びくともしなかったという逸話が残されています。

江戸時代から残る貴重な建物・西櫓

西櫓は、仙石氏が寛永3~5(1626~1628)年の間に建てたものです。
戦のなかった時代には倉庫として使用されていました。

江戸時代から今まで現存している唯一の建物として、とても貴重な存在です。

警護のために外の様子をうかがうことができる太い縦格子の入った武者窓(むしゃまど)や、鉄砲や弓矢を差し込んで外の敵を狙う狭間(さま)などが取り付けられています。

上田城最大の特徴・隅おとし

本丸の堀をよく観察してみると、北東の土塁の角が切り取られたようになっているのがわかるかと思います。
これが上田城の最大の特徴である「隅おとし」というもので、城における鬼門の方角だったこの場所の土塁の隅を切り込み、鬼門除けとしたのでした。
これは真田氏の頃からあったと考えられています。

上田城内の名所・真田神社とは

上田城内の名所・真田神社とは

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上田城本丸跡に、ひっきりなしに参拝客が訪れる神社があります。

名前は真田神社といい、祭神は真田氏・仙石氏・松平氏の歴代城主で、もちろん昌幸は祭神のひとりとなっています。

元々は松平氏の先祖を祀る松平(しょうへい)神社でした。
初代・松平忠晴(まつだいらただはる)の墓所・忠山社が京都にあり、それを起源としています。

しかし、昭和28(1953)年に歴代全城主を合わせて祀ることとなり、上田神社と改名しました。
そして昭和38(1963)年に現在の真田神社となったのです。

やはり、ここにも真田の根強い人気を見て取ることができますね。

真田井戸の抜け穴伝説

真田神社の境内には、直径2m、深さ16.5mの大きな井戸があります。

これはかつて真田の抜け穴となっていたという伝説があり、城の北側にある太郎山にあった砦や、上田藩主居館(現・上田高校敷地内)に通じていたと言われているんですよ。

実は真田氏には抜け穴伝説が多く、昌幸と信繁が流罪となった九度山の地や、大坂の陣での戦場付近にも抜け穴があったといわれています。
誰も考えないような奇策を用いて戦に勝ってきた真田氏なら、抜け穴も有り得るとみんなが考えたからこその伝説なのでしょうね。

真田の六文銭とは?

真田神社の境内にはひときわ巨大な赤い兜が鎮座しており、人気の撮影スポットとなっています。

これは信繁が着けていたものがモデルとなっており、鹿の角を両サイドにあしらった勇壮なデザインです。

信繁は、大坂の陣において自らの部隊の武装をすべて赤に統一しました。
甲冑から兜などすべての武具を朱塗りにすることを「赤備え」と言い、強さの象徴でもありました。

信繁の部隊以外には、武田信玄が全盛を誇ったころの武田軍や、徳川家康に仕えた猛将・井伊直政(いいなおまさ)の軍も赤備えとして恐れられました。

また、兜の中央に6つの貨幣が配置されているのがわかると思います。
これが「真田の六文銭」と呼ばれるもので、真田家の家紋になっています。
神社の門柱にもこれが刻まれていますよ。

なぜ六文銭なのかというと、三途の川の渡し賃が六文だったということに由来しているためだそうです。
六文銭を家紋とすることで、すでに渡し賃の用意もできている、つまり死すら恐れないという意味を示していたのですね。

上田城を彩る四季折々の催し

上田城を彩る四季折々の催し

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上田城では一年の間に様々なイベントが行われています。
特に桜の時期と紅葉の時期、真田まつりの時期には本当にたくさんの観光客がつめかけるんですよ。
城の歴史とも関係ある催しについて見ていきましょう。

歴史絵巻を見るなら「上田真田まつり」

昭和58(1983)年に上田城築城400年を記念して始まった上田真田まつりは、テーマをもとに真田一族の生き様を再現する、上田城でいちばんの祭りです。
赤備えの武者行列や、真田と徳川の合戦劇など、当時をしのばせるような光景を見ることができます。
上田城下で行われるからこそその姿がいっそう映えて、戦国時代に思いを馳せることでしょう。

城がいちばん美しくなる「上田城千本桜まつり」

すでに13回を数える上田城千本桜まつりは、毎年4月に上田城で開催されます。

江戸時代、上田城内にはたくさんの木々が生い茂り、「カラスのねぐら」とまで呼ばれていました。
しかし明治時代になり廃城となった後、その木々を伐採して梅や桜の木を植えたのです。

明治40(1907)年ごろにはすでに桜の名所として絵葉書にもなっていたことが確認されています。
同じく、松平神社(現・真田神社)の絵にも桜の木を確認されたんですよ。

現在の上田城も、日本有数のお花見スポットとして、多くの観光客が訪れます。
ソメイヨシノ、シダレザクラ、ウコンザクラなど約1,000本の桜が城を囲むようにして咲き乱れる様子は、それは美しいものですよ。

もっとも美しく桜を見られるポイントは、本丸の堀です。
水面に映る桜や、城と桜の対比などはまさに絶景ですね。

真田の時代には桜は植えられていなかったようですが、そんな桜の華やかさも真田の強さには似合うような気がします。

夜景も美しい「上田城けやき並木紅葉まつり」

毎年11月頃、紅葉の時期になると上田城けやき並木紅葉まつりが行われます。
桜やモミジの赤のグラデーション、イチョウの黄色など、紅葉の美しさをすべて満喫することができます。

夜になると、けやき並木遊歩道がライトアップされ、日本夜景遺産に選ばれたのも納得の幻想的な光景が広がります。

これらの木々も明治時代からのものがほとんどでしょうが、紅葉のあでやかな豪華さは、江戸時代に全盛を迎えた元禄文化などの華やかさと通じるようなものがあり、松平氏の安定した長い治世を思わせるようです。

真田を育んだ場所・上田城に行ってみよう

真田の城として数々の戦いを見てきた上田城には、それを取り巻いた戦国武将たちの生き様も刻まれています。
上田城を散策すれば、当時の歴史や建築に触れることができ、いっそう興味が増すと思います。
想像力をふくらませながら、上田城をゆっくりと散策してみるのはいかがでしょうか。
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