世界遺産「シルクロード」知れば歴史が好きになる?世界を結んだ交易ネットワーク

誰でも一度は聞いたことのある「シルクロード」。2014年には、シルクロードおよび周辺の遺跡群がまとめて「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界文化遺産に登録されました。シルクロードは世界の東西交流の歴史そのもの。シルクロードを知ると、世界のダイナミックなつながりを理解できます。「歴史=暗記科目」と思っているそこのあなたにこそ、今回の記事はおすすめですよ!

「シルクロード」とは何を指すのか?

「シルクロード」とは何を指すのか?

image by iStockphoto / 18037043

シルクロードのイメージは不正確?

そもそも、「シルクロード」と聞いてどのようなイメージが頭に浮かぶでしょうか?月の沙漠を優雅に歩くラクダと商人?厳しい暑さの砂漠地帯と、わずかな水辺=オアシスの周辺に設けられた町?私たちの抱くこれらのイメージは、実はシルクロードのごく一部にしか当てはまらない、と言ったら意外に思われるでしょうか。

「シルクロード=絹の道」とは、19世紀にドイツ人研究者が作り出した言葉です。
この言葉がヨーロッパの中央アジア研究者、地理学者などの間で広く使われるようになり、そのうち世界中で一般的な用語として定着していきました。
20世紀前半までは、中央アジアで古代の絹織物や絹貿易に関する文書が発見されるような遺跡は、中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス地帯に限られていました。
そのため、シルクロードと言えば「オアシスの道」という意味で定義され、使用されてきたわけです。
現在、私たちが「シルクロード」と聞いてイメージする「砂漠」の映像は、今から100年も前の不完全な研究者の中央アジア・中央ユーラシア地帯の紹介の仕方に引きずられたものと言えるでしょう。

シルクロードには三種類ある!

その後の研究で、シルクロードには主に三種類あることがわかりました。
中国西域から中央アジアまでの砂漠・オアシスを行き交う「オアシスの道」、それより北方のモンゴルやカザフスタンの草原=ステップ地帯から黒海に至る「草原の道」、中国南方から海へ出て、東南アジア~インド洋~アラビア半島に至る「海の道(海洋の道)」の三種類です。

さらに言えば、整備された三本の「道」がオアシス、草原、海に敷かれているかのようなイメージを持つのも正確ではありません。
実際のシルクロードは、砂漠や草原の道なき道ばかりであり、山道をのぞけばどこを通ってもかまいませんでした。
シルクロードは、単に東=中国と西=古代ローマ帝国やイスラム国家などが東西交易をするために使用していた道路ではなく、東西南北に網の目のように伸びた「面」です。
そして、その網の目の結び目の部分に当たる交通の要地が、中国・中央アジア・インド・東南アジア各国の大小の都市でした。
シルクロードの「三本の道」は互いに結びついてユーラシア大陸の交易ネットワークを形成していたのです。

現在の学説では、網の目のような交易ネットワークを認めながらも、都合上シルクロードを三種類に分けて考えることが一般的。
この記事でも、「草原の道」「オアシスの道」「海の道」の三種類に分けてご紹介していきたいと思います。

世界遺産としてのシルクロードの意味

世界遺産としてのシルクロードの意味

image by iStockphoto

総延長8700km!世界最大の世界遺産

2014年、シルクロードは「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」として世界遺産に登録されました。
ここには、東西交易ネットワークにおけるシルクロード関連遺跡のうち、中国、カザフスタン、キルギスの参加国の33の資産が含まれています。
これまでも、ウズベキスタンのサマルカンドやブハラなどといったシルクロード関連の遺跡・景観が世界遺産に認定された例はいくつもありましたが、「シルクロード」の名前を冠した世界遺産登録は初めての例です。
それでも、シルクロードに関連した世界遺産がこれだけ多いというのは、世界史に果たしたシルクロードの役割がいかに大きかったか、ということを示しています。

今回登録されたのは、シルクロードを利用した東西交易の様相を今に伝える中国の遺産と、オアシスの道を中心としたいくつかの遺産。
中国長安(現・西安)の遺跡、西部の河西回廊にある石窟寺院や交通・防衛施設、キルギスやカザフスタンにある巨大な都市遺跡などがあります。
つまり、前述したシルクロードの定義からすれば、ごく一部が推薦・登録されたに過ぎません。
草原の道の大部分や海の道に関する遺跡群については推薦に含まれませんでした。

それでも、今回登録されたのは3カ国8700キロメートルにもおよぶ範囲です。
世界遺産としては前代未聞の広大な範囲がまとめて世界遺産登録を認められたことはエポックメイキングな出来事でした。

シルクロードの多面的な魅力

シルクロードは、ユーラシア大陸の東西を結ぶ人為的な道と言うよりも、ユーラシア大陸の東西南北に暮らす人々が営む交易活動そのものと言った方がよいでしょう。
人々が交流を重ねた実績が、後世になってあたかも「道」がそこにあったかのような見方をされたのです。
シルクロード関連遺跡をごく一部に絞って、それでも登録されるにはあまりに広大であったことを踏まえると、シルクロードの持つスケールの大きさは到底「世界遺産」という枠に収まりきるものではありません。
距離的・時間的なスケールの大きさこそが、シルクロードの最大の魅力と言っていいでしょう。
今回世界遺産に登録されただけでも大きなスケールですが、これですらシルクロード全体から見るとわずかな部分にすぎません。

私たちが中世までの世界史を考える際、つい中国やインド、メソポタミアなどといった農耕文明が「中心」で、シルクロードや中央アジアはその「周辺」にある脇役のような位置づけをしてしまいがちです。
しかし、実際のところはこれらの地域こそが農耕文明同士を結びつける「交易文明」であり、時には強大な軍事力(中央アジア騎馬民族の馬は長らく最強の軍事力でした)で農耕文明へ侵略・征服する「地上最強の軍事集団」であり続けました。
シルクロードを知ることは、歴史のスケールやダイナミックさに思いをはせることにもなりますよ。

「草原の道」と世界最古の遊牧民スキタイ

「草原の道」と世界最古の遊牧民スキタイ

image by iStockphoto

砂漠ではないシルクロード!最も古い交易路

ここからは、シルクロードの三種類の「道」をそれぞれ簡単にご紹介していきたいと思います。
まずは、最も北方に存在していた「草原の道」からです。

草原の道は、中国を北上してモンゴルを中心とする草原地帯(ステップ)を突っ切り、ロシア南部やカザフスタンのあるカスピ海・アラル海一帯を横目に、最後はトルコ北部の黒海周辺に至ります。
現在のウクライナ周辺に紀元前8世紀ごろ起こった「スキタイ」という民族に始まり、数多くの騎馬民族がこの草原の道の東西で大帝国を築きました。
紀元前8世紀と言えば、ヨーロッパではまだ古代ギリシャや古代ローマが歴史の教科書に出てくる前の時点です。
古代ギリシャでは「ポリス」と言われる都市国家ができはじめたころで、古代ローマでは伝説上の人物である(実在したかどうか不明)ロムルスがローマを建国した頃とされています。
「スキタイ」という民族名は、古代ギリシャ人がこの草原の道の西端にいる騎馬民族を総称したもので、特定の民族ではなく「遊牧騎馬民族」全体を指していたとも言われています。

ヨーロッパの歴史に出てくる「フン人」や中国の歴史に出てくる「匈奴」「鮮卑」「突厥」などの民族は、みなこの草原の道のある地域を本拠地としていました。
フン人と匈奴が同一である、という説すらあります。
フン人や匈奴は文字を持たなかったため、詳細については不明点も多く、ただの「侵略者」という位置づけにとどまっています。
今後新たな発見があれば古代の世界史が大きく塗り替えられるかもしれませんね。

学校で聞いたことある?草原の道を舞台とした遊牧騎馬民族の活躍

「フン人」「匈奴」「鮮卑」「突厥」など数々の遊牧騎馬民族を輩出してきた草原の道ですが、ここから最も勢力を拡げたのはご存じモンゴル民族でしょう。
モンゴルとは、単一の民族名ではなく複数部族を束ねた国のことを指しています。
由来が匈奴だろうが突厥だろうが漢民族であろうが、この国の中では「モンゴル人」です。
13世紀に、テムジンという一部族長が、遊牧騎馬民族の最高会議で君主を意味する「ハン」に推薦されて「チンギス・ハン」を名乗りました。
モンゴル民族は草原の道全域を支配して交易を支配するとともに、オアシスの道も含めた陸の東西交易路を整備・拡大しました。

モンゴル帝国の最大支配地域は、東は中国や朝鮮半島、西は東ヨーロッパ、南はアフガニスタンやチベットに至るまで。
広大なユーラシア大陸をまたにかけた、世界史上最大の帝国を築き上げました。
このモンゴル帝国はいきなり歴史上に登場したわけではありません。
草原の道という重要な東西交易路の存在と商業の発展、馬という当時最強の軍事力かつ最速の移動手段を使いこなしていたこと、そして匈奴や鮮卑などといった「先輩」の遊牧騎馬民族の存在など、いくつかの理由があったからこそ急激に領土を拡張することができたのです。

草原の道自体は大航海時代に入って「海」という別の東西交易路が発見されたことで徐々に廃れていきましたが、世界史に与える影響の大きさは今もなお歴史家を引きつけてやみません。

「オアシスの道」の開拓と漢王朝

過酷!生死を賭けたシルクロード旅行

過酷!生死を賭けたシルクロード旅行

image by iStockphoto

シルクロードが三種類に分かれることはご説明しましたが、オアシスの道も大きく三つに分かれます。
中国西域の天山山脈の北側を通る「天山北路」、南側を通る「天山南路」、その南にあるタクラマカン砂漠の南側を通る「西域南道」の三つです。
天山北路は比較的難易度の低いルートではありますが、距離が長いとされています。
天山南路は砂漠の近くや標高4000~5000メートル地帯を通り抜ける必要があるため、厳しいルートです。
西域南道は同様に過酷なルートではありましたが、距離的には最短であるため利用者は多かったと言われています。

なお、草原の道を含めた陸路は紀元前から開かれていた(当時は船の技術が未熟で海は危険だった)のですが、人間と馬やラクダでは運べる荷物の量に限りがあります。
大量の物資を輸送するニーズが高まり、また羅針盤などを含めた航海技術が向上したことに伴い、徐々にオアシスの道の利用頻度は下がっていきます。
しかし、海路をイスラム商人に奪われていた中世ヨーロッパ人は、中国に行くのにこのオアシスの道を使用していました。
元に渡ったマルコ・ポーロも、オアシスの道(西域南道)を利用したと言われています。

漢と匈奴の勢力争いの舞台に

古代より、中国北方~西域(今のロシア、モンゴルの辺り)の遊牧騎馬民族と中国地域の漢民族の激しい争いが断続的に行われていました。
有名な万里の長城も、遊牧騎馬民族の侵入にあまりに手を焼いたからこそ、あれだけの長大な建築物をわざわざ造りあげたわけです。
あそこまでしてもメリットがあると思えるくらい、遊牧騎馬民族は強かったという状況証拠になります。

中国で漢王朝の始祖と言えば小説やマンガでも有名な「劉邦」ですよね。
この劉邦は、項羽を倒して中国を統一した後、西域進出を狙って「匈奴(きょうど)」と戦い、大敗北を喫しています。
これ以後、60年間はシルクロードを舞台とした東西交易を握ることはできず、むしろ匈奴に毎年絹や穀物を貢ぎ、皇女(姫ですね)を匈奴の君主に嫁がせる形で平和を維持していました。
要するに、漢王朝は匈奴の属国だったと言えるでしょう。

この属国状態から脱したのが第七代皇帝の「武帝」でした。
武帝は匈奴を破り、西域にまで領土を拡大するとともに、オアシスの道の東半分を掌握するに至りました。
この武帝の時代が漢(前漢)最盛期と言われていますが、その背景にもシルクロードが関係していたのです。

後漢・唐の西域進出

後漢・唐の西域進出

image by iStockphoto

後漢と古代ローマ帝国をシルクロードが結ぶ

前漢滅亡後、いったん西域は中国王朝の支配下から抜け出します。
しかし、その後に後漢が興って中国の政治が安定に向かうと、この後漢は西域の諸王国を統合することに成功し、西域経営も復活させました。
後漢はさらに西の地域との交流を求めて、使者を現在のシリアの辺りまで送り込んだこともあるくらいです。
当時のシリア付近はローマ帝国が支配していましたから、東の後漢帝国と西の古代ローマ帝国という二大帝国が接触していたということになります。

後漢が滅びると、中国は「三国志」の時代に始まり分裂状態が数百年続きました。
それに合わせるように、オアシスの道付近にあった遊牧騎馬民族国家も分裂と統合を繰り返すようになります。
中国史には「南北朝時代」というのがありますが、この時の北朝は遊牧騎馬民族国家です。
軍事的に優位に立つ彼らが、中国の政治的分裂に乗じて侵入し、王朝を繰り返し築く状態でした。
ただ、騎馬民族ゆえに移動と分裂が激しく、部下の忠誠度も低い(すぐ撤退してしまう)ことから、国家の安定が長続きしていないのがこれら王朝の特徴です。

唐の西域経営とイスラム勢力

再び中国が統一されたのは、隋、そして唐の時代でした。
隋はたった二代37年間で滅びてしまいましたが、次の唐の時代にようやく中国は安定に向かいます。
それとともに、シルクロード(オアシスの道)を通じた西域との交易も発達していきます。
西域の商業民たちに輸送を委託したことで交易が活発化し、オアシスの道は唐の時代に全盛期を迎えます。
唐の都長安には、西域の商人たちがさかんに訪れて店を構えていました。
また、陸路では重い物資を持ち運びできませんから、当時の唐で生産されていた絹が交易品として好まれました。
絹は、使用価値を持った唐の特産品としてだけではなく、シルクロード周辺の都市国家における国際通貨としての役割も果たすようになりました。

最盛期に、唐の支配はオアシスの道の大部分に及ぶようになります。
しかし、それは同時代に勢力を急激に拡大し巨大な版図を手中に収めたイスラム勢力(アッバース朝)と国境を接することを意味していました。
751年、タラス河畔の戦いに敗れ、直後唐の内部で反乱が発生したこともあり、唐の西域での影響力は衰退していきます。
代わりにイスラム勢力が影響力を強め、中央アジアの各民族は次々とイスラム化していきました。

中央アジアのトルコ化とイスラム化

中央アジアのトルコ化とイスラム化

image by iStockphoto

トルコ系国家の進出

唐が弱体化して中央アジア地域から後退すると、中央アジアではじょじょにトルコ系民族が存在感を増していきます。
トルコというと、今ではヨーロッパとアラビア半島の中間辺りの国のことを指しますよね。
しかし、もとは中央アジア出身の民族でした。
特に、中国で「突厥(とっけつ)」と呼ばれるトルコ系国家は、6世紀から8世紀にかけて中央ユーラシアに一大帝国を築きあげます。
中国史にしばしば名前が挙がるのみならず、東ローマ帝国の資料にも「テュルク」として記録が残っています。
なお、「テュルク」と「トルコ」は学術的には若干異なる概念ではあるのですが、ひとまず同一のものとしてとらえて問題ありません。
この記事でも「トルコ」に統一します。

この「トルコ」の帝国が8世紀に崩壊するとトルコ系諸民族は分裂してさまざまな地域で王国を建国し、細分化していきます。
各種の都市国家が栄えたタリム盆地周辺にトルコ系民族が定住し、現在の中国ウイグル地区へ続いています。
彼らは、イランからアラビア半島を支配していた各種イスラム勢力に近かった(交易・戦争)ため、各種の都合からイスラム教を受容するようになっていきます。

イスラム化・トルコ化の進行

すでに8世紀頃から中央アジアにはイスラム教が広まり始めていましたが、よりトルコ系民族とイスラム勢力との結びつきを強めたのが「奴隷」の仕組みでした。
先にも述べたとおり、遊牧騎馬民族は軍事力や戦闘力の高い人々です。
イスラム勢力は、トルコ系民族と戦って捕虜とすると、奴隷の傭兵としてこれを利用します。
トルコにおけるイスラム化が進んだのはもちろん、逆にイスラム勢力におけるトルコ化が進みました。
時には、奴隷となったトルコ系民族出身者が出世し、イスラム王朝を樹立する例も各地で見られました(後のオスマン帝国も「オスマン・トルコ」と言われるようにトルコ系ですね)。
中央アジアと中国との陸路のつながりは薄れていきますが、今度は新たな世界帝国となったイスラム勢力とのつながりを強めていく結果となります。
トルコ系民族が、中央アジアから西側へ拡大していったとも見ることができます。

13世紀には、中央アジア全域はモンゴルの支配下に置かれました。
しかし、トルコ系民族の方がモンゴル人よりも多かったので、中央アジアではモンゴル人もトルコ化・イスラム化していきました。

オアシスの道の衰退

オアシスの道の衰退

image by iStockphoto

イスラム商人による海上ルートの勃興

8世紀になって、イスラム勢力がアラビア半島からイランを中心に勢力を拡大しました。
これらの地域は、中央アジアと異なり海に接していますから、後述する「海の道」を経由してイスラム商人たちがインドや東南アジア各国、中国へ向かうケースが増加していきます。
また、船の方が多くの積み荷を積み込むことが可能でした(危険であることには変わりないのですが)ので、効率的でもありました。
これ以降、東西交易路の中心はオアシスの道から海の道へ移っていきます。

ただし、中央アジアの諸民族にとっては、これ以降の時代にもオアシスの道を中心とした東西南北各地との交易が経済力の中心をなしていたことは間違いありません。
先にも述べたとおり、モンゴル帝国がユーラシア大陸の広大な領土を手中に収めた13世紀以降、極東地区(中国)と中央アジア、イスラム勢力、ヨーロッパとのつながりが盛んになります。
その際にも、オアシスの道は重要な役割を果たしました。
繰り返しになりますが、マルコ・ポーロはオアシスの道を利用して祖国ヴェネツィアから元まで渡ったのですから。

ヨーロッパ人による新航路発見

シルクロード、特にオアシスの道衰退の決定的な要因となったのが、ヨーロッパ人による「大航海時代」の幕開けです。
中世ヨーロッパでは、インド原産の香辛料需要が高まっていたものの、シルクロードを利用したくてもイスラム勢力に阻まれてしまい、なかなか交易に参加することができませんでした。

そこで彼らが目につけたのが、西から東のインドへ行くのではなく、逆に東の海から回り込むことでした。
ヨーロッパは大西洋に面していますから、「地球は丸い」のであればイスラム商人に邪魔されることなくインドへ到達できるはずです。
命知らずで野心に満ちたヨーロッパ商人・探検隊は、こぞって新航路発見へ乗り出します。

はじめて大西洋~太平洋経由でインドへ到達したのはヴァスコ・ダ・ガマの船隊でした。
これによって「地球は丸い」ということが証明されるとともに、「ついで」で発見してしまった新大陸=南北アメリカ大陸の植民地化を開始します。
シルクロードを経由しないヨーロッパ人が世界史の中心へ踊り出したことで、シルクロード(オアシスの道)は衰退していったのでした。

「海の道」と東西交流

「海の道」と東西交流

image by iStockphoto

古代ローマ人が中国まで来ていた!

最後に、第三のシルクロードである「海の道」についてご説明します。
海の道は、ヨーロッパからインド、東南アジア、中国まで至る大陸沿岸の海路を指しています。
もちろん、古代のことですから造船技術は発達していません。
三角形の帆を張った「ダウ船」という船で数千キロメートルを行き交う必要がありました。
ただ、季節風が安定して東西に吹いていましたので、危険ではありますが海路の旅も不可能ではありません。
エジプトでは、紀元前3世紀頃から海路を通じてインドと交易を行っており、その後エジプトを征服した古代ローマ帝国はこの交易をさらに拡大。
ローマ商人は、海の道経由でインドから中国にまで到達します。
つまり、草原の道よりは時代が下りますが、オアシスの道と同じくらいの長い歴史を持つ東西交易路だったのです。

古代ローマ人がインドや中国にまで到達していたことは、考古学的な発見によって証明されています。
南インドの王朝の遺跡からは、記録書や古代ローマの金貨などが発見されていますし、中国の記録にも古代ローマ人が絹を求めて船で中国を訪れたと残っています。
古代ローマ帝国だけではなく、ペルシャやインド、東南アジアの諸国もこの海の道を利用して交易に参加し、経済力の源としていました。

荒れた海と海賊の横行

海上の交易路が確立されても、沿岸にある国家が安定していない、また国家間の関係が安定していないと発展はしていきません。
各国の争いが激しくなると、海上を安全に(危害を加えられることなく)行き交うことができなくなります。
また、イスラム商人が登場する8世紀頃までは航海の技術に限界がありましたので、船が沈没して人・物資とも海の藻くずと消えてしまう可能性も高かったのです。

さらに、これは陸と同じですが、海の場合も盗賊=海賊の存在に各国とも悩まされました。
日本でも、室町時代に中国(明)との貿易が始まる頃に「倭寇」という海賊が中国沿岸を荒らし回っており、問題化していました。
これは、中国南部において海上交易が発達したことの裏返しとして、その富の強奪を狙う沿岸部族が多く存在していたからです(倭寇は日本人・朝鮮人・中国人などで構成されていたとされています)。
倭寇の活動が中国の巨大王朝=元の衰退に合わせて出てきたように、海の道の交易を国家がコントロールしきれなくなると勝手な貿易や海賊活動が活発になるのです。
こうした動きもあって、なかなか海の道はスムーズに発展していきませんでした。

イスラム商人の進出と中国王朝の覇権

イスラム商人の進出と中国王朝の覇権

image by iStockphoto

イスラム商人が絹を求めて中国へ

そこに強大な国家として登場してきたのがイスラム勢力でした。
イスラム勢力はもともとアラビア半島の出身です。
中央アジアのように、アラビア半島もほとんど砂漠で覆われた厳しい環境ですよね。
したがって、一部オアシスをのぞけば農耕を営むことは難しく、古代より交易で生計を立ててきました(イスラム教の預言者ムハンマドも有力な商人の一族出身です)。
勢力を拡大すると、海の道の制海権を手中に収めて、アラビア半島~インド洋~中国に至る広い範囲で活発な交易を開始します。

イスラム商人は、中国へ絹や陶磁器を求めてさかんに航海を行いました。
8世紀というと、先ほどオアシスの道の説明でご紹介したように、陸路でも唐王朝とイスラム王朝がつながり、「タラス河畔の戦い」というのが発生した頃。
陸では戦闘が起きた一方で、海からのイスラム商人の往来に対応するため、中国南部の広州に海上貿易を統括する役所を設置したり、イスラム商人の居留地を設置したりしました。
中国では、イスラム教のことを「回教」、イスラム商人のことを「大食(タージー)」と呼んだそうです。

元と明による制海権の把握

中国南部を制圧すると、モンゴル帝国の中の国の一つであった元は巨大な運河を整備し、貿易の富が北方の首都に集約される仕組みを作りました。
これによって元は経済的な発展を遂げます。
また、元は、制海権を握ることに力を注いでいました。
日本でよく知られる「元寇」は、世界史的に見ると海の道を制覇したい元の貿易政策の一環だったと言えます。
日本侵略はご存じの通り暴風雨や軍の士気の低さによって大失敗に終わるわけですが、日本以外にも現在のヴェトナム方面へ繰り返し遠征を行いました。

元の後に中国統一を成し遂げた明は、特に海の道を重視していました。
北方にはモンゴルがおり、草原の道やオアシスの道を抑えられてしまったからです。
海の道を通じた交易の利益を政府に吸い上げるべく、明では民間の貿易を一切禁止します。
これによって不満を持った沿岸民が「倭寇」となるのですね。
その一方、東南アジアやインド洋に明王朝の威信を誇示するべく、大艦隊を派遣していわゆる「朝貢関係」を強要します。
日本史に出てくる室町幕府との「日明貿易」は、明の側から見れば朝貢貿易の一つでした。

中近世以降の「海の道」

中近世以降の「海の道」

image by iStockphoto

中国の『三大発明」がヨーロッパに影響

元の時代からさかのぼること数百年、海の道を行き交うイスラム商人は中国の「三大発明」を自分の国へ持ち帰ります。
それが「活版印刷技術」「火薬」「羅針盤」の三つです。
この中でも羅針盤はイスラム商人の交易用ダウ船に応用され、航海の安全性を高めたことで、海の道のさらなる発展をもたらすことになりました。

また、この三大発明は中国からイスラム世界を経由して、ヨーロッパに伝わります。
ヨーロッパでは、この羅針盤を強化改良して実用化に結びつけることに成功します。
15世紀末以降、ヨーロッパ各国が新航路を開拓し大西洋から新大陸へ乗り出すことができたのも、羅針盤によって東西南北をある程度正確につかむことが可能になったからです。
それまでは、周囲に陸地が見えないと、船がどちらの方向に進んでいるかはほとんどわかりませんでした(陸地が見えなくなった瞬間、ほぼ遭難決定だったのです…)。
羅針盤がなければ、大洋を航海し、新大陸やインドへ到達することは到底できなかったでしょう。
そういった意味で、まさに羅針盤は世界史を変える発明品だったのです。

ヨーロッパの大航海時代が時代を変えた

古代ローマ帝国が滅亡して以降、ヨーロッパはイスラム世界や中央アジア、インド、中国などの文明と比較すると発展の遅れた地域の一つにすぎませんでした。
最も発展した交易路であるシルクロードから遠く離れていたという地理的な不利もその原因ですが、中世において強勢を誇っていたイスラム勢力と敵対していたために、交易に全面的に参加することが難しかったからでもあります。

それでも十字軍やマルコ・ポーロの『東方見聞録』などがヨーロッパの人々に東方世界への興味をかき立てていました。
また、ポルトガルやスペインのような国は近隣(イベリア半島)からイスラム勢力を追い出すことに成功し、王の権力が強まっていました。
これらの条件もあって、従来の東方ルートではなく大西洋経由の新航路開拓へのモチベーションが高まったのです。

大航海時代が始まり、世界の中心がヨーロッパと南北アメリカ大陸へ移ると、相対的に従来の海の道の重要性は低くなりました。
しかし、アラビア半島からインド洋、中国に至るルートがヨーロッパ人にとっても必要だったのは言うまでもありません(インドからヨーロッパに帰るのにはこちらを進んだ方が早いのです)。
制海権がヨーロッパ人に移っても、現代までこの海の道のある航路は重要な交易路であり続けています。
日本も、中東の国々から石油を輸送するのに海の道をタンカーで行き来しています。

一生に一度は見てみたい!シルクロードの魅力と歴史を知ろう

シルクロードの歴史を追うことは、そのまま大航海時代以前の東西交易の歴史を負うことに他なりません。
現在見ることのできる遺跡は、中国の西部の内陸部から中央アジアの各国に点在しており、豪華な出土品の数々がわずかにかつての繁栄ぶりを現代に伝えています。
ぜひ一度は実際に自分の目で見て、歴史の奥深さとスケールを生で感じていただければと思います。
photo by iStock