屋久島の「あまりに多様すぎる自然」と世界遺産登録へのあゆみ

屋久島は、1993年に世界遺産(世界自然遺産)に登録されました。樹齢数千年に及ぶとも言われている「屋久杉」をはじめ、豊かな森は人気の観光スポットになっています。しかし、なぜ屋久島は世界遺産になりえたのでしょうか?今回は、屋久島の大自然の魅力だけでなく、世界遺産に登録された理由と経緯についてご説明したいと思います。屋久島に行く前に理解しておけば、旅行がより楽しくなること間違いなしですよ!

屋久島とはどんなところ?

屋久島とはどんなところ?

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沖縄県ではなく鹿児島県です!

屋久島と言われても、どこにあるかはっきりと知らないという方も多いのではないでしょうか。
つい沖縄と混同してしまいそうになりますが、屋久島は鹿児島県に属する島です。
鹿児島県最南端の大隅半島佐多岬から、南に約60キロメートル下った場所にあります。
ちなみに、鹿児島県と沖縄本島との直線距離は約640キロメートル。
こうした地理的な位置づけを考えても、屋久島は沖縄のような「南の島」というよりは鹿児島に近い「離島」として考えた方がよさそうです。

屋久島の面積は約500平方キロメートルで、東西が約28キロメートル、南北が約24キロメートルの円形に近い形をしています。
東京23区と同じくらいしかない小さな島ですが、その小さな島にしては珍しく、豊かな森林が島のシンボルであり続けています。
大昔から、山や森林は島民の畏怖や信仰の対象になってきました。
樹齢7000年以上とも言われる屋久杉だけではなく、島全体としても面積の90%が森林で占められています。
深い森と山、多様な生態系を持つ世界的にも珍しい島で、「洋上のアルプス」「東洋のガラパゴス」など、数々の異名を持っています。

屋久島は「山島」!標高の高い山のうち九州上位7位までが集中

もう少し、屋久島の地理的な特徴についてご説明します。
一般的に離島と言うと、美しい海が売りになっていることが多いですよね。
例えば沖縄にある沖縄本島や石垣島などの島々では、青い海と青い空が素晴らしい観光地です。
もちろん、屋久島にも美しい海はあり、ダイビングや海水浴など、海のアクティビティを楽しむ人が多く訪れます。
しかし、屋久島は海だけではなく山の魅力にあふれた「山島」なのです。

その代表例が宮之浦岳になります。
宮之浦岳は標高1936メートルで、屋久島最高峰であるどころか九州最高峰。
標高1500メートルを超える山が20もあり、九州における標高の高い山上位7位までが屋久島に集中しているのです。
阿蘇山(高岳)の山頂でも標高1592メートルですから、屋久島がいかに「山島」であるかご理解いただけると思います。
こんなに高い山が、わずか500平方キロメートルほどの小さな島(それでも日本で7番目に大きいのですが…)に集中しているというのは、とても珍しいことです。

ここまで屋久島に高い山が集中しているのは、地殻変動に伴う海底の隆起によるものと考えられています。
恐竜が活躍していた頃は、屋久島は海底にあったのです!海底の亀裂部分にマグマが漏れはじめ、それが隆起して島ができました。
実際、屋久島のほとんどは花崗岩(かこうがん)というマグマ由来の地質でできています。

屋久島の気候の多様性と豊かな自然

屋久島の気候の多様性と豊かな自然

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山頂では積雪も!屋久島はただの「南の島」ではない

前述の通り、屋久島は鹿児島県よりもさらに南にあることから、かなり気温が高めです。
冬でも最高気温が15度を下回ることはあまりなく、6月から9月にかけて最高気温の平均が30度を超える猛暑日が続きます。
そういった意味では、屋久島は典型的な「南の島」と言えるかもしれません。

しかし、宮之浦岳を初めとした山の頂付近では様相が一変します!標高が100メートル高くなるごとに平均気温が0.6度ずつ下がっていくとされていますので、単純計算でも宮之浦岳の山頂では地上より12度も平均気温が低いのです。
秋の終わりから春の初めにかけて最低気温が氷点下を記録、雪に覆われて立ち入りは厳しく制限されます。
当然、日本国内で積雪が観測される最南端です。
3月のお彼岸以降ですら、降雪と凍結で通行止めになってしまうことがあります。

地上と森の中では気温差が大きいので、初めて屋久島に来た方の多くが服の選択に失敗します。
屋久杉を見に行くツアーの目的地も標高が1000メートルほどありますので、防寒着は必須。
「月に35日雨が降る」と言われるほど雨量も多いです。
屋久島観光には、沖縄や奄美大島といった他の「南の島」とは違った入念な準備が必要不可欠と言えるでしょう。

豊かな自然相はトレッキングにぴったり!

このように、屋久島は気温の高い亜熱帯地域に属していながらも、沖縄と同じくらい暑い地域から北海道と同じくらい寒い地域までがギュッと詰め込まれていることが特徴。
そのため、日本全体の約7割、1500種にものぼる植物相が見られるという奇跡のような自然環境を誇っています。
屋久島は、山のアクティビティやトレッキングが大変魅力的な島でもあるのです。

海岸に近い低地では、沖縄や台湾でよく見られるアコウやガジュマルなどといった亜熱帯性の植物が自生しています。
内陸に入っていくと、カシやシイ、標高1000メートル付近まではスギ、それ以降は屋久杉、標高1600メートルを超える山岳地帯ではササやシャクナゲなどといった高山植物が見られます。
しばしば巨大な屋久杉だけが注目されがちな屋久島の自然ですが、少し目をこらせばこれだけ多様な植物たちを目の当たりに。
屋久島だけに自生する「固有種」も約40種発見されていますから、ぜひここでしか見られない貴重な植物を見つけてみましょう。
もちろん、自然環境の保護を意識して、決められたルート以外には入り込まない、植物は傷つけない、ゴミは捨てない、などのマナーは大前提ですよ。

屋久杉の大きさと魅力!

屋久杉の大きさと魅力!

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屋久杉はなぜこんなに大きくなるの?

1966年、標高1300メートル付近で樹高が25メートルから30メートル、胸高周囲16メートル、根回り40メートル超という巨大な屋久杉が発見されました。
推定樹齢が7200年という説もあることから「縄文杉」と名付けられたこの杉は、今では屋久島の観光スポットとして観光ツアーの目玉です。
最も有名なのは縄文杉ですが、これ以外でも樹齢1000年を超えるスギがいくつもあります。
一般的にスギの寿命は最長300年と言われていますので、屋久杉は突出して樹齢が大きくなっています。

ところで、なぜ屋久杉だけこんなに大きくなるのでしょうか。
ご存じの通り、スギは日本全国どこにでも生えているありふれた植物です。
しかし、屋久島以外でここまで巨大化するスギはありませんよね。

そのポイントは、高温多雨の特殊な自然環境と花崗岩。
雨が多いことから、植物が大きく生育する条件があります。
また、屋久島の地質の特徴である花崗岩は栄養分が少なく、杉の生育が遅くなります。
スギは成長に伴って年輪を形成します。
この年輪の幅が一般的なスギよりも狭いことから、かえって木が堅くなります。
木が堅くなると、樹脂がたっぷりたまります。
樹脂には抗菌・防虫効果があることから、樹脂をたっぷりとためこんだ屋久杉は腐りにくく、長い間ゆっくりと成長を続けることができるのです。
「土の栄養分が少ないからこそ大きく育った」というのはなんだか面白いですよね。

ご神木としてあがめられた屋久杉

山国である日本では、各地で「山岳信仰」というものがあります。
山に住む神様や、ときには山自体を畏れ敬う対象とした原始的な宗教です。
2016年に大ヒットしたアニメ映画『君の名は』でも、不便な山の頂上にご神体があるというシーンがありました。

ただし、屋久島における山岳信仰は変わっています。
集落単位で山岳信仰が残っているのです。
集落に流れ込む川の上流にある山を御嶽(みたけ)として、山の名前を集落名とする形で、各集落が山を崇めています。
例えば、最高峰の宮之浦岳のふもとには「宮之浦」という地区があります。
それぞれの集落の「守り神」が山なのですね。
そして、その森林の奥にある巨大な屋久杉が「ご神木」として崇拝されてきました。
今でも、山や巨木を神聖視する島民は数多くいます。

後述しますが、屋久島の歴史は屋久杉伐採の歴史でもありました。
そんな中でも巨木たちが伐採を逃れたのは、そのあまりの巨大さゆえ。
大きすぎて切ることができないことや、こぶや幹だらけの外面が木材として加工・利用できないことがその理由でした。
現在、私たちが観光の対象として屋久杉を見ることができるのも、島民の山岳信仰や木自体の長い歴史があるからなのです。

世界遺産(世界自然遺産)としての屋久島の概要

世界遺産(世界自然遺産)としての屋久島の概要

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屋久島のココが評価されて世界自然遺産に!

1993年12月、屋久島は法隆寺・姫路城・白神山地とともに、日本で初めて世界遺産(世界自然遺産)に登録されました。
日本が世界遺産条約を締結して世界遺産委員会へ推薦できるようになったのは前年1992年ですから、その時点で国内では屋久島が日本を代表する「自然遺産」であるという評価が定着していたことになります。
実際、戦前の1924年にはスギ原生林が天然記念物として、さらに戦後の1954年には特別天然記念物として指定されていました。
また、1992年には林野庁から「屋久島森林生態系保護地域」に指定され、自然環境の維持や動植物の保護などが図られてきました。

世界遺産の登録の是非を判断する世界遺産委員会で高く評価されたのも、その大自然の美しさや貴重な生態系です。
さらに、こうした自然環境と人間生活の営みが共存していることにも賞賛の目が向けられました。
つまり、世界的にも珍しい屋久島の多様な自然はもちろんのこと、そこに暮らす島民たちが自然とともに存在し、自然に感謝しながら生活してきたことの文化的な価値も高く評価されたということです。
世界的には観光資源として自然遺産が荒れていった地域もある中で、屋久島の「共存モデル」は注目すべきものがあります。

自然と人間との共存モデルとして

屋久島にある屋久町と上屋久町の町議会では、世界遺産登録直前に「屋久島憲章」を決議しました。
「わたくしたちは、歴史と伝統を大切にし、自然資源と環境の恵みを生かし、その価値を損なうことのない、永続できる島づくりを進めます。」など四カ条からなる屋久島憲章は、世界遺産登録後の観光客増加による混乱の発生を見越して、自然環境保護に向けた島全体の取り組み姿勢の根幹を定めたものです。

実際に観光客は大きく増加し、今では日本の人気観光地となる一方で問題も発生しています。
ゴミの増加、道路や山小屋整備の遅れ、屎尿処理の不備による水源汚染、観光ガイドの質など、挙げたらきりがないほどです。
経済的なメリットを享受しながらこうした問題をコントロールしていくための舵取りが屋久島には求められています。
その舵取りの根本をなす「憲法」が屋久島憲章なのです。
現在も各論においては開発と環境保護の狭間で島民同士に意見の相違が発生してはいますが、根っこの部分では「自然と人間がいかに共存していくのか」という問題意識を共有してつながっています。
ちょうど、屋久島の木々の根っこが花崗岩でつながっているように。

江戸時代までの伐採の歴史

江戸時代までの伐採の歴史

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江戸時代には森林の大半が伐採

ここからは、世界遺産登録に至る伐採と環境保護の歴史を見ていきましょう。
屋久島にはすでに縄文時代から人の居住があったと考えられ、竪穴式住居の跡が見つかっています。
飛鳥時代や奈良時代にも、遣唐使や朝廷の使者の往来が記録に残っていることから、日本本土との交流もかなり昔からあったようです。
ただ、この時代のことはよく分かっていません。

屋久島の森林伐採が始まったのは、一節によると16世紀末、豊臣秀吉の時代とされています。
京都の方広寺大仏建立に必要な木材の一部が屋久島から調達されたようです。
屋久島は鹿児島(薩摩)を統治していた島津氏の支配下に入りました。
島津氏は、島民が勝手に木を切り出すのを禁止する一方で、藩の財政強化のために屋久島の豊かな森が木材として売られるようになりました。
一般的に「年貢」と言えば米で納めますが、稲作や畑作に向いた土壌のない屋久島では、すべて屋久杉を加工した板で納められたのです。

農業の代わりに島民は森林伐採を行っていたわけですから、江戸時代の森林破壊はかなり大規模に行われたと考えられています。

大きすぎる屋久杉は伐採されず

大部分の屋久杉は、島民の生活のために、そして島津藩の財政安定のために伐採されました。
推定では、屋久杉全体の5~7割が幕末までに切られたとされています。
数百年前のものと見られる切り株が島のあちこちで発見されています。
農業も満足にできない島民にとって、屋久杉は文字通り「生きる糧」でした。

しかし、昭和期に発見された縄文杉をはじめ、樹齢数千年と言われる巨大な屋久杉の数々は伐採されずに今日までその姿を残しています。
その理由は、前述の通りあまりに巨大すぎて木材としては使い物にならなかったことです。
また、鉈や斧を振り回して人力で木を切り倒す江戸時代までのやり方では、切り倒すのすら困難で放置せざるを得ませんでした。
なにしろ、直径数メートルから10メートルに及ぶような太さですから、加工も難しいとなれば切り倒すようなモチベーションは島民にもなかったわけです(他に木はいっぱい生えていますし)。

この時代に伐採された屋久杉の後からは、若い木が誕生して「小杉」と呼ばれています。
おそらく、集落から近い森林では簡単に小杉が見つかるはずなので、訪れた際は探してみるのも面白いかもしれません。

高度経済成長期までの大規模伐採

高度経済成長期までの大規模伐採

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1922年には天然記念物に指定

明治維新が起きると、島津藩の領地であった屋久島は島民に払い下げられます。
しかし、明治初期の地租改正の際に山林のほとんどが官有地(国有地)化され、島民は自由に山林へ入り込むことができなくなってしまいました。
生活のほとんどを頼り切っていた屋久杉を伐採する術を失ったことで、島民はあっという間に困窮状態に陥ります。

これに激怒した島民は、なんと大臣を相手に裁判を起こします。
要求は、改めて屋久島の山林を島民に払い下げること。
16年におよぶ長期の裁判闘争の末、判決は島民の敗訴に終わりましたが、国会の場でも批判が噴出します。
結局、1921年には島民が国有林を使用できるとする決まり(通称「屋久島憲法」)が制定され、島民と和解を果たします。
続けて1922年には天然記念物に指定されることも決まり、島民は従来通り屋久杉に経済面を依存した形での生活を続けることができるようになりました。
しかし、経済面が安定した一方で乱伐を防ぐことは難しかったようです。

第二次世界大戦中も、戦車を乗せるイカダや銃床などのために大きな屋久杉が供出されたことから、伐採はそのスピードをますます加速していきます。

高度経済成長でさらなる伐採が進む

戦争が終わって10年ほどすると、高度経済成長が始まります。
木材需要は急速に高まり、屋久島の森林伐採はより広範囲に、より大規模に行われるようになりました。
伐採用の道具も鉈や斧からチェーンソーなどへと機械化したことで、効率的かつ迅速に作業を進めることが可能になっていました。
そのうち、伐採基地周辺の木材が枯渇するケースが発生し始めます。

こうした状況に対し、島民自身からも不安の声が上がります。
1966年には党内最大の縄文杉が発見され、島の象徴として日本中に知られるようになったことも、山林保護の気運を高める雰囲気を作り出していきました。
また、木材需要の高まりと国産材の価格上昇に伴って安価な外国産木材の利用が増えたことから、屋久杉伐採の経済的メリットも薄れつつありました。
こうして、1970年には島内最大の木材事業所が閉鎖され、山林保護の声が主流となりつつあったのです。

1980年代には完全に伐採が禁止され、平成が始まる頃には完全に伐採の長い歴史にもピリオドが打たれて自然環境と人間が共存する道が模索されるように。
伐採が始まってから、実に400年近くが経過していました。

保護運動の高まりと国際的注目

保護運動の高まりと国際的注目

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「屋久島を守る会」の結成

島民による環境保護運動は、国にも影響を与えるものだったと言えます。
屋久島の象徴である屋久杉の乱伐を目にした島民は、1971年に伐採の中止を求めて「屋久島を守る会」を結成しました。
上屋久町では「林地活用計画」を提案して、保護運動の促進を図りました。
また、1973年には白谷雲水峡(しらたにうんすいきょう、映画『もののけ姫』のモチーフとされています)を自然休養林としました。
1975年、屋久町の方でも「屋久島原生自然環境保全地域」を指定することで、町を挙げて自然環境の保護に乗り出す方針を明確にしました。

こうした環境保護運動や屋久島の豊かな山林は、折しも公害が社会問題化した日本本土でも認知度を高めつつありました。
1983年、朝日新聞と森林文化協会主催の「自然100選」に屋久島が選ばれ、1985年には宮之浦流水が全国の「名水100選」に選出。
1989年には読売新聞主催の「新・日本の銘木百選」に縄文杉が、翌1990年には「大川の滝」が「日本の滝100選」に選ばれるなど、その名は全国的なものになりつつありました。
それとともに、豊かな自然を求め、屋久島を訪れる観光客の数もじょじょに増加していきました。

ユネスコで認められる

屋久島における自然環境の保護運動が島内にとどまらず全国的に知られるようになる中、1981年には屋久島のスギ原生林がユネスコ「人間と生物圏計画」の「生物圏保護区」に指定されました。
島民の小さな声から始まった運動が、国際的な注目を浴びるまでになったのです。
これが、後の世界遺産登録につながっていることは言うまでもありません。

そもそも、ユネスコの制定した「世界遺産条約」では、遺跡・景観・自然などを人類共通の宝として共有するとともに、人類はこれらを後代まで受け継いでいく義務があると見なしています。
また、世界遺産条約では「世界文化遺産」「世界自然遺産」「複合遺産」の三種類をまとめて保護することが定められており、これまで対立するとされてきた人間の文化と自然の共存・両立を重視しています。

こうしたユネスコと、屋久島の保護運動は理念を同じくするものだったと言えます。
屋久島が日本で初めて世界遺産に登録されたのは、屋久島の大自然が世界的に評価されたということだけを意味しているわけではありません。
島民たちの地道な保護運動が、日本を超えて世界に評価されたことを示しています。

ついに世界遺産(世界自然遺産)へ登録!

ついに世界遺産(世界自然遺産)へ登録!

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遅い…日本は1992年に世界遺産条約批准

世界遺産登録に関する取り決め(世界遺産条約)自体は1972年に採択され、1975年に発効となっていました。
ただし、日本が条約を批准したのは先進国の中でもかなり遅く、1992年になってから。
批准が遅れた理由については、さまざま憶測があります。
すでに文化財保護法(1950年制定)や自然環境保全法(1972年制定)などといった法律があったため、改めて国際的な取り決めに参加するまでもないという意見があったとも言われています。
また、1970年代の日本では「先進国入り」が最優先課題であり、世界遺産に対する注目度が国民も政府内でもあまり高くなかったのも原因とされています。

その後1980年代に白神山地、知床、屋久島(今ではどれも世界自然遺産になりましたね)などでの伐採・開発反対運動が注目を浴び、政府への批判が強まった結果として環境保護に対する国民的な関心が高まりました。
1990年前後になってやっと「世界遺産」という概念に対する認知度がマスコミを通じて高まり、世界遺産条約の早期批准を求める声が環境保護団体を中心に巻き起こったのでした。

結果、1992年にようやく世界遺産条約への批准を果たします。
日本は125番目の締約国でした。

屋久島が日本初の世界遺産へ

条約批准するやいなや、日本は同年1992年に四つ(他は法隆寺・姫路城・白神山地)も世界遺産委員会へ登録の推薦を行います。
現在は文化遺産と自然遺産を一つずつしか推薦が認められていないのですが、当時は一国が複数の候補を推薦することが許されていました。
また、先進国の中で唯一世界遺産条約に参加していなかった日本が参加に至ったことで、翌1993年の世界遺産委員会は日本に対する「ご祝儀」のように複数の候補地がそのまま登録へつながりました。
もちろん、屋久島を含めた各地域の地道な保存運動、保護運動の継続が実を結んだわけです。

当時の世界遺産への推薦は、国が主導的に行っていました。
そのため、1992年時点で環境保護運動において存在感を示していた白神山地と屋久島が世界自然遺産の候補地として政府内で名前が挙がったのでした。
もちろん、屋久島の島民たちは世界遺産を目指して運動を続けていたわけではありませんが、国際的な注目が保護促進につながること、一方では世界遺産というブランドを利用した観光業の振興が期待されていました。
屋久杉が保護対象となり伐採できなくなったことは、かつての島の基幹産業であった林業の崩壊を意味しており、これに代わる産業の確立が保護運動とともに島の大きな課題の一つだったのです。

世界遺産登録の影響はどこに?

世界遺産登録の影響はどこに?

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観光客増加による経済成長と環境悪化

世界遺産に登録されたのをきっかけに、屋久島の経済状況は上向きとなりました。
屋久島の純生産額を見てみると、登録前の1990年には260億ほどだったのが、登録後の1995年には350億、2008年には450億ほどにまで伸びています。
やはり第一次・第二次産業の落ち込みは回避できていませんが、代わりに第三次産業、特に観光業の伸びが著しく、被雇用者の受け皿となりました。
また、地方が人口減少に苦しむ中、屋久島では登録されてから20年以上現状維持を続けています。

その一方、事前の懸案でもあった観光客増加による混乱、環境悪化の問題があります。
観光客の増加が想定を遥かに超えていた(1万人から10万人超へ!)ため、登山道やトイレ、道路などの整備が全く間に合わなくなってしまいました。
また、マイカーによる排気ガス問題、屎尿処理の不備による水源汚染、シカの進出に伴う食害の拡大などが負の影響として問題化されるようになりました。
原生林の観光利用が一気に進む中で、自然保護や施設の維持・管理にかかる経済的・人的なコストが増大し、自治体や島民に負担としてのしかかりました。

島民の心理にも影を落とす

島民の多くは、自分たちの島が世界的な評価を受けたこと自体は好意的に捉えていました。
観光業の仕事が島内で増えたことで経済的にも生活が安定したので、世界遺産登録の恩恵をある面では享受できたと言えます。
しかし、あまりに観光客が増えたことで生活の変化を余儀なくされ、快く思っていない面も少なからずあります。
地域振興が成功した面はあるものの、やはり「環境保護」ではなく「世界遺産」というブランドに依存していることは、島民たちにとってネガティブな影響をもたらしました。

さらに、最大の不満は、聖なる山が観光客に「奪われる」という意識から生じています。
観光業発展のもたらす物理的な自然破壊に対する不満、そしてそれを押しとどめることのできない行政に対する不満はもちろんあります。
しかしそれ以上に、それまで自分たちのテリトリーとして宗教的・経済的なよりどころであった屋久島の自然が、観光客によって容易に入り込める「観光スポット」になることに対する不満があったのです。

国主導の世界遺産登録や法律の制定が、森とともに生きてきた当事者のニーズをどこか置き去りにしてきた感は否めません。

観光と環境保護のはざまで屋久島はどこに向かうのか?

観光と環境保護のはざまで屋久島はどこに向かうのか?

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自然環境保護に取り組む屋久島

世界遺産登録後も、国と地域が一体となった取り組みが進められてきました。
屋久島では1995年に環境基本条例が制定され、同年国も「屋久島世界遺産地域管理計画」を策定して保護の仕組み作りが進みました。
2005年には屋久島の浜がラムサール条約に登録されるなど、国際的な評価も受けつつ自然環境保護の取り組みは今でも積極的に続けられています。

単なる仕組み作りだけではなく、設備の充実や「エコツーリズム」概念の啓発にも動き出しています。
1993年の世界遺産登録後しばらくは、とにかく観光客が増えすぎたことへの設備の準備が喫緊の課題だったため、登山口のトイレ建設、縄文杉付近の展望デッキ設置、マイカー規制の導入、屎尿の搬出処理能力の向上、環境保全募金、利用マナーの啓発などが矢継ぎ早に打ち出されました。

しかし、利用者が増え続けた結果こうした対症療法的な対策はすぐに限界を迎えてしまいました。
やはり、観光のスタイルそのものを環境保護に即した形へ転換させない限り、人間と環境の共存はなかなか実現できないのです。
こうした事態を受け、2009年には「エコツーリズム推進協議会」が設けられました。
環境に負荷を与えない「エコツーリズム」という概念が日本にも導入されつつあり、屋久島でも登山人数の制限が検討されました。
観光業に依存している現状ではなかなか実現へのハードルは高いのですが、新たなアイディアとして注目はされています。

問題を解決するのは「私たち」だ!

屋久島における観光と環境保護のジレンマは、現在進行形で続いている構造的な問題です。
「共存」「両立」を唱えるのは簡単かもしれませんが、国・地域・島民・観光客の絡みの中で実現に持っていくのは想像以上に困難な課題。
必ず、どこかから不満が出てきます。

このジレンマを解決するには、何が必要でしょうか?まず絶対的に求められるのは、観光客の考え方やマナーです。
ゴミを捨てない、動植物を傷つけないなどのマナーを守るのは当然のこと、屋久島が定めた環境基本条例や「屋久島憲章」のような理念を共有することが必要なのではないでしょうか。
つまり、観光客は屋久島の豊かな観光資源を消費するだけの「消費者」なのではなく、それを守り育む「当事者」なのです。
実際問題としても、年に10万人を超える観光客の協力なしに環境保護を実現することは到底できません。

世界遺産条約の大前提として、世界遺産が「人類の共有する宝である」という考え方があります。
屋久島は私たちが共有する宝であり、その環境問題は私たちが共有すべき課題に他なりません。
私たちひとりひとり、特に観光客には屋久島の自然を保護し、次の世代へ受け継いでいく権利と義務があるのです。

屋久島の貴重な生態系を守るために

屋久島の貴重な生態系と、世界自然遺産に選ばれるまでの経緯、その後の影響まで駆け足でご説明してきました。
屋久島の自然を観光客が楽しむことができるのも、地元の人々の懸命な努力があってのことです。
森林を傷つけない、ゴミを捨てない、マナーを守るなどといった「当たり前」の行動が求められますね。
自分がただの「観光客」ではなく、自然を守る「当事者」のひとりだ、と考えると、屋久島の素晴らしい自然環境がより胸に迫ってきますよ。
ぜひ、この記事の内容を頭に入れて屋久島に行ってみてはいかがでしょうか。
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