観光の前に知りたいブラジルの歴史。コーヒー、サッカー、サンバ…全ては歴史の賜物

2014年にはサッカーのワールドカップ、2016年にはオリンピックと続けざまにスポーツ界のビッグイベントが開催されたブラジル。近年の経済発展も目覚ましく、今後の世界で大きな影響力を持つようになる可能性を秘めた南米の大国です。コーヒーやサッカー、サンバなど陽気で自由なこの国の歴史は、中南米の他の国と同様に、ヨーロッパのアメリカ大陸「発見」以降大きく揺れ動いていきます。ブラジルの観光名物も、ルーツは全て歴史にあるのです。今回は、20世紀初めの移民もあって、地球の真裏にありながら日本との関わりも深いブラジルの歴史を見ていきましょう。

インディオとヨーロッパ人のアメリカ大陸「発見」(~16世紀)

謎に包まれたブラジル先住民の歴史

謎に包まれたブラジル先住民の歴史

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記録されたブラジルの「歴史」は、15世紀末のヨーロッパ人の南アメリカ大陸「発見」から始まります。
それまで、この地に人間が住んでいなかったわけではありません。
それより何千年も前から、ブラジルにも先住民族が暮らしを続けていました。
しかし、彼らは文字を持っていませんでした。
ヨーロッパ人来訪以前の彼らの暮らしぶりや社会機構について、記録が残っていないのです。
記録が残っていない以上、先住民族について分かっていることはほとんどありません。
したがって、ブラジルの歴史をひも解くと、その始まりはどうしてもヨーロッパ人来訪以降になってしまうのです。

ただし、それでもわずかな考古学的発見や記録から、先住民の生活について分かっていることがあります。
例えば、ヨーロッパ人来訪直前の時点で100万~200万人の人口があったと推測されているにもかかわらず、彼らには社会階級がなく、強大な国家もなかったと言われています。
また、太平洋側には巨大なインカ帝国が存在していたものの、アンデス山脈やアマゾンのジャングルに隔てられた大西洋側にはその覇権は及んでいませんでした。

ポルトガル人カブラルたちのブラジル「発見」

はじめてブラジルの地を「発見」したのは、カブラルを隊長とするポルトガルの第2回インド遠征隊でした(第1回がヴァスコ・ダ・ガマに率いられたものです)。
この船団は新大陸での香辛料貿易や探検を目的としたものでしたが、偶然にもブラジルの地に漂着したのです。
1500年の出来事でした。

ブラジルの地は、ポルトガルとスペインの間で結ばれていたトルデシリャス条約に基づいてポルトガル領となりました。
トルデシリャス条約とは、新世界での領土紛争を未然に防ぐためのもので、セネガル沖のカーボベルデ諸島という島を通る子午線(赤道と直角に交わる線です)の西はスペイン領、東をポルトガル領として認めるという、驚くほどどんぶり勘定の条約です。
ともあれ、このトルデシリャス条約に基づいてブラジルはポルトガル領となりました。

あくまで当時の「ブラジル人」とは先住民たちではなく、ブラジルにやってきたポルトガル人のことである点には注意が必要です。
「インドに到達した!」というヨーロッパ人の勘違いに基づいて、ブラジルを含めた南北アメリカ大陸の先住民たちは「インディオ(インディアン、インド人の意味)」と呼ばれていました。

なお、この船団に同行していた商人たちは、当時ヨーロッパで取引されていた赤色染料の原料である「パウ・ブラジル」という木を発見します。
これが現在の国名の由来です。
植民地となった当初のブラジルは、ポルトガル本国からやってきた商人がパウ・ブラジルの貿易をするだけの土地でした。

「砂糖の時代」とブラジル公国の成立(16~17世紀)

砂糖プランテーションの成立

砂糖プランテーションの成立

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交易の材料となったパウ・ブラジルは、しかし16世紀前半にはほとんど取りつくされてしまいました。
その後商品として注目されたのが砂糖です。
サトウキビを原料とする砂糖を大量に生産してヨーロッパに持っていけば、大きな利益を期待することができました。

砂糖を安定的に生産するためには、多くの労働力が必要です。
イエズス会宣教師が布教活動と教育で先住民の心をつかんでいることに着目したブラジル人は、これら先住民を襲撃して捕らえ、サトウキビ農園の労働力として酷使するようになりました。

それと同時に、黒人奴隷も労働力として活用します。
ヨーロッパから西アフリカにラム酒や武器を供給して黒人奴隷を購入し、ブラジルに連行して砂糖生産に従事させます。
生産した砂糖をヨーロッパで売りさばくモデルが完成しました。
「三角貿易」です。
ポルトガルは、このモデルでばく大な利益を上げることができるようになりました。
砂糖プランテーション経済の完成です。
その一方、農園での奴隷労働は過酷を極めたとされています。

そのうち、先住民や黒人女性との混血児が増えてきます。
白人と先住民との混血人をメスティーソ、白人と黒人との混血人をムラートと言います(ちなみに「ムラート」という言葉は「雌のラバ」に由来しており、差別的なニュアンスを含んでいることは覚えておいてください)。

オランダの侵入とブラジル公国

16世紀前半には隆盛を極めたポルトガルですが、徐々に隣国スペインに押されていきます。
そして、1580年にはスペインについに併合されてしまい、ハプスブルク帝国の中の一国となります。
ブラジルも、ポルトガル領からスペイン領へ変更されました。

そこへ侵入してきたのがオランダです。
長年ハプスブルク朝スペインからの独立運動を行っていたネーデルラントのユトレヒト同盟は、1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)として独立を宣言。
スペインに打撃を与えるべく、ブラジルにも侵入を開始しました。
1621年にはアフリカや南北アメリカ大陸での貿易・征服活動を目指してオランダ西インド会社を設立し、本格的にブラジルにおけるスペイン領の切り崩しにかかります。
結局、1630年には一部地域が占領され、オランダ領ブラジルが成立します。

1640年、スペインからポルトガルが再度独立を果たします。
ポルトガルはブラジルからオランダを追い出す戦いを開始し、1646年にはブラジルを「ブラジル公国」へ昇格、王太子を「ブラジル公」としてポルトガルの傘下に入れる仕組みを構築します。
1654年、オランダはブラジルから完全に撤退し、ブラジル全域は再びポルトガル領へ変更されました。

元祖ゴールドラッシュ!黄金求め領土は拡大(17~18世紀)

「黄金の時代」は世界史にも影響

「黄金の時代」は世界史にも影響

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砂糖の生産でばく大な利益を上げたブラジルですが、17世紀後半には供給の増加によって砂糖価格は大きく下落してしまいました。
また、急速に勢力を拡大し、砂糖貿易の「お得意様」でもあるイギリスへの経済的従属が深まっていました。

こうした事情から新事業開拓の必要に迫られたポルトガルは、この地の鉱物資源に着目し、特に金を積極的に探すようになります。
17世紀末にブラジル南部のミナス・ジェライスで大きな金鉱山を発見すると、アメリカ合衆国より150年も早く「ゴールド・ラッシュ」が始まります。
1729年には、ダイヤモンドも発見されました。
当時の中心部であったブラジル北東の沿岸部から多くの人々が殺到して金の採掘が行われ、ポルトガルに大きな利益をもたらしました。
これによって、ブラジルでは経済の中心が北部から南部に移りました。
現在でも、サンパウロやリオデジャネイロなどといったブラジルの中心都市は南部に位置しています。
一方、農業が一気に衰退するという弊害もありました。

また、世界史レベルでもこの「ゴールド・ラッシュ」は大きな影響を及ぼしました。
ポルトガル本国にイギリスの綿製品が大量に流れ込んだため、本国へ送られた金はそのままイギリスに蓄積されました。
このことが、イギリス本国で企業が資金調達することを容易にし、イギリス産業革命発生の要因の一つとなったのです。
ブラジルの鉱物資源がなければ、産業革命はもう少し遅れていたか、違う形になっていたかもしれません。

高まる革命の機運も独立は果たせず

18世紀半ば、ポルトガル本国で国王から絶大な権限を付与されたポンバル侯カルヴァーリョによって、ブラジルでは重商主義的な改革が相次いで実施されました。
これはポルトガル本国の富を増大させるための改革であり、インディオの奴隷化廃止、広大な農園と不動産を所有し大きな影響力を及ぼしていたイエズス会の排除などが行われました。
この時代にコーヒーがもたらされ、農業や工業が発展する一方で、イエズス会の担っていた初等教育が崩壊に追い込まれました。

イエズス会から剥奪された資産はポルトガル商人に安価で払い下ろされたため、商人を中心とした中間層が大きく発達しました。
その一方で、あまりにきつい本国からの締め付けは、皮肉にも力をつけた中間層を中心に反発を招くようになっていました。
18世紀末になると、北アメリカ大陸におけるアメリカ合衆国の独立やヨーロッパにおけるフランス革命、カリブ海におけるハイチ革命といった一連の動きに刺激を受け、独立と共和制導入の機運が高まります。

しかし、初等教育の基盤がなく、高等教育機関も存在しなかったブラジルでは、革命を理論的に裏付けていた啓蒙思想を取り入れる準備がありませんでした。
そのため、本国に対する素朴な反発心はなかなか大衆レベルでの革命運動につながることがなく、単発的な一部の層の「陰謀」レベルにとどまっていました。

ついに独立!その陰にはナポレオンの影響が?

ポルトガル王室がブラジルへ逃亡!

ポルトガル王室がブラジルへ逃亡!

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ブラジル独立のきっかけは、ポルトガル本国の混乱でした。
1807年、皇帝ナポレオン率いるフランスがポルトガルに侵攻します。
首都リスボンは瞬く間に攻め落とされ、王家を含むポルトガル宮廷の人々は、イギリスに護衛されてほうほうの体でリオデジャネイロに逃亡したのです。

王家がやってきたことは、ブラジル社会に大きな影響を与えました。
リオデジャネイロがリスボンに代わって首都となり、急速に町並みの整備が進みました。
ブラジルにおいて南部が経済・文化・社会の中心的な役割を果たす傾向が一層強まりました。

その一方で、ポルトガル本国と同様にブラジルでもイギリスへの経済的従属が深まりました。
イギリスに逃亡を手助けしてもらったこともあって、ポルトガル亡命王家とイギリスとの間に自由貿易協定が結ばれ、イギリス製品がブラジル市場へ大量に流れ込んだのです。
その結果ブラジルの産業構造は大きく変化し、綿工業や製鉄業は特に壊滅的な打撃を受けます。
また、ポルトガル人と現地ブラジル人との人種的、政治的な対立も先鋭化し、共和制を求める声がブラジル人の間で強くなり始めます。

本国で革命!王室が帰り独立達成

ヨーロッパでは1814年にフランスが敗れ、ポルトガルからも撤退します。
しかし、その後ポルトガルでは平和が戻ることはなく、王家もフランスもいないという空白の中でむしろ政治的な混乱状態に陥ります。
その結果、ポルトでの暴動をきっかけとして、「1820年自由主義革命」が勃発します。
首都リスボンの平和を取り戻すために直ちに帰還すべしという革命派の要請を受け、王家はポルトガルに帰還することになりました。
しかし、もとの王国に戻ることはなく、ポルトガル本国は立憲王国として再出発を切ります。

この際、本国の革命派はブラジルを「ブラジル王国」から再び植民地の「ブラジル公国」に格下げするよう画策します。
しかし、本国における自由主義革命の影響を受け、本国の支配にうんざりしていたブラジル人たちは、もはやポルトガルの植民地としての地位を受け入れることはありませんでした。
王位継承者でブラジルに摂政として残されたペドロをたきつけ、ついに1822年独立を宣言したのです。
ペドロは「ブラジル皇帝ペドロ1世」として即位し、ブラジルは「ブラジル帝国」となります。

第一帝政時代の開始と反政府運動(19世紀前半)

第一帝政時代の開始と反政府運動(19世紀前半)

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ペドロ1世の即位と第一帝政時代

19世紀前半、多くのラテンアメリカ諸国が相次いで独立を果たしました。
ブラジルの独立のパターンは、他の国とはかなり性質を異にしています。

第一に、独立の過程で大きな社会的混乱や先鋭的な政治対立がありませんでした。
他の諸国では、現地の革命家たちが本国の政治家や資産家らと激しく対立し、内戦状態になったところもあります。
例えば、シモン=ボリバルはコロンビア、ベネズエラ、ボリビア(国名の由来にもなっています)、ペルーなどの各国で独立運動に携わりました。
サン=マルティンはアルゼンチンやチリ、ペルーの独立運動に関わり、本国の軍隊と激しい戦いを繰り広げました。
それに対し、ブラジルでは本国の王家の人間が王として即位し、ブラジル全体で経済構造ができあがっていたため、大きな対立もなく独立が達成できました。

第二に、その一方で植民地時代の権力構造が維持された「不完全な革命」でした。
他の国では、本国の権力とは無縁の革命指導者によって、本国から政治的な実権を奪い取る形で独立が成立しました。
それに対し、ブラジルではポルトガル本国の王家による支配、大地主が権力を握るという構造が残存したままで、王を廃した共和制を望む人々の間では不満がくすぶり続ける結果となりました。

共和制を求める反政府運動!ペドロ1世ポルトガルへ逃亡

独立後も、ポルトガル人(主にポルトガル再併合派)と植民地人(主に独立維持・強化派)との間で政治的な対立は続き、社会は不安定なままでした。
ペドロ1世は、有色人種(先住民族、黒人)やブラジル生まれの白人を権力から遠ざけ、本国出身のポルトガル人を重用しました。
1824年には、ポルトガル寄りの新憲法を公布したものの、北東部ペルナンブーコ県のレシーフェで共和制が宣言されるなど、複数の反乱が発生しました。

また、東方の独立戦争が帝政に大きな打撃を与えます。
1825年に東方のシスプラチナ州がブラジル帝国に対して独立戦争を仕掛けたのです。
反乱指導者たちがアルゼンチンとの連合を宣言したのをきっかけに、アルゼンチン・ブラジル戦争(シスプラチナ戦争)が勃発。
独立軍は戦術的にはブラジルに勝利を収めたものの、アルゼンチン本国でも政治的な混乱状態に陥っていたこともあり、イギリスの仲裁で戦争が終結し、シスプラチナ州はウルグアイ東方共和国として独立に至ります。

こうした結果、ブラジルでは特に下院が政府に批判的となり、ウルグアイ独立をペドロ1世の失政として強く糾弾。
もともとくすぶっていた民衆の不満に火がつき、全国的な政府反対運動へ発展していきました。
結局、1831年にペドロ1世は退位を宣言し、わずか5歳のペドロ2世を後継者に指名してポルトガルへ退去してしまいました。

第二帝政 vs 反政府運動の結末は?(19世紀後半)

ペドロ2世が即位して第二帝政開始!

ペドロ2世が即位して第二帝政開始!

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皇帝はたった5歳。
当時の憲法の規定により、3人の摂政のいる摂政府が政治を担うことになりました。
皇帝不在のこの時期(1831~1840年)を摂政期と呼びます。
この期間は、中央も地方も大きな混乱状態にありました。
中央では、ペドロ1世回帰派、自由主義穏健派、自由主義急進派の三つ巴となり、権力争いを繰り広げます。
1834年にペドロ1世がポルトガルで死去すると、ペドロ1世回帰派は自由主義穏健派に合流し、進歩党と回帰党が設立されます。
これらは後に自由党と保守党へ変化し、現在に至る二大政党制の原型となりました。

地方では各地で反乱が相次ぎます。
特に、アルゼンチンやウルグアイに接する最南端リオ・グランデ・ド・スル県では混血であるガウーショと牧場主の連合軍が自治を宣言するに至り、ブラジル帝国は対応に苦しみます。
北部でも黒人や共和派による小規模な反乱が相次ぎました。

こうした社会的混乱を収めるために、摂政をとりやめてペドロ2世を即位させる声が高まります。
1840年にクーデターが勃発し、当時15歳ながら成人式が行われ、続けてブラジル皇帝として即位しました。
第二帝政の開始です。

支持を失う帝政!ついに共和制が成立

ペドロ2世は、ヨーロッパの情勢をにらみながら自由党と保守党に交互に政権を交代させることで政治的な安定の維持を図りました。
例えば、ヨーロッパで連鎖的に革命が発生した1848年には、その波及を恐れて保守党に政権を担当させました。

当初は比較的安定していたものの、帝政の廃止と共和制の確立、さらには奴隷制の廃止を訴える声が次第に強くなっていきました。
1865年にアメリカ合衆国で奴隷制が廃止され、1870年にはスペイン領キューバで暫定的に奴隷が解放されたこともあって、いつしかブラジルだけが西半球で奴隷制を維持する国家になっていたのです。
特に、軍部の青年将校を中心に奴隷制廃止と共和制を求める声は強く、ペドロ2世はこうした層の支持を失う結果となりました。

こうした声に押され、ペドロ2世は1888年になってようやく奴隷制が廃止されます。
しかし、これはむしろ従来の支持基盤であった大地主を裏切る政策でもありました。
帝政は国内のあらゆる層から支持を失い、1889年に軍部のクーデターが勃発してペドロ2世は退位してイギリスに亡命します。

この無血革命によって帝政は崩壊し、共和制へ移行しました。
大きな役割を果たした軍部の発言力は政治の場でも強大なものとなり、その後のブラジル政治に影を落とすことになります。

ブラジル連邦共和国の成立と移民の増加(19世紀後半~1930年)

不安定な共和制とコーヒー産業の発展

不安定な共和制とコーヒー産業の発展

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軍部の元帥で、クーデターを指揮したフォンセカが初代大統領の座についたものの、政治体制はきわめて不安定でした。
2年後の1891年には軍部の介入によってフォンセカが失脚し、19世紀末から20世紀初頭にかけて南北で貧困層による大規模な反乱が発生し、対応に追われます。

一方、外交的にはアメリカ合衆国やイギリスの支持もあり、この時代に大きく領土を拡張することに成功します。
特に、アマゾン川流域における国境未確定地域の獲得交渉によって、血を流すことなく重要地域を手に入れることができました。

社会的にはコーヒー栽培が大きく発展しました。
19世紀半ばに砂糖や綿花の栽培が衰退する一方で、南部ではコーヒーがブラジルにおけるプランテーション経済の中心となりました。
特にサンパウロ州がコーヒー産業の中心となります。
1902年以降、サンパウロ州出身者と牛乳産業の中心だったミナス・ジェライス州出身者が交互に大統領を務める慣習が始まります。
この政治体制をポルトガル語で「カフェオレ」を意味する「カフェ・コン・レイテ」と呼びます。
しかし、カフェ・コン・レイテには政治腐敗が横行しており、次第に軍部の青年将校や地方の反発を呼ぶようになっていきました。

産業発展で日系移民が増加!黒人移住で花開いた文化も

急速に発展したコーヒー産業では、大量の労働力が必要とされました。
しかし、1850年には黒人奴隷の「輸入」が禁止され、1888年には完全に奴隷制が廃止されたため、別ルートで労働力を調達する必要がありました。
もちろん、国内的には解放された黒人たちが続けて労働力としてコーヒー栽培に従事しました。
また、イタリア人やユダヤ人などのヨーロッパ人(主に南欧系)、アラブ人、中国人、そして日本人が移民としてブラジルに流入してきました。

移民、特に黒人によって新たな文化が花開きました。
まず、もともと黒人たちが持ち込んだアフリカの土着音楽とポルカをはじめとしたヨーロッパの音楽が混じり合い、サンバが誕生します。
現在のサンバ・カーニバルの原型となる公式のカーニバル(カルナヴァル)は1932年に開始されています。

また、19世紀末にはイギリス留学生によってサッカーがもたらされます。
当初は白人ブルジョワ層によるスポーツでしたが、道具を必要としないこともあって次第に黒人貧困層が好んで取り組むスポーツへ変化していきました。
フィジカルとテクニックに優れた黒人がチームに参加したことで、第二次世界大戦後から現在に至るまで、世界最多となる5度の優勝を誇る「サッカー王国」として君臨しています。

激動の20世紀とヴァルガス独裁政治(1930~1954年)

ファシストとしてのヴァルガス政権

ファシストとしてのヴァルガス政権

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1929年に世界恐慌が発生します。
世界恐慌はブラジル経済にも影響し、サンパウロ州側とミナス・ジェライス州側のカフェ・コン・レイテ体制は大きく揺らいでいきます。
1930年にはサンパウロ州出身者が大統領に当選しましたが、ミナス・ジェライス州側はこれを不正選挙として認めず、同盟を結成して蜂起します。
軍部がこの反乱を支持したため、大統領は交代。
反乱側に立った最南端リオ・グランデ・ド・スル州出身のヴァルガスが新大統領に就任しました。

その後もサンパウロ州や共産主義者による反乱が勃発しますが、政権は続けざまにこれを鎮圧。
じょじょにファシズム的な性格を強めていくと、1937年にはヴァルガス自らクーデターを起こしてイタリアのムッソリーニに影響を受けた新体制をスタートさせます。
体制側によってプロレタリアートと中間層は組織され、サンパウロ州とリオデジャネイロ州を中心に工業化が大きく進展しました。
また、ポルトガル語以外の言語を初等教育および中等教育で教えることが禁じられ、ナショナリズムをたたき込む教育体制が編成されました。

しかし、第二次世界大戦が発生するとこうしたヴァルガス体制も国民の支持を失っていきます。
特に、戦況を見て枢軸国(ドイツ・イタリア)と闘う連合国側についたことが決定的でした。
ブラジルのファシズムを維持するためにヨーロッパのファシズムと闘うというのは、いくらなんでも矛盾したものだったからです。

ヴァルガス独裁体制に対する国民の批判が強まる中、終戦後の1945年10月に軍がクーデターを起こしたことでヴァルガスは失脚します。

ポピュリストとしてのヴァルガス政権

ヴァルガスが失脚すると、三権分立や大統領の国民選挙制を導入した新憲法が制定されました。
ところが、1950年に歴史上初めて行われた大統領選挙で勝利したのはまたもやヴァルガスでした。
社会の工業化によって増加した都市労働者層や中産階級、左翼の支持を取り込むために、国家資源の保護と外国資本独占への対抗姿勢を鮮明に打ち出し、選挙で圧勝したのです。
このため、第二次ヴァルガス政権は、一言で「ポピュリズム的な左翼ナショナリズム」と言われています。

ヴァルガスの政権運営は、大戦後の好況期には民衆の高い支持を得ていましたが、それが終わるとだんだん支持も衰えていきます。
政権末期には支持を得るために共産党に接近しますが、これも裏目に出てかえってアメリカ合衆国の反発を受けます。
独裁的な政治姿勢は国内外の反発の的となり、特に保守層からは公然と退陣要求を突きつけられるようになっていきます。

ヴァルガスが政権の座にあった1930年代から50年代にかけて、ブラジルは大農園中心の経済だったのが急激に工業化し、経済的にも発展を遂げます。
サンパウロ大学を中心とした総合大学の設立も進んだため、教育水準も向上しました。

ポピュリズム崩壊と軍事政権(1954~1985年)

ヴァルガス自殺!軍部クーデターの続発

ヴァルガス自殺!軍部クーデターの続発

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結局、軍部にも見放されてしまったヴァルガスは1954年に自殺。
1956年に大統領に就任の進展を図ります。
新体制の象徴として、内陸部に新首都ブラジリアを建設して遷都を実現しました。
しかし、これは対外的な債務と財政赤字を増大させ、後にハイパー・インフレを起こして経済の混乱を招きます。
左翼ナショナリズム的姿勢を続ける政権側とそれに反発する保守層、そして軍部の対立が先鋭化し、社会的な混乱に拍車をかけます。
1961年の軍事クーデターは失敗に終わったものの、3年後の1964年にはついに保守派やアメリカ合衆国と手を組んだ軍部によるクーデターが成功し、軍事独裁政権が始まります。

軍事クーデターが勃発するまでのポピュリズム政権下では、経済的な混乱もありながら開発経済に支えられて新たな文化が花開いていきました。
その代表例がボサノヴァです。
「ボサノヴァの神」と呼ばれ現在も活躍を続けるジョアン・ジルベルトや、リオデジャネイロオリンピックの大会マスコット「トム」の由来であるアントニオ・カルロス・ジョビンらによって、世界的にボサノヴァが普及していきました。

また、サッカーのワールドカップで初優勝を収めたのもこの時代の1958年スウェーデン大会でした。
歴代最高プレイヤーとされるペレに率いられたブラジルチームは、次の1962年チリ大会でも連覇を果たし、国民は熱狂しました。

軍部独裁政権下で高度経済成長達成

1964年に樹立された軍部独裁政権は、それまで政権中心部にあった左翼ナショナリストを追放し、治安の維持を図りました。
しかし、企業倒産が相次いだこともあって、軍政への国民の反発が強まると、強硬路線へ転換します。
1965年の選挙で反軍政派が勝利したのを受けて戒厳令を公布し、国会を解散して独裁体制を布きます。
一方で外交的にはアメリカ合衆国へ接近し、冷戦体制における西側諸国の一つとして、南米の親米反共の中心国として存在感を発揮します。

1967年には、大統領による戒厳令や地方への介入を認めた新憲法を施行し、国名を現在のブラジル連邦共和国へ改めます。
知識人や学生、労働者の一部は過激化して都市ゲリラとなり、テロや反乱を続けざまに起こします。
1969年、大学の閉鎖や議員の追放、都市ゲリラの殲滅作戦など非合法的な弾圧によって治安はようやく回復に向かいます。

軍部は労働者の賃金を抑えるとともに積極的な外資導入を進めた結果、「ブラジルの奇跡」と呼ばれる高度経済成長期を迎えます。
しかし貧富の差は拡大し、貧困層が大都市に流入したことで治安が悪化します。
高度経済成長も日本同様に1973年のオイル・ショックによって終結し、長い低迷期に入ります。
従来の開発モデルは完全に機能しなくなり、1980年代にかけて軍部の政治的影響力がだんだん低下していきます。

再び文民政権へ転換!経済成長でBRICsの一角へ躍進(1985年~)

政治腐敗、通貨危機…苦境の続くブラジル経済

政治腐敗、通貨危機…苦境の続くブラジル経済

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1985年、21年ぶりに文民政権が誕生しますが、経済的にも社会的にも大きな成果を上げることができませんでした。
1988年には先住民の権利の保護や人種差別の禁止を打ち出した民主的な新憲法制定にこぎ着けたものの、アマゾンの熱帯雨林開発に絡む環境破壊や政治腐敗は誰にでも明らかなほど常態化していました。

1990年代にかけては悪性のハイパー・インフレが深刻化し、特に1992年には1000%(10倍!)を超えるインフレ率を記録してしまいます。
通貨をクルゼイロから現在のレアルへ切り替えるなどの金融政策が成功して1997年にようやくインフレを封じ込めることに成功しますが、2年後にはアジア通貨危機に端を発するブラジル通貨危機によって再度経済が停滞。
貧富の差と、そこから起きるストリートチルドレンの存在、治安の悪化など社会問題にも苦しめられます。

外交的には、長年続く隣国アルゼンチンとの対立が解消に向かいます。
1991年にはアルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイとともに地域経済共同体を結成し、南米共同市場(メルコスールと言われます)を発足させます。
1995年には域内関税共通関税を実現するなど、成果を上げました。

世界的スポーツイベントの裏でくすぶる社会不安

1990年代末から急激な経済成長を果たしたブラジルは、2003年にはロシア、中国、インドとともに新興成長国の一つ「BRICs」して認められるようになります。
2002年には史上初めて労働者出身のルラ(ルーラ)が大統領に就任し、貧困対策に乗り出します。
2011年には、初の女性大統領であるルセフが就任しますが、この頃には経済成長がストップしており、財政赤字の増大と貧富の差が再び社会問題として表面化します。

これに対してルセフ政権はサッカーのワールドカップとオリンピックという国家的なイベントによって経済再生を果たそうとします。
しかし、巨額な開催費の負担は開催前から国民的な批判の声もあり、今後のブラジル経済および社会の行方が注目されています。

また、政治的にはかつて高い支持率を誇ったルラやルセフを巻き込んだ汚職事件が発覚しました。
ルセフ大統領はルラを官房長官に就任させるという離れ業で批判をかわそうとしますが、オリンピック開催直前の2016年8月31日には上院で罷免が可決され、大統領の職を失ってしまいました。
新たに大統領代行に就任したテメル政権では閣僚の辞任が相次ぎ、汚職事件の捜査の手が多くの有力政治家に及ぶなど、政治的に不透明な状況が続いています。

歴史を知るとより面白い!ブラジルの魅力を深く体感しよう

以上、ブラジルの歴史をご紹介してきました。
もともと植民地を起源としていること、近年まで軍事政権が続いていること、政治腐敗が恒常化していることが、逆に社会や文化のダイナミズムにつながっています。
サッカーやサンバなどがお好きな方も、こうした歴史とのつながりを知っておくとより深く魅力を理解することができるのではないでしょうか。
ダイナミックなブラジルの魅力を、ぜひ一度ナマで体験してみてくださいね!
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