『越後の龍』上杉謙信を育んだ、難攻不落の春日山城

新潟県が誇る天下の名城、春日山城。甲斐の虎・武田信玄と並び『越後の龍』と称される戦の天才、軍神・上杉謙信が生涯本拠地としたことで有名ですね。日本屈指の山城としてその評価も高く、上杉謙信の神懸かり的な軍略と相まって難攻不落の名城というイメージは最早揺るぎないものとなっています。

果たして、春日山城とはどのような城だったのか。本当に『難攻不落』だったのか。上杉氏の歴史を調べると、ちょっと意外な春日山城の姿が見えてきました。

今回はそんな春日山城と、そこに生きた上杉氏の歴史をみなさんと一緒に追いかけていきたいと思います。

難攻不落って実際どうなの?春日山城の実態に迫る

難攻不落って実際どうなの?春日山城の実態に迫る

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山ひとつまるまるお城?巨大山城、春日山城

春日山城は、廃城処分となって400年が経った今『春日山城跡』として、新潟県でも指折りの有名観光地となっています。
日本を代表する山城として国の史跡に指定され、日本五大山岳城および日本100名城にも選ばれるほど、重要な歴史的意義のある城と言ってよいかもしれません。

新潟県上越市の中部にある標高189mの春日山(別名・蜂ヶ峰)をほぼまるごと城塞化した春日山城は、険阻な山に築かれた既存の山城という概念を超えた『山岳城』と呼ぶにふさわしいスケールを持つ城です。
北に直江津から日本海を望み、南に高田平野が広がる眺望のよい山頂には館が築かれ、そこに歴代の城主が起居しました。

また、その周囲を固めるように家臣たちの屋敷や春日山神社が配置され、春日山全域でひとつの集落というような規模の城だったことが発掘調査により明らかにされています

標高が200m足らず。
険阻と言うにはやや物足りないところがありますが、山にあふれる自然の起伏を巧みに利用して空堀や土塁を設計することにより、天然の大要塞として難攻不落の評価に恥じない構えを持つ城の姿が浮かび上がってきました。

山ひとつなんてとんでもない!超巨大な防衛拠点の中心地

しかし『山の地形を大胆に利用した築城』や『山ひとつを城塞化した規模の大きさ』のみでは難攻不落と称される十分な理由とはなりません。
規模の大きさの話をするならば、先ほどの山ひとつという説明では到底足りないのです。

春日山周辺およそ5㎞の範囲内に、なんと13もの砦や城が建築されています。
その砦同士も1~2㎞ほどの近距離に作られ、相互に支援しあえるような位置です。
その中には春日山城から直接続く連絡路があり、戦闘をするのであれば春日山からの支援を前提に運用されていたであろう砦もありました。

つまり、規格外のスケールを持つ春日山城はあくまで本城であり、その周囲5㎞に展開し連動する各砦群を合わせて、はじめて本当の意味での『難攻不落の春日山城』が見えてくるのです。

どこかの砦に攻めかかると、周囲の砦から援軍がやってきて逆に攻撃されるかもしれない。
包囲している方が攻められているような心境に陥ってしまっては、腰を据えた攻撃などできるわけもありません。
かといって、当時の越後には5㎞四方におよぶ広大な防衛拠点をまるっと包囲できるような大軍勢を用意できる武将もいませんでした。
そして、何より忘れてはいけないことがひとつ。
この城を守り、時に攻め寄せてくるのが、上杉軍だということです。

戦国最強と謳われた武田軍と激戦を繰り広げた、精兵ぞろいの上杉軍。
緻密に構築された防衛網の中でそんな敵と戦わなければならないのなら、そもそも攻め込まない方が賢明と言えるでしょう。
触らぬ神にたたりなし、まさに『攻めること自体が難しい』不落の城。
それがこの、春日山城なのです。

春日山城のはじまりは、万が一の避難場所だった

春日山城のはじまりは、万が一の避難場所だった

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最初は上杉家の詰め城だった春日山城

春日山城は今から600年以上前、南北朝時代に越後国守護である上杉氏が、越後の府中(今でいう県庁所在地)にある館の詰め城として築いたと言われています。
詰め城というのは戦国時代前半までよく見られる城の概念で、万が一の避難場所かつ防衛拠点として築かれた城のことを指して『詰め城・詰めの城』と呼ばれます。

当時の大名は普段、交通の便がよくて人の往来も簡単な山のふもとに館を築き、そこに居住して政務を執っていました。
しかし、何者かが軍勢を引き連れて攻め込んできたら、守りにくい平地の館を捨てて、近くの山など険阻な場所を選んで築かれた詰め城に避難する。
そして、籠城して救援を待つというスタイルが一般的でした。

そんな上杉家の緊急避難場所である春日山城を預かり、先述した要塞への第一歩と言える大改修を始めたのが、長尾為景(ながおためかげ)という武将です。
さらに彼の息子、そしてその養子が改修・発展を重ねた末に、現在知られるような名城の構えが作られました。

為景の息子の名は長尾景虎(ながおかげとら)、後の上杉謙信です。
そして、その養子が上杉景勝(うえすぎかげかつ)。
近年の大河ドラマによく出演していたので、ご存知の方も多いかと思います。

春日山城の管理人?上杉謙信の父、長尾為景

謙信の父、長尾為景。
兄である長尾晴景(ながおはるかげ)。
そして謙信から景勝まで。
途中で謙信が上杉家を継いだためにややこしい感じになってしまいますが、実質的にはこの長尾家4代の居城となった春日山城。
元いた越後守護の上杉家にとっては、有事の際の避難シェルターです。
そんな大事な春日山城を預かることとなった長尾為景とは、どのような人物だったのでしょうか。

みなさんがもし緊急避難シェルターを作り、その管理を誰かに頼むのであれば、どのような人物に依頼しますか?いろいろな答えがあるとは思いますが、やはり信頼感や職務に忠実であることなどが求められてくるのでは、と考えます。

さて、話は戻って長尾為景という人物なのですが、後世彼を評した言葉が「主君を2代続けて殺害した、天下に例を見ない奸雄」というもの。
大事な城を預けたいとはなかなか思えない人物評です。
さらに、この上杉家と長尾家は基本的に馬が合わない間柄。
上杉家が強力に長尾家を抑え込めている間はよいものの、家督相続などで少しでも揉め事が起これば、それに乗じて越後の実権を握ろうと画策してくる厄介な筆頭家老なのです。

なぜ、そんな油断ならない人物に春日山城を任せることになってしまったのか。
まだ要塞化する前の春日山城の歴史とともに、為景の半生を追ってみましょう。

越後守護上杉氏と越後守護代長尾氏の関係

越後守護上杉氏と越後守護代長尾氏の関係

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守護と守護代ってそもそも何?

室町幕府の重鎮であった上杉家は、一族で関東や北陸など複数の国の守護を任じられていました。
守護とは、その国内の犯罪者検挙や揉め事の裁定を行い、必要であればその行使に武力を使うことのできる国内軍事部門のトップのような役職です。
その上杉一族の中でも、越後守護に任じられた家は越後上杉家、関東の方でそれぞれ山内(やまのうち)上杉家や扇谷(おうぎがやつ)上杉家などに分かれていきます。

上杉家の有力家臣であった長尾氏も、各地に散った上杉一族に同行することで複数の家に枝分かれしていくのですが、越後にたどり着いた長尾家は越後守護代という役職が与えられました。
守護代とは、書いて字のごとく守護の代わりです。
誰かに自身の守護職を奪われないようにするため、あるいは他の国の守護職が欲しいといったロビー活動に精を出さないといけない守護にとって、幕府内人事を決める京都から離れて領国に赴任することは相当リスキーな行為でした。
そこで、有能な家臣を派遣したり現地の有力武士を登用して守護代とし、自身の代わりに領国を治めさせました。

ややこしい関係性をストーリー仕立てにするならば

長尾氏は越後守護代として現地の土豪たちと共生関係を築き、代々越後の支配を行ってきたのです。
しかし、時代が移り幕府の力が弱まってくると、京都で政争に明け暮れるよりも領国に戻って力をつける方がよいと判断する守護たちが増えてきました。

こうして自分の領国を支配し、幕府の影響力を排除していくようになった守護のことを『守護大名』と言います。

しかし、この支配が争いの火種になることも多々ありました。
越後を例とするならば、こんな物語になりそうです。

守護代として越後に出向してきた本社社員の長尾氏は、様々な苦労を乗り越えて現地の古株パートさんやバイトさんたちと分かり合い、出向先の地方店をうまく切り盛りしていました。
そこにある日、「これからは俺のやり方で運営していくから」と、本社マネージャーの上杉氏がやってきます。
今まで長尾氏とパートさんたちが築き上げてきた暗黙のルールなどを壊したうえに、好き勝手なふるまいを始める上杉氏。

内心邪魔で仕方なくても、名目上はマネージャーを立てなければいけない長尾氏。
目障りだとは思いながらも、今はまだ長尾氏に頼らないと店が回せない上杉氏。
両者がいつ爆発してもおかしくない緊張状態の中でかろうじて協力体制を保っているという状態ですね。
これが、当時の越後という国の状況でした。

下剋上の先駆者、主殺しの奸雄と言われた長尾為景

下剋上の先駆者、主殺しの奸雄と言われた長尾為景

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一人目は上司の越後守護、上杉房能

1494年、上杉房能(うえすぎふさよし)が越後守護となりました。
彼は越後国内において自身の権力強化を目指し、在地領主の権限を縮小させるなどの政策をとったために守護代・長尾能景(ながおよしかげ)と対立します。
意見は対立すれども、守護代としては職務に忠実であろうとした能景。
その息子が、長尾為景でした。

1506年、房能の命令により一揆の鎮圧に出陣した能景は、味方の裏切りにあい戦死してしまいます。
房能が援軍を出し渋り、能景を見殺しにしたという説があるのですが、その仕打ちを恨んだ為景は翌年、房能の館を襲撃。
これを追い詰め自刃させると、房能の養子である上杉定実(うえすぎさだざね)を傀儡とすべく新たな越後守護に擁立します。

こうして、亡父の跡を継ぎ守護代となった為景は春日山城主として山上にあり、ふもとの館に形だけの越後守護・定実を置く形をとりました。
これより、長尾家は春日山城主を代々務め、春日山城を乱世にふさわしい城郭へと改修・発展させていくことになります。
形としては越後守護である上杉定実が、越後守護代の長尾為景を春日山城主に任命した態ではありますが、実際は為景に奪われたようなものかもしれませんね。

2人目は復讐に燃える関東管領、上杉顕定

こうして、亡き父のリベンジマッチを果たして越後の実権を握るかと思われた為景でしたが、これが新たな遺恨となって越後に大乱を招きいれてしまいます。
為景によって自刃に追い込まれた前越後守護・上杉房能の実兄であり、関東管領という役職で関東一円の武士を掌握していた上杉顕定(うえすぎあきさだ)が、大軍を率いて越後に侵攻してきたのです。

関東管領は、室町幕府が関東に作った出先機関である鎌倉府において、担当範囲の国の守護たちを取りまとめる重職でした。
応仁の乱のあと、乱れに乱れた関東地方でなんと40年以上も関東管領であり続けた顕定。
そんな実力者が大軍を率いて越後に攻め込んできたのなら、為景といえども勝機は見出せません。
上杉軍の怒涛の進撃を前にして次々と反・為景の旗を掲げはじめる越後の土豪たち。
為景と、彼に擁立された新守護の定実は抵抗もままならない状態で佐渡島に逃げざるを得ませんでした。

しかし、越後を武力で掌握した顕定の統治方法は、越後の土豪たちが望んだものとはかけ離れていたようです。
一旦は顕定に味方した彼らですが、1年と経たずに不満を募らせていきました。
その状況を佐渡島で待ち続けた為景。
時節到来と言わんばかりに、佐渡島の軍勢を率いて越後に再上陸を果たした為景と定実は、再び土豪たちの協力を得て上杉軍を圧倒します。
そして1510年、長森原の戦いにおいて顕定を敗死させた為景は、本格的に越後の実効支配に乗り出すことになるのです。

長尾父子による越後支配への道のり

長尾父子による越後支配への道のり

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波乱の越後!占拠された春日山城

為景は自身の妹を定実に娶らせ、上杉家の親族となることで越後を牛耳ろうとしました。
しかし、傀儡であることを不満に思っていた定実は、為景を排斥しようと行動を起こします。

もともと上杉家家臣だった宇佐美氏、自身の弟であり実家を継いでいた上条定憲(じょうじょうさだのり)、そして為景のことを快く思っていない一部の土豪衆を糾合して、なんと春日山城を占拠してしまうのです。

その後、春日山城を奪還した為景によって定実は幽閉されてしまうのですが、これに激怒したのが実弟の上条定憲。
前代の越後守護を自刃に追い込み、報復にきた関東管領を打ち破り、今また現越後守護を幽閉するなど、定憲にとっては暴挙という言葉で済まされるようなものではありません。
自身もまた上杉一門である上に、実の兄の命さえ危うい状況に定憲は立ち上がります。

越後の土豪衆の支持を集めて挙兵した定憲は、途中こそ戦巧者の為景に押し込まれはするものの徐々に勢力を拡大。
越後国内にとどまらず周辺国の大名の支持も取り付けて、春日山城下まで攻め込んだ定憲でしたが、春日山城付近の三分一原にて味方の裏切りにより敗北してしまいます。

次代城主、長尾晴景の治世

どうにか辛勝した為景でしたが、越後国内に反・為景の風が吹き荒れてしまったためか、これを機に隠居してしまいます。
為景が隠居したことにより、上条定憲の反乱も収束に向かいました。
そして、為景から家督を譲られた長尾晴景が、越後守護代として新たな春日山城主となるのです。

晴景は父・為景とは異なり穏健な人柄で、越後国内の土豪衆の融和を図って一時は争乱を鎮めることに成功します。
しかし、今まで為景が力で抑え込んでいた土豪衆や、幽閉から解かれて復権を目指す上杉定実は、徐々に晴景を軽んじるようになっていきました。

各地で謀反を起こすようになった土豪衆。
それを鎮圧するにも信頼できる家臣が足りない状況となってきた晴景は、仏門に入っていた弟を呼び寄せて反乱鎮圧に派遣します。
その弟の名は長尾景虎、後の上杉謙信です。
つい最近まで僧として生活していた人間が反乱鎮圧に成功するなど、軍事的才能の片鱗が垣間見えるエピソードですね。

この出来事は、越後の人々に衝撃を与えました。
景虎という男は、晴景よりも守護代の器にふさわしい人物かもしれないと。

越後の龍、上杉謙信登場

越後の龍、上杉謙信登場

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晴景に代わり越後守護代に、景虎の越後統一

1545年、上杉家家臣の黒田秀忠が晴景に対して謀反を起こします。
秀忠は春日山城に攻め込み、晴景の弟である長尾景康らを殺害。
その後居城である黒田城に立てこもりました。

本来であれば、弟を殺された晴景は越後守護代として黒田氏討伐の兵を起こさねばなりません。
ですが、ここで復権を画策する上杉定実が思わぬ行動に出ます。

越後守護として、守護代である晴景ではなく、景虎に黒田氏討伐を命じたのです。
景虎は黒田氏討伐軍の総大将として黒田城を攻め、秀忠を降伏させます。
翌1546年、秀忠は再び謀反を起こすのですが、これもまた景虎が鎮圧。
今度は降伏を許さずに黒田氏を滅ぼしてしまいます。

弱冠17歳の少年が立て続けに見せつけた鮮やかな戦勝劇に、越後の土豪たちの一部はある確信を抱きました。
やはり、景虎こそが越後をまとめるべきだと。
かねてから晴景に不満をもっていた土豪たちは、景虎を擁立して晴景に隠居するよう迫ります。
そして、その土豪たちと同じく景虎に期待を持っていた上杉定実が、これまた越後守護として一つの裁定を下しました。
晴景は景虎を養子とし、景虎に家督を譲って退隠すること。

晴景派と景虎派に分裂する危機に揺れていた長尾家は、最終的にこの調停案を受け入れざるを得ませんでした。
こうして、次の春日山城主として長尾景虎が迎えいれられたのです。

その後景虎は、春日山城を本拠地として越後国内を転戦、反・景虎派や晴景派だった武将や土豪たちを次々と降していき、家督相続からわずか3年で越後国内を統一します。

なんで苗字が変わったの?長尾から上杉に改名した理由

その頃、関東地方の勢力図は大きく変わろうとしていました。
かつては関東一円の武士を支配し、一度は長尾為景を敗走させるほどの力を示した関東管領が、新興勢力の北条氏によって関東から追い出される事態となったのです。
当時の関東管領だった上杉憲政(うえすぎのりまさ)は、同じ上杉一族が支配した越後に逃げ込んで景虎を頼ります。

景虎は信濃(現在の長野県)で武田晴信(後の武田信玄)と合戦におよび、その後憲政の要請を受けて関東に出兵。
関東の雄・北条家と激戦を繰り広げるなど、戦国時代に武勇を轟かせた2大大名を相手にしながら一歩も引けを取らない名将ぶりを発揮しました。

ちなみに、その関東遠征の際に景虎は憲政の養子となり、憲政の一字を貰って上杉政虎と改名、関東管領職を引き継いでいます。
これをもって、長尾家の当主・長尾景虎は私たちのよく知る上杉を名乗ることになるわけです。
その後、当時13代将軍であった足利義輝より一字を貰い上杉輝虎と改名、さらに出家してようやくみなさんご存知の上杉謙信となります。

難攻?不落の春日山城!攻撃は最大の防御なり

難攻?不落の春日山城!攻撃は最大の防御なり

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稀代の英傑が過ごした30年間

さて、この謙信が城主であった頃の春日山城は一体どんな様子だったのでしょうか?

父・為景や兄・晴景の代には度々攻め込まれたり、謀反によって占拠されることもあった春日山城。
稀代の戦上手・上杉謙信の手によって難攻不落の城塞となっていったのでしょうか。

実は、そうとも言い切れないのです。

確かに謙信は、何度か部下に対して春日山城の改修命令を出しています。
自身が出陣する際、春日山城の留守番を任せた武将に対して「この城は何があっても死守せよ。
ついでにお城の拡張工事もやっておいてね」という感じです。
つまり、今ある春日城跡の規模という部分に関しては謙信の力によるところも大きいのですが…

果たして「難攻不落か?」と言われると、疑問符がついてしまいます。
なぜか。

それは謙信の戦歴を紐解くと明らかなのですが、彼が春日山城主として過ごした時間は30年以上。
それほど長きに渡って春日山城を本拠とし続けた謙信ですが、なんとただの一度も春日山城を攻められたことがないのです。
難攻、と言うよりそもそも攻められていない。
不落、と言う意味では間違いではないけど…『難攻不落』と言われると、少しもやもやしてしまうのもまた事実。
しかし、これにはちゃんとした理由があります。

それは、上杉謙信が英雄だったからです。

国内を戦で荒らさない、上杉謙信の戦略指針

上杉謙信を代表する合戦と言えば、信濃の国は川中島で武田信玄と何度もぶつかった川中島の合戦があげられます。
それ以外にも先述した関東遠征や、織田信長包囲網に加わった際に、加賀の国で織田家筆頭家臣の柴田勝家軍を撃退した手取川の合戦なども、知る人ぞ知る謙信の功績ですが…これらすべて、越後の国を出て行われている合戦なのです。

それもそのはず、『本拠の城が攻められる』という事態はほとんどの場合、攻められている大名家滅亡の危機なわけですよね。
上杉謙信だけではありません。
武田信玄も、織田信長も今川義元も、今の時代に名を残す戦国大名たちは、ほぼ皆本拠の城を攻められたことなどないのです。
彼らはみな『領地を守る大名』ではなく『領地を奪い、大きくなろうとした大名』たち。
戦の方針自体が、基本的に自分の領国より外で戦闘することだったのです。

上記の事情により、謙信治世下の30年間は春日山城がなんらかの戦の舞台となることはありませんでした。
5回におよぶ武田信玄との合戦や10回以上も行われた関東遠征、そして、織田家を打倒する道筋をつけるための北陸遠征。
越後国内の反乱の鎮圧など、常に攻め続ける謙信を見守り続けた春日山城でした。

激化する後継者争い、御館の乱

激化する後継者争い、御館の乱

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広すぎるから出来ちゃう?まさかの城内戦争

1578年3月9日、春日山城内のトイレで倒れた謙信。
彼はそのまま目を覚ますことなく、3月13日にこの世を去ります。
あまりに急すぎる英傑の死に、越後国内は騒然としました。

何よりも火種をはらんでいたのが、謙信の後継者問題です。

謙信には実子がなく、複数人の養子を得ていました。
その中でも特に目をかけられていたのが、もともと謙信の甥であった上杉景勝と北条家から人質として謙信の元に来ていた上杉景虎でした。
謙信が北条家と和睦する際に送られてきた人質で、自身の初名を与えたうえに景勝の姉を娶らせ、養子としたのです。

謙信の死後わずか10日もしないうちに、景勝・景虎の義兄弟による上杉家の家督争奪の件で春日山城内がきな臭くなっていきました。
両者とも広大な春日山城内に住居を構えていたのですが、まさかの城内において戦闘が開始されます。

景勝はいち早く本丸に入り、金蔵や謙信が使用していた印判など、資金と政治機能を掌握しました。
一方の景虎は三の丸に入って引き続き春日山城内での戦闘を継続しますが、5月の半ばにはそこを退去。
春日山城下に設けられ、謙信も政庁として使用していた御館(おたて)に移ります。

バックボーンがケタ違い!苦戦する景勝

両者の争いは、景虎が有利な状況で推移していきます。
いち早く謙信の後継として春日山城の本丸に居座り、各部将に書状を発行できる状態を作り上げた景勝は、もともと長尾家と付き合いの長い現地の武将・土豪たちを味方につけて越後国内の勢力を糾合していきました。

一方景虎は、越後国内の旧上杉家家臣を中心にして、実家であり関東最大の勢力を持つ北条家のバックアップのもとに、北条家と同盟を結ぶ武田家や、奥州の蘆名家・伊達家にも援軍を要請します。

現状は越後国内の武闘派多数を従えた景勝が有利だが、少しの間だけ旧上杉家家臣団とともに耐え抜けば、越後を取り囲むように三方から数万単位の援軍がやってくる。
この状況によって景虎派に鞍替えする武将も出始め、景勝は苦境に追いやられていきます。

その頃、景虎の実家・北条家は別の方面で戦を展開していました。
越後を手に入れるチャンスではありますが、兵力に余裕がないということで、同盟国の武田家に景虎の援軍を要請します。
ここに、景勝が事態の打開を図る余地が生まれたのです。

勝利の鍵は武田家!人心をくすぐる、景勝の巧みな外交術

勝利の鍵は武田家!人心をくすぐる、景勝の巧みな外交術

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勝頼の欲しいものは?敵の援軍を無力化する窮余の一策

5月17日、景虎は6000の兵で春日山城を攻撃。
これは撃退されるものの、さらに22日にも再攻撃を実施して攻勢をアピールします。
同様に、越後国内の他方面においても景勝派・景虎派が戦闘を開始。
ですが春日山城を攻められて援軍を送る余裕のない景勝は、奮戦する景勝派の諸将が敗退していく様を見ていることしかできません。
景虎派は関東から越後に通じるルートを確保して、関東からの援軍を引き入れる態勢を整えていきます。

北からは蘆名軍、南からは武田軍が迫る状況で、景勝はなんと武田軍に和議を持ちかけました。
条件は、多額の金と領土の一部割譲。
これが武田家当主・武田勝頼の心をくすぐることになったのです。

当時の武田家は、本拠地移転計画によりお金はいくらあっても困らないような状態でした。
信玄の跡を継いだ勝頼は、武田家最大版図を築きあげた武勇の将。
信玄さえ落とせなかった城を落城させて、さらに信玄さえ手を出すことのできなかった上杉領を手にし、さらには次代の上杉家当主に借りを作ることさえできる…この提案を受けて、景虎の援軍として越後にやってきた2万の武田軍は、一夜にして景勝・景虎の和平交渉を斡旋する中立軍に様変わりしてしまうのです。

2年に渡る家督争奪戦、制したのは景勝

これに激怒したのが、北条家当主・北条氏政。
徳川家康が武田領に攻め込んだために一部の軍兵を残して撤収した武田軍と入れ替わる形で景虎に援軍を送ります。
しかし、ここで厄介なのが春日山城下に残った武田軍の存在でした。

結ばれた同盟を信頼して援軍代行を頼んだのに、勝手に敵と和睦した挙句に未だ春日山城下をうろちょろしている武田軍。
北条家から見ると、いったい何を画策しているのか知れたものではありません。
しかも、同盟は維持されている以上うかつに攻め立てることもできない。

この武田軍の存在が、景虎派・北条軍の行動を抑止しました。
そうこうしている間に、越後は厳しい冬の季節に入ります。
関東育ちの北条軍は北国の厳冬を乗り切る術を持たなかったため、戦闘継続を断念して撤退。
度重なる援軍の撤退に勢いを落とした景虎派は、一度は春日山城を攻め立てはしたものの勢力を減退させていきました。
明けて3月24日、上杉景虎自害。
その後1年あまり景虎派となった武将を攻略することで、ようやく上杉家の後継者争いが落ち着き、上杉景勝が次代の春日山城主となることができたのです。

戦国時代の終わり・役目を終えた春日山城

戦国時代の終わり・役目を終えた春日山城

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家督相続後の上杉景勝

武田勝頼は景勝との和議に応じる際、上杉家と同盟を結びました。
しかし、これが結果的に北条家との同盟破棄、敵対につながってしまうことになります。
武田家が景勝から譲渡された土地は、もともと北条家が上杉謙信に奪いとられた土地だったからです。
援軍の問題で武田家に対しての不信感が高まっている時に、北条家の敵対勢力と結び、挙句かつては自分の領土だった地域を割譲されるなど、北条家からすればバカにするのもいい加減にしろといったところでしょうか。

その後武田家は、織田信長の嫡男、信忠に攻められて滅ぶことになります。
織田家は北条家と同盟を結び、西からは織田軍、南からは徳川軍、東からは北条軍という大軍勢で攻めかかったのです。
勝頼は同盟相手の上杉景勝に援軍を要請するも、いまだ家督相続争いも落ち着いていない時期で援軍を送るなど不可能な状態。
こうして孤立無援の中、名門武田家は滅亡を迎えることとなってしまったのでした。

武田家を滅ぼした織田家は、全国統一の動きを加速させます。
疲弊しきった上杉家に対して、かつて謙信に大敗北を喫した柴田勝家を北陸方面軍総大将に立てて侵攻。
破竹の勢いで春日山城に迫る織田軍に対して、景勝はなす術もありません。

春日山城を枕にして最期の一戦に臨む決意を、交流のあった武将に宛てた手紙にしたためた景勝でしたが、その頃京都で勃発した明智光秀による織田信長襲撃事件・本能寺の変により事態は急変します。
織田家の北陸侵攻軍は瓦解し、九死に一生を得た上杉景勝は、織田政権下でナンバー1と目される武将、羽柴秀吉とよしみを通じることで命脈を保つことができたのです。

新城主・堀氏により廃城させられた春日山城

その後、秀吉が行った北条攻めや朝鮮出兵に参陣し、豊臣政権下で実力者となっていった景勝は、豊臣家の大老に任ぜられるなど重鎮として扱われるようになります。
そして1598年、秀吉の命令により会津(現在の福島県西部)に異動することとなり、ここに春日山城主としての長尾・上杉家の歴史は終わるのです。

景勝の代わりに春日山城主として入城した堀秀治(ほりひではる)は、春日山城の改築を行うと同時に、より交通のしやすい福嶋に居城を移す計画を立てました。
秀治自身は、福嶋城の完成を待たずに31歳の若さでこの世を去りますが、その子・堀忠俊(ほりただとし)は1607年、完成した福嶋城に居城を移してそこで政務を執ることにして春日山城を廃城処分とします。

こうして、戦国時代に越後の中心となって長尾・上杉家の興隆を見守り続けた春日山城の歴史に幕が降ろされることとなったのです。

上杉家の治世を象徴する、春日山城の歴史

いかがでしたでしょうか?『難攻不落』と謳われた天下の名城・春日山城ですが、実際のところは『攻め込むことさえできない』、英雄が守り続けた城であり、さらには何度も敵を撃退した堅城。
まさに名城と呼ばれるにふさわしい城でした。
しっかり見て回れば2時間以上はかかるほどの広大な敷地を持つ春日山城跡。
歴代の城主たちにより成長を続けた春日山城の姿はもうありませんが、今なお語り継がれる名将・上杉謙信とともにその名は歴史に深く刻まれています。
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