雲海に浮かぶ天空の城、竹田城。信長・秀吉・家康が欲しがった歴史を紹介

みなさん、竹田城ってご存知ですか?実は日本100名城、そして恋人の聖地(!?)にまで登録された、近年にわかに注目を集めている観光スポットなんです!「竹田城」と言われるとピンと来なくても、『日本のマチュピチュ』と聞けば一度は耳にされたことのある方が多いかもしれません。雲海に浮かびあがる雄壮な石垣群が見る人の心を魅了して止まない、まさに天空の城。今回は、そんなロマンあふれる竹田城の歴史を紐解いていきましょう。

石垣と自然が織りなす神秘の景色、一度は行ってみたい竹田城!

 

石垣と自然が織りなす神秘の景色、一度は行ってみたい竹田城!

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実は、日本屈指の規模を誇る山城なのです

 

兵庫県のほぼ中央に位置する朝来(あさご)市。
神戸から電車で揺られることおよそ2時間半ほどで、JR竹田駅に到着します。
木造の駅舎を出て東を見れば朝来山、西に古城山をのぞみ、その山あいを円山川(まるやまがわ)が流れる景色に、日本の原風景とも呼べる懐かしさを覚えずにはいられません。

その古城山の頂上にあるのが、国の指定史跡・竹田城跡です。
廃城からすでに400年、ほぼ当時のままの状態で残されている石垣群の中に身を置けば、まるで在りし日の竹田城の威容が目に浮かんでくるかのよう。

城の規模は南北に約400m・東西約100m。
南北に長く作られた堀や石垣などの配置が『臥せている虎のように見える』ことから、別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」と呼ばれています。
姫路城や名古屋城などの平地に作られた城とは異なり、竹田城に代表される山城は険阻な山を利用して築かれる防衛拠点のため、そもそも立地の時点で大きさを限定されてしまいがちです。

そんな中、現存する山城としては日本屈指の規模を誇る竹田城。
それだけでも歴史的な価値があり、お城好きの方からすれば十分に魅力的なわけですが、このお城の魅力はそれだけにとどまりません。
オプションがすごいんです。

雲の海に浮かぶ石垣、竹田城の真の魅力!

 

それが、竹田城をして『天空の城』と言わしめる所以である、雲海です。

空気が冷えると、風のない山間部に雲や霧がたまることがあります。
それを高いところから見渡せば、山々がまるで雲の海に浮かぶ島のように見えることから『雲海』と呼ばれているのですが、そんな幻想的な風景がこの竹田城を一大観光スポットに押し上げました。

晩秋、山麓を流れる円山川の川霧が山あいに立ち込める朝に朝来山・立雲峡(りつうんきょう)から古城山を眺めると、雲海をぬうように浮かびあがって見えてくる竹田城の石垣。

天空の城と呼ばれるに恥じない景色が、私たちの眼前にひろがるのです。
その神秘的な光景たるや、恋人の聖地に登録されるのも納得と言ったところでしょうか。

ちなみに、雲海自体は気象条件のそろった時にしか見ることができないため100%天空の城が見られるという保証はできませんが、大雑把に言えば『晩秋から春先にかけて』『明け方』『昼間と夜間の温度差が大きい時』『風がないこと』これらの条件が重なった時に見ることのできる確率が高まるようですので、観光に行かれる際にはご留意くださいね。

また、竹田城跡は雲海だけではありません。
四季折々、山の景色に彩られる様子も素敵なものです。
桜の名所であり、目にも鮮やかな新緑から燃えるような紅葉、真っ白な雪に染まる四季の竹田城跡は、それだけでも風光明媚な観光スポットと言えるでしょう。

どんな人たち?竹田城を作った名門・山名家

 

どんな人たち?竹田城を作った名門・山名家

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築城したのは室町幕府の重鎮、山名宗全

 

そんな恋人の聖地であり観光名所ともなっている竹田城ですが、山城である以上その歴史は戦乱と切っても切り離せません。
近くに発展した都市や港があるわけでもなく、織田家や上杉家といった大大名が支配していたわけでもない。
このような場所になぜ、日本屈指の山城が築かれることになったのか。
誰が、この城をそれほど重要な城だと見なしたのか。
今回は、そんな竹田城の歴史を追いかけていきましょう。

さて、竹田城が築城されたのは諸説あるものの1430~40年代にかけてだと言われています。
当時、兵庫県は日本海側の『但馬』・瀬戸内側の『播磨』・京都寄りの『丹波』という3つの国に分かれていました。
播磨・丹波と国境を接する要衝だった但馬の国・竹田に城を築いたのが、そのころ但馬守護としてこの地を支配していた山名持豊(やまなもちとよ)という武将です。
聞きなじみのない名前かもしれませんが、彼は竹田城が完成する前後に出家し、そこからおよそ四半世紀後、日本の歴史に名前を刻むことになります。
1467年から10年に渡って日本を二分した内乱、応仁の乱における西軍総大将の山名宗全(やまなそうぜん)と言えば、歴史の授業で覚えたという方もいらっしゃるのではないでしょうか。

その宗全が出家する前に、播磨から但馬を守るための拠点として築いた城がこの竹田城だったのだと言われています。

山陰地方の雄、山名氏の没落

 

しかし、時代はまだ室町時代中期。
応仁の乱が始まる25年も前の平和な時期に、なぜ『但馬を守る』必要があったのでしょうか。
竹田城が誕生した背景を知るために、まずは室町時代の兵庫県・播磨をめぐる争いを見ていくことにしましょう。

鎌倉時代末期、播磨に赤松円心(あかまつえんしん)という武将が登場します。
彼は鎌倉幕府の倒幕戦に活躍した後、足利尊氏の室町幕府樹立にも尽力したためにその功績を認められ、室町幕府から播磨守護に任命されました。

守護とは、今で言えば県警の本部長が近いかもしれません。
各都道府県の警察で一番偉い人といったところでしょうか。
以降、播磨守護は代々赤松氏が任命されていくことになります。

その頃の山陰地方を支配していたのが、後に山名宗全を輩出する山名氏でした。
当時日本は68の国に分けられていたのですが、山名氏は山陰地方を中心に一族合わせて11ヵ国を領するほどの大大名。
あまりの権勢に、時の山名氏筆頭だった山名氏清(やまなうじきよ)は『六分の一殿』と呼ばれるほどでした。

幕府内で一人の大名が力を持ちすぎることを恐れた三代目将軍・足利義満(あしかがよしみつ)は、山名氏を巧みに挑発して反乱を起こさざるを得ない状況に追い込み、これを討伐します。
『明徳の乱』と呼ばれたこの反乱の後、所領を但馬・因幡・伯耆という山陰地方わずか3ヵ国にまで減らされてしまった山名氏は、いつか再び権力の座に返り咲く日を夢見て、虎視眈々と復権の機会をうかがうことになりました。

山名家のライバル、赤松氏の台頭

 

山名家のライバル、赤松氏の台頭

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危険人物!?赤松満祐と若き日の山名持豊

 

一方、先述した赤松円心の孫にあたる赤松義則(あかまつよしのり)は明徳の乱で山名氏惣領である山名氏清の討伐に多大な功績をあげました。
その功を評された義則は、山名氏の旧所領である美作(現在の岡山県の一部)守護に任命され、後に幕府の要職を歴任するなど、幕府内で赤松氏の地位を大きく向上させます。

しかし、この義則の息子である赤松満祐(あかまつみつすけ)がかなりの曲者でした。
彼は若い頃から父・義則の代理として政治の表舞台に立つことも多く有能な人物ではあったのですが、かなりの激情家でもありました。
1427年、播磨の所領に関して前将軍に不当な扱いを受けた満祐は驚きの行動に出ます。
なんと京都の自邸を焼き払って播磨に戻り、一族郎党を集めて合戦の準備を始めてしまうのです。

満祐の怒りはもっとも、と言うことで満祐討伐を命じられた武将が出兵を拒否するなど大混乱を招きはしましたが、最終的には諸大名の取りなしを受けて幕政に復帰した満祐。
しかし、この合戦の準備のために大量の食糧を徴発された播磨の人々の怒りはすさまじく、翌年には『播磨の国一揆』が発生します。

このように満祐が領した時代の播磨はとても不穏な空気が蔓延していたのですが、そこで播磨との国境にあたる要衝、但馬竹田に築城を開始したのが当時の但馬守護・山名持豊だったのです。

六代将軍義教の専制政治

 

時はくだり、六代将軍・足利義教(あしかがよしのり)の治世。
赤松満祐は幕府の最長老格として、山名持豊は将軍義教の側近としてそれぞれ重用されるようになっていました。
しかし、義教は『のちに織田信長が手本にした男』という説が唱えられるほどの苛烈な性格の持ち主で、それまで宿老による合議制で運営されていた幕政を将軍自ら主導する形に変えようと様々な手を打っていきます。
大名家の跡継ぎ問題に介入し、自身のお気に入りを当主としてその大名家の傀儡化を図るなどは朝飯前。
跡継ぎ争いが起こらないのならばいっそのこと、と現当主を無理やり誅殺することも。

そのやり方は武家だけでなく寺社や公家にも向けられました。
ささいなことで島流しや処刑される者が相次ぐ事態に、時の親王は日記の中で「万人恐怖」と書き記しています。

幕府内の宿老が次々と粛清され、残す宿老は赤松満祐だけとなった時、室町幕府を揺るがす大事件が勃発します。
かつて、幕府に弓引くこともやむなしと合戦の準備に走ったこともあるほどの激情家である満祐が、将軍義教に牙を剥いたのです。

将軍暗殺!ついに復権を果たす山名家

 

将軍暗殺!ついに復権を果たす山名家

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満祐ついに動く!凶刃に倒れた将軍義教

 

ある日、関東で1年以上行われていた合戦に勝利をおさめた義教に対し、満祐から祝勝の宴の招待が届きました。
「鴨の子がたくさん産まれたので、泳ぐさまをぜひご覧ください」と誘ったと言われています。
この宴に、山名持豊はじめ側近の大名や公家などの少人数で赤松邸を訪れた義教は、なんとその酒宴の席で赤松家の郎党に首をはねられ、殺されてしまいます。

多勢に無勢の中、命からがら赤松邸を脱出した持豊は自邸に帰り門を固く閉ざしました。
それもそのはず、将軍暗殺などという大それたことを起こす以上はその動きに連動して挙兵する大名がいるに違いないと考えたからです。
持豊だけでなく、将軍殺害の報を受け取った大名の多くは、これを機に大規模な軍事クーデターが発生すると考えて自邸の門を固め、防衛態勢に入ったのですが…

これに拍子抜けしたのが、将軍を殺害した張本人の満祐でした。
誰かと共謀して事を起こしたわけではなく、完全に勢いまかせの単独犯だったのです。
彼はすぐにでも幕府による討伐軍が押し寄せてくると考えていました。
しかし、夜になっても一向にその気配はありません。

当初は屋敷で戦うだけ戦い潔く自害しようと考えていた満祐も、ここに至って領国の播磨に戻り、本格的に幕府軍と戦う決意を固めます。

赤松討伐の総大将、山名持豊の活躍

 

この将軍暗殺事件を、発生した年号をとって『嘉吉の乱』と呼びます。
生前の義教が目指した将軍親政は、結果的に宿老の合議体制を破壊してしまいました。
そのため、将軍不在の状態で満祐討伐軍の編成もままならない幕府をしり目に、播磨に戻った満祐は戦闘態勢を固めていきます。

将軍暗殺から実に3週間後、ようやく出発することになった満祐討伐軍の事実上の総大将を務めたのが山名持豊でした。
彼は、かつての権勢を再び取り戻すべく、山名家の総力を挙げて奮闘します。
次々と赤松氏の城を攻め落としていき、ついに赤松満祐が立てこもる城山城を山名一族の大軍で包囲した持豊。
その様に、満祐に味方していた播磨の土豪たちも戦意を喪失し、多くは赤松家を見放して逃亡していきました。

そうして赤松軍の戦力を削りとった持豊は、満を持して総攻撃をしかけます。
完全に勝機を失った満祐は、一族の者たちを城から脱出させて自身は切腹して、波乱に満ちた60年の生涯に幕を下ろすことになったのです。

全国に広がる応仁の乱!但馬を守った竹田城

 

全国に広がる応仁の乱!但馬を守った竹田城

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赤松家残党と戦った竹田城主・太田垣氏

 

満祐討伐の戦で最大の功労者となった持豊。
しかし、恩賞として赤松氏の代わりに与えられた播磨の国は、なんとも厄介な土地でした。
戦乱により荒廃していたことに加え、もともと赤松氏が長く支配してきた土地。
先祖伝来の地を取り返そうと、赤松氏の残党が何度も蜂起します。

そのたびに山名氏の出撃拠点として使われたのが、この竹田城だったのです。
持豊あらため宗全は、1443年(嘉吉3)に太田垣光景(おおたがきみつかげ)を竹田城の初代城主に任命したと言われています。
こうして太田垣氏は、竹田城主として宗全の代わりに播磨を治める役目を任され、赤松家残党軍の掃討作戦を行い播磨を平定していきました。
赤松家の残党にとって竹田城は、まさに『虎の臥す城』といったところだったのではないでしょうか。

以降、播磨の国に対しての重要な戦略拠点となっていく竹田城ですが、時代はさらに混迷を深めていきます。

各国の有力大名たちが抱えていた、後継者をめぐる問題。
そしてそれに絡む幕府内での権力争い。
そこに足利将軍家の後継者争いまで重なりあってしまった結果、日本は10年の長きに渡る戦乱、「人の世むなし」という語呂合わせでおなじみの『応仁の乱』に突入します。

応仁の乱で狙われた但馬、防衛拠点としての竹田城

 

全国各地の大名たちが戦に明け暮れた戦国時代に比べると、圧倒的に地味な印象の強い室町時代。
ですが、実際は内乱や政変などの頻発した戦乱の時代でした。
その中でも最も規模の大きなものが、この応仁の乱です。

将軍家の後継争い、山名宗全と細川勝元(ほそかわかつもと)の権力争いだけが火種だったわけではありません。
ある武将が山名氏に味方をすれば、それと敵対する武将は細川派になるといった具合に、幕府内の政争が各地でくすぶっていた武将たちの抗争に利用された結果、日本全土で合戦が起こる状況となってしまったのです。

当然、西軍総大将だった山名宗全のおひざ元である但馬・播磨は激戦区でした。
細川勝元は山名家に憎しみを募らせる赤松家の当主・赤松政則(あかまつまさのり)を味方につけて播磨の奪還を行わせる一方、自身の軍勢を丹波から但馬に侵入させるなど、宗全の領国に揺さぶりをかけます。

攻め手である細川軍の内藤孫四郎を相手に、竹田城から出撃した太田垣新兵衛尉は小勢ながらも奮闘してこれを討ち取るなど、戦乱が続く当時の兵庫県の中心で、竹田城は確かな存在感を放っていました。

誰もが欲しがる莫大な資金源!生野銀山の開発

 

誰もが欲しがる莫大な資金源!生野銀山の開発

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山名家興隆のきざし?本格化する銀山経営

 

その後、室町時代の後期から戦国時代にかけて、山名氏と赤松氏は没落の一途をたどります。
どちらも有力な家臣が力を持ち、主家である山名・赤松両家をないがしろにするどころか、半独立して圧迫を加えるまでに成長していきました。
戦国時代の特徴である『下剋上』が、すでにこの頃の播磨・山陰地方では行われていたのです。

次第に勢力を失い、言うことを聞かない家臣に振り回され、挙句は合戦を吹っかけられたり…かつての権勢はもはや見る影もない山名家。
山名四天王と呼ばれ、有力家臣団のひとつだった竹田城主の太田垣氏は、山名家の出兵要請さえ拒否するほどでした。

そんな状況が変わるのが、1542年(天文11)のこと。

なんと、竹田城から南に15㎞ほどの山中、生野で銀が発見されたのです。
もともと奈良時代にはこの地で銀が採掘されたこともあったのですが、再びとてつもなく大きな銀鉱脈が発見されたことにより、山名家は急速に勢力を盛り返します。

当時の山名家当主・山名祐豊(やまなすけとよ)は、その頃に銀鉱山として名高かった山陰・石見銀山より採掘技術を学び、生野銀山に本格的な採掘設備を整えました。
こうして、日本最大の銀鉱脈から「銀の出ることおびただし」と言われるほど採れる銀の力を背景に、戦国大名として歩み始めるのです。

竹田城主と生野銀山、切っても切れない関係が始まる

 

祐豊はこの銀山経営のために、かつて築かれた生野城を大幅に改修します。
元からあった山城・生野城の他に山のふもとに館を築き、ここで役所のような仕事を行う「二つでひとつの生野城」を築いたのです。
そしてこの生野城と生野銀山の管理を、竹田城主の太田垣氏に命じました。
これより太田垣氏は竹田城主と生野銀山管理者を兼ねることになっていきます。

さて、但馬の戦国大名として再び力を取り戻した山名家でしたが、戦国大名である以上戦いとは縁を切ることができません。
そして、戦のために築城された竹田城もまた、戦の中で落城の憂き目にあうことに。

時は戦国時代も半ばに差し掛かってくる頃、そろそろ歴史の教科書や大河ドラマなどで名前を聞くようなビッグネームの武将たちが、竹田城の歴史に名前を残していくようになります。

畿内と中国地方に挟まれた国、但馬。
『三本の矢』で有名な中国地方の雄・毛利家と、『天下布武』の旗の元に天下統一を目指す織田家。
そして、その織田家における中国方面攻略の責任者・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が攻防を繰り広げる舞台のひとつとなっていくのです。

毛利家と織田家、超大国に挟まれた山名家の行く末

 

毛利家と織田家、超大国に挟まれた山名家の行く末

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圧倒的な力で迫りくる織田軍に手も足も出ず…蹂躙される但馬

 

中国地方はかつて、山口県を中心に山陽・北九州を支配した大内氏と、島根県を中心に山陰地方を支配した尼子氏、二つの大大名家がしのぎを削る場所でした。
その両者を天秤にかけ、巧みに利用して勢力を伸ばした毛利家当主・毛利元就(もうりもとなり)によって両大名家は滅ぼされ、中国は毛利家のものとなります。

山名祐豊はこの尼子家と同盟を結んでいました。
祐豊が生野銀山の運営を本格化させる際には、尼子氏が管轄する石見銀山から技術提供を受けるなど、厚い同盟関係にあったのです。

1569年、尼子家残党が毛利領内にて蜂起すると祐豊はこれを支援して、毛利軍と交戦状態に入ります。
北九州の攻略に力を入れていた元就はこれに対応する余力がなく、流浪の将軍・足利義昭を擁して畿内を制圧したばかり、急成長株の今もっともノッてる武将・織田信長に支援を要請しました。
「但馬の国に攻め入り、山名祐豊の背後を脅かしてほしい」と。

これに応じた信長は、羽柴秀吉(当時はまだ木下秀吉と名乗っていました)に2万の兵を授けて但馬に攻め込ませます。
秀吉率いる織田軍は怒涛の勢いで但馬になだれ込み、わずか10日間で竹田城を含む18もの城を落城させて京都に引き上げていきました。

「背後を脅かす」どころか、祐豊がこの戦で堺(当時大阪にあった商業自治区)に亡命せざるを得ないほどに圧倒的な力を示した織田軍ですが、あくまでも毛利家の支援が目的であり但馬平定を狙ったものではなかったためか、竹田城主であり山名家の重臣でもあった太田垣輝延(おおたがきてるのぶ)は引き続き竹田城主にとどめ置かれ、亡命した祐豊も同年末に多額の金銭を信長に献上し、但馬復帰を許されました。

織田家の傘下として再スタートするも…揺れ動く祐豊

 

こうして山名家は織田家傘下のような状態となり、また毛利氏と敵対していた尼子家残党軍も織田家に接近して支援を得ようと考えます。
さらに、信長によって京都を追放された15代将軍・足利義昭が毛利氏を頼ったことをきっかけにして、毛利家と織田家の関係は悪化。
山名家は、織田家の支援を得た尼子家残党軍と協力し毛利家と戦うこととなります。

しかし、ここから竹田城を取り巻く環境は急変することに。
祐豊は、自身と同じく織田家に恭順の姿勢を示していた丹波の国・赤井直正を攻撃してしまったのです。
後に丹波の赤鬼と恐れられるほどの武勇を誇る直正は祐豊を撃退するどころか、勝利の勢いそのままに但馬に侵攻して竹田城を占領してしまいます。
信長は明智光秀を大将とする丹波攻略軍を出発させ、光秀は奪還した竹田城を拠点として丹波の国に侵攻していきました。

その頃、但馬の国の有力武将たちを取り込もうと画策した毛利家の勇将・吉川元春(きっかわもとはる)は竹田城主・太田垣輝延と和睦し、毛利陣営に引き込むことに成功します。
また、それら重臣にとどまらず但馬国内の武将たちがどんどん毛利陣営に鞍替えしていく様を見て、山名家も毛利方につくことを決定。
これに激怒した信長は羽柴秀吉を総大将とした大軍勢を編成して、毛利家討伐の前哨戦として播磨・但馬の攻略を命じます。

天下人の欲した銀山!管轄する竹田城をめぐる争い

 

天下人の欲した銀山!管轄する竹田城をめぐる争い

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激化する竹田城争奪戦!戦国大名山名家の滅亡

 

こうして秀吉は播磨に侵攻し、黒田孝高(黒田官兵衛として有名ですね)の活躍によりわずか1カ月で播磨の諸将を帰順させることに成功します。
そして、秀吉は本隊を率いて吉川元春に包囲された尼子家残党軍の救援に向かい、弟の羽柴秀長(はしばひでなが)が、別動隊を率いて但馬攻略に向かいました。

生野銀山を確保したい秀長隊は、但馬攻略の第一目標を竹田城に据えます。
激戦の末にこれを攻め落とした秀長は、城代として竹田城に入城。
ここから但馬の諸将を制圧していくのですが、1579年に信長の命で、丹波攻略に苦戦する明智光秀支援のため竹田城から丹波へ進軍すると、その隙をついて前竹田城主・太田垣輝延が再び竹田城を奪還します。

播磨に戻った秀長は、翌年1580年に信長より兵を与えられ再度但馬に侵攻。
後ろ盾だった毛利家からの援軍も間に合わずに、山名祐豊及び太田垣輝延は降伏することになりました。

戦国大名山名家は滅亡し、7代にわたって城主を務めた太田垣氏が追放された竹田城は、秀長の部将である桑山重晴(くわやましげはる)に与えられ、生野銀山から産出される銀は織田家の貴重な資金源として運用されるようになります。

新たな竹田城主は赤松家の一族!秀吉からの信任厚かった赤松広秀

 

その後、信長が本能寺の変で倒れて秀吉が織田家を支配し、天下統一事業を引き継いでいきます。
そして1585年、新たな竹田城主として、かつて山名家と争いを繰り広げた赤松家の一族、赤松広秀(あかまつひろひで)が任命されます。

先の秀吉による播磨侵攻の際に帰順した武将の一人であった広秀は、秀吉とともに対明智光秀の山崎の合戦、対柴田勝家の賤ケ岳の戦い、徳川家康と争った小牧・長久手の戦いを戦い抜いた勇猛な武将でした。
それだけでなく、養蚕業や漆器産業の育成に努め、現在の竹田を代表する家具製造などの礎を築いた名君として、竹田の領民に慕われました。

また、現在残る竹田城の石垣群は、この頃に広秀が秀吉の支援を受けて竹田城を整備した際のものです。
豊臣秀吉は生野銀山を手に入れた後、積極的に鉱山開発を推し進めました。
生野銀山から産出された銀は、全国で流通した銀の78%を占めたと言われています。

このように、丹波・播磨から毛利領に抜けるための交通の要衝だけでなく、豊臣政権の命綱ともいえる銀山を守るために、秀吉は竹田城の改築を支援し、かつ文武に秀でた勇将・赤松広秀をそこに配置したのでしょう。

数多くの武将が運命を変えられた…天下分け目の関ケ原

 

数多くの武将が運命を変えられた…天下分け目の関ケ原

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本性をあらわした徳川家康、事態は風雲急を告げる

 

弱冠15歳で降伏して以来、数多の戦場を秀吉とともにした広秀。
竹田城主となって以降も島津家を下す九州攻めや北条氏を滅ぼした小田原攻め、朝鮮出兵で活躍し続け、豊臣恩顧の大名としてその名を轟かせていきます。

交流のあった学者や名僧からも絶賛、期待された人物だった広秀は、平和な時代であればのちのち豊臣政権の重要なブレーンとして出世する未来があったかもしれません。
しかし、秀吉の死後に起きた豊臣政権内の勢力争いが、彼と竹田城の未来に暗い影を落とすことになります。

豊臣政権の長老格であった前田利家が秀吉に次いでこの世を去った後、政権内で最も力のある派閥の長だった徳川家康と、実務官僚筆頭として実際に政権運営を切り盛りしてきた石田三成の軋轢はもはや隠しようのない状態となっていました。

家康が、自身と対立する大大名・上杉家討伐のために大軍を率いて京を出立すると、その軍事的空白をついて石田三成が挙兵します。
そして、最初に行ったのが徳川方についた武将の畿内にある拠点を制圧することでした。

三成からの出兵要請を受けた赤松広秀は、但馬・丹波の諸将とともに、丹後にある田辺城を包囲すべく竹田城より出陣します。

気心知れた?同僚の誘いで徳川方に寝返った広秀

 

1カ月以上の攻囲の末にようやく開城した田辺城。
三成方として集結していた諸将が今後どう行動すべきかも定まらないうちに、広秀の元に悲報が届きます。

それは、現在の岐阜県にある関ケ原にて三成と家康の大軍が衝突。
半日の合戦において三成方が大敗したというものでした。
これで、今後の豊臣政権は徳川家康を中心として回っていくことになる…どうするべきか。
そう思案する広秀に、徳川方のある武将からひとつの提案が行われます。
その武将の名は亀井茲矩(かめいこれのり)。
尼子家の残党として、広秀と同時期に秀吉に見いだされ、広秀と同じく秀吉の合戦や朝鮮出兵に参加、銀山経営を任された点など、広秀と年代や境遇の似通った同僚でした。

彼は秀吉死後に家康と接近、山名家の生き残りであった山名豊国を従えて関ケ原で行われた合戦に従軍していたのですが、合戦後に山陰地方に戻って三成方だった鳥取城を攻めていた最中だったのです。

「今からでも遅くはないから、徳川方として手柄を挙げてみてはいかがか?」との誘いを受けた広秀は茲矩の元に参陣。
かつて秀吉も手を焼いたとされる天下の堅城・鳥取城を落とすために城下の焼き討ちを決定した茲矩は、これを広秀に行わせて鳥取城攻略に成功しました。

政治の濁流に飲み込まれた赤松広秀の不運

 

政治の濁流に飲み込まれた赤松広秀の不運

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まさかの切腹!茲矩にはめられた広秀の最期

 

関ケ原の合戦後、名実ともに豊臣政権第一の人物となった徳川家康により、戦後の論功行賞および処分が決定されていきました。
遅まきながら家康方として鳥取城攻略に大手柄を挙げた広秀でしたが、待っていたのは恩賞ではなく切腹の命令でした。

関ケ原の勝利においてすでに帰趨は決していたにもかかわらず、戦略上さして重要でもない城を落とすため、城下に甚大な火災被害をもたらした。
そのことについて責任者の亀井茲矩が詰問された際に、広秀一人にその責任を押し付けたせいだと言われています。

ですが、まがりなりにも徳川方として武功を挙げたことは事実。
被害がひどかったことを差し置いても所領を減らすか、最悪没収がいいところだというのが当時の基準でもありました。
家康方に寝返った武将の中で唯一切腹を命じられた広秀は、結局鳥取の真教寺において自刃。
39年の短い生涯を終えます。

銀山は誰のもの?広秀とともに廃城を迎えた竹田城

 

家康からの不可解な切腹の命令により命を絶つこととなった赤松広秀。
主を失った竹田城は、その後山名家の一族であり、亀井茲矩と行動をともにしていた山名豊国が受け取り入城しますが、間もなく江戸幕府の方針により廃城となりました。

亀井茲矩は戦後、その功績により所領を増やされて、後に鹿野藩3万8000石の初代藩主となります。

そして竹田城が廃棄されると、家康はすぐさま近くの篠山に城を築き、そこに古くからの家臣である松井松平家の当主・松平康重(まつだいらやすしげ)を配置。
生野銀山には但馬金銀山奉行を設置して、佐渡金山・石見銀山と並び幕府の直轄領としてしまうのです。

亀井茲矩はなぜ、田辺城攻略軍の一部将に過ぎなかった赤松広秀に声をかけたのか。
焼き討ちを企画した茲矩は加増され、実行した広秀が切腹となったのはなぜなのか。
広秀は自刃する際、茲矩に対して恨み言を言うでもなく、静かに自身の死を受け入れたと伝えられています。

そして、築城の理由であった山名家と赤松家の盛衰を見届けた竹田城は、廃城され石垣が残るのみとなった姿で、徳川幕府のものとなった生野銀山を見守りながら今日にいたります。

築城から廃城まで、常に戦とともにあった竹田城

 

いかがでしたでしょうか?山名・赤松両家の確執や、時の権力者が銀山を狙うたびに戦火に晒されてきた竹田城。
壮絶な歴史を持ちながらも、雲海につつまれて静かに佇む竹田城の石垣は微塵もそのようなことを語りかけてはきません。
時流に翻弄された折々の城主たちも、きっとその眼下に雲海を見ていたことでしょう。
争いの悲惨さと人の欲を飲み込んで、今なお風光明媚な景色を私たちに見せてくれる竹田城跡に一度足を運んでみてください。
その雄壮な風景の中にある平和が、とても尊いものだと感じることができるかもしれません。
そして、恋人と喧嘩してしまった方は、竹田城の歴史から争いの悲惨さを感じつつ、山頂の澄んだ空気で頭を冷やしましょう。
まさに『恋人の聖地』にうってつけ、ですね。
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