沖縄のルーツはここ!海上に花開いた貿易国家、琉球王国の歴史

陽気で、開放的で、おおらか。沖縄って、とても暖かくて素敵なイメージがありますよね!
有名な「なんくるないさー(なんとかなるさ)」という言葉は、私たちの心を大きく包みこんでくれるマジックワード。その穏やかで前向きな言葉は、沖縄の風土が持つ明るさと相まってより魅力的に聞こえます。
ですが、沖縄は果たして本当にただ「明るい」だけなのでしょうか?沖縄のルーツ・琉球王国の歴史を紐解くと、そこには大きな国に翻弄されつつも、たくましく生きた人々の姿が見えてきました。

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海は広いな大きいな、本当は大きな沖縄県!

海は広いな大きいな、本当は大きな沖縄県!

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海のこと忘れてない?陸地だけがすべてじゃない

みなさん、沖縄といえば何を思い浮かべますか?

訪れる人々の心を魅了して止まない、南国風情あふれる街並み。
真夏の夜を彩る満点の星空や、本土ではなかなか見ることのできない大自然とのふれあい。
ゴーヤチャンプルーや泡盛などの沖縄料理は、もはや私たちの生活の一部にさえなっていますよね。

そんな中でも、沖縄最大の魅力と言えばやはり「海」ではないでしょうか?

大小160、岩まであわせると実に363の島からなる沖縄県。
陸地面積だけを考えると東京都や大阪府とそこまで変わりませんが、その島々を取り巻く海域を含めた広さは、なんと東西1000㎞・南北400㎞。
九州から神奈川県まですっぽりと収まってしまうくらいの広大な範囲なのです。
沖縄県の前身である琉球王国は、この広範囲な海域を支配していた、まさに「海の上の国家」でした。

私たちはいつも陸の上で生活し、海と言えばなんとなく自分のいる場所と海の向こうを断絶する壁のように感じてしまいがちです。
そんな私たちにとって「海の上の国家」という言葉の意味がいまいちピンとこないのは、仕方のないことなのかもしれません。

海の道を束ねる海洋国家・琉球王国

琉球王国(当時の正式な呼称は琉球国)は、1429年から1879年までの450年間この海域に存在した巨大な商業国家でした。
もともと南西諸島では、長く漁業や採集を中心とする生活が営まれていました。
本格的な農耕社会の成立は12世紀頃と言われており、日本で言うところの縄文時代から平安時代まで、南西諸島の人々は舟に乗り漁に出ていたわけです。

それほど長きに渡り海で生活していた人たちにとって、海は「壁」ではなく「道」であり、また「生活の場」でもありました。
もちろん命の危険は常にあったしょうが、島と島の移動は活発に行われていたようです。
私たちが自分の住んでいる土地から、電車や車に乗って隣の市まで仕事に行き、そして帰ってくる。
それと同じような立場でごく自然に海と接していた人たちにとっては、「海の道」という認識が当たり前のことであり、そんな生活の中に「海洋国家」という概念の萌芽がすでに存在していたのかもしれません。

それでは琉球王国の歴史を紐解くために、まずは南西諸島と他の国々の、海を越えた交流の歴史を追いかけていきましょう。

海洋国家の原点!人の交流が国の基となる

海洋国家の原点!人の交流が国の基となる

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日本と東南アジアが交わる場所、南西諸島

南西諸島には当初、奄美・沖縄諸島と、宮古列島・八重山列島などがある先島諸島で二つの異なる文化圏が存在していました。

比較的日本に近い沖縄諸島では、日本の縄文土器によく似た形状部分を持つ土器が発見されるなど本土の影響を受けた文化圏があったことがうかがえます。
一方、同時期の先島諸島からは、目と鼻の先にある台湾との共通点が多い土器が発見されることや、奄美・沖縄諸島にはないシャコ貝を利用した貝斧(台湾やフィリピンなどの南方諸島より持ち込まれたものだと推定される)が発見されたことから、九州にあった縄文文化とは系統の異なる、東南アジア系の文化圏に属していたと考えられています。

日本が弥生時代を迎えた頃、沖縄諸島と日本にはすでに交易の道が開かれていました。
後の古墳時代に、日本において支配階級にあった豪族が身につけていた貝輪と呼ばれる装飾品があります。
これらの原材料に使われていた貝の多くは奄美諸島より南に生息するものでした。
沖縄ではこれらを大量に加工していたと見られる遺跡が発見されており、九州・西日本を経て遠く北海道まで達したこの貝の交易ルートは絹の道、ならぬ「貝の道」と呼ばれています。

商売人は、いつの時代もフットワークが大事!

また、この頃には南西諸島を拠点にした広域な商業活動が行われていたことを裏付ける証拠も見つかっています。
奄美地方で発見された、螺鈿(らでん)細工の原料となる貝の集積地と中国の貨幣。
これらは当時、国際貿易港として機能していた博多と中国を結ぶ商業ネットワークの一部として、沖縄がすでに商人たちの拠点になっていたことを示唆する史料と言えます。

商業的な交流以外にも、714年(和銅7年)には「信覚・球美」などの人々が来朝したと「続日本紀」に記されており、後に江戸時代の政治家である新井白石(あらいはくせき)は信覚を石垣島、球美を久米島であると比定しています。
これと前後するように日本の朝廷からは南の島々の人間に対して官位を授け、南島からは朝廷に物品を献上するなど、政治的な交流も行われていました。

その後、先島諸島などでも朝鮮半島系の須恵器(すえき)であるカムイヤキや長崎でつくられた石鍋、それを模した石鍋風の土器が見つかるようになることから、800年頃には奄美・沖縄諸島と先島諸島を併せたひとつの文化圏が形成されていたのではないかと考えられています。

貿易が勝利の鍵!?群雄割拠のグスク時代

貿易が勝利の鍵!?群雄割拠のグスク時代

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農業の発達が、グスク時代を到来させた

中国で宋という国が生まれると、日本はその宋との交易を求めました。
「日宋貿易」と言うと、歴史の授業で聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。
その大規模な商業活動の中で、南西諸島で産出される貝や硫黄を求めた商人たちが多く沖縄を訪れます。

これら日本からの来訪者が増えることにより、漁と採集を中心とした南西諸島の生活は少しずつ変わっていきました。

12世紀頃、稲作や畑作を中心とした本格的な農耕社会が形成されると、交易の中で力を持った者が地元の農民たちをまとめてリーダーとなっていきます。
「按司(あじ)」や「世主(せいしゅ・よのぬし)」と呼ばれた彼らは、それぞれの居住地に石垣で囲まれた「グスク」と呼ばれる城塞を築き、勢力の拡大を狙って次第に衝突するようになっていきました。
この時代のことを現在では「グスク時代」と呼称しており、この按司たちの争いの中から次第に有力な按司が現れ、最終的には南西諸島全域を制覇することになります。
まさに本土での戦国時代を彷彿とさせるような群雄割拠状態の中、力をつけた按司たちは周辺の集落を取り込み、それぞれ小国家へと発展していきました。

按司たちの戦国!乱世の夜明けが見えてくる

14世紀に入ると、沖縄本島の按司たちは「大世の主(おおよのぬし)」と呼ばれる強力な按司のもとに統合されていき、ついに本島の北部・中部・南部に3つの国家が形成されます。

南山グスクを拠点とし、現在の糸満市あたりを支配下においた南山王国。
現在の今帰仁村を中心に鹿児島県の与論島や沖永良部島まで版図を広げ、三国の中でも最大領土を誇った北山王国。
そして、現在の那覇市・浦添市を中心に沖縄中部を支配した中山王国。
これら3つの国を、それぞれの名称から「三山(さんざん)」と呼び、その三山が鼎立していた100年間を「三山時代」と呼んでいます。

これらの国々は「王国」とは言うものの、必ずしも血統が大事にされていたわけではありません。
大世の主による絶対的な統治ではなく、実際は有力な按司たちによる連合政権であったとされています。
時には、政権を構成する按司たちの合意の元で、その時の有力な按司が新たな王として推戴されることもあったようです。
ちなみに、この三山を統一して琉球王国をつくりあげるのは、まさに「推戴された有力な按司」でした。

それでは、この三山統一・琉球王国の成立前夜を見ていきましょう。

沖縄版三国志、三山時代!そして統一王朝へ

沖縄版三国志、三山時代!そして統一王朝へ

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思わぬ幸運、富を運んでくる海の道

後世において貿易立国を目指すことになる琉球。
交易こそが海洋国家の力の源になるわけですが、それはこの三山時代においても変わりません。
南西諸島と海の道で繋がる超大国・中国の動向は、そのまま三山の国家経営に直結しました。

三山が成立した当時の中国は、前述した宋から代わって元朝の末期。
中国南部や沿岸地帯で頻発する大規模な反乱を抑えることができない状況は、もはや元朝の支配が長くないことを予見させるには十分なものでした。
そして、この中国沿岸部の混乱が南西諸島に思わぬ風を吹き込むことになります。

当時博多と直接航路が開かれていた寧波が、うち続く反乱のために危険地帯となってしまったのです。
そこで、今までは遠回りで、あくまでサブ的なポジションだった九州から南西諸島、台湾を経て中国南部にいたる交易路が一躍脚光を浴びることになりました。
当時の日中間で交易に携わっていた商人たちは、天然の良港だった那覇を拠点として活動を再開させていきます。

そして、沖縄本島における経済の中心地となった那覇と当時最大規模の都市であった浦添を支配下においた中山王国が、その勢力を強めていきました。
元朝が倒れたあとに興った明朝は琉球諸国に対して交易を呼びかけましたが、三山の中でいち早くその声に応じたのが中山王・察度(さっと)でした。

戦の天才・尚巴志が琉球を統一!琉球王国のはじまり

しかし、中山王察度の栄華も長くは続きません。
南山王国に誕生した一人の按司によって、察度王朝は滅亡させられてしまうのです。
その按司の名は、尚巴志(しょうはし)。

南山王国の支配下にあった佐敷(さしき)という地域の按司である尚巴志は、粗暴な南山王に恐れおののいた他の按司たちを保護し、その南山王を大いに打ち破ったと言われています。
その後、南山王を傀儡(かいらい)とした尚巴志は、自らは佐敷按司として中山王国に侵攻。
優れた軍事的手腕を発揮して中山王国の察度王朝を滅亡させ、父である尚思紹(しょうししょう)を新たな中山王に即位させます。

その後、さらに北進した尚巴志は、1416年に北山王国を滅ぼします。
また、中山王である自身の父が亡くなると、そのまま自分自身で中山王に即位。
すでに自身の支配下同然であった南山王国に攻め入り、これを滅ぼしてしまいました。

1429年、こうして南山王国に生まれた按司である尚巴志が、中山王国・尚氏の2代目の王として沖縄本島を統一。
これをもって、ようやくこの記事の本題である琉球王国の歴史が始まることになるのです。

育ての親!?琉球王国と中国の蜜月関係

育ての親!?琉球王国と中国の蜜月関係

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ところで、琉球王国ってどんな国?

もともと海洋に出てさまざまな国の人々と広く交流していた南西諸島の人々にとって、自身が所属する最も大きな政治集団、つまり「くに」という概念を意識することはあまりありませんでした。
沖縄本島のことは当時から「おきなは」と呼ばれていたようですが、それはあくまで沖縄本島そのものを指す言葉であり、「くに」の名前ではありません。

尚巴志は沖縄本島を統一した後、自身の国の名前を「琉球国」としました。
この「琉球」という言葉は、当時中国が台湾や南西諸島を含めたであろう領域のことを「琉求國」と呼んだことに基づいていると考えられています。

かつて三山の王たちはそれぞれ中国の明朝と交易を行い、また明朝の皇帝からは「お前たちはそれぞれの国の王である」とのお墨付きを得ていました。
このお墨付きをもって三山の王は「俺はあの明の皇帝から王であると認められたんだぞ」という権威付けを行い、各地の按司たちを支配する根拠としていた一面もあります。
それは中山王となった尚巴志も同様であり、「あの中国が俺たちのことを琉球国って呼ぶのなら、それでいいんじゃないかな」と言ったところだったのではないでしょうか。

持ちつ持たれつ?琉球を育てる中国の悩み

そして中国もまた、琉球国に大きな利用価値を見出していました。
元朝の衰退の一因となり、後継の明朝が神経をすり減らした大きな問題を、琉球国を使って解決しようとしたのです。

それは、「倭寇(わこう)」と呼ばれる海賊集団の存在でした。

かつて倭寇は、日本の海賊が朝鮮半島・中国沿岸部を荒らしまわったものだと考えられていました。
ですが実際は、日中韓混成の様々な出自からなる海上武力集団だったと考えられています。
日本人の頭目が率いる海賊集団もいれば、中国沿岸部の漁村民が武力蜂起したものもありました。
一概に単なる海賊だとは言えないこれらの勢力をまとめて倭寇と呼んでいたのですが、この中には海上輸送を生業とする者や、それらを差配して利益を得る商人たちも交じっていたのです。

明朝は貿易の利益を独占するため、海禁政策と呼ばれる方針を打ち出しました。
これは、明朝と他国の公的な貿易以外の私的貿易・渡航を禁止するというものです。

これに不満を抱いた商人や輸送業者が武装して倭寇に合流することを恐れた明朝は、琉球国に肩入れし、貿易立国として育てあげることで「琉球国の公的貿易」を行う船団の中に、自国の商人を参加させて不満を解消させようとしたと考えられています。

尚さんの王国、琉球王国

尚さんの王国、琉球王国

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最初の尚さん、第一尚氏王統

中国の後押しを受けた尚巴志は、中国から日本・東南アジアや遠くはマレーシアまで交易の範囲を広げていきます。
また、中国出身の有能な渡来人を国の宰相に、日本から来た禅僧を外交担当に任命したりと、国籍を問わない能力本位な人材登用を行い琉球王国の礎を築き上げました。
この尚巴志から7代続いた王統を、「第一尚氏王統」と呼びます。

この第一尚氏王統は尚巴志の死後も領土拡大を続け、1400年代半ばには日本の影響下にあった奄美群島において何度も日本の本土勢と合戦におよび、1447年に奄美大島を制圧します。

沖縄本島から奄美大島までを勢力範囲に収めた第一尚氏王統でしたが、この頃から政権運営に暗い影が見え隠れしはじめます。

もともとは明朝との交易を主軸に栄えた王朝でしたが、明朝が内政の充実を図ったり、あるいは代替わりで混乱が生じたりするたびに貿易の規模が縮小されていきました。
徐々に経済が冷え込みはじめた中で、第七代国王・尚徳王(しょうとくおう)は交易の拡大に乗り出します。

そして次に打った手は、奄美大島の隣に浮かぶ喜界島(きかいじま)の攻略。
しかしこれが、第一尚氏王統滅亡につながる落とし穴となってしまうのでした。

二人目の尚さんは尚さんじゃない?第二尚氏王統の成立

1466年、自ら2000の兵を率いて喜界島へ遠征した尚徳王は、これを制圧することに成功します。
祖父である尚巴志以来だった国王親征を実施し、喜界島を勢力範囲に組み込んだ尚徳王でしたが、この親征、実は重臣たちの大反対を押し切って実行されたものでした。

中でも、若き尚徳王をたびたび諫めていた重臣・金丸(かなまる)は、親征が大成功を収めた2年後に54歳の若さで隠居を決め込んでしまうなど、尚徳王との関係はもはや修復不可能な状態。
この時代の琉球王国は、かつての三山時代と同じように未だ按司による連合政権の色合いが強いものでした。
王位継承争いに絡んで有力按司の反乱が相次いだ第一尚氏王統の中にあって、有力な重臣との反目は致命的と言えるものです。

そして喜界島親征からわずか3年後、29歳の若さでこの世を去った尚徳王は第一尚氏王統最期の王となってしまいました。

王の死後まもなく、重臣たちに推戴された金丸が起こしたクーデターにより、第一尚氏は滅亡。

金丸は王位を継ぐ者として「尚円(しょうえん)」と改名し、琉球王国の王位を継承します。
この金丸からはじまる新たな尚氏王統のことを「第二尚氏王統」と呼びます。
同じ「尚氏」ではありますが、王としての名前が引き継がれただけで、第一と第二ではまったく別の血統ですね。

琉球の最盛期を築く、第二尚氏王統

琉球の最盛期を築く、第二尚氏王統

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世はまさに大航海時代!つまづいてる場合じゃない

こうして新たな王統となった第二尚氏ですが、琉球王国を取り巻く状況は依然として厳しいまま。
新政権はこの苦境を、版図拡大と国内権力の強化で乗り切ろうと考えました。

琉球王国最盛期を築きあげたと言われる第三代国王・尚真王(しょうしんおう)は50年に及ぶ治世の中で、先島諸島を支配下に組み込んで琉球王国の最大版図を実現し、また各地で勢力を保ったままの按司たちを首都である首里に移住させ、今までの按司たちによる連合政権から、王のもとの中央集権体制へ切り替えることに成功します。

このようにして対明貿易不況を乗り越え、最盛期を迎えようとしていた琉球王国に、新しい時代の波が押し寄せてきました。
大航海時代に端を発する、ヨーロッパ諸国のアジア進出です。

ヨーロッパの商人が自由に東南アジアと日本を往来し、またそれに乗じて日本の商人や大名、海禁政策で抑圧された中国の商人も貿易を行うようになると、今まで公的な対明貿易をメインに扱い、各国の窓口・中継地として繁栄してきた琉球王国はそれらの自由な商取引に置いてけぼりを食らうような恰好になってしまいました。

超こわもてのお隣さん、島津家の台頭

ここでいったん琉球王国を離れて、お隣の国・日本を見てみましょう。
琉球にとってはなんとも間の悪いことですが、こんなにもややこしい時期に、九州南部である勢力が台頭します。
それは九州屈指の武門の家「島津家」。
鎌倉時代より九州南部に根をはる、名門中の名門大名です。

室町時代も後半になると、既に足利将軍家は全国の武士たちを従える力を失っていました。
そこで、各地の有力武将たちは将軍の許しも得ずに、勝手気ままに外国と貿易を始めてしまいます。
島津氏もその中のひとつで、彼らは代々琉球と交易を重ねることで利益を得ていました。

時代はくだり戦国時代になると、島津氏は精強な軍隊を率いて急成長。
またたく間に九州全土へと勢力を広げていきます。
後に「鬼島津」と呼ばれるほど強大な力をもった島津家が、その後の琉球王国に暗い影を落とすことになるのです。

琉球王国の対日本貿易の中では、島津氏が安定して規模の大きな取引先でした。
他にも取引を行っている大名家は数多くいましたが、琉球との貿易を独占したい島津家はなんと「うちの船と、うちが許可した船以外は受け入れるな」との要求を琉球王国に突きつけます。
貿易立国である琉球王国にとって、船の受け入れ制限は死活問題。
何度かその要求を突っぱねはしたものの、ノリにノッている島津家を敵にまわす事態を恐れた琉球王国は、最終的にその要求を呑むことになってしまいました。

日本と中国の板挟み…琉球王国、服属の歴史

日本と中国の板挟み…琉球王国、服属の歴史

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なんでこうなった…秀吉の暴走に震撼するアジア

貿易規模が縮小していく中、安定して交易を続けてくれている島津家は大事なお客様…でもその島津家がすごく怖い。
居心地の悪い状況に陥ってしまった琉球王国に、さらなる悲劇が舞い込みます。

そんな島津家を圧倒的な力でねじ伏せて日本を統一した豊臣秀吉から、「使者を送ってこい」と要求されてしまったのです。
最初に使者を送る側が従・使者を受ける側が主という関係性があった時代に「使者を送れ」という打診は、「日本に服属しろ」と言っているようなもの。
本来ならばこんな要求はとても聞けたものではありませんが、この時ばかりはそうも言っていられない事情がありました。
第7代国王・尚寧王(しょうねいおう)の即位が間近に控えていたのです。

琉球王国では明の使者を招待して即位の式典を催し、明より王の承認を受けることで初めて王としての権威を手に入れることができます。
ですが、すでに経済状態の逼迫した現状では使者を招待しようにも、式典を開くお金がない。
そこで秀吉に対して借財の申し入れを行う代わりに、琉球王国から使者を送ることにしたのです。

これに気をよくした秀吉は朝鮮・明へと攻め込む際、琉球王国に出兵の要請までしてくる始末。
国家成立前から現在まで一貫して明グループに属していた琉球王国にとって、これほど迷惑な注文はありません。

家康もやっぱり怖い、島津家の琉球侵攻

これら秀吉の暴挙によって、琉球王国の中で日本に対する不信が広がっていきます。

秀吉の死後、対明貿易の再開を望む徳川家康は、直前まで戦争をしていた明との間を琉球に取りもってもらえないかと考えていました。
そんな折、運よく琉球船が日本に漂着したので、家康はその船に乗り込んでいた漂着民を厚遇して琉球王国へと送り返します。

当然、琉球王国からは返礼の使者が来る。
その使者とのやり取りの中で、明に対して交渉する糸口となってもらえれば…というのが家康の狙いでした。

が、先の秀吉との一件で軽率にも使者を送ってしまったがためにとんでもないことに巻き込まれた琉球。
二度も安易に使者を送るようなことはできません。
また、一度は日本に服属してしまい明の不興を買ってしまった身としては、これ以上日本と関係を持つとどれほど明を怒らせることになるかわからないということもあり、返礼の使者は送らないという方針に決定しました。

一方その頃、お家はじまって以来の大ピンチを迎えていた島津家。
国替えなどの影響で、いつ破綻してもおかしくないほど逼迫した財政状況に追い込まれていたのです。
てっとり早くかつ効果があるのは他国に侵攻して略奪を行い、そして土地を増やすこと…

領地併合によって財政危機を回避したい島津家と、対明外交進展のため、どうにかして返礼の使者を送らせたい家康。
両者の思惑が一致した時、琉球王国に悲劇が訪れます。

1609年、家康より許可を得た島津家は琉球王国に侵攻。
精強な島津兵に対して琉球王国軍はなす術もありません。
あまりに一方的な戦況に尚寧王は和睦を決意。
首里城を開城して島津兵を受け入れることとなりました。
こうして琉球王国は島津家に従属し、徳川幕府に対して使者を送らなければならない状況になってしまったのです。

今の沖縄の第一歩?帰ってきた二人の天才

今の沖縄の第一歩?帰ってきた二人の天才

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骨太のサトウキビ、羽地朝秀の経済改革

島津家に敗北したことで、琉球王国は衰退の一途をたどります。
農民は田畑を捨て、役人は不正を働くことが当たり前になり、自治とは言うものの折々で島津家が口をはさむために政治もままならない。
さらに、中国で明朝が倒れたことにより、対明貿易が断絶。
国内はボロボロ、お金が入ってこないので借金ばかりが増えていく…

かつての貿易大国は、すでに見る影もない状況でした。

この苦境を打破すべく、羽地朝秀(はねじちょうしゅう)という男が立ち上がります。
彼は島津家が藩主を務める薩摩藩に留学し、破綻寸前だった島津家の財政改革を目の当たりにしていました。
そしてその時に学んだことをベースとして、琉球の改革に着手していきます。

催しごとや儀式にお金のかかる王政・宗教改革に加え、崩壊してしまった貿易中心の経営モデルから農業を育てあげて国の中心に据える大転換。
まさに骨太の改革を断行したのです。

沖縄といえば、風にそよぐ緑あざやかなサトウキビ畑を思い起こしませんか?飲み会に参加する前に、ウコンエキスが配合されたドリンクを飲んだりしたことはありませんか?

実はこれ、この時に羽地朝秀が琉球の基幹産業としてピックアップしたものなんです!

琉球の農家が作ったサトウキビとウコンを琉球王国が一手に買い取って、それを日本の大阪(当時は大坂と書きました)などで売りさばき、ばく大な利益を得る。
この手法によって、琉球は財政状況を改善することに成功したのです。

蔡温が作った、今に見える沖縄の伝統

さらにその後、中国に渡っていた蔡温(さいおん)という人物が琉球王国に戻り、羽地朝秀の改革路線を引き継ぎます。

沖縄の伝統衣装や舞踊、音楽。
どれも日本のものとは少し違った、独特なテイストが魅力ですよね。
イメージするなら 「(日本+中国)×南国の雰囲気=琉球スタイル」といったところでしょうか。

蔡温が行ったのは、風水思想などを取り入れた「琉球王国の中国化」でした。
明のあとに興った清朝に対しては「私たち中国に憧れてるんです!」というアピールになる一方、実質的に琉球を支配する日本に染まりきらないようにするために、琉球文化と日本文化、そこに中国テイストを加えていく。
今日私たちが思い描く琉球の景色や音は、この時代に育まれたものだったんですね。

こうして薩摩と中国、琉球王国に多大な影響を与えた国で知識を蓄えた二人の琉球人によって、一度は沈みかけた琉球王国が再び息を吹き返しました。
そして、社会が沈滞してしまうほどの逆境を乗り越えるために打ち出した政策が、現代まで残る「沖縄」の姿を創りあげることになったのです。

時代の波と、大国に翻弄され続けた琉球王国

時代の波と、大国に翻弄され続けた琉球王国

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変わる時代に、対応していく余力を失った琉球王国

このようにして再建を果たした琉球王国でしたが、蔡温にはその後琉球が行き詰まる道が見えていたのかもしれません。
彼はこう述べています。
「日本、中国との関係を維持するためには、琉球のもつ国力以上のことが必要とされる」と。

19世紀に入ると国王が次々と交代することになり、何度も国王任命の式典や徳川幕府に使者を送らなければいけなくなったりと、財政が非常に厳しい状態となってきました。
加えて、もともと農耕には適していない土地に津波などの災害が発生した結果、琉球の農村地域は破綻し、年貢の徴収さえできない事態に見舞われます。

さらに、今までは何かとお金を融通してくれた日本が幕末の動乱期で、自身のことで手一杯な状況。
中国の清朝は欧米列強の進出に押され、アヘン戦争の敗北により青息吐息。
ちなみにこの時代、黒船で有名なペリー提督が琉球を訪れ、修好条約を結んだりもしています。

そして日本ではついに徳川幕府が倒れ、明治政府が誕生しました。
この明治政府によって、琉球王国は滅亡させられることになるのです。

日本による併合、琉球から沖縄へ

明治政府は日本の領土を確定させるため、琉球を併合しようと画策します。
まず1872年(明治5)、琉球王国は「琉球藩」として明治天皇に承認されます。
ついで、台湾に漂着した琉球民が現地人に殺害された事件をきっかけにして日本は台湾に出兵、清朝に対して「琉球民は日本国の属民である」と迫り、これを認めさせてしまうのです。
さらに、明治政府は琉球に対して、清朝との外交関係(貿易を含む)をすべてやめるよう強制します。
1879年(明治2)、明治政府は軍隊と警察を琉球に派遣して「琉球藩を廃止し、沖縄県を置く」と通告、琉球国王尚泰(しょうたい)を東京に連行し、ここに450年の長きに渡って南西諸島と、それを取り巻く広大な海域を支配した海洋国家・琉球王国は滅亡します。

一部の重臣たちは中国に渡り、清朝に対して琉球を助けてくれるよう応援を要請しました。
もともと琉球とは主従のような関係が長かった中国なので、日本の琉球併合に対して抗議の声をあげましたが、それも日清戦争で清朝が敗れるに至り沈静化。

こうして琉球王国は「沖縄県」として、日本に組み込まれることになったのです。

「なんくるないさー」の精神とは…?

いかがでしたか?私たちが描くイメージとは全く違った、激動の歴史がそこにはありました。
沖縄の古老が伝える「なんくるないさー」とは、無責任な「なんとかなるよ」ではなく「やれることはやり、最善を尽くしたのならこれ以上はどうしようもない、なんとかなるさ」というひたむきさと、希望を捨てない強さの合わさったニュアンスがあるようです。

おおらかなだけではない、何度も苦境を越えて立ち上がってきた歴史から生まれる明るさ。
琉球を知ることで、沖縄の本当の暖かさを感じていただければ幸いです。

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