多賀城跡から紐解く歴史…多賀城の歴史は、東北の歴史

8世紀半ばから14世紀まで、実に600年ものあいだ東北地方を見守り続けてきた多賀城。調べれば調べるほど「これはなんというお城なんだ…!」という思いが溢れてくる、そんなお城です。東北の戦乱の象徴として、しかし、行政府として人々の暮らしに寄り添い続けた600年。そんな歴史ある多賀城のことを、今日はみなさんにお伝えしていこうと思います!

果たしてお城とはなんなのか…多賀城が覆すお城のイメージ

現物はないけれど…多賀城跡ってどんなところ?

宮城県は仙台市から北東へ約10㎞。
仙台駅からJR仙石線でおよそ20分ほど揺られると多賀城駅に到着します。
場所は「宮城県多賀城市」と言うほどですから、駅から周りを見渡せばお城が見えてきそうな気もしますが、残念ながら既に多賀城はありません。
国の特別史跡に指定され、奈良の平城宮跡・福岡の太宰府跡と並んで日本三大史跡に数えられている「多賀城跡」として、多賀城市の観光スポットになっているのです。

また、日本の歴史において重要な役割を担ったことから、2006年には日本100名城にも選ばれた多賀城。
造営から実に600年もの間、東北地方の歴史を見守り続けた多賀城とは、いったいどのようなお城だったのか。
その造営の経緯、多賀城が果たしてきた役割を知ることは、古代から中世にかけての東北、そして日本の姿を知ることに他なりません。

平穏な暮らしと戦乱の歴史を交互に繰り返してきた東北地方。
この記事では、多賀城を通してみなさんと一緒にその歴史を追いかけていこうと思います。

お城のイメージを覆す!?お城っぽさ皆無なお城、多賀城

ところでみなさん、お城と言えば何を思い浮かべますか?目を見張るほど高く積み上げられた石垣に、そびえたつ天守閣…中には、険峻な山の頂に立つ砦を想像される方もいらっしゃるかもしれません。
観光などでお城を訪れたなら、現存する城門や再建された天守を見てその雄大さを肌で感じる。
それが城跡であれば、再現図を見たり城構えを想像してたりしつつ、かつてあったであろうお城の姿に思いをはせる。
これもまたお城観光の醍醐味のひとつ、ですよね。

ですが多賀城に関しては、その固定観念を捨てていただかねばなりません。
イメージするのであれば…そう、勇壮な城構えではなく、本堂や仏塔などがある広々とした寺院を想像していただく方がよいかと思われます。

どういうこと?と思われた方。
いやいや、お城を思い描くのになぜお寺をイメージしなければならないんだ!と思われた方。
おっしゃることはごもっともです。

それではこれから、多賀城とはどんな施設だったのかを具体的に見ていくことにしましょう。
きっと、みなさんの知るお城とは全く違った姿が見えてくるはずです。

跡地だけじゃわからない!そもそも多賀城ってどんなお城?

お城というより行政都市!意外な多賀城の姿

さて、多賀城とはいったいどのような建造物であったのか。
残された文献や、1961年から開始された多賀城跡とその周辺の遺跡調査により、当時の多賀城の様子が次々と明らかにされてきました。
仙台平野を一望できる丘陵の上、北に加瀬沼があり、西と南には砂押川や七北田川、高台から東に目をやれば塩竃港の向こうに仙台湾。
さらに遠くを眺めれば、太平洋が望める。
そんな交通の要所に築かれた多賀城は、東西南北四方をおよそ800mの築地塀(ついじべい)で囲まれた行政都市でした。

その中には食糧の受給を取り扱った役所や、そこで働く役人や兵士たちが住まう家。
鍛冶工房や大食堂、さらには学校やお寺まであったと考えられています。
近年の調査では、どうやら個室トイレの遺構と考えられる溝が発見されたりと、なにやら生活感のある発見が相次いでいます。

そして、その中心部には東西約100m、南北約120mを築地塀で囲まれた政庁部分があり、そこで重要な政務や儀式、歓待などが行われていたと考えられています。

また、多賀城外には都を模したかのような碁盤の目状の道が整備され、そこには多賀城周辺を開拓するための人々が居住していました。

時代によって移り変わる、お城の形

いかがですか?みなさんが想像されるお城とは、かなり印象の違う多賀城ライフが見えてきたのではないでしょうか。
これは果たして、お城と言ってよいものか…と思われている方もいらっしゃるとは思われますが、なぜみなさんが思うお城と相違があるのかについては、いくつかの理由があります。
ひとつは、多賀城が日本でも有数の古い歴史を持ったお城だということ。
今からおよそ1300年前、まだ平城京ができて10年少々しか経っていない時代に造営されたお城なのです。
家の造りなどと同じく、お城の建築様式も時代の流れとともに変化していくのですが、みなさんが思い描かれる「これぞお城!」といった天守が築城されはじめるのは、諸説はあるもののおよそ1500年代前後のこと。
多賀城が造営されてから、なんと800年も先の話なのです。

多賀城築城当時は、そもそも天守という概念がなかった時代でした。
その頃のお城といえばこの多賀城のように、館の周囲に塀や堀をめぐらし、櫓(やぐら)を組んで敵の襲撃に備えるといった程度のものだったのです。

実はとても重要な多賀城、どんな仕事をしてたんだろう?

国府と鎮守府、二つの機能を有するお城

もうひとつの理由に、多賀城自体は紛争地帯の最前線に造られた城ではなく、それら最前線に位置する砦群の後方支援を行ったり、軍勢の駐屯地や指揮所といった意味合いの強いお城だったということがあげられます。
造営当初は、東北の開拓を行ったり物産・税などを集めたりする行政機能「国府」と、東北地方の統治、そして朝廷の北進政策を支えるための軍政を担う「鎮守府」が併設されていましたが、後に蝦夷との境界が北へ北へと移動していくにつれ、鎮守府はより前線に近い城に移されていき、多賀城は東北地方行政の中心地として発展していくことになるのです。

その発展、賑わいとはどのようなものであったかというのは、文献や発掘品から垣間見ることができます。

都からは上級役人が派遣されてきたり、あるいは東北地方内の役所から役人が出張してきたり。
多賀城から中央へ派遣され大功をあげ、大きく出世した人物がいたりなど、中央を含めかなり活発な人材交流が行われていたことが知られています。

また中央からは高価な磁器や、近畿東海で焼かれた土器が運ばれ、多賀城からは馬や金、うるしなどが運ばれていたそうです。

ちなみに、当時の一般的な勤務時間は、夜明けから正午にかけて。
それ以降は基本的に自由時間。
なんとも、うらやましい限りです。

長い歴史にはつきもの?3回建て替えられた多賀城

このように、中央政庁の出先機関として発展していく多賀城ですが、造営当初から一貫して同じ姿を保っていたわけではありません。
戦火や災害に襲われて3回も大規模な改修、再造営が行われました。
1回目は造営より約40年後、藤原朝狩(ふじわらのあさかり)という公卿により行われた改修です。
朝狩は鎮守将軍として蝦夷討伐のために陸奥(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県、秋田県の一部に相当する広大な国)に下向しており、その一環として多賀城の改修を行います。
現存する多賀城碑には、「恵美(藤原)朝狩の手によって修築された」との一文が今も残されています。

その約20年後、宝亀(ほうき)の乱と呼ばれる蝦夷の反乱において、多賀城は焼き払われてしまいます。
乱の終息を待って、今度は改修どころではない、再造営が行われる運びとなるのです。

そして、90年後の869年(貞観11)、東北地方の太平洋沿岸を、巨大な地震と津波が襲います。
それにより壊滅的な被害を受けた多賀城でしたが、復興の中で三度改築されることになりました。

損害の激しい砦や城は、そのまま放棄されることも珍しくなかった時代において、多賀城がどれほど重要なお城と考えられていたかをうかがい知ることができますね。

蝦夷地の歴史の中で造営された多賀城

最初は仲がよかった?大和朝廷と蝦夷

ここまで、多賀城とはいったいどのようなお城かということを見てきました。
ここからは「なぜ、多賀城が築城されたのか」「なぜ多賀城は、日本の歴史において重要な役割を持ったお城とされたのか」を見ていこうと思います。
そして、それを見ていくためにはまず、大和朝廷を中心とした当時の日本と、朝廷から「蝦夷」と呼ばれた人たちの住まう、まだ日本ではなかった頃の東北との関係を知る必要があります。
奈良時代より昔、日本には大和朝廷以外にも力を持った豪族たちが大勢いました。
朝廷はそれらの豪族と時に争い、あるいは懐柔することによって、南は九州、北は関東北部までその勢力範囲を広げていったのです。

その頃東北には、「蝦夷」と呼ばれた人たちが暮らしていました。
国のような統一された政治集団をつくることはなく、蝦夷内での豪族に率いられた複数の部族単位で生活を営んでいたと考えられています。
時には大和朝廷と交易を行ったり、「日本書紀」によると655年、朝廷は難波京で200人近い蝦夷を歓待したとの記述が残されていたりと、決して険悪な関係ではなかった時期もあることが窺えます。

蝦夷の反乱と多賀柵の造営

しかし、蝦夷には彼らを束ねる強力な指導者がいないことに加え、資源が豊かな上に金鉱山まで発見された東北地方を、朝廷が放っておくわけがありません。
じわじわと北方に拡大していく朝廷の領土を前に、蝦夷との摩擦は増えていく一方でした。
中には朝廷と結んで部族間の抗争に勝とうと企む者や、朝廷に従属して官位をもらい、現地での行政官を任命される者などもいました。
土地の境界線争いだけでなく、蝦夷同士の分裂を誘うなど様々な切り口から蝦夷を圧迫していく大和朝廷に対し、ついに蝦夷が一斉蜂起する事態が発生します。
720年、陸奥国において、史上初といわれる蝦夷の大規模反乱が勃発。
朝廷は多治比懸守(たじひのあがたもり)を征夷将軍として、乱の鎮圧を命じます。

乱そのものは1年と経たずに鎮圧されてしまうのですが、その4年後、朝廷は現在の宮城県北部を中心とする蝦夷との国境付近に、複数の砦を建設。
それらを後援し、また支配下におさめた土地を開拓させる民を送り込み統制するために、大野東人(おおののあずまびと)によって多賀柵(たがき)が造営されます。

これが、多賀城のはじまりです。
多賀柵(たがき)→多賀城(たがき)→多賀城(たがじょう)という変遷を経て、今私たちの知る多賀城という呼称に変わっていくわけですね。

蜂起する蝦夷と討伐軍~三十八年戦争の行方~

namamana_i (引用元:Instagram)

多賀城、焼き払われる!そして舞台は日本海側へ

大和朝廷の北辺拡大政策に対し、蝦夷は城柵に襲撃をかけるなどして交戦状態は継続されていきます。
激化の一途をたどる蝦夷の蜂起に対して、朝廷は複数回に渡る遠征によって支配領域を拡大していきました。
その複数の反乱や戦いは、後に総称して三十八年戦争と呼ばれることになります。
この戦乱の中で、蝦夷軍によって多賀城は焼き払われてしまいます。
その戦乱は、乱の発生した年号をとって宝亀の乱、あるいは首謀者である蝦夷の族長の名前をとって、伊治呰麻呂(これはるのあざまろ)の乱と呼ばれています。
宝亀の乱は規模が大きいだけでなく、呰麻呂が拠点とした伊治城とその周辺地域が、数年の間朝廷の支配が及ばない土地になったと言われるほど激しいものとなりました。

また、この頃から蝦夷の民の中に、「自分たちは、部族の垣根を超えたひとつの民族である」という意識が芽生え始めたのではないかという学説があります。
それまでは部族単位での散発的な蜂起や、部族長に率いられての大規模な反乱が多かったのですが、この宝亀の乱前後をもって、蝦夷たちは現在の岩手県、胆沢を拠点として活動を始めた形跡があるようです。

多賀城と胆沢城、両輪で経営される東北

789年に編成された大規模な蝦夷討伐軍は、蝦夷の拠点である胆沢を落とせないどころか、多数の損害を出して潰走。
大失敗に終わります。
そして801年、征夷大将軍として遠征を行った坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は奮闘の末に胆沢を攻略。
この地に新たな対蝦夷用の拠点、胆沢城が築かれました。
鎮守府が多賀城にあったのでは、以前より北上した前線までかなりの距離が生まれてしまいます。
そのため、鎮守府は胆沢城造営と同時にそこに移され、陸奥国府の置かれた行政府・多賀城と、軍政のための鎮守府が置かれた胆沢城が併立する形が出来上がったのです。

さらに混迷を深める東北では、これ以降も蝦夷地遠征が行われましたが、現在の岩手・秋田両県の中部付近を北限としたあたりで支配領域の拡大を終了します。

蝦夷の豪族は朝廷に献上品を送ることで官位や現地での役職を得て、朝廷の中枢にいる公卿の中には、蝦夷から送られてくる物品により私服を肥やす者が現れる。
そのような駆け引きの中で、東北に仮初の平和が訪れるようになりました。

大災害に見舞われる東北と、多賀城の再建

崩壊した多賀城、貞観地震のすさまじさ

争いの中心が北方に移動するに従って、多賀城の名前が文献に現れることは少なくなっていきます。
蝦夷との戦闘が行われていた最中にあって、朝廷の支配する地域における行政府としての役割を全うしていたと考えられるほか、もともと多賀城が置かれた太平洋側から支配領域を広げていき、朝廷の関心や討伐対象となる地域が出羽国(現在の山形県及び秋田県)に移ってきたことも原因として考えられるでしょう。
長きに渡る戦乱は、蝦夷だけではなく、何度も大規模な軍勢を発した朝廷の経済事情を逼迫することにもなりました。
どちらからともなく醸成された厭戦ムードの中で、蝦夷の民と朝廷との間に新たな関係が築かれようとしていた矢先に、多賀城と陸奥国、そして東北地方全体を、度重なる悲劇が襲います。

ひとつは、前述した貞観地震(869年)です。
平安時代前期の貞観11年に発生した、宮城県沖の海底を震源域とするマグニチュード8.3以上の巨大地震だったと推定されています。
901年に書かれた史書「日本三代実録」において、「陸奥国で大地震が起きた。
(中略)城や倉庫、門櫓などが数多崩れ落ちた。」と記載されており、この陸奥国の城というのは多賀城のことであったと考えられています。

この地震の被害は甚大なものであり、発生から4カ月後、時の帝である清和天皇は陸奥国が被災地であるとの詔を発し、朝廷の民、蝦夷を問わずに救護にあたるよう命じられたとの記録が残されています。

日本列島各地で頻発する自然災害

この時期は富士山の噴火や畿内、関東、中部地方でも大規模な地震が発生するなど、日本全域で自然災害が頻発した未曾有の時期でした。
そんな中、貞観地震からの復興でようやく息を吹き返そうとしていた東北に、更なる大災害が襲いかかります。
現在の青森県と秋田県の県境にある十和田火山(十和田湖で有名ですね)が、噴火を起こしたのです。
過去2000年の間に日本国内で起きた噴火の中では最大級といわれる規模の噴火で、火山灰は東北地方一帯を広く覆い、甚大な被害をもたらしたと推定されています。

立て続けに発生したこの二つの大災害は、戦乱の続いた東北地方に重くのしかかりました。

非常に厳しい状況の中で、蝦夷は朝廷の官人として生きていく道を選ぶ者、複数の部族をまとめ、有力な豪族に成長していく者。
そのような豪族の中でも、面従腹背の姿勢で朝廷と付き合っていく者や、蝦夷としての矜持からか朝廷と一定の距離を置き続ける者。

かつてはバラバラに大和朝廷に反発していた蝦夷たちも、少しずつまとまり、律令政治の中に組み込まれていく中で、民族としての変化を迎えようとしていたのです。

歴史の二大スターを輩出した?前九年・後三年の役

東北の雄、奥州藤原氏の登場

お城なのに行政府。
行政府なのに戦乱の時期には文献に現れ、平和な時代には記録から姿を消す、なんともミステリアスなお城、多賀城。
多賀城の名前が再び歴史に現れるのは、貞観地震の記録からおよそ200年後のこと。

1051年から1062年にかけて行われた前九年の役、そして1083年から1087年にかけて行われた後三年の役と呼ばれる戦役です。
朝廷に従属した蝦夷の豪族と、朝廷から派遣された陸奥国司との争いに端を発する前九年の役、豪族の家に起きた家督争いに末に戦端が開かれた後三年の役。
どちらの戦にも朝廷側の武将が巻き込まれ、あるいは自ら巻き込まれに行き、戦争の規模は拡大していきます。

そして、この二つの戦乱の中から、日本史に名を残す二つの武門の家が台頭してくることになるのです。

一つは、後三年の役で勝者となった蝦夷の豪族、清原氏。

養子として清原家に入っていた当主・清原清衡(きよはらきよひら)は、戦後に父方の姓に復し、東北地方に独自の政権を打ち立てることになります。
彼は、奥州17万騎と謳われた強大な軍事力と、いくつもの金鉱脈を手中に収めることにより、奥州平泉を中心とした100年に及ぶ平和を実現させた奥州藤原氏の初代。
藤原清衡(ふじわらのきよひら)その人です。

武家の棟梁、八幡太郎義家

もう一つは、先述した「朝廷側の武将が巻き込まれ、あるいは自ら巻き込まれに行った」ある武将の親子の話なのですが、みなさんお分かりでしょうか?
中世の日本史、この一族抜きでは語れないほどの超名門。

鎌倉幕府を開いた源頼朝、その弟義経や、室町幕府を開いた足利尊氏もこの親子の直系の子孫とされています。

そう、正解は源氏です。

父である源頼義(みなもとのよりよし)は前九年の役に、子の源義家(みなもとのよしいえ)は前九年・後三年の役ともに活躍しています。

この源義家の直系の子孫が、後に武家の棟梁と呼ばれる源氏の嫡流となっていくのです。

そして、この源頼義・義家父子が朝廷軍として拠点にしていたのが、多賀城なのです!

この戦役の後100年ほど、東北が奥州藤原氏の元で平穏な暮らしを営んでいる間、多賀城は再び歴史から姿を消してしまいます。
この頃にはすでに、政庁機能が奥州藤原氏の本拠地である平泉に移されていたであろうと考えられており、多賀城はかつて与えられた行政府としての役目を喪失していたのです。

頼朝の野望に揺れる、東北の大地

奥州藤原氏の最期

東北の平和を実現した奥州藤原氏ですが、その治世に暗雲が垂れ込め始めるのは3代目藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の頃。
平家一門を滅ぼし、次は奥州藤原氏を打倒する。
関東は鎌倉にて武家による軍事政権「鎌倉幕府」を樹立した源頼朝にとって、17万騎と呼称それる軍事力を有する奥州藤原氏は目の上のこぶでしかありませんでした。

老練な秀衡が権力を握っていた時には、いくら頼朝と言えども迂闊に手を出せなかったようですが、秀衡の死後、まだ若い4代目藤原泰衡(ふじわらのやすひら)が後継するに至り、ついに奥州侵攻を決意します。

そして、東北地方に戦乱の風が吹き始める頃…再びあのお城が、歴史に名前を刻みます。

そう、多賀城です。

迫りくる鎌倉幕府軍に対して防衛を命じた泰衡は、その後方にある多賀城の国府に入り、全軍の指揮にあたります。
しかし、奮戦むなしく奥州軍は大敗。
多賀城から平泉方面に向けて退却した泰衡と入れ替わるように多賀城入りした源頼朝は、東海道からやってくる自軍と合流するために多賀城で待機することにしました。

泰衡の行方が判明したのはそれから二日後。
頼朝は泰衡を討つべく軍に出陣を命じ、自身もまた、戦の決着をつけるべく多賀城を後にするのでした。

鎌倉時代初期の多賀城と、行政機能の復活

その後、奥州藤原氏を滅ぼした頼朝は、葛西清重を奥州奉行に任命。
平泉を拠点として人心の慰撫と藤原氏の残党を捕まえる役目を与えます。
さらに翌年、実務系の御家人である伊沢家景が陸奥国留守職として、多賀城国府に赴任してきます。
彼は、従来は平泉で奥州藤原氏が行っていたであろう庶民の訴えの取次や、国務に従わない者の取り締まりを行うなど、多賀城にあって行政府としての業務の一部を行うことになります。

かつて軍政のことは胆沢城・行政のことは多賀城の両輪で東北経営にあたっていた時と同じように、戦後の混乱を平泉の葛西氏と多賀城の伊沢氏が慰撫していたのでしょう。

そしてまた、多賀城は長き眠りについていきます。
次にその存在がクローズアップされるのは、それから140年後。

時は鎌倉幕府の終焉から室町幕府ができるまでの激動の時代、南北朝時代。

今まで常に中央から攻め込まれてばかりだった東北の民が、ついに鎌倉、そして京に進軍します。

その出撃拠点として、また建武新政における東北経営の中心として。
わずか数年ではありますが、往時の輝きを取り戻すことになる多賀城。

そして、その後は人知れず歴史から名を消して、その役目を終えていくことになるのです。

動乱の南北朝に、東北で重きをなした多賀城

陸奥守、北畠顕家

そんな多賀城の最後は、それを彩るにふさわしい人物とともに描かれるべきでしょう。
多賀城が三度東北の中心として歴史の表舞台に返り咲くのは1333年、20歳に満たない若き公卿が多賀城に赴任してきたことにより始まります。

その公卿の名は北畠顕家。
鎌倉幕府滅亡後に行われた建武の新政下で陸奥守に任命され、後醍醐天皇の皇子義良親王を奉じ、奥州統治のために下向してきたのです。

幼少の頃より侍従、少納言、右近衛少将などを歴任し、若干14歳にして参議に昇るほどの麒麟児であった顕家は、多賀城を拠点とした東北地方の統治に、その才能を発揮します。

多賀城に鎌倉幕府を模した役所や職制を置き、在地の有力武士である伊達氏や結城氏らを傘下に収め、わずか2年足らずで広大な奥州を治めた顕家。
もし彼の統治が続いたなら、かつて奥州藤原氏の元で実現された平和が、再び東北に訪れていたことでしょう。

しかし、時代はそれを許しませんでした。

顕家と同じように親王を奉じて鎌倉に赴任し、着々と関東武士団の支持を集める足利直義。
京にあり、倒幕の立役者として武士たちの信望を一身に集める武家の棟梁かつ、直義の兄である足利尊氏。

足利兄弟の動きには、不穏な影が見え隠れしていました。

顕家は多賀城から、奥州の大地だけではなく、その向こうにある鎌倉と京も見つめていたのかもしれません。

崩壊する建武の新政

倒幕後に行われた建武の新政は、わずか2年で瓦解します。
公家や寺社といった旧勢力を優遇する政策の下で不満をため込んでいた武士たちは、鎌倉幕府崩壊後にまた違った形の武家政権を打ち立てようと考えていた足利兄弟の元に集いました。
鎌倉幕府執権であった北条氏の遺児を擁した旧幕府軍の反乱、中先代の乱(なかせんだいのらん)をきっかけにして、足利尊氏は京を離脱。
弟・直義の待つ武家の聖地である鎌倉に到着後、朝廷に対して反旗を翻すのです。

朝廷は、尊氏と同じ源氏の血筋であり、尊氏をライバル視していた新田義貞を将軍として尊氏追討を命じます。
破竹の勢いで東海道を進む官軍でしたが、箱根にて尊氏と会戦し、まさかの大敗北を喫してしまうはめに。
逃げる官軍を猛追する足利軍は、勝利の勢いそのままに軍勢を拡大し、そのまま京を包囲してしまいます。

誰もが尊氏の勝利を信じて疑わなかったであろう状況に、突如現れた大軍。
その軍勢は、そのまま尊氏の本隊とぶつかり、3日間の激闘の末に足利軍を撃退することに成功します。

その軍勢こそ、誰あろう北畠顕家率いる奥州軍だったのです。

多賀城、最期の輝き

ついに白河の関を超えた奥州兵

官軍が京を出立して足利軍のいる鎌倉を目指した時、顕家はそのまま鎌倉を挟撃できるように軍勢を整え、多賀城を出発していたのです。
しかし、鎌倉にたどり着く前に官軍の敗退を知った顕家は、そのまま多賀城に帰還するのではなく、官軍を追撃する足利軍の背後を突くために行軍を続けることを決定。
その行軍速度たるや、歴史に名高い羽柴秀吉の中国大返しを遥かに上回る速度だったと言われています。
京での戦闘の後、逃げる足利軍を兵庫まで追い、ようやくそこで疲れを癒すことのできた顕家は、奥州から率いた精兵とともに、多賀城への帰途につくのでした。

その後、落ち延びた九州で勢力を盛り返した足利尊氏によって、京は占拠されてしまいます。

日本全国が足利派となっていく中で、顕家の東北運営も次第に苦しくなっていきました。
そしてついに、奥州の足利勢によって多賀城は包囲されてしまいます。

包囲を脱した顕家は南下し、霊山城に国府機能を移転、以降は霊山にて東北経営にあたることになるのですが、東北において勢力を回復する暇もなく、朝廷からの出兵要請が舞い込みます。

奥州軍を率いて足利勢を討滅せよとの勅命に、一度は出撃の態勢が整わないと拒絶した顕家でしたが、ついに霊山を出発。

以前とは違い、既に全国に版図を拡大し膨れ上がった足利軍と対決する道を選ぶことになるのです。

遠すぎた多賀城、花将軍顕家の最期

「蝦夷」という言葉は、朝廷から見て蛮族だとさげすむ意図があるというのは有名な話ですよね。
ですが、「えみしは一人で百人というが–」という古歌や、権力者の名前に用いられたこともあることから、そのさげすみの中にも「強くて勇敢」といったニュアンスがあったのではないか、という説を唱えた人がいたそうです。
顕家はその学才から、自身の率いる奥州軍に、かつて蝦夷と呼ばれた者たちの血を引く兵がいたであろうことは知っていたでしょう。
自身の属する朝廷との確執も知っていたでしょうし、これから向かう足利尊氏の祖先に故郷をひっかきまわされ、その子孫に攻め込まれた歴史があることも、もちろん知っていたと思われます。

彼は奥州兵を率いて再び東北を出て、そしてついに、戻ってくることはありませんでした。

足利勢の一大拠点である鎌倉を落とし、岐阜県の青野ヶ原で10万に迫る足利軍を打ち破り、その後、京へは向かわずに伊勢方面に転進。
畿内を転戦したのちに、堺浦にて21歳の若さで討ち死にすることになります。

はるか昔、日本と蝦夷地だった頃からの因縁が、彼の戦の中にはあった。
そう思うのは、少々想像がたくましすぎるかもしれません。

ちなみに、多賀城は足利勢に包囲されたのち、おそらく落ちたものと考えられております。

こうして多賀城は歴史から姿を消し、今日に至るというわけです。

中世東北の歴史そのものと言える、多賀城の歩み

いかがでしたでしょうか?今回は不思議なお城、多賀城のルーツに迫ってみました。
中世の東北地方を知りながら多賀城跡を歩いてみたら、きっともう「これはお城じゃない!」とは思えなくなるはずです。
日本のある時期にとても重要な場所として幾多の戦乱に巻き込まれながら、それでも当時の人々の日常を私たちに伝え続けてくれる多賀城跡。
是非いちど、おにぎりやサンドイッチなどを持って、ゆっくりと歩いてみてください。
そこにある穏やかな、悠久の流れを感じさせる空気は、きっとあなたを東北大好きっ子にしてくれるはずです。