観光前に知りたい松本城の歴史

ご存知でしたか?「松本城」は、有名な戦国武将である武田信玄も拠点としていた信濃支配の中心でした。現在は、長野県松本市にあり、現存する日本最古の五重六階の天守を有する国宝の城です。日本アルプスの山々に囲まれた松本城は、他の城では見ることが出来ない素晴らしい絶景を生み出しています。今回は、国宝城郭の一つである松本城の成り立ちや歴史について詳しくご紹介します。

500年以上前から経つ平地にある最古の城!

500年以上前から経つ平地にある最古の城!

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武田信玄も愛した松本城の前身「深志城」とは?

松本城は、標高590メートルの松本盆地に築かれた平城です。
とても、歴史が古く今から500年以上前に、松本城の前身として「深志城」(ふかしじょう)というお城が築かれました。
深志城については、残っている文献が少なくはっきりとしたことはわかっていません。
そのため、城築城が松本城となる過程はがはっきりしていません。
しかし、室町時代の島立一族が1504年(永正元年)に深志城を築城したことだけは伝わっています。

その後、有名な「疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」の風林火山を軍旗に持つ戦国武将武田信玄が、当時の城主であった小笠原長時(おがさわらながとき)を追い出し、信玄の次の目標であった信濃への侵攻の拠点として、平地にあった深志城を治めたのです。
  

武田氏の深志城統治は32年間と永きに渡り続きますが、1582年(天正10年)に織田信長によって武田氏が滅ぼされてしまいます。
そして、武田氏と永遠のライバルであった上杉氏の後ろ盾を得て深志城に入った小笠原洞雪(おがさはらどうせつ)が城主となりました。
それも長く続かず、武田信玄が滅ぼした小笠原長時の嫡子貞慶(さだよし)が、信濃に入り旧臣の支援を取り付け、深志城を奪還するのです。
そして、ここではじめて深志を松本と改めました。
その後、私たちの知る松本城へと変貌していくのです。

松本城はいつだれが築城したの?

上記のように、戦国時代の1582年(天正10年)に小笠原氏はこの地にあった「深志城」から「松本城」に名前を改めました。
では、現在の松本城の姿にいつ誰が築城したのでしょうか?

石川数正(いしかわかずまさ)という城主が築城したと言われています。
豊臣秀吉の世となった1590年(天正18年)に城主であった小笠原氏が移封(大名などが他の領地へ移動になること)となり、代わって石川数正が城主となっりました。
この石川数正・康長(やすなが)親子二代に渡った築城工事により石垣・天守を持つ城郭としての松本城が誕生したのです。
石川数正は、元々は豊臣秀吉と敵対していた徳川家康の配下でした。
ところが1585年(天正13年)に一族を連れて大坂へ出奔(しゅっぽん)、豊臣秀吉の配下となります。
そして古河へ移った旧城主小笠原氏のあとに石川数正が新城主として松本城へ入りました。
この親子が松本城を築城していく様を『信府統記』(信濃国(長野県)松本藩主の命によって編纂された信濃国内の地理・歴史を記述した本)に以下のように記されています。

「数正ハ二ノ曲輪ニ慰ミ所ヲツクリ城普請ヲ催ス。
康長ハ父ノ企テタ城普請ヲ継ギ天守ヲ建テ、総堀ヲ浚イ幅ヲ広クシ、岸ヲ高クシテ石垣ヲ築キ、渡リ矢倉ヲ造リ・黒門・太鼓門ノ門楼ヲタテ、塀ヲ直シ、三ノ曲輪ノ大城戸ヲ門楼トシタ。
総堀ノ周塀ハ大方、城内ノ屋形モ修造シタ。
郭内ニハ士屋敷ヲ建テ、郭外ニモ士屋敷ヲ建テタ。」

このように石川数正と息子の康長は、城郭の整備をし、城下町を広げていきます。
そして、息子の康長の時代に現在の国宝である松本城天守が建築されたのです。

江戸時代の松本城はどんなところ?

江戸時代の松本城はどんなところ?

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江戸時代では異例!松本城はなぜ黒いの?

江戸時代に建てられた多くの城は、白亜の天守が多く代表的なお城では、姫路城や弘前城などが挙げられます。
しかし、松本城は黒い天守のため江戸時代には異例のお城でした。
なぜ、松本城は黒いのでしょうか?

それは、築城した石川氏の豊臣家への忠誠心からと言われています。
石川氏は豊臣秀吉の信頼の厚い武将と伝えられています。
豊臣秀吉が築いた大坂城は、金が良く映えるように黒で統一されていました。
松本城が黒いのは、石川氏の秀吉への忠誠のアピールと思われます。
その松本城は戦国末期、鉄砲戦を想定して戦うための漆黒の天守の典型として、現存する唯一のお城です。
関ヶ原の戦い以降徳川の御世になると、姫路城のような白亜の天守が多く築城されました。
よく、姫路城は別名「白鷺城」といわれるのに対し、松本城は別名「烏城」とも呼ばれています。

お城の色を見ると築城した際に、徳川家康と豊臣秀吉のどちらが関わっていたかが分かると言われているとのこと。
家康の息がかかった武将が築城した城は白く、秀吉の息がかかった武将が築城した城は黒が多いのです。
大阪城は、築城当時は金箔の瓦と黒漆の壁で造られたお城で金が大変映える艶やかなお城だったといわれています。
このように豊臣秀吉は、金が良く映える黒い城を好んだと言われ、それと対照的に徳川家康は、優雅で厳かな白い城を好んだと言われています。
お城の色一つを見るだけで、武将の嗜好を垣間見ることができるのです。
このような点を踏まえてお城巡りをするのも楽しいですね。

波瀾万丈!江戸時代の松本城主は6家23人

江戸時代の松本城は、城主が6家23人と激しく交代されました。
そして、多くの城主が天下を治める徳川家と深い繋がりを持っており、松本城が江戸時代に重要な要の城だったことを伺い知ることができます。

松本城の礎を築いた石川氏は、親戚の不祥事により改易・御家断絶。
その後、小笠原氏が再び入城し、城主となります。
その後、天下分け目の大阪の陣の後は、戸田氏、松平氏、掘田氏、水野氏と城主が目紛しく交代。
天下が徳川家に治まり安定すると、幕府直轄となり1726年(享保11年)から戸田氏が145年と松本城の城主として代々居城し、大政奉還を迎えることとなるのです。

先に述べたように、松本城主は徳川将軍家との関係が深く、石川氏は徳川家を離れますがかつては重臣であり、小笠原氏は家康の長男信康の娘福姫を妻としています。
また、戸田氏は家康の生母於大が生んだ義妹松姫を妻とし、松平氏は、家康の次男秀康の子でした。
堀田氏は3代徳川家光の寵臣であり、水野氏は家康生母の実家と親戚関係でした。
このように松本城主は徳川家と深い繋がりがある者が代々城主となっているのです。

明治以後の松本城とは

明治以後の松本城とは

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大政奉還と松本城

松本城は、どのように大政奉還を迎えたのでしょうか?江戸時代も末期になると、徳川幕府の統治に疑問を持つ者たちが増え、明治維新が始まります。
武士の世が終焉を迎え、天皇が統治する新しい世がやってきました。
265年続いた徳川幕府は大政奉還(たいせいほうかん)を迎えます。
京都に新たな政権が誕生し、江戸幕府を討伐する軍が信濃方面に進みだすと、松本城主は、幕府につくか新政府につくかで大きく揺れます。
そして、最終的に新政府につくことを決めるのです。

松本城最後の城主は、戸田光則(とだみつひさ)と言います。
1869年(明治2年)に信濃の諸藩の先頭を切って、天皇に土地と人を返還する版籍奉還(はんせきほうかん)を申し出ます。
これが新政府に認められ、松本藩主は松本藩知事となります。

松本城内も城主がいなくなることにより変わっていきました。
1870年(明治3年)には、門札(かどふだ)という通行証がないと通行できなかった松本城が、自由に通行することができるようになりました。
そして、とうとう廃藩置県(はいはんちけん)により、藩がなくなり3府302県が置かれることとなります。
松本藩は松本県となり、城主・藩知事であった戸田氏は新政権の方針で東京へ移ることになり、松本城は城主がいなくなってしまいます。
その後、東京から山縣有朋(やまがたありとも)が来て、松本城の天守内にあった武器を強制的に取り上げていきます。
ここで長きに渡って戦う城であった松本城の幕が閉じ、新しい松本城の道が開かれるのです。

取り壊しの危機!松本城を救ったのは?

徳川幕府がなくなり、廃藩置県が行なわれると全国の城は無用の長物になってしまいました。
そして、各地にあった天守がどんどん売りに出されいきました。
松本城も例外ではなく、天守は235両(約440万円)で落札され、取り壊されることが決まってしまいます。
その危機を救ったのは、松本城を愛した地元の住民たちの力でした。

松本城を救うことになるまでには、松本の住民たちの辛い体験がありました。
それは明治の世になって、すぐ行なわれた「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)を経験したことです。
廃仏毀釈とは、神道を国家統合の根本にしようと意図し、今まであった多くの寺院や仏像を壊して、人々を神道に強制的に改宗させようとするものでした。
この廃仏毀釈のために、実際に日本の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたと言われています。
松本城周辺では、全国でも最も激しい廃仏毀釈が行われたことで有名です。
松本藩の人々は御一新(明治維新)によって新しい時代が来ると期待していました。
しかし、このような強制的な行動に大変失望し、古いものを破壊しても新しい時代が来ないことを悟ったのです。

松本城天守が売りに出された時、古い天守を破壊するより残すべきだと住民たちが考えたのはこの廃仏棄釈のつらい体験をしたからでした。
住民たちは、売られた天守を買い戻すために松本下横田町副戸長であった市川量造(いちかわりょうぞう)らが中心となって、その時期に開催されていたウイーン万国博覧会にヒントを得、天守を使って博覧会を5回ほど開き、その利益により天守は買い戻されました。
松本藩の住民の力で松本城は取り壊しから救われたのです。

穏やかな道をあゆむ松本城

穏やかな道をあゆむ松本城

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松本城が農業試験場に!?

取り壊しの危機から逃れた松本城ですが、その後はどのような道を辿ったのでしょうか?その道は、戦うこととは無縁の城でした。

1880年(明治13年)に松本城は、農場試験場となりました。
現在の長野県松本市、当時の安曇郡・筑摩郡(あづみぐん・つかまぐん)で50人の有志たちによって松本農事会が組織されることになりました。
この松本農事会が、松本城の本丸と天守および附属の官庫を借りいれて、そこを農業試験場にあてることにしたのです。
そして、果物や野菜などの新種を試験栽培しはじめました。
その当時を記した書物には、本丸庭園の中央には野菜畑が広がり、西の天守に接した場所にリンゴ畑、北の土手側にはブドウ畑が三重に続いていたと記されています。
また、天守の月見櫓(つきみやぐら)には、畳を敷いて休憩室として、その天守に登る人々からは一人5厘(現在の50円相当額)を徴収したとも書かれています。
想像すると、とてものどかで穏やかな風景が広がりますね。
この試作場ですが、後に本丸庭園が松本中学校の校庭になることが決定し、中学校に返還されるまで続くことになります。

松本城が中学校に!?

1885年(明治18年)、松本城二の丸に県立松本中学校の校舎が建てられることが決定します。
そしてこの中学校建設により、傾き老朽化した松本城の大改修に繋がるのです。
城主を失ったままの松本城の天守は、管理が行き届かなくなっていきました。
外装に傷みが目立ち、石垣の内部にある土台を支持してきた柱も腐り、天守の傾きも目立ってきていました。
これを救ったのが、この松本中学校の校長小林有也(うなり)だったのです。

小林有也は、松本中学校の開校に伴い校長として迎えられました。
1914年(大正3年)死去するまで29年間校長を務めた傑物でした。
農業試験場としていた本丸が、中学校の校庭として使用されるようになったのをきっかけに、小林有也は天守閣保存運動に乗り出します。
小林有也は「松本天守閣保存会」を発足させ地元住民の賛同と寄付を得て、1903年(明治36年)から天守の修繕工事を始めることにします。
そして、大改修は1913年(大正2年)まで続き完了することになります。
その主たる工事は建物の傾きの補修と補強、外面を整えることでした。
こうして、松本城は補修され、新たに中学校として蘇ったのです。

松本城 昭和から平成へ 

松本城 昭和から平成へ 

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公園として整備された松本城

松本城が現在のように公園になった経緯をみていきましょう。
1930年(昭和5年)松本城は国の史跡に指定されることになります。
これが転機になり、松本城の管理が松本中学校から松本市へと移ることになりました。
そして、松本中学校を他の場所に移転し、史跡地を公園にする計画が進められます。
昭和10年に松本中学校が蟻ヶ崎に移転することが決定したのを皮切りに松本市は松本城天守閣広場使用規定を新たに設け、公園とするための計画を具体化していきました。
しかし、しだいに太平洋戦争の戦時色が強まりはじめ、計画を進めるのが困難になるのです。

実際に公園とする計画が進んだのは太平洋戦争が終結を迎えてからでした。
松本城は激しい戦火にも耐え抜いたのです。
1948年(昭和23年)二の丸を中央公園とし緑化する事業が開始されました。
それを皮切りに小動物園が設けられたり、二の丸南部に、大きな噴水が設置されました。
また、北西部三の丸に児童遊園が開園します。
こうして、市民の憩いの場として松本城は、現在に伝えられるようになったのです。

市民に愛され続ける松本城

明治以降、先に述べた小林有也や市川量造ら住民が中心になって松本城を守り維持してきました。
そして、その想いは、現代松本城を愛する人々に脈々と受け継がれています。
今も多くの人々が、町のシンボルである松本城を自分たちの手で守ろうと様々な活動を行なっています。
松本城周囲の清掃活動に参加したり、年10数回ボランティアを集い、天守の床を糠袋を使って磨く会を行なったり、中学生が草取りや落ち葉の清掃をしたりしています。
また、増える観光客の方向けに松本の歴史を知ってもらうため多くの案内ボランティアグループも活動しています。

また、「松本古城会」(まつもとこじょうかい)という会も組織されています。
松本城が行う様々な行事を支援し、松本城を保全する活動や様々な角度から調査研究をし、文化遺産への啓発活動や観光・文化・経済などを向上させる活動をしておられます。

松本城!天守の特徴

五重六階の日本最古の天守を持つ松本城

五重六階の日本最古の天守を持つ松本城

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松本城の最大の特徴は、日本最古の五重六階の天守を持つ国宝の五棟天守群です。
松本城の天守群は、大天守(だいてんしゅ)・乾小天守(いぬいこてんしゅ)・渡櫓(わたりやぐら)・辰巳附櫓(たつみつけやぐら)・月見櫓(つきみやぐら)と五つから構成されています。

大天守と乾小天守は渡櫓によって連結されており、辰巳附櫓と月見櫓とが複合された、他に類をみない連結複合式の天守が特徴的です。
大天守と乾小天守、その両者をつなぐ渡櫓は、戦国時代末期に築かれたと言われており、辰巳附櫓と月見櫓は、江戸時代初期に造られたと伝えられています。

実際に大天守の中は、どのような造りになっているのでしょうか?大天守は、外見からは一見5層に見えますが、実は窓のない中3階があるので6層で構成されています。
そして、内部はほぼ江戸時代そのままに残っています。
天井がとても低くなっており、これは建物内で抜刀出来ないようにとの工夫だそうです。
戦国、江戸時代の日本人の平均身長は男性が約150cm台、女性が約140cm台と言われており、天守の内部は現代人の私たちには、とても狭く感じられると思います。
また、大天守の中はほぼ柱がむき出しになっており、建物の構造がとても分かりやすくなっています。
大天守の最上階である6階に登れば、松本市内から遠くは日本アルプスまで展望でき、景色は圧巻としかいいようがありません。

対照的な天守と櫓がある2つの顔を持つ松本城

対照的な天守と櫓がある2つの顔を持つ松本城

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松本城の連結複合式の天守は他に類を見ない造りとなっています。
その特徴は、戦国時代の戦いのための天守、徳川幕府の平和な時代の優雅な櫓という対照的な天守と櫓で構成されている点です。

戦国時代は、戦国武将たちは領国を巡る争いを繰り返し、敵から領国を守ることを念頭にした戦略拠点としての目的で強固な城が多く造られました。
松本城の大天守・渡櫓・乾小天守は、こうした戦国時代の特色を色濃く残しています。
そのため大天守・渡櫓・乾小天守の三棟には、弓矢や鉄砲を放つための小さな窓のような鉄砲狭間(てっぽうはざま)や弓狭間(ゆみはざま)が115ヵ所も設置されており、1階には真下方向にいる敵を標的にした石落(いしおとし)が11ヵ所設置されています。
また、天守の壁は29センチメートルと厚くなっており、火縄銃の命中精度を維持できると言われている60メートルに内堀幅を合わせて、鉄砲戦の備えを考慮した造りとなっています。

このような戦の備えをもつ大天守・渡櫓・乾小天守と対照的なのが、辰巳附櫓・月見櫓です。
この二棟は、江戸時代の初め、平和になった時代に築かれたため戦う備えをほとんど持たず、朱塗りの回縁や船底型の天井があり、月見櫓は優雅な雰囲気を醸し出す造りとなっています。
戦国時代と江戸時代と性格の異なった時代の天守・櫓が複合されている天守群は、日本でこの松本城だけであり、とても貴重な構造となっています。

松本城!天守の構造

大天守1000トンを支える16本の支柱!

松本城は、女鳥羽川(めとばがわ)と薄川(すすきがわ)により形成されている扇状地上の角にあたる場所に築造されています。
天守の建てられた地盤は、柔らかで軟弱地盤と言われています。
その上に1000トンある天守を築造されており、そこには先人の知恵が随所に隠されています。

天守の土台である天守台石垣内部には、直径が約39センチメートル、長さが5メートルほどの栂(つが)の丸太が埋め込まれています。
これは、土台に接続されており、天守の重さを受け止めて、その重みを均等に地面に伝える役割を果たすためのものです。
この栂の丸太杭は、天守の東西南北の部分各面に4本ずつ、中央に東西部分に2本ずつ2列配置されており、合わせて16本の丸太杭は碁盤の目のように配列されています。
各杭それぞれの中央部に木材などを接合するための突起であるほぞ穴を彫り、杭同士をつなぎ止め、16本全てが1つの構造体として天守台内部に、基礎となる石の上にのった状態で築かれています。
杭の長さは地盤まで深く達していますが、人が打ち込んだものではなく、石垣を築造する際に先に杭を配列し、石垣を積み重ねていく中で石垣の裏側に積み込まれる裏込石や土等の重みで石垣内に埋め込まれたものと推定されます。
この16本の支柱が、松本城のシンボルである大天守を支えているのです。
これこそまさに縁の下の力持ちですね。

総量22.5トンの石垣が守る太鼓門!

総量22.5トンの石垣が守る太鼓門!

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お城に欠かせないのが石垣です。
お城の石垣を築く方法は3通りあります。
1つ目は、「切込接ぎ」(きりこみはぎ)という隙間がなくなるように人工的に削った石を積み上げる方法 。
2つ目は、「打込接ぎ」(うちこみはぎ)という割った石を並べて積み上げる方法。
3つ目は、「野面積み」(のづらづみ)という自然の石をそのまま積み上げる方法があります。
松本城の石垣は、3つ目の野面積みです。
自然の形の石をそのままに積まれているので、間近で見ると傾斜も緩く、隙間が相当あります。
おそらく敵方や忍者などは登りやすかったのでは?と想像できます。
逆に、余分な雨水などを効率よく排水できるメリットもあるので頑丈なお城を保てたはずです。

この松本城の石垣の中で一際目立つ石垣があります。
それは、 太鼓門にあり、その石垣は、なんと総重量は22.5トンもあると言われています。
松本城を築城した石川玄蕃守康長(いしかわげんばのかみやすなが)が運ばせたので、玄蕃石(げんばいし)と名付けられています。
当時この石を発見した後、どのように運び出したのでしょうか?お城には、様々な疑問や謎が詰まっていますね。

松本城の伝説

松本城の伝説

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先ほど説明した巨大な石垣「玄蕃石」にも伝説が残っています。
この太鼓門にある巨石は、元は井深村(岡田)に有ったと言われています。
この石を松本城を築城する際に運搬させようとすると、人夫の一人に苦情を訴えるものがでてきました。
その苦情が、城主石川玄蕃頭康長の耳に入ったのです。
康長は大層怒って、大勢の前でその人夫の首をはねました。
そして、槍の穂先にその首を突き刺して高く掲げ、自らその巨大な大石の上に飛び乗ると自ら陣頭指揮をとり、石を引かせました。
この巨大な石を誰言うことなく、玄蕃石と呼ぶようになりました。

人名のついた石は、他に上田城の真田石や名古屋城の清正石なども有名ですね。
いづれにしても城を築城することは、当時とても大変な作業だったことがこの伝説から窺い知れます。

傾いた天守!加助の祟り伝説

1686年江戸時代初期は、数年続いた不作により年貢の増徴命令が出されていました。
それを見かねた庄屋の多田加助という人物が、農民1万人を巻き込んだ大規模な百姓一揆を起こし、年貢の引き下げを要求します。
訴えは、一度はいったん聞き入れられますが、1か月後に覆されてしまいます。
それのみならず、首謀者の加助を含む中心人物8名が磔(はりつけ)20人が連座で獄門(ごくもん)に処せられました。
加助は磔にされても、最後まで年貢の引き下げを訴え続け、亡くなる間際に血走った目で松本城の天守をギュッと睨んだそうです。
その睨みによって松本城の天守が傾いた!と言われています。

実際に、松本城の天守は、明治30年代に傾きを直す工事を実施しています。
ですが、これは伝説のような加助が睨んだためではなく、天守台内部の支持柱が腐って天守が傾いてしまった事が原因と言われています。
傾いた天守伝説は、明治になって創作されたと伝えられています。
しかし、多田加助が主導したこの百姓一揆(加助騒動)は、実際に起こった騒動で、松本藩の悲しい歴史の一つです。

松本城を後世に残し伝えたい価値

松本城を後世に残し伝えたい価値

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松本城は天守だけではない!すべてが「史跡」

松本城の天守は1936年(昭和11年)に国宝指定されました。
しかし、それだけではなく天守の周辺にある石垣や堀なども、国の史跡に指定されており天守と同様に大切なものです。

江戸時代の松本城は、現在松本城公園となっている有名な天守のある本丸・博物館となっている二の丸だけではありませんでした。
市街地となっている松本城公園の南側にある大名町や、東側の松本市役所のある周辺も三の丸とよばれる城内でした。
しかし、武士の世であった江戸時代が終わり、天皇が頂点に経つ明治時代になるとお城は不要なものとされ、堀の大部分は埋められてしまい、土塁も一部を残し崩されて、三の丸の一帯は市街地と変貌していきました。

昭和の時代になり、天守のある本丸、およびその周辺の二の丸一帯は国の史跡になりました。
史跡は、公園として整備され現在の松本城公園になりました。
また、わずかに残った総堀や、近年整備されはじめた西総堀土塁公園も、史跡松本城の一部です。
私たちが大切に守り後世に伝えていきたいですね。

史跡松本城の整備と世界遺産への取り組み

武士の世だった江戸時代が終焉すると、松本城内にあった大部分の建物は取り壊されました。
残された建物は天守・二の丸御殿・南隅櫓などわずかなものとなってしまいました。
その上、二の丸御殿が1876年(明治9年)に焼失、南隅櫓も取り壊されて、松本城に残されたものは、天守の他、石垣(土塁)・堀だけとなってしまったのです。

しかし、太平洋戦争が終結した後、国宝松本城天守が大解体修理されることとなり、その後黒門や内堀の一部があらたに復元されました。
1999年(平成11年)には、太鼓門が復元され、史跡松本城も昔の姿を取り戻しつつあります。
現在、松本とその周辺の整備計画が実行されています。
その目指すところは、幕末期の最後の武士の世にあった松本城です。
松本城を愛する沢山の市民の方や専門家の方が国宝である松本城天守だけでなく、史跡としての松本城を整備し、後世に残すために日々研究をしています。

そして、松本城は、世界遺産に登録を目指す取り組みがなされています。
現在日本のお城では、姫路城だけが世界遺産に登録されています。
近い将来、この素晴らしい城が世界遺産になるかもしれません。
今から楽しみですね。

魅力溢れる松本城!ぜひ一度その目で

いかがでしたか?松本城の魅力を詳しく紹介させていただきました。
他の城では決して見ることが出来ない日本最古の五重六階の大天守をはじめ、連結複合式の天守など見どころは沢山あります。
ぜひ、日本アルプスに囲まれた壮大な漆黒の松本城に足を運んでみてくださいね。
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