日本の首都の変遷、日本の首都はいかにして動いてきたのか

世界各国、どこの国にも首都というものが存在します。国の中心となる都市という意味ですが、対象が政治であったり、象徴であったりと国によって定義はさまざまです。もちろん、日本にも首都があります。現在の日本の首都は東京ですが、これまでずっと東京が首都だったわけではないようです。そこで建国以来、日本の首都がどのように移り変わってきたのかについてご紹介します。日本各地のどのような場所が首都だったのか、じっくり見ていきましょう。

日本における首都とは?

日本における首都とは?

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法律上現在の首都は定められていない!?

私たち日本国民のほとんどが、現在の首都は東京であると認識しています。
そして、それは一般常識となっていることですし、間違っているわけではありません。
実際に、日本の中心は東京ですし、政治、経済、流行、交通などほとんどの中心が東京です。
国際的な目で見ても東京が日本の首都であることは、まぎれもない真実と言えるでしょう。

しかし、実は現在の日本の首都が東京であると認める法律はないのです。
首都圏整備法という法律内で、「首都圏」は定められていますが、東京都とその周辺にある都道府県、すなわち関東地方の都道府県も含まれているため、首都を定めた法律とは言い難いところがあります。

どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。
それは、天皇の住む都なり幕府のあった土地なりを首都として定義する必要がなかったからなのですね。
はるか昔より天皇が住む場所、という意味で都というものはありましたが、国民全体の一般知識として「首都」が知られるようになったのは第二次世界大戦後のことだったそうです。
日本は元々鎖国していた国でしたから、外国に対して見せる「首都」は必要なかったのでしょうね。

政治の舞台を首都としてとらえてみる

首都に関してさまざまな考えの方がいるでしょう。
「国の首長のいるところ」という考え方で首都を決めれば、平安時代より明治時代を迎えるまで、日本の首都は歴代天皇が住まわれていた京都であったことになります。
しかし、世界的に見て、首都という定義は「首長のいるところ」というよりも、政治や経済の中心という見方の方が強いように感じられます。
また、時代により天皇の権威も、国の首長としてふさわしいときと、形式上おかれていただけの首長に過ぎないときとがありました。

ですから、ここでは、日本の首都を政治の中心であった場所としてご紹介していこうと思います。
日本では天皇が政治を行った時代、武士が政治を行った時代、政権が2つに分かれた時代など、時によって政治を主導していた人や組織が変わってきました。
そのため、天皇のいる場所以外に政治の中心があったこともあります。
歴史の流れを追いながら首都の変遷についても見ていくと、日本の政治や経済などの変化もわかりやすいですね。
さまざまな波乱とともにあった日本の首都をたどってみましょう。

天皇が変わるたびに都が変わっていた平安京以前

天皇が変わるたびに都が変わっていた平安京以前

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バラバラだった日本が大和政権により統一された4世紀ごろ

どこの国でもそうですが、日本も最初から「日本」という一つの国として成り立っていたわけではありません。
縄文・弥生を経ていくうちに、同じように暮らしてきた人々の中で、人をまとめる力があったり、人よりもちょっと優れている人が少しずつ人々のリーダーになっていくようになりました。
そして、少しずつ人々の間に上下関係ができはじめ、首長となっていきます。

古墳時代の初めには、人々のリーダーとして明確に首長が置かれ、豪族と呼ばれるようになりました。
しかし、それらの豪族や王たちもそれぞれが小さな国を治めているばかりで、日本全土を統一して支配するほどではありませんでした。

古墳時代以降、力を持った王や豪族たちが少しずつ集まって政治を執るようになっていきます。
豪族たちの連合政権という形です。
日本各地にこのような連合政権ができていくなかで、特に大きな力を持ったのが、奈良県を中心としてできたと言われているヤマト政権でした。
最初は近畿圏内を治める程度だったヤマト政権は、その支配を少しずつ広げていき、東北地方を除くほぼ日本全域を支配するようになります。
そして、ヤマト政権の最高権力者は、大王(おおきみ)と呼ばれました。

大王から天皇へと変わり都が点々とした飛鳥時代

ヤマト政権の最高権力者は大王とされていましたが、天皇へとその名を変えます。
大王がいつ天皇に変わったのかは、学説によりさまざまです。
はっきりとした根拠は発見されていませんので、どれが正解とは言えません。
有力な説として、推古天皇の時代、天武天皇の時代などがあげられています。

平安京への遷都後、天皇の住まいは近年までずっと京都にあり、動くことはほぼありませんでした。
しかし、平安京へ遷都した桓武天皇以前には、天皇が即位するたびに住まいを変え、新しい場所に都を置いていたため、ヤマト政権があったと言われる近畿圏内には、各地に都の跡が残されています。
藤原宮、平城宮、難波宮など史料などから、現在のどこにあたるのかがはっきりとしている宮跡もありますが、場所が確定されていないものもたくさんあります。

ヤマト政権の発祥地とされる奈良県を中心に、京都、大阪、滋賀にまで広がる宮跡ですが、実は九州にも2か所残されているというから驚きですね。
この九州にあった宮は、九州地方の豪族を支配するために、天皇みずからが出征し、戦いに赴いていたために置かれた宮だと考えられています。
ヤマト政権の時代には、ある程度日本が統一されていたとは言われていますが、それも一筋縄ではいかなかったことがうかがえます。

天皇と貴族により政治が動かされていた時代~京都~

天皇と貴族により政治が動かされていた時代~京都~

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平安京は長く1000年に渡り天皇の住まいとなった

794年、桓武天皇(かんむてんのう)により、平安京に遷都されます。
この平安京遷都より、明治にいたる1869年まで、1075年ほどの期間、天皇の住まいは平安京のある京都にとどまり続けることとなるのです。
それまでの点々としていた都とは違い、平安京は、政治・文化・経済の中心として栄え、首都的機能を果たしていると言えるでしょう。

794年、前の長岡京より桓武天皇により遷都された平安京は、現在の京都府京都市街にありました。
東西4.5km、南北5.2kmの範囲に作られ、現在の京都市街よりは狭い範囲であったそうです。
ご存じの方の多いでしょうが、京都市街の道路を碁盤の目のようとたとえることがありますが、これは、当時平安京として整備された道路がそのまま使われています。
道路の名前にも当時のものが残されていますね。
平安京のメインストリートであった朱雀大路は、現在千本通という名前で少し姿を変えて残っています。
大内裏への入り口であった朱雀門も、跡地ということで石碑が残されていますよ。

平安京は最北端の中心に天皇が住む大内裏が建てられました。
大内裏より南に向けてメインストリートとなる朱雀大路が作られ、東西南北の碁盤の目のように道路によって区切られ、貴族が住む土地、商業地、学問の場などさまざまな区分けがされました。
貴族は大内裏付近、もしくは大内裏から見て左手になる左京に住んでいました。
現在平安神宮や岡崎公園などがあるあたりが左京になります。
逆に京都市街から西より、右京でも南のあたりは、近くにある桂川の影響もあり、湿地帯でした。
住宅を建てる土地としては向かず、農地に転用されたりしました。

平氏が権力を持った時代に一時福原京へと遷都

平安京以降、天皇の即位ごとに遷都するという仕組みがなくなり、平安京は400年近く、日本の首都であり続けました。
その間に、天皇主体の政治から、貴族の発言が物を言う貴族主体の政治が行われたり、上皇が政治を行う院政が行われたりとさまざまなことが起こりました。
平安時代も終わりを迎えるころ、平氏・源氏といった武士が力を持ち始め、政治にも介入し始めます。

武士の中で大きな二大派閥となったのが、平氏と源氏でした。
平氏のトップであった平清盛(たいらのきよもり)は、ついに天皇に自分の娘を嫁がせ、次の天皇となる親王を生ませることに成功します。
そして、その親王が天皇となったのが、安徳天皇(あんとくてんのう)です。
天皇の外戚として、より政治への介入を強めた清盛は、自分が勧めていた日宋貿易を盛んにするため、首都を移す計画を実行します。
その新しい首都の場所として選ばれたのが、現在の兵庫県神戸市中央区あたりにあったとされる福原京です。

福原京は、貿易の拠点となっていた大輪田泊(おおわだのとまり)を拡張、そしてその北側にある山のふもとに都を置くという計画でした。
周囲の反対を押し切り、清盛により強硬的に計画は進められましたが、すべて完成することはなく、ほんの数か月で都は平安京に戻りました。
現在の神戸市兵庫区の北部にある地域では、福原京の旧跡がいくつか見つかっています。

武士が台頭し政治を取り仕切るようになった時代~鎌倉~

武士が台頭し政治を取り仕切るようになった時代~鎌倉~

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源平合戦の覇者である源氏が力を持った鎌倉時代

平安時代から続いた権力をめぐる源氏と平氏の戦いにもついに終わりが来ます。
1185年壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡、平氏と源氏の二大勢力となっていた武士は、源氏が覇権を握りました。
源氏の最高権力者であった源頼朝(みなもとのよりとも)は、朝廷から征夷大将軍の位を授けられ、政治的な権力は武士のものとなります。

頼朝は、幕府を立てるさいに、関東武士と密接に関係がある頼朝にとって便利がいい鎌倉の地を選びました。
便利がいい理由はさまざまありましたが、有事に武士の力を借りるために、彼らを一か所に集めるには鎌倉が関東の中心であったこと(一所懸命)、力を借りるお返しに彼らの希望にある程度応える必要があり(御恩と奉公)、そのためには関東武士の近くにいることがよかったことなどがあげられます。

鎌倉幕府が立ったころには、権力は決して鎌倉幕府に集中していたわけではなく、西国は朝廷、東国は幕府が強く権力を持っていたわけではありませんでした。
朝廷と幕府で協力し合いながら日本という国を治めていたのです。

鎌倉幕府は一か所ではなかった?実は移動していた鎌倉幕府

鎌倉幕府は一か所ではなかった?実は移動していた鎌倉幕府

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私たちの中には名前のとおり、鎌倉幕府は鎌倉にどんと構えられ、その地で150年続いたイメージがありますよね。
実は、鎌倉幕府は3か所に移動しているのです。
最初に源頼朝が幕府を開いたのが、現在の神奈川県鎌倉市雪ノ下あたりの一帯である大倉でした。
そのため、大倉御所、大倉幕府と呼ばれています。
この大倉御所は頼朝のあとにも鎌倉幕府将軍の御所として使われましたが、1219年焼失。
御所は宇都宮辻子(うつのみやずし)へと移動されます。

宇都宮辻子幕府は、大倉御所からそれほど離れていない、現在の鎌倉市小町にあったとされ、石碑が残されています。
宇都宮辻子への幕府の移設は、大倉御所の焼失だけが理由ではなく、頼朝より続いた源家による政権が終わったことや、政権が執権である北条家に移ったことで気分一新となるようにという意図もあったようです。
宇都宮辻子幕府は12年という短い期間で次の若宮大路幕府へと移動してしまいますが、武士に対する初めての成文法である御成敗式目の成立など、歴史的な意味のある動きのあった場所でした。

若宮大路幕府は、前の2つの幕府よりも長く、100年近く鎌倉幕府の拠点として機能していました。
大倉御所と同じく、現在の鎌倉市雪ノ下に跡地として石碑が残されていますが、移動の理由、はっきりとした場所などわかっていないことがたくさんあります。
宇都宮辻子幕府を改築しただけであるという説もありますが、いまだに確実なことはわかっていません。
大倉御所から宇都宮辻子へと幕府を移した3代目執権北条泰時(ほうじょうやすとき)の治めた時代に移され、100年近くありましたが、1333年後醍醐天皇の命を受けた新田義貞(にったよりさだ)により攻められ、鎌倉幕府とともに滅亡します。

都も分裂!?南北朝で覇権が争われた室町時代~京都・奈良~

都も分裂!?南北朝で覇権が争われた室町時代~京都・奈良~

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150年ぶりに政権が京都へ戻るもすぐに分裂へ

鎌倉時代末期、朝廷と幕府の軋轢は大きくなり、即位した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の元、足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞らの力もあり、朝廷は鎌倉幕府を倒すことに成功します。
鎌倉幕府が倒れたあと、後醍醐天皇が自ら政治を行う親政を行い(建武の親政)、政権は京都の朝廷に戻ります。
しかし、後醍醐天皇の親政は長く続きませんでした。
鎌倉幕府の元、御恩と奉公によって保たれていた武士との関係は悪化、不満のたまった武士たちの味方をした足利尊氏の離反により、終わりを迎えます。

日本は尊氏によって擁立された北朝と、奈良吉野へ逃れた後醍醐天皇が開いた南朝で南北朝の時代に入っていきます。
南朝は、奈良、大阪の南部などを転々と6か所に渡り移動していきます。
北朝は京都に残り、尊氏も京都に邸宅を構えます。
尊氏の邸宅は幾度か移動し、2代目室町将軍である足利義詮(あしかがよしあきら)のとき、室町幕府の御所というべき、「花の御所」の元である花亭を公家である室町家より譲られます。
花亭は一度朝廷に献上され、再び足利家へと譲られます。

季節の花や木に彩られた花の御所

3代目足利義満(あしかがよしみつ)の時代に、花亭そして、今出川家が所有いていた菊亭の敷地を合わせて建てられた足利家の邸宅が花の御所です。
室町幕府の御所として知られている御所は、3代目将軍の時代になって建てられたものだったのですね。
この足利家邸宅正門は室町通に面しており、これにちなんで邸宅や足利家を室町殿(むろまちどの)と呼びました。
このことから、足利幕府を室町幕府と言うようになったのです。

花の御所は、名前にちなんでか、各地の大名などから季節の花や木が贈られ、その名の通り、花の咲く美しい御所であったと言われています。
3代将軍義満の時代は、室町幕府の最盛期とされ、御所もその栄華にふさわしい優雅なものだったのです。
花の御所は、室町幕府衰退の原因となった応仁の乱の際、敵の攻撃により焼失します。
再建されることはなく、現在は花の御所一部として、大聖寺(だいしょうじ)という由緒ある臨済宗の尼寺の境内に石碑が建てられています。
しかし、この大聖寺は一般公開されておらず、特別な時以外には参拝できないのでご注意くださいね。
大聖寺からも近い、現在の京都御所より北西に行ったあたりに、足利将軍室町第跡と石碑も残されています。

権力のありかはいずこへ!?覇権が移り変わった戦国・安土桃山時代~京都・大阪~

権力のありかはいずこへ!?覇権が移り変わった戦国・安土桃山時代~京都・大阪~

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将軍が放逐され足利幕府の権威はなくなる

3代目義満以降、少しずつ室町幕府の力は弱くなっていきます。
8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の後継ぎをめぐった応仁の乱により、より衰退は進む一方でした。
幕府内でのクーデターや各地でのさまざまな争いなどにより疲弊した室町幕府は、各地の大名たちをし続けることが難しくなっていきました。
室町幕府による支配をよく思っていない大名たちにより攻撃を受け、第13代足利義輝(あしかがよしてる)が殺されてしまいます。
その後、第15代足利義昭(あしかがよしあき)が、織田信長(おだのぶなが)の支援を受け、京都に入ります。
このまま再び足利家の政権が復活するかと思いきや、義昭は織田信長により京都を追い出されてしまい、ここから織田信長による政権がスタートするのです。

信長は、京都周辺の畿内の大名や武将たちを味方につけ、反抗するものは武力でおさえつけ、その力の及ぶ範囲をどんどん広げていきました。
支配を強めてからは現在の滋賀県近江八幡市に安土城を建設していますが、朝廷を味方につけていた信長の織田政権の首都は京都と言えるでしょう。
京都を中心に、畿内への支配を強めた信長は、四国や中国、中部へとその権力を広げていきます。
信長が政権を握っていた時代の京都は、室町幕府と違い、安定を取り戻し、文化も発展したと言われています。
しかし、信長の政権も長く続かず、10年ほどたったころ、明智光秀(あけちみつひで)の裏切りによって、信長が死に追いやられます。

信長のあと日本を統一した豊臣秀吉

信長亡き後も織田政権は続きますが、名ばかりのトップであり、信長に近い側近であった羽柴秀吉(はしばひでよし)により政権の実権は握られていたとされています。
秀吉は、朝廷から関白の位を与えられ、同時に豊臣(とよとみ)の姓も賜ります。
ここより豊臣政権が樹立されたことになります。

豊臣秀吉というと誰もが思いつくのが大阪城でしょう。
信長が亡くなったのと同じ1583年より築城が始まったこの大阪城が秀吉の拠点となります。
15年かけ1598年に完成します。
豪華絢爛の城であったとされていますが、現在見ることができる復元天守は、徳川幕府の時代に建てられたものを復元したもので、秀吉の大阪城は、大坂冬の陣、大坂夏の陣の2度に渡る合戦の末、埋没させられてしまっています。

大阪城の築城が進む中、豊臣秀吉は、信長でも成しえなかった日本統一を成し遂げます。
ヤマト政権の時代より、誰も支配の手を伸ばしきらなかった東北にまで勢力を広げ、自身の下につけたのです。
日本統一を成し遂げ、文句なしの権力を手に入れた豊臣政権でしたが、その支配も長くは続きませんでした。
秀吉の死後、力を持った側近である大老の中の一人、徳川家康(とくがわいえやす)は、秀吉の遺言を破り、どんどんと勢力を拡大していったのです。
関ヶ原の戦い、大坂冬の陣、大坂夏の陣を経て、豊臣家は滅亡し、豊臣政権も終わりを迎えます。

260年の治世が続いた江戸時代~東京~

260年の治世が続いた江戸時代~東京~

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徳川幕府の成立により首都機能は江戸へ

1603年、征夷大将軍に任命された徳川家康によって徳川幕府が立てられます。
元々家康の生まれた土地は、現在の愛知県岡崎市にある岡崎城でしたが、北条氏が豊臣によって攻められその領地を奪われたあと、家康がそれを授けられます。
家康は北条氏の拠点であった小田原城ではなく、江戸城を自らの居城とします。
豊臣の死後、徳川幕府を開く際にも、当時の居城であった江戸城に幕府を置いたのです。
江戸幕府開府以降、幕府の御所が江戸城より変わることはありませんでした。
ですから、現在まで日本の首都機能は、江戸から東京に名前を変えはしてものの、ずっと東京にあり続けていると言えるでしょう。

元々家康が江戸に入る前から江戸城自体はあり、徳川が入城以降、さまざまな増改築を繰り返し、日本最大の面積を誇る城となったのです。
現在の東京都千代田区に建てられていた江戸城は、江戸末期の無血開城の後、度重なる火災や空襲などにより、さまざまな建物が焼失、関東大震災でも大きな被害を受けました。
現在城郭はほとんど残されておらず、天皇家の住まわれる皇居となっています。

家康が江戸を選んだ理由には発展を見越した狙いがあった

家康が江戸を選んだ理由には発展を見越した狙いがあった

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現在まで首都としての機能を保ち続ける東京を、開府の地として選んだ家康は先見の明があったと言えますが、ではなぜ家康は江戸を選んだのでしょうか。
それまで都であった京都やその周辺ではなく、江戸を選んだのにはいくつもの理由があったのだとされています。
まず、朝廷からの干渉を避けるためです。
天皇の御所があり、朝廷の置かれた京都付近に幕府を置けば、どうしても朝廷からの干渉を受けます。
朝廷からの干渉を避け、幕府としての力を強めたかった家康にとって、京都から離れた江戸に幕府を開くことは大事なことだったのです。

さらに、江戸は発展する可能性が大いにある土地でした。
幕府が開かれるまで歴史的に注目されない江戸ですが、関東の交通の要所としては栄えていたという記録もあります。
関東圏のさまざまな場所から人やものが集まりやすく、海が近くて港もあったため、流通面でとても有利な点が多い土地でした。
また、関東平野という広く開けた土地柄、新しい産業や農業、町を作っていくのにも利点が多かったのです。
家康は、江戸を発展させ、日本という国の中心にしていこうと考えたのでしょうね。

発展を遂げた江戸の町で続いた平和な時代

家康は江戸に入り、埋め立てなどにより土地を作り、江戸の町に人が増えるよう宅地を増やしました。
18世紀の初めには人口が100万人を超えていたとされており、当時の世界各地の都市と比べても、世界一と言えるのではないかという大都市になっていたのです。
人が増えれば、生活に必要な農作物や日用品が売れ、経済が活性化します。
近郊の農地や産業だけではまかないきれないものは、流通によって確保されました。
江戸は大消費地としてだけでなく、日本各地からさまざまなものが集まり、商業の発展著しかった近畿地方やそのほかの地域とを結ぶ流通の中継点としても発展していきました。

江戸が発展していくなか、江戸幕府はそれまでの時代とは違い、安定した政権を維持し続けます。
それまでと違い、権力の集中を避けた政治を行っていたためとも考えられます。
将軍のみが権力を持ち政治を行うのではなく、老中などさまざまな役職を置き、重要な権限を持つ役職は一人ではなく数人という形にし、個人が権力を持つことを難しくしたのです。
また、参勤交代などにより、各地の大名が幕府に対抗するような兵力や財力を持てないよう、うまく国力を削っていたことも安定した時代が続いた理由であるとされています。

近代日本新政府の樹立以降から現在まで~東京~

近代日本新政府の樹立以降から現在まで~東京~

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江戸幕府の終わりと明治政府の樹立

安定した政権を続けた江戸幕府にも終わりがやってきます。
新政府軍との戊辰戦争ののち、江戸城無血開城を経て、1868年江戸幕府はその幕を閉じます。
そして、265年間の長きにわたる江戸時代も終わりを迎えます。

江戸幕府がなくなってからも、首都機能は東京に残ります。
1868年7月には東京へと名前が変わり、翌年には明治天皇が江戸城から名前を変えた東京城を皇城と定めます。
これにより、国の首長である天皇のいる土地と、政治・経済・文化の中心と言える政治機能を持った土地が一緒になります。
室町幕府や織田政権の時代にも、天皇のおわした京都が首都機能を持っていましたが、天皇の政治的地位は低く、平安時代以降、やっと名実ともに天皇の名のもと首都と言えるようになったという印象ですね。
新政府も東京に置かれ、東京は日本の最先端を行く大都市へとさらに発展を遂げていきます。
道路が整備され、近代建築が建ち、江戸から東京へとどんどん姿を変えていきますが、東京が発展を遂げた下地には、徳川時代に全国からの流通の中継点として江戸を発展させ、日本各地から江戸までの道筋を作り上げていたという点が大いにあったのでしょう。

数々の苦難を超え現在まで続く首都東京

明治以降も、東京はさまざまな苦難に見舞われます。
1923年、関東大震災により、多くの建物が倒壊、火災による二次災害で焼失するなどし、東京の街もぼろぼろになってしまいました。
また、沿岸部では津波も発生、震源となった神奈川、隣県である東京は建物だけでなく多くの人が亡くなりました。
大震災の影響で、復興を目指すも不況に陥ってしまいますが、世界各国からの支援などもあり、東京は首都として再び輝きを取り戻していきます。

1945年、東京は再び大きな傷を受けます。
第二次世界大戦中の東京大空襲です。
1944年から106回にも及ぶ空襲を受け、10万人以上が亡くなったとされています。
東京の町は焼け野原となり、首都としての機能を果たせないほどにダメージを受けます。
その年のうちに終戦を迎え、日本はまた復興の道を歩み始めます。
この空襲により、天皇の住まいであった皇居も焼失、仮住まいを余儀なくされます。
昭和天皇は、自らの住まいを再建することよりも、戦火により家を追われた国民の生活を取り戻すことを優先とし、空襲からの復興が進んだ1960年から皇居の再建が始められました。

その後、今日まで小さな傷を受けながらも東京は発展を続け、現在の姿になっています。
数年前には東日本大震災で再び傷を受け、今もなお復興の最中です。
しかし、東京が政治の中心であることはもちろん、人・経済・文化の中心であり、日本の首都として立派に機能していることは言うまでもありませんね。
そして、現在も発展し続けている東京。
これから先も日本の首都として、あり続けてくれることを願わずにはいられません。

かつての首都を目で見て肌で感じましょう

日本の首都の変遷ということで、日本の首都機能を担っていた都市についてご紹介してきました。
いかがでしたか?時代の移り変わりとともに、さまざまな土地に首都機能が移っていたり、何か所にも点々としていたという事実があったりと、よくよく見てみると面白い発見もたくさんあったのではないかと思います。
現在でもその跡を残しているものもあれば、すっかりと姿を変えてしまっているものもありますが、かつては日本の中心であった場所をたどってみるのもおもしろいかもしれませんね。

興味が湧いたところがあれば、ぜひ一度訪れてみてください。
かつて日本の中心である首都があった場所を肌で感じるとまた普通の観光とは違った気分を味わえますし、文字で読むだけでも、写真を見るだけでも見つけられない新たな発見があるかもしれないですよ

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