国宝「松江城」がかつて乗り越えた、水の都ならではの悩みとは?

2015年、実に63年ぶりに国宝に指定された天守、松江城。さまざまなメディアでも特集が組まれるなど注目を浴びていますが、松江城がどのような歴史をたどって現在の姿になったのか、ご存知ですか?今回は、松江城が唯一持つ特色についてや、初代藩主が入城から現在に至るまでの歴史、そして国宝に指定されるまでの道のりをお話ししていきたいと思います。最初からすんなりと建てられたわけではない松江城の、築城時やその後の大工事などについてもお話ししますよ。ぜひ松江について詳しくなってください。

国宝松江城!お城が建っている松江はどんなところ?

国宝松江城!お城が建っている松江はどんなところ?

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水の都と呼ばれ宍道湖を臨む街、松江

島根県の県庁所在地でもある松江市は、島根県東部出雲地方と呼ばれる地域にある市です。
総人口約20万人で、特例市としても指定を受けています。
新幹線で岡山駅までたどりつき、そこからやくも号に揺られること2時間半ほどで到着します。
駅前は大きなバスロータリーとなっており、市民の足となる市バスや一畑バスとともに高速バス乗り場もあり、日本各地から高速バスで松江に来ることもできるようになっています。
残念ながらJR松江駅からは、松江城を見ることはできず、バスで北西に10分ほど走ったところに、お城は建っています。

松江市は、市の東に中海、西に宍道湖と日本で10位以内の広さを誇る湖を2つ保有する水の都でもあります。
中海と宍道湖をつなぐ大きな川、大橋川が市を南北に分けており、大橋川に5つの大きな橋がかかっています。
そのため、川から北を橋北、川から南を橋南と呼んでいます。
松江城を中心に多くの堀があり、松江市の風景にはどこかしらに堀や湖などが写りこみます。
これが水の都と呼ばれ、美しい景観を持つ松江の魅力でもあります。

この市中にめぐらされて堀は現在でも水は張られており、年中「堀川めぐり」という屋形船で遊覧することができます。
冬になると屋形船の中にこたつが登場する、船頭さんが歴史について話してくれたり、歌を歌ってくれるなどさまざまなサービスで、松江観光の重要なスポットにもなっています。

文豪ラフカディオ・ハーンも愛した、文化あふれる街

松江は、さまざまな文化が残されている町でもあります。
特に有名なところですと、「怪談」で知られている文豪「ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)」が暮らしており、現在も旧居が残されています。
小泉八雲資料館として一般公開されているほか、曾孫である小泉凡さんによる講演、小泉八雲の怪談にゆかりのある地を巡る「小泉八雲ゴーストツアー」なども企画され、こちらも観光の目玉となっています。

また、文化という面で見ると、松江は茶の湯でも有名なところです。
出雲松江藩7代藩主であった松平治郷(まつだいらはるさと)は、さまざまな文芸に秀でた人でしたが、とくに茶人として知られた人で、城下町に茶室を建てたり、お茶に合う和菓子を作らせたりと、お茶に関わりのあるさまざまなものを現代まで残しました。
松江の和菓子は、現在でも上品でお茶に合う和菓子として知られ、松江市が文化面で優れた町であるという理由の一つになっています。

松江は、古き良き文化を大事にしている町で、街並みにもその様子が残り、新しいものと古いものがうまく融合した街並みを見ることができます。
そして、松江が現在の形のようになってきたのには、松江城とその歴史が深くかかわってくるのです。
ここからは、松江城について詳しい紹介、そして松江城築城から今日にいたるまでの歴史について、じっくりとお話ししていきます。

現存天守閣で国宝でもある松江城はどんなお城?

昔の姿を美しく残す「千鳥城」

昔の姿を美しく残す「千鳥城」

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堀尾吉晴(ほりおよしはる)公の銅像が見守る大手前より、馬溜跡や二の丸跡などを抜け、ゆっくりと坂を上っていくと見えてくるのが、松江城の天守閣。
天守閣の中心に見えるのは入母屋破風(いりもやはふ)の屋根で、左右に大きく羽を広げた形に見えることから、別名「千鳥城」という名も持っている美しいお城です。

入母屋破風の屋根からさらに目線を上へと持っていきますと、木造のしゃちほこを左右に見ることができます。
松江城のしゃちほこは、現存する木造のしゃちほこの中では最大のものとされています。
高さ2.08mの雄大な姿を私たちに見せてくれますよ。

5層ある天守閣の各屋根の隅には、鬼瓦が設置されています。
松江城天守閣すべてで22枚の鬼瓦があるそうです。
厄除けと装飾という2つの意味を持った鬼瓦ですが、松江城の鬼瓦は恐ろしい鬼の顔をしたものは少ないとされています。
なぜなら、松江城の鬼瓦には、鬼特有の角がないものが多く、表情も憤怒のいかめしい顔ではなく、ちょっととぼけたようなユーモラスな顔をしたものが多いからです。
22枚ある鬼瓦のすべてが違った顔をしているそうなので、1枚1枚の表情を見比べるのも楽しそうですね。

さまざまな工夫がこらされた城内

さまざまな工夫がこらされた城内

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松江城には外見だけではなく、内側にも他の城では見られないさまざまな工夫がこらされています。
関ヶ原の合戦後、権力が豊臣から徳川へ移る大きな戦乱の時代に建てられたこともあり、外部から敵に責められたときのことを想定された工夫です。
ここではそのいくつかをご紹介します。

まず、階段について。
通常城の階段にはヒノキなどの材木が使われることがほとんどです。
しかし、松江城の階段は桐の材木によって作られています。
桐は日本で採れる木材の中では最も軽く、防腐防火能力が高いとされています。
松江城の中4階から5階に通じる階段は松によってできています。
しかし、それ以外の階段は桐が使われており、敵が城内に侵入した際には、さっと階段を取り外し、上階に上がってこられることを防ぐ狙いがあったと考えられています。

天守閣内部に井戸があることも松江城の特徴です。
日本全国に多くの城が現存、もしくは復元されています。
しかし、天守閣内に井戸がある城は松江城のみです。
これは、戦が起き、城に籠城しなくてはならなくなったときに、飲料水を確保するために作られたものだとされています。
井戸があるのは、天守閣の地階で、籠城用の食糧を保管する貯蔵庫の真ん中に作られています。

天守閣の2階には、四隅と南以外の壁沿いに石落としと呼ばれる仕掛けが用意されています。
城の外側から一見しても見つかりにくくなっていますが、天守閣内部よりに隙間が作ってあり、その間から壁や石垣を登ってくる敵に石を落とすことができるようになっているのです。

現代に残る石垣築成集団の手による石垣

現代に残る石垣築成集団の手による石垣

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松江城の築城には実に5年もの歳月が費やされたと記録されています。
その長い築城期間で半分以上の期間を使ってできたのが、現在も立派に残る石垣です。
松江城の場合は3年間が石垣の築成に費やされたと言われています。
江戸初期に積まれたにも関わらず現代まで残る石垣を積み上げたのが、穴太衆(あのうしゅう)という石垣築成集団です。

穴太衆は、現在の滋賀県大津市にある坂本穴太という地域で生まれた石工の集団で、寺院などの建築に携わっていました。
安土城の築城に伴い、石垣を作る際に呼ばれ、強固な石垣を積み上げたことから、織田信長、豊臣秀吉らに取り立てられ、日本各地の石垣を積むようになったのだそうです。
穴太衆が積んだ石垣に対する評価は非常に高く、先日起きた熊本地震で被害を受けた熊本城も、崩れた石垣よりも古い穴太衆が積んだ石垣は、まったくもって無事であったとい話もあります。

松江城の石垣は、野面積みと打ち込み接という2つの手法を使い積み上げられたものです。
石の形そのままを使い組み合わせて積んでいく野面積みと、積みやすい形に石を加工し積んでいく打ち込み接、まったく違う味わいを持つ石垣は、同じ松江城の城内でも、それぞれの風合いを活かした景色を作りだしています。

春には桜が咲き誇る「日本さくら名所100選」の一つ

春には桜が咲き誇る「日本さくら名所100選」の一つ

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現在松江城山公園として開放されている松江城は、園内に200本もの桜の木を有し、春には多くの花が咲き誇ります。
ソメイヨシノ、ヤエザクラ、シダレザクラなどがあり、花が咲くころにはぼんぼりなどが飾られ、夜桜を楽しむこともできます。
現存天守と桜のコラボレーションは、とても美しく、松江近郊のお花見スポットとしても人気が高いところです。
松江城は、外壁を下見板張りとし、黒く厚い板で覆われており、黒く落ち着いた外観をしています。
城内に咲き乱れるソメイヨシノの白い花とのコントラストも見どころの一つです。

毎年3月末から4月の頭にかけては「お城まつり」が開催され、本丸広場の開放時間や天守への登閣時間の延長、週末には特別ステージなどさまざまな催しが行われます。
城内で見る桜ももちろんですが、松江城の堀を遊覧する、「堀川めぐり」の屋形船からも、美しい桜を見ることができます。

茶所としても有名な松江ならではの和菓子も楽しみの一つです。
桜の季節には、桜にちなんだ和菓子も多く販売されますので、松江のお茶と和菓子を味わいながら桜を見るのもまた良いでしょう。

堀尾氏による松江藩成立から築城まで

堀尾氏による松江藩成立から築城まで

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関ヶ原の武勲により松江藩を賜った堀尾氏

松江城を築城した堀尾吉晴(ほりおよしはる)は、尾張国(現在の愛知県)生まれの武将です。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と当時の天下人と呼ばれる人々に仕えた人物でもあります。
豊臣秀吉の死後、徳川家康に仕え、石田光成と徳川家康の仲を取り持つなど、活躍しました。
松江市では築城主として大切にされ、現在松江城大手前には堀尾吉晴の銅像が立てられています。

松江藩初代藩主と見られがちな堀尾吉晴ですが、実際には藩主となった記録は残されていません。
関ヶ原で武勲をあげ、出雲国を賜ったのは息子である堀尾忠氏(ほりおただうじ)で、月山富田城(がっさんとだじょう)に入城したときには、吉晴はすでに隠居の身でした。
忠氏に家督を譲り、隠居生活を送っていた吉晴でしたが、忠氏が若くして逝去すると、再び表舞台に登場します。
忠氏の息子、忠晴は家督を継いだとき、まだ幼く政治を取り仕切れないという理由から、吉晴が松江藩の政治を行いました。
この事実から、松江藩初代藩主と見られることがあるのです。

松江城の築城に力を注いだ吉晴ですが、松江城の完成を待たずに完成間近の6月死去してしまいます。

旧城跡に建てられた松江城

堀尾吉晴・忠氏親子が松江藩を興したとき、最初に入城したのは松江城ではなく、現在の島根県安来市にある月山富田城でした。
月山富田城は周囲が山に囲まれ、藩を治める城下町を立てるには不向きな城でした。
そこで、松江城築城の地として白羽の矢が立ったが、末次城跡でした。
末次城は、築城年代の記録は残っていませんが、鎌倉時代から室町時代にかけてあった城だと言われています。
亀田山に築かれた城で、現在のように天守閣や堀はなかったようです。

城作りの名人でもあった堀尾吉晴は、亀田山の西にある洗合山に松江城を築城しようと考えていました。
それに対して亀田山に松江城を建てようと考えていたのが、息子であり松江藩初代藩主の忠氏でした。
本来ならば城を建てることに長けていた吉晴の考えが通ったのかもしれませんが、築城前に息子の忠氏が亡くなってしまいます。
息子の死をひどく悲しんだ吉晴は、忠氏の考えを尊重し、亀田山にある末次城の跡地に松江城を築城することを決めたました。

松江城は、古い城の跡地を利用し、大幅に改築、補修、増築などを重ねてできた城だったのです。

湿地帯を安定させ城を強固にするための大工事

松江城が築城され、城下町が広がる現在の松江市。
多くの堀がめぐらされ、風光明媚な城下町という印象がありますが、元から今の美しい姿だったわけではありません。
松江城は平山城といい、平野の中にある山もしくは丘陵地などに建てられた城とされています。
確かに松江城は小高い丘の上に建てられた城のたたずまいをしていますね。
しかし、築城前の亀田山は、平野の中にぽつんとある山ではなかったのです。

現在松江城がある亀田山、そして亀田山より北、不昧公ゆかりの明々庵などがある赤山は、かつて間に宇賀山を挟み、地続きの山系でした。
私たちが現在松江城の内堀として見ている部分の多くや塩見縄手や小泉八雲記念館、武家屋敷などの観光名所がある場所も、松江城築城以前は山でした。
実際に風景を見るとよくわかりますが、とても広い範囲の山が削られたようです。
では宇賀山はどこにいってしまったのか。
そこに松江城築城に5年の月日が費やされた理由があるのです。
現在松江城の城下町が広がるあたりは、元々ひどい湿地帯でした。
城下町として発展させるために、寺社や庶民の家、商店など必要なものを建てることは難しい土地だったのです。
そこで、築城の名手であった堀尾吉晴がとったのが、宇賀山を切り崩し、出た土で地盤を固めるという手段。
県に残る資料では、その土の量、約180,000立方メートルにもなったとされています。
180,000立方メートルといいますと、オリンピックの競泳で使われるプール約50杯分の土の量です。
想像がつきにくい量でしょうが、それほど多くの土が必要だったのですね。

そして、山を崩したところに堀を作ることで、水のたまりやすい湿地帯の排水を円滑にしました。
堀には、外部から敵に攻められたときに城を孤立させ、攻めにくくする役割もあり、松江城の堀は2つの役割を担っていたと言えます。
湿地帯に立派な城下町を作り、攻め入る敵に備えた城を作る。
山を切り崩すという大胆な方法で2つの目的を達成させた堀尾吉晴は、まさに築城の名手だったのです。

堀尾氏改易後京極氏を経て松平氏の時代へ

堀尾氏改易後京極氏を経て松平氏の時代へ

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長くは続かなった京極氏の時代

初代藩主堀尾忠氏が死去したあと、息子の忠晴が幼くして松江藩主となりました。
幼年で政治を取り仕切ることができない期間は、祖父である堀尾吉晴が松江藩の政治を動かしていたとされています。
松江城の完成した1611年、完成した松江城に入城後間もなく、吉晴が死去。
その後忠晴が2代松江藩主として政治を行いますが、その忠晴も33歳と若くして亡くなります。
忠晴には後継ぎとなる男の子がおらず、堀尾氏は改易、身分をはく奪され、城や領地も没収となります。

堀尾氏の改易後、主を失った松江城に入城したのが、京極忠高(きょうごくただたか)でした。
戦国時代以前には出雲守護として松江を含む領地を守っていた京極氏でしたが、戦国時代に尼子氏に領地を奪われます。
長い年月をかけて再び松江の地を治めることになったのです。
しかし、京極氏が松江を治めたのはほんのひと時でした。
松江城に入城し、3代藩主となった京極忠高は、3年後死去。
後継ぎとなる男の子がいなかったため、京極氏も改易となりかけました。
養子を立て、改易を免れようとしましたが認められず、松江藩は没収となりました。
しかし、京極氏の徳川家への忠義が認められ、播磨龍野を与えられ、京極氏は残ることができたのです。

親藩松平氏の時代が明治維新まで続く

京極忠高の死去後、松江藩を治めるべく松江城に入城したのが、松平直政(まつだいらなおまさ)でした。
直政以降、明治維新によって廃藩置県が行われるまでの約230年ほどの期間、松平家が松江藩を治め続けました。

直政は、徳川家康の二男を父に持ちましたが、側室の子ということもあり、貧しく育ちました。
父亡きあとには、兄忠直が支えとなり、大阪冬の陣、夏の陣ともに、兄の軍に参加しています。
名将真田信繁(のぶしげ)と戦い、信繁ら多くの武将の首を獲り、のちに祖父である徳川家康からも大いに褒められ、その際にもらった打飼袋は、直政が眠る松江市月照寺に保管されています。

松平氏によって治められていた松江は、貧しい国で、年貢の収入だけでは藩政が立ち行かなかったそうです。
そのため、木綿などの生産を専売制として統制するなどさまざまな策がとられましたが、どれもあまり効果がなく、さらに災害などの被害により年貢すら満足に納めれない状態でした。
7代藩主である松平治郷(まつだいらはるさと)の時代に行われた財政再建までは、常に赤字が続いていました。
治郷による財政再建で一度は藩政が立てなおされたものの、再び藩政は悪化、明治維新によって松江藩がなくなるまで、貧しい藩政であったとされています。

不昧公による藩・文化の発展

不昧公による藩・文化の発展

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藩の立て直しにも尽力した治郷

松江藩松平家7代藩主が松平治郷(まつだいらはるさと)です。
不昧公の名でもよく知られている治郷。
文化人というイメージが先行しますが、藩の財政立て直しを図り、藩内の領地の環境整備にも努めた藩主です。
治郷が藩主となるまで、松江藩は財政が厳しく、赤字状態。
治郷のときには、すでに破たん状態でした。
藩も倒れてしまうのではないかという状況でしたが、商品価値の高い作物を育てさせたり、倹約令を敷いたり、さまざまな政策に取り組みました。
その結果、松江藩の財政は立て直され、藩の貯蓄もできるまでになりました。
現出雲市大社町にあった高浜砂丘に植林して防砂林事業を成功させたもの治郷の時代のことでした。
松江藩内の環境整備も行われ、松江市内でいうと、佐陀川の開削工事もその一つです。

松江城築城の話でにも出てきましたが、当時の松江市街はひどい湿地帯で、沼地のところも多くありました。
松江城の城下町は築城の際に埋め立てられ落ち着きましたが、城下町から少し離れた城の西側は、水はけも悪く、農地としての利用も難しいほどでした。
宍道湖の水位も現在より1メートルは高く、雨の多い土地柄、すぐに水があふれてしまったからです。
そこで、現在の鹿島町恵曇(えとも)の日本海から宍道湖に流れ込む佐陀川の川岸を削って広くし、水の流れをよくするための治水工事が行われました。
結果、宍道湖の水位は1メートル下がり、佐陀川沿岸に200ヘクタールもの水田を作ることに成功したのです。
この大工事を取り仕切った清原太兵衛(きよはらたへい)は現在でも治水家として、松江市民に広く知られています。

茶所松江を作り上げた不昧公

松江と言えば有名なのが、お茶と和菓子です。
お茶といえば、治郷は茶人として一流の人でした。
お茶など文化面での治郷について話すここでは、「不昧公(ふまいこう)」の名を使っていきますね。
松江でお茶や和菓子が大成したのも、不昧公の功績だと言われています。
有名な和菓子店がいくつもあり、その中でも有名なのが、「不昧公御好み」と呼ばれる和菓子です。
好みという言葉から意味をとらえると、その人が好きだったものと受け取られがち。
しかし、お茶などで「○○好み」という表現が使われる場合には、その人が監修したものととらえるのが正解です。
不昧公御好みというのは、不昧公が味や形などの要望を出して作ったお菓子などと考えましょう。

潤った藩のお金で高価な茶器を買ったり、庵を建てたりと不昧公は文化面に多くのお金を使います。
現在も残っている茶庵である菅田庵は重要文化財に、明々庵では現在でもお茶席が設けられ、不昧公の時代から続く松江の文化に触れることができます。
不昧公は初め、一尾流(いちおりゅう)を学び、さらに石州流(せきしゅうりゅう)、そして不昧流という独自の流派を立ち上げました。
茶道に関する書物も多く書き記しており、このうちの「茶事十二ヶ月」の中では季節ごとのお茶菓子や茶席のおもてなしなどについて詳しく書かれています。
先ほど話に出た不昧公御好みもこの中に記されているものです。

最強と謳われる力士をお抱えに

治郷の時代、松江にはお抱え力士と言われるお相撲さんがいました。
元々神話にも相撲に関する話が出てくるほか、雲州力士や隠岐相撲など相撲に関する文化がさかんな土地柄だったようです。
そのお抱え力士の名が、雷電為右衛門。
雷電という名前も雲州発祥の名前だと伝えられています。
相撲に明るい人ならばもちろん、そうでない人でも名前を知っているほどの名力士です。
身長197cm、体重170kgという巨漢で、現代の相撲取りにたとえると、数年前に引退した元把瑠都関とほぼ同じ体格だと言われています。
当時の日本人からすると、見上げるほどの大男だったでしょうね。
現役時代の戦歴は、254勝10敗2引き分け14預かりという素晴らしい記録を残しています。
当時は、年間2場所しかなかった大相撲ですが、6場所となった現在でもこの勝率を上回る力士はいません。

この雷電、出身は長野県東御市(とうみし)と、松江には縁もゆかりもありませんでした。
それが、松江藩お抱えの力士となったのは、治郷が無類の相撲好きだったから。
治郷が病で寝込み、なかなか回復の兆しが見えないときには、雷電が毎日城に足を運び、相撲を取る姿を見せたそうです。
治郷はそれを見て少しずつ回復したというぐらいですから、とても相撲が好きだったのでしょうね。
治郷が眠る松江市月照寺には、雷電の手形を押した石碑が残されています。

廃藩置県による廃城とその後の松江城

廃藩置県による廃城とその後の松江城

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豪農や元松江藩士による買い戻しにより保存されることに

明治維新まで松平家が治めた松江。
大きな戦いなどに巻き込まれることもなく続いていましたが、ついに明治維新の波が松江藩にもやってきます。
まず1868年の版籍奉還により、松江城と松江藩は新政府陸軍が取りまとめるようになります。
最後の藩主松平定安(まつだいらさだやす)は、藩主ではなく知藩事という職につきました。
少したった1871年廃藩置県により、松江城も廃城になります。

廃城令を受け、松江城も天守閣が民間人に買い取られ、天守閣以外のさまざまな城内部の建物が壊されます。
いよいよ、松江城天守閣も取り壊されるというときに待ったをかけたのが、松江藩時代から続く豪農勝部本右衛門(かつべもとえもん)でした。
天守閣解体を知り、元藩士であった高木権八が本右衛門に解体のことを伝えたのです。
豪農であった本右衛門が資金を調達、松江城を買い取り、天守閣は取り壊されずに残されました。

松江城が民間に買い取られたときの値段が180円で、現在の価値で120万円ほどでした。
明治期というと、教員の初任給が5円の時代でしたので、勝部氏ほどの豪農でなければ、松江城の買取は難しかったのでしょう。

城跡を公園として開放

勝部氏によって買い戻された松江城ですが、すぐに再建とまではいかず、長い間天守閣も修復されないままになっていました。
明治の半ばには松平氏によって買い取られ、昭和に入ってから、松江市に寄付されます。
その後、市の事業として少しずつ復元・修復が進み、現在の松江城の形になっています。

松江城天守閣以外の部分は、現在松江城山公園として、市民に広く開放されています。
春には200本もの桜が咲き誇り、本丸広場ではお城まつりが行われるなど、季節によって大きなイベントの会場になったりもしています。

城山公園の中には、島根県内には少ない明治期に建てられた洋館、興雲閣があります。
真っ白な洋館で、周りを木々に囲まれ静かに佇んでいる姿が美しい建物で、のちの大正天皇が宿泊所としてお泊りになられたこともあるそうです。
数年前までは「松江郷土館」として松江の歴史や民俗資料が置かれる建物でしたが、松江城東側に「松江歴史館」ができたのを機に閉館。
修繕などが行われ、現在は1階に喫茶室、2階にある大広間は市民が借りることもできるようになっています。

松江城が国宝になるまで

松江城が国宝になるまで

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重要文化財として指定されるも国宝になれない日々

1934年に国の史跡に、翌年1935年に国宝に指定された松江城ですが、1950年の文化財保護法の制定により、国宝から重要文化財へと変わってしまいます。
国宝になるには、歴史的事実を基ける資料が必要だったのが理由です。
それ以降何度も国宝に指定されるために、陳述や運動などで国に対して働きかけてきましたが、なかなかそれは叶えられません。
1951年、1955年、1959年と3度にわたって国宝を指定を嘆願。
しかし、松江城が国宝になるためには、大きなネックがあったのです。
それは、「完成年がわからない」ということ。
城の内部には完成年を記すものがなく、古い資料にも松江城の完成について記されたものがなく、松江城がいつ完成したのかは誰にもわからないままでした。

松江城を国宝にしようという運動は少しずつ熱を失っていましたが、2007年から始まった「松江開府400年」を機に再び市民や市からも「松江城を国宝に」という声が上がり始めました。
市民有志による「松江城を国宝にする市民の会」や、市が立ち上げた有識者による「松江城調査研究委員会」などが立ち上げられ、署名運動や城についての研究が進められたのです。
松江市も築城に関する資料の提供に懸賞金をかけ、資料集めなどに奔走しました。

そしてついにその時が来たのです。

決定的な証拠となる資料が発見され国宝指定に

2015年7月8日、松江城は国宝に指定されました。
何度も国に対して国宝指定を申し出ても却下され続けた松江城が国宝指定を受けることができたのは、完成年を特定する資料が見つかったからでした。
城を建てる際に祈祷札をいうものを内部に貼るのですが、松江城はこれがどこかにいってしまい、完成年がわからないままとなっていました。
さまざまな場所を調べ、探した結果、松江城山公園内にある松江神社からこの祈祷札が発見されました。
しかし、祈祷札が見つかったからといってすぐに国宝になれたわけではないのです。

発見場所が天守閣内ではなかったため、まずは本当に松江城のものなのかを証明しなければなりませんでした。
なぜなら、祈祷札には札の書かれた年は記されていたものの、「松江城」という文字がどこにもなかったのです。
この祈祷札が松江城に貼られていたものであることを証明するほかに、松江城を国宝にする手段はありません。
松江城内部の祈祷札がつけられそうな柱を一つ一つ丹念に調べあげ、釘の位置、シミの形、札があったあとなどを照らし合わせました。
そうして3年の月日を経て、ついに祈祷札が貼られていた箇所が見つけられました。
奇しくもその場所は、どこのお城を探してもない、松江城にしかないもののそばだったそうです。
そう、地階にある井戸のそば2箇所でした。

完成年の特定とさまざまな松江城のもつ特色を元に、再び松江城を国宝に指定してもらえるよう、国へ働きかけた結果、ついに松江城は国宝に指定されました。
多くの人々が尽力した結果の国宝指定。
官民一体化のチームプレーがもたらした国宝指定でした。

市民に愛される国宝松江城

松江城の特色、歴史、そして国宝となるまでをお伝えしてきましたが、いかがでしたか?築城から現在までさまざまな苦難を乗り越えて発展してきた松江城は、市民にも愛され続けている美しい城です。
松江城が見てきた歴史も色濃く残り、文化も発展しています。
しかし、文字で読むだけでは松江の魅力も、松江城の美しさも伝えきれません。
ぜひ松江を訪れ、松江城に上ってみましょう。
歴代の藩主たちが見た松江をその目でご覧ください。
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