シャンパーニュが世界遺産に至る経緯や成り立ち

パチパチとはじける炭酸がおいしいシャンパンの産地として知られる、フランス北東部に広がったシャンパーニュ地方。他では味わえない特別な味をかもしだしているワインの産地として伝統があるシャンパーニュのワイン畑は、2015年に世界遺産として認定されました。シャンパーニュの丘陵風景ははいかにも牧歌的で味わいのあるフランスの田舎といった風情です。そんなシャンパーニュの歴史について調べてみましたので、ぜひごらんください。

「ドンペリ」の名前となった修道士

「ドンペリ」の名前となった修道士

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修道士ドン・ペリニヨンが作ったシャンパン

誰でも「ドンペリ」と呼ばれているシャンパンの銘柄を聞いたことがあるのではないでしょうか? 正しくは「ドン・ペリニヨン」という名前のワインですが、この名前はシャンパーニュにあったキリスト教寺院、オーヴィレール修道院でワインを作っていた修道士ピエール・ペリニヨンからとられています。
「ドン」というのは尊敬した呼び方で、○○様とか、ミスター○○、というようなものですね。
オーヴィレール修道院ではワイン作りがさかんに行われていて、ドン・ピエール・ペリニヨンは修道院のワイン貯蔵庫の責任者だったんです。
ドン・ペリニヨンはワインの研究開発に熱心で、この泡の立つワイン、シャンパンの開発に苦心した人物なんですよ。

シャンパンというのはこのシャンパーニュ地方の一部と、隣接するアルデンヌ地方にまたがる「シャンパーニュ・アルデンヌ地域圏」において作られた発泡性のワインのことだけを呼ぶもので、作り方にもたくさんの厳密な取り決めがあります。
他の産地や他の製法でつくられたワインに「シャンパン」の名前をつけるのは禁止されていて、シャンパンのカテゴリにあてはまらないものはスパークリングワインというんですね。

よいワインを修道院で研究していた!

オーヴィレール修道院の歴史はシャンパーニュの成立より古く、650年に建立されました。
戦争による被害を受けながらも修繕され、18世紀にフランス革命が起こり修道院が閉鎖されるまで、ワイン生産を伝統的に行っていたんです。
キリスト教ではワインはキリストの血と考えられていて、ワイン造りは神聖な仕事であり、よりよい品質のワインを作ることが宗教的にもよいことだったんですね。

ドン・ピエール・ペリニヨンは1638年に生まれ、1668年にオーヴィレール修道院の出納係に就任してから1715年に亡くなるまで、ワイン造りに情熱をかたむけました。
もともとはシャンパーニュ地方でも泡のない赤ワインを生産していました。
でも、今のように温度管理が厳密にできるような設備はなかったので、ワインに時々泡が発生してしまうのが悩みだったそうです。
シャンパーニュのような寒い土地では酵母発酵が不完全なまま冬になってしまい、春になってあたたかくなるとまた酵母が活発にはたらいて二酸化炭素がワインにとけこんでしまうのが原因でした。
酵母の発酵のしくみがまだ解明されていなかった時代だったんです。

失敗作から生まれてきたシャンパン

失敗作から生まれてきたシャンパン

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白ワインの研究をかさねたドン・ペリニヨン

また、ご存じの通りフランスには他にもワインの名産地がありますので、赤ワインはさまざまな場所でつくられていました。
地域柄、皮の黒いブドウがよくとれるので、それを皮ごとぎゅっとしぼって赤く染まった果汁でつくる赤ワインが主流だったんですね。
特にフランス中部のブルゴーニュ地方で作られる赤ワインは品質がよく、シャンパーニュはなかなかそこを超えられませんでした。
そこでドン・ペリニヨンはライバルのブルゴーニュとの差別化をはかるため、白ワインを作ってみようと思い立つわけです。

ドン・ペリニヨンは赤ワインをつくるために使っていた黒ブドウを、ぎゅっとしぼるのではなく、やさしくしぼることで、ワイン用の果汁が赤くならないことに気付きました。
果汁の採取のために最新の搾り機もたくさん導入して果汁の採取のために最新の搾り機もたくさん導入していたんですよ。

ドン・ペリニヨンの最初の考えでは、泡の立たない白ワインを作ってブルゴーニュの赤ワインよりも宮廷で好まれるようにしよう、という思いだったようです。
なんとか泡が立たないワインを作ろうと努力をしましたが、どうしても時々は泡が入ったワインができてしまい、ひたすらに研究の努力を重ねました。

シャンパンができるのは丈夫なガラスビンのおかげ

しかし実際にイギリスやフランスの宮廷で飲まれるようになると、シャンパーニュのワインはコルクがポンと飛び出す、グラスにそそげば泡が立っておもしろいということで、貴族たちに大好評。
ドン・ペリニヨンの思惑とは反対となりましたが、それ以降は逆にどうやって泡の品質を安定させるかの研究を重ねることになったのです。

ドン・ペリニヨンが亡くなったあとも、貴族たちの華やかな生活に欠かせない飲物としてシャンパンの需要は高まりました。

長く木樽に入れておくと空気に触れるため、早めにガラスビンにうつしかえて空気に触れさせず、ビンの中で熟成させる製法なのですが、しかし、炭酸ガスの入ったワインをビン詰めにしておくのは破裂の危険と隣り合わせでした。
いつ破裂するかもわからない発泡ワインのビンを貯蔵しておく倉庫に入るのには、鉄兜をかぶってからでないといけなかったとか、場合によっては倉庫にあるほとんどが破裂してしまったとかで、生産はとても大変だったのです。

研究開発が進み、より頑丈なガラスビンを使用できるようになったことで、安定した出荷につながりました。

シャンパーニュの成立は中世の時代

シャンパーニュの成立は中世の時代

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牧歌的な風景をうかがわせるシャンパーニュの命名

シャンパーニュという名前は、古いフランス語で「田舎」という意味のCampagneという単語から由来しています。
パン屋さんに行くとひとかかえもあるような大きさの、×印の切れ目が入った丸いパンが「パン・ド・カンパーニュ」という名前で売られていることがありますが、このパンの名前は「田舎風のパン」という意味で、シャンパーニュの語源と同じところからつけられた名前のパンなんですね。

シャンパーニュ地方の正式な成立は、まだフランスが王国だった中世のころ、1065年に貴族のブロワ伯ティボー3世がこの地方をおさめるシャンパーニュ伯となったときだといわれています。
このブロワ家はもともとナバラ王国という、現在のスペイン北部ナバラ州のあたりに存在した国の王家であり、一族からはシャンパーニュ伯だけではなく、後に4代続くフランス王家ブロワ朝を輩出したり、ほかにもイングランド王や、エルサレム王を兼任したアンリ2世なども出ている大貴族なんですよ。

ナバラ王国は西暦824年から1640年まで、800年以上も続いた歴史のある王国でした。

イタリア王の血を引いたシャンパーニュの領主

シャンパーニュ地方が正式に成立する以前にも、8世紀のイタリア王であったカロリング家のピピンの孫、ピピン1世からはじまったヴェルマンドワ家がもともと伯爵としてこの地をおさめていました。
シャンパーニュ地方が成立したのは、このヴェルマンドワ家の土地と近隣のブルゴーニュ公家の土地が統合されてひとつになったものをおさめるようになり、ブロワ家に代替わりしてしばらく経ってから正式にシャンパーニュという地名で認められた、ということのようです。

なぜ代替わりしたかといえば、中世の貴族たちの歴史を見ていくとこういったことはわりあいよくあるのですが、ブロワ家はヴェルマンドワ家から枝分かれした親戚関係であり、ヴェルマンドワ家の男性の相続人が絶えてしまったので、ブロワ家の男性が伯爵の位を相続することになった、というわけ。
ヨーロッパにおける爵位というのは土地をおさめる代官の位であり、爵位を持つ男性が亡くなって次に男の世継ぎがいなくても、場合によってはその家系の女性が相続するというケースもあるんですが、基本的には男性の相続人が優先されることが多かったんですね。

ヴェルマンドワ家からブロワ家へ

ヴェルマンドワ家からブロワ家へ

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伯爵の位を掛け持ちしたブロワ伯

1022年にシャンパーニュを治める貴族がヴェルマンドワ家からブロワ家の家系となり、ブロワ家の血を引くシャンパーニュ伯家は10代以上にわたって続きます。

1065年にブロワ伯ティボー3世が正式にシャンパーニュ伯と認められたわけですが、このブロワ伯「ティボー3世」はシャンパーニュ伯としては「ティボー1世」という扱いになりますよ。
このティボーさんの前に、「ティボー」という名前の人が2人、フランス中央部のブロワの土地を持つ伯爵となったことがあったので、ブロワ家の3人目のティボー、ということで「3世」。
でも、シャンパーニュ伯としては「ティボー」のいう名前の人は初めて伯爵になったので「1世」。
この後もまたティボーという名前の別人が出てきてしまうので、区別をするために初代には1世をつけますよ。

同じティボーさんがブロワ伯爵とシャンパーニュ伯爵の位を両方持っているので、一人なのに3世とか1世とかの呼び方がかぶってしまうんです。
とってもややこしいですね!

この記事ではシャンパーニュの話題をメインにしているので、基本的にはシャンパーニュ伯としての代で話をすすめます。

シャンパーニュ伯ティボー2世の闘争

1090年代に生まれたシャンパーニュ伯ティボー2世(ブロワ伯ティボー4世)は、上で長々と説明したティボー1世の孫で、ブロワ伯であった父の戦死によってブロワ伯位をうけつぎ、またシャンパーニュ伯であった伯父の戦死によってシャンパーニュ伯を受け継ぎます。

そのころのフランス国王は肥満王と呼ばれるルイ6世であり、ティボー2世とはかなり折り合いが悪く、同じ国内の王と貴族同士でありながら紛争状態が続きました。
王と争うようになってもかんたんにつぶされないほどに、ブロワの地とシャンパーニュの地をおさめるティボー2世の力は強かったということがうかがえますね。

1113年には叔父のイングランド王ヘンリー1世と結託して、ルイ6世をはじめとしたフランス王の家系・カペー家と、後にイングランドを中心に一大帝国を築くアンジュー家と戦うことになります。
この戦争でノルマンディーの地にティボー2世がとらえられたとき、弟のエティエンヌが助けに来たのですが、のちにヘンリー1世が亡くなったときにはこのエティエンヌがイングランド王スティーブンとして即位しました。

シャンパーニュ伯ティボー4世の生い立ち

シャンパーニュ伯ティボー4世の生い立ち

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伯爵の位と引き換えにいとこの借金を肩代わり

1201年に生まれたシャンパーニュ伯ティボー4世は、生まれたときからシャンパーニュの伯爵の位を持つことになりました。
父親であるシャンパーニュ伯ティボー3世が、息子の生まれる数日前に亡くなったからです。
ティボー4世が大人になるまでは、母親のブランシュ・ド・ナヴァールが代わりにシャンパーニュを統治しました。

ティボー4世が赤ちゃんのときからシャンパーニュ伯の地位を継いだため、成人するまでは先先代のシャンパーニュ伯である伯父アンリ2世の娘、つまりいとこ関係にある女性フィリパとその夫によって、シャンパーニュ伯の地位を争う騒動が続いたそうです。
アンリ2世の子供は女の子だけで息子がいなかったので、亡くなったときには弟のティボー3世が伯位を受け継ぎ、そしてその息子のティボー4世が次の伯爵に……という流れですが、女性のフィリパは自分がシャンパーニュ伯になれなくても夫を立ててシャンパーニュの利権を握ろうとしたわけですね。

最終的にフィリパと夫の抱えていた借金を肩代わりするという形でシャンパーニュ伯の地位はティボー4世におさまったのですが、その後フィリパの姉であるキプロス王妃アリスの借金も肩代わりする羽目になります。
キプロス王国は、地中海東部に浮かぶキプロス島にあった国で、今はキプロス共和国になっていますね。

借金苦から一転、ナバラ国王へ

ふたりのいとこの借金を肩代わりしたシャンパーニュ伯ティボー4世でしたが、実は伯父アンリ2世や父ティボー3世の時代に行われた、十字軍と呼ばれる東方への遠征軍プロジェクトに莫大なお金を投入していたので、そのときの借金もまだたくさん残っていて、シャンパーニュは金銭的にきつい状況でした。

1234年になると、ティボー4世の母ブランシュ・ド・ナヴァールの兄であるナバラ国王・サンチョ7世が亡くなり、他に男の世継ぎがいなくて王家断絶ということになってしまいました。
そこで母方にナバラ王家の血を引くティボー4世が立てられて、シャンパーニュ伯であると同時にナバラ国王テオバルド1世となったんですよ。
テオバルドというのはティボーという名前のスペイン語読みですね。
莫大な借金をかかえて苦しんだシャンパーニュ伯家でしたが、このようにナバラ国王となったことでナバラ王国の収益を手に入れることができたため、この相続の後はとても財政が豊かになったそうです。

しかしナバラ王国の王位を受け継ぎながらも、シャンパーニュ伯の家系はフランスの中でも決して小さな貴族ではなく、むしろ名門として知られる家系だったため、シャンパーニュ伯はナバラ王国のことよりもシャンパーニュやフランス国内のことに関心を払う領主となりました。
このことからナバラ王国の国力は徐々におとろえていくことになります。

ロマンスに生きたティボー4世

ロマンスに生きたティボー4世

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詩人王と呼ばれたティボー4世

ところでこのティボー4世、シャンパーニュ伯とナバラ王であったということのほかに、才能ある吟遊詩人としても知られていて、現在でも作品が60作ほども残っています。
吟遊詩人というと各地を放浪の旅して酒場や道端で歌を歌って、というイメージがありますが、ティボー4世は吟遊詩人の中でもトルバドゥールという分類で、宮廷で貴族相手に、主に恋愛や騎士道についてつづった作品を披露する詩人でした。
現代でいうところのシンガーソングライターといったところでしょうか。
トルバドゥールは自らの身分も貴族や騎士であることが多かったといいます。

ティボー4世は1223年から1226年の間に在位したフランス王ルイ8世の妃、ブランシュ・ド・カスティーユと恋愛関係にあった(つまり、不倫関係)と考えられていて、吟遊詩人として書いた情熱的な恋愛の詩の多くは王妃ブランシュにあてたものだといわれているんですよ。
後に王妃ブランシュはルイ8世との間に生まれた息子・ルイ9世がフランス王となったとき、まだ12歳だった息子にかわり摂政として国政をとりおこないました。

ティボー4世が持ち帰ったブドウ、シャルドネ

ブランシュは女性ながら政治的手腕を持ち合わせていたらしく、息子の成人後も影響力を持っていたのですが、そのブランシュと親密であるということでティボー4世は反ブランシュ派の貴族たちと対立することも少なくなかったようです。

ティボー4世がブランシュ・ド・カスティーユにあてたと思われる数々の恋愛ソングですが、現在残っている作品の中でもメロディーが残っているものは、実際に楽器で演奏されたりCDに収録されたりという形で楽しめるものもあります。

また、ティボー4世は父や伯父がおこなった十字軍の計画に自らもやはり参加して、キプロス島から白ブドウの品種・シャルドネ種の木をフランスに持ち帰ったということでも有名ですよ。
彼が参加した第6回十字軍はエルサレムとの交渉の結果、ほぼ戦闘行為をすることはなく、イスラエルの西岸の海に面したアシュケロンの地に築城をしたといいます。
シャルドネ種のブドウは白ワインの原料になり、シャンパーニュで作られるシャンパンや、他の地方で作られるシャンパン風の発泡ワインにもたくさん使われていますよ。

アーサー王物語をまとめあげた作家クレティアン・ド・トロワ

アーサー王物語をまとめあげた作家クレティアン・ド・トロワ

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フランス王女に寵愛された詩人

12世紀後半になると、クレティアン・ド・トロワというトルヴェール(吟遊詩人)が活躍し、人気を博すようになります。
トルヴェールはトルバドゥールが変化して派生した形態の吟遊詩人です。
どちらも詩を音楽に合わせて歌うのですが、トルバドゥールは南フランスで使われていたオック語という言葉で書かれた詩を歌ったのに対して、トルヴェールの活動は北フランスを中心に広がり、今のフランス語のベースとなったオイル語という言葉を使って詩を書き歌いました。

クレティアン・ド・トロワはティボー2世の息子であるシャンパーニュ伯・アンリ1世と結婚したマリーというプリンセスの庇護をうけて、フランスの宮廷に上がりました。
マリーはフランス王ルイ7世とその妻アリエノール・ダキテーヌの娘であり、れっきとしたフランス王女だったのです。

母アリエノール・ダキテーヌの生まれた南フランスのアキテーヌ大公国はトルバドゥールをはじめとした音楽や文学が盛んでした。
さまざまな吟遊詩人のパトロンとなって文芸作品を世に生み出す手助けをし、詩人たちや騎士たちを城にまねいて宮廷の華やかなサロン文化を広げた女性であり、娘のマリーもその影響を多分に受けて育ちました。

ミステリアスな作家、クレティアン・ド・トロワ

アリエノールの娘であるマリー自身も、クレティアン・ド・トロワをはじめとしたトルヴェールたちのパトロンになるだけではなく、みずからも詩や短編を書き、文学に深く通じていました。

クレティアン・ド・トロワはイギリスの騎士道伝説、アーサー王の伝説を題材にした作品を製作したことが一番の大きな功績として評価されています。
それまでもアーサー王伝説というものは語られてきましたが、クレティアンはその内容を洗練させてフランスの人々好みに仕上げ、その作品が大変な人気になり爆発的に人々に知られるようになったことで、アーサー王伝説の発展に貢献しました。
特に、さまざまな物語が存在するアーサー王伝説の中でも有名なロマンス、「王妃グィネヴィアと騎士ランスロットの禁断の恋」についての内容を初めて書いた作家として、アーサー王伝説を語るときにはクレティアン・ド・トロワの存在は避けて通れません。

クレティアン・ド・トロワは、残した作品以外には、どういった人物だったかほとんど記録にないミステリアスな作家で、この名前もペンネームだと言われています。
しかしシャンパーニュの地名・トロワを名乗っていたことからもシャンパーニュと深い関係があったと考えられています。

好立地から発展したシャンパーニュの大市

好立地から発展したシャンパーニュの大市

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3つの川にかこまれたシャンパーニュ

シャンパーニュの土地は、フランス北東部の山間から北に流れベルギー、そしてオランダへと流れて北海に出る「マース川」、マース側よりも東の山中から湧き出て北に向かい、ルクセンブルクを通ってドイツに入り、ドイツの歴史にも欠かせないライン川にそそぐ「モーゼル川」、そしてフランス北部を横切るように北西に向かい、パリを通ってイギリス海峡につながるセーヌ湾に流れ出る「セーヌ川」、この三つの川にかこまれた交通の要所でした。

自動車などがない時代、荷物や人を乗せて遠くとの行き来をするのは船がもっとも便利な手段でしたから、遠くまで流れる川が集まっていれば中継地点として自然に人や積み荷が集まり、繁栄していく土地になるわけです。
もちろん馬車や荷車で運ぶことはできますが、より遠くまで商品を運べば自分の土地にはない珍しいものが売り買いできますからね。
シャンパーニュの土地に流れるこの三つの大きな川がもたらす便利な交通網のおかげで、5世紀頃にはすでにシャンパーニュに市場が立っていたという記録があり、12世紀から13世紀頃にはシャンパーニュの大市と呼ばれる大規模な市場が成立していました。

シャンパーニュの住所・アクセスや営業時間など

名称 シャンパーニュ
名称(英語) Champagne
住所 Champagne, France
営業時間・開場時間 24時間
利用料金や入場料 無料
参考サイト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A5
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

ブドウ市場から一大国際市場への発展

シャンパーニュの大市の起源は、ブドウが作られない地域の商人がワインを手に入れて地元に持ち帰るために開かれた、季節限定の市場だと考えられています。

そんなふうに人の集まる小さなワイン市場に、ついでに毛皮や毛織物などの品物を持ち込む商人があらわれました。
するとワインではなく毛皮や毛織物を目当てにおとずれる南方のイタリア商人が増え、買い手としておとずれたイタリア商人が今度は東方からの輸入品を持ち込み、それではさらに東方の品物を目当てに来る遠くの商人が……といった具合に、最初はブドウだけをあつかう小さな市場だったのがどんどんと商品の種類もおとずれる人も増え、大きな市場になっていったのです。

そして11世紀から12世紀頃にかけて、この市場の盛況ぶりを見た当時のシャンパーニュ伯が、自分の治めている土地で行われるこの市場をもっと盛り上げて経済を活性化させれば自分たちの利益になると考えて保護しました。
シャンパーニュのさまざまな場所でバラバラに開かれていた季節市を、年間通してどの季節でも市場があるようにしようと各地の開催スケジュールを調整して、大市と呼ばれるような大規模な取引場となったのです。

国際色豊かににぎわったシャンパーニュの経済

国際色豊かににぎわったシャンパーニュの経済

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交通の便がいい! 流通の中心に

ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸の間に存在する地中海を中心にして盛んになった商業取引のエリア「地中海商業圏」と、ヨーロッパ大陸とスカンジナビア半島(いわゆる北欧とよばれるエリアですね!)に囲まれたバルト海沿岸におこった都市同盟「ハンザ同盟」をはじめとする北ヨーロッパの商業エリア……このふたつの商業エリアが取引をする場所として、シャンパーニュは大変に活用されました。
中間地点にある市場なので、ちょうど都合がよかったのですね。

地中海商業圏のイタリア商人たちはトルコを通してアジアから運ばれてきたさまざまな品物、スパイスや染料、医薬品や宝石・シルクの織物などの高級品を商品としてシャンパーニュに持ち込み、ハンザ同盟のドイツ商人たちは北欧、イングランド(イギリス)、ロシアから買い付けた羊毛・毛皮などの繊維、小麦・魚・ハチミツなどの食料品や、木材・金属など、生活必需品と工業素材を運び入れ、それらを取引しあったわけです。

シャンパーニュの地域は内陸ではありますが、すぐれた交通の便によって国際色ゆたかな品物が数々取り揃えられた大市場となりました。

シャンパーニュ伯からフランス国王へ

1305年になるとシャンパーニュ伯ティボー4世のひ孫、ルイがシャンパーニュ伯の位を受け継ぐのですが、このルイはティボー4世の孫・ジャンヌ1世とフランス王フィリップ4世との間に生まれたフランス王子だったので、1314年にルイ10世としてフランス王に即位することになります。

フランス王であると同時にシャンパーニュ伯でもありますから、つまりシャンパーニュはそれまで貴族のブロワ家が管理していた場所だったのが、ブロワ家のルイ10世が即位したことによって国王の土地になったということです。
その後シャンパーニュ伯の名前は土地の代官が受け継ぐことになりますが、シャンパーニュの地域に対する権利は王位と一緒にフランス王のものとして受け継がれていくことになりました。

ちなみにこのルイ10世は現在のテニスの原型となったジュ・ド・ポームというスポーツが好きで、世界で初めて屋内テニスコートの建設を命令したそうです。
1316年になんとジュ・ド・ポームを楽しんだあとに飲んだワインのせいで病気になり、26歳の若さにして亡くなったとのことで、2年足らずの短い王位でした。

シャンパーニュの大市の衰退

シャンパーニュの大市の衰退

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シャンパーニュと十字軍の関係

国王の領地となったシャンパーニュでしたが、国家自体の財政状況が悪くなってきたことで、税金の値上げがはかられて市場の負担が大きくなります。
この財政の悪化というのは13世紀に行われた第6回・第7回の十字軍運動、特に失敗に終わった第7回十字軍の影響が大きいのですね。
簡単に言ってしまえば遠くに行くにはお金がかかる、ということです。

当時のキリスト教圏から見ると、キリスト教の聖地であるエルサレム(今のイスラエル中部に位置する都市)をそこに住んでいるイスラム教徒から奪還する、という理由で9度にわたって東方に送り込んだ軍勢が十字軍なのですが、エルサレムに住んでいた人々からすれば逆に侵略なわけですし、たくさんの略奪や非道な行為も必要以上に行われたそうで、この十字軍遠征で起こった問題が現代でもまだうまく解決されずに、デリケートでむずかしいわだかまりとなって残っているんですね……。

純粋に聖地巡礼を目的として旅に参加していた一般人が争いに巻き込まれることや、自分の国で罪を犯したので罰せられないために従軍する者がいること、自分たちの利益優先で同じキリスト教徒のことまで殺したり土地を奪う者もいたことなど、とてもたくさんの問題があったので、十字軍の運動は1272年の第9回を最後に行われなくなりました。

状況の変化にとりのこされてしまった大市

さて、交易の中心地として栄えてきたシャンパーニュでしたが、大市は大規模でほぼ常設開催となっていたとはいえ、同じ場所では一年1~2回、仮設で開かれていた市場ですから、流通がさかんになってくると常設の店舗や毎週開かれる市場の需要が高くなります。
いつも同じところでお店が開いていて、すぐ物を買い付けられる方がよいということですね。
さらに、今までは川の流れを利用して行き来していたのが、13世紀後半になると航海技術の発展によって、ヨーロッパの南側の地中海から、イギリスとの間を通ってドイツやベルギー、デンマークのほうまでぐるりと回る海側の流通経路が確立されます。
イタリア側から積み荷を運ぶのは途中どうしても陸路をはさむことになりますし、国際的な貿易は船を使って港町から港町まで直接運んでいくほうが速くて便利な世の中になったのですね。
税金に圧迫されたことも相まってシャンパーニュの大市は国際的な商品の取引場としては使われないようになっていきました。

国際市場の産業が衰退した後は、古くから行われていた農業とそこから取れる食品の加工が主な産業となり、現在でも盛んにおこなわれているワインやシャンパンの製造につながっていきます。

シャンパーニュの牧歌的な風景に隠れた歴史を感じてみましょう

古くから続くシャンパーニュの歴史についてお話してきましたが、いかがだったでしょうか?ドン・ペリニヨンをはじめとした、おいしいワインやシャンパンにかかわる歴史的な出来事もありましたし、優雅なフランス宮廷や貴族たちの文化、トルバドゥールやそのパトロンたちが発展させてきた芸術文化の歴史もあって今のシャンパーニュにつながっているのですね。
牧歌的な景色の中にフランスの歴史を感じるシャンパーニュにおとずれてみるのも楽しいかもしれませんよ。
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