ロシアがもっとわかる「モスクワ」の歴史。成り立ちから観光都市になるまで

北国ロシアの首都、モスクワ。
世界遺産に認定されているクレムリン宮殿や赤の広場をはじめ、たくさんの歴史あるスポットや観光名所が存在している大都市です。街並みを歩けばロシア風の建築が見られ、お店には英語とは違うキリル文字が書かれた看板や商品が並び、独特の雰囲気を強く感じとることができますよ。モスクワは昔からロシアの心臓部ともいえる重要な街です。今回は、そんなモスクワの歴史について紹介していきましょう。

モスクワの起源は石器時代から

モスクワの起源は石器時代から

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モスクワの住所・アクセスや営業時間など

名称 モスクワ
名称(英語) Moscow
住所 Moscow, Russia
営業時間・開場時間 24時間
利用料金や入場料 無料
参考サイト https://www.mos.ru/en/
最新情報は必ずリンク先をご確認ください。

モスクワのスポットページ

モスクワの開祖、ユーリー・ドルゴルーキー公

モスクワの近辺では旧石器時代のものと考えられる物品が発掘されていて、少なくともその時代には既に人が住んでいたと考えられています。
文献上ではモスクワについて書かれた一番古い記録は1147年であり、それまではまだ小さく無名の町だったようです。
その年に、現在のロシア西部一帯に存在した国・キエフ公国(ルーシ)の一部で、モスクワをふくむ地域、「ウラジーミル・スズダリ」の地をおさめていたユーリー・ドルゴルーキー公がモスクワで会談をした、という記録がのこっています。
このことから、モスクワではユーリー・ドルゴルーキーを都市の開祖としていて、市の紋章もユーリー公にちなむ図柄に定めているんですよ。

ユーリー公は1156年になるとモスクワ市の周囲に木製の壁と堀を建造させて、都市の守りを強くしました。

このユーリー・ドルゴルーキーという人物は、キエフ公国の支配者だったウラジーミル2世モノマフの息子で、ウラジーミル・スズダリの土地も父親から与えられたものでした。
しかし野心家だったため、何度も首都キエフに攻め入ってキエフ公国の主権を握ろうとしたといいます。

モンゴル・キプチャク=ハン国の脅威

1132年にユーリー公の兄でありキエフ大公のムスチスラフ1世が亡くなると、広い範囲をおさめていたキエフ公国はいくつかの国に分裂してしまいます。

そんなバラバラになってしまった状況を狙って、モンゴル帝国を構成する一国のキプチャク=ハン国が1237年からキエフ公国を侵略しはじめ、抵抗をした都市は全て破壊しつくし、一帯はモンゴル勢力の支配下におかれることになります。
モンゴル民族は遊牧民であったことから、得意の騎乗技術を利用した騎馬部隊や狩りに使うことから発達した弓矢の技術などを持ち、とても強力な軍事力を持っていたんですね。
モンゴルの支配は、このあと約240年ほど続くことになりました。

ただ、抵抗した都市は破壊されつくしましたが、おとなしく従えば比較的破壊をまぬがれることもできたらしく、土地の支配者たちが自分から進んで支配下に入ったケースも多かったようです。

モスクワも、すすんでモンゴルのもとに入った支配者がおさめることになりました。
この支配者の血統はユーリー・ドルゴルーキーの血筋の者で、その後11代にもわたって続く支配者の血筋ともなります。

モスクワ大公国の成立とモンゴルからの解放

モスクワ大公国の成立とモンゴルからの解放

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揶揄されたイヴァン・カリター

さて、モンゴル勢力であるキプチャク=ハン国の支配下におかれたモスクワですが、長い間おとなしく従って統治されながら領土を拡大していきました。
キプチャク=ハン国の支配下にありながらも自治を続けたことで、最終的には国として成立することになります。
これが、モスクワ大公ダニール・アレクサンドロヴィチを初代大公とする「モスクワ大公国」です。

1325年から1340年にわたって在位したイヴァン1世はキプチャク=ハン国に忠誠の誓いを立てて従ったことで裕福になり、その財産を使って領土を広げモスクワを豊かにしたと言われています。
1327年にキプチャク=ハン国の支配者ウズベク・ハンが徴税を目的に、自分の息子チョルを支配下の国の一つであるトヴェリ公国に送り込んだところ、圧制に耐えかねた人々の暴動が起こり、チョルが殺害されるという事件が起きます。
トヴェリ公国がモスクワ公国と敵対関係にあったこともあり、イヴァン1世はトヴェリに攻め込んで打ち勝ちました。
このことを評価し、ウズベク・ハンはイヴァン1世に大公の位を与えたといいます。

しかし彼はキプチャク=ハン国の手先といった意味合いで、「イヴァン・カリター(財布のイヴァン)」という批判的なあだなで呼ばれました。

イヴァン3世によるキプチャク=ハン支配からの解放

大公ドミトリー・ドンスコイの時代になると、ウラディーミル大公の座をかけてやはりモスクワ大公国と争っていたトヴェリ公国が、今度は逆にキプチャク=ハン国を味方につけ攻め入ってきましたが、ドミトリー公率いる勢力はその戦いに打ち勝ちます。
初めてロシア側の勢力がキプチャク=ハン国の勢力を破ったことで、モンゴルからの開放に対してのもりあがりを見せるようになり、この後たびたびキプチャク=ハン国との戦いが起こりました。

1480年になるとついに、モスクワ大公イヴァン3世がキプチャク=ハン国からの納税の請求を拒否します。
そこでキプチャク=ハン側はモスクワへ攻め入ろうと遠征をしてきますが、イヴァン3世が集めた兵力の多さを遠くから確認して勝ち目がないと判断し、戦わずに退却します。

このことをきっかけにルーシの地はモンゴル勢力の支配から脱することになるのでした。

また、イヴァン3世の時代には、城塞にかこまれたモスクワの宮殿群・クレムリンにイタリアのルネサンス風建築の宮殿を建てるなど、最先端であったイタリアの文化がモスクワに持ち込まれました。
これはイヴァン3世の2人目の妻ゾイがローマ育ちだったからだといわれています。

雷帝・イヴァン4世時代の激動の統治

雷帝・イヴァン4世時代の激動の統治

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邪悪と予言されたイヴァン4世

イヴァン3世が没すると、大公の位はその次男のヴァシーリー3世が継ぎ、その後に雷帝と称されるイヴァン4世がツァーリ、皇帝としてモスクワ国家をおさめるようになります。
イヴァン4世は圧倒的な権力を持った皇帝だったといえますが、それは皇帝が第一であるという極端な専制政治、国内の政治に粛清、拷問による恐怖支配を取り入れていたことによるものでした。

イヴァン4世は1530年にモスクワのクレムリン内のテレムノイ宮殿で生まれました。
父親ヴァシーリー3世は子供ができないことを理由に、教会の教えにそむいて一人目の妻と無理矢理離婚し、二人目の妻との間にイヴァン4世をもうけたので、彼は生まれたときに「邪悪に育つだろう」という予言をされたといわれています。
父親ヴァシーリー3世が敗血症で亡くなったことで、イヴァン4世は3歳にして国家の長・大公として即位することになりました。
即位したといっても、あたりまえですが3歳の子供が国の政治をおこなえるはずもないので、母后であるエレナが摂政となり、それを支援する派閥と協力をした政治体制です。

少年時代のイヴァン4世はどうだったのか

しかしイヴァン4世が8歳のときに母親エレナが亡くなると、敵対する勢力が政権を握るようになり、幼いイヴァン4世は放置されて育つことになります。
エレナは息子が8歳のときに亡くなったということからもわかるとおり、かなり若くして亡くなったそうで、一説には毒殺だったという説もあります。
権力争いの激しいロシア宮廷ではそのようなことが起こってもおかしくない、という見方ですね。
そんなふうにして複雑な環境で育ったせいか、イヴァン4世は思春期にもなると鳥や犬などの小動物を虐待して遊ぶなどの行動を見せるようになります。
また13歳のときには大公としての権限で貴族を1人処刑したという記録もあります。

そんな残酷な顔を見せる反面、よいツァーリとなるための勉強を熱心にし、教会の主教に学んで信仰心は篤かったといいます。

17歳になるとツァーリとして戴冠し、名実ともに国家の長として自らロシアの地をおさめるようになります。
また、この頃に伝統に従って花嫁コンテストを行い、集められた女性たちの中からアナスタシア・ロマノヴナという女性を妻として選び、戴冠式1か月後の1547年2月3日に結婚式を挙げました。

妻を失ったイヴァン4世の暴走

妻を失ったイヴァン4世の暴走

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妻・アナスタシアを深く愛したイヴァン4世

イヴァン4世は気性が荒く感情的な性格ではありましたが、彼は妻のことを深く愛していたため、そのときのイヴァン4世による国の統治はうまくいっていました。
妻となったアナスタシアはとても美しくかしこく、そしてやさしい女性だったそうで、彼女が夫のそのような激しい性格をうまくなだめていたのです。
それまで政治に参加できなかった小貴族や聖職者などの層も国政の会議に参加できるようにしたり、法律をととのえて地方自治制度を制定したりと、精力的に改革を行いました。

しかしアナスタシアが1560年に若くして亡くなると、イヴァン4世は妻の死は毒殺だと考えたり、またその頃行っていたリトアニアとのリヴォニア戦争の戦局が思うようにいかない焦りを感じたりして、自分を陥れようとしている者がいるのではないかと疑心暗鬼におちいっていきます。
アナスタシアの歯止めがなくなったこの頃から、イヴァン4世の治世は暴走の一途をたどりました。

リヴォニア戦争の戦況がうまくいっていないことが原因で支持を下げてしまい、貴族や聖職者たちと対立するようになります。
それに腹を立てたイヴァン4世は1564年12月、家族を連れ突然モスクワを出て、勝手に退位宣言をしてしまいました。

イヴァン4世の暴力的な政治体制

この対立は、結局は民衆の支持を得たイヴァン4世に対して貴族や聖職者たちが謝罪し、そのことで皇帝の権力は絶大なものとなります。
誰も逆らえない絶対的な力を手に入れたイヴァン4世は目についた有力な貴族を処刑し、国の中で経済的に重要な都市などを皇帝個人の領地として召し上げて、貴族の弱体化と自らの力を高めることを同時に行いました。

ロシアの北西に位置するノヴゴロド市がリトアニアに寝返るくわだてをしていると思い込み、ノヴゴロドに攻め入って5週間にもわたる大量虐殺を行ったことも有名です。
ノヴゴロド市内での虐殺以外に、モスクワに「反逆者」を連れ帰ってその処刑を広場で大規模におこない、市民に見せつけました。
虐殺を好んだあげく、かっとなって後継者でもある自分の息子と妊娠中のその妻を殴り殺してしまったという逸話もあります。

気に食わない者をどんどんと処刑し、国内でこのような暴虐を続けた結果、国の力はおとろえ荒れ果ててしてしまったのです。
イヴァン4世の後はもう一人の息子フョードル1世が皇帝となりますが、息子がいなかったので1598年にこの血統はとだえてしまいました。

統治者がいない!? 混乱の時代

統治者がいない!? 混乱の時代

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とだえてしまった皇帝の血筋

ユーリー・ドルゴルーキーの子孫の血筋でありフョードル1世を最後の皇帝とする王朝は、もともとはリューリクという人物を祖先とした「リューリク朝」と呼ばれます。
この時代は南米ペルーのワイナプチナ火山の大噴火によって世界中に異常気象が起こっており、ロシアでも壊滅的な飢饉が発生して、強盗や疫病が猛威をふるっていたので、権威のある指導者が求められていたわけです。
しかしリューリク朝直系の後継者がいなくなったことで、王家の血を引かない者がツァーリとなったり、継承権を持つ者であると嘘をついたりする者が現れたりと、大混乱をひきおこしました。

フョードル1世の死後、その摂政だったボリス・ゴドゥノフが会議によってツァーリに選ばれ、病死するとその幼い息子フョードル2世がツァーリとなります。
しかしイヴァン4世の息子と偽って支持を得た偽ドミトリー1世の勢力が勝ち、フョードル2世を処刑した後に偽ドミトリー1世が即位。
偽ドミトリー1世も即位の後すぐに民衆の反発をまねいて、今度はリューリク朝の直系ではないものの最も近い血縁関係にあるヴァシーリー4世がツァーリを継ぐことになりました。

リューリク朝からロマノフ朝への変化

ヴァシーリー4世もまた1610年のクーデターによって退位させられてしまい、1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに選出されるまで皇位の空白期間が続きます。
皇帝がいないロシアをここぞとばかりに周りの国々が狙いました。
動乱の時代を迎えてポーランド軍がモスクワを占拠し、ポーランド王がロシアの皇帝になろうとしますが、肉屋のミーニンとポジャールスキー公が指揮する国民義勇軍により、1612年にポーランドからモスクワのクレムリン宮殿を奪還することに成功します。

ここでツァーリとなったミハイル・ロマノフは、イヴァン4世の最愛の妻だったアナスタシア・ロマノヴナの出身家・ロマノフ家の人間なのでリューリク朝と親戚であるということと、まだ16歳の少年だったため、敵国のポーランドやスウェーデンとつながって裏切っている過去がないこと、また若く気弱な性格だったために議会のいうことをよく聞くだろうと考えられたことが、選出の理由でした。
選ばれた当初、ミハイル自身は命を狙われる危険もある皇帝に即位することを嫌がったそうですが、即位してからは32年間ロシアを統治し、その後1917年まで300年ほども続く王家・ロマノフ朝の創始者となりました。

サンクト・ペテルブルク時代のモスクワ

サンクト・ペテルブルク時代のモスクワ

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サンクト・ペテルブルクへの遷都

1682年に皇帝に即位した、ミハイル・ロマノフの孫ピョートル1世は西側のヨーロッパ方面に勢力をひろげていきます。
1703年にフィンランド湾に面する土地に人工の都市サンクト・ペテルブルクを築かせる号令を出し、1712年にはモスクワからサンクト・ペテルブルクに首都をうつしました。
それまでのロシアには、ヨーロッパ方面に船を出せる港は冬になると凍り付いてしまう北極海側の港しかなかったので、それよりもあたたかい海に面したサンクト・ペテルブルクから船を出せるようになったことで、経済の発展や海軍の強化につながっていきます。

現在でもこのサンクト・ペテルブルクはモスクワに続いてロシアで2番目に大きな都市ですが、モスクワが自然発生的に建設され発展していった古い都市というのに対して、サンクト・ペテルブルクは西ヨーロッパの発展した文化を参考にして皇帝が新しく築かせた人工都市だった、というのが対照的な2大都市ですね。

しかし首都がサンクト・ペテルブルクにうつされても、昔から続いてきたモスクワが打ち捨てられるということはなく、副首都として栄えました。
皇帝の戴冠式はモスクワの宮殿で行われるのがしきたりとして続き、昔からの貴族はモスクワに住み続ける者も多かったそうです。

ナポレオンのロシア遠征

1812年になると、フランスの皇帝ナポレオン・ボナパルトが70万人を超える軍勢を率いてロシアに攻め入ってきました。
これはそのときヨーロッパ各国に大きな影響力を持っていたナポレオンが発令した「大陸封鎖令」、つまり敵対していたイギリスの経済を支配してイギリスを弱らせるという、経済的な制裁を目的とした命令を下したのがが原因となっています。

この命令はイギリスを弱らせる目的だったのですが、他のヨーロッパの国々にとっても、産業の発展が進んでいたイギリスと貿易ができないというのは大打撃だったので、ナポレオンとフランスは他の国々から反感を買ってしまいました。
命令を拒否する国や勝手にイギリスと貿易をする国が出てきてしまったのです。
ロシアも、大陸封鎖令を守るという条約をフランスと結んでいましたが、ロシアにとってイギリスに小麦を輸出する産業はかなり大事だったので、条約を破ってこっそりとイギリスとの取引をしていた、それがバレてしまった!というわけですね。
そしてナポレオン率いる軍がその制裁としてロシアに対する戦争をはじめたということです。

大きな犠牲をはらったモスクワ占領

大きな犠牲をはらったモスクワ占領

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1812年のモスクワ占領とモスクワ大火

フランスを出発したナポレオンの軍勢は北西に進み、最初のうちはフランスが有利かのように思われました。
攻め入られたロシア軍は後退していき、ついにモスクワをあけわたしてしまうことになりました。
1812年9月14日にナポレオン軍はモスクワを占領。
しかしその時点でモスクワの街に人影はほとんどなく、残っていたのはフランスの支持派と貧民のわずかな人々だけで、本来は30万人も住んでいるモスクワの人口がそのときは5,000人から10,000人程度でしかなかったといいます。

その日の夜、モスクワ市街では大火事が起こりました。
当時のモスクワの建物は木造の建築が多く非常によく燃え、4日間も燃え続けて街のほとんどが焼けてしまったのです。

ナポレオン軍はどんどんと攻め入ってはきたものの、慣れないロシアの土地での戦争で疲れ切っていて、兵の数もかなり減少している状況でした。
モスクワを占領すればそこにある食べ物や物資が手に入って体勢を立て直せると期待していたんですね。
しかしそれが全て燃えてなくなった……これはナポレオン軍がモスクワを占領することを予想したロシア側が自ら放火をした作戦だったそうです。
もちろん何百年も前からの歴史があるモスクワですから、歴史的な建造物や文化財などもあったわけですが、それもこの大火事によってたくさん失われました。

ぼろぼろになったナポレオン軍の退却

弱り切って仕方なくロシアに和平交渉を申し入れるも受け入れられなかったナポレオン軍は、10月19日にモスクワを出てフランスへと退却をはじめますが、その撤退のみちのりではロシア軍の追手のほか、疲れ切った兵たちを冬の季節の寒さや食料不足が襲い、軍の人数はみるみる減ってしまいました。
人や荷物を運ぶための馬に食べさせるエサもなく、馬は餓死するか食料にするために殺されたため、さらに帰るスピードは遅くなって不利となっていったのです。
ロシア軍もこの戦いで40万人を失いましたがフランス軍の被害はさらに多く、最初に集められた者で、帰ってきた人数は5000人程度だったといいます。

また、退却するときに馬を失ったわけですから、大砲などの軍事的な装備も現地に放棄してくるしかなく、そのことがこの後のフランス軍の弱体化にもつながって、やがて起こるナポレオンの失脚の遠い原因となりました。

ナポレオンの失態とは逆に、このときのツァーリ・アレクサンドル1世は強国フランスを打倒した強い君主として自信をつけますが、この頃にパリに遠征をしたことが原因でツァーリによる支配に疑問を持つ風潮が強まっていきました。

ふたたび首都の移転、サンクト・ペテルブルクからモスクワへ

ふたたび首都の移転、サンクト・ペテルブルクからモスクワへ

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ふたつの大都市、サンクト・ペテルブルクとモスクワ

1812年のナポレオンによる占領はありましたが、サンクト・ペテルブルクが首都だったロマノフ朝のロシア帝国時代には、モスクワでは特に国を動かすような大きな歴史的出来事は少なかったようです。
しかし1917年にロシア革命が起こり、皇家の者がツァーリとなって貴族や聖職者など特権階級の者たちが国の政治を行っているロマノフ朝の体制から、社会主義の理念をかかげるソビエトに政権がうつったことで、翌1918年にはペトログラードからモスクワに首都が戻されました。

「え?ペトログラードって?そのときの首都はサンクト・ペテルブルクだったよね?」と思いましたよね? 実はこの二つは同じ都市のことで、時期によって名前が違うんですね。
サンクト・ペテルブルグという名前はドイツ語からくるもので、つけられた頃は、ロシアの王侯貴族とドイツとの親交が深かったのでそういうネーミングになったんです。

しかし1914年に第一次世界大戦がはじまると、ロシアとドイツが敵対することになったのでドイツ風の名前はよくないだろうということになり、ロシア風のペトログラードという名前にしました。
違う名前ですが、どちらも「(都市ができた当時の皇帝と同じ聖人の名前をとって)聖ペテロの街」という同じ意味を持っているんですよ。

時代に合わせて移転した首都

帝政をうちこわしたソビエト時代には皇帝の名前はよくないということになり、ペトログラードの街はソビエトの指導者レーニンの名前をとってレニングラードという名前に変えられていました。
この記事を書いている現代では、ソビエトが崩壊して1991年にロシア連邦となったときにまた名前が変わってサンクト・ペテルブルクに戻されているのですが、同じ都市が100年足らずの間に3つの名前にうつりかわったわけで、政治情勢が激しく変化してきたことがうかがえますね。

逆にモスクワは支配者が変われども昔からの名前がそのままずっと使われており、そういった点でも対照的な二つの都市です。

首都の移転は当時起こっていた第一次世界大戦など、世界的に戦争が激しくなっていたので、バルト海に面していて領地の端であるペトログラードに首都機能があるのはあぶないから、もっと内側の場所にある副首都のモスクワに機能をうつそうという考えだったんですね。
他国と行き来がしやすくて経済的交流には役に立った立地も、激しい戦争では囲まれやすくなるデメリットがあったというわけです。

第二次世界大戦でのモスクワ

第二次世界大戦でのモスクワ

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ドイツとの戦争、モスクワの戦い

ソビエト連邦時代のモスクワでは、第二次世界大戦中の1941年に「モスクワの戦い」と呼ばれるドイツ軍との戦闘がありました。
当時独裁者アドルフ・ヒトラーの指揮下にあったドイツは、お互いに攻め込まないという約束の独ソ不可侵条約をやぶって、1941年6月22日にソ連に侵攻してきました。
このドイツとソ連との戦いのことは総合して「独ソ戦」と呼ばれていますよ。

奇襲によってドイツ軍の侵攻は有利にすすみ、バルト海に面するレニングラードを包囲、またソビエト連邦西部に位置するミンスク市(現在はベラルーシ共和国の首都)も占領して、ソ連軍を圧倒しました。
そのままどんどんとソビエト連邦の領土内に進撃して他の都市も占領していき、南側のルートをとって9月にはモスクワを攻めようと進んでいきます。

しかしドイツ軍が考えていたよりもモスクワを攻め落とすのは簡単なことではなく、激しいソ連軍の反抗にくわえて、秋の雨による地面のぬかるみに足をとられて進軍が遅くなり、そうこうしているうちに例年よりも早いロシアの冬の到来で苦境に立たされてしまいました。

ロシアの寒さに苦しむドイツ軍

ドイツ側は本当はもっと早くモスクワの制圧が終わると思っていたので、冬用の装備を整えていなかったんですね。
また予想していなかった長期戦となってしまったにもかかわらず、ロシアの土地が広すぎて本国からの後方支援や補給がまにあわずにドイツ軍は弱り切ってしまいました。
物資がないうえに、凍傷にかかる者が続出するなど兵士が弱ってしまったこと以外にも、あまりにも寒すぎて戦車や銃などの機械的な装備も使えなくなってしまい、最終的には侵攻することができなくなってしまったのです。

それに対してソ連の人々はもちろんそういう土地で暮らしているわけですから、寒さ対策はバッチリ、武器もちゃんと使えます。
さらに、ソ連側は東側の領土に日本が攻め込んでくるかどうかを心配して戦力を温存していた状況だったのが、スパイからの報告で日本には今のところそのつもりがない、との情報が入り、そこで安心してモスクワの防衛を強化したわけです。
またソ連側はドイツとの戦闘が起こって撤退するときにも、徹底して一般の家屋や田畑・森林なども全て焼き払う焦土作戦を行って、ドイツ軍が物資を現地調達できないようにしました。

第二次世界大戦からソビエトの崩壊まで

第二次世界大戦からソビエトの崩壊まで

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モスクワの戦いと似ているあの戦争

ドイツ軍はモスクワ郊外までせまり、戦闘部隊は市内のクレムリン城塞にある尖塔が見えるほど近いところまで進軍したのですが、ついにあきらめざるを得なくなり、両陣営ともに多大な犠牲を出しつつも、このモスクワの戦いはソ連側の勝利に終わりました。

ところで何か似たような話を聞いたような気がしますね? そう、ナポレオンのロシア遠征ですね。
1812年にナポレオンがロシアに攻め込む作戦を開始したのは6月24日のことで、偶然にも1941年の独ソ戦開始と2日違いなんです。
冬の寒さがロシア側に味方したという状況も似ていますし、ロシアの人々からすればナポレオンを撃退したことになぞらえて祖国を守る、という意識で戦った士気の高い戦争だったのだとか。

ドイツ側は最新の技術を投入した高い機動力を利用して奇襲をかけ、敵陣営の弱点をつくことで戦局を有利に進めていくという、一点突破で速攻なスタイルの作戦をとっていたのですが、技術では劣っていたソ連軍は自陣営がたくさんの犠牲を出してもとにかく粘り強く戦う、というスタイルで押し勝ったわけです。

冷戦とソビエトの崩壊

第二次世界大戦後、社会主義のソ連は資本主義であるアメリカと冷戦の時代に突入します。
武力で争っているわけではないけれども、国の政策の考え方が大きく違っていたことから対立をしてしまっていたんですね。
しかしソ連型の社会主義制度は年をかさねるごとに無理がでてきて、経済や政治面での破綻(はたん)を引き起こし、政府は経済的な数字をごまかして発表したりとメチャクチャな状況でした。

ソ連の社会主義政策は国民全員に平等に財産を分ける、という形だったので、国がもうかっているうちは一般の人々もたくさん利益を得てよかったのですが、不景気になってくるともらえる財産が少なくなるわけですから、生活が苦しくなって不満を抱えるようになってしまったのです。

そんな中で1980年にはモスクワオリンピックが開催されますが、ソ連がアフガニスタンでの紛争に軍事介入したことに対して国際社会で強く批判が起こり、抗議するために50ヵ国近くがこのオリンピックをボイコットしました。

1991年12月25日にソ連大統領ゴルバチョフが大統領職を辞任し、翌12月26日にソビエト連邦は崩壊。
同日にソビエト連邦よりも小さい規模のロシア連邦が成立し、今にいたっています。

今もにぎわっているモスクワに遊びにいってみませんか?

モスクワの起源から、都市にまつわるできごとについてお話してきましたが、いかがだったでしょうか?

ロシアの歴史とともに歩んできたモスクワの文化は、さまざまな事件に影響されて今の形になったわけですね。
たくさんの歴史的な事件が起こりながらもロシアを代表する都市として、現在もにぎわっているモスクワ。
歴史スポットだけではなくショッピングなども楽しめますし、一度遊びに行ってみてはどうでしょうか。

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