モスクワの宮殿「クレムリン」が世界遺産に至る経緯や成り立ち

ロシア連邦の首都モスクワの中心に建つ宮殿、クレムリンをご存じでしょうか。過去に王家や政府が置かれたこともあるロシアの中心地ですが、モスクワの地図を見るとこの宮殿を中心に放射状にたくさんの道路が走り、とりまくように何重かの環状線道路も走っています。なんだか日本の皇居(江戸城跡)を中心にした東京周辺の道路の形に少し似ているんですよ。他の場所や国でもこのような道路はみられますが、道路が集まる中心は都市にとって重要な場所なのは明らかですね。

クレムリンとは一体何?

クレムリンとは一体何?

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川沿いに建つモスクワのクレムリン

クレムリンは、モスクワ市内を流れる大きな川・モスクワ川のそばに、三角形のような形に築かれた城壁があり、その中に数々のきらびやかな宮殿や倉庫、官邸や、教会の建物が建てられている場所です。

12世紀に築かれはじめ、ロシアが王政だったころの名残を残すこの建物群は、その後政権がソビエト連邦に変わったときも、今のロシア連邦になってもずっと使用し続けられている、ロシアの中心的存在であるともいえる建築なんですよ。

クレムリンはロシア語では「クレムリ」と言います。
「城塞」という意味であり、つまり防衛のために建てられたお城なので、正確に言うとモスクワ以外の街にもクレムリンはたくさんあるのですが、やはり首都であるモスクワに置かれたクレムリンが一番有名なので、ただ「クレムリン」とだけ言う場合はそのことを指すのが一般的です。

最初の城塞が築かれた後にも、その時代の支配者たちによって使用されたために、その時々で新たな建築が加えられたり、時には戦争で破壊され、修復されたりして現在の形になっていきました。

クレムリンがなぞるロシアの歴史

ロシア帝国の成立するもととなった国、モスクワ大公国ではモスクワを中心におさめられ、ロマノフ朝と呼ばれる王家がおさめたロシア帝国やその全身の国、ロシア・ツァーリ国の時代には、短い間だけですが首都がモスクワに置かれたことがありました。

ロシア帝国後のソビエト連邦の時代には、クレムリンに議会の議場や指導者の執務室などが置かれ、政治の中枢となっていました。
現在のロシア連邦では、国会議事堂は別の場所にありますが、大統領府や大統領官邸はクレムリンの中の建物を使用しています。
クレムリンは古い時代から今現在まで、政治と切っても切れない密接な関係があるんですね。

現在残っている建物は15世紀から17世紀頃を中心にモスクワ大公国時代に建てられたものが一番多く、他にロシア帝国時代に建築された宮殿、それからソビエト時代の建築があります。
ロシアの歴史の移り変わりを同じ敷地内で体感できる、興味深い場所です。
クレムリンの中に建つさまざまな建築物についてと、それらにまつわる歴史上の出来事や人物についてお話していきたいと思います。

クレムリンで最も古いウスペンスキー大聖堂

クレムリンで最も古いウスペンスキー大聖堂

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イヴァン3世が建てなおさせたウスペンスキー大聖堂

クレムリンの中に建つウスペンスキー大聖堂(生神女就寝大聖堂)は、1475年から1479年の間に建築された、現存する中で最も古いクレムリンの建物です。
それ以前の14世紀からおなじ場所にウスペンスキー大聖堂の古い建物があったのですが、老朽化や地震によって建物が壊れてしまったので、モスクワ大公イヴァン3世の時代にたてなおされました。
イタリアの有名な建築家をまねいて建築をまかせて出来上がった大聖堂は、イタリアの古典風ルネサンスデザインと、ロシア風の伝統的な建築デザインを合体させた、明るい雰囲気の傑作に仕上がったのです。
たくさんの宗教画で飾られた美しい内装を今でも見ることができます。

この建築の命令をした、モスクワ大公国の支配者であったイヴァン3世は、当時さまざまな支配者によって小さく分裂していた近隣の地を一つにまとめあげて、その後のロシアが大きく成長する基盤を作った人物です。
武力による侵略で支配権を得る以外に、自らや家族の婚姻関係により他国との友好関係を築いたり領地を支配下に置くという方法をたくみに使いました。

タタールのくびきを終わらせたイヴァン3世の功績

また、1240年にモンゴル国家のキプチャク=ハン国によってキエフ公国(現在のウクライナのあたり)が滅ぼされて、240年ほどの間支配下に置かれた状況をロシア側からの視点では「タタールのくびき」と呼びますが、その状況からモンゴル勢力を撤退させて土地を開放した、ということがイヴァン3世の業績として残っています。

その当時のモンゴル国家は、初代モンゴル皇帝チンギス=ハンが作った国で、複数の国が複合した巨大な帝国でした。
キプチャク=ハン国はそのうちの一つの国です。
もともと遊牧民であるモンゴル民族が得意だった騎乗技術や狩りの技術を戦いに応用した、強力な軍を持っていたので大きく勢力を伸ばしたのですね。
反対にそのときのロシア・モスクワ大公国は、モンゴルとはくらべものにならないくらい小さい国だったので、モンゴルからの支配を脱するというのは大変なことだったのです。

イヴァン3世は、支配領域の拡大やキプチャク=ハン国からの支配の開放以外に、近代になってからは時代に合わない体制となってしまうとはいえ、貴族によるロシア式の官僚制度や農奴制など長年にわたって使用される制度の基礎を築き、国家を繁栄させるいしずえとなった名君と言われています。

グラノヴィータヤ宮殿で祝典を行った雷帝

グラノヴィータヤ宮殿で祝典を行った雷帝

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グラノヴィータヤ宮殿と雷帝イヴァン4世

クレムリンの宮殿の一つ、白い石張りの外壁が美しいグラノヴィータヤ宮殿は、こちらもモスクワ大公イヴァン3世の時代、1481年から1491年にかけて建築されました。
戦勝記念など公式の式典を行うときに使用されたそうです。

グラノヴィータヤ宮殿は、雷帝と呼ばれるモスクワ大公イヴァン4世が揚げた戦勝記念の祝典にも使用されました。
このイヴァン4世の時代から、国の名前はロシア・ツァーリ国となりました。
彼はイヴァン3世の孫にあたるのですが、東方への領地拡大という功績はのこしたものの、たくさんの拷問と虐殺を伴った残虐な恐怖政治を行ったことで知られています。

イヴァン4世は3歳のときに、父親のモスクワ大公ヴァシーリー3世が亡くなったことで跡継ぎとして大公に即位しますが、もちろんまだ幼いので後見人として貴族たちや母親が政治を行いました。
しかし8歳のときには母親も亡くなってしまい、権力争いに巻き込まれた状況で育ったのです。
彼は君主たる者としてよく勉強をし、信仰心も篤い青年に育ちましたが、ときには犬を塔の上から投げ捨てるなどの残酷な遊びを楽しんだり仲間とつるんで市内を暴れまわったりという気性の激しい一面もありました。

雷帝イヴァン4世の暴虐

イヴァン4世は大人になってからも気性は激しかったものの、妻のアナスタシアがうまくそれをとりなしていました。
しかしアナスタシアが亡くなったことをきっかけに、ひどい疑心暗鬼と憎悪を暴発させて、ただ疑わしい、気に食わないというだけで、誰でも根拠なく拷問にかけて殺すということを繰り返しました。
ツァーリズムと呼ばれるロシア型の絶対君主体制……つまり君主の言うことは絶対であるという状況を、貴族であっても逆らえば殺す、逆らわなくても殺す、という恐怖で固めたのですね。
「雷帝」という通り名は、その権力の強さと恐ろしい性格を持っていた、ということを表しています。

また、国土の中にイヴァン4世個人の私有地を作るというオプリーチニナ計画を言い出し、そこをおさめていた貴族たちから、経済や交通の要所などの重要な土地ばかりを取り上げて自分のものにしてしまいました。

1570年にはノヴゴロドという都市が反逆を企てていると決めつけて5週間にもわたる大量虐殺を行ったという記録もあります。
この虐殺の後に、モスクワまで反逆者とされた一部――といっても300人もいたのですが――を連れ帰り、改めて残酷な公開処刑を行いました。
祖父とは対極に、そのような暴政を続けたことで国の経済を悪化させてしまったのです。

武器庫と呼ばれるクレムリン博物館

武器庫と呼ばれるクレムリン博物館

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どうして武器庫が博物館に?

クレムリンの城塞内の南西の壁に隣接した建物、武器庫という名前ですが、現在は帝政時代の宝物を展示する博物館として使われています。
ここは実際に武器庫として使われていたのですが、ロマノフ朝ロシア帝国初代皇帝のピョートル1世が、クレムリンのあるこのモスクワからロシアの西端に近いサンクト・ペテルブルクに首都をうつしたので、中身の武器や武器職人たちも一緒にそちらに移動をして空き倉庫になったところを宝物庫として再利用したことから、現在はこのように使われているのだとか。

ピョートル1世はモスクワ大公として即位した後、ヨーロッパ方面へ勢力を伸ばして、戦争に勝った記念として国の名称をロシア・ツァーリ国からロシア帝国へと変更しました。
占領した西の海際の土地に新しい首都を建設させたのですが、その「サンクト・ペテルブルク」という名称はドイツ語で「聖人ペテロの街」という意味で、ペテロという名前は英語ではピーター、ロシア語でピョートルとなるのです。
つまり聖人になぞらえて自分の名前を首都につけ、自分の権威を示したのですね。

同時に存在した二人の統治者

クレムリンの博物館には、皇帝が治めていた時代の権力や財力を示すような美しい装飾がほどこされた宝物や実用品がたくさん収蔵されていますが、その中のひとつに、二人が同時に座れるように作られた玉座があります。

政権争いにより、11歳のときのピョートル1世と、その兄のイヴァン5世が同時に即位している状態になったのだそうです。
ピョートルは幼くしてすでに即位させられていたのですが、体が弱く後継者候補として重視されていなかったイヴァンを持ち上げて実権を握ろうとする派閥が、無理矢理イヴァンを即位させたのでした。
実際にはイヴァン派の姉ソフィアが摂政として政治を行ったので形式的にというだけですが、こうして二人の皇帝が同時に存在したわけです。
なんだか不思議ですね。

後にソフィアがピョートルの暗殺を企てたので追放され、イヴァンも若くして亡くなってしまったので、ピョートルが単独の皇帝となって政治の実権を握ります。
こうしてピョートルのその後のさまざまな業績につながっていくのですが、意外にもピョートルは病弱な体を押して皇帝としての儀式などを行っていた兄イヴァンを尊敬していたといいます。

アルハンゲリスキー大聖堂とピョートル2世

アルハンゲリスキー大聖堂とピョートル2世

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アルハンゲリスキー大聖堂に埋葬されたロシア皇帝

大聖堂広場の南東側に建っているアルハンゲリスキー大聖堂(聖天使首大聖堂)は、1505年から1508年の間に建てられました。

ピョートル1世以前のロシアの大公・皇帝たちの棺が、このアルハンゲリスキー大聖堂におさめられています。
サンクト・ペテルブルクに遷都した後のロシア帝国を統治した、ピョートル1世以降の皇帝たちはもちろんサンクト・ペテルブルクにある別の大聖堂に埋葬されているのですが、ピョートル1世の2代後、孫のピョートル2世だけが、ロシア帝国の皇帝としてアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬されているんですよ。

というのも、ピョートル2世が皇帝となった1727年から1730年のわずかな間だけ、首都がサンクト・ペテルブルクからモスクワに戻されたことがあり、彼は若くして病気にかかりモスクワで亡くなったからなんです。

ピョートル2世は1715年にサンクト・ペテルブルクで生まれますが、生後10日で母親は亡くなり、父親アレクセイもその父親であるピョートル1世との不仲から帝位継承権を取り上げられたうえ、牢獄に入れられて亡くなってしまいました。
その息子であるピョートル2世は無視されて育ちます。

14歳にして亡くなった少年皇帝、ピョートル2世

ピョートル1世の亡くなった後にはその妻エカテリーナ1世(アレクセイの母親とはまた別の女性)が皇帝となりますが、彼女も1725年から2年あまり在位した後に亡くなったので、ピョートル2世が12歳にして正当な後継者として皇帝の座をうけつぐことになったのです。

皇帝となったとはいえやはりまだ子供ですから政治などには興味はなく遊びまわっていました。
そこをサポートするべき有力貴族たちは、摂政となって自分たちの派閥が実権を握るために激しく権力争いをしていたので、政治がまともに行われず国内外の問題も放置されて大変なことになったのだとか。

ピョートル2世は即位の儀式である戴冠式を行うためにモスクワに行って、そのまま帰らなかったためにモスクワに遷都した状態になったそうです。
これはピョートル2世を後押ししていた派閥が、モスクワに首都を置いていた時代の体制を支持する、いわゆる保守派だったことによるものと考えられています。
しかしモスクワで3年あまりを過ごした14歳のときに、当時まだ不治の病だった天然痘にかかり亡くなりました。
しかも亡くなったのは自分の結婚式をあげたその日の深夜でした。

たくさんの宝石が飾られているダイヤモンド庫

たくさんの宝石が飾られているダイヤモンド庫

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女帝が愛人からプレゼントされたダイヤモンド

クレムリンの武器庫内の一部分はダイヤモンド庫と呼ばれていて、ロマノフ王朝時代に収集された宝石の展示室となっています。
その名の通りに数え切れないほどのダイヤモンドをはじめとして、大粒のサファイヤ、エメラルドなどの宝石や、金塊、プラチナなどの貴金属もが大量に展示されているのですが、その奥にはダイヤモンド庫の目玉ともいえる第12代皇帝エカテリーナ2世の笏(しゃく)が展示されているんです。
笏とは式典などの儀礼的な行事のときに王が持つ権威的な杖のことで、エカテリーナ2世の笏には189カラットもある巨大なダイヤ「オルロフ」がとりつけられています。

エカテリーナ2世は1762年から1796年にわたってロシア帝国をおさめた女帝で、なんと夫である皇帝ピョートル3世に対しクーデターを起こして王位についた人物です。
この夫婦の関係は冷え切っていて、お互いに堂々と別の相手と不倫をしている状態でした。
オルロフ・ダイヤモンドはエカテリーナの愛人だったグレゴリー・オルロフ伯爵からプレゼントされたものだったのですが、このダイヤはもともと「持ち主に不幸がおとずれる」という言い伝えを持つ宝石だったのです。

ダイヤモンドの持ち主の運命

オルロフ伯爵はエカテリーナが起こしたクーデターの立役者ともなり、二人の間には子供も生まれますが、女帝は新しい愛人を作ってオルロフは捨てられてしまいました。
そこでオルロフは特大のダイヤをプレゼントして彼女を再び振り向かせようと考え、オークションで大金をはたいて手に入れたのです。
エカテリーナはその贈り物をとても気に入ってオルロフに感謝し、笏にとりつけて愛用しますが、だからといってオルロフをふたたび愛することはありませんでした。
オルロフはダイヤを手に入れるために財産を使い果たしてしまったうえに、このできごとが原因で発狂して死んだといわれています。

エカテリーナ2世は教育や医療の振興、文芸など文化の保護に力を入れ、ロシアの領土もさらにおおきく拡大するという成果を上げてよく国をおさめ、67歳で亡くなりました。

しかしエカテリーナが亡くなったあとに、王位とともにダイヤを相続していった6人の皇帝の死因は、暗殺や不幸な病死、そして処刑という、どれも人生を幸せに全うしたとは言いづらいもので、最後にはロシア帝国は革命によってほろびてしまいました。

クレムリンの代表的建築、クレムリン大宮殿

ナポレオン・ボナパルトとクレムリン

クレムリン大宮殿は1838年から1849年にかけて建設されました。
幅125メートル、奥行き63メートルの、3階建て……の外観をした2階建ての建物なんだそうですよ。
モスクワ川寄りの位置に建っており、モスクワ川の対岸からクレムリンを見ると、このクレムリン大宮殿が囲いの城塞越しに、堂々とした姿でよく見えます。
クレムリンの宮殿といえばここ!というイメージのある建築ですね。

この建物は皇帝がモスクワに滞在するときのための宮殿でした。
その前に使われていた宮殿があったのですが、1812年にかの有名なフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトが指揮するフランス軍が攻め込んできたときに、火災でなくなってしまったので新しく建て直したのです。

このフランス軍の1812年のロシア侵攻はヨーロッパ史上最大人数といわれる、70万人を超える兵士・軍人を投入した大規模なものでした。
そのときのフランスは「大陸封鎖令」という、イギリスとの交易をフランスが独占する命令を出してヨーロッパの経済を支配しようとしたのですが、周囲の国々にとっては豊かな経済力を持つイギリスとの貿易が禁止されて不満の原因となっていました。

大失敗に終わったフランス軍のロシア侵攻

ロシアも最初は同盟国としてフランスに協力をしていましたが、このまま協力していても利益がないと考えて大陸封鎖令をやぶり、イギリスとの貿易を勝手に再開してしまったのですね。
そのことを理由にフランス軍がロシアに攻め込んできたのです。

フランス軍の侵攻は早く、ロシア側は対抗策が間に合わなかったので、撤退をくりかえしてモスクワまでの道を明け渡してしまいました。
しかし、ロシアはモスクワを撤退するときに、建物を焼き払ってフランス軍に物資を与えないようにしたのです。

フランス軍は、モスクワを占領すれば物資や食料が手に入って、そこで軍の力を回復できると考えて、それまでは消耗を気にせず無茶なスケジュールで攻め込んできたのですね。
しかしそのあてがはずれてしまい、ロシア側もそのときまでに兵力を集めていたので、フランスは疲れ切った状態で退却せざるを得なかったのです。
また、フランス軍は攻め込むときの行きの道で食料を奪い尽くしていたことと、退却する頃にはもう雪の降るような時期だったので、兵士たちは飢えと寒さによって次々と倒れ、最終的にロシアから帰ってきた人数は2~3万人程度だったといいます。

アレクサンドロフスキー庭園とアレクサンドル1世

アレクサンドロフスキー庭園とアレクサンドル1世

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アレクサンドロフスキー庭園にある無名戦士の墓

クレムリンの城塞の囲いの外、西側に沿って、アレクサンドロフスキー庭園と名付けられた広い公立公園があります。
城塞の外ではありますがこの庭園も世界遺産として認定されているんですよ。
たくさんの彫像や大きな噴水が園内のあちらこちらに設置され、植えられた木々や広い花壇とあいまって、よく整備されたこの庭園ならではの美しい景観を楽しむことができます。

無料で入場できるので、現地の人々にも人気のスポットです。

またアレクサンドロフスキー庭園内には、1939年から1945年まで争われた第二次世界大戦のときに犠牲となった、身元のわからないソビエト兵たちのための「無名戦士の墓」があります。
無名戦士の墓の中央には慰霊のための火が絶えず燃やされていて、その脇には選ばれた衛兵たちが人形のように微動だにしないで立ち、おごそかに警備をしている印象的な姿が常に見られます。
衛兵の交代の時間には儀式的な雰囲気の交代のようすが見られることでも有名ですよ。
外国の国家元首がモスクワを訪問するときにも必ず表敬訪問される場所となっています。

矛盾した性格のアレクサンドル1世

アレクサンドロフスキー庭園の名前は、エカテリーナ2世の孫であった皇帝アレクサンドル1世にちなんでいます。

アレクサンドル1世は1812年のナポレオンのロシア遠征時の皇帝で、その後追い打ちをかけてパリを占領し、ヨーロッパに強力な影響力を持っていたナポレオンの支配を終わらせた功績があります。
美男子で社交性があり、友情を大切にする

とても印象のよい人物でした。
しかしその反面優柔不断で狡猾な性格でもあったようです。

23歳で帝位についた最初の頃には、友人である青年貴族たちを集めて政治方針を検討するなど、自由主義的な改革に着手しながら国をおさめていました。
しかしナポレオン率いるフランスとの戦争が終わって、戦争でパリに入った青年将校たちが自由主義的な思想を学んで帰国したところ、一転してそれを弾圧し皇帝を第一とした政治に変わってしまったのです。

このような矛盾した政治方針をとった原因は、祖母のエカテリーナ2世と父親の皇帝パーヴェル1世の仲がとても悪く、両方の間でうまく立ち回ろうとして日和見な性格になってしまったこと、それから外国人家庭教師により自由主義的な教育をほどこされるものの、中途半端な学習で終わってしまったことによると言われています。

ロマノフ朝の宝、インペリアル・イースター・エッグ

とても豪華なイースターエッグ

武器庫に収蔵されている宝物のうちでもっとも有名なものの一種類が、インペリアル・イースター・エッグと呼ばれている、1885年から1917年の間に作られた豪華な装飾のほどこされた卵型の美術品です。
このイースターエッグは全部で58個作られたと言われていて、ロシア帝国からソビエトに変わるときの革命による混乱で持ち出され、ほとんどが売られてしまったのですが、クレムリンの博物館には10点のエッグがかざられています。

キリスト教では4月頃のイースターのお祝いとして、卵に絵の具でカラフルに色を塗ったりもようを描いたりして飾る風習がありますが、インペリアル・イースター・エッグは、ロシア皇帝のアレクサンドル3世とその息子でありやはり皇帝となったニコライ2世が、家族のために特別に注文して作らせたイースターエッグです。
宝石や貴金属によってこまかな装飾がほどこされているだけではなく、開けるとサプライズなお楽しみの仕掛けが施されている貴重な細工品であり、豪華すぎてもう二度と同じものは作れないとまで言われているとか。

現在にいたるまでに、何度かインペリアル・イースター・エッグが競売にかけられたことがありますが、最高の値段は2007年にイギリスのオークションハウスで行われた競売で、8900万ポンド(約120億円)で競り落とされた記録があります。

王家がイースターを楽しむ反面に

最初に作らせたエッグは、皇帝アレクサンドル3世が結婚20周年の記念として妻の皇后マリアに贈るためのものでした。
そのプレゼントはとても喜ばれたので、次の年から毎年同じ金細工師にイースターエッグを特注で作らせて、妻にプレゼントをし続けました。
アレクサンドル3世が亡くなった後は息子のニコライ2世が注文主として、母親であるマリアと自分の妻アレクサンドラにイースターエッグのプレゼントをしたのです。

しかしそのような豪華なプレゼントを王家の人々が楽しんでいる半面で、一般の労働者や農民たちは生活の苦しさから不満をためていました。
1904年から日本との戦争が開始し、苦戦をしていたことでさらに経済が圧迫されました。
1905年には労働者のデモに対して発砲し、多数の死者がでてしまうという血の日曜日事件が発生してしまいます。

そんなショッキングな事件をきっかけに革命運動がさかんになり、ニコライ2世は仕方なく国会と憲法を制定しますが、国会の権限は弱くてさらに反感を買ってしまいます。
このような状況で、次の時代のソビエトに続く社会主義運動が強まっていったのですね。

ソビエトの象徴、クレムリンの赤い星

ソビエトの象徴、クレムリンの赤い星

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ルビー色に輝くクレムリンの赤い星

クレムリンを囲む城壁には20もの尖塔があり、そのうちの5つの塔のてっぺんに「クレムリンの赤い星」と呼ばれる、ルビー色の大きな星型の飾りがつけられています。
この星の中にはランプが入っていて、昼も夜も明かりをともされて常に赤く輝いているのです。
昼間は光の強さがより明るくなるように管理されて、日中の光の中でもちゃんと星が輝くようになっているそうですよ。

塔の上に星の飾りが設置されたのは1935年、ソビエト連邦になってからで、それまでのロシア帝国時代は、帝国の国章としてもちいられていた「双頭の鷲」、頭が二つある鷲の像が塔の上に飾られていました。
双頭の鷲の像は旧時代の象徴で、今は新しい国となったのだから新しい象徴を、ということで星が飾られることになったのです。
ソビエト連邦の成立からは13年、連邦の成立のきっかけとなった十月革命からは18年経っていました。

しかし最初は今のような赤く輝く星ではなく、金色の星の表面に鎌と槌の形がつけられたもので、素材はステンレスと赤銅、それから国内の鉱山で採られた宝石で飾られているものでした。

革命後20周年に掲げられた赤い星

星と鎌と槌の図案は、ソビエト連邦の国旗にも使われています。
鎌と槌を重ね合わせた図案は、槌が工業労働者、鎌が農業労働者を意味し、重ね合わせることで両者の団結を意味するマークです。
労働者たちがそれまでの貴族の支配をくつがえして掲げた共産主義の象徴といえます。

そのように掲げられた最初の星は、地上からライトアップされ、はめこまれた本物の宝石がきらきらと輝いていました。
ですが2年ほどすると風雨にさらされた宝石が劣化してうまく輝かなくなってしまい、ランプを入れた星が新しく設計しなおされることになりました。
赤いガラスがきれいに輝くように特殊な仕組みを研究し、試行錯誤を重ねて今の赤い星が掲げられたのです。
1937年、十月革命のちょうど20年後のことでした。
星が飾られている塔はそれぞれ高さが違うので、同じ大きさの星を掲げると塔によってバランスが変わってしまうのですが、現在飾られている赤い星は同じように見えるように大きさの調整がされているとのことです。
第2次世界大戦の時には目立たないように隠されましたが、1946年にふたたび明かりがともされました。
その後は映画の撮影のため一度消されたことを除いてずっと星が輝き続けているそうです。

モスクワのクレムリンにはロシアの歴史がつまっています!

さて、クレムリンの建築や、そこにおさめられた宝物などに関わる人物やできごとのお話をしてきましたが、いかがだったでしょうか? まるで小説のようなできごとが実際に起こった歴史があるのがわかっていただけたと思います。
クレムリンの全てに関わる内容はこの記事にはとても書ききれませんでしたが、他にもたくさん歴史的な建築や文化的な遺産がのこされている、貴重な世界遺産群です。
ぜひ、ロシア・モスクワのクレムリンを一度おとずれてみてください。
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