日本人の起源はバイカル湖周辺から来た説!?バイカル湖の歴史

ロシア中南部にある三日月形の湖、バイカル湖をご存じでしょうか?
その景色の美しさと、ありのままに残っている自然の貴重さが認められて世界遺産に登録された湖なのですが、日本人の起源はバイカル湖周辺から来たもの、という説もあるそうです。一言、「ロシアにある湖です」と言うと一見われわれ日本人とは関係なさそうに思えますが、もしかしたら起源がそこにあるかも…なんて、なんだか親しみをおぼえませんか? そんなバイカル湖の自然や、バイカル湖にまつわる歴史的な出来事について触れたいと思います。

バイカル湖が持つさまざまな記録 

バイカル湖が持つさまざまな記録 

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数値から見ても壮大さがわかるバイカル湖

バイカル湖の誇るべきところは、自然があふれ景観がすばらしいという点だけではなく、現在三つの世界一記録を持っています。
その三つとは一体何でしょうか?

一つ目は、現存する中で世界一古い湖ということ。

二つ目は、世界一水が透明な湖ということ。

三つめは、世界一深い湖であるということです。

世界一の記録というだけであればこの三つにしぼられますが、バイカル湖の規模の大きさはこれだけではありませんよ。

湖面の面積は31,722平方キロメートル(なんと日本の滋賀県にある琵琶湖の約46倍の面積!)もあり、世界一ではないものの淡水湖だけで比較した場合はアジア一の面積を持つのです。

また、淡水湖だけでの記録に限れば、実は貯水量も世界一であったりもします。
貯水量の記録については、全ての湖の中での貯水量ランキングは東ヨーロッパと中央アジアの境界にあるカスピ海が世界1位、バイカル湖は世界2位なのですが、カスピ海は塩湖に分類されるために国によっては湖ではなく海であるとみなしている場合もあり、そのような国ではバイカル湖が貯水量世界一の湖として記録されています。

バイカル湖、特筆すべき三つの世界一

世界で最も古い古代湖と言われているバイカル湖。

古代湖、というほどですからとても古い時代からある湖なのですが、具体的に言いますと10万年以上存在が続いている湖のことを古代湖と呼ぶのだそうですよ。
世界でも古代湖は20箇所程度しか存在していない、珍しい湖なのです。

そして、かつては日本の摩周湖の透明度が世界一だった時期もあったのですが、今ではバイカル湖が世界一の透明度の記録を持っています。

その景観のすばらしさからバイカル湖は「シベリアの真珠」とも呼ばれており、冬には気温がマイナス30度を下回るせいで全て凍ってしまった湖面が、春が来て雪解けの季節には表面がひび割れ、ガラスや宝石のようにキラキラとした透明な氷が天に向かって立ちのぼる美しい様子も見られます。

また、バイカル湖の水深は1600メートル以上。
もともとは海溝だったものが長い年月をかけて淡水湖に変化していったと考えられています。
海溝は海の底の海洋プレート同士の境目が深く沈みこんでいく場所なので、世界一深い湖であるというのも納得ですね。
しかもこの深さは今も成長しており、今後長い年月が経てば再び海とつながるという説もあるそうです。

バイカル湖周辺の自然や生物

バイカル湖周辺の自然や生物

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バイカル湖の成立と自然

さて、古代湖のバイカル湖はなぜ10万年もの間消えずに残っているのでしょうか? 一般的な湖や沼は流れ込む土砂などによって数万年もすれば埋まってなくなってしまうというのですが、プレートの境目であるバイカル湖の底が今でも沈み込み続けていることにより、なくならずに湖としての存在を保っているのです。

「バイカル」とはロシアの公用語の一つ・タタール語で「豊かな湖」という意味であり、その名の通り、湖や湖周辺に生息する生物の種類が非常に豊富な場所で、エクアドルのガラパゴス諸島と並ぶ「生物進化の博物館」とも呼ばれています。

寒冷で栄養素に乏しいにも関わらず、生息する生き物は1300種を超え、特にこの地域でしか見ることができない固有種の数は1000種を超える多様さです。
本格的な調査は1980年代後期に始まったばかりで、まだ確認されていない種の生物も少なくないと考えられています。
そんな豊かな自然をたたえるバイカル湖ですが、近年では周辺の工場などから流れ込む汚染水などで水質が悪化していることが問題になっており、腫瘍を患うアザラシや絶滅の危機に瀕している固有種もいるのです。

バイカル湖は悪魔の湖? 危険な水域の存在

2011年6月に、4人の男性乗組員が乗った遊覧船「ヤマハ」がバイカル湖に出たまま戻らず、捜索隊が結成されるも見つからないというニュースがありました。
乗組員は全員経験豊かな水夫で、新しいモーターを試すために水上に出ただけなのですぐに戻る予定でした。
「ヤマハ」が消えたとされる水域の近くには、バイカル湖で最も水深が深い「悪魔のクレーター」と呼ばれる水域があり、晴天で落ち着いた日に突然ぐるぐると水が渦を巻き出し、まもなく大きなクレーター状になり、人や船を飲み込むと昔から語り継がれていました。

この水域の近辺で消える船や人々は実際に多いらしく、地元住民でも今までどれくらいの人数が消えたかわからないと話します。
バイカル湖の漁師たちは、しばしば湖のさまざまな場所で列車や古城、歴史上の船を見ることがあるという証言をしています。
科学者たちは蜃気楼だと分析しているのですが、その蜃気楼が現れると船舶の機器に異常を起こす磁気障害が発生し、ナビゲーションが利かなくなって船は進路を見失うといいます。

地元の人々は、このクレーターは「死んだ罪人の魂が地獄に行く隙間の開き」だと主張しています。

モンゴルの文化と歴史が深いバイカル湖

モンゴルの文化と歴史が深いバイカル湖

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モンゴル皇帝チンギス・カンのルーツ

湖の周辺には古くからモンゴル系民族のブリヤート人が住んでいたという記録があり、近辺で出土した弓の形式からイラン系民族のスキタイとの関係があるとされています。
しかし11~12世紀頃にはモンゴル族の影響を受けた文化に変化していきました。

13世紀におこったモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カンの祖先はバイカル湖の周辺から移動してモンゴル高原で発展した遊牧民・モンゴル族です。
チンギス・カンの生涯をつづったモンゴルの歴史書『元朝秘史』には、チンギス・カンの祖先は天の命令を受けてバイカル湖のほとりに降り立った『蒼き狼(ボルテ・チノ)』と呼ばれる男とその妻『青白き鹿(コアイ・マラル)』であると書かれています。

チンギス・カンがモンゴル帝国を築いたのは何代も後ですが、ボルテ・チノの子孫モンゴル族が有力な集団に成長してきたのがちょうど11世紀頃なので、バイカル湖周辺にモンゴル文化が広がったのは逆輸入のような形になっているのがおもしろいですね。
バイカル湖の中ほどに浮かぶオリホン島の頂上に残されている五徳と大きな釜はチンギス・カンのものだという伝説も存在しています。

バイカル湖畔に住むブリヤート人と日本人の関係

一説にはバイカルの湖畔に日本人の起源があるとも考えられています。
湖周辺に住むブリヤート人と日本人の遺伝子を調べた結果、二つの民族の遺伝子構成が非常に近いことがわかりました。
共通する遺伝子のパターンの特徴は、バイカル湖畔・ブリヤートを中心にして、モンゴル、朝鮮、日本、アイヌ、チベット、イヌイットの人々によく見られるとのことです。

バイカル湖の周辺には3万年前から2万年前頃の遺跡があり、そこで寒冷な気候に適応した後に周辺地域に広がっていったと考えられています。
何故この地域に人類が住み着いていたのかというと、バイカル湖は周辺沿岸地域と比較すると暖かい気候を持ち、水生生物も豊富なので食料に困らない、という理由があったようです。
とはいえ冬は氷点下2桁の温度の世界なので、あくまでも周辺地域に比べ暖かいということで、過酷な環境には変わりないのですが…。

別の一説ではブリヤートの人々が直接日本人の祖先にあたるのではなく、別の共通祖先が他のところにいてそこから枝分かれをしたという可能性も提示されているので、バイカル湖が日本人の起源と決まったわけではないのですが、バイカル湖の周辺に住む人々と日本人はとても遠い親戚にあたるということですね。

バイカル湖のほとりに育ったブリヤート共和国

バイカル湖のほとりに育ったブリヤート共和国

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ロシア・ブリヤート共和国の歴史

連邦国家であるロシアを構成する共和国の一つ、ブリヤート共和国はバイカル湖の南から東をぐるっと回って北西まで、湖を囲むようにして存在しています。
現在ではロシアの領域ですが、前述のように、チンギス・カンの時代にはモンゴル帝国の一部となってモンゴル文化が栄えます。

16世紀になると帝政ロシア領に組み込まれ、以降帝政をくつがえす20世紀のロシア革命、日本による占領、日本の勢力に対する干渉国家としての極東共和国の成立を経て、現在のロシアの前身であるソビエト連邦(ソ連)の支配下に入り、1923年にソビエト連邦の一部としての『ブリヤート・モンゴル・ソビエト社会主義自治共和国』になります。
その後改名と主権宣言を経て国名を現在の『ブリヤート共和国』に変更しました。

ロシアに住むブリヤート人の約4分の1がここブリヤート共和国に住んでいます。
アジア人的な特徴を持つブリヤート人も今ではヨーロッパ的な特徴を持つロシア人との混血が進んでいますが、バイカル湖の東側の方ではあまり混血が進んでおらず、日本人とよく似た人々が住んでいるそうですよ。

バイカル湖に面している町

ブリヤート共和国には、バイカル湖に面した港を持つ、セヴェロバイカリスクという町があります。
はじまりは1974年に建設作業用の集落として誕生し、1980年に正式に町として登録されました。
詳しくは後述しますが、ロシア中部から東端までを横切るように走るバム鉄道の建設のために新しく作られた町なのです。
もちろん駅も存在し、北側のバイカル湖畔に訪れたい旅行者たちに利用されています。

現在の人口は25,000人程度とされていますが、実は鉄道工事をするときの当初の計画ではもっと工事の予定があったようで140,000人にまで増える計算だったそうです。

1980年代のソビエト連邦は経済の危機に瀕しており、硬直した政治体制を立て直すために、ペレストロイカと呼ばれる改革運動を推し進めていました。
社会主義的な政治から民主的な方向への転換を行う改革で、最終的にソビエトの崩壊と現在のロシアの成立のきっかけとなった運動です。
 

このペレストロイカの影響でセヴェロバイカリスク近辺のこれ以上の開発計画が不要とみなされたのでした。
 

バイカル湖東のウラン・ウデ

バイカル湖東のウラン・ウデ

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ウラン・ウデとロシアのチベット仏教

ブリヤート共和国の首都であるウラン・ウデ。
ブリヤート語で「赤いウデ川」という意味を持つ名前のこの都市は、バイカル湖につながるウデ川のほとりに建ち、モンゴルを経て中国へ至る交通の要所として栄えました。
モンゴル帝国の支配下の後、1666年に帝政ロシアの軍事的共同体・コサックによりこの地に要塞が築かれたのが発展のきっかけと考えられます。
第2次世界大戦において、1945年にソビエト連邦軍と日本の陸軍勢力・関東軍との戦闘が起こった後には、捕虜となったたくさんのの日本兵が労働力として使われ、今もウラン・ウデ市のあちこちに亡くなった日本人の墓地が存在しています。

ウラン・ウデの近郊の村には、1946年に建てられた、ロシアにおけるチベット仏教の中心地、イヴォルギンスキー・ダツァン寺院があります。
「仏教のお寺で1946年に建てられたって、そんなに古くないのになんで中心地なの?」と思いましたか? 

この地にチベット仏教が広まったのは18世紀のことで、1741年に即位したロシアの女帝エリザヴェータがブリヤート地域でのチベット仏教の活動を認め、11の寺院(ダツァン)の建設と150名の僧侶を承認したことから発展していきます。

ソ連により迫害されていた全ての宗教文化

だんだんとロシアでのチベット仏教の規模は大きくなり、1846年には34のダツァン、僧侶の人数は4505人にも増えていたそうです。
ダツァンは学校としての役目もあり、仏教の教育以外にも、文字、医学、歴史、芸術、天文学、哲学などを教えたりもしていました。
ブリヤート出身でチベット医学を修めた人物が、ロシア王室の治療にあたったこともありました。

そのようにして発展したロシアのチベット仏教でしたが、ロシア王家が打ち倒されソビエト連邦の時代になると、政府はどの宗教も認めない無神論の方針をとったので、チベット仏教の僧侶たちは捕らえられて、当時建っていたダツァンは全て取り壊されるか閉鎖となったのです。
チベット仏教の寺院だけでなく、ロシアの国教であり信者数が最も多いロシア正教やローマ・カトリックなどキリスト教系の宗教、イスラム教など、全ての宗教が弾圧され、聖職者や信者が逮捕され処刑された時代でした。

1940年代になってやっと限定的ながらも寺院が認められるようになり、そのときに一番最初に開かれたチベット仏教寺院がイヴォルギンスキー・ダツァンなのです。

歴史的出来事とともに歌われたバイカル湖

歴史的出来事とともに歌われたバイカル湖

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バイカル湖のほとりに若い革命家の悲劇が歌われた

『バイカル湖のほとり』というロシア民謡に、デカブリストの乱に加わって捕まり、ロシア中部~東部のシベリアの地に流刑となったけれども脱走し、バイカル湖を渡って逃げ切った人物が故郷の家族を思う姿が歌われています。
この歌に描写された脱走囚人の銅像も、湖を見下ろす丘の上に建てられています。

デカブリストの乱は、1825年12月に皇帝による専制政治および農奴制の廃止を求めて青年将校たちが起こした反乱です。
12月のことをロシア語で言うとデカブリ、つまり12月に起こった反乱なので反乱者たちはデカブリスト(12月党員)と呼ばれました。

反乱を起こそうとした若い将校たちは、元々は皇帝ナポレオン時代のフランスをはじめとした西ヨーロッパ諸国との戦争で、パリまでの進軍に加わっていました。
そこに滞在する間に民主的で自由主義的な考えや政治・社会制度を見聞きし、自分たちの国・ロシアが皇帝や官僚たち、身分の高い者だけが国を支配していることに比べて、進歩した考え方があることを知って驚いたのです。
また、戦争に参加させられている農民出身の兵士たちの、あまりにもひどい境遇を間近で見て衝撃を受け、自分たちの国の改革をしなければならないと意識したことも反乱のきっかけでした。

革命運動の火付け役となった反乱

結果的にはこの反乱はクーデターを起こすも失敗に終わってしまい、歌の通りに罰として過酷なシベリアに送られてしまった反乱者たちがたくさんいました。
当時の皇帝アレクサンドル1世が急死したことから作戦を急いだことと、反乱者たちの間での連絡がうまくいっていなかったこと、軍人たちの間で広がっただけで一般の民衆まで巻き込んだ大きな運動にならなかったこと、指導者の力不足などが失敗の原因として考えられています。

裁判を受けた後に反乱の指導者たち5人は絞首刑となり、残りのデカブリストたちはシベリア流刑……つまり極寒の地であり人もあまり住んでいないシベリアに囚人として送られ、劣悪な環境で過酷な労働をさせられることになったのです。
バイカル湖の周辺にも、このように囚人として送られた人々がいたんですね。

しかしデカブリストたちの反乱は、後にロシアでおこるロシア革命につながる革命運動のきっかけになり、また、この後のヨーロッパ諸国での自由主義的な革命運動への火付け役ともなりました。
作家ヴィクトル・ユーゴーが執筆した小説『レ・ミゼラブル』の舞台となった、1830年のフランス7月革命にも影響があったと言われています。

バイカル湖に最も近い大都市、イルクーツク

バイカル湖に最も近い大都市、イルクーツク

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シベリアのパリ、イルクーツク

バイカル湖の周辺で最も大きな都市といえば、シベリア地方に属するイルクーツク州都、ロシア中南部のイルクーツク市です。
国際空港もあり、湖まではバスや鉄道も走っているのでバイカル湖を目的とした観光者はこの都市からアクセスすることが多いようですね。

イルクーツクの成立のきっかけは、毛皮をとるために川のそばに設けられた宿営地からだと言われています。
古くから中国を中心にしたアジア方面との交易中継都市として利用され発展してきました。
輸入品は絹、綿、お茶、陶器が中心でしたが、ロシアからの輸出品は、19世紀半ばまでは毛皮が主要な商品でした。
あたたかい毛皮を持つ動物が生息している寒冷地ならでは主力商品になりえたということです。

デカブリストの乱で処分を受けた青年将校たちはこのイルクーツクの地に送られました。
ロシア西部に位置する、当時の首都サンクト・ペテルブルグからの文化や芸術を若い将校たちが持ち込んだことで、遠く離れたイルクーツクに都会風の華やかな建物が建てられ、最先端の技術や芸術によって「シベリアのパリ」と呼ばれるほど発展した街になっていったのです。

漂流した日本人たちがたどりついた街

1696年に初めてロシアを訪れたとされる日本人漂流者・伝兵衛をはじめ、多くの日本人漂流者がイルクーツクに滞在し、永住した者も多かったという歴史があります。

一つ、興味深いエピソードが存在します。
1793年12月、日本では外国との貿易を制限する鎖国政策をとっていた江戸時代ですが、宮城県石巻市から出航した大型帆船・若宮丸が強風により流されるという海難事故がありました。
漂着した乗組員はロシアの貿易会社に拾われ、イルクーツクに連れていかれます。
ロシア政府は日本との貿易を希望していたので、日本人漂流民を日本に帰すことで交渉を有利にしたかったのです。
しかしなかなか帰国の計画が進みませんでした。

ついに帰国の目途が立ったと知らせを受けて首都サンクト・ペテルブルグに向かい、皇帝アレクサンドル1世に謁見した後に、日本に向かう船に乗船できたのですが、その船旅は大西洋を横断し、アメリカ大陸の南端を回り、太平洋を横切る西回りルートでした。
なんと帰国をするために世界一周の旅をしてきたのです。
約12年もかかった長旅でした。
しかし帰国をしたのは16人いたうちの5人で、2人は亡くなり、残りの多くはイルクーツクに残ったのです。
亡くなった者の墓がバイカル湖畔に建てられているといいます。

バイカル湖にまつわる恐ろしい伝説

バイカル湖にまつわる恐ろしい伝説

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25万人の人々が亡くなった悲劇の歴史

その美しい景色に反して、バイカル湖には悲劇的なエピソードも語り継がれています。

1917年2月、それまで王家が支配していた帝政ロシアではついに革命が起こり、翌3月にはロシア王家・ロマノフ王朝が崩壊しました。
新政権を握ったソビエト政府の革命軍・赤軍と帝政ロシアの再起を望む白軍が激しく戦いますが、1919年11月、白軍が本拠地を置いていた都市・現在のロシア中南部に位置するオムスクが赤軍に占領されてしまいました。
そこで白軍は体勢を立て直すためにロシアの東側地域、シベリアに逃げこみます。

白軍の人数は50万、そこに帝政時代の僧侶や貴族などの亡命者75万人が加わって125万人もの人々が大規模なキャラバンを作り東へと逃れようと旅を始めます。
季節は冬。
気温は連日マイナス20度を下回り、激しい吹雪などで行軍開始から凍死する者が続出しました。
20万人もの人が寒さにより一晩で亡くなった日もあったといいます。
3か月後には125万人がたった25万人まで減っていました。
食料、燃料も底をつき、運搬用の馬も寒さで死んでしまい、軍資金として運んできた500トンの金貨と財宝もあきらめました。

シベリアの旅路の果てに

それでも、25万人は疲れ果てながらもバイカル湖の西側に位置する、イルクーツク市にまでたどり着きました。
当時バイカル湖の東側は、アジアまで進出していた日本軍をはじめアメリカやイギリスなど他国の軍が駐留しており、白軍と協力関係にあったので、バイカル湖を渡ってしまえば赤軍は追ってこられません。

大変な道のりでしたが、ここで湖を渡り切れば助かるという希望を持ち、逃げる人々は凍ったバイカル湖の上を歩き出しました。
しかし凍り付いた湖面を渡る人々を稀に見る寒波、猛吹雪が襲いました。
氷の上の気温はマイナス70度……どんなに防寒対策をしていても無意味なほどの寒さです。
歩き続けた人々は次々と凍死し、やがて25万人の全員が凍り付いて死に絶えたのでした。
一筋の希望を託して歩き続けた旅は、距離にして2000キロまで進んだところで無残な終わりを迎えてしまったのです。

亡くなった人々は冬の間の数カ月間、誰に弔われるわけでもなくそのままになっていました。
やがて春になり、湖面が溶け出します。
取り残された人々の遺体は湖の底に沈んでいきました。
遺体は今も見つかっておらず、バイカル湖の底には25万の人々の魂がいまだに眠っていると言われています。

広大なロシアを横断するシベリア鉄道

広大なロシアを横断するシベリア鉄道

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シベリア鉄道の楽しみ

バイカル湖の南端を通る鉄道路線、『シベリア鉄道』というものが存在します。
ロシアの西方に位置する首都・モスクワから、日本海に面し、日本とも交流の深いロシア極東の都市・ウラジオストクまで9,297キロメートルを走ってロシアをほぼ横断する、非常に長い鉄道路線です。
東ヨーロッパとアジアをまたぐ長距離の鉄道なので、中国、北朝鮮、モンゴルの鉄道との直通運転があります。

シベリア鉄道の代表的な列車・ロシア号は、約一週間かけてモスクワ~ウラジオストク間を走破します。
あちこち歩き回ったり遠回りの計画を立てなくても列車に揺られているだけで簡単に長距離の旅を味わうことができ、エリアごとにさまざまに窓の外の景色が変わっていくのが楽しめます。
また、車内販売が充実していたり、走っている地域ごとに地元色のある食堂車に交換されたりとグルメも楽しみの一つ。
人気路線なので乗車したい場合はチケットを事前に確保しておくのがおすすめですよ。

バイカル湖周辺の線路は、湖南端を回り込む形で建設されているので、周辺を走行している3~4時間程度の間は湖の美しい景色をじっくり堪能することができます。

シベリア鉄道の建設とバイカル湖

シベリア鉄道のベースとなる計画は1850年から検討されますが、さまざまな事情によりなかなか着工に至らず、実際に着工となったのは1891年のこと。
当時のロシア皇帝、アレクサンドル3世により建設の号令がかけられました。
1800年代に計画が持ちあがった当初は人口の少ないシベリアの地域にそんな大規模な鉄道を作るのは無茶だと考えられていたようですが、やがて東アジアに西ヨーロッパ諸国の進出が進んできたために軍事的な強化をしなければならなくなったので輸送手段の国家事業を決めたのです。

大自然や山脈のたちはだかるシベリアの過酷な環境の中での鉄道建設であったため、工事には大変な時間がかかりました。
1901年にバイカル湖の区間を除く全線が開通、バイカル湖の区間はその3年後の1904年に完成し、そこでようやく全線開通となりました。

最後に残されていたバイカル湖周辺工事は地理的な要因で特に難航したようです。
南側を迂回するルートで線路が建設されるまでの間は、バイカル湖の上を夏はフェリーで、冬は氷の上に線路を敷いて列車を走らせたとのこと。
軍事目的であればそのようなルートは大変手間でしょうが、今の一般的な旅行者として見たら氷の上を走る列車なんて、なんだかロマンを感じますね。
軍事路線として使用されていましたが、現在ではシベリア鉄道は観光路線として栄えています。

バイカルからアムール川流域をつなぐ路線、バム鉄道

バイカルからアムール川流域をつなぐ路線、バム鉄道

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日本列島よりも長いバム鉄道

バイカル湖の名前が冠された鉄道路線、『バイカル・アムール鉄道(略称バム鉄道)』というものも存在します。
ロシア南部イルクーツク州の都市タイシェトからバイカル湖の北側を経由し、日本海沿岸に面するソビエツカヤ・ガバニという都市まで約4,324キロメートルを走行する鉄道です。
シベリア鉄道の9,297キロメートルに比べると半分程度の距離ですが、それでも非常に長い鉄道ですね。
日本列島の縦断距離は約2,700キロメートル、本州縦断にかかる距離でも約2,000キロメートルなので、バム鉄道はその倍以上の距離となっています。

バム鉄道はシベリア鉄道の後に建設計画が立てられ、地図で見るとバム鉄道はシベリア鉄道の北側を並走するルートを走っているので、第2シベリア鉄道とも呼ばれています。

バム鉄道の建設計画は、極東の防衛にさらに備えるためにソビエト連邦により1932年に立てられました。
シベリア鉄道とバム鉄道が並走している場所は特に南側の国境に近いエリアなので、シベリア鉄道に何かトラブルが起こってもバム鉄道が使えるという理由での建設だったようです。
東西両端から建設が開始されましたが、第二次世界大戦の独ソ戦が勃発してそちらに力を注ぐために、一時的に計画が中断されました。

ソビエト連邦の動向を反映した鉄道建設

戦局がソビエト有利となったところで、今度は日本との戦争に備えるためにバム鉄道建設を再開、対日参戦の直前となる1945年7月末に一部区間で運行開始されました。
1947年にはバイカル湖の北西の2都市タイシェト~ブラーツク間を通る輸送も開始されています。

しかし1953年に、当時のソビエト連邦の最高指導者、ヨシフ・スターリンが亡くなったことで国の予算投資の方針が変わり、1960年代に中国との対立で再び軍事強化が必要とみなされるまで残りの路線は長らく建設されないままでした。
200万人がこの建設計画に参加し、後に路線が延長されるものの1984年にようやく当時の全線開通となったのですが、主に軍用としての輸送に使われ、一般の旅客や貨物は全線の3分の1程度の路線しか使用できず、外国人の乗車も禁止されていました。

ソビエト連邦が崩壊して新しい国家体制になった現在では、シベリア鉄道と同様にバム鉄道も誰でも乗車できるようになっています。

バム鉄道やシベリア鉄道の建設には第二次世界大戦で捕虜となりシベリアに抑留されていた日本人も労働力として投入され、そこで犠牲となった人数も多いと言われています。

ロシアを代表する湖、バイカル湖をおとずれてみませんか?

さて、バイカル湖の自然や周辺の歴史、バイカル湖にまつわる出来事についてお話してきましたが、いかがだったでしょうか。

バイカル湖自体は歴史的事件の主役となってきたことはあまりありませんが、ロシアを代表する湖として、バイカル湖が関係する歴史は大変ドラマティックなものが多かったと思います。
そんな歴史に思いをはせながら、バイカル湖におとずれてみるのはどうでしょうか?

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