「成金」からイタリア芸術を大きく育てたメディチ家の歴史

いきなりですが、世界遺産の『メディチ家』のことをご存じでしょうか?メディチ家とは、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて絶大な権力を持っていた支配者の一族です。正確には『メディチ家の12の館と2つの庭園』が世界遺産に認定されているのですが…ひとまとめにされているとはいえ世界遺産に認定されるような建造物を14つも、一つの家系で所有していたというのはちょっと驚きだと思いませんか? それだけでメディチ家がすごい力を持っていたのがわかりますが、調べてみると他にもたくさんのドラマティックな歴史が残っていました。

「成金」からイタリア芸術を大きく育てたメディチ家

「成金」からイタリア芸術を大きく育てたメディチ家

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メディチ家は医者の家系?

「メディチ(medici)」という言葉は、医者、医学、薬というような意味を持っているため、メディチ家の先祖は医者や医療薬を取り扱う商人など、医療関係を生業とした家系だったのではないかと考えられています。
メディチ家はイタリアの家系ですが、英語の「メディシン(medicine)」という、薬物や医学を意味する言葉に親しみがありますね。
メディチ家の紋章には赤い丸がいくつか描かれているのですが、この赤い丸は丸薬か丸い医療器具を表しているのではないかという説もあります。

メディチ家の記録は13世紀頃まではあまり残されていなくて、はっきりとわからないことも多いのですが、とにかくもともとは貴族階級の家系ではなかったそうです。
その後18世紀頃まで続いたメディチ家の歴史を見ると、イタリア中西部に位置する都市フィレンツェを首都とした一国の支配者となってフランス王家の親戚にまでなったという事実があり、つまり一平民から莫大な富を築いてそこまでのしあがった……みもふたもない言い方をすれば「成金」ということですね。

芸術の支援者メディチ家

しかしフィレンツェを基盤として都市国家を発展させ、さらに今でもイタリアの重要な文化として残る歴史的建築や絵画、文芸など、芸術・美術をここまで成長させたのはメディチ家の存在があったからこそ、逆にメディチ家が栄えたのも芸術の振興に力を注いだから、という部分があり、ただのものすごい成金のおうち、というだけでは片付けられないんです。

メディチ家の歴史をひもといていくと、「コジモ(コジモ・デ・メディチ)」という名前をつけられた人がたくさん出てくるのですが、このコジモという名前は医療をつかさどる双子の守護聖人「聖コスマスと聖ダミアヌス」にちなんでつけられている命名であり、この二人の守護聖人はメディチ家の守護聖人としてもあつかわれています。
聖コスマスと聖ダミアヌスは医者であり、無償で人々を治療してまわっていたのだといいます。

この二人の聖人はメディチ家が注文した絵画によく登場する……というかメディチ家の守護聖人なので、この双子の聖人が描かれたイタリア絵画を見たらメディチ家に関わるものの可能性が高いそうですよ。

銀行業の成功からはじまるメディチ家のサクセス

銀行業の成功からはじまるメディチ家のサクセス

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教皇を立てて教会の財務を握ったメディチ家

14世紀になり、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・ド・メディチの代になると銀行業で成功します。
ここからメディチ家が大きく世に知れ渡る有数の資産家・および政治家となるはじまりの転換点となるのでした。

ジョヴァンニ・ディ・ビッチの父親は羊毛商人でしたが、ジョヴァンニは親戚の銀行家のもとで修業をしました。
そこからゆずりうけた銀行の一つを1397年にイタリア中部のフィレンツェに移して営業をはじめるとみるみるうちにうまくいくのでした。
メディチ銀行がうまくいったのは、社員の労働を適正に評価する仕組みで有能な人材を集めたこと、また新しい経営のシステムを考案して運営していたということがあります。
イタリアの中心都市ローマやイタリア北東部に位置する水の都ヴェネツィア、スイス西部のジュネーヴなど、各地に銀行の支店網を広げました。

特にカトリック(キリスト教)の重要な領地であるローマでの活動は大きく、当時同じ宗教の中でも対立し権力争いが発生していたカトリック界の中にうまく入り込み、バルダッサレ・コッサという人物を教皇ヨハネス23世として即位させてローマ教皇庁の財務管理を握ることに成功しました。
バルダッサレ・コッサは元は海賊だったのではないかとも言われている、過去の経歴があやしい人物でした。

支援した教皇がいなくなっても生き残るメディチ家

このカトリック教会内での騒動というのはバルダッサレ・コッサこと教皇ヨハネス23世以外に、それまで在位していた教皇2人が退位しなかったので、本来なら教皇は一人なのに同時に3人の教皇がいる事態になっている、という問題でした。

この騒動を解決するため、当時の神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントが命令をし、1414年から1418年の間にドイツのコンスタンツにおいて、キリスト教のルールを審議する公会議が行われました。
神聖ローマ帝国とは西暦800年から1806年まで続いた、現在のドイツやイタリア北部を領土に持っていた大帝国ですね。
このコンスタンツでの公会議の結果を受けて不利とみたヨハネス23世は会議から逃亡しましたが、捕らえられ教皇の位を奪われました。
さらに他の2人の教皇も退位・廃位となって1417年には別の教皇が1人即位し、そこでやっと解決というてんまつになったのです。

もともとヨハネス23世を支援したことでローマ教皇庁の金銭管理に関わることとなったメディチの銀行でしたが、ヨハネス23世が廃位となった後もメディチ銀行はその財務管理業務を引き続き行うことになります。

フィレンツェにおけるメディチ家の栄華

フィレンツェにおけるメディチ家の栄華

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ついにフィレンツェの支配者となる

メディチ家はローマ教皇庁の財源の管理以外にもフィレンツェの外交大使などの役目もつとめ、都市の発展に貢献しました。
その功績が評価され、ローマ教皇からジョヴァンニ・ディ・ビッチに対して伯爵の位を授けるという話も持ち上がりましたが、ジョヴァンニはそのとき共和国であったフィレンツェの政治体制に配慮をしてその話を辞退し、一市民としての立場で生涯を終えます。

結果的にはメディチ家は数代後に大公の位を得たりフランス王妃を輩出したりと貴族の仲間入りをすることにはなるのですが、このときは銀行家であると同時にフィレンツェ共和国の政治家としても活動をしていたので、伯爵となるよりも一市民としての政治家であるほうが有利と見たのですね。

15世紀に入り、メディチ家の当主がジョヴァンニ・ディ・ビッチの息子コジモ・イル・ヴェッキオの代になると、一時的に政敵によって追放されるできごともありつつ、帰還してフィレンツェの政治の実権をメディチ家が握ります。
コジモはフィレンツェ共和国の議会の選挙制度を自分たちの都合よくつくりかえ、メディチ家の派閥が多数派となるように仕組んだのでした。

浮き沈みの大きいメディチ家の立場

こうして、共和国という名でありながらフィレンツェは実質的にメディチ家が支配することとなったのです。
もちろんもともと営んでいた銀行業も栄え、メディチ銀行はイタリア各地にとどまらず、オランダ、フランス、イギリスなどの外国にも進出して、メディチ家は有数の大富豪としてヨーロッパに大きくはばたいたのでした。
ただし銀行業を大きく広げていたものの当主たちの浪費もはげしく、メディチ銀行の経営は巨額の赤字を出していたといいます。

その後1494年から1495年にかけてフランスがイタリアに侵攻してきたできごと「第一次イタリア戦争」が起こり、フランス軍がもっと南を目指してフィレンツェを通過しようとしたとき、当時のメディチ当主、ピエロ・イル・ファトゥオがフランスに抵抗して戦うことをせずに独断でフィレンツェ入城を許したために、市民によってメディチ家は追放されることになります。
それと入れ替わるようにフランス王シャルル8世が率いてきた軍はメディチ家の屋敷に入り、占拠したのです。
このできごとによってメディチ銀行も経営破たんとなりました。

メディチ家が育てた有名な芸術家たち

メディチ家が育てた有名な芸術家たち

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ルネサンス芸術のパトロンとなったメディチ家

さて、政治家や銀行家として類に見ない活躍を見せたメディチ家でしたが、その一方で芸術家を支援し育てる「パトロン」としての活動も精力的に行ったこともメディチ家を語るうえでは欠かせません。
その豊富な資金を芸術に投資することでイタリアの芸術文化を大きく育てた一族なのでした。

特にこの、メディチ家がフィレンツェの支配を固めた頃のイタリアの芸術文化というのはルネサンスと呼ばれ、キリスト教の宗教文化と密接に関係していて、製作される作品というのも基本的にはキリスト教の題材を使った作品になります。

資産家たちによるパトロンの活動は純粋に芸術作品を愛し育てるという意味合い以外に、そういったものにお金を出して作品を制作させることで宗教に熱心であるというアピールになりますし、メディチ家としては本業が銀行業、つまり金融業なわけですが、キリスト教では人にお金を貸してもうけることは罪であるために、罪の許しを得るために宗教芸術への活動に力を入れたという動機がありました。
ともかく、もともとメディチ銀行の経営はかんばしくなかったと言いましたが、芸術家たちのパトロンとして気前よくふるまったことが銀行経営の赤字化の原因の一つであったわけです。

画家フラ・アンジェリコに対する支援

1390年頃から1455年まで生きた初期ルネサンス期の画家、フラ・アンジェリコもメディチ家の支援を受けていました。
フラ・アンジェリコというのは本名ではなく、修道士であったこととその人柄の温厚さからとられた「天使のような修道士」という意味の通称です。
本名はグイード・ディ・ピエトロというのですが、芸術家としての名前はフラ・アンジェリコという呼ばれ方が非常に有名ですよ。
彼は自身が修道士だったということもあり、宗教的な題材の絵画を描くことにすぐれた才能を発揮した画家でした。

フラ・アンジェリコはメディチ家の依頼を受けてメディチ家の守護聖人「聖コスマスと聖ダミアヌス」の絵画を製作しました。
医術によって見返りなく数々の病人たちを救った双子の聖人たちが、迫害されたすえに処刑される場面を描いた「聖コスマスと聖ダミアヌスの殉教」というタイトルのこの絵画は、現在はパリのルーブル美術館におさめられています。

また、フラ・アンジェリコはこの作品のほかにも、メディチ家の依頼によって絵画作品を制作していて、そのうちのいくつかにはやはり聖コスマスと聖ダミアヌスが描かれています。

フィレンツェを象徴するダヴィデ像とメディチ家

フィレンツェを象徴するダヴィデ像とメディチ家

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ドナテッロのダヴィデ像を自宅に置いていた!

他にもメディチ家の支援を受けた芸術家は非常にたくさんいて、それぞれ正反対の解釈で「ダヴィデ像」の彫刻を制作したドナテッロとミケランジェロ、「ヴィーナスの誕生」を描いたボッティチェリなど、芸術にあまり興味がなくても「中学校や高校の美術の教科書にのってたからこの作品見たことある!」くらいの、とても有名になった芸術家たちにも作品を依頼し支援をしていました。

パトロンの活動をしていたのはメディチ家だけというわけではありませんが、メディチ家がパトロンとして芸術の支援をしたことで生まれ、現在でも人々に愛されている作品がたくさんあるというわけです。

特にドナテッロが製作をした、少年のような若々しい姿の茶色いブロンズ製のダヴィデ像は、メディチ家の当主コジモ・イル・ヴェッキオの依頼を受けて彫像されたもので、実際にメディチ家の邸宅に飾られていた作品でした。
ダヴィデという英雄はフィレンツェの自主性を象徴する存在であり、フィレンツェを代表する芸術作品の一つといえます。
当時の価値観からいえば、フィレンツェの象徴であるダヴィデの像を個人の家に置くのは独占的で贅沢な行為でした。

あのミケランジェロもメディチが育てた!

ダヴィデ像というと「マッチョで全裸な若者が左手に持った石を胸元に構えてる、白い大理石の像」をイメージする人が多いと思いますが、そちらはドナテッロより少し若い世代のミケランジェロによる作品ですね。
これはメディチ家の出資で製作したものではなく、むしろ逆にメディチ家がフィレンツェを追放されていた間に市の依頼を受けて製作され、置かれた場所もメディチの支援を受けてドナテッロにより製作された彫像と入れ替えられたものでした。
言わばフィレンツェ市によるメディチへの反抗的な意味合いがあったのですが、芸術家ミケランジェロ自体はもともとはコジモ・イル・ヴェッキオの息子ロレンツォや孫ピエロをはじめとしたメディチ家の人々から多数の依頼を受けて、そのことにより芸術家としてたぐいまれな出世をすることになった人物です。

「きゃしゃな少年のような姿」のドナテッロのダヴィデ像と「たくましい若者の姿」で製作されたミケランジェロのダヴィデ像は、まるで逆の作風ですがどちらもそれまでになかった新しい要素を持った作品であり、どちらの作者もその後の芸術作品に大きな影響を与える存在となりました。

フィレンツェでのメディチ家の復権

フィレンツェでのメディチ家の復権

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帰ってきたメディチ家

戦争への対応のミスによってフィレンツェを追放されてしまったメディチ家でしたが、そのままでは終わるわけではありません。
フィレンツェにいられなくなったメディチの人々は放浪の生活を送っていました。
しかし1503年に当主のピエロ・イル・ファトゥオが亡くなりその弟ジョヴァンニ枢機卿が当主となると、ドイツの有力貴族ハプスブルク家とローマ教皇ユリウス2世の協力を得たうえでスペイン軍とともにフィレンツェに攻め入って、ふたたび共和国の支配を握ることに成功します。

また、ジョヴァンニが持つ肩書「枢機卿」というのはカトリックの教皇の補佐役、つまり教会の重要な役職です。
ローマ教皇ユリウス2世の支持を得ていたジョヴァンニ枢機卿は次のローマ教皇に選出されることとなり、メディチ家はフィレンツェのほかにもイタリア中部に広がるローマ教皇の領地を支配する強い勢力となったのでした。

教皇レオ10世として即位したジョヴァンニは芸術を愛し、バチカン市国の東側に位置するサン・ピエトロ大聖堂の建設をはじめ、礼拝堂や宮殿などの建設・修復に対し熱心に活動します。
ミケランジェロや、それに並ぶ巨匠といえる芸術家・ラファエロに依頼をして、今でも残る数々の美しい建築をつくることに出資した功績があったというわけです。

メディチ家出身の教皇による浪費と宗教改革

しかしメディチ銀行の破たんというできごとにこりていなかったとみえて、レオ10世は教皇としての財産を極端に浪費してしまいます。
このような美しい芸術に投資をしたほかにも、パーティーやパレードを開催してぜいたくざんまい。
またたく間に教皇庁の財政は底をつきました。

そこでなんとかお金を稼がないといけないということで、1517年にサン・ピエトロ大聖堂の建築のためという名乗りで大々的に「免罪符(めんざいふ)」の販売を開始します。
この免罪符というものは、簡単に言うとお金を出しておふだを買えば犯した罪が許されるよ、というふれがきで教会が販売していたものなのですが……。
本来であれば罪が許されるためには罪の告白をして悔い改めたり、よい行いをしてつぐなうなどの行為が必要だと考えられていたのに対して、お金を払えば罪がつぐなえるというのはとってもかんたんで楽ちんなので、免罪符は人々に大人気となってよく売れました。

でも、本当はしなくちゃいけないことをしていないのにお金を払うだけで罪が許されるのはおかしくない?という疑問をドイツの神学者・ルターが提示したことをきっかけに、聖職者の世俗化など教会への不満が信者たちから一気にまきおこり、これが宗教改革と呼ばれる、ヨーロッパ中をまきこんだ大きな宗教運動になっていくのでした。

フランス王家の親戚となったメディチ家

フランス王家の親戚となったメディチ家

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小公女と呼ばれたカトリーヌ・ド・メディシス

レオ10世の死後、そのいとこがクレメンス7世として教皇の位につき、クレメンス7世の息子アレッサンドロに対してフィレンツェ公の称号が与えられたことで、1532年にフィレンツェ共和国はフィレンツェ公国となりました。
今までもフィレンツェに対してのメディチ家の影響力は大変大きかったけれども、追放を受けたりと不安定な部分もありましたから、ここにきてやっと名実ともに支配者となったわけですね。

また、クレメンス7世のはたらきで、ピエロ・イル・ファトゥオの孫娘カトリーヌ・ド・メディシス(クレメンス7世にとってはいとこの孫)がフランス王家に嫁ぐことになります。
イタリアのフィレンツェを基盤として活動していた、もともとは一銀行家だったメディチ家が、ついにフランス王家との親戚関係を持つことになったのです。
当時の不安定な政治状況の中で、カトリーヌ・ド・メディシス自身はフランス王妃となる前は人質として修道院に入れられ、また婚姻の際もフランス王家とでは身分が釣り合わないのではないかという意見も出るなど、過酷な状況に生きた女性でした。

カトリーヌは夫のフランス王・アンリ2世との間に10人もの子供をもうけ、そのうちの3人が後のフランス王になりました。

フランス王妃となったメディチの女性たち

しかし1562年から1598年という長期にわたるユグノー戦争の間にカトリーヌの息子たちは全員亡くなり、フランス王国に1328年から1589年の約260年間続いていたヴァロワ朝はとだえてしまったのです。

ヴァロワ朝の跡継ぎがいなくなってしまったので、フランスではその次にブルボン家の当主・アンリ4世が国王に即位してブルボン朝が開かれます。
お菓子会社のブルボンの名前もこのブルボン朝からとられたのでは、と一説では言われていますし、なんとなく聞きなじみがありませんか?

さて、そのアンリ4世はカトリーヌの娘、マルグリットと結婚したのですが後に離婚、マリー・ド・メディシスという女性と結婚します。

そう、もちろん苗字から察するとおり、このマリーはメディチ家の女性であり、カトリーヌやマルグリットとも親戚関係にあります。

メディチ銀行を開いて繁栄の土台を築いたジョヴァンニ・ディ・ビッチには、コジモ・イル・ヴェッキオとロレンツォ・イル・ヴェッキオという二人の息子があり、カトリーヌとマルグリットはジョヴァンニの子孫、マリーはロレンツォの子孫というわけです。
この結婚はどちらも政略結婚で愛情はなかったと言われていますが、まるでドラマのような人間関係ですね。

フィレンツェ公国からトスカーナ大公国へ

フィレンツェ公国からトスカーナ大公国へ

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フィレンツェのベースを築いたコジモ1世

初代のフィレンツェ公アレッサンドロは若くして亡くなったため在位は5年程度と短く、また子供もいなかったので、コジモ・イル・ヴェッキオの子孫に受け継がれていたメディチの当主は、ここにきてコジモ・イル・ヴェッキオの弟ロレンツォの家系の男・コジモ1世に受け継がれることになりました。
コジモ1世が1569年にトスカーナ大公の位に任命されたため、フィレンツェ公国はトスカーナ大公国へと変わりました。

コジモ1世はフィレンツェの都市計画に力を入れ、このときに現在のフィレンツェの景観のベースが作り上げられたと言われています。
この改造計画の際に建築された市庁舎は現在ウフィツィ美術館となりました。
非常に多くの人が訪れるイタリア有数の美術館で、メディチ家が製作させたルネサンス期の作品をはじめとして、数々の絵画や彫刻が大量に収蔵されていますよ。

コジモ1世の跡を継いでトスカーナ大公となった息子のフランチェスコ1世は、マニエリスムと呼ばれる芸術や錬金術の研究などにのめりこみ、政治にはあまり関心がありませんでした。
これにより経済はおちこみますが、彼が錬金術に心血を注いだことがフィレンツェ独自のガラス工芸など、化学的な工芸技術の発展には貢献したといいます。

最後の隆盛だったフェルディナンド1世の時代

フランチェスコ1世の死後、1587年に弟のフェルディナンド1世が枢機卿の地位を返上してトスカーナ大公の位につくと、フェルディナンド1世はそれまでの枢機卿のときに築いた豊かな人脈と経験を政治に生かし、また農業や貿易産業に力を入れて経済を活性化させました。
治世に感心がなかった兄フランチェスコの頃に低迷してしまったフィレンツェの経済をふたたび活性化させたことで、市民からの人気が高く支持されていたようです。
また歴代のメディチ家の人々と同様に芸術の保護にも力を注いで、都市の建築事業も積極的に行いました。

フェルディナンド1世はフランスとの結びつきを強めるため、フランス王アンリ2世の孫であるクリスティーヌを妻としてむかえ、さらに兄フランチェスコの娘マリーをフランス国王アンリ4世と結婚させます。
このマリーが前述のマリー・ド・メディシスであり、夫がブルボン朝を開いたアンリ4世というわけですね。

さらに、この時代に遠縁の親戚アレッサンドロをレオ11世としてローマ教皇に就任させますが、レオ11世は就任のわずか26日後に急死し、これ以降はメディチ家からローマ教皇に就任することはなくなります。

フランス史にも関わったメディチ家とトスカーナ大公国の没落

フランス史にも関わったメディチ家とトスカーナ大公国の没落

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三銃士の時代を生きたマリー・ド・メディシス

マリー・ド・メディシスの夫王アンリ4世は非常に女遊びが激しかったことで有名で、資産家であるメディチ家の多額の持参金目当てにイタリアから嫁がされたマリーは、当初は夫からの愛情を受けられず寂しい思いをしていたといいます。
しかしその後、夫との間に待望のお世継ぎ男子・ルイ13世が生まれてからは一躍、次の王の母親として宮殿の中で丁重に扱われるようになりました。

8歳にしてルイ13世がフランス王となるとマリーは摂政として政治をとりおこないますが、それまで名君としてフランス国民に支持されていたアンリ4世の行った政治と真逆の方針をすすめたこともあり、ルイ13世が成長するとフランスの政治から追放され幽閉されることとなります。
1619年にマリーとルイ13世は和解し、宰相ではなく議会のメンバーとして政治にかかわることとなりますが、1631年にはルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿と対立し、再び追放されてベルギーのブリュッセルに亡命してそのままフランスに戻ってくることはかないませんでした。

余談ですが、マリーと対立したリシュリュー枢機卿は、アニメや映画化された小説『三銃士』の敵役として作中に登場していることでも有名です。

メディチ本家の最後のトスカーナ大公

フェルディナンド1世の時代にはトスカーナ大公国の経済は栄えますが、それがトスカーナ大公国が繁栄を見せた最後の時代でした。
フェルディナンド1世の後、4代にわたってメディチ家の君主がトスカーナ大公となり国をおさめますが、4人とも政治的資質に欠けていたこと、またそれまで地中海に面していることで盛んだった貿易が衰退したことで、トスカーナ大公国の経済ははげしく落ちこんだのです。
地中海周辺での貿易がさかんだった今までは、地中海に飛び出たイタリア半島は貿易の中心の一つとなり繁栄しましたが、航海技術が発達したことによって大西洋側に貿易の中心がうつり、それまでの状況と変わってしまったということですね。

7代目のトスカーナ大公、ジャン・ガストーネ・デ・メディチには子供ができなかったので、1737年にジャン・ガストーネが亡くなるとメディチ家の跡継ぎはいなくなってしまいました。

その後のトスカーナ大公はドイツ系貴族のハプスブルク家に受け継がれ、トスカーナ大公国は現在のオーストラリアの母体となったハプスブルク帝国の領土となったのです。

その後のメディチ家と美術品の保存

その後のメディチ家と美術品の保存

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メディチ家の現在は?

現在は、トスカーナ大公国を支配していたメディチ家の直系の血族は、最後のメディチ家のトスカーナ大公となったジャン・ガストーネが没した5年後、その姉アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの死を最後に途絶えたと言われています。
ジャン・ガストーネの兄姉も、あとつぎを残さなかったためです。
しかし、銀行業で成功したジョヴァンニ・ディ・ビッチの代以前に枝分かれをしたメディチの親族は、メディチ本家出身の女性とも婚姻関係があったメディチ・ディ・オッタイアーノ家をはじめ、いくつかの家系が現在でも残っているそうですよ。

しかし、メディチ本家断絶のときにメディチ・ディ・オッタイアーノ家がトスカーナ大公の位を受け継ごうとしたものの、それはかなわず、結局トスカーナ大公国の支配はメディチの家系から離れることとなりました。
ハプスブルク家の支配下となったトスカーナ大公国は後に別の王国に吸収され、今ではイタリアの一部となっていますが、もしこのときメディチ・ディ・オッタイアーノ家が大公位をうけついでいたら、イタリアの歴史はまた違ったことになっていたかもしれませんね。

メディチ家が暮らしたピッティ宮殿

さて、そのようにして隆盛と衰退を見せていったメディチ家でしたが、『メディチ家の12の館と2つの庭園』という遺産を世にのこしていきました。
特にその建築の代表的な一つ、ピッティ宮殿はフィレンツェの市内、南側の中心地に建っている堂々とした建築です。
ピッティ宮殿はコジモ・イル・ヴェッキオのライバルだったピッティという銀行家が建設をはじめるも途中にして亡くなり、それをメディチ家が1550年ごろに買い取って完成させた建物で、1キロほど離れた場所に庁舎(現在のウフィツィ美術館)が建てられるまで政治の場として使われ、またアンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチの死のときまでメディチ家の住居として機能しました。
さらにその後も1911年にイタリア王国の文部省に譲り渡されるまで、トスカーナの君主の住居として使用され続けたそうです。

現在ピッティ宮殿は美術館として一般公開されています。
アンナ・マリーア・ルイーザ・デ・メディチは亡くなる前に「メディチ家のすべてのコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されること」を条件に、それらすべてをトスカーナ政府に寄贈するという契約書を交わしていたため、そのおかげでメディチ家の美術品はちりぢりにならずフィレンツェに残っているのです。

メディチ家が築いた芸術の都フィレンツェでアートにふれてみましょう!

イタリア・フィレンツェの支配者であった、メディチ家の成功からその権力のおとろえに至るまでお話してきましたが、いかがだったでしょうか。
財をなした銀行家のサクセスストーリーと、さらに数々の芸術家をその資産によって育てたパトロンとしての功績がありましたね。
フィレンツェが芸術の都と呼ばれるようになったのには、メディチ家の影響がとても大きく残っているのです。
そんな美しいアートを気軽に楽しむことができる都市、フィレンツェに一度おとずれてみてはどうでしょう。
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