愛新覚羅溥儀のまわりを見れば、日本史と中国史がわかる

日本史と中国史のはざまで大きく揺れ動いた人物がいます。愛新覚羅溥儀――「あいしんかくらふぎ」と読みます。清朝最後の皇帝としてわずか2歳で即位、6歳で退位。〈辛亥革命〉やたびかさなる戦争、内戦。日本の傀儡国家たる〈満州国〉の皇帝に27歳で即位。最後には一北京市民として亡くなります。皇帝という身分の重荷を背負い続け、不可思議な人生を送った、大国・中国のラストエンペラー・溥儀。生まれてから亡くなるまで、彼には歴史と歴史上の人物がまつわりついていました。愛新覚羅溥儀の一生は、彼に関わった歴史上の人物たちの群像劇なのです。

わずか2歳での皇帝即位――〈宣統帝〉時代

わずか2歳での皇帝即位――〈宣統帝〉時代

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モンゴル、チベットにまで覇権をのばし、アジア全体に影響を与えていた大国・中国は、19世紀にいたってアヘン戦争に敗北。
西洋列強の事実上の植民地支配により、中国の地図は「列強がどの地域を支配しているか」を示す、まだら模様に。
その中国・清朝が衰退の一途をたどるさなかに、愛新覚羅溥儀(以下、溥儀)は誕生しました。
溥儀の父親は、醇親王載ほう。
母親は、当時強大な実権を握っていた〈西太后〉の腹心の娘・幼蘭。
清朝を作った愛新覚羅氏の正統な子孫です。
ときは1906年。
清朝は一体どう動いていたのでしょうか?

清王朝はカオス状態!

溥儀の物語をはじめる前に、このころの中国=清王朝の内部を見てみましょう。
愛新覚羅溥儀の誕生した1906年、日本は日露戦争に勝利て1年が経過。
世界史的には共産主義、無政府主義の動きが活発化してきた時代です。

日清戦争敗北後の1898年には、日本の明治維新をリスペクトした革命を起こそうとしたものの、保守派によるクーデターが勃発。
わずか100日の「革命」は潰え、近代化が一時挫折します。
1900年には〈義和団の乱〉。
外国人憎しと、外国人やキリスト教徒を殺害する乱を起こした秘密結社を応援した清朝政府は、西洋列強を敵に回します。
中国はまたも敗北。
西洋化をおしすすめる必要にせまられますが、これによって中国大陸は西洋列強の植民地同然になります。
つまり自分の国全土が、半分別の国のものになっているという、まさに内憂外患のカオス。
そんな中で生まれた溥儀は、ある意味運命の子供だったのでしょう。
1906年2月7日、北京市内で溥儀は生まれます。
転機は生まれてまもなくやってくるのです。

第12代皇帝〈宣統帝〉――西太后の指名によって

生まれてほんの2年と10ヶ月で、溥儀は人生の大転換をむかえます。
皇帝〈光緒帝〉、および〈西太后〉が崩御。
第12代清朝皇帝はよちよち歩きの子供。
世界中が驚きました。

皇帝の指名をしたのは、中国近代史のラスボス・西太后。
彼女は咸豊帝の后。
アロー戦争のゴタゴタの中で咸豊帝が崩御した後は、その後に即位した2人の皇帝の後見という形で権勢をふるいました。
改革運動〈戊戌の変法〉を弾圧。
〈義和団の乱〉において、秘密結社〈義和団〉が西洋人やキリスト教徒を殺害するのを黙認するどころか、西洋にむけて宣戦布告したのも彼女。
重要な政策はすべて彼女が決めていた清国。

強大な権力を握った西太后でしたが、ついに死の床につきます。
彼女の頭にあったのは次の皇帝の座でした。
そこで頭に浮かんだのは、ここまで忠実に自分に仕えてきた醇親王。
醇親王戴ほうには、西太后の腹心の娘から生まれた男の子がいます。
白羽の矢は立ちました。
1908年、西太后は崩御。
溥儀が皇帝の座につきます。
溥儀の先帝・光緒帝は西太后に先立つことわずか1日前に亡くなっています。
光緒帝は西太后が毒殺したという学説が現在では有力です。

辛亥革命――〈中華民国〉の誕生、最初の退位

辛亥革命――〈中華民国〉の誕生、最初の退位

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わずか4年間の在位でした。
溥儀は6歳にして退位します。
民主化運動〈辛亥革命〉が1911年に勃発。
袁世凱らは溥儀の禅定(自主的な退位)を迫ります。
溥儀の実父にして摂政を行う醇親王や高官、溥儀の義理の母たちはこの要求を容れるかわり、溥儀や自分たちが紫禁城で不自由なく暮らし続けられるという保証をとりつけます。
すべて大人たちの決めたことでした。
幼い溥儀は紫禁城での生活の中、皇帝の扱いを受け続けます。
この頃、溥儀は弟の〈溥傑〉とも対面を果たしました。
紫禁城の外では何が起こっていたのか、追っていきましょう。

最初の退位――清朝が倒れたそのとき

中国はアジア初、君主を戴かない共和制国家として立ちあがります。
〈中華民国〉の誕生です。
中国にて古代から二千年以上続いた君主制はこの時倒れました。

世界は変わりつつありました。
民主主義が世界で主流になってきていたのです。
腐敗の深刻化していた清国内部では革命勢力が増長してきました。
知識人はもちろん、海外の中国人(華僑)や兵士たち、一般庶民までもが『満州駆逐、中華回復、民国建国、地権平等』のスローガンを掲げて中国全土で立ち上がりました。
「清王朝打倒」を、「君主のいない共和制国家・中国」を、何よりも中国の威信の回復を目指しました。
「みんなの意志で国を動かす」という民主主義の国家ビジョンは、長い間『皇帝』という大きな存在に支配されるばかりだった中国民衆に非常に魅力的に訴えたのです。

1912年、6歳の溥儀は退位します。
溥儀がその後、数百人の宦官や女官にかこまれて「大清皇帝」としてのあつかいを受け続けることに、革命政府は同意しました。
以後、紫禁城での事実上の軟禁状態は  年に渡って続くのです。

革命政治家〈袁世凱〉――「皇帝」の座についた男

ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『ラストエンペラー』で、溥儀とケンカをした弟の溥傑がこう言って、溥儀少年がショックを受けるシーンがあります「新しい皇帝は自動車持ってる」。
「自動車を持っている皇帝」中華民国の大統領・袁世凱は実際に皇帝の座についた男でした。

かつては清朝に仕える軍人だった袁世凱。
西太后の信頼篤い人物で、また彼の従える軍事力をバックに政治家としても活躍します。
清王朝の時代から、近代化と西洋化を推し進める政策をとったのも彼です。
しかし溥儀の父の醇親王はこの軍人上がりの政治家を疎ましく思い、一時失脚させました。
袁世凱は溥儀とも因縁深い人物だったのです。
〈辛亥革命〉では孫文らとともに先頭に立って革命を指揮。
その後、中華民国の第ニ代大総統に就任します。
中国を近代国家として立て直していく一方、自らの権力を強めていきました。

袁世凱は「中国の人民は1人の為政者が取りまとめなければ、まとまらない」という思想を終生持ち続けていました。
中華民国政府ではまとまりがつかない中国。
袁世凱は驚きの決断を下します、1915年、中華民国を帝政にあらため、〈中華帝国〉皇帝に即位。
自らがトップに立つ立憲君主制を目指した袁世凱でしたが、猛烈な反対にあって退位。
民主化を目指した〈辛亥革命〉の理念もその後、結局は潰えます。
派閥や軍閥による内乱や衝突は、まだまだ続き、群雄割拠となっていく中国。
この後どうなっていってしまうのでしょうか?

溥儀、少年時代のプライベート

溥儀、少年時代のプライベート

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溥儀はその人生で重要な出会いを果たします。
生涯に渡り交流を続けることとなった家庭教師・レジナルド・ジョンストン。
そして最初の2人の妻・婉容と文繡です。
事実上の幽閉生活を送る中で、英国人のジョンストンから教わる知識によって、世界に目を開いていく溥儀。
聡明な皇帝は紫禁城内の改革を推し進めます。
理由もわからない儀式や、大量の財宝、大勢いる宦官の大幅見直しや財政改革や大量解雇を行います。
そうしながら溥儀少年は、外界へ出る夢を見続けていました。

心を交わした帝師・レジナルド・ジョンストン

のちに近代中国史の一級史料『紫禁城の黄昏』を著すことになる、レジナルド・ジョンストン。
オックスフォード大学で学んだ中国学者です。
1919年、13歳の溥儀の帝師(家庭教師)として招聘されます。
ジョンストンは紫禁城にはじめて入った西洋人でした。
若い溥儀少年はみるみるうちに知識を吸収し、近代的・西洋的なスタイルを身につけていきます。
満州人(女真族)のシンボルである辮髪(べんぱつ)を「洋装に似合わない」という理由で切り、スーツを身につける清国皇帝。
溥儀の肖像写真でいつも印象的な、眼鏡を与えたのもジョンストンです。

溥儀はジョンストンから受けた近代的な思想を受けました。
元来聡明な皇帝は紫禁城の改革を実施。
籠の中の鳥の状態でありながら、自分なりに周囲を変えようと努力します。

しかしある日、紫禁城で長く続いた日常は破れます。
唐突に訪れた別れの日まで、ジョンストンは溥儀の人格形成に大きく関わりました。
その後もジョンストンは溥儀と文通や謁見を果たし、深い信頼関係で結ばれた師弟の絆は、ジョンストンが1939年に亡くなるまで続くのです。

最初の2人の妻・正妻〈婉容〉、側室〈文繡〉

16歳で溥儀は周囲の勧めにより、妻を娶ります。
正妻は17歳の婉容。
側室は12歳の文繡です。
この早い結婚も周囲の大人たちが決めたことでした。

写真に残っている婉容は、絶世の美女の名がふさわしい女性です。
溥儀よりも1歳年上。
一方の文繡は12歳の少女。
それぞれ名門家の王女でした。
3人の若い夫婦はむつまじく暮らします。
溥儀は、自分と同じくらいに西洋的で聡明な婉容とともに、英国オックスフォード大学にむけて留学することを夢見ますが、それは残念ながらかないませんでした。

その後、溥儀一家は政変によって紫禁城を放逐されることになります。
正妻・婉容は溥儀と社交界で活躍しますが、ストレスから阿片におぼれます。
性的不能、ホモセクシャルとの噂まである溥儀との夫婦生活は思うようにいかず。
彼女はのちに解説する〈川島芳子〉とレズビアン関係にあったとも言われています。
1946年、発狂し廃人同然となった皇后は、中国某所の監獄で息を引き取ります。
側室ということで劣った扱いを受けていた文繡は、いたたまれずに離婚。
その後の人生を女学校の教師として送りますが、次第に貧窮がきわまって餓死に近い形で、1953年死去しました。

クーデター、ついに紫禁城の外へ

クーデター、ついに紫禁城の外へ

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幽閉の日々は終わりを告げました。
クーデター〈北京政変〉により、溥儀はじめ皇帝一家は紫禁城の外に出されます。
真の苦難のはじまりでした。
天津にある日本租界へと向かった溥儀は、手元に残った財宝を使って軍閥や各国を味方につけようとしました。
中国はまだまだ混乱の中にいました。
、袁世凱の治世下の1912年に第一次世界大戦が勃発。
中立をとった中国に対し日本は〈対華二十一箇条要求〉を突きつけました。
正妻・婉容とともに社交界の花形として活躍し、そして打開策を見出すべく軍閥や各国に働きかける溥儀。
中国と溥儀はどうなっていたのでしょう?

溥儀、日本の〈租界〉へ

紫禁城の中で自由を求めていた溥儀。
外の世界は荒波たつ場所でした。
紆余曲折をへて溥儀は、天津にあった日本の〈租界〉におもむきます。
〈租界〉とは外国人居留地のこと。
ただの外国人居留地ではありません。
治外法権、領事裁判権などが認められています。
そこは半分、別の国。
アヘン戦争以降、列強により中国の半植民地化が行われていましたが、その半植民地支配の拠点となった場所です。

日本も中国に〈租界〉を持っていました。
日本は第一次世界大戦で日英同盟を理由に参戦、ドイツに宣戦布告をして、青島(チンタオ)はじめとしたドイツの〈租借地〉を日本のものにしました。
第一次世界大戦で中国は中立を表明。
しかし戦争のドサクサで日本は〈対華二十一箇条要求〉という不平等条約をふっかけました。
ちなみに袁世凱はこの戦後処理をうまくさばききれなかったことが原因で、失脚にいたっています。

天津の日本租界にて、溥儀は亡国の皇帝として社交界でもてはやされます。
そうしながら軍閥や外国に働きかけました。
そこに声をかけてきた勢力がいます――日本の〈関東軍〉。
溥儀の運命は転回していきます。

大日本帝国軍、満州担当部隊〈関東軍〉

〈関東軍〉――太平洋戦争における日本の暗部を象徴しているかのようで、いい印象を残さない存在です。
シンプルに説明すると「満州地域を管轄する軍隊」。

満州は特殊な地域になっていました。
日露戦争および〈対華二十一箇条の要求〉により、満州鉄道を作る権利を得た日本。
ついでに駅や鉄道周辺の土地の権益まで確保します。
そんなこんなで日本は次々譲歩を引き出し、〈満州鉄道〉沿線は日本の領土同然だったのです。
この事情が満州国建国の基盤になります。

〈関東軍〉はその満州鉄道を守備するために、大日本帝国陸軍から派遣された部隊でした。
満州では、政府と軍部が分立して政治を行われていました。
軍事力という「力」そのものである、〈関東軍〉。
やがて大日本帝国政府をはじめとしたすべての権力から独立した、一大勢力を築くのです。
勢力拡大意欲が盛んだった、当時の日本。
〈関東軍〉はやがて暴走に向かっていきます。
その暴走の成果の一つが〈満州国〉。
ここから先は〈満州国〉建国への泥沼の物語です。

〈満州事変〉――ついに〈満州国〉建国へ

〈満州事変〉――ついに〈満州国〉建国へ

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さてここから日本史との交錯がはじまります。
大東亜共栄圏の拡大を図り、中国大陸や東南アジアに覇権をのばしていた大日本帝国。
そもそもなぜ、傀儡国家〈満州国〉は作られる必要があったのでしょう?その理由を探っていくと、暴走する日本の姿が見えてきます。
日本政府や天皇の意向を無視して、独自に行動をはじめた〈関東軍〉。
軍事力でもって強くなっていこうとした日本。
その先にあった結末はみなさんご存知のとおりですが……一度戦争への坂を下りはじめた日本は、ついに止まることができませんでした。

〈張作霖爆殺事件〉そして〈満州事変〉へ

日本史の教科書で覚えさせられた〈張作霖爆殺事件〉。
その単語だけが頭のなかでひとり歩きしますが、そもそも張作霖とはどんな人物だったのでしょう?

〈辛亥革命〉で清王朝が倒れ、袁世凱が失脚したのち、各勢力の群雄割拠時代に突入した中国。
張作霖はそのうちの一人、軍閥政治家です。
満州を拠点として活躍。
その勢いから「満州王」と呼ばれました。
日本とも一時、協力関係にあった張作霖。
しかし〈国民党〉の蒋介石に追いつめられ、政治的に失脚していきます。
満州に勢力を持つ張作霖が邪魔だ……そう思ったのは満州で拡大路線を続ける〈関東軍〉でした。

1928年6月4日早朝、南満州鉄道が爆破されます。
その中には張作霖が乗車していました。
張作霖は死亡。
この事件は〈関東軍〉の犯行とされましたが〈関東軍〉は否定します。
〈関東軍〉は国際社会からも、日本政府からさえも独立して軍事拡大を続けます。
しかし悲劇の源は「満州が日本の生命線」という陸軍の方針にあったでしょう。
ともあれ〈満州事変〉ははじまりました。
それは、日本の無謀な戦争という悲劇のはじまりでもあったのです。

暗躍する清王朝最後の皇女〈川島芳子〉

清王朝の復辟(ふくへき)を望み活躍する女性がいました。
清王朝の最後の皇女の1人で溥儀とも血縁関係にある皇女・愛新覚羅顕シ。
彼女は父親の顧問であった日本人・川島浪速の養女となり「芳子」の名前を得ました。
〈東洋のマタ・ハリ〉と呼ばれた男装の麗人です。
日本で育った彼女は芳子はある時、断髪。
「男して生きる」と決めます。
そして日本軍の諜報部員として活躍をはじめるのです。

彼女の目的は、清王朝の復辟(ふくへき)。
つまりふたたび清国を復活させることです。
そのために日本に協力した芳子でしたが、「男装の麗人」の美貌もあいまって政治のカードに使われます。
1931年〈満州国〉建国にあたり皇后・婉容を奪還する任務を受け、旅順まで護衛。
彼女の勇姿を題材に小説や歌まで作られるという社会現象を巻き起こしました。

しかし社会の暗部を見てきた芳子に平穏な日はありませんでした。
苦痛から逃れるために薬物に依存します。
太平洋戦争終結後、各地で潜伏をしていたものの、〈国民党〉によって逮捕。
当時〈国民党〉と〈共産党〉の二大勢力で内戦状態だった中国ですが、政争のカードに使われないよう、危険な存在とされた川島芳子。
北平第一監獄で銃殺刑に処されたのは、彼女が満40歳になった1948年のことです。

満州国皇帝〈康徳帝〉、誕生

満州国皇帝〈康徳帝〉、誕生

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大人たちや周囲の言うがままに生きざるをえなかった、溥儀。
彼がはじめて自分の意志を通したのは、満州国皇帝即位を決意したときだったと言います。
1932年3月1日、満州国建国。
溥儀は〈満州国〉の執政、そして翌年には皇帝へと進みます。
日本は〈満州国〉建国をきっかけに国際社会から孤立、国際連盟を脱退します。
ついに1941年12月12日、日本はアメリカへ宣戦布告。
溥儀はその激動の中で孤独にさいなまれていました……

〈満州国〉建国の理由って?

あくまで溥儀は「傀儡(かいらい)」でした。
つまり、あやつり人形です。
日本の傀儡国家であった〈満州国〉。
しかし作られる必然性は一体どこにあったのでしょう?

それには、中国の状況がきわめて悪化していたということに眼を向ける必要があります。
何度も言っているように、中国全土は群雄割拠時代、言いかえれば無政府状態でした。
さらに北からはロシアが虎視眈々と中国を狙ってきています。
そして日本陸軍が「日本の生命線」とまで呼んだ満州は、ロシアと国境を接する地域でした。

さて、ここで問題となるのが〈満州鉄道〉です。
他の列強と同じく大陸に勢力進出をした日本は、満州を重視します。
現代の観点で見れば、異常なほどに。
いつどうなるかもわからない満州の状況を見て、日本――というよりも、満州の特殊権益を過剰に重視する〈関東軍〉は思ったのです。
「政府が統治し、法律を施行できるように、国を作ってしまえばいい」。

かくして〈満州国〉建国はなされました。
擁立されたのは、清朝最後の皇帝・溥儀。
清朝の帝室・愛新覚羅氏は満州をルーツとしています。
愛新覚羅溥儀を戴くことによって国の正統性を強調したのです。

孤独な溥儀と新たな2人の妻

〈満州国〉建国からまもないある日。
日本の高官が溥儀のことをこう呼びました。
「溥儀閣下」「朕は皇帝である」と溥儀は激怒します。
……が、事実〈満州国〉のトップは、たしかに溥儀ではなかったのです。
満州国の政治は日本が行っていました。
日本の権益を守るために作られた国なのですから。
溥儀は利用されたわけです。

それでも公人のして溥儀は数々のレセプションに参加します。
しかし正妻である皇后・婉容はほぼ廃人状態でした。
阿片におぼれ、戦後には完全に発狂し、監獄で誰にも看取られず死ぬ運命にある婉容。
その一方で溥儀は新たな2人の妻を迎えました。

1人は側室・譚玉齢(たん・ぎょくれい)。
温厚でやさしい玉齢をもっとも愛した溥儀。
玉齢も溥儀のことを愛していました。
しかし彼女は22歳で謎の病死をとげます。
後々まで、これは日本軍による毒殺だと溥儀は考えていました。
そして4人目の妻は、貧農の生まれの李玉琴(り・ぎょくきん)という15歳の少女です。
譚玉齢の亡きあと、日本の皇室から妻をめとるというさらなる干渉をおそれて、宮廷に連れてこられた彼女は、天真爛漫で善良な性格でした。
廃人状態の婉容を最後まで面倒を見た玉琴。
21世紀を見て亡くなっています。
2001年死去、71歳でした。

戦後〈中華人民共和国〉の中で

戦後〈中華人民共和国〉の中で

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1945年、日本敗戦。
亡命をはかった溥儀でしたが捕えられ、中国を裏切った「戦犯」として収監されます。
そして共通の敵・日本が倒れたことにより、中国はふたたび内戦状態。
蒋介石の〈国民党〉との激戦の末勝利したのは、毛沢東ひきいる〈共産党〉でした。
ようやく中国は一国家としてまとまります。
〈中華人民共和国〉の誕生です。
そしてその後起こった、世界史において忘れてはならない悲惨な破壊の時期、毛沢東が権力の座にあった時期に起こった〈文化大革命〉――溥儀は一体どのように生きたのでしょうか。

文化大革命の荒波

世界史で記憶にとどめておかなければならない破壊の時期があります。
1966年から1977年まで10年間に渡り、毛沢東が国家主席にあった時代に勃発した〈文化大革命〉です。
このさなか、中国の伝統文化がすべてが否定され、破壊しつくされました。
「資本主義打倒」を掲げ、インテリ層や反毛沢東勢力を根絶やしにしようとした、権力闘争です。
毛沢東主席への崇拝を集中させようとしたこの政策で、すさまじい破壊が行われました。

溥儀に関わった人びとも危険にさらされます。
弟・溥傑は日本の妻子(溥傑の正妻は日本の皇族でした)との再会をめざして生きのび、1994年まで存命しています。
4人目の妻・李玉琴も迫害されました。

国策で結成された〈紅衛兵〉による私刑や処刑、粛清の嵐が吹き荒れました。
その犠牲者は2000万人とも8000万人とも言われます。
統計が残っていないため正確な数字ではありませんが、数千万の人の命が失われたのは事実。
何よりも中国の重要な文化史跡などが破壊された〈文化大革命〉は20世紀後半の事件の1つです。

模範囚としての日々、そして

日本の戦争犯罪を裁くための〈東京裁判〉に、証人として召喚されもした溥儀。
同時に戦犯として、中国・撫順の政治犯収容所に収容されます。

生まれてから〈満州国〉瓦解まで、常に「召使」「側近」などが身の回りの世話をしていた溥儀。
収容所内では掃除や労働が課せられていましたが、溥儀は服や靴すら自分でうまく身に着けられませんでした。
しかし常に礼儀正しく、おとなしい溥儀は「模範囚」としてあつかわれました。
撫順政治犯収容所には、弟の溥傑もともに収容されていました。
儀式とレセプションの連続、皇族・公人として生きてきた2人はこの場所で、ある意味一番「人間らしい」生活を身につけたのかもしれません。

1959年「思想改造」を終えた溥儀と溥傑は、中華人民共和国の国民として特赦で釈放されます。
この時から先は北京市民としての生活をはじめるのです。

愛新覚羅溥儀、一北京市民としての最期

愛新覚羅溥儀、一北京市民としての最期

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400年に渡って中国を治めた愛新覚羅氏の末裔は、1959年から北京でつつましやかな生活を送っていました。
植物園の庭師として仕事を世話され、やがて歴史の史料を研究する仕事につきます。
そんな中で5人目の妻を迎えました。
〈文化大革命〉の猛威が渦巻く中国国内、溥儀が殺されなかった理由はいくつか考えられますが、何よりも首相・周恩来の庇護があったでしょう。
加熱する〈文化大革命〉のストッパー役として政治的に機能していた周恩来。
教養のある彼は溥儀に同情的で、この最後の皇帝に手出しをさせませんでした。
しかしついに溥儀はその人生を終えようとしています。
激動の人生を送ったラストエンペラーの人生の旅路の最後は、どのようなものだったのでしょうか。

5人目の妻・李淑賢との日々、そして病……

1959年に釈放された溥儀は、看護師の李淑賢(り・しゅくけん)と結婚します。
彼女は清朝皇帝にとって最後の妻となりました。
高い文化教養を身に着けた溥儀は研究員として静かなつましい生活を送ります。
たがいに好きあっての恋愛結婚でした。
おそらく溥儀にとってもっとも幸福な結婚生活だったのではないでしょうか。

しかし溥儀は病に倒れます。
ガンでした。
しかしかつて皇帝であった「反革命的」存在の溥儀を治療しようとする病院はありません。
それを聞きつけた、かねてより溥儀の庇護者だった首相・周恩来は北京市内の病院に、溥儀の治療を命じます。
しかし溥儀の入院する病院に〈紅衛兵〉が乱入。
〈文化大革命〉のあらし吹き荒れる中国。
こんな中で「反革命的」な溥儀を治療すれば、自分に何がふりかかってくるかわかりません。
溥儀を治療する医者はありませんでした。

このことを知って激怒した周恩来は院長に電話し、命じます「何が何でも愛新覚羅溥儀の治療を続けるように」

最後に食べたかった「チキンラーメン」

治療の甲斐はありませんでした。
ガンは末期にまで進行していたのです。
「何か食べたいものはあるか」と問われた溥儀は、こう答えます。
「チキンラーメンが食べたい」。

晩年溥儀は日本のチキンラーメンを非常に愛好していました。
前半生においては紫禁城で、儀式に近い豪勢な食事をとっていた溥儀。
紫禁城を出てからも上流階級として生活し、〈満州国〉でも皇帝の権威のために裕福で恵まれた生活をしていました。
収容所を出て北京で、自らの手足で働き、得たお金で生活する。
その中で出会った「チキンラーメン」に、つましい生活の中の幸福を感じられていたのでしょうか。

1967年10月17日、清朝12代皇帝。
満州国皇帝・愛新覚羅溥儀は妻の淑賢に看取られて、波乱の生涯を閉じます。
中国の歴史の激動と運命をともにした一生でした。

歴史の激動、苛烈な運命を生きぬいた皇帝

生まれてから数々の政治謀略に巻きこまれ続けた、ラストエンペラー。
幼くして帝位につき、すぐ退位。
もう一度新たな国の皇帝に即位。
その後「犯罪者」として刑務所に収容され、最後は一市民として余生を送る――このような人生を送った歴史上の人物は類を見ません。
溥儀に関わった人びとは、本人を含め悲劇的な運命をたどっています。
それでも彼らは「国」を守るため、立派にするため命をかけていました。
激動の時代と苛烈な運命を生きぬいた愛新覚羅溥儀とすべての人物に、拍手を送りたくなりませんか。
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