ここが邪馬台国なの?佐賀県「吉野ヶ里遺跡」の歴史

吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は佐賀県の東側にある弥生時代の代表的な遺跡。広大な敷地の中に様々な遺構が保存・復元され、歴史ファンのみならず多くの観光客で賑わっています。のどかな丘陵地帯に建つ遺跡群は現代人に何を伝えようとしているのでしょうか。

吉野ヶ里遺跡とは

 

吉野ヶ里遺跡とは

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吉野ヶ里遺跡はどこにある?

 

吉野ヶ里遺跡は佐賀県の東部、福岡県との県境にも近い神埼郡吉野ヶ里町と神埼市の間に位置しています。
脊振(せふり)山地南側から平野部へ伸びた伸びた帯状の段丘の上。
南北に縦長の形をしています。
佐賀県の東側の段丘には数多くの遺跡が見つかっていて、このあたり一帯にはかつて、古代の人々の暮らしがあったのだと考えられていました。

現在では遺跡とその周辺部のおよそ117ヘクタールが「吉野ヶ里遺跡公園」として整備が進められており、遺跡の発掘調査・保存・発掘物の展示はもちろんのこと、「弥生人の声が聞こえる」を基本テーマとして古代の生活を体験できるプログラムを実施するなど、様々な情報発信の拠点にもなっています。

園内は「環壕集落ゾーン」と呼ばれる、弥生時代後期の建物や集落の様子を復元したエリアを中心に、レストランやレクリエーション広場などが設けられていて、火おこしや勾玉づくり、古代米の収穫など、古代人になりきることができる体験プログラムが充実しており、まさに”古代テーマパーク”といった感じ。
117ヘクタールといえば東京ドーム25個分に匹敵する広さ。
訪れた人はみな目を見張ります。

「環壕集落ゾーン」に足を踏み入れると、弥生時代にタイムスリップしたと錯覚に陥るほど、様々な形状の建物が復元されています。
環濠・環壕(かんごう:柵や掘を巡らせた集落のこと。
吉野ヶ里では”ごう”の字を”壕”と表記)や高床住居、物見櫓、高床式倉庫など様々な建物が、もともとあったとされる場所に建てられていることも注目すべき点なのです。
保護のため別の場所に建てられているものもありますが、多くは、発見された遺構に盛り土をして保護した状態で、その真上に復元されています。

JR長崎本線の吉野ヶ里公園駅から徒歩15分。
緩やかな山々を背にした水の豊かな平野。
古代の人々もこれと同じ風景を見ていたのかと思うと感慨ひとしおです。

吉野ヶ里遺跡はなぜ有名になったの?

 

吉野ヶ里遺跡はなぜ有名になったの?

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”邪馬台国時代の「クニ」”

”佐賀県吉野ヶ里 最大級の環濠集落発掘”

”物見やぐら・土塁 倭人伝と対応”

1989年(平成元年)2月23日の朝日新聞一面が突如、こんな見出しで飾られました。
1986年(昭和61年)頃より進められていた発掘調査の過程で見つかった、このあたり一帯に埋まっている遺跡の存在が大々的に発表されたのです。

”邪馬台国”。
その言葉には強い力があります。
古代歴史ファンならずとも、魅力を感じる人は多いでしょう。
その遺構を一目見ようと、のどかな農村地帯に連日多くの人が押し寄せました。
人口わずか2万人の小さな町に、2ヶ月でおよそ100万人がこの地を訪れたといいますから大変な騒ぎであったことは容易に想像がつきます。
現在では歴史公園として観光客の受け入れ体制もしっかり整っている吉野ヶ里ですが、1989年当時の写真を見る限り、その頃はまだ、土がむき出しの荒れ地に過ぎません。
そんな吉野ヶ里が一躍、国内外の注目を集めることになったのです。

そんな見出しが新聞に載る前から、大変な遺跡であることは既に知られてはいました。
吉野ヶ里では、弥生時代のほぼすべての時期の遺構・遺物が見つかっています。
そのことから非常に長い期間、人々の暮らしがそこにあったことがわかります。
また、さらにそれ以前、縄文時代や旧石器時代のものと思われる石器や土器類も見つかっていて、古代の人々の暮らしの移り変わりを知る貴重な場所であると考えられていました。

そこへ”邪馬台国”の見出し躍る一面トップ記事が。
ご存知の方も多いと思いますが、女王卑弥呼が納めていたとされる邪馬台国がどこにあったのかについては、候補地は数カ所あるものの、まだ解明はされていないのです。
解明されていないということが逆に、多くの人々を惹きつける魅力へと繋がっているのかもしれません。

もともと、広範囲に渡って貴重な遺構が数多く見つかっていた場所に、”邪馬台国”というミステリアスな単語が重なって、吉野ヶ里の名は「弥生時代の遺跡の代表」として広まっていったのです。

工業団地計画のはざまで

 

吉野ヶ里一帯は戦前から、専門家の間ではよく知られた、有名な遺跡だったのです。

大正から既に、九州北部・福岡の平野部を中心にたくさんの遺跡や遺物が発見されていました。
昭和に入ってから佐賀周辺でも弥生時代の土器や人骨、銅鏡などが多数出土していて、佐賀平野にも徐々に注目が集まるようになっていきます。
戦後、現在の吉野ヶ里遺跡周辺から北側脊振山麓の広範囲に渡って多くの甕棺(かめかん:壺などの焼き物でできた棺)が出土し、人骨と共に銅鏡、鉄器、腕輪、ガラス製の玉など、貴重な遺物がたくさん見つかったのです。
これによって、この地域は弥生時代、大陸と交流があったのではないか、との見方が強くなっていきました。
昭和40年代後半から50年代にかけては、さらに広範囲に渡って、高床倉庫跡や墓跡などが多数見つかっています。
また、炭化米(たんかまい:埋もれて炭になった米)も多数出土していて、稲作や食料の備蓄を行っていた痕跡もたくさん出土しているのです。
吉野ヶ里は早い時期から文化財保護の対象となっていました。

このようにたくさんの貴重な遺構が見つかる一方で、別の計画が進行します。
1982年(昭和57年)、佐賀県は吉野ヶ里一帯を、地域の活性化を目的とした工業地域として開発していくと決定しました。
候補地は他にもあったのですが、交通の便や水源の確保などの条件を比較したところ、吉野ヶ里丘陵一帯が最適であるとの判断が下されたのです。

吉野ヶ里遺跡を保護するべきか、それとも今現在の佐賀県の人々の暮らしや経済のことを考えるべきか。
保護と叫ぶのは簡単ですが、地域の人たちにとっては重要な選択です。
町が難しい状況に陥ったことは言うまでもありません。
住民全員が同じ意見というわけではなかったでしょう。
保護を叫ぶ声もあれば、現在の住民の生活を、税金の有効活用を問う声も上がったといいます。

巨大環濠集落

 

巨大環濠集落

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それまで、たくさんの遺構や遺物が出土していることは分かっていましたが、内容については不明な点が多かったのだそうです。
どれほど貴重なものが埋まっているのでしょうか。
そこで、工業団地建設を進めるに当たって、現状の調査が行われることになったのです。
調査は1986年(昭和61年)5月から3年間の計画で行われる予定でした。

3年の期限付き、しかもかなり広大な土地の調査は前代未聞。
それでも調査は粛々と進められ、ついに吉野ヶ里遺跡の全容が明らかになります。
戦前より出土・発見されていた数々の遺跡は全てひとつであり、南北およそ1キロメートル、約40ヘクタールにもおよぶ巨大な環壕集落であることが分かったのです。

吉野ヶ里遺跡の出土品が、紀元前三世紀から紀元三世紀に渡るおよそ600年間、弥生時代のほぼ全ての時代におよぶことも、吉野ヶ里遺跡の存在意義を大きく示していました。
弥生時代の遺跡は日本全国各地で発見されていましたが、600年以上も続いた弥生時代全体を把握できる遺跡はまだ発見されていなかったのです。

弥生時代は日本の歴史上大きな変化の時代であったとされています。
小さな村や群れが、秩序を持った大きな集落や連合、つまり”クニ”へと変化してく時代。
それが弥生時代であったと考えられているのです。
弥生時代の遺構を調査・研究していくことで、日本という国の成り立ち・ルーツを知ることができるのではないでしょうか。
吉野ヶ里遺跡は現在の日本に残された数少ない手がかりなのです。

こうして吉野ヶ里遺跡は、まず多くの専門家たちの注目を集めることになります。
そしてこの調査の終盤、あの新聞記事が世に出ました。
これによって吉野ヶ里遺跡は歴史の専門家・識者だけでなく、広く一般にその名が知られることとなったのです。

吉野ヶ里の歴史

 

吉野ヶ里の歴史

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旧石器時代・縄文時代

 

一般的に縄文時代の生活の基本は、狩りや木の実の採取、魚や貝など、自然の恵みを得ることであったと考えられています。
氷河期の時代が終わり、気候が温かくなってきたことで、人々は次第に移動生活から解放され、安住化が進んでいったようです。

日本国内でも縄文時代の遺跡は何カ所も発見されており、住居や墓など、生活の拠点となるムラが既に形成されていたと考えられています。
吉野ヶ里遺跡周辺にも、狩りをしたり木の実を採ったりして生活する古代の人がいたのでしょう。
もし、旧石器時代からずっと人が住み続けていたのだとしたら、きっと吉野ヶ里のあたりは、ムラを作って生活するのに適した場所だったのではないでしょうか。

また、吉野ヶ里の南側には有明海が広がっていますが、縄文時代にはこの沿岸が、吉野ヶ里丘陵の南側近くまで来ていたのではないかとも考えられています。
遠浅の干潟でとれる魚や貝も、このあたりの人々の生活の糧となっていたのでしょう。
遺跡のすぐ近くに川もあり、水資源にも困りません。
豊富な食料を求めてこの地に人々が定住した可能性は十分に考えられます。

しかし、いくら安住化が進んだといっても、狩りや漁を中心とした生活では、完全な定住はまだ難しかったのではないでしょうか。
定住の条件はやはり十分かつ安定した食料の確保。
大きな集落を作るためには、安定した食料の確保・供給ができなければなりません。

同じ佐賀県内、吉野ヶ里遺跡より西、唐津市西南部の菜畑遺跡(なばたけいせき)は、日本最古の水稲耕作遺跡といわれており、縄文時代から弥生時代初頭にかけてのものとされる水田跡が発見されました。
菜畑遺跡発見より以前に、最古の水田跡とされていた板付遺跡(いたづけいせき)は吉野ヶ里遺跡の北側に位置します。
大陸から伝わったとされる稲作の技術が吉野ヶ里に渡ってくるのは、もう間もなくのことでしょう。

弥生時代・前期~中期

 

弥生時代・前期~中期

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弥生時代の遺跡は日本各所で数多く見つかっています。
時代も600年~700年と長く続いたと考えられており、考古学では大きく3つに区分して論じられることが多いようです。

弥生時代に入って間もなく、初期の頃のものと思われる集落跡が、主に遺跡の南側、吉野ヶ里丘陵の上に点々と発見されています。
その総面積はおよそ2.5ヘクタール。
この頃から、小さな集落が形成され始めていたようです。
また、遺跡の南端には吉野ヶ里遺跡最古と思われる環壕らしき跡が見つかりました。
これにより、弥生時代の早い段階から環壕を巡らせた集落が形成され、小さなムラからクニへと変わっていく兆しが見え始めています。

この集落跡からは、土器や石器、貝殻、獣骨などが数多く発見されました。
また、この時期には既に青銅器の製造が始まっていたと考えられていて、鋳型の破片と思われる石なども出土しています。

弥生時代中頃に入ると、遺跡の南側全体、かなり広い範囲を囲む環壕集落が形成されたようです。
その広さは初期の頃のおよそ10倍。
20ヘクタールにもおよんだと考えられています。
環壕の内側には多くの竪穴住居や穴倉の跡などが見つかっており、土器や石器などの他に、木製の農具や食器なども多数発見されました。
同時に、この頃のものと思われる青銅器を作成するための鋳型などもいくつか見つかっているとのことです。

また、この時期に多く使われていたと思われる甕棺も、遺跡内の数カ所にまとまって埋められているのが見つかっていて、推定では10000以上あるのではないかと考えられ、出土品や発掘の様子を間近に見ることで、当時の人々の死を悼む想いに触れることができます。
さらに遺跡の北側には、身分の高い人のものと思われる特別な墓も見つかっていて、ガラス製の管玉や銅剣などが収められているものもありました。
身分の違いや階級などがはっきりと分かれていたこともうかがい知ることができます。

棺の他にも、儀式に使われたと思われる道具のようなものも出土しており、祭壇が築かれ祭祀(さいし:神や祖先を祭ること)が行われていたのではないか、とも考えられてきました。

弥生時代:後期

 

弥生時代後期には集落の規模はさらに拡大し、現在の遺跡の範囲でいうところの北方向へと広がっていきます。
40ヘクタールを超える、国内最大規模の環壕集落の登場となりました。
この時代が吉野ヶ里の最盛期と見られており、現在の吉野ヶ里遺跡はこの時代の様子を復元したものなのだそうです。

遺跡の西側には備蓄倉庫らしき痕跡が見られ、住居と倉庫は別に設けられていたらしく、大きなクニが形成されていたことがよくわかります。
集落の人口は増え、食料の備蓄も多くなっていったのではないかと思われます。

また、環壕の規模も大きくなったと見られ、幅6メートル、深さ3メートルのV字形の巨大な外環壕の跡と、その内側にも住居群を守るように内環壕が作られていました。
環壕が二重に作られているのです。
さらに、環壕や柵で囲われた中に、物見櫓などの施設が整えられ、”守り”を固めていったと見られています。
残された柱跡などから、かなり大きな建物が建てられていたのではないかと考えられているのです。

吉野ヶ里遺跡の発掘調査以前は、弥生時代にはそれほど大きな建物はなかった、と考えられていました。
吉野ヶ里遺跡では、発見された柱穴や柱と柱の間隔などから弥生時代の建物の大きさを推定し、全国各所の同時代の遺跡の事例と比較。
出土した土器に描かれていた建物の絵柄などをもとに、まず、物見櫓の復元が行われました。
高さは約12メートル。
直径50センチメートルもの太い柱が建物を支えています。
こんな大きなものが2000年も昔に作られたのか?と目を疑いたくなるような壮大さ。
しかし、この物見櫓の復元後、全国の弥生時代の遺跡からも、巨大な建造物の痕跡が次々と見つかります。

その後も、吉野ヶ里遺跡にはたくさんの建物が復元されてきました。
現在では大小合わせて100棟近い建物群によって、弥生時代の風景と人々の営みを感じることができるようになっています。
先ほど触れた物見櫓も迫力がありますが、吉野ヶ里最大の建物、会議や祭祀が行われていたと考えられている主祭殿も一見の価値ありです。

環壕や柵の役割

 

環壕や柵の役割

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弥生時代にそれほど大きな建物があったはずはない。
なにせ2000年以上も昔の話。
そう考えられてきたのも無理はありません。

しかし一方で、この時代の、集落の規模の変遷を見ていけば、可能性はある、さもありなん、という見方もできるのでは。
稲作がさかんに行われるようになり、食料を備蓄し、身分の差ができて、働く者、支配する者、祀り事を取り仕切る者など役割が生まれ、役割ごとに分かれて住まうようになった時代。
人々は何を考えるでしょう。
クニが広くなれば多くの人がより豊かに暮らせるようになるはず。
もしすぐ近くに、自分たちと同じような集落があったとしたら、その先にあるものは?

そうです。
戦争。

弥生時代と聞くと農作のイメージが強く、のんびりとした平和な光景を思い浮かべる人が多いかもしれませんが、弥生時代こそ、日本各地で戦争が始まった時代なのです。

吉野ヶ里で見つかった物見櫓や柵の跡、環壕はどれも、戦いに備えて作られた防衛施設。
物見櫓は高ければ高いほど、周辺の監視に役立ちます。
遺跡の中でたくさんの棺が見つかっているのも、争いの激しさの証なのかもしれません。
また、発見された人骨の中には、首のないものや、鏃(やじり)が打ち込まれたものも見つかっているのだそうです。

海外にも、農業が盛んに行われるようになり、人々が定住を始めた後に、人と人との争いが起きるようになっている例は多数あるとのこと。
空腹を満たすため、個々に狩猟を行っていた時代とは異なり、集落の人々と協力して食料を守ることが、個々が生き延びることに繋がっていったのでしょう。
それが徐々に集落同士の戦争へと発展していったのかもしれません。

実は、弥生時代が、人々の間に戦争が始まった時代である、という根拠がもうひとつあります。
「魏志倭人伝」や「後漢書東夷伝」といった、中国大陸に残る文書の中の記述です。

弥生時代と邪馬台国

 

弥生時代と邪馬台国

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魏志倭人伝の中の邪馬台国

 

「邪馬台国はどこにあったのか」

その答えは21世紀に入った今でもまだ出ていません。
九州北部説と近畿地方説が有力と言われていますが、ずいぶんと隔たりがあります。
邪馬台国という名前は誰でも知っているのに、なぜどこにあったかわからないのでしょう。
残念ながら、日本には記録が残っていないからです。
弥生時代にはまだ文字というものがなく、文章による記録は皆無。
では、元ネタはどこから?なんと、中国大陸の文書「魏志倭人伝」にその記述があるのです。

魏志倭人伝とは、「三国志」という歴史の書物の中の一部。
三国志とは180年頃~280年頃の時代、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)という3つの国が覇権争いを繰り広げた”三国時代”という時代について書かれた歴史書です。
三国志というと、劉備と関羽、張飛による桃園の誓いや赤壁の戦いなどを思い浮かべる人も多いかもしれませんが、あれはこの三国志をもとに明の時代に書かれた「三国志演義」という物語で、実際の歴史書とは少々異なる内容となっています。
魏志倭人伝が登場するのは三国時代より少し後の時代に編纂された歴史書の方に登場します。

三国志の中の「魏書」という、魏の国について書かれた書物の第三十巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」の中にある「倭人条」という文章が、「魏志倭人伝」に当たります。
文字数にして2000文字ほど。
つまり、魏の国のことを日々記録していたらたまたま日本人(倭人)のことを書く機会があった、たまたま日本(倭)に行ったことがある人から話を聞く機会があったので記録した、日本人(倭人)のことを調べて書いた書物というわけではない、ということなのです

でも、当時は、日本にはまだ文字はありませんので、これは大変貴重な資料である、ということになります。
それほど克明ではないにせよ「邪馬壹(台)國にいたる。
女王の都とするところである」といった文言があり、一行がそこへたどり着くまでに立ち寄った地名や距離、かかった日数、国の様子などが記されていました。

多くの識者がその内容を紐解き、邪馬台国の場所を特定しようとしましたが、2000年前の記録ということもあって実際の地名や距離と合致しない部分が多く、場所の特定には至っていないのです。

吉野ヶ里遺跡は「邪馬台国」なのか?

 

1989年2月23日の朝日新聞の一面。
「邪馬台国」という単語と共に世間に知れ渡ることとなった吉野ヶ里遺跡。

では、吉野ヶ里遺跡は「邪馬台国」なのでしょうか?答えは「No」なのだそうです。
邪馬台国であるという確たる証拠は見つかっていません。

ただ「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国の建物に似た痕跡が見つかっているため、同時代か、あるいはその前後に存在した集落か、または、邪馬台国の時代に存在した「クニ」のひとつではないか、とも考えられています。
魏志倭人伝には、倭国(日本)には邪馬台国を中心として20~30くらいの小さなクニがあったという記録がありました。
このうちのどれかが吉野ヶ里のことなのか、大陸からの一行が吉野ヶ里を訪れたことがあったのか、残されている史料は少なく、想いを巡らせるよりほかに術はありません。

魏志倭人伝の中には、一行が途中で立ち寄った土地の中に「対馬国」や「一支国(壱岐)」など、現在の地名と一致する記述もあります。
この順番でいくと、壱岐から九州北部へ上陸したのではと思われるのですが、その後の道筋が実際の地理と当てはまらない。
そもそも九州に上陸したのではないのかもしれない、ではどこに?一見、通った道筋がきちんと書かれているようにも読めるので、余計に混乱をきたします。
邪馬台国の場所がなかなか解明に至らないのは、魏志倭人伝の記述が曖昧だから……と言っては身も蓋もありませんが、まるでロールプレイングゲームかミステリー小説の謎ときのようなその記述に多くの人が夢中になったことは確かです。

明確な証明ができない限り、吉野ヶ里が邪馬台国とは言えません。
しかし、吉野ヶ里には魏志倭人伝に登場する弥生時代の日本(倭国)の様子と似た遺構や遺物が見つかっています。
中には「宮殿・物見櫓・城柵などは厳重に設けられ、つねに兵器をもった人々がこれを守衛していた」という記述もあり、日本(倭国)の集落には戦いへの備えが万全であったことが記されているのです。

位置関係はわかりませんが、同じ時代に大きなクニを作っていた吉野ヶ里が、邪馬台国と同時期に存在していた可能性は十分に高い。
吉野ヶ里は邪馬台国ではないのでしょうが、吉野ヶ里が邪馬台国論争に一石投じたことはまず、間違いないでしょう。

”国”と”クニ”

 

”国”と”クニ”

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1989年2月23日の朝日新聞の一面で”クニ”というカタカナ表記が使われていたことを受けて、この文章の中でも時折”クニ”という表記を使いました。
これは、魏志倭人伝の冒頭にも「以前は百余国だったが今は30箇国」といった記述があり、ここでいう”国”とは独立国家というより、地方の小さな集落の集まりのようなものだったのでは、と考えられています。
おそらく、邪馬台国を中心に自活した集落があった、ということなのではないかと考えられているのです。

国家としての”国”と区別するべく、本文章内でも”クニ”という表記を用いました。

ところで、先ほど記した魏志倭人伝の中の一文の訳の中に宮殿・物見櫓・城柵といった施設が出てきました。
このほかにも、大陸からの一行が見た日本の集落での暮らしぶりがいくつか描かれていますが、これらの描写が吉野ヶ里の様子がよく似ていることから、もしや?と感じる人も多いのではないかと思います。

吉野ヶ里が弥生時代の遺跡の中でも特に注目を浴びる理由は、弥生時代の前期・中期・後期全ての遺構や遺物が発見されているという貴重な場所であることと、もうひとつ。
魏志倭人伝の記述と邪馬台国の存在が大きく影響していると言えるでしょう。

吉野ヶ里では現在でも、精力的に発掘・研究がすすめられていて、希望すればその様子を見学することも可能です。
古代の遺跡は数が少なく、吉野ヶ里の存在は大変貴重とされています。
また、学説を揺るがす発見があるかもしれません。

余談ではありますが、吉野ヶ里遺跡は2006年(平成18年)に「日本100名城」に選ばれています。
立派な天守閣を持っていたとされる名だたる名城と肩を並べて、吉野ヶ里遺跡の名前が。
遺跡としてではなく、日本の城郭の始まりであると評価されてのリスト入りのようです。

吉野ヶ里の今

 

吉野ヶ里の今

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古墳時代から古代・中世・近代へ

 

では、弥生時代より後の時代の吉野ヶ里に目を向けてみましょう。

弥生時代の後期に大変栄えた吉野ヶ里ですが、3世紀後半頃になると集落としての機能はほぼ消滅してしまったと考えられています。
明確な理由は今のところまだ不明のようですが、他の地域でも、同時期の集落は同様に姿を消してしまっているようです。
稲作が盛んになったため、もっと耕作しやすい平地に移動していったのか、争いがなくなって防御施設が不要になったのか。
吉野ヶ里丘陵地には前方後円墳がいくつか築かれました。
やはり丘陵地帯は墓とし、人々は低地へと移っていったのかもしれません。
この時代のものと思われる土器や鉄器がいくつか発見されているとのことですが、その数は弥生時代から比べれば少なくなっています。

飛鳥・奈良・平安時代の遺物も、木簡や土器などがいくつか発見されており、大化の改新の後、7世紀後半頃から始まった律令制時代には吉野ヶ里丘陵付近に役所のような建物が建てられていたのかもしれません。
それらしい建物跡や道の痕跡が見つかっています。
集落はなくなってしまったようですが、それでもまったく人がいなくなってしまったわけではなく、何らかの統括が行われていたようです。

「吉野ヶ里」という地名は、おそらく条里制の名残ではないかと思われます。
条里制とは律令制時代の土地の区画整理のことで、”里”という単位で土地を管理していました。
佐賀県には地域には”○○里”という名前の地名がいくつか残っているそうで、吉野ヶ里という名前はその時代の呼び名が残ったものなのかもしれません。

その後の時代でも、道路の跡や空掘、陶磁器の破片や銅銭などが見つかっており、人の往来があったと考えられています。
しかし、弥生時代に吉野ヶ里丘陵の多くの集落とそこに住んでいた人々は姿を消してしまいました。
多くの人々が稲作をして暮らしていたはずなのに、いったいどこへ行ってしまったのでしょう。
遺構をたどってもその痕跡はぷっつりと途絶えてしまったかのようです。

歴史公園へ

 

吉野ヶ里遺跡周辺には、明治の頃には三田川村・東脊振村という村がありました。
農業が中心で、大正から昭和の初め頃には、ほうぼうでたびたび土器が出土していて、遺跡があるのでは、と考えられていたそうです。
しかし、それほど大きな関心が寄せられることはありませんでした。

戦後、1970年代に入ってから、畑の開墾などの際に遺跡の一部が露呈し、その後もあちこちで甕棺(かめかん)が出土するようになりました。
調査を呼び掛ける声はあがりましたが、残念ながらこのときは実施には至らなかったのだそうです。

そして、1980年代にとうとう、工業団地建設の計画が持ち上がります。
それを受けて調査が開始されたことは、最初に述べた通りです。
当初は、ある程度保存することを念頭に、どの程度の遺構が埋まっているのか全容を調べることが目的だったのだと思われますが、結果によっては、全部壊すことになったかもしれません。
しかし結果は周知のとおりで、日本のルーツを示す貴重な遺構が次々と広範囲にわたって発見されました。

1989年に新聞報道がなされた後、佐賀県は工業団地計画の縮小を決定。
遺跡部分の開発を中止しました。
1991年(平成3年)には国の特別史跡に指定され 1992年(平成4年)には国営歴史公園として整備を行うことが決まります。

2006年、三田川町(三田川村から改名)と東脊振村が合併し、吉野ヶ里遺跡から名をとって「吉野ヶ里町」が誕生しました。
吉野ヶ里遺跡は多くの人の手によって守られながら、日本の古代の歴史を解き明かすための資料や情報を、今日も発信し続けているのです。

古代を感じられる場所として

 

古代を感じられる場所として

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「あっ!邪馬台国だ!」

JR長崎本線の列車内。
小さな男の子の声で、大人たちの目が一斉に窓の外に向けられます。

神埼駅から緩やかな稜線を描く山々の方へ目を向けると、のどかな田園風景の先に吉野ヶ里遺跡の物見櫓の屋根が見えます。
ぼうや、あれは邪馬台国じゃないんだよ、邪馬台国っていうのはねぇ……なんて、無粋なことを言うのは止めて、大人たちも古代への想いに胸を躍らせながら、吉野ヶ里遺跡へと続く田んぼ道を急ぎます。

広々とした敷地の中に、竪穴式住居や高床式倉庫、物見櫓が点々と建っていて、その間を歩けば弥生時代にタイムスリップ。
弥生人になりきって歩くのもまた一興です。
大人たちはみな、パンフレットと見比べながら、あたりを見渡したり物見櫓の大きさにため息をついたりしながら目を細めています。
さっきの男の子は遺跡には目もくれず、ご両親と一緒にレクリエーション広場のほうへ走っていきました。

遺跡を残すのは難しい。
以前読んだ本に、そんなことが書かれていました。
保存、と一口にいっても、発掘や調査も、遺跡を傷つけることになる可能性をはらんでいます。
まして2000年以上も昔のもの。
何もせず放っておけば次第に朽ちてしまうでしょうし、ヘタに建物で覆ったり囲ったりしたら湿気などで傷んでしまうかもしれません。

それでも、遺構や遺物から歴史を探ろうと情熱を傾ける人々がいます。
見たい、知りたいと吉野ヶ里に足を運ぶ人々も。
吉野ヶ里のガイドさんは古代人の服を身に付けて風景に溶け込んでいて、遺跡のことを詳しく教えてくれます。

遺跡を残すことは難しい。
私たちにできることは、とにかく興味を持つことなのだと強く感じました。
あの男の子も、今日は広場のローラー滑り台やアスレチックで遊ぶだけかもしれませんが、そのうち遺跡にも興味を持つようになって、大人になって発掘調査に加わって世紀の大発見をするかも。

貴重な史跡だけれど、誰でも足を運べる、決して敷居の高くない場所。
それが吉野ヶ里遺跡なのです。

とにかく広い!

 

吉野ヶ里歴史公園のメインテーマは「弥生人の声が聞こえる」。
敷地はかなり広く、復元された建物を見てまわるだけでも相当時間がかかります。
弥生時代の人は裸足だったのだと思いますが、遺跡をまわられるのであれば是非、歩きやすい靴でお出かけください。
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