万里の長城の歴史から世界遺産になるまで

総延長20000キロメートル以上。2000年以上の時をかけて造り上げられた、世界最大・最長の建造物といえば、答えはもちろん、万里の長城です。広大な中国大陸に横たわる巨大龍のようなその姿は壮大で神秘的。誰が、どのような目的で、どうやって築き上げたのでしょうか。今なお多くの謎に包まれている万里の長城。その魅力をたっぷりとお話ししてまいります。

万里の長城とは何か

万里の長城とは何か

image by iStockphoto / 64835919

現存するものはおよそ3割?

幾重にも重なる緑深き山を、風そよぐ平原を、砂塵舞う砂漠を、一頭の巨大な龍がうねりを上げて駆け抜ける。
世界最大・最長の巨大建造物『万里の長城』。
その大きさは・長さは圧巻です。
山間を抜けるのではなく、あえて山頂を通るように造られているため、波打って躍動しているように見えます。
訪れた多くの人が、固いうろこに覆われた巨大な龍の体を連想するに違いありません。
多くの歴史家や詩人が、長城の姿を龍に例えてきました。

全盛期には全長20000キロあったと言われています。
地球の直径がおよそ40000キロですから、20000キロというとその半分。
想像を絶する長さです。

しかし現存するものは総延長およそ6000キロと言われています。
長い年月の間に、ある箇所は風化し、ある箇所は人為的に取り除かれ、1987年の世界遺産登録以来、保全活動が進められてはいますが、その巨大さゆえ、浸食や破損を食い止められない箇所も多々見られます。

一方で、現代に至っても、数年に一度くらいのペースで、万里の長城の痕跡が新しく発見されています。
2010年にも、陝西省(中国大陸のほぼ中央に位置する省)で新たに、古い時代の万里の長城が見つかったと発表されました。

万里の長城は、今もなお数々の謎に包まれており、新・世界七不思議のひとつに数えられています。
広大な大地のどこかに、まだ、巨大龍の背中が埋まっているかもしれないのです。

なぜ、このような長い建造物を造ったのでしょうか。
そして、なぜ、その七割近くが失われてしまったのか。
そのあたりに、万里の長城を深く知るための鍵が隠されているようです。

建造は誰が?理由は?

建造は誰が?理由は?

image by iStockphoto

万里の長城は大きさや長さだけでなく、その歴史のスケールの大きさも桁違いです。

秦の始皇帝が建造したとも伝わっていますが、それは百パーセント正解ではありません。
確かに秦の始皇帝の偉業でもありますが、近年の研究で、壁自体はもっと古くから存在していたことが明らかになってきています。
「万里の長城は誰が造ったのか」。
この問いの答えを一言で表現するのは至難の業です。

始まりは紀元前。
2000年以上に渡って、主が変わっても龍は中国大陸に横たわり、世の移り変わりを見つめ続けてきました。

その間、中国大陸では数々の統一国家の誕生と争い、衰退が繰り返されてきました。
どの国家に代わっても、万里の長城は壊されることなく、常に増築・改築が繰り返されてきました。
建設場所は、決して平坦な場所ばかりではありません。
重機もなく、測量技術も乏しい時代に、どうやってこんな巨大な建造物を築いたのか。
新・世界七不思議と言われるゆえんです。
もし人力でこれだけの建造物を造ったとするならば、何十万という民が過酷な労働を強いられたに違いありません。
長城を増築・延長させることで、国の力を世に知らしめようとしたのだと、容易に想像がつきます。

仮にここで多くの名もなき労働者が、家族の顔を見ることもなく命を落としていったとしても、この巨大龍が彼らの最期を語ることはないでしょう。

多くの民を犠牲にしても、万里の長城は多くの覇王たちによって維持され、延長され続けてきました。
その理由は?権力者たちが長城を必要とした理由も、じっくり探っていきましょう。

国の防衛に役立ったのか?

万里の長城は外敵の侵入を防ぐために建てられた城壁。
外敵とは主に北方の遊牧騎馬民族を指すことが多いです。
現存する長城が主に北部に連なっていることから見てもそも目的は明らか。
領土を守るだけでなく、貿易ルート、つまりシルクロードを守る、という役割を担っていた時代もありました。

”城”という漢字を使ってはいますが、英語名は「The Great Wall」。
居住する機能を備えているわけではありません。
あくまで、その役割は”壁”なのです。

万里の長城は高い壁によって外敵の侵入そのものを防ぐほかに、通信網としての機能も果たしていました。
長城にはところどころ、数多くの”のろし台”や”物見やぐら”が存在します。
高いところからあたりを見渡し、煙を立てて敵の侵入を知らせました。
煙は城壁をつたうようにのろし台からのろし台へと伝わり、非常に短い時間で遠方まで情報が伝わった、と伝えられています。

ところで、私たちがイメージする石造りの長城は、実は明代に入ってからのものなのです。

観光客の多い八達嶺(はったつれい)や慕田峪(ぼでんよく)といった場所には見慣れた造形、つまり石造りの城壁が連なっています。
いかにも長城といった姿ではありますが、このような石の城壁は、2000余年の長城の歴史の中では比較的後半に作られたものなのです。
それまでは、土を練って盛った、土塁のようなものが中心でした。

それら土盛りの長城は、残念ながら今はもう見ることはできませんが、西方地域の砂漠には、土を盛り固めた長城が今でも残っています。
その姿は、場所によって様々です。

石造りの強固な壁ならまだしも、土盛りの壁などで国を守ることができたのでしょうか。
なぜ、最初から石積みの壁を造らなかったのか。
その点についても是非、詳しく考察してみたいと思います。

月から見ることはできない?

月から見ることはできない?

image by iStockphoto

ひところ、万里の長城は「宇宙から(月から)見える唯一の人工の建造物」と形容されていました。
本当に見えるのか?

この疑問については、先にお答えいたしましょう。
答えはノー。
大変残念ですが、宇宙から肉眼で万里の長城を見ることは難しいようです。

21世紀に入って、中国人宇宙飛行士が「長城は見えなかった」と発言。
大変な騒ぎとなりました。
中国の人たちは、子供の頃に教科書で習うほど、このことを信じ、誇りに思っていたのです。
発言したのは中国人飛行士。
教科書の記述を変えざるをえません。
中国の人々がどれほど落胆したか、想像に難くありません。

その後、宇宙ステーションから撮影した写真に、かすかではありますが万里の長城が写っていたことが発表されましたが。
しかし、やはり肉眼で確認することはできないと考えた方がよさそうです。

宇宙から最もよく見えるものは人工の光。
都会の光や高速道路の灯りなどです。
万里の長城も、観光客向けにライトアップしている箇所もあるようですが、全体を照らしているわけではないため、おそらく、大地の色と識別できないのではないかと思われます。

なぜ、月から見える、などという話になったのか定かではありません。
おそらく、写真や映像のなかった時代に、長城のをじかに見た人がその大きさを伝えようと「とても大きな建造物だった。
あんなに大きな建造物なら、月から見えるのではないだろうか」などと書き残しているうちに、「宇宙から見える建造物」というイメージが定着してしまったのではないでしょうか。

非常に残念ではありますが、それでも、万里の長城が地上最大・最長の建造物であることに変わりはありません。
「本当に月から見えるかもしれない」と思わせてしまうほど、見た人に強烈な印象を与え続けてきたのでしょう。

ここまで、万里の長城についていろいろお話してまいりました。
巨大龍の背中は不思議でいっぱいです。

・始皇帝より前に長城を築いたのは誰か。

・なぜ長城を築く必要があったのか。

・本当に20000キロもの長さがあったのか。
等々。

これらの疑問の答えを見つけるためには、万里の長城の歴史を見ていく必要がありそうです。

舞台は2000年以上昔へ。
歴史を紐解き、長城のさらなる魅力に迫りましょう。

長城の歴史(1)-戦国時代から中世へ

周の没落から春秋・戦国時代へ

周の没落から春秋・戦国時代へ

image by iStockphoto

万里の長城というと秦の始皇帝が造ったものと思われがちですが、前に述べた通り、それより数百年前に、壁は存在していました。
始皇帝は長城を新しく築いたのではなく、それらをつなげ、延長し、壁をより強化にしたことで、その名を深く歴史に刻んだのです。

では、秦の始皇帝より前は、どのような時代だったのでしょうか。

秦の統一より前の時代の時代は、春秋・戦国時代と呼ばれています。
紀元前700年頃からおよそ500年間続いた、戦乱の時代です。

春秋・戦国時代に入る前は、周という国が栄えていました。
悪政が続き王が失脚。
内紛が起き、西方の遊牧民族に攻め込まれる事態まで引き起こします。
紀元前770年、周は東周と名を変えて一小国にまで落ちぶれていきました。

それと入れ替わるように、それまで周の王に使えていた有力諸侯たちが次々に国を打ち立て、力を誇示し始めたのです。
大国が力を失うと均衡が崩れ、諸侯の間の緊張も高まります。
中でも、斉、晋、宋、秦、楚といった諸侯が強い力を持ち、互いにけん制し合うようになりました。

さらに異民族も多く入りこんで、中国大陸では数多くの国が乱立。
大小合わせて200以上の国が存在していたとも考えられています。
東周には既に権力は残っていませんでしたが、それでも最初のうちは、東周の王に多少の敬意を払っていたと考えられています。

しかし、それも長くは続きません。
春秋・戦国時代の半ば過ぎに入ると、諸侯はおのおの、自らを”王”と名乗るようになり、力で国を奪い合う時代へと移行していったのです。

北方騎馬民族の脅威

大国が力を失い、力の均衡が崩れた時代は武力が全て。
各国は争いを繰り返し、争いに負けた国は即消滅、という、まさに弱肉強食の戦国時代が訪れます。
その頃、戦国七雄と呼ばれる七つの国(斉、燕、趙、魏、韓、秦、楚)が最も力を持っていたと考えられており、弱小国は次々と戦国七雄に吸収されていきました。

この時代、各国の脅威は隣接する他の国ばかりではありません。
北方で強大な武力を持つ騎馬民族の存在です。
起源は定かではありませんが、周が没落し春秋・戦国時代が始まった紀元前770年ごろには、ユーラシア大陸の北、現在のロシア南側の草原地帯に出現しています。
このあたりの草原は馬が多く生息しており、彼らは馬の扱いに長けていました。

馬を自在に操り、大地を駆け回る騎馬民族は、たびたび南下して各国を脅かします。
各国は、隣接する国の動向に目を光らせながら、北方の騎馬民族にも備えなければなりません。
戦国の世はますます混迷を深めていきました。

城邑国家と領土国家

城邑国家と領土国家

image by iStockphoto

古代中国の国家とは別名「城邑国家」「邑制国家」などと呼ばれています。
人が集まって集落ができると、それを邑(ゆう)と呼び、土壁で囲んで守りを固める。
その大きなものがやがて国となっていったのです。
周の時代はまだ領土の境界線は曖昧で、あちこちに異民族が入りこんで住みついていたと言われています。

しかし、春秋・戦国時代に入ると、各国は互いに争い、領地を奪い合うようになりました。
当然、管轄地域は広くなり、壁で囲むことが難しくなります。
耕作や交易を安全に行って国益を守るためにも、広げた領地は守らなければなりません。
そこで徐々に、領地の際(きわ)に土壁を造るようになったのです。

この土壁が、万里の長城の源であると考えられています。

戦国七雄時代の地図によれば、北東の渤海まで領土を広げた燕、北方に深く食い込んだ形の趙、西方に強大な領土を持つ秦はそれぞれ、国の北側に数百キロに及ぶ土壁を構えています。
領土のすぐ北側は、北方騎馬民族が暗躍する地域。
この三国の土壁が北方騎馬民族に対する備えであることは明らかです。

この頃、各国は、周の時代よりだいぶ北方に領土を広げており、土壁もかなり北側に造られています。
北方の異民族の領地に攻め込み、駆逐したのでしょう。
異民族が領土を奪い返しに攻め込んでくる可能性は十分に考えられ、そのための備えはより強固である必要があった、と思われます。

しかし、似たような土壁は、南方の大国である楚の国境を始め、北方と隣接しない国々にも造られていました。
これらは北方騎馬民族ではなく、他の国々の動きの備えたものとでしょう。

戦国の世が続いたこと、北方に騎馬民族が台頭していたこと、そして、人々の営みを壁で囲むという文化が根付いていたこと。
これらの理由から、万里の長城の基礎は築かれていったのです。

長城=土塁?

万里の長城の礎であると言いながら、先ほどから”土壁”という言葉を使っておりますが、これには理由があります。

もともと長城は土塁のようなものであり、石造りのものは明代に入ってからである、と、最初に少し触れました。
目的が防御であることには違いないのですが、この時代の長城は、私たちがイメージする万里の長城とはかけ離れた形状をしていました。

戦国時代に各国で造られた長城は残念ながら現存しませんが、その長さの総計は5000キロに及んだとも言われており、その多くが北方騎馬民族に備えて造られたものと推測されています。

土壁が長城?役に立つのか?と思われるかもしれません。
長いことは長いですが、”城”とは言い難い。

しかし、これが非常に理にかなった防御方法だったのです。
備える相手は主に北方の騎馬民族。
馬で攻め込んでくる強敵。
馬、というところがポイントです。

戦いの基本要素は騎馬と歩兵。
馬の扱いに慣れた北方の騎馬民族が雪崩れ込んできたらひとたまりもありません。
騎馬に相対するためには、馬の勢いを止めることが肝要です。
そこで活躍するのが土壁。

土壁の高さは2~3メートル、幅が3~5メートルほどだったと考えられています。
この壁が横に数百キロ続きます。
攻め込むには土壁を越えなければなりませんが、騎馬のままでは越えられません。
敵が馬から降り、隊列が乱れて隙ができたところに襲いかかって打ち負かしていました。
土壁は必ずしも”越えられないため”ではなく、敵に隙を作り、勢いを弱めること目的だったのではないかと思われます。

ときには破壊され、侵入されたこともあったかもしれません。
しかし、敵の勢いを弱めることができたはずです。
修復も、石を積むよりは容易だったのではないかと推察されます。

一方敵方も、馬に慣れた民族であれば、このような土壁がある場所を安易に攻め込むことは避けたでしょう。

見た目は城のイメージとは程遠いかもしれませんが、土の壁が長年、各国の防衛の要であったと考えれば、これも”長城”と言い伝えていくべきではないでしょうか。

長城の歴史(2)-秦・漢から中世へ

秦時代の長城

秦時代の長城

image by iStockphoto

戦国時代の後期、七雄の中で台頭し始めたのが西方に領土を持つ秦でした。
隣国に領土を奪われ衰弱した時代もありましたが、そのことが気かっけとなり、国内の体制を整え、強力な法治国家を築いていったのです。
秦は次第に軍事力を高め、他の列強国を次々に滅ぼし、紀元前221年、秦は中国統一を果たしました。
統一したときの秦の王が、始皇帝です。

この時代、北方には匈奴と呼ばれる民族が力を持っていました。
始皇帝は統一後の様々な政策のひとつとして、匈奴に備えた北方の防御を強く推し進めました。
その際活用されたのが、戦国時代に趙、燕が北側に築いた長城。
秦の北側にあるものとつなぎ、一直線の壁としたのです。
十年近くかけて、百万人以上の労働者をつぎ込んでの大工事だったと伝わっています。
壁は北側だけでなく、東は現在の遼寧省、西は甘粛省のあたりまで、全長5000キロにも及びました。

逆に、北側ではない、斉や楚が築いた長城は、取り壊しを命じたのではないかと考えられています。
残念ながら明確な記録はなく、始皇帝が取り壊させたのか、自然に朽ちて消滅したのか、憶測の域を出ませんが、法の整備や度量の統一などに力を注いでいた始皇帝のことです。
不要な土壁を排除しても不思議はありません。

2012年の中国政府の発表によれば万里の長城の総延長は21196キロ。
その数値は、同時代に存在していた壁の総延長ではなく、こうして時代ごとに取り壊されていった壁も多く含まれます。
風化したもの、政治的に取り壊されたもの、それらも含めて、20000キロという解釈になるのです。

漢から唐へ

始皇帝は統一を成し遂げた後、わずか15年ほどで亡くなります。
戦や暗殺ではなく、病であったと伝わっていますので、まだ秦王朝が続くと思いきや、家臣のたちの悪政や反乱によって、あっという間に没落してしまいます。
秦はたった15年で消滅してしまいました。
司馬遼太郎の小説「項羽と劉邦」の時代。
秦王朝に変わって統一を果たしたのが漢。
劉邦が打ち立てた王朝です。
前漢と後漢と表記されることが多いですが、両方を合わせると紀元前206年から220年まで、400年以上に渡って栄華を極めた大帝国となりました。

前漢は七代武帝の頃に全盛期を迎えました。
武力を備え、領土を拡大。
北方へさらに進出したことは言うまでもなく、西は敦煌、南は現在のベトナムの周辺まで及んでいたと言われています。

北方の守りは引き続き長城によって保たれていました。
この頃にはヨーロッパとの交易が盛んにおこなわれるようになっており、交易の安全を守ることも、長城の重要な役割となっていました。

武帝はその権力を持って、長城の延長にも力を注いだと言われています。
秦王朝時代に築かれた長城を敦煌まで伸ばしたのは、シルクロードを守る意味もあったのでしょう。
その長さは8000キロに及んだと言われています。
漢の時代、長城の建設とは過酷な労働の代名詞となりました。

そして、歴史は繰り返すと表現してよいものでしょうか。
漢もまた、強大な力を持つがゆえに悪政が続き、各地で次々に反旗が上がりはじめます。
ここから「三国志」として日本人にも馴染みの深い時代へ。
中国大陸は再び戦乱の世へ身を投じていくのです。

魏、蜀、呉の三国が睨み合った時代。
長城による防御の記録は一時、途絶えます。
北西に勢力を伸ばしていった魏が異民族と一戦交えた記録はありますが、長城による防衛が行われていたかどうか、定かではありません。

その後もしばらくの間、いくつかの強国がせめぎ合う時代が続き、隋という王朝が誕生します。
聖徳太子の時代に「遣隋使」が派遣された国です。
隋も長城の建築と修復は繰り返してきましたが、次に取って代わった唐王朝時代では、長城の建設も修復も行われなくなりました。

一説には、北方民族の力の強さの前になすすべなく、長城による防御を諦めたのではないかと言われています。

チンギス・ハンとモンゴル帝国

チンギス・ハンとモンゴル帝国

image by iStockphoto

長城が再び歴史の表舞台に姿を現すのは12世紀始め頃。
中国大陸の北部に誕生した金王朝によって再び、北側の防衛のための城壁の整備が始まりました。

金は満州発祥の女真(じょしん)族が建てた国。
漢民族以外の民族による、いわゆる征服王朝です。

当時中国大陸には当時、唐王朝の後の戦乱時代を経て建てられた北という王朝があり、広大な領土を有していました。
一時は、北方の異民族である遼との間に和平を結ぶなど順風満帆でした。
しかし、国が大きくなりすぎたため財政が悪化しはじめます。
最終的に宋は、力をつけた金に攻め込まれ、南へ逃れていくことになるのです。

中国大陸の北部を制圧した金が最も恐れたのが”北”。
北には強大な力を持つ民族がたくさんいます。
北側の防御を固めなければなりません。
金はそれまで途絶えていた長城の修復・延長作業を復活させ、巨龍は息を吹き返しました。
金国は広い範囲に空掘を掘り、その土を盛り上げて長城を作り上げていったと言われています。

しかし、金国が造り上げた長城は、モンゴル人たちが建てたモンゴル帝国によってあえなく突破されてしまいました。

戦国時代から長い期間をかけて、騎馬隊の動きを止めるために有効とされてきた土の城壁。
しかし、モンゴル人たちには利かなかったようです。
長城を越えて攻め込んできたモンゴルによって、およそ100年余り続いた金王朝は幕を下ろします。

万里の長城を攻略したモンゴル人の頭領はご存じチンギス・ハン。
具体的にどのように長城を越えたのか、詳細はわかりません。
チンギス・ハンは何度となく金に攻め込んでおり、長城は難なく越えることができても都市の城塞を崩すのに苦労した、という記録もあるらしく、モンゴル人にとって長城そのものはさほど脅威ではなかったものと思われます。

馬の扱いに慣れていたからなのか、土塁を乗り越える特殊な技術があったのか、あるいは他に手段があったのか。
とにかく、中国大陸では始めて、長城を越えて果たされた最初の征服・滅亡ということになります。
モンゴル帝国は後に元と名を変えて、中国統一を果たします。

1000年以上前から、北方の異民族に対する備えとして各王朝が造り上げてきた長城が手薄になった時代。
その異民族のひとつである金国が建てなおし、モンゴルが打ち破ったのです。

これが、北方民族の強さなのか、1000年の間に土塁を越える術を学んだ結果なのか、金国が再構築した長城が弱かっただけなのか。
理由は想像するよりほかにありません。

その後、モンゴル人は長城の建設は行いませんでした。
再び、長城は鳴りを潜め、中国大陸は元、明といった大国が統治する時代へと移っていくのです。

長城の歴史(3)-中世から近代へ

明王朝時代の長城

明王朝時代の長城

image by iStockphoto / 1190606

モンゴル人による長城突破の後、元王朝が建ってからも、北方や西方の異民族や、南方に逃れた漢民族の侵略は繰り返されていました。
それでも元は、長城による防衛策は取りませんでした。
元王朝は100年ほど続きましたが、後継者争いによる内紛が起き、衰退の途を辿ります。
取って代わったのが南方から立ち上がった明国でした。
元は北へ逃れ、再び漢民族による統一国家が誕生しました。

明王朝に入ってからもしばらくは、長城は国防とは無縁の存在となっていました。
復活したのは三代永楽帝の時代です。
永楽帝は改築を進めていた紫禁城を完成させ、都を南京から北京へ移そうとしていました。

都を北へ移動させるのです。
北の守りを固めなければなりません。
北方には、自分たちの祖先が追い払った北元が虎視眈々とこちらを伺っているはずです。
永楽帝は北方の国境全域に渡って、長城の建設を推し進めました。
場所は秦や漢王朝の時代のものより少し南に下がった位置、北京に比較的近いところに数多くの城壁が築かれています。

この時代に造られた長城の多くは、それまでの土盛りではなく、レンガ積みの強固なものになっていきます。
100年ほどの年月をかけて、私たちがよく知るあの万里の長城が造られていきました。
その長さは南方面に枝分かれしたものも含めると8000キロに及んだと言われています。

高さはおよそ7メートルから8メートル、幅は4から5メートル。
数百メートルごとに物見櫓やのろし台があり、侵入を防ぐだけでなく監視の役割も果たせるよう造られていきました。

明から清へ

レンガ造りの強固な城壁に生まれ変わった万里の長城。
最新の土木技術と多くの労働力を用いて築かれた巨龍の背中も、難攻不落というわけにはいきませんでした。
17世紀の初めごろ、満州の女真族が金(後金)を建国し、北方で猛威を振るい始めたのです。
万里の長城は再び、満州族と相対することとなりました。

明王朝が国をかけて建設した巨大長城です。
そう簡単に破られるわけはありません。
後金は何度となく長城の攻略を行いましたが、始めはうまくいきませんでした。
山海関という、万里の長城の東の要塞を攻略しようとしたのですが、山海関の守りは厳重で、数多くの兵が駐屯していたという記録が残っています。
後金は清と名を変え、明の家臣の手引きによってついに山海関を破りました。

実は、清が長城を突破する前に、明王朝は政治の乱れから内乱が起き、あっけなく滅亡してしまっていたのです。
多くの兵が山海関の守りから身動きが取れず、内乱の鎮圧に向かうことができなかったためではないか、と考えられています。

何と、万里の長城で国を守っているうちに国が滅びてしまったのです。
しかも、内乱を起こして明王朝を退けた連中が、皇帝として即位しようと暗躍中。
山海関の守りについていた明の家臣はたまらず、今まで対峙していた清と手を結び、清を長城の中へと引き入れました。

こうして万里の長城を突破した清は、そのまま北京に攻め入り、これまたあっけなく新しい帝を蹴散らします。
蹴散らされた帝の成りそこないはそのまま失脚。
こうして清王朝が誕生したのです。
モンゴルに続き清も、長城を越えて国内を制圧、統一国家を築きあげました。

さて、この後、長城はどうなったのでしょう。

清の時代に入ると、長城は国防としての意味を失います。
北の国境が、長城のある位置よりずっと北になったためです。

長城はそのまま、20世紀中頃まで、特に整備も補修もされず荒れたままに。
盛り土の箇所は風化し、一部のレンガなどの建材は他の建造物のために流用されてしまったのだそうです。

世界遺産登録そして現在へ

世界的観光地としての万里の長城

世界的観光地としての万里の長城

image by iStockphoto / 94809547

1949年、中華人共和国が成立すると、政府は万里の長城の保護と修復に乗り出し始めました。
1961年に「中華人民共和国全国重点文物保護単位」に指定され、保全活動の末、歴史上の重要性、芸術的価値などが認められ、ついに1987年、ユネスコの世界文化遺産に登録されたのです。
万里の長城には世界各国からより多くの観光客が訪れるようになりました。

世界遺産ともなれば、建設当時の状態を保持しなければなりません。

しかし、その大きさ、長さゆえ、保全活動は想像以上に困難を極めています。
観光客の多い北京近郊部分は整備されていますが、大半が明王朝時代に造られたまま手つかずの状態となっているのです。
保全の範囲は全長6000キロにも及びます。
西方の砂漠地帯にかかる箇所や、石積みでない土盛りの箇所など、観光客が簡単には近づけない場所は整備や保全は難しいのかもしれません。

また、一部の地域では、専門知識もないまま地元民による補修が行われたり、コンクリートなど現代の素材を使った修繕が施されたりと、歴史的建造物の保全活動は未だ問題山積。
今後の活動に期待が寄せられています。

終わりに

終わりに

image by iStockphoto

万里の長城は戦乱の世が生み出した城壁でした。

歴代の王たちが異民族から国を守るために建て、補修し、延長し、育ててきた、長い長い歴史がありました。
万里の長城を造ったのは誰か?その問いには「中国の歴史」と答えるべきなのかもしれません。

総延長20000キロ以上。
北方や西方の異民族との兼ね合いで、位置を北へずらしたり、西へ伸ばしたり、南へ枝分かれさせたりしながら、長城は成長を続けてきたのです。
多くの国家の誕生と衰退を繰り返してきた大陸のどこかに、まだ見ぬ長城の一部が眠っていてもおかしくはありません。
願わくば風化や消滅を食い止め、後世に残してもらいたいものです。

現在の万里の長城の役割は、歴史的・文化的なもの。
争いのためのものではありません。

2000年にも及ぶ長い期間、他民族を阻むためにその場に立ち続けてきた長城は、国内外から多くの観光客を受け入れる場所として、新しい役割を与えられました。
巨大な龍は今日も大陸に静かに横たわり、多くの人々を迎え入れているのです。

まるで大地を駆け抜ける巨大龍の背中

万里の長城の歴史とは、すなわち中国大陸の歴史そのもの。
成り立ちを振り返ってみて改めてそう感じました。
中国の歴史はとにかくスケールが大きい!不思議な魅力に溢れています。
万里の長城を通して見る中国の歴史。
「へえ、なかなか面白いね」と思っていただけたら、嬉しいです。
photo by iStock