中世にタイムスリップできる、愛し守られてきたシャルトル大聖堂

パリからほど近い街・シャルトルにある大聖堂は美しいのステンドグラスとゴシック建築の巡礼の中心地として、800年前の昔から人々に愛され守られてきました。
前半ではいかにこの大聖堂が愛されてきたのかをご紹介し、後半では世界遺産として認められたその特色についてご案内していきます。
ご一緒に中世の時代にタイムスリップいたしましょう!

聖母マリアのための教会

聖母マリアのための教会

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シャルトル大聖堂の名前を知っていますか?

シャルトル大聖堂の正式名称は「カテドラル・ノートル・ダム・デ・シャルトル」といいます。

「カテドラル」は「大聖堂」のことで、司教座がある教会のことをさします。
キリスト教では教会が管理し教えを説いていくエリアを教区として分けており、その中で一番位の高い聖職者である司教が所属している教会を司教座がある教会と言います。
つまり司教座のある大聖堂はそれだけ教区のなかでも重要な教会であるといえるのです。

「ノートル」は「私たちの」、「ダム」は「女性」で、キリスト教では「聖母マリア」を意味します。

「デ・シャルトル」は「シャルトルの」という意味なので、シャルトル大聖堂は「聖母マリアのためのシャルトル大聖堂」という意味を持つ名前になります。

12世紀から13世紀のフランスでは聖母マリアへの信仰が大きく盛り上がり、フランスには「ノートル・ダム」という名前の教会があちこちに建てられました。

その中でも13世紀の姿をそのままに残している数少ない教会としてとても貴重な教会としてシャルトル大聖堂は世界遺産に登録されています。

農民たちの信仰心

シャルトルの街はパリより南に80キロ離れた場所にあり、現在では電車で1時間程度の距離にあります。

街の周辺には「ボース平原」という穀倉地域が広がっており、車で行くと麦畑の平原の向こうにそびえたつ2本の塔を見ることができ、はるか遠くから歩いてきた巡礼者がホッとした景色と、麦畑を営む農民たちの心のよりどころであった風景を感じることができます。

街の中心にある大聖堂が建つ場所は、1世紀ころのまだガリアと言われていた時代、キリスト教が伝わる前に信仰されていたドルイド教の祠があった霊地だったといわれています。

ドルイド教あまりよくは知られていませんが、主に古代ケルト民族が信仰していた古代の宗教で、井戸や泉・大地や森など自然の中に精霊がおり、その精霊を敬い祭る自然信仰だといわれています。

なんだかファンタジーの世界のようですが、日本の神道のように自然に対しての尊敬の念があったようです。
一神教の父性を主としたキリスト教が伝わる前にこのような大地や森などの母性を感じる自然を慕い敬う気持ちがこの地にはあり、その信仰心が聖母マリアへの信仰へ変わっていったのではないかと考えることができます。

マリア信仰が大盛り上がり

マリア信仰が大盛り上がり

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王家からの聖遺物の贈り物

シャルトル大聖堂はすでに8世紀には聖母マリアに捧げられた教会ではありましたが、そのマリア信仰がより大きくなることになる出来事が起こります。

それは9世紀にカロリング朝の大帝シャルル・マーニュの孫である、禿頭王シャルル2世より「サンクタ・カミシア」と呼ばれる聖衣が大聖堂へ寄進されたのです。

「サンクタ・カミシア」は聖母マリアがイエスを出産した時にまとっていた衣服だといわれています。
または大天使ガブリエルからイエスを身ごもったと告げられる受胎告知の際に着ていた衣服だという説もありますが、実際はシリアで1世紀ごろに織られたといわれます。

この聖衣は現代のシャルトル大聖堂にも残っており、私たちも見ることが可能です。

一見、黄ばんだシンプルな布なのですが、中世の信仰心をもった信者には大変貴重なもの。
特に中世にはキリストや聖母マリアをはじめとする聖人たちの遺品に対して敬虔な信仰の気持ちが向けられた時代だったのです。

そのような時代背景からこの聖母マリアの遺品である聖遺物が寄進されたことで、ますますシャルトル大聖堂はマリア信仰の中心としての大きく発展していくことになりました。

ステンドグラスに込めた戦勝祈願

聖母マリアにささげられた聖堂なので聖母像はいくつかありますが、その中でも有名な聖母マリアのひとつが西側正面入り口に3つ並んだ長方形の尖塔窓にある「勝利の聖母」です。

このステンドグラスの聖母像の構図にはこんな言い伝えがあります。

昔、信仰心の篤かったビザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌスがアラブ軍と戦う時に夢で勝利宣言をした聖母の像と同じだと。
その皇帝は見事勝利したと言われています。

12世紀に作られた大聖堂内でも古いステンドグラスにある聖母像は、十字軍へ参戦した者たちへの戦勝祈願の意味が込められています。

十字軍にはさまざまな人が参戦をしていました。
特に嫡男ではない二男や三男は家柄が良くても家督を継ぐことはできないため、教会の道に入るものもいれば体を鍛えて武術を身につけて立身するものもいました。
そんな若者たちにとっては自らの力を示すのに十字軍の参戦は意味のあることだったのです。

11世紀から始まった十字軍遠征ではそのような立身にはげむ者や農村からも信仰心の篤い若者が参戦することが多く、それを見送った母親や妻・恋人たちは聖母マリアに無事に帰ってくるよう祈りを捧げたことでしょう。

中世フランス巡礼の聖地へ

中世フランス巡礼の聖地へ

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パリから最も近い巡礼地

十字軍が盛んだった12世紀から13世紀はイスラム教の支配下になった聖地エルサレムへの巡礼に出ることができない時代でした。

また、12世紀ごろから気温が上昇したと考えられています。
それまで気温が低かったことから、農作物の出来が悪く飢饉状態だったのが、温暖化したため農作物の出来がよくなり農村部の暮らしが楽になり、それに連動して商業も発展する時代になったのです。

そのように人々の暮らしが少し楽になると、信仰心を示す聖地巡礼に関心が集まるようになりました。
しかし、イエスゆかりの聖地エルサレムには行けません。
そこで、その代わりに聖人ゆかりの地へ巡礼に出るようになりました。

たとえば聖ペテロ終焉の地・ローマへの巡礼や聖ヤコブゆかりの地・サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼です。

フランスで比較的に多かった巡礼路はサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼。
ローマへの巡礼より人気があったのはアルプスを越える苛酷さがないためかもしれません。

その者たちがその道中にある聖遺物を祭る地にも足を運ぶようになったのです。

パリから最も近い聖遺物のある巡礼地のシャルトルにはたくさんの巡礼が訪れ、街は人にあふれ活気に満ちていきます。

特にマリア崇拝者には重要な巡礼地として人気がありました。

ここでエルサレムへ巡礼したことに?

シャルトル大聖堂に訪れる巡礼者は単にサンティアゴ・デ・コンポステーラなど遠方の聖地が目的地の人ばかりではありませんでした。
このシャルトル大聖堂自体が巡礼地として巡礼者たちが訪れました。

聖遺物への拝礼が巡礼者たちの目的ではありましたが、もうひとつエルサレムへの巡礼を体験できる仕組みがシャルトルにはあったのです。

大聖堂の西側入口から入ると奥へと続く大きな身廊が広がります。
この床に不思議な曲線を描いた模様があります。
現在は椅子が並べられていることが多いため、これは一見しただけではわかりにくですが、上から見ると大きな迷路が描かれているのがわかります。

その幅約15メートルで、迷路の長さは260メートルを超えるものです。
とても大きな迷路ですが、「エルサレムへの道」と言われており、巡礼者がこの迷路を祈りながら歩くことでより神に近付きエルサレムへの巡礼と同じ意味を持つことができると言われています。
また、懺悔をするものはこの迷路を膝立ちで歩むことにより、十字架を負ってイエスが歩いたゴルゴダへの苦しみを追体験することができるとも言われています。

その巡礼の習慣は現代のフランでも行われており、現毎年5月ごろに学生たちが歩いて巡礼する姿がボース平原で見られます。

地元民に愛された大聖堂

地元民に愛された大聖堂

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何度も火事にみまわれては再建

中世ヨーロッパでも重要な教会であったシャルトル大聖堂はそれまでに戦争や火事などで何度も消失したことがありました。

1世紀に建てられた寺院は内戦により破壊され、9世紀にはヴァイキングのよって焼失。

11世紀にロマネスク様式で建てられるも1134年に一部焼失し、1194年6月10日の大火によって街全体と教会の大部分がまたも焼失。
残されたのは西側の正面部分周辺だけでした。

その後、1220年ごろにほぼ再建され1260年にはカペー朝の聖王ルイ9世が献堂式を行ったといわれています。

この当時の教会建設に100年以上はかかっていたことを考えますとわずか26年でほぼ再建したのは異例の速さといえます。

この再建には地元の信者だけでなく各国の王侯貴族からも寄付があったといわれています。
この時代の教会建設に時間がかかる理由の大半が資金不足であったことから、この寄付が短期間での再建に大きく貢献したことは間違いないでしょう。

しかし、それだけではありませんでした。
富み豊かではない者は自らすすんで労働力を提供したのです。

驚くのは建築資材の石を切り出す場所は街から8キロ離れた場所にありましたが、誰もが進んでその石の運搬を申し出て作業をしたという言い伝え。

聖母マリアに対する信仰の篤さと当時の生活でいかに教会が支えになっていたのかを伺い知ることができます。

愛しすぎて奇跡のオンパレード

何度も焼失を経験している大聖堂ですが、さすがに1194年の大火事では聖遺物の「サンクタ・カミシア」や「絵ガラスの聖母」などは焼失しただろうと絶望したといいます。
しかし、「サンクタ・カミシア」はたまたま司教たちが鉄製の箱に入れて地下へ納めていたことから無事であったといいます。
また、がれきの下からも「絵ガラスの聖母」がほぼ無傷で見つかり、聖母マリアの奇跡が起こったと皆は歓喜しました。

少々無理のあるお話のような気もしますが、とても素直な時代だったのでしょう。

このような奇跡の逸話がさらに人々の信仰心をふくらませ、教会のために再建の労働力へとつながったのかもしれません。

奇跡の話はこれだけではありません。
建材の石運びをしている人が途中の村でパンを乞い求めたところ、あまり豊かでない村人たちでも喜んでパンを提供してくれます。
その村には与えても与えてもパンが減ることはなかったと言われています。
また、労働の疲れをいやすために葡萄酒をほしいと思った時に、道で葡萄酒の樽をくれた人がいました。
その樽はいつまでも上等な葡萄酒をたたえ続け飲んでも減ることがなかったという話が残っています。

さらには建設中に指を切断し、皮一枚でつながっている指を切り捨てようとしたときにあらわれた修道士の勧めでそのまま包帯をして、聖母マリアに祈りを捧げたところ、きれいに指が元通りになったといったお話まで。
その他にも夜遅くまで資材の運搬をしていたら進む方向を照らす光が現れたなど、たくさんの奇跡譚が残っているそうです。

ロマネスクからゴシックへ

ロマネスクからゴシックへ

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あるものは残して最新の建築で

ここまでシャルトル大聖堂の歴史や成り立ちをご紹介しましたが、ここからはその聖堂の外観などを観ていきましょう。

外からは一見するとわかりにくいですが、シャルトル大聖堂を上から見ると十字の形をした建物だとわかります。
これは中世教会建築の特徴で、天の神が見たときに教会であることがわかるよう、キリストの十字架を型どりました。

キリストの中で祈る事でその信仰心を高める効果もあります。

聖堂の建物の向きは、十字架の下、イエスの足元は西を向くのが基本です。
その西の入り口は聖堂の正面入口になります。

シャルトル大聖堂の西側正面入口の前に立つと、二本のアンバランスな塔が目にとまります。

先のお話にもありましたように、度重なる火事で片方の塔が焼け落ちでしまいました。
11世紀に建てられたロマネスクの様式を残した西側正面入口はそのままにそのほかの部分は当時新しい建築方式だったゴシック様式で建て替えられたのです。

西側正面入口に向かって右側はロマネスク様式で106メートル、左側は16世紀に建てられた後期ゴシック様式で115メートルの高さになります。

ロマネスクとゴシックと異なる様式を同時にみることができるのもシャルトル大聖堂の魅力のひとつです。

梁の技術革新で明るい教会に

技術面ではロマネスク様式ではその天井を支えるために壁を分厚くする必要があったのを、その横圧を外部の梁に分散することでより天井を高くすることが可能になりました。

また、天井アーチの形もより高くするため、半円のアーチから尖塔アーチへとかわりました。

新しい技術革新でより神に近付きたいという信仰心を表す上に上に伸びたゴシックの様式が確立されて行きました。
それによって壁の厚みが薄くなり、窓を設けることができ、教会内が明るくなっただけでなく、ステンドグラスによる大きな窓と装飾が可能になったのです。

明るく大きな窓がとれるようになったゴシック建築ですが、ゴシック建築の技術だけでなく、聖堂全体に聖書の世界を表現する形が大聖堂の模範になります。

シャルトル大聖堂が1194年に再建されるよりも前に着工された聖堂がありました。
パリにあるノートルダム大聖堂が着工されたのは1163年のことです。

先に着工されたにも関わらずパリのノートルダムの完成が遅く、同じゴシックの建築技術を使ったものでしたが、シャルトル大聖堂で使用された技術や様式が伝わることになりました。

以降の大聖堂の形はシャルトルを模範とされるようになり、アミアン大聖堂などフランス各地に建つ大聖堂建築に大きな影響を与えました。

多彩な表情の聖人たち

多彩な表情の聖人たち

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装飾から宗教芸術へ

シャルトル大聖堂の外壁には700を超える彫刻がびっしりと飾られています。
これは聖堂建築の特徴の一つで、タンバンと呼ばれる扉口の上に半円または尖塔アーチで囲まれた部分と柱に聖書の主題となるテーマを彫刻で表現しています。
このようにたくさんの彫刻で囲まれたタンバンは圧巻で観るものにいろいろな物語を投げかけているようです。

まずは西側の正面入口のタンバンを見てみましょう。
3つ並んだ扉口の真ん中には聖堂建築の正面彫刻の定番である「最後の審判」を表した彫刻があります。
その扉口は「王の扉口」と呼ばれるており、ペテロやヨハネなど聖人たちの柱彫刻が左右にたたずみ、中には女性の像も混ざっており、ほんのりと優しく柔和な表情からロマネスクらしさを感じることができます。
ロマネスクの時代は人物像は装飾として扱われていることが多く、無表情だったり存在感を出したものは少なかったのですが、こちらの彫刻は洋服のヒダの丁寧な作りや柔和な個別に異なる表情を醸し出しており、装飾から教会芸術へ移行する過程を垣間見える気がします。

聖書を知らなくても楽しめる彫刻たち

続いて南側入口中央のタンバンには「最後の審判」の彫刻があります。
キリストの下に天国に行く者と地獄へ行く者に分けられた人々が表情豊かに描かれています。
そしてその入口の両脇には福音書を残した聖人の彫刻があります。
よく見ると彼らは小人たちを足の土台にしています。
その小人たちは必死に上を向いています。
どうやらこれは旧約聖書の預言者たちを表しており、彼らが残した教えをもとに福音書が作られたことを表しているようです。
こちらはロマネスクに比べるとゴシックらしいちょっと硬い表情をした彫刻たちですが、動きがユーモラスなものも多く、どの聖人かわからなくても楽しむことができます。

最後に北側の入口をご紹介します。
こちらでは聖母マリアの一生をテーマにした「聖母戴冠」や「聖母被昇天」、聖母マリアの母である聖アンナの彫刻群がみられます。

実は聖母マリアについての聖書内での記述は数行程度しかなく、マリア信仰が浸透していく中で、聖母マリアの聖性を表す主題が定着していきます。

ルネサンス以降に好んで絵の主題となった「聖母戴冠」や「聖母被昇天」は13世紀当時はまだ新しい主題でした。
マリア信仰の中でも最先端の考え方をしていたことがうかがい知れる彫刻たちになります。

そのほかには旧約聖書の聖人たちが柱彫刻として並んでいます。
彼らは思い思いの方を向き、その表情もどこかユーモラスで、中でも子羊を抱いた洗礼者ヨハネがほとほと困った顔がとても印象的です。
単に外壁を飾っているのではなく、芸術的な物語のある彫刻群と言えるのではないでしょうか。

誰にも真似できない「シャルトル・ブルー」

誰にも真似できない「シャルトル・ブルー」

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シャルトル・ブルーの奇跡

それでは聖堂内に入ってみましょう。

大聖堂内に一歩入ると誰もが「暗い」と感じます。
その暗さに戸惑っていると目に入ってくるのは36メートル上空にある回廊と身廊に降り注ぐ鮮やかな光です。

左右・後ろから差し込む光は決して明るくはないですが、色とりどりのガラスを通してきらめき柔らかくその冷たい床を照らしています。

両サイドの側廊に連なるの尖塔窓、各入口上部に大きく花開くバラ窓は花火のようで、聖書にある「光あれ」との神の言葉をまさに感じ、本当に神がいるのではないかと思えてきます。
まさに中世の教会が演出する聖書の世界を体験できるのです。

鮮やかなステンドグラスは濃厚なブルーや鮮やかな赤などとてもカラフル。
その中でも特に印象的なのが「シャルトル・ブルー」と呼ばれるブルーの色です。
おもに聖母マリアのブルーの衣に使われています。

この色は現在では再現できないと言われており、何度作っても同じ色にはならないのだそうです。
当時のガラスの配合などが資料がなく、800年の年月をかけて少しずつ埃が継ぎ目の間から浸透したりして透明度に変化を与えて独特のきらめきを作っているのではないかと考えられています。

ステンドグラスの役割

そのブルーを基調にステンドグラスの窓には聖母マリアやアダムとイヴ、キリストの生涯、ノアの箱舟、黄道12星座といった聖書に書かれていることが表現されています。

その他にもシャルトルの司教で聖リュバンの生涯を描いたものもあります。
この司教は貧しいながらも向学心が強く、みすぼらしい旅人と出会いますがその人が大変知識人であるとわかると、やりくりをして養い、そこから学問を学んだという人物です。

外壁の彫刻群と合わせて、聖堂は聖書を具現化した建物でした。
中世のころは文字を読める人は大変少なく、信者の中でもほとんどの人が文字を読むことができなかっため、聖書の内容や道徳的なお話をステンドグラスや彫刻を使って紙芝居のようにしてわかりやすく説明していました。

そんな聖書の紙芝居のようなステンドグラスの中で、聖母マリアや聖人たち以外に手押し車を押している人や家畜をさばいたりした人、ワイン樽を運んでいる人たちもいます。

これらはこのステンドグラスを寄進した人やギルド(組合)たちの姿を聖書の物語や聖人の伝説に反映させたもの。
教会へのお布施として彩るステンドグラスを作る資金を出したので、一体誰が寄進してくれたのかわかるようにしたのです。
そしてそれはバラ窓など高い場所ではなく、聖人の足元など人々の目に触れる場所に掲げられました。
そうすることで宣伝の効果もあります。

ステンドグラスはその芸術的な作品としてだけでなく、そこに生きた人の職業や暮らしを垣間見せてくれるとても貴重な資料でもあると言えると思います。

シャルトル大聖堂の聖母マリア

シャルトル大聖堂の聖母マリア

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絵ガラスの聖母

シャルトル大聖堂内では彫刻像とステンドグラスの中にはたくさんの聖母マリアが存在します。
外壁には戴冠する聖母や被昇天する聖母が、内装には16世紀の彫刻の中にキリストの死に悲しむ聖母、ステンドグラスの中には授乳をしている聖母もいます。
様々な表情とシーンの聖母マリアがいますが、その中でも特筆しておく聖母マリアが三体あります。

そのうちの一つが先に1194年の大火事でも無事だった「絵ガラスの聖母」です。

シャルトルブルーの衣をまとい、その周りは燃えんばかりの赤に包まれた聖母は南側の側廊の一角にある尖塔窓の一つに飾られています。

尖塔窓の中で「絵ガラスの聖母」以外のガラスは13世紀に造られたもので、色が濃いガラスが用いられ、淡く澄んだ聖母の衣のシャルトルブルーがひときわ目立つステンドグラスになっています。
一説には12世紀のステンドグラスはシャルトルより北にあるサン=ドニで作られたもので、13世紀に継ぎ足された部分はシャルトルで作られ、聖母マリアのブルーが美しく見えるよう、周りを暗いブルーで作ったのだとも言われています。

12世紀と13世紀のステンドグラスが融合した芸術的にも歴史的にも注目したい聖母マリアです。

黒い聖母

フランスには黒い聖母に対する信心があるようで、各地に黒い聖母像があります。

フランスのプロヴァンス地方を中心にスペインや南米まで広い範囲で黒い聖母像がまつられており、450体以上あるといわれ、そのうち200体はフランスにあると言われています。

黒い聖母がまつられるようになったのは十字軍の時期と重なることから、東方から持ち帰った聖母が黒かったからではないかとも、キリスト教以前の土着信仰の地母神と融合したとも言われていますが、定説ではエジプト神イリスとホルスの影響ではないかと言われています。

そんな黒い聖母がシャルトル大聖堂内にも2体あります。
一つは北口の側廊にある「柱の聖母」、もう一つは地下聖堂にある「地下の聖母」です。

どちらも木製の聖母マリアで、幼子イエスを膝に座らせた姿をしています。
「柱の聖母」は肌が黒く塗られており、今でも信者から絶えることのない祈りを常に捧げられています。

「地下の聖母」は赤茶いろの木彫の聖母子で背後には炎のような図柄のタペストリーがかけられ、炎の中にいるようにも見えます。
現在は地下聖堂の入場を制限されているためいつでも祈りに行けるわけではないようです。

歴史を見てきた大聖堂

歴史を見てきた大聖堂

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フランスの宗教戦争とシャルトル大聖堂

16世紀になるとフランスでもユグノー(プロテスタント・新教徒)が勢力を広げ、ついには王家の中でカトリックとユグノーに分かれて対立するようになりました。

そんなフランス王家の宗教戦争にカトリックとしてシャルトル大聖堂がかかわった事件がありました。

フランス最後の王朝として有名なブルボン朝を開いたアンリ4世の戴冠式はこのシャルトル大聖堂で行われました。
本来フランス王の戴冠式はランスの大聖堂でのみ行われるしきたりでした。
フランク王国開祖のクローヴィス王の戴冠式よりランス大聖堂にある聖油を受けたものが正式なフランス王として認められるとされていたからです。
しかし、もとはユグノーであったアンリ4世は政敵が治めているランスまでたどり着くことができず、一刻も早く戴冠する必要があったため、サン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗し、自らの祖先でありカトリックの王として知られる聖王ルイ9世ゆかりのあるシャルトル大聖堂で戴冠式を行ったのでした。

フランス革命と世界大戦

中世ステンドグラスの技術は素晴らしく、シャルトル大聖堂の中には12世紀から13世紀に作られた中世ステンドグラスが150以上あります。

13世紀に最も円熟した技術を持った中世ステンドグラスの装飾がこれだけ完璧な状態で残っているのは大変貴重な例。

これは16世紀の宗教改革でも大きな損害がなく、18世紀のフランス革命時にも大きな略奪がなく、第二次大戦中のナチスドイツの占領下でもステンドグラスを避難させて守ったからこそ現代の私たちが見ることができるのです。

時代ごとに守ってきたのはシャルトル大聖堂の司祭であり、地元の住民たちでもありました。

そのおかげで、シャルトル大聖堂の中に一歩踏み入れると、まるで中世の時代にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるタイムカプセルのような聖堂で現代でもみなに愛されているのです。

シャルトルの発展と世界遺産へ

シャルトルの発展と世界遺産へ

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シャルトルの街の発展

現代でも行われている巡礼ですが、中世の時代、彼ら巡礼者たちは聖母マリアの祝祭日にたつ市や縁日を目的に街にやってきます。

人が集まるところには商人も集まり街が豊かになっていきます。
大聖堂の周りには市場や商売の取引所が立ちました。
時には聖堂内でも取引や物販を行っていたため、聖職者たちがいさめたりしていたとも言われています。
特に教会内では税金がかからないことから側廊の物陰ではひそやかにワインの取引をしていたようです。
中世の経済が発展していく中心にシャルトルはありました。

また大聖堂はその他に学校としての役割も担っていました。
9世紀に王令として教会に市民の教育をするよう発布があり、シャルトル大聖堂でも教育を行っていました。
1257年にパリにソルボンヌ大学ができるまで中世ヨーロッパの学問の中心はシャルトルでした。

特にキリスト教神学とスコラ哲学で名声を博し、ヨーロッパ中から神学者や哲学者が集まってくるようになります。

そこで学んだ人の中にはイングランドの宰相になった者や、シャルトル大聖堂司教になった者もいます。
商人だけでなく知識層も集い、ますます街が大きく発展していったのです

世界遺産登録へ

このように中世フランスの宗教的にも経済や学術的にも中心として発展したシャルトル大聖堂は世界遺産の登録基準の中で以下を満たしたとされています。

(i)人間の創造的才能を表す傑作。

(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値感の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すもの。

(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本。

(日本ユネスコ協会連盟 世界遺産の登録基準参照)

さまざまな項目があるなかで、ひとつひとつ見ていきますと、最初の項目ではステンドグラスの「シャルトル・ブルー」の希少性と中世のステンドグラスの芸術的価値がそれにあたるのではないでしょうか。

二番目の項目では中世の大聖堂建築の基盤となったゴシック建築、巡礼地として中世フランスの経済と学問の交流の中心であったことがこれにあたります。

最後にロマネスク建築からゴシック建築への移行が分かる建築物として認められたと考えられます。

シャルトル大聖堂は1979年、フランスでは比較的早い時期に世界遺産に登録されました。

愛され守られてきた大聖堂

今回はシャルトル大聖堂の成り立ちや世界遺産になった聖堂の特徴ご紹介いたしました。

パリやモンサンミッシェルのように日本人にとって観光の定番ではない教会ですが、ステンドグラスや建築様式も歴史的にはとても貴重なもので、何世紀にも渡り愛され大事に守られてきた大聖堂であることを感じていただければうれしく思います。

2016年にはステンドグラスと塔の大掃除が終わるそうですので、もし、機会があればパリへ旅にする時、中世の教会へタイムスリップする旅もプラスしてみてくたさいね。

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