「ノートルダムの鐘」の舞台はここ!パリで850年「ノートルダム大聖堂」が見てきた歴史と物語

フランスの花の都・パリの真ん中を優雅に流れるセーヌ川。その流れの中に大きな中州、シテ島とサン=ルイ島があります。
今回ご案内するノートルダム大聖堂はそのシテ島にはるか昔からたたずむ教会です。その源流はさかのぼれば大変古く、古代ローマの時代の前から見ることができます。

ノートルダム大聖堂は「ノートルダムの鐘(邦題)」として、現在ではミュージカルやディズニー映画の題材としてもつかわれているため中にはご存知の方も多いのではないでしょうか。

そんなノートルダム大聖堂は常にパリの街とともにあり、発展と衰退をともに過ごしてきました。大聖堂が見てきたパリの歴史とともに時間旅行をしながらその大聖堂建築の特徴や見どころ、そして世界遺産になるまでをご一緒に見ていきたいと思います。

フランスのパリになる前のパリ

フランスのパリになる前のパリ

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パリシィ人の漁村

まずはぐぐっと紀元前300年ごろの古代ガリア時代へ時間を戻してみましょう。

当時のフランスはまだ王国などもなく、ガリア部族が狩猟をしながら生活をしていた時代です。
部族長を中心にそれぞれの縄張りをもちながら移動をしたり定着したりしていました。

このころはノートルダム大聖堂があるシテ島に漁村があったと言われています。
その漁村には古代ケルト系民族でガリア部族のひとつ、パリシィ人が定着し営んでいました。
シテ島で漁業を営み、セーヌ川を利用して他の地域との商業的な交流もされていたようです。

そして、当時のパリシィ人はケルト系の自然信仰と思われるほこらのようなものをこのシテ島に作っています。
おそらく漁業の発展を祈ったのではないでしょうか。

よく、「パリの誕生はシテ島からはじまった」と言われますが、それはこのような事実からきているのでしょう。

近年の発掘調査で当時の経済や村の中心地は現在のパリ西側近郊であったことがわかり、古代には中心地ではなかったと言われています。
しかし、この地域に漁村と宗教的な遺構があったことは事実で、そこを基盤に現代のパリにつながっていったのです。

古代ローマとガリア戦争

交易やセーヌ川を利用して反映していたパリシィ人たちにひとつの転機が訪れます。

アルプスの向こう側で勢力を伸ばしてきている都市国家だった共和政ローマ。
その中でもメキメキと政治家として頭角を現していたローマ最大の英雄と言われるユリウス・カエサルが紀元前58年ごろからガリア(現フランスの地域)に遠征してきたのです。
遠征の目的はいろいろとありますが、表向きはローマの同盟地域へのガリア人の侵略を防ぐことでした。

そして紀元前52年、ガリア戦争の最大にして最後の戦い「アレシアの戦い」が起こります。

同じガリア人でアルウェルニ族のウェルキンゲトリクスがこれまで統制のとれていないガリアの各部族を統制してローマに立ち向かいました。
焦土作戦とゲリラ戦を展開しローマ軍を苦しめることになりますが、結果としてガリア人たちはローマに敗北。
大将であるウェルキンゲトリクスが降伏し、これにてガリアはローマの属州となります。

シテ島は河川の運行や交易上の拠点として戦略的に重要な場所でしたので、当然、ローマ人たちによって支配されるようになっていきます。

パリの誕生―ルテティアと呼ばれた時代

パリの誕生―ルテティアと呼ばれた時代

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ルテティアからパリ

戦いを終えた共和政ローマはシテ島から現在のセーヌ川左岸のカルチェラタンの南地域に公共広場・劇場や公共浴場など、ローマ式の街を作っていきました。
今でもその遺跡が残っており、円形闘技場の跡が現在のパリ第6大学の近くにあり「アレーヌ・ド・リュテス」と呼ばれています。

そして彼らはこの街を『ルテティア』と名付けました。
ユリウス・カエサルのガリア戦記にもその名前が記載されています。
そして別名『ルテティア・パリシオルム』とも呼ばれていて、それは『パリシィ人の沼地』という意味でした。

ローマ人の元で城壁に囲まれたルテティアは次第に交易を通して繁栄していきます。
紀元前52年当初はカルチェラタン南側が街の中心地でしたが、275年にゲルマン民族のアラマンニ人がルテティアを襲います。
シテ島が要塞として整備されたことでセーヌ川左岸の地域の人が移り住み、人口がシテ島に集中し、街の中心地はシテ島へ移ることになりました。
要塞に人口が集中するほど古代ローマ後期は治安が安定していなかったことが伺えます。

そのころにルテティアは先住民パリシィ人の名前をもとに『パリ』と名前を変更しました。
ついに街としてのパリが誕生したのです。

ルテティアの信仰事情

やっとパリが誕生しましたが、ここで視点を変えてルテティアだった時代の信仰についてみていきましょう。

ローマ人たちが築いた建物の中には神殿もありました。
その神殿の元はパリシィ人がシテ島にほこらを建てた場所で、ローマ神話の全能の神ユピテルと美の女神ウェヌスの神殿がありました。
だからといってローマの神々を信仰するように無理な強制はしませんでした。

古代ローマは共和政の時代から帝政になってからも基本的に属州にした地域の信仰を廃止せず、支配した地域の文化を容認して残すことで民衆のムダな反発を買わず支配したのです。

しかし、中にはローマが国を治めるのに危険と判断した信仰に対しては禁止をし、弾圧していきました。

ちょうど共和政から帝政になった頃、パレスチナでユダヤ教の新派が生まれ、1人の若者の教えを説く集団が現れます。
そう、みな様ご存知のキリスト教です。

キリスト教の「人はみな唯一の神の前で平等である」とする教えは、ローマにとって社会基盤である奴隷制度を脅かすものとして禁止されました。
何度も元老院(ローマの政治機関)から禁止の発布を受け、紀元27年の皇帝ネロの時代には大きな弾圧もありました。

しかし、その信仰の波は徐々に広がりパリにもその波が押し寄せてきていたのです。

キリスト教が中心の中世時代

キリスト教が中心の中世時代

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迫害から国教へ

3世紀ごろに、イタリアからディオニュシウスという伝道者がパリの地に足を踏み入れます。

彼はローマ教皇ファビアヌスより伝道の指示のもと、はるか遠くよりアルプスを越えてやったきたのです。
ちょうどパリではデキウス帝の迫害によってキリスト教徒の小さな集団が解散した後のことでした。

彼はパリ最初の司祭として、同行した助祭とともにシテ島に滞在し布教活動を行いました。

ディオニュシウスは多くの信者を増やしたため、ほかの宗教の僧侶から怒りをかい、パリ郊外の高い丘にて斬首刑にされました。
このことからその丘は「殉教者の山」と名付けられ、その古語が変化して現在ではモンマルトルと呼ばれています。

伝説では、ディオニュシウスは斬首された首を拾い上げて、説教をしながら街の北4キロを歩いたと言われています。
そして彼が倒れた場所に小さな礼拝堂が建ち、歴代フランス王が埋葬されるサン・ドニ大聖堂の基盤となります。
「ドニ」は「ディオニュシウス」がフランス語訛りに変化した呼び方です。

このようにキリスト教の伝道士は各地で迫害を受けながらも地道に信者を増やしていきました。
そして、ついにその勢力をローマ皇帝が認めることとなり、312年コンスタンティヌス帝がキリスト教を国教にしました。

そのころに、ノートルダム大聖堂の前進の寺院となる小さなキリスト教の寺院がシテ島に建てられました。

キリスト教徒の王たち

ここで時代を一気に12世紀の中世へと移してみましょう。

ローマ帝国崩壊後、キリスト教の国としてフランス王国が比較的安定してきたのは12世紀ごろ。
このころのパリは現代のパリの街に近い特徴がみられるようになりました。
シテ島は政治と宗教生活の中心で、セーヌ左岸(南側)は教会学校や大学があり、セーヌ右岸(北側)は商業と経済の中心でした。

ノートルダム大聖堂も1163年に現在の形になる聖堂建築へ着工されています。

1180年に王となったフィリップ2世の時代にルーヴル宮の建設がはじまり、中央市場がレ・アールにでき、道路も整備され、パリ大学の設立にも着手されました。

この時代はローマ教会の力も強く、信仰中心の生活をしていた時代でした。
ローマ教会からの呼びかけで、聖都エルサレムをイスラム教から解放する十字軍が提唱され、各国の王侯貴族たちにその負担を強いていました。

現実主義者フィリップ2世もキリスト教国の王として第3回十字軍に参加したほど、キリスト教の信仰に対するパフォーマンスが政治的に有効な時代だったのです。

また、王の中には彼の孫ルイ9世のように大変信心深く生涯に十字軍を2回起こし、東より聖遺物を高額に買取り、その一部を納めるための教会サント・シャペルを王宮の横に建てるほどの信仰に篤い者もいました。

ルイ9世は内政に力を入れ、比較的平和を維持したことによりフランス王国は繁栄しました。
彼の人柄は穏和で、各国の争いごとの調整役などを行なった事と十字軍の実績から、彼はフランス王家で唯一聖人として認められ「聖ルイ王」と呼ばれるようになります。
聖ルイ王の統治時代の1250年にノートルダム大聖堂の正面のバラ窓や双塔が完成しました。

ゴシック建築の特徴

ゴシック建築の特徴

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もっと神を感じる教会を建てよう

ノートルダム大聖堂の正面入口が完成したここで、現在のノートルダム大聖堂を詳しくみていきましょう。

まずは名前の「ノートルダム」ですが、これは「私たちの貴婦人」という意味で、キリスト教の中での貴婦人と言えばただ1人、聖母マリアを意味します。
中世キリスト教の特徴としてイエスへの信仰に併せて聖母マリアに対する信仰が篤くなっていきます。
そのため「ノートルダム」という名前の教会が多く、それらは聖母マリアに捧げられた教会なのです。

もちろん、パリのノートルダム大聖堂も同じで、一般的に「ノートルダム大聖堂」といえば、このパリの大聖堂を指すと言われています。

この大聖堂は12世紀にフランスで生まれたゴシック様式で建てられました。

先に紹介したサン・ドニの寺院で、より神に近づき感じるとこができる教会を建てるべく考えられた建築様式です。

具体的には天井を高くするためにアーチ型の天井を採用し、天井の重みを受ける壁を飛び梁で支えることで重みを分散させて壁を薄くし、壁に大きな窓がはめ込めるようになりました。

「もっと高く上へ上へ。
もっと光を!」がコンセプトだったのでしょう。

また、聖堂建築様式として、この大聖堂は上から見ると十字架の形をしており、十字の下側の正面入口は必ず西を向いています。

天の神から見て神の家である教会だとわかるようにしたと言われています。
聖堂内に入るとき、人々は十字架のイエスの足元から入り、その体内で神を感じ祈る演出がされているのです。

ノートルダム大聖堂は1163年に着工され、正面の双塔は1250年に完成されましたが、全体的な完成は1345年。
おおよそ200年間かけて建てられたので、ゴシック様式の初期から最盛期までの技術がみられます。

ノートルダム大聖堂をひと周り

正面西側入口の前に立つとそのシンメトリーな双塔とびっしりとならぶ彫刻達に圧倒されます。

正面入口は3つありますが、それぞれの扉上部にある半円状のレリーフを見てみましょう。
左は聖母子像を、中央は最後の審判を、右は聖母マリアの母・聖アンナの姿があります。

そして、その半円状のレリーフの上、バラ窓の下には聖書ゆかりのユダヤの歴代王や聖人の彫刻がずらりと並んでいます。

北と南の入口にもバラ窓があり、東側の内陣のステンドグラスの間を縫って飛び梁が建物の外へ伸びています。
そのアーチは時に生き物のようにも、外に伸びていく木の枝の様にも見えてきます。
ぐるりと360度どこから見ても美しく見える様に設計されています。

正面から中に入ると背中からバラ窓の七色の光が降ってきます。
正面入口以外にも翼廊(南北に伸びる十字の横線にあたる側廊)には大小のバラ窓があり、レースのような大きなバラ窓のステンドグラスは初期ゴシック様式を残すとして貴重なものです。

正面の身廊と左右に2列になった側廊があり、約9000人という大人数を受け入れる事が出来きます。

側廊の柱や天井アーチは繊細で、高さ33メートルの堂内は中世ヨーロッパの森をイメージして作られており、側面の尖塔ステンドグラスと丸窓の光が堂内を優しく照らします。
ステンドグラスは聖書のイエスの一生など聖書の話が描かれています。

側面には二階にも側廊があり、高窓は丸窓と尖塔ステンドグラスが建てに並び、さらに下にも丸窓がある珍しい作りになっています。

聖堂内に光と影が交差し、とても静謐で美しい空間が広がります。
その中にいると、信者でなくとも神様を想像してしまいそうですね。

我らがノートルダム大聖堂のエッセンス

我らがノートルダム大聖堂のエッセンス

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ガーゴイルとシメール

大聖堂内の美しさに触れた後は、北側の側廊から双塔かの上に登ってみましょう。

双塔の高さは69メートル、階段は387段。
パリの街を360度見渡すことができる高さです。

階段の途中で「キマイラの回廊」または「シメールのギャラリー」と呼ばれる踊り場のような場所にでます。
高さは西側正面入口のバラ窓の上で、双塔の分かれる場所になります。

みなさんはディズニー映画の「ノートルダムの鐘」をご覧になったことはありますか?

この映画はフランスの作家ヴィクトル・ユゴーの「ノートルダム・ド・パリ(邦題:ノートルダムのせむし男」を原作にノートルダム大聖堂を舞台にしたお話です。

ノートルダム大聖堂の塔に鐘つき男として暮らす、異形の青年カジモドには「ガーゴイル」という石像たちの友人たちがいます。
彼を励ましたり慰めたりする石像のキャラクターのモデルはこのギャラリーに点在する翼をもった怪獣たちなのです。

この怪獣たちは映画の中では「ガーゴイル」と呼ばれていますが、これらはキマイラまたはシメールという空想上の怪獣で、ノートルダム大聖堂を悪霊から守っていると言われています。

ちなみに、「ガーゴイル」は壁面から細く突き出している雨どいの怪獣たちのこと。

ノートルダムにはたくさんの雨どいがあり360度配置されたガーゴイルがパリの街に水とともに邪気を吐き出しています。

これらは中世ゴシックの時代ではなく、後年19世紀になってから付け足されたもので比較的新しい彫刻たちです。
それでも今ではこのキマイラ越しの街並みがパリの街並みらしいと言われるほど、親しまれています。

「エマニュエル」「マリー」って誰?

シメールのギャラリーからさらに塔を登っていくと鐘が複数かかっているのがみえます。

映画「ノートルダムの鐘」では主人公のカジモドが初恋の人エスメラルダにたくさんある鐘にはひつとひとつ名前があると、それぞれ紹介しているシーンがあります。

そのシーンはディズニーの創作ではなく、本当にノートルダムの鐘にはそれぞれに愛称がついています。

南塔の大鐘の名前は「エマニュエル」。
1681年に作られ、フランス革命を潜り抜け、特別な式典などの時のみに鳴らされていました。

2013年にノートルダム大聖堂着工850年を記念して、19世紀に付け替えられた質が悪く劣化した鐘4つを付け替えが行われました。

新しい鐘は北塔に8つと南塔に大鐘1つ。
南塔はエマニュエルと合わせて大鐘が2つ並んでいます。

大きな鐘の名前は「マリー」。
聖母マリアの名前がつけられています。
その他の8つの鐘にもそれぞれ名前があり、「ガブリエル(聖母マリアに受胎告知した大天使)」「アンヌ・ジュヌヴィエーヴ(聖母マリアの母とパリの守護聖人)」といった聖母とパリにゆかりのある方の名前が付いています。

調音の専門家によると付け替え前の鐘は劣化によってハーモニーがずれていたため不協和音になっていたそうです。
17世紀の時代と同じハーモニーを再現するため、新しくされたのですが、この付け替えプロジェクトの費用は寄付によってまかなわれました。

パリの方々がノートルダム大聖堂をとても大事にしていることが伝わるエピソードですね。

大受難に襲われるパリ、宗教改革

大受難に襲われるパリ、宗教改革

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宗教改革の波がやってくる

映画「ノートルダムの鐘」はちょうど15世紀のパリが舞台でした。
フランス王家のイスをめぐって長い戦いをしていた百年戦争が終盤に向かっていた時代です。

宗教はカトリックの全盛でパリのカトリック信者たちの心の支えで民衆を導く存在だったのがノートルダム大聖堂でした。

百年戦争を終結へ導き、王太子シャルルを戴冠させた立役者のジャンヌ・ダルクが魔女として火刑にされた後、フランスでは政治的な理由から彼女の復権を試みます。

ジャンヌ・ダルクの復権裁判が行われたのは、このノートルダム大聖堂でした。
カトリック教会の権威として大聖堂の司祭が彼女を魔女ではなく敬虔なキリスト教信者であったことを認めています。

このように政治と宗教が密接な関係にあった時代に16世紀にドイツで起こった宗教改革の波が押し寄せてきます。

フランス全土はカトリックとユグノー(新教徒またはプロテスタント)に分かれていきます。
おもにユグノーは南の地域で宗派を広げていきましたが、パリにももちろんユグノーの信者は増えてきます。

そんな中、ヴァロア朝の後継男子が絶えたことで、遠縁にあたるスペイン近くのナヴァール公国のアンリが大変有力な王位継承権を持つようになります。
このアンリはユグノー信者でしたが、フランス王家は代々カトリックであり、カトリックの神より認められた存在とされていますので、ユグノーのままでは王位につけない問題が持ち上がります。

サン・バルテルミの虐殺

カトリックとユグノーの統合を図るため、当時の王の母であったカトリーヌ・ド・メディティスがアンリと王妹であるマルグリットの結婚を提案します。

この結婚式でカトリック派貴族と王族ががユグノー派貴族たちを一斉に虐殺した事例が起こりました。
「サン・バルテルミの虐殺」です。

ちょうど結婚式が終わった5日後にサン・バルテルミの祝日に、ルーヴル宮の隣、ちょうどシテ島のポン・ヌフ橋を右岸に渡ったところにある、サン・ジェルマン・ローセロワ教会の朝の祈り鐘(深夜から明け方)の音に合わせてその虐殺は実行されたと言われています。

いろいろな対立などがありましたがアンリは最終的にはカトリックに改宗し、フランス国王・アンリ4世となり王宮をパリに戻しました。
このアンリ4世がのちにナントの勅令を出したことによりフランスの宗教戦争は一旦の幕を引くことになります。

そして、これがフランス最後の王朝ブルボン王朝の始まりでした。

パリを首都としたアンリ4世ですが、即位当初はまだユグノーだったためカトリック教徒の多いパリ市民からなかなか受け入れてもらえず、パリに入城することができませんでした。
その後、長い間の戦争で荒廃していた街を整え、セーヌ川にポン・ヌフ橋をかけたり内政に力を入れていきます。

アンリ4世の政治は安定しており、経済面でもフランスを豊かにしたため、当初はパリ市民に受け入れてはもらえませんでしたが、晩年は良い王として評価が上がっています。

王すらも拒絶するパリ市民の自らの意思の主張と権力へ抵抗する市民性が感じられるエピソードですが、この気質が次の大きな歴史のうねりへとつながっていったのではないかと思えます。

フラン革命前夜:その背景

フラン革命前夜:その背景

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国民の怒りという名の風船

フランス革命と聞くと、ルイ16世が政治を見誤り、マリー・アントワネットが贅沢をしたことから起こったと思われがちです。

もちろん彼らの現実を認識する力不足や国民に対応する姿勢などがきっかけで革命が起こることにはなりました。
しかし、それよりももっと前にその国民の怒りの風船は生まれ、長い年月をかけて大きくなっていくのです。

特にルイ14世の時代は戦争に明け暮れ、海外の植民地の開拓など外に向かっていく戦費がかさみ、さらにヴェルサイユに壮麗な王宮を作ることにも執着したため、国の赤字は年々積み重なっていきました。

ルイ15世の時代も同様に戦争にお金がかかり、赤字は解消するどころかさらに増していきます。
その負担はすべて国民に税金として降りかかっていました。

ルイ16世の時代になると国民の税金を上げるだけでは解消できなくなり、税制を変えて特権階級だった聖職者や貴族からも税を取る案を何度も立ち上げては、反対にあい取り下げるということをしています。

これによってこれ以上ないほどの重税を国民に強いるだけでなく、貴族たちからも反感を買うことになります。

ついにはじける怒りの風船

どんどんと膨らむ怒りの風船はさらにほかの要素でも膨らみを増していきます。

人はみな平等であるという啓蒙思想が貴族たちの間で支持されるようになりルイ14世のころのような絶対君主制が崩れつつありました。

そしてイギリスの市民革命やアメリカの独立といった王がいない社会が現実にあり、それによる刺激も加わります。

さらに、1783年のアイスランドのラキ火山の爆発が追い打ちをかけます。

一見フランスには関係のない出来事のようですが、この火山の爆発によって噴き上る火山灰はヨーロッパの空を白く覆いました。

それによる日照時間の減少、気温の低下によって農作物は不作となり飢饉がおこります。
小麦の値段は前年の4倍に跳ね上がり、さらなる貧困を生むことになったのです。

パリの市民たちは王や特権階級への怒りをデモや暴動でたびたび主張するようになります。

そのたびに警備隊や衛兵に取り締まられては解散し、また演説などで怒りの声を上げる集会を行い、暴動を起こすといったことが繰り返されていました。

そんな不穏な空気が流れるパリでついに怒りの風船がはじけます。

1789年7月14日にバスティーユ牢獄が市民によって襲われます。
これがフランス革命の始まりと言われています。

フランス革命とノートルダム大聖堂

フランス革命とノートルダム大聖堂

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王家のパリ帰還

バスティーユが襲撃された後、国民議会は封建特権の廃止を宣言し、フランス人権宣言を採択します。

人権宣言はフランス革命の基本原則と言われる「人間の自由と平等」「言論の自由」「人民主権」「三権分立」などです。
この時点では、国民は王家を廃止にすることを主張しているわけではありませんでした。

自分たちの自由の確保と王や特権階級だけに富や権利が配分される社会体制を崩したいだけでしたので、主権者はまだ国王にあり、法律の制定や海底には国王の承認が必要でした。

しかし、ルイ16世は国民が提案する法令を認めず、この人権宣言を認めませんでした。

そんな政治的な混乱と前年からの不作でパリの物価はさらに高騰。

同年10月にパリの女性たち数千人が武器を持って終結し、ヴェルサイユ宮殿へ押し入り、国王と議会に食料を要求します。
一部暴徒と化して宮殿での破壊行為が行われ、ルイ16世はこれに身の危険を感じ人権宣言を承認します。

この女性たちに連れられて王家はヴェルサイユを出てパリへ連れてこられることになりました。
そして、もう二度とヴェルサイユへ戻ることはできませんでした。

逃亡、処刑、そして破壊

ヴェルサイユを離れた王家はパリのテュイルリー宮殿に移り住むことになり、いつもパリ市民たちの目があり監視される日々を過ごします。

革命派の勢いがどんどん大きくなるにつれ、有力な貴族や聖職者たちはパリを出て国外逃亡をする人が多くなっていました。

そして王家も1791年に国外逃亡を図ります。
ヴァレンヌ事件です。

フェルゼン伯をはじめとする王党派の手助けにより、オーストリア国境に向かいます。

この逃亡はとてものんびりとしたもので、途中で何度も休憩したりピクニックのように郊外を楽しみながら進んでいたようです。
あと少しで国境というところで見つかり、パリへ連れ戻されました。

この王家が国を捨てて逃亡したことは国民にとって大きくショックでした。

のちにルイ16世は国外逃亡するつもりはなかったと証言しますが、王家の処刑は決行されてしまうのです。

王に裏切られたパリ市民の怒りは大変大きく、ルイ16世が処刑されるとその余波がノートルダム大聖堂を襲います。

古くから王家とのつながりのあるということと、特権階級の聖職者がいる大聖堂は市民にとってもはや自分たちの神の家ではなく、搾取した税で彩られた憎むべき象徴へと変わっていたのです。

正面入口の彫刻やステンドグラス、堂内の装飾などがパリ市民たちの手によって次々に破壊されていきます。

特に正面入口に並ぶ聖人やユダヤの王たちはフランス歴代の王家の像と勘違いされ、徹底的に壊されました。
また、司祭もギロチンの下に連れていかれました。

こうして12世紀からパリ市民を見つめてきたノートルダム大聖堂はその美しい姿を失い、1795年には廃墟と化し、閉鎖されることとなったのです。

ノートルダム大聖堂の復興

ノートルダム大聖堂の復興

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救世主ナポレオンと復興運動

破壊され廃墟となったノートルダム大聖堂を復興するきっかけが訪れます。

革命の混乱に乗じて軍人として出世し、ついには国会の議決と国民投票を経て、世襲となる皇帝となったナポレオン・ボナパルトの戴冠式です。

歴代王の戴冠式はランス大聖堂で行われる慣習でしたが、これまでと違うということを示すため、廃墟となっていたノートルダム大聖堂で行うことにしました。

1804年12月2日ナポレオンの戴冠式が行われました。

国王の戴冠式ではローマ法王が王冠を授けますが、ナポレオンは法王の目の前で自ら王冠をかぶりました。
神にではなく国民から選ばれた「フランス人民の皇帝」であり、教会を政治の支配下に置くという意志の表れです。

ルーヴル美術館にはナポレオンのお抱え画家だったダヴィットの描いた「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠」がありますが、実際にはジョゼフィーヌは戴冠しておらず、ナポレオンが自ら戴冠したことを寓意した構図と言われています。

次いで1831年に発行されたヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ド・パリ」が出版されます。
これによって国民全体に大聖堂復興運動が広がり、1843年に政府が大聖堂の修復を決定します。
撤去されていた聖堂の十字の交差部にあった尖塔を復活させ、1330年ごろの様式や大聖堂の姿を想定して完全なる復元がされました。
1845年から着手され、1864年に復興が完了し、現在の姿となったのです。

パリの大改造

まだノートルダム大聖堂の修復中の1851年、第二帝政を迎え、ナポレオンの甥がナポレオン3世になり、パリの近代化をセーヌ県知事のジョルジュ・オスマンに依頼します。

パリの街は狭い道と袋小路が多く、ワインの大樽(バリック)を積み上げることで簡単に立てこもりやゲリラ戦を起こすことができたため、治安が不安定になる原因になっていました。

また、当時のパリは家の中で出た排尿などの汚物はもちろんすべてのごみを窓から投げ捨てる習慣がありました。
狭い道にそれらが散乱し常に異臭が漂い、衛生面において大変劣悪で伝染病やコレラなどが蔓延していたのです。

そんなパリを光と風の通る街へ作り変える近代都市計画がはじまりました。

エトワール凱旋門から放射線状に延びる12の大通りを作り、中世の時代からある複雑で狭い路地を整理していきます。
計画地にある建物を取り壊して道幅を広げたりするスクラップアンドビルドという手法でパリの街を生まれ変わらせました。

そして区画整理を行い、シテ島を中心にカタツムリ状に地域を区分けして区の番号を振っていきます。

シテ島を含む区画はパリ1区になります。
当時、ノートルダム大聖堂をの前の広場は貧民層が集まるスラム街でしたが、一掃されきれいな広場へと作りかえられました。

広場にはパリからの距離を測る起点となるポイント・ゼロの標識が埋め込まれました。

都市計画の中には景観も含まれていました。
ノートルダム大聖堂の塔へ登ると街が360度一望できるのは、このときの都市計画で景観を保つためこの双塔の高さを基準にしたためです。

今ではフランス革命100周年を記念するパリの万博博覧会で建てられたエッフェル塔が双塔よりも高いですが、それも景観を邪魔しないよう計算されて建てられたと言われています。

パリの歴史がシテ島から始まったことを忘れていないオスマンの街づくりの心が伝わります。
この近代都市計画は世界で注目され都市計画の手本とされるようになりました。

現在のノートルダム大聖堂

現在のノートルダム大聖堂

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一筋縄ではいかない世界遺産登録

ここまで、ノートルダム大聖堂とパリの歴史について長い時間旅行をご案内してきました。

とてもたくさんの歴史が詰まった都市であると感じられたことと思います。

ところで、パリには世界遺産がいくつあるかご存知ですか?5つ?8つ?正解は、1つ。
世界遺産登録されているのは1つだけなのです。

有名なルーヴル美術館も凱旋門、そしてノートルダム大聖堂も世界遺産ではありますが、それら歴史のある建物と街並みすべてをひっくるめて「パリのセーヌ河岸」として、1991年に世界遺産へ登録されました。

具体的にはサン・ルイ島にかかるシェリー橋からエッフェル塔前のイエナ橋の間にあるセーヌ川両岸沿いにある歴史的建造物と街並みになります。

中世の建築群から近・現代の建物、都市計画で作られた街並みなどがまとめられて世界遺産の登録基準を満たしたとして、世界遺産となったのです。

中にはなぜこれは含まれないの?と思う建物や街並みもあります。

世界遺産が制定されて登録までに19年後に登録されているのも歴史のあるパリにしては遅い登録だなとも感じられます。

世界遺産になるとその修繕や周辺の規制などが生まれてきます。
パリは今でも都市の開発がされているため、世界遺産というタイトルは必要だけれどもそれによる規制があると困ると考えたのかもしれません。
検討に検討を重ねての登録だったと感じられます。

パリの中心で平和を祈る

パリの歴史を見てきたノートルダム大聖堂ですが、現在ではパリ観光の定番として世界からたくさんの観光客が訪れています。

大聖堂の彫刻群とステンドグラスの見学はもちろん、塔に登ってシメールやパリの街並みを見ることもできるので観光としては楽しい場所ではあります。

しかし、単なる観光地ではなく、現在もパリ教区の中心としての役割を担っています。

今でも巡礼の出発地であり、その巡礼者たちの中には聖遺物を目的に参拝する人もいます。

聖ルイ王が持ち帰った「キリストの茨の冠」や「十字架の破片」「磔刑に使われた釘」などが第一金曜日の午後3時から一般公開されています。

先にご案内したサント・シャペルに収められていた聖遺物たちは、フランス革命時に一時散乱しましたが、今はノートルダム大聖堂で保管されています。

そして2015年11月15日にパリ同時多発テロ事件の犠牲者のために追悼ミサを開き、パリ市民の信仰の中心として教会の務めを行ったのです。
大聖堂の中に入りきらないほどの参列者が集まり、入りきれなかった人たちも大聖堂前の広場でともに追悼の祈りを捧げました。

長い時間旅行を終えて

とてもとても長いパリとノートルダム大聖堂の歴史をご一緒にみてきましたが、いかがだったでしょうか?

日本人に人気の観光地であるパリはおしゃれでおいしいものがたくさんあって楽しい街ではありますが、その一方で歴史の荒波を超えてきた街でもあります。

そして、その中にいたノートルダム大聖堂も美しいだけではない悲喜こもごもな歴史を持った教会でした。

旅行に行かれた際には、ちょっとそんな歴史を思い出してみるとまた違った旅行を楽しむことができるかもしれません。

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