悲劇の英雄はいくつもの伝説を残すもの。「源義経」の歴史

幼名を牛若といい、鞍馬山で天狗に育てられたという伝説。京の五条大橋のうえで、武蔵坊弁慶と戦い、これを屈服させたという伝説。平氏との戦いでは、六甲山の鵯越から馬で駆け下りて打ち破った一ノ谷の戦い、平氏を少数の兵で打ち破った屋島の戦い、そして平氏を滅亡に追い込んだ壇ノ浦の戦い。義経なしには、源氏の勝利はなかったのに、その後は兄の頼朝と不仲になった義経。奥州藤原氏にかくまわれたものの、藤原泰衡に裏切られて衣川館で自害。合戦の英雄だった義経は、同時にまた悲劇のヒーローでもあったのですね。それがまた義鶴にまつわるいくつもの伝説を生んだのですが、義経の生きた人生をざっと眺めてみることにしましょう。

は謎に包まれている義経の幼少期

は謎に包まれている義経の幼少期

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鞍馬山の天狗と京の五条大橋の弁慶の伝説

1159(平治元)年、平治の乱で、義経の父である源義朝は敗れて死んでしまいますね。
義経はこの義朝の九男。
清和源氏の嫡流だったのですが、義朝の長男も次男もこのときに死んで、三男である頼朝は伊豆に流されました。
義経を産んだ母親の常盤御前は九条院の侍女。
もともと義経が源氏の跡継ぎになることなどありませんでしたが、そんなことよりも、迫り来る身の危険。
義経は当時は牛若と呼ばれていましたが、母の腕に抱かれ、2人の兄である今若と乙若といっしょに大和国に逃亡。
2人の兄はその後出家して、僧になったということですが、義経もそうなるはずだったのですよ。

このときまだ赤ん坊だった末っ子の牛若。
常盤御前が一条長成と再婚して京に戻ったとき、牛若もいっしょだったようですね。
ただ、11歳のとき、京の北の山中にある鞍馬寺に預けられ、兄たちと同じように僧になるところ、牛若はこれを拒否して、鞍馬寺から出てしまったのですよ。
鞍馬寺のある鞍馬山は、現在は京都市左京区なのですが、昔から天狗が住んでいると言われるほど、奥深い山地。
牛若ここで、その天狗から武術を習った、という伝説もありますね。
ここを逃げ出して京の町に降りた牛若は、五条大橋のうえで、通りかかった者から武器を奪っていた武蔵坊弁慶と戦い、これを屈服させた、というのは童謡にもなっています。
弁慶は僧兵あるいは山伏なのですが、その後ずっと義経に従ったと伝えられていますね。

奥州藤原氏を頼る

1174(治承4)年に、義経は自らの手で元服を行ったことになっていますが、いったいどこで元服したのでしょうか。
このあたりも謎なのですね。
『平治物語』では近江国で元服したと書かれているし、義経を主人公にした『義経記』では、父である義朝の死んだ尾張国であると書かれています。
そのあと、奥州平泉の藤原秀衡を頼って行ったということなのですが、これもどの道を通って行ったのか。
近江で元服したとすると北陸を通って行ったでしょうし、尾張国だとすると東海から関東を通って行ったでしょうね。
何かと謎に包まれた義経の幼年期。

元服するということはつまり、幼名から実名になることですね。
牛若から義経になったのですが、名前にはもちろん意味がありますよ。
公家や武士の家では、代々受け継がれる字がありますね。
義経の「義」はもちろん、父親である義朝の「義」。
では「経」はどこからとったのでしょうか。
清和天皇につながる源氏ですが、この源氏の初代が清和天皇の息子である経基王。
考えてみると義経は、源氏の初代と自分のすぐ上の代から、ぞれぞれ1字ずつもらったわけですね。
もちろん、奥州遠征で活躍した源頼義と義家にも、「義」という字がありますね。
また、どうして奥州藤原氏に身を寄せたかというと、母親の再婚相手である一条長成の従兄弟の子どもである藤原元成が、藤原秀衡の妻の父親、というつながりだったとのこと。
同じ藤原の姓ですが、秀衡の「藤原」は奥州藤原氏という別の藤原氏なのですよ。

兄である頼朝とのかわりに前線で戦う

兄である頼朝とのかわりに前線で戦う

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黄瀬川で源頼朝にはじめて会う

1180(治承4)年、平治の乱で父親も2人の兄もなくし、今や清和源氏の嫡子となっていた源頼朝が、流されていた伊豆国で、平清盛に対して挙兵したのでしたね。
これを知った義経は、奥州藤原氏の本拠地平泉から、兄のもとへと駆けつけた次第。
そのときの従者は、藤原秀衡から預けられた佐藤継信と忠信兄弟のほか、ほんの10数騎だったということです。
富士川の戦いで勝利していた頼朝は、末の弟義経と、黄瀬川で涙ながらに対面した、と伝えられていますが、頼朝自身、どの程度この弟のことを覚えていたのでしょうね。
一方、当時まだ赤ん坊だった義経には、母親の違う兄のことなど、まったく記憶になかったでしょうね。

源平の戦いは、壇ノ浦で平氏が滅亡して終わりますが、滅亡したといっても、平氏の嫡流である平宗盛とその子どもたちは生きて捕らえられていますね。
それを考えると、源氏も、頼朝は嫡流であるのだから、前線で戦って戦死する、などということがあってはならないことですね。
頼朝はその後鎌倉にとどまり、義経ともう一人の弟である範頼を、平氏討伐軍として派遣したわけです。
ここから、伝説にもなった義経の、「八艘飛び」など、人間離れした大活躍が始まるのですね。

木曽義仲に先を越されてしまう

反平氏の軍旗をあげたのは、頼朝だけではありません。
源義仲、通称木曽義仲もそのひとりでしたね。
鎌倉よりも木曽のほうが、ずっと京に近いし、木曽の山奥から出てきた騎馬武者たちは、都の暮らしに慣れた平氏を、倶利伽羅峠の戦いで破ったあと、あっという間に京から追い出してしまったですよ。
1183(寿永2)年のことでした。
木曽から出てきた武士たちは、戦いには慣れていても、京の華やかさにたちまち身も心も奪われて、乱暴狼藉。
そのうえ、木曽義仲は、後白河法皇を閉じ込めて、無理矢理に自分を征夷大将軍に任命させたのでした。
頼朝より先に義仲が、武士を統括する地位に昇った、ということですね。

しかし、同じ清和源氏でも、河内源氏の流れをくむ頼朝のほうが義仲よりも上なのですよ。
平安時代のことですから、この上下関係は大事なことで、義仲が平氏との戦いで先に戦果を挙げたのに、後白河法皇は頼朝を第一考えたのですね。
義仲はこれが不満だったのでしょうね。
下剋上の戦国時代とはちがって、まだまだ序列優先の時代。
後白河法皇は、頼朝の上洛を要求したのですが、頼朝はいろいろな事情があって鎌倉から動けません。
弟の範頼と義経を派遣したといっても、軍勢はわずかなもの。
しかし、このまま義仲の横暴を見逃しているわけにはいきません。
それに、京から追い出されたとはいえ、平氏も力を回復しつつあったのですね。

義経の伝説的な大活躍はここから!

義経の伝説的な大活躍はここから!

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粟津の戦いで木曽義仲を討ち取る

木曽義仲が京で傍若無人の振る舞いをしていたとき、義経も手勢を率いてやってきたのですが、なかなか京に入ることができません。
そのため、伊勢国に回って、味方の数を増やすことにしたのですね。
伊勢義盛という、その名前からして明らかに伊勢の土豪も、義経の郎党になったのですよ。
義経からの知らせを受けた頼朝も、鎌倉から範頼を総大将とする援軍を派遣。
1184(寿永3)年、範頼は近江国の瀬田から、義経は山城国の田原から、それぞれ軍を進めて、京にいる義仲を攻めたのでした。
義経は宇治川の戦いで勝利し、京に侵入。
粟津の戦いで義仲を討ち取ったのですね。

一方、義仲によって京から追い出された平氏でしたが、義仲は追撃することができなかったため、勢力を盛り返し、福原まで軍を進めてきていました。
福原は、現在の神戸市ですが、六甲山地が海岸近くまで張り出している狭い平地にあるのですよ。
海と山とに守られた天然の要塞といっていいでしょうか。
主力軍を率いるのは範頼、義経は搦手(からめて)と呼ばれる別働隊。
まずは夜襲によって義経は、平資盛を討ち取ったのでした。
照明器具などないこの時代、合戦は昼間にやるものなので、義経の奇襲作戦成功ということでしたね。

義経は一ノ谷の戦いで一躍有名に

鞍馬山で、天狗から武術を教わったという伝説のある義経。
播磨国に迂回して行った夜襲で戦果を挙げたとはいえ、平氏の本隊はまだ悠然と陣を張っていますね。
広い平地ならば四方八方から攻め込めるのですが、前に海、後ろに山地があるために、大軍を差し向けて一気に本陣を攻め落とす、というわけにはいきませんね。
そこで義経の考えた秘策。
「鹿も四つ足、馬も四つ足」という言葉をご存じですか。
鹿ならば、険しい山を駆け上ったり駆け下りたり、自由にできますよね。
鹿にできることが馬にできないはずはない、というのは、正しいような正しくないような、変な理屈ですが、これが、義経が精鋭の騎馬武者たちにかけた号令だったのですね。

義経は、少数の精鋭たちを引き連れ、自らが先頭に立って、六甲山中の鵯越から、一気に平氏の本陣に襲いかかったのでした。
頼朝との富士川の戦いで、水鳥の飛び立つ音に驚いて逃げた平氏の軍。
今度は本気で背後から襲いかかってきた敵にあわてふためき、数のうえではまったく問題にならないのに、海へと逃げ出す始末。
逃げ遅れた少年の平敦盛と、それを捕らえたけれども、自分の息子と同じ年だったため、同情して逃がしてやろうとしたけれども、結局その命を奪うほかなかった熊谷直実との、哀しいエピソードもありますね。
木曽義仲との戦い、それにこの一ノ谷の戦いで、ほとんど無名だった義経は、一気に有名になったのでした。

壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡

壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡

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後白河法皇から検非違使に任命される義経

一ノ谷の戦いで瀬戸内海に逃れた平氏の本隊。
これでもう、平氏が京に軍を戻す心配はなくなったわけですね。
範頼は鎌倉に呼び戻されたのですが、義経は京にとどまり、畿内の秩序回復のために働くことになったのですよ。
あくまでも鎌倉を本拠地にしようとしていた頼朝の政策からすれば、義経は言わば左遷された形。
実際、1184(元歴元)年に行われた朝廷の除目で、範頼は頼朝の推挙で国司になったのに、義経は国司になれませんでした。
この時代、国司はもう名目だけのものだったとしても、その名目こそが大事なのですから、ほとんど活躍していない範頼と、大活躍した義経との、褒美の格差は大きすぎますね。

平氏の本隊は西国に逃れたのですが、伊賀には平家継、伊勢には平信兼らがいて、反乱を起こしたのですよ。
反乱そのものはすぐに鎮圧されたので、これを三日平氏の乱と呼んでいるのですが、その戦後処理のため、義経は西国の平氏追討に出ることができず、鎌倉から範頼が総大将として大軍を率いて来たのですね。
これももしかしたら、義経を追討軍から排除するための口実だったかもしれませんね。
そのかわり、後白河法皇から直接、義経は左衛門少尉・検非違使に任命されていますが、しかしそれがまた、あとで問題になるのですよ。
なお、義経のことを「九郎判官」と呼ぶこともあるのは、義朝の九男であり、左衛門少尉(=判官)に任官されたからですね。

屋島の戦いと壇ノ浦の戦いで大勝利

「衆寡敵せず」という言葉がありますね。
合戦は、兵員の数が多い方が有利、ということです。
とはいえ、多くの兵を動員すると、補給が問題。
範頼も、せっかく平氏追討軍の総大将にしてもらったのに、食料が不足して、戦いどころではなくなったのですよ。
そこで義経は、後白河法皇に出陣の許可を願ったのですが、これもまた、頼朝との関係を悪化させる原因のひとつ。
ともかく1185(元歴2)年、義経は暴風雨のなか、少人数で船を出して、平氏が陣を張っている讃岐国の屋島に出撃。
周囲の民家や森などに火をつけて、大軍が襲いかかってきたように見せかけ、ここでも大勝利。
義経は本当に、戦いの天才だったということですね。

平氏はとうとう、本州と九州の間の関門海峡にある長門国の彦島に本拠地を移し、ここで滅びることになりますね。
有名な壇ノ浦の戦いです。
頼朝は、すでに九州の武士たちと手を組んでいましたから、平氏はもう逃げ場がなかったわけですね。
とかく義経の活躍が脚光を浴び、この壇ノ浦の戦いでも、義経は「八艘飛び」などと呼ばれる技を見せたのですよ。
平氏にも強い武士がいて、弓の使い手である平教経は、義経ひとりにその的を絞っていたのですが、義経は船から船へと飛び移り、巧みに逃げ回ったとのこと。
これを「八艘飛び」と呼んでいるのですね。
平氏の嫡男である宗盛の弟の知盛も、この戦いでは大活躍したのですが、結局「見るべきものはすべて見た」と言う意味の言葉を残して戦死。
宗盛父子は義経に捕らえられたのでした。

義経と頼朝との関係は切れてしまいました

義経と頼朝との関係は切れてしまいました

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平宗盛父子を連れてきた義経は腰越で足止め

源氏と平氏との戦いは、義経の活躍によって、平氏滅亡という形で決着。
平氏討伐の英雄として、鎌倉に凱旋してもいい義経でしたが、そうはいきません。
ギリシャ悲劇は、神の血をひく英雄が、運命の力によって滅びていく姿を描いたものですが、義経こそ、まさに日本版ギリシャ悲劇の英雄ですね。
全国の武士たちを自分のもとにまとめようとしていた頼朝と、院政時代を継続しようとしていた後白河法皇との対立にも注目しておきましょう。
華々しい義経の活躍の背後で、そのような政治の大きな動きがあったのですよ。
英雄の義経は、そんな大きな歴史の動きなど、知るはずもありません。
宗盛父子を連れて鎌倉に帰る自分を、兄はきっと歓迎してくれるはずだと、素朴に信じていたようですね。

1185(元歴2)年、頼朝は自分の承諾なしに勝手に朝廷から位階を授けられた武士を、鎌倉に入れませんでした。
義経も、この武士のひとりということになりますね。
そのうえ、頼朝は梶原景時から、平氏追討の戦いでの義経の勝手な行動について報告を受けていたのですよ。
宗盛父子を連れて鎌倉に戻ろうとした義経は、鎌倉の手前にある腰越というところで足止めを食わされて、鎌倉には入れてもらえません。
ここで有名な腰越状を頼朝に宛てて送り、必死で許しを得ようとしたのですが、もう手遅れ。
義経が鎌倉の手前でしばらく滞在したのは、現在の鎌倉の満福寺。
黄瀬川で涙の対面をした頼朝と義経の兄弟は、もう生きて顔を合わせることはなくなってしまったということですね。

頼朝の命令に従わない義経

壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたものの、平氏が連れていた幼い安徳天皇まで、その道連れにしてしまったのは、たしかによろしくなかったでしょうね。
そのうえ、天皇即位の象徴である三種の神器のひとつである剣まで失ってしまったのですから、この合戦の勝利も、単純には褒められませんね。
それにもうひとつ、義経の武士としての才能は、誰が見ても明らかなもの。
もしも各地の武士たちが、その才能のゆえに義経を総大将として祭りあげることがあれば、頼朝の立場はありませんね。
そのうえ後白河法皇が、この兄弟の確執につけこんで、義経を自分の手下にしようとしたのですよ。
義経を平時忠の娘と結婚させ、朝廷での平氏の地位を義経に与えようとしたようですね。

鎌倉から戻された平宗盛父子と平重衡を連れて、義経は京に帰ることに。
頼朝に対して憤慨した義経は、途中の近江で宗盛父子を斬首し、重衡はかつて重衡自身が焼き討ちにした東大寺に送ったのでした。
重衡をどうするかは、東大寺に任せたということですね。
頼朝と義経との対立が明白となったあと、義経は朝廷から伊予守に叙任されました。
もうこの兄弟の関係は修復不可能ということになりますね。
さらに、義仲に従った叔父の源行家を追討すべく、頼朝は義経に使者を派遣したのですが、義経は、体調不良のうえ、同じ源氏の叔父を討つことなどできないと、これを拒否。
それは、頼朝に反旗を翻した、ということになりますね。

身を隠すしかなかった義経は

身を隠すしかなかった義経は

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自分に従う軍勢をなくしてしまう義経

頼朝は土佐坊昌俊を、義経追討のために派遣。
京の堀川にある義経の屋敷を夜襲しましたが、戦いに関してはやはり義経のほうが上ですよね。
昌俊は捕えられ、頼朝の指示であったことを義経に告白したのでした。
義経は、叔父の行家とともに、頼朝と戦うことを決意。
後白河法皇から院宣をもらったのですよ。
昔なら、義経のほうが官軍で、頼朝は賊軍ということになったのでしょうが、院政の時代も終わりにさしかかっていたのですね。
頼朝が全国の武士たちをほぼ手中に収めており、京の周辺の武士たちは、むしろ義経の敵に回る始末。
そのため法皇は、今度は逆に義経追討の院宣を出したわけです。

義経追討のための軍が鎌倉を出たというので、義経は九州の武士たちを味方にして、これと戦おうと決意して京を出たのですよ。
途中、源氏の支流の摂津源氏の多田行綱が義経を襲ったのですが、義経はもちろんこれを撃退。
やはり義経は合戦の天才ですね。
摂津国大物浦から船を出して九州に渡ろうとしたところ、暴風雨のために船は難破。
一説によると、義経に恨みをもつ平氏の亡霊たちの仕業ということですが、これでもう、義経に従う武士はほとんどいなくなってしまったのですよ。
あとは行方をくらませるしかありませんね。

吉野に逃れた義経の物語『義経千本桜』

武士というのは、そもそも各地に散らばっている土豪たちのこと。
土地を支配している者ですから、頼朝から所領を安堵されている武士たちのところに隠れることは不可能ですね。
検非違使も伊予守も解任され、従五位下の位も剥奪された義経を捕らえるために、頼朝は全国に守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたのですよ。
鎌倉幕府の基礎ができたということですね。
義経はまず、吉野の山に逃れたのでした。
吉野はかつて、後醍醐天皇の南朝のあった場所。
桜の名所で、『義経千本桜』という題の人形浄瑠璃と歌舞伎があるのを知っていますか。
佐藤忠信や白拍子の静御前を連れて吉野に身を隠した義経ですが、義経の愛した静御前は吉野で捕らえられてしまいました。

その後、鎌倉に反感をもつ京の公家や寺院にかくまってもらっていた義経でしたが、1186(文治2)年に、和泉国で叔父の行家が討ち取られ、義経の郎党である佐藤忠信も伊勢義盛も殺害されてしまったのですね。
河越重頼は娘を義経と結婚させていたのですが、そのため頼朝はその所領を没収のうえ、本人を殺害。
義経にかかわるとろくなことはないということを見せつけたのでした。
さらに頼朝は、義経をかくまうならば京を攻撃する、という脅しまでしたので、義経は妻子を連れて京を出るしかありませんでした。

奥州藤原氏のもとに逃れる

奥州藤原氏のもとに逃れる

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藤原秀衡が死んで状況は変化

義経は、どこに逃げ場を求めたでしょうか。
元服して牛若から義経になったあと、奥州藤原氏のところにいましたよね。
もう頼れるところはそこしかありませんね。
1187(文治3)年、義経とその妻子は、山伏と稚児の姿に変装して、奥州へと逃れました。
途中、検問所があるのですが、それもなんとかして通過。
歌舞伎の『勧進帳』で、もともと山伏だったであろう武蔵坊弁慶が、山伏になりすました義経を叱り飛ばしている名場面がありますね。
それが事実だったかどうかはともかくとして、奥州藤原氏のもとへの逃避行は成功。
藤原秀衡が義経たちを受け入れてくれたのですよ。

奥州藤原氏は、まだ頼朝の支配下に入ったわけではありません。
場合によっては、関東の武士と奥州藤原氏との決戦、ということもあり得ますね。
この時点ではまだ、頼朝は征夷大将軍になっていませんので、義経を征夷大将軍にしてもらって、鎌倉に対抗しよう、などという構想もあったようですが、肝心の秀衡は、1187(文治3)年に病気で死んでしまいました。
秀衡は「義経に従え」という遺言を残したのですが、その跡を継いだ泰衡は、秀衡のような強さをもっていなかったようですね。

頼朝は藤原泰衡に脅しをかけるも…?

義経と泰衡がどんな関係だったか、詳しくはわかっていないようですね。
歴史に「もしも」はないのですが、それでもやはり、もしも泰衡が秀衡の遺言通り、義経に従っていたら、歴史はどう変わったでしょうか。
少ない軍勢で平氏を滅ぼすことのできた義経ですから、鎌倉から奥州に攻めてきた大軍を、見事に撃退していたかもしれませんね。
頼朝は、朝廷に圧力をかけ、義経を捕らえるよう、何度も泰衡に働きかけたのでした。
義経を捕らえて差し出しさえすれば、奥州を攻めることはないけれど、もしも義経をこのままらしていたら、そのときは奥州を攻める、という脅しですね。

秀衡ならば、こんな脅しに屈したりはせず、頼朝の真意を見抜いていたことでしょう。
頼朝の真意とは、要するに、義経を口実にして、奥州藤原氏を滅ぼし、関東から西だけではなく、奥州にも自分の勢力を拡大したい、ということですよね。
実際、泰衡は、頼朝のこの脅しに負けて、わずかの手勢しかいない義経を攻め、自害させたのに、頼朝の軍勢が攻めてきて、奥州藤原氏も滅亡したのですから。
結果はそうなのですが、英雄義経にも、まだ生き残りをかけた意地があったようですね。

いよいよ最期の時が迫る義経

いよいよ最期の時が迫る義経

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義経は最後の抵抗をしました

1188(文治4年)、義経は山を越えて出羽国まで行き、そこで鎌倉方の武士たちと合戦をしていますね。
この戦いについて、詳しいことはよくわかっていませんね。
ほとんど手勢しかもっていなかった義経が、いくら合戦の天才だからといって、それだけの人数で戦うことなど不可能。
奥州藤原氏の軍勢を率いていたとしか、考えられませんね。
出羽国は現在の秋田県で、奥州藤原氏の根拠地の平泉は、現在の岩手県ですね。
奥州藤原氏は、「奥州」がついているので、出羽国も含めて支配していたとも言われていますが、どうやらそれも確かなことではありませんね。

奥州藤原氏のために、まだ完全には支配下に入っていないこの地域を獲得するために、義経がその才能を発揮しようとした、と考えれば、理屈のうえでは説明がつきますが。
頼朝が泰衡に何度も脅しをかけていたのですが、この時点でまだ泰衡は義経を襲撃していないので、そういうこともあったのかもしれませんね。
また、1189(文治5)年には、比叡山の僧が捕らえられたのですが、なんとこの僧は、義経の書状を持っていたのですね。
その書状には、京に戻るという義経の意志がしたためられていたとのこと。
奥州藤原氏のもとにいられなくなりそうだということに義経は、心を傷めていたのでしょうね。

奥州藤原氏のミイラがある中尊寺金色堂

秀衡の遺言は「義経に従え」でしたね。
それは、ただ義経を保護することを越えて、もし義経が誰かと戦うようなことがあれば、義経を大将にして従軍せよ、という意味にとれますね。
秀衡がどうして義経をそこまで高く評価することができたのか。
義経にはなにかオーラのようなものがあり、それを秀衡は敏感に感じ取ることができたのでしょうか。
実際、平氏との戦いを振り返ってみても、ふつうには考えられないような戦法を用いて、常識破りの勝利を勝ち取っていますね。
奥州藤原氏の軍勢をもってすれば、頼朝など恐れる必要はない、ということですね。

しかし泰衡は、父の遺言を守ることなく、そのため、義経だけではなく、奥州藤原氏そのものを滅ぼす結果をもたらしてしまいましたね。
江戸時代の松尾芭蕉も『奥の細道』で、平泉にある中尊寺金色堂のことに言及していますね。
中尊寺そのものは、奥州藤原氏の初代清衡が建設したのですが、清衡・基衡・秀衡のミイラが金色堂には祀られています。
所領を拡大するに際して、敵と味方それぞれに多くの犠牲者が出ることになりますが、このお寺は、それらの霊を鎮めるためのもの。
父の遺言を破棄した四代目の泰衡は、残念ながら金色堂に入れてもらえなかったということでしょうか。

衣川館で自害した義経の「首実検」

衣川館で自害した義経の「首実検」

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義経は妻と娘を殺害したあと自害

義経は、ほんのわずかな腹心の郎党たちとともに、衣川館にいました。
ほとんど脅迫のような鎌倉からの指示に負けて、とうとう1189(文治5)年の初夏に、泰衡は義経の手勢の数十倍の軍勢でこの館を攻めたのですね。
これを衣川の戦いといいますが、逃げられないように館の周囲を取り囲まれて、さすがの天才義経も、今度ばかりは最期の時を迎えることになったわけです。
武蔵坊弁慶は、義経を守るために、敵の前に立ちふさがり、なんと1000本もの矢をその身に受けたとか。
これも、義経にまつわる伝説のひとつ。

義経は、戦うことをせず、館にある持仏堂にこもって、ただひたすら仏に手を合わせていただけだった、と伝えられています。
目撃者などいるはずもありませんから、これも伝説かもしれませんね。
郎党すべてが討ち死にしたあと、妻の郷御前とまだ4歳だった娘の命を奪ったあと、自分自身も自害。
「享年31歳」ということは、数え年ですから、満年齢でいうとまだ29歳でしょうか。
義経が歴史の表舞台に出たのは、黄瀬川で兄の頼朝と会ってから平泉で自害するまでの、わずか9年。
あまりにもあっけない英雄の最期ですね。
義経は、実は衣川館を抜け出して、北海道から大陸に渡り、成吉思汗になった、などという伝説は、あまりにも有名。
あちこちに、義経の残した足跡にまつわる伝説もあり、それを信じるならば、成吉思汗の伝説の根拠になりますね。

鎌倉で義経の「首実検」が行われる

自害した義経の首は、腐敗しないように酒に漬けられ、黒漆塗りの入れ物に入れられて、鎌倉まで、なんと43日もかけて運ばれたとのこと。
ちょうど夏の暑い頃、腰越の浦で和田義盛と梶原景時が「首実検」をしたというですが、その首が本当に義経のものかどうか正確に知るためには、DNA鑑定をしなくてはなりませんね。
それに、義経をどうしても討ち取りたかった頼朝が、この首実検に立ち会わなかったということで、それが本物かどうかについては、もう関心などなかったのでしょうね。
泰衡は自己保身のために、義経に通じていたと言う理由で弟の忠衡殺害までしたのに、結局はその直後に頼朝自身の率いる軍勢に攻め滅ぼされています。

腰越の浦で首実検をされたあと、義経の首は、藤沢の白旗神社に祀られたそうですね。
胴体は、栗駒の判官森に埋葬されたとのこと。
首と胴体は、それぞれ別の場所にあるということで、これももしかしたら、もう二度と首と胴体とがつながってもらった困る、という信仰上の問題があるのかもしれませんね。
衣川館で自害した義経とその家族の遺体は、とりあえずは衣川の雲際寺に運ばれ、位牌はそこに置かれていたとのこと。
しかし、2008(平成20)年にこの寺は火災にあい、この位牌も焼失したとか。
怨霊のせい、などと言ったら非科学的ですが、頼朝は義経と奥州藤原氏の怨霊を鎮めるために、鎌倉に永福寺を建立したのですから、人間が残してきた歴史は、ときには科学を超越いるということになりますね。

悲劇の英雄はいくつもの伝説を残すもの

「判官びいき」という言葉をご存じですか。
義経が検非違使になったとき、同時に与えられた位が左衛門少尉で、俗にこれを「判官」と呼んでいるのですよ。
平氏追討の戦いの英雄なのに、いや、英雄であるがために、頼朝に憎まれて、死ぬまで追い詰められた義経。
こんな悲劇の英雄に、多くの人は同情したのですね。
ほとんど歴史に現れない幼い頃にも伝説がありますが、死んだあとにも伝説が生まれるというのは、この「判官びいき」の故でしょうか。
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