鎌倉観光の前に読みたい!なぜ「源頼朝」は鎌倉幕府を開いたのか?

年号を語呂合わせで覚えた記憶がある方は多いのでは。1192年(いい国作ろう)に鎌倉幕府は源頼朝によって開かれた、というのが長らく小中学校で習う日本史の常識でしたね。最近では、この年号に少し動揺があるのです。平安時代と鎌倉時代をはっきり線引きすることなど、そもそも不可能なこと。ただ、清和源氏の嫡流である源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命され、鎌倉に幕府を開いた事実は、間違いありませんね。頼朝の先祖で征夷大将軍に任命された人もいるのに、どうして頼朝だけは、幕府などというものを開いたのでしょうか。さあ、その人生を振り返って、その謎を解いていきましょう。

保元の乱で勝利し、平治の乱で敗北しました

保元の乱のあと頼朝は任官しました

保元の乱のあと頼朝は任官しました

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1147(久安3)年に源頼朝は、源義朝の三男として、尾張国の熱田で生まれました。
なぜ京ではなく熱田なのかというと、頼朝の母親である由良御前の父親が、熱田神宮の大宮司の藤原季範だったからなのですよ。
平安時代は、父親の血統も大事ですが、生まれた子どもは母親の家で育てられるので、母親の家系も大事だったということですね。
父親の義朝はもちろん、清和天皇にルーツをもつ清和源氏。
先祖には、源頼義や源義家がいますね。
義朝には長男義平、次男朝長がいましたが、三男の頼朝とは母親が違っていて、これがこの2人の任官にも影響したようですね。

1156(保元元)年に起こった保元の乱。
崇徳上皇と後白河天皇との争いに、源氏も平氏も、それぞれ分裂してこの争いに加わったのですよ。
摂関政治から院政になった平安時代。
その院政も、いよいよ終わりにさしかかっていたということですね。
後白河天皇の側には源義朝や平清盛、崇徳上皇の側には源為義や平忠正がついて、結局は後白河天皇の側の勝利に終わったこの戦い。
長男義平は無官だったのに、まだ11歳だった三男頼朝は、1158(保元3)年に任官しているのですよ。
源氏の嫡流は頼朝、ということですね。

平治の乱で負けて頼朝は伊豆国に流されました

摂関政治とは、娘を天皇と結婚させた藤原氏が、生まれてきた男の子を天皇にして、その天皇が成人する前は摂政、成人したあとは関白になって、政治の実権を握る政治形態でしたね。
院政とは、天皇が息子に天皇の位を譲り、自分は上皇や法皇になって政治の実権を握る政治形態。
保元の乱では、上皇と天皇が争ったわけですね。
実際に戦ったのは、源氏や平氏の武士たち。
同じ武士の一族がふたつに分かれて戦ったのでした。
保元の乱で勝利した後白河天皇でしたが、まもなく後白河上皇となって政治の実権を握る院政を始めたわけです。
しかし、天皇の位を譲られた二条天皇との間に、また対立抗争が生じるのは歴史の必然ということでしょうね。

1159(平治元)年に、後白河上皇の側についた源義朝らが、三条殿を焼き討ち。
平治の乱の始まりです。
この戦功によって、13歳の頼朝も昇進。
しかし、二条天皇は平清盛のもとに逃れ、反撃。
平清盛は天皇の命令によって動いたので「官軍」、一方、源義朝は天皇に逆らったので「賊軍」ということになってしまったのですよ。
頼朝は父たちと、自分たちの本拠地である関東に逃れようとしたのですが、途中で一行とはぐれ、敵に捕まってしまったのですよ。
義朝は尾張で殺されてしまい、長男義平も処刑され、次男朝長もけがをして死亡。
頼朝も1160(永歴元)年に京へ送られたのでした。

伊豆国で将来への地盤をかためました

伊豆国で北条政子と結婚しました

伊豆国で北条政子と結婚しました

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平清盛の継母である池禅尼のおかげで、頼朝は処刑されずに、伊豆国の蛭ヶ小島に流されたのですよ。
のちに頼朝が挙兵したときに、清盛は、なぜあのとき処刑しておかなかったのかと後悔したとのことですが、それが歴史というものなのでしょうね。
流人とはいえ、清和源氏の嫡流、しかも父親も兄たちももうこの世にはいませんから、頼朝の存在意義は大きくて、地元の武士たちに大事にされていたようですね。
箱根権現にもよく行ったとのこと。
佐々木定綱などの従者もできたのですよ。
それから、頼朝は結婚もしたのですね。

その相手は、のちに「尼将軍」として知られる北条政子。
政子の父親は、伊豆国の豪族である北条時政。
1178(治承2)年に、この2人のあいだには、長女大姫が誕生。
北条時政はこの結婚に反対した、とも伝えられていますが、はたしてどうでしょうか。
そして、政子自身は、父親の反対にもかかわらず、そして別の男性との結婚話が進められていたけれども、ほとんど夜逃げ同然の姿で頼朝のもとに走ったとか。
この時期の頼朝については、工藤祐経に対する仇討ちの話で知られている『曽我物語』にも描かれていますが、「物語」以上のことはよくわかっていないのが実情というところですね。

以仁王が平清盛追討の令旨を出しました

天皇が譲位したら上皇、その上皇が出家したら法皇ということになりますね。
保元の乱のときの後白河天皇は、平治の乱のときには後白河上皇、そして1180(治承4)年の以仁王の乱のときには後白河法皇。
以仁王は後白河法皇の皇子で、平清盛があまりにも好き放題をやっていることに対して、兵を挙げたのでした。
平治の乱で敗北した源氏の嫡流でしたが、全国にはまだたくさん源氏が残っているのですよ。
頼朝の叔父である源行家も、伊豆国にいる頼朝にこの令旨を届けたのですね。
しかし、以仁王自身は、源頼政とともに、宇治で討ち死にしたのですが、乱そのものはそれで終わったわけではありません。

頼朝自身は、しばらく様子を見ていたのですが、今度は逆に平氏の側から、以仁王の令旨を受けた源氏を滅ぼす動きがあったので、このままでは自分の身が危ないと察知。
そもそも関東は源氏にゆかりの武士が多いところ。
頼朝は、自分に味方してくれる武士を集めたのですよ。
そして、この年の夏には、伊豆国の韮山にいる山本兼隆を攻め滅ぼしたのですね。
そのとき活躍したのは、義理の父親の北条時政。
伊豆国を支配下に収めた頼朝は、その余勢を駆って相模国に進出。
しかし、石橋山の戦いで敗れて、安房国に身を隠すことに。
頼朝はどうやら、戦いには向いていないようですね。

富士川の戦いで平維盛の軍を追い返しました

関東の武士たちが頼朝のもとに集結しました

関東の武士たちが頼朝のもとに集結しました

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安房国に逃れた頼朝は、上総国から下総国に向かい、そこでこの地域の有力者である千葉一族と合流。
現在の千葉県は、この一族の名前からきているのですね。
その後、武蔵国に移り、そこの武士たちも配下に。
そしていよいよ鎌倉へ。
鎌倉には、山城国の石清水八幡宮を勧請した鶴岡八幡宮がありますが、石清水八幡宮はかつて、「八幡太郎」と呼ばれた源義家が元服したところ。
頼朝は、それにならって、ここを本拠地にして、鶴岡八幡宮も山の上に移したのですよ。

ここで、少し煩雑になるかもしれませんが、頼朝に従った関東の武士たちの名前をあげておくことにしましょう。
伊豆国では北条時政と義時親子に土肥実平など、相模国では三浦義澄に和田義盛など、上総・下総国では上総広常に千葉常胤など、武蔵国では葛西清重、足立遠元、畠山重忠、河越重頼、江戸重長など。
こうしてみると、これらの武士たちの姓と、現在の地名とのつながりがよくわかりますね。
平安時代以前の律令体制のときにつくられた国とは別の、その土地その土地の土豪の勢力地図が見えてきますね。
そして彼らが、源頼朝のような、天皇に血筋のリーダーを求めたということでしょうね。

平維盛の軍が関東に攻めてきました

頼朝を頂点にして、関東の武士たちが結束し、平氏に従っていた武士たちと戦っていたとき、京から平氏の軍が攻めてくるのは当然ですね。
平維盛に率いられた平氏の軍は、駿河国に入ってきましたが、これを迎え撃つために頼朝は鎌倉を出たのですよ。
途中の黄瀬川で、北条時政や武田信義の大軍と合流。
なお武田氏は甲斐源氏で、ルーツは頼朝の河内源氏と同じですね。
そしていよいよ富士川で、源氏と平氏は向かい合ったのでした。
ただ、京の贅沢な暮らしに慣れた平氏は、もう武士としての気概を忘れてしまったのか、水鳥がいっせいに飛び立つ音に驚いて、平維盛は逃げてしまったのですね。
戦いに長けていたわけではない頼朝も、今度ばかりは大勝利。

余勢を駆って京に攻め上ろうとする頼朝を、千葉常胤や三浦義澄や上総広常は、まずは関東を平定すべきと進言し、黄瀬川に兵を戻したのですよ。
さてここで、義朝の9番目の息子、つまり頼朝の一番下の弟である義経が、奥州藤原氏のもとから駆けつけてきて、このときはじめて兄と対面。
このあと、平氏との戦いは、おもに義経が引き受けて大活躍するのですが、それはさておき、関東でまだ頼朝に従っていない佐竹秀義を攻めて、これに勝利。
そのときの戦功により、上総広常が佐竹氏の所領を獲得。
これを論功行賞といい、そのために武士たちは、頼朝のもとで命を賭けて戦ったのですね。

関東はすべて頼朝の支配下になりました

侍所をつくり、鎌倉幕府への第一歩を歩み出しました

侍所をつくり、鎌倉幕府への第一歩を歩み出しました

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1180(治承4)年の年末までに、近江源氏や甲斐源氏、それに信濃源氏が挙兵して、全国は騒乱状態。
清和源氏の嫡流は頼朝ですが、これは河内源氏。
平氏のほうも、維盛が富士川の戦いで敗走したとはいえ、兵力そのものは温存されていますから、本気で源氏を討伐する姿勢になったのですね。
福原から京に戻って、おもに近江源氏と戦っています。
一方頼朝は、本拠地鎌倉で、和田義盛を侍所の別当に任命。
これは、鎌倉幕府への第一歩と言っていいでしょうね。
1181(養老元)年には、肥後国の菊池隆直、尾張国にいた源行家、それに美濃源氏が挙兵。
戦火はさらに拡大したのですよ。

この情勢のさなか、平氏をここまで大きくしてきた平清盛が病死。
これが逆に発破をかけることになったのか、平重衡を総大将として、東国の源氏との戦いを始めたのでした。
重衡は墨俣川の戦いで行家を破り、美濃と尾張を源氏から奪うことができたのですよ。
しかし、それ以上東に進軍することができないことを見て取った頼朝は、清盛の跡を継いだ宗盛に、和睦することを提案。
しかし宗盛はこれを拒否。
源平の戦いはまだまだ続くことになってしまったのですね。
この時点ではまだ、京にいる平氏のほうに正統性があった、ということでしょうね。
奥州藤原氏の藤原秀衡を、宗盛はなんと陸奧守に任じることができたのですから。

頼朝に長男が誕生しました

頼朝も、そう簡単には京を目指すことなどできませんね。
1182(寿永元)年には飢饉があり、両軍ともに目立った動きをすることができません。
ただ、戦場で槍や刀をもって戦うだけが戦争ではないのですよ。
藤原秀衡を陸奧守にするという政治も戦争なら、神様に自軍の勝利と敵の敗北を祈願するのも戦争。
頼朝は、伊勢神宮に平氏打倒の願文を奉じたのですよ。
鎌倉の近くにある江ノ島の弁財天が祀られたのも、ちょうどこのとき。
神社仏閣の由来をひとつひとつ調べるのも、なかなか面白いですよね。
その弁財天のおかげかどうかわかりませんが、この年に長男が誕生したのですよ。
これがのちの二代目将軍頼家。

これで源氏の嫡流も安泰かというと、それはまだこれから、というところです。
常陸国にいた叔父の源義広が、足利忠綱と力を合わせて反頼朝の挙兵。
足利氏も源氏で、のちに室町幕府を開きましたね。
同じ一族といえども油断できないのがこの時代ということでしょうね。
小山朝正が源義広を撃退し、頼朝の異母弟であった範頼が残党を退治したのですよ。
そのとき、頼朝自身はひたすら鶴岡八幡宮で戦勝を祈願。
これで関東はすべてもう、頼朝の支配下になりましたね。

同じ源氏の木曽義仲と戦いました

木曽義仲が京から平氏を追い出しました

木曽義仲が京から平氏を追い出しました

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以仁王の呼びかけに応じた者のなかに、源義仲がいたのですよ。
頼朝と同じ源氏ですが、木曽を根拠地にしていましたので、ふつうは木曽義仲と呼ばれています。
同じ源氏といっても、頼朝に逆らった義広は、常陸から木曽に逃れていたので、これをかくまった義仲と頼朝は、いつ戦いが始まってもおかしくない状態に。
そこで、義仲の嫡男である義高を、頼朝の長女である大姫と結婚させるために、鎌倉に呼び寄せたのでしたね。
もちろんこれは人質ですよね。
頼朝としても、鎌倉を離れられない事情があり、義仲との戦いは避けたかったのでしょう。
義仲は、木曽でかき集めた兵を率いて、倶利伽羅峠の戦いで平氏を破り、京に上ったのでした。

1183(寿永2)年に、義仲によって平氏は京から追い出されてしまいました。
後白河法皇は、平氏追討の命令を出したのですが、山奥から出てきた武士たち、いえ、後世の「武士道」などという言葉からすれば、武士というよりも山賊と呼んだほうがいいような集団ですから、京を離れて西国に平氏を追撃など、するはずもありませんね。
頼朝の官位を剥奪した後白河法皇も、頼朝を京に呼び寄せようとする始末。
もちろんその見返りに、頼朝の官位は戻し、特権も与えようというのですが、頼朝はまだ動きません。
ただ、これによって、頼朝の鎌倉での地位が公認されたのでした。
もっとも、まだ征夷大将軍にはなっていませんが。

木曽義仲を源義経が破りました

義仲は、平氏との戦いにも敗れ、もはや京にとっては盗賊同然の存在。
頼朝は、弟の義経を義仲追討のために近江に派遣。
義仲は、後白河法皇を捕まえて、ついに頼朝討伐のお墨付きをもらい、なんと1184(寿永3)年には、征夷大将軍にまでなっているのですよ。
後世の武士道とは違うと言いましたが、名目を大事にするという点は、この時代がそのルーツだったようですね。
ただ、義仲のやり方は、あまりにも強引だったわけです。
征夷大将軍とは、清和源氏の棟梁に与えられる役職。
領地をもっている武士たちを統括できなくてはなりませんね。

「一生懸命」という言葉をご存じでしょうか、これはもともとは「一所懸命」。
自分の領地を命懸けで守り抜く、ということなのですよ。
ですから、所領安堵こそが、武士たちが将軍に求めること。
そのために奉公する、ということになるわけです。
残念ながら義仲には、その器量はありません。
頼朝の弟である範頼と義経は、粟津の戦いで義仲を討ち取ったのでした。
義仲の息子で、頼朝の娘の大姫の婿だった義高は、女装して鎌倉から逃れましたが、追っ手によって殺害。
大姫は夫の死を嘆き、母である政子はそれを見て、義高を討ち取った者を処刑したということですが、大姫は間もなく衰弱して死亡。
純粋な恋愛と封建社会とは、かみ合っていないようですね。

壇ノ浦でついに平氏も滅びてしまいました

鎌倉に公文所と問注所ができました

鎌倉に公文所と問注所ができました

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義仲との戦いに勝った範頼と義経は、今度は平氏を相手の戦い。
京を逃れて摂津の一ノ谷に、平氏は陣を張っていたのでした。
一ノ谷は六甲山麓にあり、海と山に囲まれた自然の砦。
敵はなかなか攻めてくることができないのですよ。
1184(元歴元)年、義経は鵯越という峠に騎馬隊を進め、ここから平氏の背後を襲い、あわてた平氏は敗走したのでした。
義経は平重衡を捕らえて京に戻ったのですね。
頼朝の指示で、義経はしばらく京にとどまり、畿内の武士たちを味方に加えようと奔走。
一方、頼朝自身は、四国や九州の武士たちに、平氏追討を呼びかけ、土肥実平と梶原景時らを鎌倉から派遣。

朝廷が、貴族や武士たちに官職を与えることを除目といいますが、この年の除目で、義経の異母兄である範頼は国司に。
頼朝は、範頼を総大将とする平氏追討軍を、鎌倉から派遣。
京で平氏追討を承認してもらったのですが、ここでお気づきのことと思いますが、これまでは朝廷が武士たちに命令していたのに、武士である頼朝が主導権を取るようになっていますね。
頼朝は鎌倉で、公文所という、のちに政所と呼ばれる政務と財政を行う機関をつくり、大江広元をその別当に。
さらに、裁判所のような役割の問注所をつくり、三善康信を執事に。
これで、鎌倉幕府の基礎が、ほぼ完成。
あとは、朝廷から征夷大将軍の官職をもらうだけですね。

壇ノ浦の戦いで平氏は滅びました

1185(文治元)年、範頼は頼朝に、窮状を訴える手紙を書いています。
東国からはるばる西国に軍を進めてきたけれども、戦いもなく、食糧補給もままならず、京にもいられないため、武士たちの不満が高まっていたのですね。
そこで義経は、後白河法皇の許可を得て、平氏のいる讃岐国の屋島に進軍。
義経の臨機応変な才覚がここに現れていますが、鎌倉の頼朝ではなく京の法皇から許可をもらったということが、あとで問題になりますね。
ただし、屋島の戦いは、義経の活躍より、源氏の勝利。
平氏は瀬戸内海に逃れたのでした。

そしていよいよあの有名な壇ノ浦の戦い。
義経の大活躍はあまりにも有名ですね。
ただ、このとき、頼朝の呼びかけに応じた九州の武士たちから、総大将である範頼は食料や船などをもらった、ということもあります。
戦いは、ただ武器を持って戦うことだけではなく、こういう物資の補給も大事なのですからね。
こうして平氏は滅亡。
平氏が連れていた安徳天皇も入水自殺。
ただ、平氏の総大将の宗盛は捕らえられて、鎌倉に送られたのですよ。

義経探索のため全国に守護と地頭が置かれました

義経と頼朝の争いが起こってしまいました

義経と頼朝の争いが起こってしまいました

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平氏討伐の総大将は範頼ですが、先頭を切って戦った義経は、なにかと目立つ存在。
義経を補佐した梶原景時からみると、頼朝の政権にとって邪魔な存在に見えたのか、頼朝に義経を非難する書状を送ったのですよ。
それでも頼朝は、義経を大目に見てはいたのですが、ほかにも義経の越権行為を非難する書き付けなどがあり、義経は、捕虜にした平宗盛父子を連れてきたものの、義経だけは鎌倉の手前で足止め。
この場所を腰越といいますが、ここで義経が頼朝に宛てて書いたのが、有名な腰越状。
義経は、なんとか兄に許しを求めようとしたのですが、戦いの天才は必ずしも政治の天才ではない、ということでしょうね。

義経は、宗盛らを連れて京に戻るほかありませんでした。
そのとき、義経が頼朝への不満をもらしたということで、頼朝は怒って義経の所領を没収。
義経は、宗盛らを近江国で斬首したものの、叔父である源行家追討の要請には応じなかったのですね。
そのため頼朝は、行家と義経をともに追討しようと兵を京に派遣。
これに対して義経は、朝廷から頼朝追討の許しを得たのでした。
平氏が滅んだあとは、源氏内部での覇権争いというところでしょうか。

身を隠した義経を探し出すため守護・地頭が置かれました

頼朝も、義経追討の軍をみずから率いて、黄瀬川まで出陣。
義経のもとには、それに対抗するための兵が集まりませんでしたね。
一対一なら絶対に義経が勝ったのでしょうが、義経には政治力がなかったということですね。
京から追われて外に出ることを「都落ち」といいますが、義経は文字通り都落ち。
摂津国の大物浦から、再起を期して船を出そうとしたのですが、暴風雨のために、自分に従う手勢もほとんどなくしてしまったのですよ。
これは、義経に滅ぼされた平氏の怨霊のしわざとも言われていますね。
義経は、どこに行ったのか、姿を隠してしまいました。

頼朝は、義経と行家を追討するための院宣を朝廷から無理にとって、全国の武士たちに義経の探索を命じたわけです。
以前は、武士たちを自分に従わせていた朝廷も、武士の棟梁のほうが強くなったということですね。
このとき大江広元は頼朝に、どこにいるかわからない義経を探し出すために、全国に守護と地頭を置くことを進言。
律令体制以来の国司と、あらたに頼朝の指揮下にある守護とが、同じ国に併存することになったのですね。
義経の件を口実にして、頼朝は鎌倉だけではなく地方にも、その支配体制を確立した、ということになるでしょうね。

奥州藤原氏も滅ぼされました

義経は衣川館で自害しました

義経は衣川館で自害しました

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1186(文治2)年、頼朝に近い立場の九条兼実が摂政に就任。
頼朝に反対する勢力の強い朝廷における頼朝の立場も、少し強くなったのですね。
和泉国に潜んでいた行家は討ち取られましたが、義経はまだ見つかりません。
どうやら義経は、僧兵などをもって、武士に負けないほどの武力をもっていた寺院に保護されていたのかもしれません。
なにしろ義経の最強の従者は、武蔵坊弁慶ですからね。
頼朝はまたこれを口実にして、寺院も自分の支配下に置いたわけです。
義経は結局、奥州藤原氏のもとへと逃れたのですね。
しかし、これもまた、頼朝に都合のいい口実を与えることに。

奥州藤原氏の動向が気になって、平氏との戦いのときにも頼朝は、鎌倉から出ることができなかったのですが、義経をかくまっている奥州藤原氏は、いよいよ攻撃対象に。
1187(文治3)年に藤原秀衡が死去。
翌年、義経をかくまっていることがついに明らかになったのですね。
頼朝は朝廷に、義経追討の宣旨を出させて、秀衡のあとを継いだ泰衡に送ったのでした。
もしかしたら秀衡なら、義経を総大将にして頼朝と戦ったかもしれませんが、秀衡は衣川館にいた義経を攻めて、自害させたのですよ。

奥州合戦で奥州藤原氏は滅ぼされました

頼朝の狙いは、奥州藤原氏そのもの。
義経の首が鎌倉に届けられ、和田義盛と梶原景時が、この首が本当に義経のものかどうかを確かめたのですが、これが「首実検」という言葉の由来。
本物ということになったものの、平泉から鎌倉まで、何日かかったのかを考えると、本物かどうかわかるはずもありませんね。
義経が本当は生きて大陸に渡った、という伝説はよく知られていますね。
それはともかく、義経をかくまった罪は、義経の命を奪っただけですむものではないと、鎌倉から奥州藤原氏の泰衡追討の軍が出発。
奥州合戦の始まりです。

かつて頼朝自身も恐れていた奥州藤原氏ですが、それも秀衡まで。
泰衡の代になると、頼朝の恫喝を恐れて、かくまっていた義経を攻めるなど、頼朝の意図を見抜けなかったために、頼朝に攻められることに。
ついに本拠地である平泉まで頼朝軍は迫ってきたのですが、泰衡は逃亡。
泰衡からの許しを請う書状も、頼朝は無視。
前九年の役で源頼義が安倍貞任を倒した厨川まで、泰衡を追い詰めたのですね。
ここで泰衡を討ち取れば、源氏の輝かしい歴史が復活しますね。
泰衡はこの場所で、なんとさらし首になったのですよ。
頼朝は、奥州を平定するにあたり、投降した者の所領は安堵。
あの見事な中尊寺なども、現在まで残っていますね。

頼朝はようやく征夷大将軍になりました

なかなか征夷大将軍にはなれませんでした

なかなか征夷大将軍にはなれませんでした

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源平の合戦のときにはじっと鎌倉にいた頼朝ですが、今回は最前線まで出陣したのでした。
それは、この戦いに全国の武士たちの力を結集し、鎌倉を留守にしていても、誰も鎌倉に攻めてこないからなのですね。
名実ともに武士の棟梁になった頼朝。
葛西清重を奥州総奉行に任命。
鎌倉へと凱旋したのでした。
これでようやく、内戦状態が終結。
頼朝はあらためて、武士の主従関係を明確にし、封建体制を確立。
各地に散らばっている武士たちは、頼朝に従うことで所領を安堵され、そのかわり、何かあるれば「いざ鎌倉」、手勢を率いて頼朝の軍に加わり戦うことが義務づけられたわけですね。

1189(文治5)年に朝廷から、奥州平定を称える書状が送られてきました。
あくまでも朝廷が上にある、ということなのですが、朝廷はまだ頼朝に、征夷大将軍の位を与えようとはしないのですよ。
しびれを切らしたのか、翌年に頼朝は、千騎の軍を率いて上洛。
かつて平清盛が住んだ六波羅に、頼朝は自分の屋敷を建築していたのですよ。
ここにしばらく腰を落ち着けて、後白河法皇との交渉を画策したのでしょうね。
法皇は、あくまでも頼朝を征夷大将軍に任官することを避け、権大納言にして右近衛大将の位を与えたのですが、頼朝はすぐに辞任。
「近衛」というのは朝廷を守護する軍人のことなので、頼朝としては、やはり征夷大将軍として鎌倉を本拠地にしたかったのですね。

後白河法皇が崩御してやっと征夷大将軍になれました

頼朝の京都滞在は、なんと40日間。
そのあいだに法皇と会ったのも8回。
1週間に1回よりも多いペースですね。
征夷大将軍にはなれなかったものの、どこかに潜伏していた義経と行家を捕らえるために、頼朝がとった措置は法皇に認められ、今日の言葉で言えば警察組織が朝廷によって承認され、頼朝がその長官として認められた、ということになりますね。
とはいえ、武士たちを自分の意のままに操ることができた後白河法皇の、最後の意地の見せ所ということでしょうね。

1192(建久3)年にとうとう後白河法皇も崩御し、建久新制が始まりました。
まずは、頼朝が全国に設置した守護・地頭が公式に認められたのですよ。
そしてまもなく、頼朝は征夷大将軍に任命され、ようやく鎌倉に開いていた「幕府」が公式のものになった、というわけです。
しかし、鎌倉幕府の主要な役職は、これ以前にすでに存在していましたね。
翌年、駿河国で御家人たちを集めて狩りが行われましたが、これを富士の巻狩りと呼んでいます。
このとき12歳の嫡子頼家が、はじめて鹿を射止めたとのこと。
頼朝の喜びはどれほどのものだったでしょうね。

1198(建久9)年に頼朝は死にました

流鏑馬が行われました

流鏑馬が行われました

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この巻狩りのときに、『曽我物語』の話の中心である、工藤祐経を曾我兄弟が討ち取る事件が起こったのですよ。
こういう事件は、とかく間違った噂として伝えられるもの。
頼朝が討ち取られたという知らせが鎌倉に届けられたのですね。
「尼将軍」と呼ばれる政子もあわてたのですが、頼朝の弟である範頼が、自分がいるから大丈夫、などと口走ったとか。
これに謀反の疑いがかけられ、範頼は伊豆に流罪。
親子・兄弟で争ったあの平治の乱を経験した頼朝のことですから、息子である頼家のために、弟の範頼を排除ておいたのでしょうね。

1195(建久6)年に頼朝は、摂津国の住吉大社で、御家人たちを集めて今度は大規模な流鏑馬(やぶさめ)を行いました。
走る騎馬にまたがった武士が、的に向かって矢を射るという行事ですが、これは今でも鎌倉で行われている、有名な行事ですね。
いかにも武士らしい技ですが、これでもう、実際に戦うことなど必要ない、という願いが込められているのかもしれませんね。

東大寺を再建しました

平重衡によって焼かれた東大寺の再建も、1195(建久7)年にようやく終わって、頼朝は、妻の政子と息子の頼家、それに娘の大姫たちを連れて、その供養のためにふたたび上洛。
今では観光旅行が一般的になっていますが、それは近代以降の話。
今でもある国のVIPが外国に出掛けていってそこでその国のVIPと会う、というのは、外交上の重要なことですね。
頼朝の上洛もまさにそれで、なんと頼朝は、娘の大姫を後鳥羽天皇の妃にするつもりだったのですね。
そのために、あらゆる手を使って朝廷工作をしたということです。
そのせいで、頼朝に好意的だった九条兼実は、1196(建久7)年に失脚。
これを建久七年の政変と呼んでいますね。

ところが、1197(建久8)年に、大姫が死んで、頼朝の計画は頓挫。
後鳥羽天皇は、土御門通親の養女が産んだ土御門天皇に譲位して、後鳥羽上皇になったのでした。
鎌倉に幕府が開かれたとはいえ、朝廷のある京の院政も、まだまだ根強く生き残っていたということですね。
外交は武器を用いない戦いと言われますが、武士である頼朝は、この武器を用いない戦いで負けた、と言っていいでしょうか。
1198(建久9)年の末、相模川の橋供養からの帰り道、頼朝は体調を崩し、翌年に死亡。
落馬が原因だというのが定説のようですが、流人の身から鎌倉幕府を立ち上げた偉大な武士の死としては、どこか寂しいですね。

1192年以前にすでに鎌倉幕府はありましたね

「いい国作ろう鎌倉幕府」と覚えた1192年。
これは後鳥羽法皇が崩御して、ようやく頼朝が征夷大将軍になった年でしたね。
鎌倉幕府の基礎である、侍所も公文所も問注所も、それに全国に配置した守護・地頭も、それより前にできていましたね。
人臣に位を授ける力をもつ朝廷。
その朝廷の力を巧みにコントロールすることこそが、鎌倉幕府以降の日本の政治体制の基本、ということになりますね。
頼朝こそ、その基本を最初に作った将軍なのですね。
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