豊臣秀吉はなぜ天下統一できたのか?その人生を追う

ブリを出世魚というのは、知っていますか。地方によって呼び方はいろいろですが、稚魚のモジャコから始まって、ワカシ、イナダ、ワラサと名前を変えて大きくなっていきますね。豊臣秀吉も、日吉丸から始まって、木下藤吉郎、木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉と名前を変えて、ついに文字通り「位人臣を極め」て関白太政大臣の豊臣秀吉になりましたね。いくら下剋上の戦国時代とはいえ、武将の家に生まれたのではない秀吉に、どうしてそんなことができたのでしょうか。さあ、いろいろな伝説に彩られた秀吉の人生。さあ、秀吉のこの人生の足跡を追いかけていくことにしましょう。

秀吉の出生についていくつもの伝説が残されています

秀吉の出生についていくつもの伝説が残されています

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生まれたのは現在の名古屋市中村区です

愛知県名古屋市中村区の中村公園に、「豊公誕生之地」の石碑が建っていますね。
豊臣秀吉はここで、1536(天文5)年の元旦に生まれたことになっていますが、正確なことはよくわかっていません。
父親は木下弥右衛門。
武士としては身分の低い足軽、あるいは、農民だったとする説もありますね。
「なか」というのが母親の名前ですが、秀吉を産むとき、日が昇る夢を見たというのです。
それで生まれてきた男の子に、日吉丸という名前をつけた、これもどうやら、作られた伝説でしょうね。

出生ついて伝説がいろいろ語られるのも、秀吉の魅力ということでしょうか。
この父親の死後、「なか」は竹阿弥という男性と結婚したとされていますね。
むしろこの竹阿弥という正体不明の人物こそが秀吉の父親で、足軽とはいえ武士である父親の「木下」という姓も、秀吉が結婚した「おね」という女性の母方のものである、とも伝えられているのですよ。
ともかく謎だらけの秀吉の出生。
ちょうど元服の年頃に、竹阿弥にいじめられた秀吉は、武士になるために家を出た、というのもこれらの伝説の一部でしょうか。

遠江で足軽になり木下藤吉郎と名乗りました

農民に生まれた者が武士になれる、なんて妙な気がしますね。
江戸幕府になって「士農工商」の身分制度が確立されてからは、そんなことはほとんど不可能。
しかし、群雄割拠の戦国時代では、各地に土豪や野武士などがいたのですよ。
いざ戦いとなると、人集めが行われました。
農民がそもそも、自分の土地を守るために、武器を持つこともあった時代ですから、有力な武将のもとに、そのような人々が集まったということですね。
逆に言えば、どのくらいの人を集められるか、ということが武将の力のバロメーターだったわけです。

秀吉は木下藤吉郎と名のり、松下之綱に仕えることになったのですが、松下之綱は遠江にある頭陀寺城の城主。
遠江を支配していた今川氏の家臣のさらにその家臣。
秀吉は、自分の主君の上にいる今川義元に、直接会ったことなどなかったでしょうね。
のちに天下人にまでのぼりつめた秀吉ですが、自分のキャリアの最初を飾ってくれたこの松下之綱には、それなりのお礼をしているのですよ。
今川氏のあとしばらく徳川氏に仕えていた松下之綱でしたが、最終的には秀吉によって、この頭陀寺城の近くの城を与えられています。
恩を受けた人には義理堅い秀吉ですね。

清洲城の織田信長に仕え、結婚もしました

清洲城の織田信長に仕え、結婚もしました

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織田信長に仕えることになりました

今川氏は、室町幕府から任命された駿河の守護大名。
戦国時代になって、遠江まで勢力を拡大したのでしたが、それは、松下之綱のような土豪たちを傘下にしたということですね。
江戸時代なら、武士が自分の主君を変えることなど不可能ですが、この時代は、家臣たちも自分の将来を考えて、だめな主君は見捨ててしまうこともあったのですよ。
要するに、戦国武将たるものは、どれだけ家臣や足軽などを集められるか、その力量にかかっていたわけです。
織田信長こそ、まさにそのカリスマ的存在だった、と言っていいでしょうね。
木下藤吉郎も、1554(天文23)年に、このカリスマのもとで小者になったのでした。

織田信長は当時、清洲城の城主。
あまりにも有名なエピソードとして、信長がはく草履を、秀吉が自分の懐で暖めていた、という話があります。
織田信長もまだまだ弱小大名でしたから、秀吉にも近づくチャンスがあったということになりますね。
そして、その気遣いに主君信長はおおいに感激し、何かと秀吉に用事を言いつけるようになったとか。
信長は秀吉を「サル」と呼んでいたそうです。
そしてなにかにつけて、秀吉に用を言いつけたということでしょうね。

「サル」も人並みに結婚しました

今どき部下を「サル」などと呼んだらそれこそパワハラですが、命がけで戦っていた戦国時代のことですから、これは秀吉が信長におおいに目をかけられていた証拠。
主君に気に入られた秀吉ですから、同僚にも気に入られたことでしょう。
例えば、足軽組頭になっていた秀吉と同じ長屋に住む、同じ足軽組頭の浅野長勝。
のちに浅野氏は、豊臣政権の有力な大名のひとりになっていますが、この当時は大名からははるかに遠い身分。
秀吉に関係した人たちの「出世」も忘れてはなりませんね。

1561(永禄7)年、秀吉はこの浅野長勝の養女おねと結婚したのですよ。
血縁関係と婚姻関係が、人と人との結合につよく作用したこの時代、誰かの娘を養女にして、しかるべき男性と結婚させ、その男性との絆を強くする、ということはよくあったことですね。
おねの実父は杉原定利で、実母の朝日はこの結婚に反対していたとのこと。
足軽組頭ではなく、もう少し身分が上の武士の嫁にしたかったのでしょう。
なお、おねは生涯にわたって秀吉の正妻。
のちに北の政所と呼ばれ、豊臣氏の滅亡もその目に焼き付けたのですよ。

織田信長の勢力拡大の先兵となりました

織田信長の勢力拡大の先兵となりました

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美濃攻めで功績をあげました

美濃の斎藤道三は、薬売りから一代で戦国大名になった人物。
織田信長は、その娘と結婚しましたが、もちろんこの結婚は政略結婚。
尾張が美濃に飲み込まれるか、それとも尾張を統一した信長が、その勢いで美濃に進出するか。
戦国時代は、本当に油断大敵。
斎藤道三自身も、思いがけず息子の斎藤義龍に挙兵され、これと戦って戦死したのですよ。
織田信長も、義理の父への援軍を出したものの間に合わず、義龍が死んで、その息子の龍興の代になったとき、1563(永禄6)年に美濃を攻めたのでした。

斎藤氏が美濃を支配していたといっても、あちこちに土豪がいて、その寄り合いというのが、戦国大名たちの実情。
土豪たちは、自分の所領を安堵してくれる大名がいてくれさえすればいい、それが斎藤氏でも織田氏でもかまわない、理屈のうえではそういうことですね。
1564(永禄7)年に秀吉は、その作戦を遂行し、成果をあげています。
翌年、そのうちのひとりに宛てた知行安堵の書状に、木下藤吉郎秀吉と、はじめて「秀吉」の署名。
秀吉は、信長の家臣として、もうかなりの地位に昇っていたことになりますね。

墨俣一夜城は本当に一夜にして築城されたのでしょうか

この美濃攻めで、やはり伝説になっているのが、墨俣一夜城。
美濃は、木曽川と長良川という大きな川が流れていて、それがまた自然の防壁にもなっています。
木曽川の岸に建つ岐阜城は、文字通り難攻不落の城。
斎藤氏を滅ぼし、岐阜城を居城にした織田信長が、ここで「天下布武」、つまり自分は天下を取るのだと言った話は有名ですが、まだまだ道は遠いのに、それほど立派な城だったということでしょうね。
話は先に飛んでしまいますが、本能寺で死んだ信長の孫の後見人になった秀吉が、信長に代わって天下を取りますね。
その孫は、のちの織田秀信で、この岐阜城の城主になっているのですよ。

墨俣一夜城の遺構は長良川の川岸にあり、現在は大垣市です。
秀吉がここに、一夜にして城を築いた、という伝説があるのですよ。
だからその名も墨俣一夜城。
どんなトリックを使ったのか、さすが秀吉というところですね。
この功績により、秀吉はますます織田家での地位を高めたことは確かでしょう。
1566(永禄9)年のことでした。
木曽川を根拠地する野武士集団である川並衆の蜂須賀正勝が、このあと秀吉の配下になっているのですが、実は、秀吉が奉公先を求めて放浪していたとき、蜂須賀小六と名乗る盗賊にかわいがられた、という伝説もあり、秀吉の美濃での活躍には、いろいろ裏もありそうですね。

浅井長政・朝倉義景との戦いでも活躍しました

浅井長政・朝倉義景との戦いでも活躍しました

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浅井長政は妻の兄の織田信長を裏切りました

1567年(永禄10)年に、斎藤氏は滅亡。
このとき秀吉は信長に、のちに軍師として活躍する竹中重治をもらい受けたのでした。
1568(永禄11)年、信長の上洛により秀吉も都での仕事に就きましたが、このとき、あの明智光秀や、丹羽長秀もいたとのこと。
1569(永禄12)年には、中国地方の覇者毛利元就が九州の大友氏と戦っていたときに、出雲で尼子氏の残党が挙兵。
信長は秀吉に多数の軍勢をつけて、但馬に派遣。
秀吉はたちどころに戦果を挙げたのでした。

美濃と京のあいだには近江がありますね。
近江の大名浅井長政は、信長の妹であるお市の方と結婚していたので、安心して上洛ができたということですね。
足利義昭を将軍に奉じて上洛したのですが、将軍になってみると、義昭にとって信長は邪魔な存在。
いわゆる信長包囲網ができたのですよ。
1570(元亀元)年、信長は、その包囲網のひとりである越前の朝倉義景を討つべく、越前へと軍を進めたのでした。
ところが、浅井長政が突然、信長の敵に回って、信長を挟み撃ち。
絶体絶命の信長は、退却することに。
秀吉は、逃げる信長軍の最後尾に回り、追撃する敵と戦ったのですよ。

木下藤吉郎秀吉から羽柴秀吉になりました

危機を乗り越えた信長は、もちろんこのまま黙っているはずもありませんね。
浅井長政と朝倉義景に対して、大軍を向かわせたのでした。
もちろん秀吉も、横山城を奪取して、その褒美として横山城の城代に。
城代は城主ではないものの、「一国一城の主」の気分を十分に味わったことでしょう。
朝倉義景を滅ぼした小谷城の戦いでは、夜襲という、非常に危険な攻撃までして、織田軍の勝利に貢献したのですよ。

1573(天正元)年、浅井氏が滅亡。
近江も信長の支配に入ったのでした。
信長が安土に壮大な安土城を築いたことはよく知られていますね。
この安土から少し離れた北近江に、秀吉も領地をもらったのでした。
その領地の今浜を「長浜」と改称し、安土城に比べたらほんの小さなものですが、長浜城を建築。
これで秀吉も、本当に一国一城の主となったわけです。
秀吉は、いろいろ名前にこだわったのですが、自分の姓も、木下から羽柴に変更し、羽柴秀吉が誕生。
「羽柴」の姓は、信長の有力な家臣である丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったという説が有力ですが、本当のところはどうでしょうか。

長篠の戦いから中国地方遠征への道

長篠の戦いから中国地方遠征への道

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長篠の戦いのあと柴田勝家の支援に駆り出されました

信長が支配地域を拡大するとともに、家臣たちも領地や城を持つようになり、その点ではほとんど大名そのもの。
ただふつうの大名と違うのは、信長の命令によって、せっかく手に入れた領地と城とを手放して、あらたな敵との戦いに駆り出されることがあったのですよ。
秀吉も、長浜城は出発点に過ぎませんでした。
もともと家来などいなかった秀吉でしたが、長浜城では、滅亡した浅井氏の家臣たちを召し抱えたのですね。
石田三成も、この頃に秀吉の家臣になっています。

1575(天正3)年、武田信玄のあとを継いだ武田勝頼の騎馬隊と、織田・徳川連合軍の鉄砲隊との有名な戦い、長篠の戦いがありましたね。
もちろん秀吉もこの戦いに従軍。
翌年には、露山城を落城させることに成功したのですが、1577(天正5)年には、越後の上杉謙信と戦っていた柴田勝家の援軍に。
朝倉氏の領地をもらった柴田勝家でしたが、足軽から身を立てた羽柴秀吉とは話が合うはずがないですよね。
信長に激怒された秀吉でしたが、信長の長男信忠の軍に加わって、なんとかこの危機を切り抜けることができたのですよ。
信長に激怒されたらどうなるかわかりませんからね。

鳥取城の兵糧攻めに備中高松城の水攻め

この年、秀吉は「中国征伐」に駆り出されたのですが、もちろん長浜城は召し上げられることに。
そのかわり、あらたな戦地で敵から奪い取った領地は、自分のものになるという交換条件。
勝ち続けるかぎりは好条件ですね。
秀吉は勝ち続けたので、まずは現在国宝になっている播磨の姫路城を獲得。
信長の怒りもこれでおさまって、とりあえず秀吉も安泰。
とはいえ、目の前にいるのは、中国地方の覇者毛利氏。
先陣を切るというのは、同時にまた身の危険もあるのですからね。
ともかく姫路城という重要な拠点のできた秀吉ですね。

播磨の隣は備前。
備前と美作を領地にしていた大名は宇喜多直家。
1579(天正7)年に、宇喜多氏は秀吉に服属。
反抗する敵には徹底的に抗戦し、攻め滅ぼす秀吉でしたが、おとなしく従えば所領安堵。
それどころか、宇喜多直家の息子は秀吉の養子になり、宇喜多秀家として豊臣政権の重要な大名になっていますね。
播磨の北の但馬との戦いも、同じ年に終了し、秀吉は弟の羽柴秀長にこの地の支配を任せています。
1581(天正9)年、軍をさらに進めて鳥取城の兵糧攻め。
無駄に自軍の兵を死なせない秀吉の作戦ですね。
翌年には備中に軍を進め、備中高松城を包囲。
今度は水攻めでしたが、秀吉の知恵の見せ所ということでしょうね。

秀吉は山崎の戦いで明智光秀に勝利しました

秀吉は山崎の戦いで明智光秀に勝利しました

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明智光秀が謀反を起こしました

兵糧攻めにしても水攻めにしても、なかなか時間のかかる作戦ですね。
待ちきれなくなったのか、信長は明智光秀に、秀吉の援軍に行くようにと命じたのでした。
光秀と秀吉とは、これまでいろいろなところで親しくしていたのですよ。
当時の光秀は、丹波を支配していたのですが、なんと、この領地を召し上げ、そのかわり、毛利氏との戦いで勝ち取った領地はそのまま自分のものにしてもよい、という交換条件。
秀吉はこの条件に従ってやってきたのでしたね。
しかしそれは、草履取りからスタートした秀吉なればこそ。

もちろん、この条件だけが光秀を動かしたのではなく、信長のやり方に対しては、さまざまことで不満を抱いてきた光秀。
ほとんど軍勢をもたずに、京の本能寺にいる信長。
今こそ信長を討ち取る絶好のタイミング、もちろん、光秀は盟友の細川藤孝をはじめ、本能寺で信長を討ち取ったあとのことも考えてはいたのですが、備中高松城で膠着状態にあった秀吉は、本能寺での出来事、世に言う本能寺の変のことを聞いて、毛利輝元と講和して京に軍を帰還。
これを中国大返しといいますが、山崎の合戦で光秀軍に大勝利。
1582(天正10)年の大事件でした。

清洲城で信長の息子たちや家臣たちの会議が行われました

本能寺の変により、織田信長だけではなく、信長の嫡男信忠も戦死したため、後継者をどうするかについて、話し合いの場がもたれたのでしたね。
これが清洲会議。
謀反人明智光秀を打ち破った羽柴秀吉が、この会議の座長のような立場になったのですよ。
柴田勝家は織田家家老の筆頭で、信長の次男信雄と三男信孝を支持しましたが、秀吉は信忠の幼い子ども三法師を膝に抱いて、この子の正統性を主張。
たしかに、本能寺の変さえなければ、いずれはこの三法師が織田氏を継いだのですからね。

それから、浅井長政に嫁いでいた信長の妹お市の方は、落城のとき3人の娘を連れて逃れていたのでしたが、お市の方を柴田勝家の妻にする、という案を秀吉が提案。
秀吉自身もお市の方に憧れていたとも言われていますが。
秀吉一流の「人たらし」の戦術が功を奏した清洲会議ということでしょうね。
信長の遺領については、尾張を信雄、美濃を信孝が相続。
柴田勝家は越前に加えて、秀吉のものだった長浜城を加増。
秀吉自身は、光秀の領地だった丹波に山城と河内を獲得。
光秀の盟友でありながら、光秀に荷担しなかった細川藤孝は丹後を与えられたのですよ。
しかしもう、織田信長に代わる人物など、存在しなかったということですね。

織田家の家臣たちを秀吉が従えました

織田家の家臣たちを秀吉が従えました

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織田信孝を制圧し、柴田勝家との戦いに向かいました

清洲会議により、信長の関係者のバランスに配慮した分割相続が行われたということですが、もちろん、このままで終わるはずはないですよね。
秀吉は、三法師の後見人として織田信孝を指名していたのですが、織田家家老の柴田勝家は、信孝らを引き込み、秀吉に弾劾状を出したのですよ。
信長の四男秀勝は秀吉の養子になっていましたが、秀吉はこれを喪主として信長の葬儀をすることで、この弾劾状に対抗。
三法師が成人するまでは、信雄を織田家の当主にしたのも秀吉でした。

三法師とともに岐阜城にいる信孝に対して、三法師を安土に戻すようにと、秀吉は戦いを仕掛けたのですよ。
秀吉の戦い方は、周囲にいる信孝の家臣たちを次々に手中に収め、信孝を孤立させる周到な作戦ですね。
信孝は結局、三法師を秀吉に返すことで、とりあえずは和解。
しかし、翌年の1583(天正11)年、反秀吉派の滝川一益が伊勢を攻めたので、秀吉はこれに抗戦。
そしていよいよ、柴田勝家との決戦ということになったのでした。

柴田勝家を滅ぼし、織田の家臣団を手中に収めました

一進一退の戦いを続けるなかで、いよいよ決戦の時が来ますね。
柴田勝家は大軍を率いて越前をあとにしました。
ようやく雪解けの季節になったわけです。
一度は和睦に応じた信孝が再び挙兵して、秀吉も美濃に自分の軍勢を向ける必要に迫られたのでした。
その間に、北近江は柴田勝家の軍に侵略され、危機一髪。
そこで、本能寺の変のときと同じ秀吉の得意技。
今度は美濃大返しといいますが、美濃から近江に軍勢を引き戻し、そのうえ、前田利家が勝家を裏切って秀吉の側についたことで、秀吉の勝利。
柴田勝家は、お市の方とともに自害。
ただ3人の女の子は救い出され、そのうちの一人がのちに秀吉の側室の淀殿になったのですよ。

これで織田の家臣団はほぼ秀吉の傘下に。
あとは、信長にできなかったこと、各地の戦国大名を自分に従わせ、天下統一を果たすこと。
1583(天正11)年に、秀吉は大坂の石山本願寺の跡地に大坂城を築いたのですが、信長の安土城よりさらに立派なものだったようですね。
織田家でまだ秀吉に従っていないのは、次男信雄。
1584(天正12)年に、秀吉は信雄を年賀の礼に来るようにと命じたのですが、もちろん、本来秀吉よりも位が上の信雄はこれを拒否。
あと一人、忘れてならないのは、織田信長の唯一の同盟者徳川家康ですね。
本能寺の変のとき、あやうく巻き添えになるところ、伊賀の山越えをして助かったものの、秀吉にすっかり先を越されていましたね。
家康と信雄は手を組んで、秀吉に対抗したのですね。

朝廷から豊臣の姓を許されました

朝廷から豊臣の姓を許されました

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徳川家康とはにらみ合ったままの戦いをしました

大坂城から美濃に兵を進めた秀吉は、まずは順調に勝ち続けたのでしたね。
しかし、信雄はともかく、家康はそう簡単には屈しません。
小牧で、両軍は向かい合ったまま、どちらも動こうとはしないのです。
秀吉の軍勢のほうが圧倒的に多数なのですが、最初に動いた方が負ける、と秀吉は考えたのでした。
きっと、家康の戦術の巧みさを知り尽くしていたのでしょうね。
そんな総大将の心も知らず、秀吉の甥、のちの豊臣秀次を総大将にして、三河奇襲作戦を敢行したのが森長可と池田恒興たち。
長久手でさんざんな目に遭い、森長可も池田恒興も戦死。
これらの戦いを総称して、小牧・長久手の戦い。
秀吉と家康との、最初で最後の戦いでしたね。

織田信雄はどうやら秀吉の財力に負けたらしくて、単独で秀吉と講和。
家康も、次男を秀吉との講和のために秀吉の養子に。
養子というのはこの場合、人質と同じ意味になりますが、これがのちの結城秀康ですね。
こうしている間に、秀吉は朝廷に手を回して、どんどん上の官職を朝廷から与えられたのですよ。
1584(天正12)年には大納言、1585(天正13)年には内大臣。
紀州も平定したあと、四国を統一していた長宗我部元親に対しても、弟の秀長を総大将にして大軍を送り、土佐一国の大名で満足させることに成功。
天下統一の夢も、もうたんなる夢ではなくなっていましたね。

関白豊臣秀吉になりました

摂政と関白をあわせて摂関政治というのはご存じですね。
平安時代に藤原氏が、天皇が幼いときには摂政として、天皇が成人したら関白として、政治の実権を握ったのでした。
1585(天正13)年に、とうとう秀吉はその関白の職を与えられたのでした。
すでに羽柴の姓を使わなくなっていた秀吉でしたが、1586(天正14)年には、正親町天皇から「豊臣」の姓を与えられ、ついに立身出世の頂点に。
官職も最高位の太政大臣に任命されたのですが、この職に就いた人は、あまり多くありませんね。
文字通り「位人臣を極めた」ということですね。
この年には、妹の朝日姫を家康の正妻にしていましたから、家康もすっかり秀吉の配下。
もう秀吉に怖いものはありませんね。

九州攻めでは島津氏の抵抗にあいましたが、1587(天正15)年には大軍を派遣し、島津氏を制圧。
このときも弟秀長と、大坂城の建築にかかわった黒田孝高が活躍。
秀吉自身も九州に行きましたが、キリシタン大名のいる北九州を見て、スペインやポルトガルから来たキリスト教の布教者に対して、バテレン追放令を出しています。
これでもう、西日本には秀吉に抵抗する大名はなくなったのですよ。
そのお祝いに、千利休らに茶会を催させたのでした。
しかし、金の茶釜は、質素を旨とする茶道には、少々似合わなかったかもしれませんね。

絶頂に上り詰めたあとは、落ちていくしかないのでしょうか

絶頂に上り詰めたあとは、落ちていくしかないのでしょうか

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聚楽第を築き、栄華の絶頂にのぼり詰めました

1587(天正15)年にはまた、なんと内裏のなかに、秀吉の屋敷が建設され、聚楽第と名付けられたのですよ。
そして翌年、秀吉は後陽成天皇を聚楽第に招いたのでした。
このとき徳川家康も織田信雄も秀吉に従うことを誓い、毛利輝元も上洛。
有名な刀狩りの令もこの年に出され、もう農民は武器を持って立ち上がることができなくなったのでした。
1589(天正17)年には、淀殿との間に嫡子鶴松も生まれ、これで豊臣家も安泰。
あとは、関東でいまだ秀吉に従わない北条氏をどうするか、ということになったのですね。

1590(天正18)年に、秀吉自らが大軍を率いて関東に出陣。
これほど軍勢に差があれば、北条氏に勝ち目などありません。
小田原城の包囲は3か月に及びましたが、包囲軍は余裕で遊興三昧。
とうとう北条氏政も切腹して、小田原城は無傷のまま落城。
島津氏や毛利氏や長宗我部氏などの有力大名は、領地を減らされたものの、ほぼ旧領は安堵。
問題の徳川家康は、北条氏なきあとの関東に移され、見かけ上、領土の石高は倍増。
秀吉の直轄領の石高より大きかったのですよ。

弟の秀長も跡継ぎの鶴松も死んでしまいました

のぼり詰めたあとは、落ちていくしかないのか、ここから先の秀吉の人生こそ、まさにその典型的な例かもしれませんね。
1591(天正19)年に、信頼していた弟秀長が死に、そのあと、後継者に指名していた鶴松も死んでしまったのですよ。
甥の秀次を養子にして、関白職を譲り、自分は太閤となりました。
大阪では今でも、豊臣秀吉のことを「太閤さん」と呼んでいますが、関白を退いた人のことを太閤と呼んでいるわけで、そもそも希少な存在である関白、それを生きているあいだに譲る人など、秀吉のほかにはなかなか考えられませんね。

太閤秀吉は、関白職を秀次に譲ったものの、全権を譲ったのではありませんね。
肥前に名護屋城を築き、そこを拠点として、なんと朝鮮に家臣たちを出兵させ、明国までも支配下に収めようとしたのでした。
養子でもあった宇喜田秀家を総大将にして、朝鮮半島をほぼ制圧。
ただし、明までは攻め込むことができず、1593(文禄2)年に明と講和。
これを文禄の役と呼んでいることはご存じですね。

秀吉の死はしばらく秘密にされました

秀吉の死はしばらく秘密にされました

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関白秀次を死に追いやり、ふたたび朝鮮に出兵しました

1593(文禄2)年、秀吉にとって大きすぎる喜びがあったのですよ。
淀殿が2人目の男の子を産んだのですから。
お拾と名付けられたその子は、のちの豊臣秀頼。
伏見城を築いて、そこに親子3人で移り住むほど、この喜びは大きかったのですが、それがまた不幸の原因になったかもしれませんね。
関白職を譲っていた甥の秀次が、このままでは自分の身が危ないと不安になり、「殺生関白」などと呼ばれるほどひどい行いをした、というのが従来の説ですね。
ともかく、秀次は高野山に逃れ、そこで切腹したとされています。
その後、三条河原で、秀次の関係者がすべて処刑され、ただでさえ少ない秀吉の血縁者が、ほとんどいなくなってしまったのでした。

1596(文禄5)年には、土佐にスペイン船サン=フェリペ号が漂着。
実はスペインは、海賊を使って海上での覇権を握っていたこともあるのですが、この船が海賊船だという噂になって大騒ぎ。
バテレン追放令を出していた秀吉は、さらに禁教令まで出したのですが、これはもちろん、キリシタン大名にとっては大変なこと。
同じ年に明との講和も決裂。
1597(慶長2)年、北の政所の甥である小早川秀秋を総大将にして、ふたたび朝鮮に出兵。
これが慶長の役ですね。

秀吉は涙ながらに秀頼のことを頼みました

1598(慶長3)年、秀吉は醍醐寺を再建し、ここに700本の桜の木を植えさせ、その花の下で、花見を行ったのですね。
これが有名な醍醐の花見。
たった1日の花見でしたが、沈んでいく秀吉の栄光の最後の輝き、と言っていいでしょうね。
そのあとしばらくして、秀吉は病気になっていましたから。
そして、伏見城に諸大名を呼び寄せて、秀頼に従うという誓いの血判状に署名させたのでした。
秀頼を頂点に、徳川家康や前田利家のような各地の有力大名の五大老、石田三成など直接の家臣たちの五奉行、これで豊臣政権を維持していこうとしたわけですね。

とくに秀吉は死の床で、涙ながらに家康の手を取り、「秀頼のことをよろしく頼みます」と懇願したとのこと。
さすがの家康も、心を動かされたのでした。
家康が秀頼の後見人になりさえすれば、自分がいなくてもなんとかなる、と必死の思いですがったのでしょうね。
秀吉の死はしばらくは秘密にされていましたが、石田三成を中心にして、朝鮮に出兵していたおもに西国の大名たちも呼び戻され、1599(慶長4)年に、秀吉の遺骸は伏見城から方広寺の阿弥陀ヶ峰の山頂に運ばれたのでした。
そこから、わが子の行く末を見つめていよう、ということでしょうね。

東からのぼった太陽は西に沈むのが宿命なのでしょうか

出身が足軽とも農民とも言われた秀吉。
太閤にまでなった秀吉は、いくつもの物語や小説の主人公として活躍してきました。
お世話になった人にはその恩を何倍にもして返し、刃向かう者は徹底的に攻め滅ぼす。
低い身分の出身ですから、誰に対しても腰が低く、「人たらし」の天才でもあった秀吉。
母親が元旦にのぼる初日の夢を見て生まれたという伝説も、本当のことのように思えてきますね。
しかしその太陽はいずれまた西に沈んでしまうのですね。
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