観光の前に知りたい!こんなにふかい台湾の歴史

羽田空港から4時間でいける人気の観光地、台湾。公用語は北京語ですが、いちばん使われるのは福建省の人々と近い言葉で、また客家(はっか)語や、10以上の先住民の言葉も話されています。そして台湾は中国の一部なのかひとつの国なのか、よくわからないところです。いったいなぜこうなったのでしょう?そこで今回は台湾の歴史をひも解いてみます。じつは台湾には16世紀まで文字がなかったのです。
参考:台湾観光の絶対行くべきスポット決定版はこちらから。

まずはおさらい、台湾ってどんなところ?

まずはおさらい、台湾ってどんなところ?

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台湾の地理

台湾は中国・福建省の東、琉球諸島の西にうかぶ島です。
面積は九州とおなじくらいで、南北に長い葉っぱ型をしています。
葉っぱの中央には5つの山脈が南北に走っていて、そのうちもっとも高い玉山(ぎょくざん、ユイシャン)は標高3952メートル、富士山より高いため日本統治時代には「新高山」とよばれていました。
また西部は平野が多く、東部は山がちな地形をしています。

台湾は沖縄本島よりもさらにすこしだけ緯度が低く、北部は亜熱帯、南部は熱帯に属します。
八重山列島とほとんどおなじ気候と思っていいでしょう。
ちなみに与那国島からは台湾が見えるとか。
ただ台風や猛烈なスコールが多いのもおなじなので、夏や初秋にかけては天候に注意が必要です。
また日本とおなじく地震も多いですが、そのぶん温泉も100以上あって、とくに北部の陽明山(ようめいさん)などは台北の中心部から40分ほどで行くことができます。

この台湾に、2300万人以上の人々が暮らしています。
もっとも人口が多いのは北部の台北(タイペイ)市を中心とするエリアで、近郊4市をあわせると約900万人に達します。
ついで南部の高雄(カオシュン)市や西部の台中(タイジョン)市が250万人をこえ、人口だけでみればいずれも大阪市よりも多い、台湾の都会です。

ますます深まっている日本と台湾の関係

台湾は日本と関係が深いことでも知られています。
公益財団法人交流協会のアンケートによると、「最も好きな国や地域はどこですか」という問いに対して台湾人の43パーセントが「日本」と回答してトップ(2012年)、また「日本に親しみを感じる」と答えた人は65パーセントにのぼります(2013年)。
2011年の東日本大震災のとき、台湾の人々が200億円近い義援金を送り、とくにコンビニなどの店頭であつまった義援金の額がケタちがいだったことも、記憶に新しいところです。

また台湾から日本への観光客も増えつづけています。
日本政府観光局によると、2012年には年間127万人だったのが、2016年には417万人になり、5年連続で過去最高を更新しました。
台湾の人口が2300万人あまりなので、およそ5人に1人が1年間で日本を訪れていることになります。
この数は日本をおとずれる外国人観光客のなかで、中国・韓国についで第3位です。

いっぽう、日本から台湾への観光客も増加傾向にあり、2015年には163万人の日本人が台湾をおとずれています。
これはハワイよりも多い数字です。
ここ5年間で中国・韓国への観光客が減少傾向にあるなか、台湾への観光客は40万人ちかく増加しています。
「台湾を身近に感じる」という日本人は67パーセントにのぼり(2011年)、日台関係はますます深くなっています。

5万年以上つづいた台湾の先史時代

5万年以上つづいた台湾の先史時代

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台湾の歴史、はじめは島の成り立ちから

さて、そんな台湾ですが、なぜこれほど日本と関係が深くなったのでしょうか。
そもそも台湾はどのような歴史をたどってきたのでしょうか。
ここからは、あまり知られることのなかった台湾の歴史を紹介していきます。
その歴史を知って、台湾観光をよりいっそう味わいぶかいものにしてください。

まず台湾島の成り立ちですが、約1億5000万年前から5000万年前の地殻変動によって形成されました。
これはユーラシアプレートとフィリピン海プレートとの交差によるもので、台湾の東海岸が急斜面になって海に落ちこんでいるのも、東側はフィリピン海プレートにあたるからです。
ちなみにこの地殻変動とその後の浸食によって、太魯閣(タロコ)渓谷や清水断崖、三仙台といった景勝地も生まれました。

4000万年前から地球は4回目の氷河期に入り、海水面が低下して、台湾はユーラシア大陸と陸続きになりました。
約7万年前から1万年前までの最終氷期のときにも、いろんな動物が台湾にあるいて渡ってきました。
そのなかのひとつが現生人類で、これが台湾におけるいちばん最初の人間です。
現在発見されている最古の遺跡は「長浜(ちょうひん)文化」とよばれ、約5万年前のものといわれています。
その後氷河期が終わり、海水が上昇して、台湾はふたたび島となりました。

台湾の先住民族はハワイとおなじ人々だった?

台湾にわたってきた人々は、住む場所や時代によってさまざまな部族にわかれていました。

見つかっているだけでも1500以上の遺跡があり、ある人々は漁業をいとなんで貝塚をつくり、ある人々は砥石で武器を研ぎ、ある人々は農耕に従事し、ある人々は壺を祀っていたようです。
1800年前ごろからは鉄もつくられるようになりました。
おそらく中国大陸からの影響もあったと思われます。

これらの人々はみな文字を残さなかったので、かれらの歴史はよくわかりません。
ただかれらの話す言葉はみなオーストロネシア語族に属していました。
このオーストロネシア語族はインドネシア、フィリピンをはじめ、西はマダガスカル、東はハワイやイースター島までひろがる広大な語族です。
これらの地域に住む人々がもともと、台湾の先史時代の人々と起源をおなじくしていたことがわかります。

ちなみに、これら先史時代の人々の子孫はいまも台湾人口の2パーセント、約50万人いて、台湾では先住民(日本統治時代には「高砂族(たかさごぞく)」)と区分されています。
先住民はアミ族、ブヌン族など10以上の支族に分かれており、近年では観光地化もさかんで、東部の花蓮県にある「阿美文化村」ではアミ族のダンスや歌を体験することができます。

5万年以上つづいた台湾先住民の時代は、16世紀からのヨーロッパ進出によってようやく終わりをむかえます。
台湾に文字がもたらされ、歴史の記述がはじまったのでした。

ポルトガルが「発見」し、オランダが支配する

ポルトガルが「発見」し、オランダが支配する

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ポルトガル人による「麗しい島」の発見

16世紀の東アジアでは、ときの中国王朝・明が衰退し、海禁政策がゆるみはじめていました。
また日本も戦国時代まっただなかで、室町幕府の統制がゆきわたらなかったため、東シナ海を中心に密貿易が活発になりました。
倭寇(後期倭寇)による密貿易がさかんになると、貿易ルートが多様化し、台湾もこうした密貿易ネットワークに組みこまれるようになりました。

孤島そのものだった台湾には、倭寇の拠点が築かれるようになり、西海岸を中心に漢民族が入植してきました。
後期倭寇の主役は中国人だったからです。
そしてこの東シナ海における貿易ネットワークに、大航海時代を経たポルトガルとオランダもまた参入してきます。
中国の生糸や陶磁器と、日本の銀を目当てにした参入でした。

まず入ってきたのはポルトガルです。
16世紀はじめには中国のマカオに入って明との交易をはじめ、1543年には種子島漂着という形で日本参入もはたしました。
そして翌年の1544年、あるポルトガル船長が台湾の山なみを海上から発見して、「Ilha Formosa(麗しい島だ)」と日誌に記録しました。
これがヨーロッパにおける台湾の「発見」です。
結局ポルトガルは台湾に入港しませんでしたが、これ以降、ヨーロッパでの台湾の呼称は「フォルモサ」となりました。

「台湾」の語源とオランダ支配のはじまり

17世紀に入ると、新興国オランダがポルトガルにとって代わり、東アジアの貿易に参入してきます。
1609年には徳川家康から貿易の許可をうけて日本参入をはたし、ついで中国沿岸部にも拠点を築こうとしましたが、これがなかなかうまくいきませんでした。
そこでオランダが目をつけたのがフォルモサ、つまり台湾です。

1624年、オランダ艦隊が現在の台南市安平、先住民のことばで「ターユアン」とよばれた土地に上陸します。
これが「台湾」の語源です。
もっとも「ターユアン」という言葉は「来訪者」「海に近い土地」などを意味するともいわれていて、はっきりしません。
いずれにしろ、当時の先住民がオランダ人にむけて発した言葉が、のちにこの島全体を指すようになりました。

オランダ人たちはこの海岸沿いの土地に、堡塁、というよりも城を建てて、ゼーランディア城と名づけました。
赤レンガをつかって強固な城壁をきずき、城内には勇壮な砦と、5門ずつの砲をそなえた砲台がすえられ、城外には編目状に街が整備されていきました。
こうしてつくられたゼーランディア城を拠点として、オランダは台湾島をしだいに勢力下におさめていきます。
オランダによる支配のはじまりでした。

オランダ支配から鄭成功の時代へ

オランダ支配から鄭成功の時代へ

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キリスト教と文字を伝え、スペインを追い払ったオランダ

オランダはまずゼーランディア城周辺の先住民を服属させ、同時にキリスト教を伝えていきました。
この時代、ヨーロッパ人の海外進出は、貿易の利益を得るとともに、異国の異教徒たちにキリスト教を伝える役目も担っていました。
フランシスコ=ザビエルがポルトガル船の種子島漂着からわずか6年後に来日したのもそういうわけです。
オランダの宣教師たちは先住民たちの話す言葉をそのままアルファベットで表記し、「新港語」というあたらしい文字をつくって、聖書などを伝えていきました。
この新港語はその後150年以上、先住民のあいだで使用されました。

ゼーランディア城周辺をおさえると、オランダはその支配領域を中部、北部へと広げていきます。
1626年にはスペインもまた台湾北部に進出し、三貂角(さんちょうかく、サンティアゴの音写)や基隆(キールン)、淡水などに拠点を築いていましたが、そうしたスペイン勢力も追い払います。
1650年ごろにはオランダは台湾島のおよそ半分を支配下におきました。

このときのオランダ人作成による戸籍表がのこっています。
それによると、先住民の集落は315個、人口は6万8657人だそうです。
オランダ支配が約半分だったことを考えれば、17世紀半ばの台湾先住民たちは、およそ600の集落をもち、13万人の人口を擁していたことがわかります。
しかしこの人口数はやがて漢民族に逆転されていきます。

オランダを追い払った日本人ハーフ、鄭成功

オランダは台湾開拓のため、中国人や日本人を募集して、台湾で稲作やサトウキビの栽培に従事させました。
とくに対岸の中国からは大量の中国人が移住してきました。
これが台湾における漢民族社会のはじまりです。
それまでは貿易や海賊行為の拠点として、ちょっと留まるだけの土地でした。
1560年ごろには3万人以上の漢民族が台湾に住むようになっていました。

これに目をつけたのが、明王朝の遺臣、鄭成功(ていせいこう)です。
鄭成功の父は明末期の重臣で、かつてマカオや平戸で貿易に活躍し、やがて東シナ海から南シナ海にわたる広大な範囲を手中におさめ、明の皇帝にとりたてられた人物でした。
その後、明は満州族にほろぼされて清が誕生し、鄭成功の父も投降し殺されます。
鄭成功は父の仇をうつため、そしてふたたび明王朝を復活させるため、清の追っ手からのがれて、あらたな拠点を探していたのでした。

鄭成功は平戸の日本人を母にもつハーフで、近松門左衛門の名作『国姓爺合戦』のモデルとしても有名です。
かれは台湾のオランダ拠点や漢民族社会に注目し、1661年、2万5千名の兵をひきいて台湾を攻撃します。
年末には最後の拠点ゼーランディア城も陥落させて、オランダ統治時代に幕をおろしました。
その後、鄭成功はゼーランディア城を「王城」と改名して、台湾全土の拠点とします。
こうして台湾は37年間のオランダ支配から、鄭氏の支配へと移りました。

清朝時代の台湾の200年

清朝時代の台湾の200年

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鄭氏がほろび、清の「化外の地」とされる

鄭成功は台湾にたくさんの漢民族を連れてきました。
軍人だけでなく、台湾発展のために商人や農家、技術者など、いろんな人々が募集されたからです。
漢民族の人口は12万人にまでふくれあがりました。
鄭成功はこうした人口と貿易によって、台湾を発展させ、清に対抗しようとしていました。

しかしオランダ駆逐のわずか数か月後、鄭成功は病気のため39歳で亡くなります。
かれの息子と孫があいついで後を継ぎますが、反対勢力をゆるさない清王朝は1683年、台湾にむけて大軍を発し、鄭氏一族を降伏させます。
こうして台湾は清の領土に併合されました。
鄭氏の支配はわずか22年間でした。

清はゼーランディア城(王城)のあった台南に「台湾府」をおいて政府所在地としました。
中国王朝の公式文書に「台湾」という表記が登場するのもこのころからです。
それまでは「ターユアン」という音に「大員」などとも当てていました。
ただ清は台湾の統治にかんしてあまりヤル気をみせませんでした。
清にとっては、鄭氏をほろぼすことがいちばんの目的だったからです。
「化外の地(皇帝支配のおよばない土地)」とされた台湾は、その後約200年間にわたり、中国本土とはまたちょっとちがった歴史をたどっていきます。

媽祖信仰、客家、少数民族という特徴がつくられる

清は台湾統治の労を減らすため、中国の人々にたいして台湾渡航を禁止しました。
しかしそれにもかかわらず、対岸の福建省や広東省から何十万人という人々が台湾に移住しました。
当時の中国は人口増加で土地がなく、資源ゆたかな台湾はとても魅力的だったからです。
役人の目をかいくぐり、台湾海峡をわたるのは危険な船旅でした。
そこでかれらは航海の安全と無事を媽祖(まそ)という女神に祈りました。
いまでも台湾には媽祖(天后ともいう)を祀った廟が各地にあります。

渡ってきた人々のなかには客家(はっか)も多くふくまれていました。
客家とは漢民族の一支族で、古来よりほかの民族とは言語や文化を異にし、清代には広東省や福建省など中国南部に住んでいた人々です。
行動力があり反骨精神にも富むかれらは、18世紀末には、台湾にわたった人の3割を占めました。
こうして台湾は客家のおおい島となりました。
ちなみに1990年代以降の歴代台湾総統は客家人ですし、中国「革命の父」孫文や、改革・解放を主導した鄧小平、シンガポール建国者のリー=クアンユーなども客家人です。

もともとの先住民たちは、こうしてわたってきた漢民族たちに圧迫され、平地に住むものは漢民族に同化し、山地に住むものはさらに山奥へと逃れました。
19世紀末には、台湾の漢民族は230万人をかぞえ、逆に先住民は11万人あまりで少数民族となりました。
このようにして台湾は、多数の漢民族、そのなかの客家人、そして少数の先住民という社会になったのです。
この台湾社会に、やがて近代化をはたした列強国が迫ってきます。

列強の台湾進出、そして日本支配の時代へ

列強の台湾進出、そして日本支配の時代へ

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高雄や淡水にのこるイギリス進出の痕跡

1840年、イギリスと清とのあいだでアヘン戦争がおこります。
産業革命を経て力をつけたイギリスは清の海軍をこてんぱんに打ちやぶります。
イギリスにつづいて、フランス、ロシア、アメリカも進出し、中国沿岸の各地を開港させて、拠点を築いていきました。
こうして東アジアの植民地化がはじまりました。
台湾もまたこの渦にのみこまれていきます。

1856年のアロー戦争にも勝利したイギリスは、台湾の台南と淡水を開港させました。
そして領事館や教会をつくって、貿易やキリスト教布教の拠点としました。
この痕跡はいまものこっています。
たとえば台南のさらに南にある高雄には、1865年に建てられた「打狗英国領事館」というレンガ造りの洋館がいまもあり、イングリッシュティーと夕日を楽しめるスポットとして人気をあつめています。
ちなみに「打狗」とは「タカオ」という先住民のことばに漢字を当てたもので、犬を打つとは縁起が悪いということでのちに「高雄」という表記に改められました。

また台北北部にある淡水の港にも、イギリス領事館の跡がのこっています。
淡水のイギリス領事館はもともとスペインのセント=ドミニカ城でしたが、オランダ統治を経て、清朝時代には「紅毛城」とよばれていた城を、イギリスが使っていたものです。
いまでは無料で見学することができます。
また淡水には教会や洋館もおおくあり、開港場だった時代のおもかげをのこしていて、異国情緒あふれる街になっています。

そして日本も進出してくる

欧米列強に対抗するため、アジアのなかでいちはやく近代国家となったのが日本でした。
その日本もまた、欧米列強とおなじように、周辺地域へと支配をひろげていきます。
その最初が琉球、つぎが台湾でした。
江戸時代には薩摩藩と清に二重に属していた琉球王国を、明治政府は沖縄県と改称して日本の領土とします。
そして沖縄諸島のすぐ西にうかぶ台湾をも日本の領土とすべく、触手をのばしてきます。

1871年、宮古島の漁民66人が台湾に漂着し、うち54人が先住民に殺されるという事件がおこります。
明治政府は清に抗議しますが、清は台湾の先住民たちを「化外の民」だと言って責任逃れしたので、日本はこれを口実に台湾へ出兵しました。
結局イギリスのとりなしで日本は兵を引きあげますが、台湾を領土にすべしという世論は根強くのこりました。

清も日本の進出に対抗して、あらたに台湾省をもうけ、政府所在地を台南から台中にうつしたり、台北と基隆のあいだに鉄道をしいたりと、整備をすすめました。
しかし1894年から1895年にかけての日清戦争で、清は日本に大敗します。
日本側の全権、伊藤博文は下関で清の代表と会談し、台湾を日本にゆずることを認めさせます。
こうして台湾は200年あまりの清朝時代から、60年におよぶ日本支配の時代へとうつっていくのです。

日本統治時代の抗日運動と、急速な近代化

日本統治時代の抗日運動と、急速な近代化

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台湾の人々の抵抗

「台湾が日本の領土になる」と知った台湾の人々は騒然となります。
なかには歓迎する人もいましたが、大多数が漢民族だったため、抗日運動がもりあがります。
かれらは台湾民主国という共和国をつくり、進出してくる日本を追い返そうとしました。
しかし上陸した日本軍は武力で制圧していき、住民たちのゲリラ戦もむなしく、台湾全土は日本の支配下におかれました。

日本は台北に台湾総督府という組織をおいて台湾を治めました。
台北が台湾の首都的機能をはたすようになるのもこの時代からです。
しかし台湾総督府は、占領後も、たびかさなる抗日運動に苦しめられました。
とくに土匪(どひ)という武装集団が各地で活躍し、日本を苦しめました。
土匪とは清の時代から勢力をもっていた私闘集団で、無政府状態だった台湾の治安維持にあたる代わりに、勢力下にある人々からみかじめ料をもらっていました。
日本の進出はかれら土匪の既得権益をおびやかすものだったのです。

こうした土匪の一掃に成功し、そして台湾の近代化へ道筋をつけたのが、台湾総督府のナンバー2、後藤新平でした。
かれは台湾総督である児玉源太郎のさそいをうけて台湾に赴任し、日露戦争の準備で不在がちな児玉に代わって、さまざまな改革をすすめていきました。

後藤新平のすすめた近代化

まず後藤新平は台湾の実情を知るために、大規模な調査を実施します。
国勢調査によって台湾の人口と土地を把握し、税収をおおきく増加させました。
またこの調査のなかで、土匪たちが生活苦から武装集団になっている人々であることを見ぬき、投降すれば恩赦と資金をあたえると宣伝したことで、土匪を解体させていきました。
これ以降、台湾の治安維持には警察と自治体組織があたるようになりました。

当時の台湾は伝染病が蔓延していましたが、後藤は上下水道と街並みを整備し、衛生状態を改善させたことで、それも収まりました。
また後藤はアヘンの流行を取り締まるためにアヘンを専売制とし、徐々に税を上げていくことでアヘン吸引の習慣を無くしていきました。
そして後藤は台湾に公教育制度を採り入れ、上流階級しか学べなかった学問をひろく一般の民衆に浸透させていきました。

後藤新平はまた、台湾の産業育成とインフラ整備にも力をそそぎます。
台湾銀行を創設して貨幣を発行させ、当時100以上流通していた貨幣を一本化しました。
土地調査にもとづき開墾を奨励して、コメやサトウキビなどを増産しました。
敷設のはじまった縦断鉄道はやがて北の基隆から南の高雄まで400キロもの距離をむすびました。
終着駅には近代的な港がつくられて貿易がさかんになりました。

こうして台湾は急速な近代化をはたしました。
後藤の台湾赴任はわずか8年間でしたが、その足跡はいまも台湾のいたるところに残っています。

近代化と戦争によって日本に同化していく台湾

近代化と戦争によって日本に同化していく台湾

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反感と感謝、日本統治へのふくざつな感情

台湾の近代化がすすむにつれて、日本への同化政策も積極的にとられるようになりました。
辮髪(べんぱつ)や纏足(てんそく)といった清朝時代の風習はしだいにすたれ、日本人と台湾人との共学や結婚も許可され、日本語をまなぶ機会も増やされました。
こうした同化政策に反発する人も多く、1915年には大規模反乱が発覚したり、1930年には先住民の反乱がおきて600名以上の死者を出したりしました。
植民地とされた台湾ではずっと日本への反感がくすぶりつづけたのです。

ただ台湾の人々から感謝される事柄もありました。
近代化はその好例で、後藤新平以後もインフラ整備や電力の普及がすすめられ、その結果として、日本人の台湾旅行も活発になりました。
ちなみに1927年に「台湾八景」という企画を台湾日日新報が主催したところ、3億以上の投票の結果、阿里山(ありさん)や日月譚(にちげつたん)、太魯閣(たろこ)など、いまでも人気のスポットがえらばれています。

また台湾の人々から感謝された人物といえば、八田與一(はったよいち)がその代表例です。
八田は東京帝大出身の技術者で、最先端の技術と大型土木機械を導入して、台南市の烏山頭(うさんとう)に当時世界最大のダムを建設しました。
この烏山頭ダムによって、60万人が水不足から救われ、また台湾全土の55パーセントにあたる耕地をうるおしたといわれています。
誰へだてなく接した八田は台湾の人々からも慕われ、かれが台湾を去るときに建てられた八田の像はいまも烏山頭ダムのそばに眠っています。

戦時下の台湾、そして中国がやってくる

こうして日本統治時代の台湾は発展をつづけ、19世紀末には290万人だった人口が1940年代には600万人にまで増えました。
しかしそこに日中戦争の影が迫ってきます。
日本は台湾の人々も戦争へ総動員するため、同化政策をさらにすすめて皇民化政策とし、日本語や日本名、神道を奨励・強制しました。
この結果、台湾のなかには、反感と感謝というふくざつな感情よりも、日本への忠誠心をもつ若者が増えていきました。

1941年には太平洋戦争もはじまり、日本軍は台湾でも志願兵をつのるようになります。
台湾では定員の何百倍という志願者があつまり、また通訳や医者、看護師などのいわゆる軍属も募集されて、20万人以上の台湾人が戦地へとおもむきました。
台湾で徴兵制がしかれたのは1945年なので、ほとんどは志願者と軍属でしたが、このうち3万人が亡くなりました。
空襲で死んだ人々はこの数字には入っていません。

1945年8月15日、日本が連合軍に降伏したことを、玉音放送で台湾の人々は知ります。
そして10月にはかつて「敵国」だった中国の軍隊が台湾に入り、台湾が中国に「復帰」したことを祝って、10月25日に光復式典をひらきます。
このときの台湾の人々はどのような思いだったのか、想像するしかありません。
とにかく台湾はここから、日本統治の時代から、中華民国の統治の時代へとうつるのです。

台湾人の不満と国民党の弾圧

台湾人の不満と国民党の弾圧

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本省人の不満が爆発した二・二八事件

台湾が日本の統治下にあったころ、中国では辛亥革命によって清朝がほろび、あらたに中華民国が誕生し、その後国民党の蒋介石によって中国が統一されていました。
日中戦争に勝利すると、蒋介石は台湾に軍隊をおくり、行政長官公署という組織をつくって台湾を統治させました。
こうして台湾にわたってきた中国本土の人々を、台湾の人たちは「外省人」と呼び、みずからは「本省人」と自称しました。

外省人たちは台湾に賄賂や汚職をはびこらせました。
日本時代の行政に慣れた本省人たちの目には、これはひどい腐敗に映りました。
また中国大陸のインフレーションがもちこまれて、コメや肉などの物価が高騰しました。
行政長官公署が酒やタバコを専売とし、塩や砂糖の流通を統制下においたことも、インフレーションに拍車をかけました。
こうした腐敗と生活苦から、本省人たちはしだいに外省人への不満をつのらせていきます。

台北市内の、乾物で名高い迪化街(てきかがい)から1キロほど北に、延平北路という路地があります。
1947年2月27日の夜、ここで闇タバコを売っていた40代の寡婦が外省人の取締官にみつかり、タバコと売上金を没収されます。
3人の子どもがいた彼女は返してほしいと泣いて訴えますが、取締官は銃の台座で彼女の頭をなぐりつけ、騒ぎ立てた周囲の人々にむけて威嚇射撃をおこない、それが当たって一人が死亡します。
取締官は警察に逃げ込んで引き渡しを拒否したため、翌朝には群衆の怒りはさらに高まりました。
これが台湾戦後史の一大エポック、二・二八事件のはじまりです。

蒋介石の恐怖政治と開発

2月28日、4000人以上の群衆が行政長官公署にむけてデモ行進をしますが、まちかまえていた兵に一斉射撃をあびます。
群衆の一部はつぎに台湾放送局を占拠し、外省人支配にたいする決起をよびかけます。
これに応えて、暴動は台湾全土に一気に広まりました。
あわてた行政長官公署は中国本土の蒋介石に連絡し、軍隊の増援をもとめます。

3月8日、基隆港に到着した中国軍隊が、北から南まで掃討作戦を開始します。
殺された民衆は1万8千人ともそれ以上ともいわれています。
そしてこれ以降、蒋介石と国民党は台湾にたいして恐怖政治をおこなっていきます。
蒋介石が共産党との内戦にやぶれ、1949年に10万人以上の政府関係者とともに台湾にわたってきてからは、台湾全土に戒厳令がしかれました。
この戒厳令は38年間におよび、20世紀における最長記録となりました。

蒋介石は共産党(中華人民共和国)の影響を除くため、台湾で徹底した弾圧をおこないました。
政権に反対する者、共産主義的な考え方とみなされた者はことごとく逮捕され、拷問され、自白を強要されて、死刑になったりしました。
いっぽうで蒋介石は開発にも力を入れ、共産主義に対抗するアメリカの支援のもと、台湾の高度経済成長を達成しました。
1950年代から1970年代は、外省人や戦後生まれの人々にとっては豊かな時代であり、日本統治時代を知る本省人にとっては物言えぬ時代だったのです。

そして現代の台湾は……

そして現代の台湾は……

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1980年代から民主化がはじまる

1970年代にアメリカと中華人民共和国が接近したことで、中華民国である台湾の立場は弱くなります。
国連を脱退し、アメリカや日本とは国交断絶しました。
ちなみに日本と台湾のあいだではいまも国交がなく、民間交流という形で大使館に代わる施設を置いています。
また1975年には蒋介石が亡くなり、息子が跡をつぎました。

国際社会で台湾の立場が弱くなるのと同時に、台湾内では民主化運動がさかんになりました。
言論の自由をもとめる雑誌があいついで創刊され、政権批判をくりかえしました。
政府はかれらを弾圧し逮捕しましたが、アメリカをはじめとした国際世論がこうした弾圧を非難すると、台湾政府は徐々に態度をゆるめ、ついに1987年には戒厳令を解きました。
二・二八事件やその後の恐怖政治がひろく知られはじめたのも、このころからです。
1989年には二・二八事件を描いた『悲情城市』という映画がヴェネツィア国際映画祭で金賞を受賞し、舞台となった九份(きゅうふん)は一躍観光地となりました。

1988年、本省人である李登輝(りとうき)が蒋親子の跡をついで総統になり、民主化をおしすすめます。
基本的人権に反する法律が廃止され、国会の全面改選がおこなわれ、1996年には初の民主的な総統選挙が実施されました。
再選をはたした李登輝は、日本や中国、東南アジアとの交流を活発化させます。
企業やマスコミの台北支局が開設し、直行便の運航も増え、人とモノの移動がさかんになりました。
こうして台湾は毎年たくさんの観光客がおとずれる一大観光地となったのです。

いろんな時代に触れることのできる台湾の旅

いま台湾には、各時代のさまざまな遺跡がのこっています。
東部の清水断崖に行けば、台湾島の成り立ちを感じるとともに、日本統治時代のインフラ整備も実感することができます。
中部の日月譚を旅すれば、「九族文化村」で先住民の暮らしぶりを体験できるとともに、「文武廟」で漢民族のもたらした文化にも触れられます。
台南市の安平古堡(あんびんこほう)を見学すれば、かつて「ゼーランディア城」とよばれたオランダ時代、「王城」とよばれた鄭成功時代のおもかげを偲べます。

台北市内にも、いろんな時代の品々があふれています。
台湾博物館では、先史時代の陶器や耳飾り、復元模型などを見ることができます。
故宮博物院には、中国の歴代皇帝のあつめた品々が蒋介石によってもちこまれ、ヒスイでつくられた白菜、玉髄でつくられた豚の角煮などが展示されています。
また士林夜市(しりんよいち)というナイトマーケットを歩けば、小龍包や牛肉麺といった定番料理から、巨大フライドチキンや台湾風かき氷といったファストフードまで堪能できます。

日本と台湾の交流は21世紀に入りますますさかんになり、各地の空港から直行便が就航したり、のど自慢や宝塚歌劇が台湾で開催されたりしています。
また台湾の若者のあいだでは日本のマンガやアニメ、音楽といった文化が愛好されています。
JAFで免許証を翻訳してもらえば台湾での自動車運転も可能になりました。
いま、台湾をおとずれる日本人観光客は年々増加しています。

台湾の歴史といまを、見にいこう

いかがでしたか。
中国本土とはまたちがった歴史をたどってきた台湾。
70年以上前の日本統治時代のなごりも多く、台湾では勤勉で正直で他人のために尽くすことを「日本精神」と呼ぶそうです。
古き良き日本のおもかげも残しつつ、独自の歴史と発展をとげた台湾のいまを、ぜひその目でたしかめてみてください。
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