近代を切り開いた男達のドラマがここに!明治日本の産業革命遺産

2015年、日本各地の23の遺跡が「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、世界文化遺産に登録されました。ここにはかつて、幕末から明治にかけて、日本の夜明けを夢見て奮闘した男たちのドラマがありました。伊豆、釜石、佐賀、薩摩、長州、長崎、三池、八幡と、各地に眠るかれらの物語を、歴史のおおきな流れと、そして各地の遺跡とともに、紹介していきましょう。

国を守り欧米に追いつくため、日本の産業革命がはじまった

国を守り欧米に追いつくため、日本の産業革命がはじまった

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欧米の産業革命と、大国・清の敗北

ときに18世紀後半。
ヨーロッパのかたすみイギリスで、産業革命がはじまります。
産業革命とは技術革新によって社会が工業化されることです。

まず科学の進歩により、織物機械や蒸気機関が改良されました。
つぎに豊富な石炭が、製鉄の材料となり、蒸気機関の燃料ともなり、街を照らす明かりともなりました。
また改良された機械をつかって、大量生産が可能となりました。
大量の工業製品がつくられるようになると、それを運ぶ輸送手段も発達して、蒸気機関車や蒸気船がうまれました。

このようにして、イギリスは農業社会から工業社会へと変わりました。
そして同時に、大量の工業製品を売ったお金で資本家が労働者を管理する、資本主義が完成しました。
資本家はさらなる市場をもとめて海外に進出し、したがわない土地にたいしては、国と軍隊をうごかして植民地としました。
これを帝国主義とよびます。
産業革命、資本主義、帝国主義という流れはフランスやロシア、アメリカなどにも広まって、19世紀前半には、イギリスをはじめとしたこれら欧米諸国が世界でいちばんの強国となりました。

1840年、イギリスは中国王朝の清と戦争をして勝利します。
産業革命をへたイギリス海軍あいてに、清の海軍はまったく歯がたちませんでした。
やぶれた中国はほかとおなじく、欧米諸国の食いものにされていきます。

日本の産業革命は大砲用の製鉄からはじまった

清の敗北に、日本の知識層は衝撃をうけました。
邪馬台国の昔から日本のお手本であり、つねに東アジア世界の盟主だったあの中国が負けたのです。
このままでは日本も植民地になる……。
この危機感から、日本の近代化がはじまりました。

日本の産業革命はまず、大砲づくりからスタートしました。
中国海軍の敗北をしって、欧米諸国との力の差はまず大砲にあると思われたからです。
また19世紀からは日本近海にも欧米諸国の船がうろつくようになり、沿岸警備の重要性も増していました。
とくに1853年にペリーが4隻の黒船をひきいてやってくると、日本各地で沿岸警備のための大砲が要求されるようになりました。

大砲づくりには鉄が必要です。
古代からずっと日本では、たたらという製法で鉄がつくられてきましたが、たたら場の鉄ではムラがあって、実用の大砲はつくれませんでした。
じっさい、鋳型のまわりにたたらをならべて溶けた鉄を流しこんでも、失敗作ばかりだったようです。
質のよい鉄をつくるため、たたらに代わるあらたな製鉄技術が求められました。

鎖国の日本には欧米の知識はほとんど入ってきませんでしたが、それでも長崎の出島をとおして、わずかばかりの本が流入していました。
そんななかの一冊に『ルイク国立鋳造所における鋳造法』というオランダの本があります。
この本一冊だけをたよりに、あらたな製鉄技術を切り開いた男達があらわれました。
伊豆の江川英龍(ひでたつ)、盛岡の大島高任(たかとう)、そして佐賀藩の技術者たちです。

伊豆代官江川英龍の「韮山反射炉」とかれの業績

伊豆代官江川英龍の「韮山反射炉」とかれの業績

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江川英龍の反射炉づくり

江川英龍(通称は太郎左衛門、号は担庵)は幕府の役人のひとりです。
かれの家は代々、伊豆韮山(にらやま)の代官でした。
かれの父が長生きだったので、35歳まで英龍はけっこう自由に暮らしていたようです。
剣術修行で江戸にも遊んで、同門だった斉藤弥九郎とは生涯の親友となりました。
ちなみに斉藤弥九郎のひらいた剣術道場ではのちに長州藩士の桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔(のちの博文)らが学んでいます。

英龍の領地には相模湾があり、ひごろから海上防衛のため大砲が必要だと痛感していました。
そこで当主になるとすぐに、洋学にくわしい人たちと親交をふかめ、とくに渡辺崋山や高野長英といった蘭学者から知識を吸収しました。
また長崎に留学して、高島秋帆(しゅうはん)という砲術専門家から砲術を学びました。

さまざまな知識をえた英龍は伊豆韮山に帰り、大砲づくりに取りかかります。
1849年、『ルイク国立鋳造所における鋳造法』を片手に、まずは自宅にあらたな設備を試作しました。
反射炉とよばれるこの設備はレンガづくりの巨大な中空の炉で、火炎の熱が天井や内壁で反射してとなりの床にはこばれ、そこで鉄を溶かします。
この方法だと不純物がまじりにくいため、上質な鉄をつくることができました。

試作をおえると、英龍は本格的な反射炉の建設にうつります。
試行錯誤の末、8年後についに1号基が完成しました。
大砲づくりのための良質な鉄が得られるようになったのです。
幕末には各地で反射炉がつくられましたが、萩に1つ、そして韮山の1つのみが現存しています。

英龍は近代日本の形にさまざまな分野でかかわった

江川英龍の反射炉によって、カノン砲とよばれる大砲がつくられはじめました。
また英龍は国防のために、製鉄以外にもさまざまな分野で活躍しました。
自宅でひらいた「大砲塾」もそのひとつです。
門下生には佐久間象山や桂小五郎などがいます。
ちなみに佐久間象山はその後私塾をひらき、吉田松陰、勝海舟、坂本竜馬などを輩出しました。

また英龍は自宅ちかくに農民をあつめて、日本ではじめて西洋式軍隊を組織しました。
ヨーロッパの号令を日本流にあらためて「気をつけ」「まわれ右」などと訳して使ったのも彼が最初です。
また英龍は非常食としてパンに目をつけ、焼きしめて堅パンとしました。
いま日本のパン業界では江川英龍を「パン祖」とよんでいます。

1853年にペリーが来航すると、英龍は江戸湾の海上防衛を命じられ、品川沖に数個の大砲とその台場を建設します。
これがのちに「お台場」となりました。
また英龍は砲弾の設計や製造、鉄砲の製作、造船技術の改良、ロシア使節との交渉役と、さまざまな仕事に心血をそそぎます。
しかしあまりの激務にからだをこわし、1855年、53歳で亡くなります。
韮山の反射炉を完成させたのは跡をついだかれの息子でした。

現在、静岡県伊豆市の「韮山反射炉」は世界遺産に登録されています。
観光客も増え、地元のボランティアが解説もしてくれます。
アクセスは伊豆長岡駅から東へ1.5キロ、または東名沼津ICから30分弱の距離です。

近代製鉄の父、大島高任の高炉(釜石と高野)

近代製鉄の父、大島高任の高炉(釜石と高野)

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鉄の大量生産をなしとげた高任

大島高任(たかとう)は藩医の長男として盛岡藩に生まれました。
17歳からは江戸や長崎にわたって、西洋医学や治金術、兵学や砲術、鉱物の採取方法まではばひろく学びました。
このころにかれは『ルイク国立鋳造所における鋳造法』の日本語訳にもかかわっています。

1853年に、高任は学識を買われて水戸藩にまねかれ、反射炉の建設にたずさわります。
やがて反射炉を完成させ、大砲づくりにも成功しましたが、高任は納得しませんでした。
反射炉では10時間以上かけてわずかの鉄しか取り出せなかったからです。
もっと大量に鉄を取りだせるあらたな炉をつくろう、そう決意した高任は、地元の釜石に目をつけます。

太平洋沿岸の釜石の地には、たくさんの鉄鉱石がありました。
鉄鉱石は砂鉄とおなじく、鉄の原料になります。
また釜石には木炭用の森林もおおく、そして高温にも耐えられる良質な石も取れました。
そこで高任は「高炉」の建設に取りかかります。
石を高く組んで炉をつくり、炉のなかで木炭を燃やし、上から鉄鉱石を投入して、鉄をつくったのです。

この「高炉」は従来のたたら場とちがって、火をおとす必要がなく、連続した製鉄ができます。
また鉄鉱石からつくられた鉄は砂鉄からつくられたものより質がよく、大砲をはじめいろいろな道具に使うことができました。
こうして、鉄の大量生産という産業革命の土台ができあがりました。
高任がはじめて釜石の高炉に火を入れた12月1日は、いま「鉄の記念日」になっています。

高任の高炉が近代日本の産業をリードした

大島高任はその後、各地に10基の高炉をつくりました。
このうち橋野の高炉跡にはいまも石組みがのこり、「橋野鉄鉱山」として世界遺産に登録されています。
ちなみに高任は高炉づくりのほかにも活躍しました。
地元で学校をひらき、英語・医学・物理・化学などを教えました。
また火薬をつかった鉱山開発をはじめておこない、金・銀・銅の精錬方法も改良しました。
工学寮(現東大工学部)をつくったり、西洋種によるワインの国産醸造をはじめたりしたのも高任です。

高任がはじめてつくった釜石の高炉は、維新ののち、明治政府にひきつがれました。
その後民間に払い下げられ、燃料が木炭からコークス(石炭)となったり、鉄中の炭素を効率的に取りのぞく方法が導入されたり、蒸気機関で空気を送りこんだりと、さまざまな改良が加えられました。
こうした技術は八幡製鉄所にも引き継がれ、そして現代日本の製鉄業にも引き継がれました。
高任の高炉が日本の近代化をリードしたのです。

現在、大島高任は「近代製鉄の父」とされ、日本の製鉄メーカーのHPでもくわしく紹介されています。
また釜石市には新日鐵住金の工場がいまも稼動し、釜石駅の南東2.5キロには「鉄の歴史館」もあります。
また「橋野鉄鉱山・高炉跡」は釜石駅から西へ20キロの山中にあります。

江川英龍や大島高任の製鉄によってはじまった日本の産業革命でしたが、すぐにその中心は西国にうつります。
とくに佐賀、薩摩、長州など、藩をあげて近代化にとりくんだ雄藩が、やがて幕末から明治の日本を動かしていくのです。

近代化のトップをきった佐賀藩の鍋島直正と技術者たち

「そろばん大名」直正の財政手腕

欧米列強の脅威がせまるなか、幕府はその対応になかなか動きませんでした。
そこで、独自に近代化をはじめる藩があらわれます。
その最初が佐賀藩でした。
佐賀藩が近代化のトップをきったのは、長崎の警護をまかされていて海外情勢に明るかったから、そして鍋島直正(なべしまなおまさ)という有能なリーダーがあらわれたからです。

鍋島直正(号は閑叟(かんそう))は佐賀藩主の子として江戸にうまれました。
1830年、15歳で当主となり、佐賀に帰国しますが、その出立前に借金の取立てがおしよせて大名行列できないほど、当時の佐賀藩は貧乏していました。

そこでまず、直正は藩の財政改革をめざします。
はじめは重臣たちの反対もあり多くのことはできませんでしたが、佐賀城の二の丸が火事で全焼したのをきっかけに、役人を5分の1に削減、借金は長期分割払いに変更、代わりに低金利で幕府から2万両を借りました。
また磁器や茶などの産業を育成して、同時に人材も育成、またたくまに藩の財政を立て直します。
こうした直正の手腕は「そろばん大名」と称えられました。

お金が増えたので、直正は佐賀の近代化をはじめます。
かれは早くから海外情勢に明るく、また帰国後すぐにオランダ船にのりこんで西洋文明にふれ、この国を欧米から守るには近代化を急ぐしかないと確信していたからです。
とくに大砲と、蒸気機関ではしる船、つまり蒸気船が必要だと感じていました。

反射炉と蒸気船ドックをはじめて建造する

まず直正は鉄づくりのため、杉谷雍助という若者にオランダ本の翻訳を命じます。
杉谷は大島高任などの協力のもと『ルイク国立鋳造所における鋳造法』を和訳しました。
この知識をもとに、直正は大砲製造のプロジェクトチームを立ち上げ、江川英龍もまねいて、1850年に日本初の実用反射炉を完成させます。

しかし完全に自前の反射炉。
失敗もおおく、鉄が溶けなかったり、せっかくつくった大砲が破裂したりしました。
杉谷らは責任をとって切腹を申し出ますが、直正はそれを断り、ねばりづよく若者たちを説得して、ついに1852年、鉄製のカノン砲を完成させました。
その後つくられた大砲は60門におよび、それらは長崎湾の台場にすえられました。

また直正は三重津という有明海の北の地に、蒸気船の修理・建造と海軍教育を目的とした海軍所をつくります。
蒸気機関の開発はすでに、大砲の砲身をくりぬくためにすすめられていたので、これに購入した外国の蒸気船をあわせて、西洋技術の導入拠点としました。
現在、「三重津海軍所跡」も世界遺産に登録されており、ドックの様子を見ることができます。

こうした直正のリーダーシップによって、佐賀藩ははじめての近代化を達成しました。
ペリー来航時に唯一対抗できるといわれたのも、戊辰戦争のときに西洋式軍隊が大活躍したのも、佐賀藩です。
また佐賀の技術者たちは維新後に各分野で活躍して、明治の産業革命を主導しました。
そして、この佐賀の近代化を見習ってさらに発展させたのが、直正のいとこ、薩摩藩主島津斉彬です。

本格的な工場群をつくった薩摩藩とそのリーダー島津斉彬

本格的な工場群をつくった薩摩藩とそのリーダー島津斉彬

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はじめての本格的な工場群「集成館」

薩摩藩は奄美や琉球王国を実行支配し、佐賀とおなじく海外情勢に明るい土地柄でした。
また奄美特産の黒砂糖を専売したり、琉球との貿易を増やしたりして、財政もうるおっていました。
ここに、名君として名高い島津斉彬(しまづなりあきら)が登場します。

斉彬は藩主になるまえ、後継者争いにまきこまれています。
というのも、斉彬の父の側室おゆら(お由羅)が斉彬をおしのけて、わが子である久光を当主にしようとしたからです。
けっきょく斉彬の友人たち(宇和島藩主伊達宗城、福井藩主松平慶永ら)のとりなしで騒動はおさまりますが、斉彬が藩主になったのは1851年、41歳のときでした。

しかし、藩主となった斉彬はすぐに薩摩の近代化をはじめます。
まず反射炉をつくり、あわせて高炉も建てて、本格的な鉄の大量生産をはじめます。
精製された鉄は大砲をはじめおおくの近代兵器や船、工場設備などにつかわれました。
また蒸気機関の開発をすすめ、1855年には国産初の蒸気船をつくりました。
船の帆をつくるために、蒸気機関や水車を利用した紡績工場も建てられました。

また斉彬は軍事利用にとどまらず、ガス灯や電信、ガラス製造や写真の開発まで、さまざまな分野で産業革命をおしすすめました。
ちなみにこうした技術のおかげで、斉彬の写真もいまにのこっています。
これらの工場群は「集成館」とよばれ、薩摩の富国強兵をすすめる原動力となりました。

斉彬の開明的な思想が明治政府にうけつがれる

島津斉彬は早くから、欧米列強の力の源が近代科学にもとづいた工業力にあることを見ぬいていました。
そこでみずからもアルファベットを学ぶとともに、有能な人材を数多く登用しました。
アメリカへ漂流したジョン万次郎が帰国途中に琉球へ立ちよると、さっそく集成館へ呼びよせて技術指導させたのもその一例です。

また斉彬は下級藩士だった西郷隆盛や大久保利通なども登用し、幕末の政治にかかわらせました。
そして斉彬自身も政治に関与していきます。
養女の篤姫を将軍徳川家定に嫁がせて幕府への発言権をつよめ、家定の死後には、その能力第一とみなした一橋慶喜を次期将軍に推しました。
斉彬は当時、徳川幕府と天皇家を中心とした中央集権体制をつくり、富国強兵を日本全土でおしすすめ、欧米と対抗しようとしていたようです。

しかし、大老井伊直弼が強引に家茂を将軍としてしまいます。
これに反発した斉彬は5千人の兵をつれて、薩摩から上京しようとします。
その途中、斉彬は急死します。
病死とも、おゆら派の毒殺ともいわれています。
1858年でした。
そして斉彬の意志をうけついだ西郷隆盛や大久保利通によって、幕府に代わるあらたな中央集権国家がつくられ、富国強兵がすすめられるのです。

現在、斉彬ののこした「旧集成館」は世界遺産に登録され、反射炉の土台や紡績工場、機械工場があります。
機械工場では島津の歴史や実物の機械などが展示されています。
アクセスは鹿児島中央駅から北東へ5キロほどです。
また木炭を産出した「寺山炭窯跡」と、集成館に水を供給した「関吉の疎水溝」も世界遺産に登録されています。

幕末の日本を動かした長州藩の志士たち

幕末の日本を動かした長州藩の志士たち

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萩城下町での松下村塾と、長州の産業革命遺産

薩摩藩とともに幕末の政治を動かしたのが、長州藩(萩)でした。
長州藩もまた財政がうるおっていたこと、そして長州にはおおくの志士があらわれたことがその理由です。

1853年、ペリーの黒船を師匠の佐久間象山とともに見学した吉田松陰は衝撃をうけます。
翌年、ペリーがふたたび来航すると、師匠のアドバイスもあり、松陰はアメリカへ密航するため黒船に乗りこもうとします。
しかし幕府の役人に捕まって、松陰は投獄され、のちに自宅謹慎処分となりました。

地元の萩に帰った松陰は、叔父の松下村塾をうけつぎます。
萩の城下町から高杉晋作や久坂玄瑞、また遠方からも伊藤博文などといった若者が入塾しました。
松陰はこの塾で、日本と西洋の兵学や尊王(天皇を尊ぶ)思想を活発に議論し、また過激なことばで若者をはげましました。
ここで教えをうけた若者たちが、のちに維新の立役者となっていきます。

1859年に松陰が獄死した前後から、長州はいくつかの派閥にわかれていきます。
開明的なグループは佐賀や薩摩をみならって近代化をはかろうとしました。
大砲づくりのため「萩反射炉」という実験炉がつくられました。
また桂小五郎の建議によって「恵美須ケ鼻(えびすがはな)造船所」が開設し、2隻の西洋式軍艦がつくられました。
船につかう鉄は「大板山たたら製鉄」で従来のたたら製法によって生産されました。

また密かに5人の若者を西洋に留学させ、最新の知識習得にあたらせました。
伊藤博文や井上馨といったかれら5人が維新後、内閣・外交・造幣・鉄道・工学の分野でそれぞれ活躍しました。

攘夷から倒幕へ、藩を統一する高杉晋作

いっぽうで、開国により不平等条約や物価上昇が引き起こされると、攘夷(外国を撃退する)を主張するグループが強くなりました。
かれらは京都で勢力を高めたり、下関を通過する外国船に砲撃したりしました。
攘夷運動は薩摩をはじめ全国にひろがり、外国人の殺害事件が次々におこりました。

しかし1863年に薩摩が、翌年には長州がイギリスなどに完敗すると、日本の指導者たちははじめて攘夷の不可能を悟ります。
そして日本を守るには、開国して欧米の技術を導入し富国強兵をはかること、それには幕府に代わる中央集権型のあらたな政府が必要であることを確信します。
ここから攘夷運動のエネルギーは倒幕へ向けられるようになりました。

おりしも長州は政争にまけて、幕府から2度目の征伐をうける直前でした。
ここで高杉晋作が下関で挙兵、庶民もあつめた奇兵隊を駆使して、藩を統一します。
そして兵隊の装備を西洋式に大改造してさらに強くし、幕府連合軍をはねかえします。
ちなみにこの長州の西洋式軍隊がのちの徴兵制と日本陸軍のもととなりました。

倒幕にむけて動きだした長州と薩摩でしたが、政敵どうしだったこともあり、おたがいを毛嫌いしていました。
ここに力を貸したのが、長崎で活躍した2人の男です。

幕末の回天に力をあたえた長崎の2人の男

幕末の回天に力をあたえた長崎の2人の男

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武器商人グラバーの貢献

1人目はイギリスの商社マン、トーマス=グラバーです。

グラバーは開国まもない日本にやってきて、1861年には長崎にグラバー商会を開き、貿易を営んでいました。
そして内戦の気運が高まると、大量の武器・弾薬・艦船を輸入して薩摩や長州に売りました。
戊辰戦争という内戦時に薩長が幕府に勝てたのも、グラバーが輸入した外国製の武器のおかげです。
この当時はまだ、日本の反射炉や高炉は欧米から100年遅れており、とても西洋式武器の大量生産はできませんでした。

またグラバーは5人の長州藩士や薩摩藩士をヨーロッパへ密航させる手伝いもしています。
そしてかれはまた、本格的な欧米技術の日本導入にも貢献しました。
自宅の北には日本初の蒸気機関車をはしらせ、また自宅の南の小菅(こすげ)という土地には、蒸気機関で船を曳きあげる修船場を、薩摩藩との共同出資でつくりました。
船台がソロバン状だったことからソロバンドックと親しまれたこの「小菅修船場」は、いま世界遺産のひとつに登録されています。

また、グラバーの自宅も「旧グラバー住宅」として世界遺産登録され、現在はグラバー園の一部として人気の観光スポットとなっています。
グラバー園へのアクセスは長崎駅から南へ2キロ、または路面電車の石橋駅からすぐの距離です。

薩摩と長州を同盟させた坂本龍馬

薩摩と長州に力を貸した2人目は、土佐の脱藩浪士、坂本龍馬です。

龍馬の師匠は幕臣勝海舟でした。
海舟はかつて、長崎の海軍伝習所で操船や西洋の知識を学び、それらを神戸で龍馬たちに教えていました。
神戸の塾が廃止になると、1865年、龍馬は長崎の海軍伝習所から東へ1.5キロの場所に、亀山社中という株式会社をつくり、どうじに薩摩と長州を同盟させるための工作をはじめました。
この2藩が同盟すれば倒幕がなる、と考えたからです。

このころ長州は、2度目の討伐にやぶれた幕府のしかえしにより、武器の輸入を禁じられていました。
また薩摩は倒幕を決めたものの、兵隊の食糧にこまっていました。
そこで龍馬はグラバーにかけあって、薩摩藩名義で7400挺の西洋式銃を長州藩に買い付けてあげました。
またどうじに、長州藩の米を船で薩摩へ送りとどけました。

こうして関係改善させた長州と薩摩は、桂小五郎と西郷隆盛が交渉役となり、龍馬が仲介をして、同盟をはたしました。
ちなみにこのあとすぐ、龍馬は襲撃をうけて指を切られ、傷をいやすために妻のおりょうと温泉めぐりをしています。
これが日本人初の新婚旅行でした。
また亀山社中は土佐藩の外部団体となり、海援隊と名前をあらためています。

薩長同盟の翌年の1867年、龍馬の建議により将軍徳川慶喜は政権を奉還、おなじ日に天皇から倒幕の命令がくだり、戊辰戦争がはじまります。
龍馬はその直後に暗殺されますが、日本の近代化と、船をつくって海外に飛躍したいという龍馬の夢は、明治政府にも長崎の土地にも受け継がれていくことになります。

明治日本の造船と炭鉱開発をリードした長崎

明治日本の造船と炭鉱開発をリードした長崎

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東洋一の工場となった三菱長崎造船所

1868年、徳川幕府がほろびて明治政府が発足すると、富国強兵をめざして、さまざまな改革がおこなわれました。
そのひとつが産業育成です。
鉄道や軍事工場、鉱山の開発や電線の敷設、富岡製糸場から火力発電までいろいろな産業がすすめられました。
そして明治後期になると、造船業、炭鉱開発、製鉄業の3つがとくに発展しました。
貿易と国土防衛には蒸気船が必要で、それには燃料の石炭と建造のための鉄が必要だったからです。

長崎湾の西、海軍伝習所の対岸には、幕府のつくった長崎造船所がありました。
維新後はしばらく官営の造船所として運用されましたが、1884年に、海運業で栄えていた三菱に払い下げられます。
三菱の創業者は土佐藩士岩崎弥太郎で、幕末には土佐商会の実務をとりしきり、グラバーと取引したり海援隊の給料を支払ったりしていたので、長崎ともふかい縁がありました。

三菱の指導のもと、長崎造船所は東洋一の工場に発展します。
電気モーターで船を曳きあげる近代的なドックがつくられ、150トンの巨大クレーンも導入されました。
また鋳型をつくるための木型の工場も建ち、おおくの客をむかえるための迎賓館も建てられました。
これらの建造物はそれぞれ「第三船渠(せんきょ)」「ジャイアント=カンチレバークレーン」「旧木型場」「占勝閣」として世界遺産に登録されています。
ドックとクレーンは現在も稼働中、木型場はいま長崎造船所史料館として、日本最古の工作機械や蒸気タービンなどを展示しています。
ちなみにこの三菱長崎造船所で戦艦「武蔵」もつくられました。

高島炭鉱と端島炭鉱(軍艦島)の石炭

炭鉱開発でもまた、長崎は全国にさきがけておこなわれました。

長崎半島の西、角力湾にうかぶ島々では石炭が豊富にとれました。
これに最初に目をつけたのがトーマス=グラバーです。
蒸気船の燃料となる石炭の需要をみこんで、グラバーは佐賀藩とともに高島という島を開発し、日本ではじめて蒸気機関による本格的な石炭の採掘をはじめました。
いまも高島の北部には「北渓井坑(ほっけいせいこう)」と名づけられた当時のたてあながのこっています。

しかしグラバー商会は倒産。
1881年に三菱の岩崎弥太郎が高島炭鉱を買い取ります。
三菱はグラバーを再雇用して、高島炭鉱の経営を軌道にのせ、最盛期には年間127万トンの石炭を生みだしました。
現在「高島炭鉱」も世界遺産に登録され、高島港のちかくには高島石炭資料館や岩崎弥太郎の像などがあります。
ちなみにグラバーはその後も三菱の相談役として活躍し、あるビール会社の再建時にかれの好きだった麒麟のイラストをラベルにつかったことで、キリンビールが誕生しました。

高島の南には端島(はしま)という浅瀬がありました。
ここでも石炭がとれたので、三菱が買い上げて、周囲を埋め立て、島まるごとを炭鉱開発の場としました。
これが「軍艦島」です。
最盛期には6ヘクタールあまりの土地に5千人以上が暮らし、海底炭坑から大量の石炭を掘りだしていました。
いまは無人島ですが、高島炭鉱とおなじく世界遺産に登録され、長崎港から出発する周遊・上陸ツアーも人気を博しています。
なお波が高いと上陸できないので、天気予報をよくチェックしてから行くといいでしょう。

三池炭鉱と八幡製鉄所、ついに日本は欧米に追いついた

三池炭鉱と八幡製鉄所、ついに日本は欧米に追いついた

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三井のキリフダ團琢磨がつくった三池炭鉱と三池港

炭鉱開発は諫早湾の東、三池でもさかんにおこなわれました。

江戸時代から良質の石炭がとれた三池の炭鉱は、明治政府が運営していましたが、産出量が増えたこと、浸水などに悩まされたことから、民間に払い下げられます。
これを購入したのが三菱とともに日本を代表する財閥の三井。
そして三井にまねかれて三池炭鉱を発展させたのが團琢磨(だんたくま)でした。
琢磨は当時アメリカのマサチューセッツ工科大学で学び、三井の社長が「三池の落札価格には團の価値も入っている」として、県職員の2倍の給料でよびよせたほどの男です。

琢磨はすぐに巨大なたてあなを掘り、最新のポンプを導入して、坑道の排水を可能にします。
また巨大なやぐらを建設して、人や馬や石炭や機械を上げ下げするエレベーターを稼動させ、さらに巨大な扇風機で排気・送風をおこないました。
これで坑道での大量採取ができるようになり、三池は日本有数の炭鉱となりました。
現存しているたてあなは福岡県大牟田市の「宮原坑(みやのはらこう)」と熊本県荒尾市の「万田坑(まんだこう)」があり、巨大なやぐらや巻き上げ機などを見ることができます。

また琢磨は石炭をはこぶために専用の鉄道をつくって港に直結させ、三池の港には大型船が乗りつけられるよう、潮位差を解消するための水門と防砂堤をつくらせました。
これらの設備はいまものこり、三池港を空からみると巨大なハチドリ型をしています。
こうした炭鉱、鉄道、港の整備によって、大量の石炭が海外へも輸出され、三井はたくさんの資本を蓄えました。
専用鉄道と三池港もまた、中継港だった熊本県宇城市の「三角西港」とともに、世界遺産に登録されています。

八幡製鉄所の建設によって日本の産業革命は完成した

国産の石炭を燃料にして蒸気船を走らせるようになった日本は、1895年の日清戦争に勝利して、たくさんの賠償金を手に入れます。
このお金をもとに、せまりくるロシアの脅威に対抗するため、明治政府はさらなる軍備拡張をいそぎます。
なかでも急務だったのが、鉄の国産化でした。
まともに稼動している製鉄所は当時まだ釜石だけだったからです。

そこで政府は北九州の八幡にあらたな製鉄所の建設を決めます。
八幡は海に面していて輸送に便利だったこと、そして背後には筑豊炭田という豊富な石炭のとれる炭鉱があったことが理由です。
最新の技術を導入するためドイツの技術者たちをまねき、また釜石の技術者たちも結集して、1901年、八幡製鉄所が完成しました。
江川英龍が韮山の自宅に反射炉をつくってから52年、ついに日本は欧米の技術に追いついたのです。

その後もいくたの困難にたいして技術的な改良が加えられました。
燃料は石炭をさらに加工したコークスとなり、溶けた鉄から炭素を除去して鋼(はがね)とする最新の転炉も導入され、圧延機で鋼を加工することも可能になりました。
こうして八幡は製鋼まで一貫しておこなえる日本最大の製鉄所となり、年間15万トンもの鋼を生み出しました。

いま八幡製鉄所もまた、日本の産業革命の完成をしめす遺跡として、工業用水を供給した「遠賀川(おんががわ)水源地ポンプ室」とともに世界遺産に登録されています。
そして日露戦争に勝利した日本はこれ以降、欧米列強とともに帝国主義の一翼をになうようになるのです。

すべてのリストと世界遺産になった経緯をまとめました

すべてのリストと世界遺産になった経緯をまとめました

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世界遺産23リストのまとめ

ここで世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」を構成する23リストを、記事の登場順にまとめてみましょう。

韮山(静岡県)……韮山反射炉

釜石(岩手県)……橋野鉄鉱山

佐賀(佐賀県)……三重津海軍所跡

鹿児島(鹿児島県)……旧集成館(反射炉跡、機械工場、旧鹿児島紡績所技師館)/寺山炭窯跡/関吉の疎水溝

萩(山口県)……松下村塾/萩城下町/萩反射炉/恵美須ケ鼻造船所跡/大板山たたら製鉄遺跡

長崎(長崎県)……小菅修船場跡/旧グラバー住宅/三菱長崎造船所第三船渠/三菱長崎造船所ジャイアント=カンチレバークレーン/三菱長崎造船所旧木型場/三菱長崎造船所占勝閣/高島炭鉱/端島炭鉱(軍艦島)

三池(福岡県と熊本県)……三池炭鉱と三池港(宮原坑、万田坑、専用鉄道敷跡、三池港)/三角西港

八幡(福岡県)……官営八幡製鉄所(旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場)/遠賀川水源地ポンプ室

なお、三菱長崎造船所の旧木型場以外は、三菱重工業長崎造船所所有のため非公開。
また八幡製鉄所と遠賀川水源地ポンプ室も、新日鐵住金所有のため非公開となっています。

23リストが世界遺産になった経緯と歴史上の価値

以上のように「明治日本の産業革命遺産」は8所9県にまたがっています。
このように、地理的に離れていても文化的・歴史的背景のおなじ遺産をひとつにまとめて登録する方法をシリアル=ノミネーションといいます。
メリットとしては、申請する側にとってはさまざまな遺跡があるので遺産の価値を認めてもらいやすいこと、またユネスコ側にとってはリストがすくなくなることがあります。
おなじ例には2016年登録の「ル=コルビュジエの建築作品」があり、7カ国17作品にまたがっています。

「明治日本の産業革命遺産」の場合、もともと鹿児島が「集成館」の世界遺産登録をめざしていましたが、単独ではむずかしいので九州各地の産業遺産をまきこみ、さらに萩もまきこんで「九州・山口の近代化産業遺産群」として世界遺産登録をめざしていました。
これに韮山反射炉と橋野鉄鉱山もくわわり、2013年からは政府の推薦するリストとなって、2015年に世界遺産への登録が決まりました。

歴史上の価値としては、19世紀から20世紀初頭にかけて、アジアではめずらしく自前の産業革命をはたし、植民地とならずに欧米列強に追いついた、近代日本を象徴する遺産であるということがあります。
とくに日本は産業革命から資本主義、帝国主義という流れを、わずか50年あまりで達成しました。
そこには明治の日本人たちが「坂の上の雲」をめざして懸命にはたらいた奮闘がありました。
そして幕末に日本の将来を夢見て、伊豆や釜石、佐賀や薩摩や長州や長崎で、身をけずった先人たちの努力がありました。

幕末から明治にかけて先人の残した足跡を見にいこう

いかがでしたか。
「明治日本の産業革命遺産」は全国各地にあるので、まずは近くの遺跡から観光してもいいでしょう。
そしてこの記事では取り上げませんでしたが、製鉄炉や造船所ではたらいた男たち、幕末の動乱で命をおとした志士たち、そして炭鉱で重労働を強いられた人たち、無名のかれらもまた、近代日本をつくりあげた偉大な先人です。
産業遺産をめぐると、かれらの足跡や息づかいもまた感じられるかもしれません。
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