【書評】神は日本に永遠に根付かない?遠藤周作の絶叫『沈黙』

「神様って本当にいるの?」日本人はその生活においてほとんどの人が実在を信じない、あるいは疑問視している「神」。しかし日本には命がけで神の存在を守り、信じ続けてきた人がいます。〈隠れキリシタン〉です。一人の神父が踏み絵を踏んで、大勢の信徒の命が助かるとしたら?――西洋の「神」と日本の「神」の齟齬(そご)。殉教しても何の栄光もない。神の、圧倒的な沈黙。マーティン・スコセッシ監督作品として2017年1月に公開される、20世紀日本文学随一の傑作「沈黙」を、数年間教会に通って聖書も精読した筆者がご紹介します。

あらすじ――遠藤周作『沈黙』

92000:あらすじ――遠藤周作『沈黙』

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神父フェレイラが「踏み絵」を踏んで棄教した――17世紀初頭のローマ教会に届いた知らせ。
その真偽を確かめるべく、また日本の信徒たちを救うべく、神父ロドリゴはポルトガルからマニラを経て、日本へとたどり着きます。
マニラの修道院で彼は〈イノウエ〉という権力者の名前を耳にします。
ガイドの卑屈な日本人〈キチジロー〉、同僚ガルペ神父とともに苦難の旅を経てたどり着いた日本。
そこで待っていたのは、驚異的な信仰心によってみずからの神を守りつづけた〈隠れキリシタン〉たちの姿でした。
そして、信徒たちに守られるだけの自分たち。

平穏な時間は数ヶ月も続きませんでした。
百姓たちの行動に何かを嗅ぎつけた役人たちは、ふだん仏教徒を装っている信徒らに、踏み絵を踏むように強要します。
それを拒否した信徒の殉教――ロドリゴはみずからの無力に苦悶します。
さらに彼を待ち受けていたのは、あまりにもむごい運命でした。
「お前が転べば、あの信徒らの命は助かるのだ」――英国ガーディアン紙「死ぬまでに読んでおきたい1000冊の本」に選ばれてもいる、世界的な傑作。

〈沈黙〉の時代背景とキリスト教の裏事情

〈沈黙〉の時代背景とキリスト教の裏事情

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ここで歴史背景をちょっとおさらい。
豊臣秀吉が発布した「キリシタン禁制」を徳川家康も引き継いだのは、周知の通り。
さて一方、西洋はどうだったのでしょう?宗教改革以降、権威がガタガタになりかけていたローマカトリック。
そんなカトリックを救ったのは新しい修道会〈イエズス会〉でした。
聖書の言葉どおり「すべての人に福音を述べ伝える」べく、海外での新規獲得に乗り出していきました。
しかし布教活動は征服者たちの手段でもありました。
植民地化の脅威をいち早く悟った秀吉、家康はキリシタン禁制に乗り出した、というのが最近の研究です。

キリスト教の基本理念は「すべての人に福音をのべ伝える」こと。
その教えが人を救うと確信しているがゆえの行動ではありますが、つまりは「神様の押しつけ」が善である、とも言えます。
いずれにせよ日本はキリストの教え聞き、一度はその良さを受けいれました。
しかしそれが「神」の権威を借りた征服であると日本の権力者が気づいたとき、悲劇ははじまったのです。

最後に。
聖書を一度読めばわかりますが、キリストは案外まともな、いいこと言っているのです。
それを後世がゆがめてしまいました。
教えは偉大でも教えを伝える人間が偉大とは限らない、なにごともきれいごとでは動かないということでしょう。

なぜ「踏み絵」踏めないの?神父ロドリゴの思考回路

なぜ「踏み絵」を踏めないのか?キリスト教的には「偶像崇拝禁止」なのですから、踏み絵も問題ないと考えがちです。
しかしそこはやはり、その人の「信念」にかかわってきます。

たとえばあなたに「これがなければ生きていけない!」というような生きがいや趣味があって、「命を助けるかわりに、それを全部棄てろ」と言われたら?それが「踏み絵」です。
ある人は踏み絵について「親を踏みつけるような気分だろう」と言いました。
命をかけているものを全力で踏みにじる行為である以上、そこには非常な苦痛と苦悩がともないます。
神父や修道士、修道女は一生涯独身を守りますが、そこには尋常ならぬ努力を必要とします。
それを支えるのは、神への愛です。
言い方を変えれば神と結婚しているということ。
生涯をその人のために捧げるとしたその生き方の大元を踏みにじるというのは、非常に残酷なことです。

もう一つ、非常に大切なことがあります。
神父、聖職者というのは神に仕えるのと同時に、信徒を導き救うという役割を持っているのです。
ロドリゴは「孤立している信徒らを救う」という強い使命感をもって日本へおもむきます。
しかし彼等を、信徒の命を「救う」のが「神を棄てる」という行為だとするなら?究極の選択がロドリゴを待ち受けます。

「日本人に神の概念は持てないだろう」

「日本にキリスト教が布教されたのは、ありがた迷惑だ」この作中で多くの日本人信徒、それも百姓身分の人びとの命が失われます。
その原因はすべて、ロドリゴが「転ばない」ためでした。
――「転ぶ」とは「棄教する」ということです。
日本におけるキリシタンを駆逐するためには、まず指導者役の神父が「転ば」なければならないと日本の高官は考えたのでした。
ロドリゴは、先の章に上げた思考回路でもって踏み絵をしぶります。

物語のクライマックス、とある人物はロドリゴに言います。
「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。
日本人は今日まで(中略)神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう」と。

そのとおり、私たちが日常生活ではたして神に感謝し、神の存在を感じる瞬間があるものでしょうか?たとえばキリスト教において、神は「つねにそばにいる者」です。
良いことをしていても、悪いことをしていても、神はつねに見ておられる。
そして正しい方向に人を導かれる。
そう、「そばにいるはずのに、なぜ神はなにもしてくれないのか」。
それは深い謎、問いとなってロドリゴを苦しめることになります。
そしてこの問いとは、日本人が神の存在を疑い、否定する主な理由なのです。
はたして、神は存在するのでしょうか?

弱い人間を救うのが宗教ならば……

なぜこの作品が「世界的傑作」と呼ぶ価値が存在するのか?それはこの作品が「神」の正体をあぶりだしているからです。
西洋の文学作品において「神」というのは全能者。
すべてを把握し救済し、ときに罰を与えるものです。
しかし日本の歴史において神はつねに沈黙していました。

〈キチジロー〉という人物が、この作品に大きな問を投げかけています。
彼はキリシタンでしたが、迫害がおそろしかったために踏み絵を踏み、「転ん」で国外に逃れてきました。
マニラで彼はロドリゴらに出会い、ガイドを頼まれます。
帰国後、彼は告解(懺悔)をして信仰を取り戻すものの、その後はやはり殉教のおそろしさゆえに「転び」んでしまいます。
彼は何度も自分の命惜しさに「転び」ながら、神にすがりつづける、弱く卑怯でいじらしい信者です。
信仰や神が、弱い人間のためにあるというのなら、殉教者だけではなく「転んだ」人のことも神はあわれまなければならないはず。
弱く卑怯な彼に、神は救いとあわれみをかけるのでしょうか?

そしてはたしてロドリゴは、どんな決断をするのでしょう。
その果てに得た「救いとあわれみ」はあまりにも弱々しい、救いと呼ぶのすら弱々しいものでした。
しかし確かに存在していました。

神の正体、遠藤周作の結論

この『沈黙』は、だれもが言ったことがあるだろう「神様、助けて」という祈りがなぜ「聞き届けられないか」について、遠藤周作が本気で考え昇華しきった作品です。
『沈黙』のあらすじを極限まで縮めるなら「神父が踏み絵を、踏むか踏まないかの物語」。
究極の選択です。
それはローマ教会からの破門をも意味します。
本当に神父として、人間として「正しい」あり方とはいかなるものだったのか――遠藤周作は最後の最後に、小さな、そしてあふれるほどにあたたかい結論を残していきました。
それはぜひ作品をお読みになって、確かめてみてください。
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