天皇中心の国家を目指した「大化の改新」とゆかりの地について

必ず歴史の教科書に出てくる「大化の改新」。知らない方はいないのでは?中大兄皇子・中臣鎌足が中心となった政治的改革です。蘇我入鹿をはじめとする蘇我宗家を滅ぼしただけと思っている方が多いはず。しかし、それは単なる序章に過ぎません。天皇を中心とした集権国家を目指した「大化の改新」は、具体的にどのようなものだったのしょうか?一緒に詳しく見ていきましょう。

大化の改新とは?

大化の改新とは?

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大化の改新は、645年(最近では646年からという説もあります。)に行われた古代史の中でも大変大きな政治改革です。
それまで日本の政権を4代に渡って握っていた大豪族である蘇我宗家を中大兄皇子・中臣鎌足らが倒し、豪族中心の政治から天皇中心の政治へと移り変わるきっかけとなりました。
そしてこの改革は、その後の日本の律令国家建設の出発点となりました。

中心人物 其の一 中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

「大化の改新」を行なった中心人物は2人います。
一人は、後に第38代天智天皇となる有名な中大兄皇子です。
生没年626年~671年。
本名は葛城皇子(かつらぎおうじ)と言いました。
父は第35代舒明天皇(じょめいてんのう)・母は第36代皇極天皇(こうぎょくてんのう)という両親ともに天皇であるとても血統が良い皇子でした。
兄弟には、異母兄に古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)・同母弟に大海人皇子(おおあまのおうじ)後に天武天皇(てんむてんのう)・同母妹に孝徳天皇の皇后となる間人皇女(はしひとのひめみこ)がいました。
「中大兄」とは皇位継承権が二番目の息子という意味。
「大兄」が皇位継承一権が一番目という意味で兄に「古人大兄皇子」がいます。
しかし、母は蘇我馬子(そがのうまこ)の娘・蘇我法提郎女(ほほてのいらつめ)であったため、両親ともに皇族である中大兄皇子が次期天皇に一番近い皇子でした。
しかし、実際は、天皇家より強い勢力を誇った豪族・蘇我宗家や聖徳太子一族などのさまざまな陰謀や思惑が絡み合いなかなかスムーズには、次期天皇として即位はできませんでした。

この時点で次の天皇の最有力候補は、聖徳太子の息子の山背大兄王でした。
しかし、蘇我宗家筆頭の蘇我蝦夷は、蘇我馬子の娘と故・舒明天皇の間に生まれた親戚である古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を天皇にしようと画策していました。
蘇我氏は、643年に最有力候補だった山背大兄王を急襲し、斑鳩寺(斑鳩宮に隣接する法隆寺の前身)にて自害に追い込みます。
蘇我氏の横暴は増すばかりでした。
そこで、中大兄皇子は中臣鎌足と協力し蘇我宗家の誅殺を計画。
自身の天皇への道と天皇中心の中央集権国家への道を大きく切り開いていくのです。

その後は、大化の改新という大きな政治改革を成功させ、天智天皇となります。
白村江の戦い・近江宮(現在の滋賀県)への異例の遷都・日本最古の時報・日本最古の戸籍編纂・最古の律令法典である近江令の制定など数多くのことを成し遂げました。

中心人物 其の二 中臣鎌足(なかとみのかまたり)

もう一人の中心人物は、中臣鎌足(のち死後に藤原性を賜り藤原鎌足)。
日本の歴史における最大氏族となる「藤原氏」の始祖です。
このことをご存知でない方も多いかも知れません。
「大化の改新」のでは、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍して、その後、藤原氏繁栄の礎を築き上げた人物です。

生没年は614年〜669年。
中臣弥気(なかとみのみけ)の子と言われおり、中臣氏は本来神官でした。
中流豪族であり代々神官を務める中臣氏は,聖徳太子の生存時代に起こった仏教派蘇我氏と神道派物部氏の戦いでは、物部氏について戦い,蘇我氏に滅ぼされていました。
そして、朝廷内での蘇我宗家の権力に対し,中臣鎌足は密かに蘇我氏打倒へと動き始めたと言われています。
そのために,もともと大変秀才と評判だった中臣鎌足は、中国の兵法や歴史を読み、勉学に励んだと『大織冠伝』(たいしょくかんでん)という中臣鎌足の伝記に記述が残されています。

中臣鎌足と中大兄皇子の出会いについて、興味深い逸話が残っています。
中臣鎌足は、当初は皇極天皇の弟である軽皇子(かるのおうじ)と接触しますが、器量がないと判断し側から離れていきます。
そして、次に目をつけたのが皇極天皇の息子である中大兄皇子だったと言われています。
ある時,飛鳥寺西にある広場で蹴鞠会 (鞠を一定の高さで数人で蹴り続け、回数を競う競技)が行われたとき,中大兄皇子が勢いよく蹴りすぎて自身の革の靴を飛ばしてしまいます。
その様子を見てい中臣鎌足が中大兄皇子の靴を拾って差し出すと,中大兄皇子は跪き靴を受け取った。
その時、中臣鎌足は,まだこの10代の若者中大兄皇子に,自分の探し求めていた君主であると直感したと伝えられています。
そして、鎌足は蘇我宗家の滅亡計画を中大兄皇子に語りかけたそうです。

「大化の改新」が成功して後も、中臣鎌足は政治の中枢で活躍し、病に伏して後も天智天皇となった中大兄皇子から、大化の改新後定められた冠位制で最高の冠位である大織冠という位を授けられ、(歴史上中臣鎌足のみが授けられた)内大臣ちなり「藤原」の姓を賜ります。
そして、その翌日中臣鎌足は亡くなります。
その生涯は、中大兄皇子とともに古代史最大のクーデターを成功させ、二人三脚で集権国家をつくり上げました。
この後、1000年以上におよぶ藤原氏の繁栄と栄光は、はじめて藤原氏を名乗ったこの中臣鎌足から始ったのです。

「大化の改新」の序章 

「大化の改新」の序章 

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乙巳の変とは?

中大兄皇子が目指したのは、先にも述べましたが天皇中心の国家でした。
その目的のために、「大化の改新」の序章ともいえるクーデターを起こします。
それが当時権力を欲しいままにしていた蘇我宗家への日本古代史最大のクーデター「乙巳の変」(いっしのへん)です!

中大兄皇子の父である舒明天皇が亡くなった後、先に記述したように皇位継承候補者は、中大兄皇子だけではありませんでした。
跡目争いを避けるため、中継ぎとして、中大兄皇子の母である宝皇女(たからのひめみこ)が皇極天皇として即位します。
その後、蘇我宗家が有力候補者の山背大兄王一族を滅ぼします。
当時天皇家の外戚となっていた蘇我宗家の権力は絶大で、その財力や発言力は天皇家を凌ぐほどだったと言われています。
大臣であった蘇我蝦夷(そがのえみし)とその息子で秀才の誉れ高い蘇我入鹿(そがのいるか)は、さまざまな権力を欲しいまま、専制政治を行なっていました。
そこで中大兄皇子は、645年腹心の部下となった中臣鎌足(なかとみのかまたり)や蘇我入鹿の親戚である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)らとともに、蘇我入鹿殺害計画を実行するのです。

決行日は、645年6月12日。
皇極天皇の飛鳥板蓋宮にて、現代の朝鮮半島にあった三韓(高句麗・百済・新羅)の使者が天皇に貢物を贈る儀式が行われました。
『日本書紀』の記述によると、飛鳥宮に到着した蘇我入鹿は、剣を手放すよう言われます。
普段は用心深い蘇我入鹿を上手いこと誘導し、剣を手放します。
皇極天皇の前に古人大兄皇子・蘇我入鹿・石川麻呂らが進み出ました。
柱の陰には、長槍を持った中大兄皇子、弓矢を持った中臣鎌足、その他に2人の刺客が息を殺して身を潜めてその時を待ち構えていました。
石川麻呂が皇極天皇に対して上表文を読み始めたのを合図に、刺客が飛び出して蘇我入鹿を斬りつける手はずのなっていました。
しかし、刺客は怖じ気づきなかなか飛び出せない。
石川麻呂の声も緊張と不安でいつも以上に震えてしまっていました。
不審に思い蘇我入鹿は問いただしますが、「天皇の前だから畏れ多くて緊張しているだけだ。」と答える石川麻呂。
その瞬間、柱の陰にいた中大兄皇子が業を煮やして飛び出し、中大兄皇子自らが刀で蘇我入鹿の頭から肩にかけて斬りつけ暗殺したと伝えられています。
これが、古代史最大のクーデターと言われる「乙巳の変」です。
当然の出来事に、皇極天皇以下その場にいたものは、何も出来ず呆然としていたと言われています。

息子である入鹿が殺害されたことを知った父の蝦夷は、自宅に火放ち自害したと伝えられています。
その際に、蘇我蝦夷の父の蘇我馬子(そがのうまこ)と聖徳太子が編纂したと伝えられる貴重な歴史書「天皇記」が灰になってしまいました。
もし、現存したら今伝えられている古代史が根本から大きく変わっていたかも知れませんね。

これで、ここに蘇我本宗家は滅亡しました。
そして、この後、中臣鎌足を祖とする藤原一族が頭角を表すまでの間は、天皇・皇族を中心とする政治が行なわれることになります。

蘇我宗家はそんなに凄かった?

乙巳の変で滅ぼされた蘇我宗家ですが、どのような豪族だったのでしょうか?蘇我氏は、古墳時代から飛鳥時代に絶大な勢力を持っており、代々に渡り大臣(おおおみ)を出していた日本でも有数の有力豪族でした。

日本に仏教が伝来した際に、いち早く取り入れた蘇我氏は、蘇我稲目(蘇我馬子の父)の代になると、蘇我氏は大伴氏と物部氏と並ぶ三大勢力の一角となります。
やがて大伴氏が失脚すると、大和朝廷の最高の官職である大連の物部氏と重要な国務に携わる高官である大臣の蘇我氏の二大勢力となります。
蘇我稲目は、娘である堅塩媛・小姉君を第29代欽明天皇に嫁がせることにより天皇家の外戚となり、豪族としての地位を確かなものにしていきます。
そして、蘇我稲目が欽明天皇とほぼ同時期に亡くなり、この二大勢力の構図は息子の蘇我馬子に引き継がれますが、第31代用明天皇の崩御後に後継者をめぐる争いが起こります。
蘇我氏は、小姉君の子でありながら、ライバルである物部氏に推薦されていた穴穂部皇子を暗殺し、その後の戦いで物部氏を討ち滅ぼすします。
その後は、政権は蘇我氏の一極体制となり、いよいよ蘇我宗家が全盛を迎えます。
蘇我馬子亡き後は、蘇我蝦夷・入鹿は、政治を思いのままに動かしていきました。
蘇我蝦夷は天皇の許可もなく、勝手に蘇我入鹿に対して高い位である紫冠を与えるなど、横暴な行いをしたと『日本書記』に記されています。
そして、先に述べた皇位継承権問題では、蘇我宗家は蘇我蝦夷の妹を母に持つ、中大兄皇子の異母兄・古人大兄皇子(蝦夷からすると甥)を皇太子に据えようと計画。
そうすることによって、蘇我宗家の権力が益々強くなるからです。
そのため、蘇我入鹿は、有力な候補者である山背大兄王を自害に追い込み、聖徳太子の血統がこの事件により滅んでしまいました。
蘇我入鹿は甘橿丘と場所に、飛鳥宮(天皇の住居)を見下ろすように大邸宅を造ります。
蘇我氏の暴政の極みとなるのです。

大化の詔とは

大化の詔とは

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蘇我氏を滅ぼしたあと、中大兄皇子と中臣鎌足らは叔父である孝徳天皇を擁立し、天皇中心の国家建設を具体的に進めていきます。
詳しく内容を見ていきましょう。

改新の詔とは?

第一条 「公地公民制」

”罷昔在天皇等所立子代之民処々屯倉及臣連伴造国造村首所有部曲之民処々田荘”

(従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、また、臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民および、各地の田荘はこれを廃止する。)

それまでは土地や人民は、王族・豪族がそれぞれ各々で支配していました。
しかし、今後は豪族が支配して保有していた土地や人民も天皇(国家)が支配し、豪族が支配・保有することを禁止しました。

第二条「国郡制度」

”初修京師置畿内国司郡司関塞斥候防人駅馬伝馬及造鈴契定山河”

(初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定する。)

日本全国を国・群にわけて管理していくことに定めて、役人を都で選び、その者を派遣し管理することにしました。
現代の都道府県・市町村と同じような仕組みをつくったのです。
地方行政組織を制定し、中央集権的な政治体制をつくることを目的としました。

第三条「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」

”初造戸籍計帳班田収授之法。

(初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。)

戸籍をつくり、人民を管理し、第一条で制定した公地公民の制で国家の支配下となる土地を、人民に無料で貸し出す政策です。
人民は、無料で土地を貸して貰えるが、土地の広さに応じて年貢を治めなければいけないませんでした。
「農民が年貢を納める。」これをはじめて制定したのが改新の詔です。

第四条「租調庸の税制」

”罷旧賦役而行田之調。

(旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)策定することとする。)

大化の改新以前は、国に治めるものは、「祖」(お米)のみでした。
しかし、「祖」だけでなく、「庸」(労働力)、「調」(地方にある特産品など)も国に治めなさい。
という制度を確立しました。

詔だけではなかった!

大化の改新は、詔の4条を制定しただけでなく、様々な政策を行いました。

・薄葬令

今までお墓は自由に作ることが可能でしたが、作ることの出来るお墓を身分に合わせて規制しました。
また、殉死(後追い自殺)の禁止や、天皇陵(天皇のお墓)の造営にかかる時間を7日以内に制限しました。
このように、さまざまな合理化・簡素化が進められました。
この薄葬令によって事実上、古墳時代は終わりを告げることとなるのです。

・習俗の改革

男女の法の整理や様々な交通問題の解決をはかりました。

・伴造(とものみやつこ)と品部(しなべ)の廃止と八省百官(はっしょうひゃっかん)の制定

従来の世襲制の役職であった高官であった伴造や品部を廃止し、特定の豪族が特定の役職を代々世襲する制度を廃止しました。
これにより、豪族の特権階級制度が薄まると期待しました。
そして、八省百官を新たに制定し、より能力主義的な官僚制への移行が行わました。
まるで、聖徳太子が制定した冠位十二階のようですね。

・大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の廃止

大臣・大連という位を廃止し、代わりに太政官が置かれ左大臣・右大臣に変わりました。
大臣は決められていた臣の姓から、大連は決められていた連の姓から選出されることになっていましたが、左大臣・右大臣は、臣・連の制約が無くなり、姓に関係なく任命されることとなりました。

・冠位制度の改訂

聖徳太子の制定した冠位十二階を新たに改訂し、大化647年に冠位十三階・649年に冠位十九階→664年冠位二十六階へと改めました。
これは冠位十二階に含まれなかった、大臣・大連などを輩出する特権階級があった有力豪族を冠位制度へ組み込み、天皇を頂点とした中央集権国家を築き上げる為の改革だと思わます。

・礼法の策定

職位に応じた冠、衣服、礼儀作法を明確に制定しました。
冠位により身につけることの出来る衣服や礼法が細かく決められました。
冠位のない一般の人々は白い衣を身につける事と制定され、これは白丁(はくてい)と呼ばれました。

・年号の開始

日本の歴史上で初めて年号を使用しました。
その年号は、「大化」。
この年号からこお一連の政治改革を「大化の改新」と呼ぶことになります。
現在の「平成」などの年号はこの改革から始まったのですね。

大化の改新 ゆかりの地

伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみや)

伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきのみや)

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「乙巳の変」が起こったとされる場所です。
現在の奈良県明日香村岡にあり、明日香村役場の北に位置します。
この史跡伝飛鳥板蓋宮跡には、調査の結果4つの宮跡が重なっていると言われており、飛鳥岡本宮(630~636年の舒明天皇の宮・飛鳥板蓋宮(643~645年、皇極天皇の宮)・後飛鳥岡本宮(656~660年、斉明天皇の宮)・飛鳥浄御原宮(672~694年、天武天皇・持統天皇の宮)です。
現在は、後飛鳥岡本宮から飛鳥浄御原宮であったと考えられる遺構の一部が、石敷の広場や石組の大井戸として、復元整備されています。
この場所で、大臣である蘇我入鹿が中大兄皇子や中臣鎌足に暗殺されたと記録が残っています。

入鹿の首塚(いるかのくびづか)

入鹿の首塚(いるかのくびづか)

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先に述べたの乙巳の変で暗殺された蘇我入鹿の首塚があります。
現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥にあり、飛鳥寺の西門から西へ100m程度進み、飛鳥川との間にある五輪塔が蘇我入鹿の首塚と伝えられています。

乙巳の変の際に刎ねられた蘇我入鹿の首がここまで飛んで来たと言われており、蘇我入鹿が暗殺された飛鳥板蓋宮は、この首塚より約600~650mほど離れた場所。
そのため、超人的な飛翔力から祟りが恐れられて、首塚が建てられたと伝えられています。
五輪塔は、供養塔・墓塔として考えられ平安時代から多く使造られました。
この首塚の五輪塔自体は、鎌倉時代または南北朝時代の建立と言われており、高さ149cmの花崗岩製で下から、方形・円形・三角形・半月形・宝珠形の5つの石を積み挙げており、それぞれが地・水・火・風・空を表現しています。

甘樫丘(あまかしのおか)

甘樫丘(あまかしのおか)

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奈良県高市郡明日香村豊浦にある頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い丘。
この丘に蘇我蝦夷・入鹿の豪邸があったと言われています。
『日本書紀』に、644年に蝦夷・入鹿父子は、家を甘樫丘に並び建てて、蝦夷の館を上の宮門(うえのみかど)、入鹿の館を谷の宮門(はざまのみかど)と呼び、家の外に砦の柵を囲い、門の脇に武器庫を設けて、常時護衛が警護した要塞のような邸宅だったという内容が残されています。

乙巳の変で蘇我入鹿が暗殺された直後、蘇我蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれています。
現代になり、甘樫丘の東麓にあたる場所を調査した結果、焼けた建築部材・土器などが出土しています。
この位置が乙巳の変の際、中大兄皇子が陣取ったと伝えられる飛鳥寺と対峙することや、焼けた建築材や出土した土器の年代が、乙巳の変の時期に一致することなどから、この付近に蘇我宗家の邸宅が存在していたであろうことが想定されています。

石舞台古墳(いしぶたいこふん)

石舞台古墳(いしぶたいこふん)

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国営飛鳥歴史公園の石舞台地区の中にある日本最大級の横穴式石室を持つ飛鳥を代表する古墳。
この古墳は、蘇我蝦夷の父である蘇我馬子の墓と言われています。
石舞台古墳には、30数個もの巨石が積み上げられており、北側の天井にある石は約64トン・南側にある石は約77トンもの重量があります。
全ての石の重さの合計は、約2300トンにもなるそうです。
本来の姿は、土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたようですが、その土がすべて失われ巨大な横穴式石室が露出しています。

『日本書紀』には、「大臣薨せぬ。
仍りて桃原墓に葬る」と記載があり、大臣は蘇我馬子を指しているという説が有力です。
覆われていた土が剥がされ、墓が露出して暴かれたのは、乙巳の変以後の蘇我氏に対する懲罰であったとも言われています。
著者も訪れたことがありますが、地底に吸い込まれそうな入り口や巨石は圧巻ですので、ぜひ奈良県明日香村に行く機会がありましたら、訪れてみて下さい。

飛鳥寺(あすかでら)

飛鳥寺(あすかでら)

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現在の奈良県高市郡明日香村飛鳥にあるお寺。
蘇我馬子によって建てられた日本で最初の本格的な伽藍配の大寺院です。
法興寺・元興寺ともよばれており、現在は安居院(あんごいん)と言われています。
創建当初の飛鳥寺は,塔を中心として東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍配置だったと伝えられています。
寺域は東西約200m・南北約300mもありました。
百済から多くの技術者が集められて、瓦の製作や仏堂や塔の建設に関わったと言われ、この後に豊浦寺や斑鳩寺(法隆寺)の造営にも深く関わっていたとされています。
この飛鳥寺の仏像は、年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われており、金銅仏の釈迦如来像(飛鳥大仏)は有名な仏師である鞍作止利(くらつくりのとり)が造りました。
しかし,この貴重な仏像は、2度の火災にあい、顔の一部・左耳・右手の指3本だけが当時のまま現存しています。

この飛鳥寺は、大化の改新の始まりの地とも言えます。
中臣鎌足と中大兄皇子が最初に会話されたのが飛鳥寺周辺でした。
飛鳥寺西にある広場で行われた蹴鞠会 がきっかけで中大兄皇子と中臣鎌足は意気投合することになります。
そして、蘇我宗家(馬子・蝦夷・入鹿)の氏寺として創立されたこの飛鳥寺は、乙巳の変以後、蘇我氏の私的な寺から国家的仏教寺院へと変貌し、藤原京時代には四大寺院に数えられる大寺院へと発展します。
蘇我宗家滅亡後の飛鳥寺自体の存在価値が大きく変わり、大化の改新の影響を大きく受け寺院でした。

談山神社(たんざんじんじゃ)

談山神社(たんざんじんじゃ)

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奈良県桜井市の多武峰にある神社です。
祭神は中臣鎌足。
鎌倉時代に成立した寺伝には、たまたま飛鳥寺で蹴鞠会(けまりえ)があったとき、中大兄皇子と中臣鎌足が出会い、二人はこの多武峰の山中に登って、「大化改新」について談合をしたと伝えられています。
そして、後にこの山を「談い山」・「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなったと言われています。
中臣鎌足の死後、678年に長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの多武峰に移し、供養塔であり十三重塔を造立したのがこの神社の発祥です。
この十三重塔は、世界唯一の木造十三重塔として有名で重要文化財に指定されています。

この談山神社から御破裂山への山道が続き、その奥に中臣鎌足の墓所といわれる場所があります。
そして、談山神社から、少し歩いたところに中臣鎌足の息子の藤原不比等の墓といわれる石塔が残っています。
また、この談山神社には大化の改新にちなんだお祭りがり、4月29日に中大兄皇子と中臣鎌足が出会うきっかけとなったのが、飛鳥寺の蹴鞠会を真似て「けまり祭り」が開催されます。
また、談山神社の年中行事としておこなわれているこのけまりを、平安衣装を着て、実際に蹴ることが出来るけまり体験のイベント もあるそうなので、興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか?

近江神宮

近江神宮

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滋賀県大津市に鎮座する神社です。
皇紀2600年を記念して1940年に創祀され、中大兄皇子こと天智天皇が大化の改新の後に、飛鳥からこの近江大津宮に遷都したことにちなみ、天智天皇を祭神として創始されて神社。
天智天皇は、またの御名を天命開別大神と言い、この神社では、時の祖神・ 開運導きの大神・文化・学芸・産業の守護神として祀られています。
全国16社ある勅祭社の1社であり、4月20日の例祭は、宮中より天皇の名代として使者が来る由緒正しい神社です。

この近江神宮には、天智天皇が日本で初めて水時計を設置したことなどから、境内には各地の時計業者が寄進した日時計や水時計があり、時計館宝物館と近江時計眼鏡宝飾専門学校が境内に併設されています。
また、天智天皇は”秋の田の 仮庵の庵の 苫(とま)をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ”と小倉百人一首の第1首目を詠んだ歌人でもあるため、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位の決定戦が毎年1月にここで行われています。
百人一首・競技かるたとのかかわりが深く、最近人気のある漫画・映画の『ちはやふる』の舞台ともなっています。

中央集権国家の礎を築いた「大化の改新」!

いかがでしたでしょうか?「大化の改新」が誰がなぜおこなったのか。
序章であるクーデター乙巳の変からその後の、「改新の詔」の詳しい内容、そして、大化の改新にゆかりのある地について詳しくご紹介しました。
若き政治家である二人が目指した理想の国家建設には、その後も実に50年以上の歳月を要しました。
まさに「ローマは一日にしてならず」ですね。
興味がある方は、ぜひ一度、大化の改新のゆかりの地を訪れてみて下さいね。
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