日本で最も古い歌集『万葉集』の成り立ちと楽しみ方とは

『万葉集』をご存知ですか?名前だけは知っている方も多いはず。今から約1200年前につくられた日本最古の和歌集です。『万葉集』には、天皇から一般庶民にいたるまで様々な階級の人々の歌が4536首が集められており、古代日本人の心の原点を垣間見ることができる、とても貴重な書物です。今回は、『万葉集』の成り立ちや構成、代表歌人などを一緒に見ていきましょう。

『万葉集』とは

いつ頃、誰が編集したの?

『万葉集』は、いつ頃誰によって編集されたのでしょうか?
実は、正確にはわかっていません。
『万葉集』には、書物の本文の最初に添える文章である序文や、書物の本文の後ろに添える文章である跋文がなく、また同時代に書かれた他の書物にも『万葉集』について書かれたものがないからです。

しかし、『万葉集』の作歌の中には、誰がいつ読んだのかはっきりと明記されているものも存在するので、いつ頃成立したかが概ねわかります。
最も最新の作歌年月が明記されている歌は、759年1月1日の大伴家持(おおとものやかもち)の作です。
したがって、『万葉集』が759年以降に成立したことは間違いありません。

誰が編集したのか?これもはっきりとしたことはわかりませんが、様々な説があります。
橘諸兄(たちばなのもろえ)とする説、大伴家持とする説、橘諸兄と大伴家持二人で編纂したとする説があります。
しかし、『万葉集』は実に多くの様々な階級の人々の歌が編集されているので、それを一人の手で編集したとは、考えにくいのです。
様々な人の手を借りて、古代の人々の心を詠んだ歌集は作られたと想定されますが、巻第十七から巻第二十までは、大伴家持の歌日記のように編纂されており、巻第十六までにも大伴家持の父・旅人(たびと)や大伴家持の関係者の歌が多いので、最後に編集したのは大伴家持だとする説が現代では有力となっています。

中身はどのようなもの?

『万葉集』には、約400年にわたる(一番古い歌が磐姫皇后の歌と伝えるものですが、これは実作ではなく、後の時代の人が仮託した作と考えられます。
実質上の歌集時代は、629年に即位した舒明天皇以降と考えられ、万葉集最後の歌が759年の作歌年月なので、約130年間とも言えます。)全国各地、各階層の人の歌がおさめられています。
収録されている歌は4536首。
記名のある作者は約480人おり、天皇・皇后・貴族から、農民や乞食・防人など実に様々な階級の人々の歌がおさめられています。
この全国各地・様々な人々の歌という幅広さが、万葉の歌をより多彩な魅了を持たせ、他の歌集に見られない豊かな人間性を素朴に、率直に表現させているのです。
『万葉集』の「万葉」とは、「万(よろず)の言(こと)の葉」で「多くの言葉を集めた」とする説や、「葉」は「世」すなわち時代の意であり、「万世まで伝わるようにと祝賀を込めた」とする説などが他にも諸説ありますが、いずれも定説とされるものがなく、現在も様々な角度から研究が続けられています。

 

『万葉集』の歌は、「ますらをぶり」と言われるようにとても素朴で力強く、生命力溢れる伸びやかで大らかな趣が特色です。
ただ、一概にそうとは言い切れず、長い時代の中では、初期は古朴で力強く、後期は優美で柔らかくなっています。
そしてその柔らかさは、後に続く『古今和歌集』などの「たをやめぶり」と評される女性的で繊細優美な作風に変化していくのです。

『万葉集』の表記は、漢字の音と訓を漢字の意味ではなく表音的に用いており、今日では万葉仮名と言われている方法で書かれています。
万葉仮名は、まだ日本が独自の固有文字を持たなかったために、中国から渡来した漢字をそのまま日本語の表記に応用したものです。
そのため、その後の平安時代にはすでにこの万葉仮名は読解が難しくなり、久しく忘れられていました。
しかし、和歌の研究が進み、和歌の復興とともに『万葉集』は勅撰集と考えられて尊ばれるようになり表記方法の研究も進み、解読が勧められたのです。

『万葉集』の歌風

『万葉集』は、約400年間にわたる作品を収められています。
そのため、時代とともに歌風が変わっていきます。
一般的にその特徴は大きく四期に分けています。
詳しく見ていきましょう。

第一期

第一期は、「初期万葉」と呼ばれています。
第34代舒明天皇の時代(629年)から日本史最大のクーデターである壬申の乱(672年)までの時代。
この約40年間は、古代史の中で様々な出来事がありました。
645年の大化の改新から始まった様々な謀反や暗殺、白村江における敗戦、飛鳥から近江への遷都など内外ともに混沌とした時代でした。
しかし、同時に古代中央集権国家の基礎が固められた時代でもありました。
 

この第一期は、万葉歌風の萌芽期であり注目されるのは、大化改新ほか数々の事件との関係や貴重な伝説などの古代性にもありますが、今まで口頭のみで伝えられてきたようなことが、文字記録として残っていることにあります。
また、この第一期の歌は、集団性・口誦性が強く、古代歌謡や古代民謡との繋がり深く、また呪術的性格が強い歌が多いのです。
芸術的な価値がある優れた歌というよりは、初期万葉歌の多くが宮廷儀礼や民間習俗と深く結び付いており、自然を歌ったり、恋愛を歌っていても、言葉を呪術的に受け止めて自然観や霊魂観を強く意識した歌が多いのが特徴。
主な代表歌人としたは、おもな歌人として、天智天皇・天武天皇・額田王・鏡王女・有間皇子などが挙げられます。

第二期

第二期は、壬申の乱(672年)から平城京遷都(710年)までの時代。
第40代天武天皇・第41代持統天皇を中心とした時代です。
この時代は、古代史最大のクーデターであった壬申の乱を経て、律令制度が整いだし、天皇を中心として国家が安定と繁栄を迎えた時代でした。
この時期の歌は、万葉歌風の確立・完成期とも言われており、集団から個人の心情を詠うよう変化しており、そして万葉集の特色でもあるおおらかで力強い歌が多くなります。
また、口伝えで語り継がれた神話・伝説・民話などを中心とした口誦文学から文字で書き記される書物などの記載文学への転換期でもありました。
そのため、集団性や呪術的な意図を込めた歌が減り始め、個人の心情を巧みに表現する幅と深みを加えた歌が多くなっていきました。
代表的な歌人は、持統天皇・大伯皇女・大津皇子・志貴皇子・柿本人麻呂・高市黒人などが挙げられます。

第三期

calligra_kana (引用元:Instagram)

第三期は、平城京遷都(710年)から山上憶良(やまのうえのおくら)が亡くなる733年までの時代。
第二期の代表歌人柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が退場した和歌史にさまざまな個性を持った歌人が開花した時期です。
当時の中国の都である唐の長安京を真似して作られたとされる奈良の平城京において大陸文化の重要性が説かれ貴族や多くの役人たちの間で漢文の学習や漢詩文の述作が広く行なわれるようになった時代でした。
第三期の家風は、そのような中国文学の影響を多く受け、『万葉集』にあるやまと歌が、第二期に比べ、発想や表現が一段と明瞭となり、雅やかなで艶やかな表現がされるようになってきます。
宮廷貴族の間では、雅やかな歌が多く詠まれ、九州の太宰府などでは筑紫歌壇と言われる人々は個の憂悶や思想の表現を詠んだ歌を読み上げたり、各地の伝説や旅情を詠うなど、多彩で個性的な歌人が数多く活躍した時代でした。
代表的な歌人に山部赤人・大伴旅人・山上憶良・高橋虫麻呂などが挙げられます。

第四期

第四期は、734年から第47代淳仁天皇の時代である759年までと言われています。
この時代は、かの有名な東大寺の造営や奈良の大仏で有名な毘盧遮那仏開眼供養など華やかな出来事も時代である反面、藤原広嗣の乱・橘奈良麻呂の変なども起こり、政治が不安定だった時代でもあります。
この第四期は、万葉歌風の爛熟期と言われており、とても知的で観念的になっていきます。
万葉集の特徴とも言える強い生命力や迫力、素朴さは次第に薄れていきます。
歌人たちは繊細優美な歌を多く詠み、それは平安和歌への過渡期の様相を示しているといってよいでしょう。
この時期の代表歌人たちは繊細優美な歌を多く詠んでおり、これは平安時代以降の繊細優美な王朝和歌へと繋がっていくのです。
代表的な歌人として、大伴家持・大伴坂上郎女・笠郎女・中臣宅守・狭野弟上娘子など挙げられます。

万葉集の人々



額田王(ぬかたのおおきみ)

wisteria.miyabi (引用元:Instagram)

万葉初期の代表的な女流歌人です。
生没年は不詳。
鏡王(かがみのおおきみ)の娘と言われています。
天武天皇の妻の一人となり、十市皇女(とおちのひめみこ)を生みました。
後に天武天皇の兄である天智天皇に愛されて天智天皇に仕えたと言われています。
作品は、個人的な歌ではなく、斉明・天智天皇の時代の公的な場面において、天皇の代理・群臣の代弁者として歌を詠む専門的な宮廷歌人としての作品が多く見受けられます。

”熟田津尓 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜”

熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ、今は漕ぎ出でな

(熟田津で船出の時を待っている。
月が出てきて、都合よく潮の流れも良い。
さぁ、今こそ漕ぎ出そう。

この歌が詠まれたのは、「白村江の戦い」の時期です。
この戦いは当時の朝鮮半島で勢力を持っていた国々の争いに日本が参戦。
高句麗、百済、新羅、任那の4カ国がありました。
この4カ国の争いに日本からわざわざ出兵を参戦しました。
熟田津(愛媛県松山市の道後温泉付近にあった港)で旅の疲れを癒したのちに再出発する際に、兵を鼓舞し元気づけるために詠まれたと言われています。

また、以下の歌も大変有名な歌です。

”茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流 ”

茜さす 紫野行き標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る

(茜色のあの紫草の野を行き その御料地の野を歩いてるとき 野の番人は見ていないかしら あなたはそんなに袖を振をふらないで)

この歌は、額田王と前夫で大海人皇子(後の天武天皇)の有名な贈答歌。
この時、額田王は天智天皇の後宮に仕えていました。
大海人皇子は皇太弟で、天智天皇の次の天皇になるべき人でした。
「袖振る」というのは袖この時代では呪式であり、恋しい人の魂を自分のほうへ引き寄せることになり、求愛の表現として使われていた言葉でした。
今は兄である天智天皇の妻となっている額田王に、以前の夫である弟の大海人皇子が隠れて求愛しているという場面を彷彿とさせる一首です。
そして、この後、この兄弟は対立し、古代最大のクーデターである壬申の乱へと発展していきます。
そんな事情をもつ2人の三角関係が疑われる歌ですので、古来からさまざまな解釈がなされてきたようです。
しかし、最近では宴の戯歌だったという説が有力と言われています。

天武天皇(天武天皇)

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第40代天武天皇(622~686年)。
父はだ第34代舒明天皇・母は第35代皇極天皇・兄は第38代天智天皇(中中大兄皇子)・妻は第41代持統天皇です。
兄の中大兄皇子を補佐し、天皇中心の中央集権国家の樹立に貢献しました。
その後、兄である天智天皇と対立し、兄の息子である大友皇子と古代史最大の内乱である壬申の乱を起こし、勝利して天武天皇として即位しました。
天武天皇は、身分秩序を確立し・律令位階制導入に大変貢献したと言われています。
また、本格的な都である飛鳥浄御原宮を拡充・国史編纂などにも着手しました。
○○天皇や日本という称号もこの時期に成立したと言われています。
天武天皇が詠んだ歌で有名なのは、上記に挙げた額田王との贈答歌です。

”紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方”

紫の にほへる妹いもを 憎くあらば 人妻ゆゑに 我あれ恋ひめやも

(紫草のように美しいあなたを憎く思っているならば どうして人妻のあなたをこのように恋しく思うでしょうか。)

これは、額田王の「茜さす…」の歌に答えて天武天皇(当時は大海人皇子)が詠んだ歌です。
歌の意味をそのまま読み取ると、既に兄の妻となっている前の妻を今でも恋い慕っているという危険な求愛の意味ですが、先にも述べたように宴席での戯れに詠まれたよいうのが有力な説となっています。

また、天武天皇は言葉遊びのような歌も詠んでいます。

”淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見與 良人四來三”

よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見つ

(昔のすばらしい人が、よき場所としてよく見て「よしの」と名付けたのがこの吉野。
すばらしい人である君たちもこの吉野をよく見なさし。
昔のすばらしい人もよく見たこの場所を。)

早口言葉のような歌です。
歌が詠まれた場所は、現在の奈良県吉野町宮滝のあたりにあった吉野宮と言われています。
当時の吉野地方は、霊力に満ちた神聖で特殊な場所と考えられていました。
そのため、後に妻である持統天皇も何度も吉野へ訪れており、その霊力の恩恵に授かろうと言われています。
文字を自由自在に巧みに操り、当時の最高権力者である天皇の得意気な表情を彷彿とさせる一首ですね。

持統天皇(じとうてんのう)

第41代持統天皇(645~702年)。
父は在位は686~697年(正式即位は690)。
父は第38代天智天皇・夫は第40代天武天皇です。
夫である大海人皇子(後の天武t年王)が皇位継承争いのため、吉野に隠れ住む際にも行動を共にし、壬申の乱の際も数多くの妃の中でただ一人、夫と行動を共にしました。
夫である天武天皇が即位すると、673年に皇后となりました。
686年に天武天皇が亡くなると、皇太子である自身の子である草壁皇子への皇位継承を強く望み実姉の子である大津皇子など政敵を退けていきました。
しかし、草壁皇子が若くして亡くなってしまったため、遺児で自身の孫である軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承させるために、中継ぎとして自らが即位して持統天皇となります。
軽皇子が即位して文武天皇となっても太上天皇として政治の中枢を担っていたと言われています。
在位中に、唐の都に倣った藤原京への遷都・飛鳥浄御原令公布・国が農民に田を貸し出しする制度である班田収授法の開始などを実施しました。
中継ぎの女性天皇ではありましたが、政治力が優れており夫である天武天皇の偉業を継承し、精力的に国家の建設に取り組んだとされています。
持統天皇は、とても有名な歌が残されています。

”春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山”

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山

(春も終わり夏がやってきたようです 神聖な天の香具山に純白の衣が乾されているのが見えます)

百人一首にも歌われている有名な一首です。
(百人一首では、”春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香久山”と少し違います。)春は過ぎて夏がやってくるという自然の風景をそのまま詠んでいるように見えますが、実は夏を連れて来る神への祝いや感謝を含んだ祭祀的な意味合いが強いと言われています。
この歌からは、持統天皇の強い意志と気丈さ多才ぶりが伺えますね。

柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

『万葉集』では、大伴家持と並んで有名な歌人。
生没年不詳。
天智天皇から文武天皇のころに仕えた宮廷歌人と言われています。
柿本人麻呂は謎が多く、他の文献には記載がなく『万葉集』でのみ確認されています。
柿本人麻呂の歌の特徴は、枕詞・序詞・対句などを豊富に用いることで、中国文学や外来文化を上手に吸収しつつ、美しく巧みな言葉で飾って表現しています。
『万葉集』が集団の表現から個の表現へ、口誦文学から記載文学へと変貌する時期に活躍した重要な歌人です。
柿本人麻呂の
作は長歌役20首・短歌約60首と言われています。
しかし、これらすべてが人麻呂の自作ではないようです。
柿本人麻呂昔から人気が高く、死後『万葉集』の中では既に、伝説化されており、その後の和歌集『古今集』の序文では、早くから歌仙として神格化されています。
平安末期以降になると、人麻呂を祀る行事「人丸影供(えいぐ)」というものが当時の歌人たちによって催されるほどでした。

”東野炎 立所見而  反見為者  月西渡”

東の野に かぎろいの立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

(天空はるかに仰げば、東の野の果てに朝の光がさしそめ振り返って見ると、西の空の月はまさに下弦の月が傾隠れようとしている。)

この歌は、柿本人麻呂の長歌につけられた四首の反歌のうちのひとつですが、人麻呂の歌としてはもっとも有名なではないでしょうか?東の空には朝陽によって真っ赤に染まった空があり、振り返ってみると西の空には月が沈まずに残っている。
一見すると、自然よを詠んだ情景歌に見えますが、柿本人麻呂が詠みたかったのは、おそいままさに沈もうとしている月を亡くなった皇太子・草壁皇子に、東から昇る朝陽を息子である軽皇子に喩え、輪廻転生・親から子への皇位継承を詠んだ壮大な一首と言えるのではないでしょうか。

山上憶良(やまのうえのおくら)

百済からの渡来人と言われていますが真偽は不明です。
奈良時代中期に活躍した万葉第三期の代表的歌人(660~733年)。
遣唐使の一員として唐に渡りました。
その後、726年頃から筑前守(現在の福岡県周辺)となり同地に赴任します。
そこで大友旅人と出会い、「筑紫歌壇」と言われるグループを形成し、漢詩文・倭歌などを盛んに創作したと言われています。
74歳で亡くなったと伝えられており、死を前にして自分の作品を集めて家集を編纂し、そのほとんどが『万葉集』巻第五そのおのとなっています。
遣唐使だったこともあり、漢文学や仏教の豊かな教養があり、愛・貧・老・病・死・人生の苦悩や社会の矛盾を主題にしている作品が多く、農民や階級が低い人々への温かい真心が込もっている歌が『万葉集』に多くおさめられています。
”白銀母 金母 玉母 奈爾世爾 麻佐禮留 多可良 古爾斯迦米夜母”

銀も 金も 玉も 何せんに まされる宝 子にしかめやも

(銀も金も玉も、どれだけ勝っている宝も子供に及ぶことなどあるだろうか)

この歌は、山上憶良の歌の中でもとても有名です。
子を思う親心を表す歌として最も古い歌とも言われています。
銀も金もどのような宝石でさえも、子供の愛しさには敵わないとの思いは、現代の子供を持つ親なら共感できる素直な気持ちが詠まれていると思いませんか?

”憶良等者 今者将罷 子将哭 其彼母毛 吾乎将待曽”

憶良らは 今は罷まからむ 子泣くらむ それその母も吾あを待つらむそ

(憶良は、もう帰るといたしましょう。
子供が泣いているでしょうから。
いいえその子の母である我が妻も私を待っているでしょうから。)

この歌も教科書などに出てくるので知っている方も多いのではないでしょうか?この山上憶良の歌は、宴席から退出するときに詠んだ歌と言われています。
奈良の都の雅な作風とは、一風違った素朴で、子供や妻を気に掛ける人情味溢れた一首となっています。
現代のお酒の席でも「子供や妻が待っていますから。」と言われていますと引き止めるのが難しいですよね。

山部赤人(やまべのあかひと)

生没年は不明。
奈良時代の初期から中期の代表歌人です。
三十六歌仙の一人。
『万葉集』には長歌13首・短歌37首の計50首がおさめられています。
その作風は、叙景歌人と言われており、自然の風景を巧みに詠み込み
『万葉集』に新しい境地を拓きました。
この自然を繊細かつ優美に詠む作風はその後の平安王朝の歌人たちにも愛され、『古今和歌集』で紀貫之が、「人麻呂は赤人が上に立たむこと難く、赤人は人麻呂が下に立たむこと難くなむありける」と記されており、、柿本人麻呂より上と評価しており、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられていました。

”田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留”

田児の浦ゆ うち出て見れば 真白にそ 富士の高嶺に雪は降りける

(田児の浦を通って、見晴らしの良い所に出ると、真っ白な雪を抱いた富士山が見えたのだよ)

この歌をご存知の方も多いはず。
百人一首にも詠まれている歌です。
雪の降り積もる富士山の威厳と素晴らしさを詠んでおり、まるでこの歌を通してその情景が目に映るようですね。

”烏玉之 夜之深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴”

ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に千鳥しば鳴く

(夜が更けてゆくにつれて、久木の生える清らかな川原で千鳥がしきりに鳴いていることだ。)

この歌は、天皇の吉野行幸に付き添った際に詠んだ歌です。
この時代は、騒音や明かりもなく吉野の離宮では、夜は吉野川のせせらぎと千鳥たちの鳴く声のみが、真っ暗な夜の空気の中で神秘的に響いた情景を巧みに詠んだ歌と言われています。
神秘的な吉野の一夜を時代を越えて私たちにも伝えてくれる魅力的な一首となっていますね。



大伴家持(おおとものやかもち)

奈良時代の歌人。
父も有名な歌人である大伴旅人です。
『万葉集』第四期を代表する歌人であり、『万葉集』の編纂者とも言われています。
三十六歌仙のひとり。
大伴氏は、もともとは武門の家系ですが、父の大伴旅人・叔母であり女流歌人としても有名な坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などに影響され歌人として名を馳せます。
若い頃から華やかな恋愛を重ねたようで、叔母の坂上郎女の長女・坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)・笠女郎(かさのいらつめ)・紀女郎(きのいらつめ)など『万葉集』でも有名な女流歌人との相聞歌が数多き残されています。
『万葉集』には長歌・短歌など合計473首が収められており、『万葉集』全体の1割を超えています。
このことからも大伴家持が『万葉集』の編纂に拘わったと考えられているのです。
” 宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比里志於母倍婆”

うらうらに 照れる春日に ひばりあがり 心悲しも 独りし思へば

(明るくのどかに照り渡っている春の光の中を、雲雀が鳴きながらのぼってゆくて…心は切なさに溢れくる。
独りで物思いに耽っていると)

この歌は、今までの『万葉集』では見られない倒置技法と個人の主観的な感情を表現しており、自らの内面的な世界を伝える叙情詩的な作風となっています。
楽しそうにさえずっている雲雀と、作者の内面にある物寂しさが実に巧みに対比されています。

”新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其

騰”

新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事

(新しい年の始めの初春の今日、今降っている雪と同じように一層めでたい事が沢山ありますように)

この歌も、教科書などで見かけた方も多いではないでしょうか。
当時、新年に降る雪は縁起がよいとされていました。
このことから、縁起のよい雪と同じように吉事も沢山ふりかかってきますようにと願いをかけた歌と言われています。
この歌は、『万葉集』の最後を飾る歌であり、万葉の時代のおおらかな作風と、その後の古今集などの歌との橋渡しをしているように思えます。

古代の人々の美しい心に触れる歌集をぜひ詠んでみて下さい!

いかがでしたでしょうか?『万葉集』の成り立ちから歌風、代表的な歌人や歌について紹介してきました。
原文は詠めませんが、沢山の現代語訳の歌集が出版されています。
ぜひ古代の人々の美しい琴線に触れてみて下さい。
そして、歌集を持って麗しの奈良に行ってみてはいかがでしょうか?