【書評】村上龍“「普通の女の子」として存在したくないあなたへ”に隠されたタイトルの謎

本書のタイトルを見て惹きつけられた方は、目次を見て驚き、少し読んで落胆してしまうかもしれません。そこには、著者である村上龍が訪れた国や場所が並んでおり、自身による作品の話題が続いているからです。果たして、「普通の女の子として存在したくない」件はどこへ行ってしまったのか、これから少しずつ探っていきたいと思います。

“「普通の女の子」として存在したくないあなたへ”の楽しみ方

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本書は1990年代にマガジンハウスより刊行された雑誌“anan”に連載された村上龍のエッセイをまとめて書籍化したものです。
著者自身がその時に関心のあることを徒然なるままに書いているようで、キューバ、アメリカ、ヨーロッパ諸国、または自身の作品が主なテーマとなっています。
そういった内容も充分読み手を惹きつけてくれる一方、「普通の女の子として存在したくない」件は一体どこへ行ってしまったのかという疑問は隠しきれません。

しかし、何となく文字を追っていた読者の意表を突くように、突然はっとさせる言葉が登場するのです。
例えば、“「トパーズ・ナイト」から”というタイトルのエッセイを少し引用します。
“トパーズ”という自身の作品についての話題が徐々に発展して、次の言葉につながります。

”ヘラヘラと笑う自分が許せない、こんなことで楽しむ自分が許せない、こんな人間と一緒にいる自分が許せない、こんなところはイヤだ、別の場所に行きたい”(中略)”自分を許せない時期はつらいが、その果てにしか素敵な笑顔はないのだ”

子供から大人への成長過程では、自分と他人を比較したり、社会の矛盾にぶつかったり、自分の無知や無力に直面したりして、ひどく落ち込むことがあると思います。
生き方に悩み葛藤することに対して、著者の言葉は「それでも良いのだよ」と、そっと背中を押してくれるような温かさがあります。
諸外国や著者の作品について知りたい方はもちろん、不意に出くわす格言めいた言葉を求めて、宝探しのように読み進めるという楽しみ方もできるのではないでしょうか。

イジメの定義 ~ニースVS.日本~

イジメの定義 ~ニースVS.日本~

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著者の諸外国に対する見解については注目しないわけにはいきません。
実際にその国へ出向き、空気を感じ、ネイティブな人たちと触れ合うことで味わう現地の様子は、新聞やニュースで知る世界とは異なることもあるようです。
例えば、南フランスにあるニースという町で撮影をした時の話を少し紹介します。

スウェーデンやカナダなど各国から集まった4人のモデルについて、その関係性に言及しています。
4人の中でドイツ出身のモデルがやや孤立していたそうです。
英語力が劣り、モデルとしても格下だったそうですが、彼女が輪の中に溶け込めないことは、イジメではなく、ただ話がかみ合わないだけだと説明します。
そして、もしも日本ならこれはイジメに値すると続けます。
日本的なイジメというのは、「偶然成立したグループでも、とにかくみんな仲良くしなければいけない」という大前提がある場合に起こるものだというのが著者の分析です。

国が違えば文化や価値観も変わります。
仲良くできない相手がいること、人間関係にうまく溶け込めないことは、日本では背徳感や罪悪感を誘いますが、それは絶対悪ではありません。
この話の顛末としては、ドイツ人の孤立した女性は、4人の輪に入ることを諦め一人で過ごすことを選びます。
単なる挫折として終わることはなく、前向きな方向転換をしたわけです。

今あなたが抱えている問題や悩みは、限られた社会でのみ通用するルールや習慣、思い込みに過ぎない場合もあると著者が示唆しているように思えます。

幸せの定義 ~キューバVS.日米~

アメリカにあるニューヨーク州と、中央アメリカに位置する島国であるキューバを比較する内容も印象的です。
物質文明の象徴としてニューヨークを位置付け、高級レストラン、高級車、高級ファッションをステイタスとして上を目指す価値観に疑問を投げかけています。
キューバは貧しいけれど、物質的な豊かさだけが幸せではないと思わせてくれる力があるのだと著者は言っています。

著者がキューバを語るときに、音楽は欠かせないようです。
キューバの音楽は上手でやさしくて、明るくて、強いのだとか。
日本やアメリカの音楽とは違うと断言します。
日米の音楽に対する著者の見解は偏っている印象もあり、賛否があると思いますが、ここまで褒め称えるキューバ音楽に興味を持たざるを得ないことは確かです。

もちろん、ニューヨークとキューバと日本を比較してどちらが幸福なのか、どちらが優れているのかを議論したいわけではありません。
著者はキューバの首都ハバナの名誉市民をやっており、キューバに対する思い入れが強いことは歴然です。

ここで重要なことは、色々な社会があり、色々な価値観があり、色々な世界があるということ、私たちが生活している場所は世界のほんの一部に過ぎないのだという事実ではないでしょうか。

説教を信じてはいけない ~村上龍による唯一の教え~

エッセイに付けられた個々のタイトルには、通常、関連のある場所等が含まれています。
例えば“セントラル・パークを見下ろす部屋から”といったように。
ただし、最後のエッセイだけは、“じゃあまた、どこかで”というものです。

行間のあるトリックを使われると何か期待してしまいます。
いよいよ「普通の女の子として存在したくない」件がメインテーマなのでしょうか。
著者は連載を振り返ってこう話します。
“一回目から、自分より年下の女性を想定して書いていったわけだが、気をつけたことと言えば、「レクチャー」や「お説教」にならないように、ということだった”。

なるほど。
ここにきて、やっとからくりが解けたような安心感がありました。
著者は「お説教」を避けていたのです。
これまでに触れてきましたが、本書は「普通の女の子として存在したくない」という論点を見失い、キューバは最高だと著者の趣味について一方的に語り続けているような印象がありました。
格言めいた言葉が文脈を超えて唐突に現れるのも、その表現が示唆的なのも、直接的な「レクチャー」を避けた結果なのかもしれません。

「説教」という行為は、他の角度から見ると価値観の押し付けに他なりません。
説教をして喜ぶのも安心するのも、実は説教する側だけだというのはよくある話ではないでしょうか。

この最後のエッセイには、説教を信じてはいけない理由がとても巧みに表現されています。
著者らしい少し極端な論理ではありますが、筋は通っていると思います。
興味のある方は是非、著者の力強い言葉で読んでみて下さい。

実直すぎる解説 ~女優石田ゆり子がつむぐ言葉~

本書は、女優である石田ゆり子が書いた解説により幕を閉じます。
約7ページに渡る彼女の文章は、等身大の言葉を選ぶことにより、読み手の心に自然と溶けこみ、エッセイの内容をうまく補ってくれます。
恐らく20代後半で解説を書いていたのだと思われますが、彼女は一貫して、「普通の女の子として存在したくない」という言葉を言及しつづけます。

著者自身がキューバの話に熱が入り、直接的に語らないその言葉の意味を、自身の人生と照合して解釈しようとする彼女の姿は、一切の見栄がなく実直過ぎると言わざるを得ません。
そして、導き出された彼女の答えには大きく共感します。
詳しい内容は本書で確認して頂きたいのですが、印象的な言葉を一つだけ引用します。

“「普通の女の子として存在したくない」皆さん、あなたがあなた自身でありますように。
私も、私が私であるために、頑張る。

このシンプルでありながら力強い言葉が、本書の後味の良さを支えていると言っても過言ではないでしょう。
この解説を書いてから約20年経った今、彼女自身がとてもキラキラとしている事実にも救われる思いがします。

「普通の女の子として存在したくない」という言葉を考えるとき、「自分は普通でない」という発想自体が「普通である」というパラドックスが潜んでいます。
また、「自分を特別な人間だと思いたい」という若者にありがちな無知な特別意識と混同されることもあるかもしれません。
でも、そうではなく、「自分らしく生きたい」という、ただそれだけのことなのだと、それがとても難しいのだと、彼女が教えてくれているようです。

「普通の女の子として存在したくない」生き方とは

社会の壁に直面したとき、自分を貫こうが、自分を殺そうが、いずれにしても人は傷付きます。
そういう姿に真摯に共感した上で、「そんなことより世界は広いし、楽しいよ」と著者は笑っているような気がします。
果たして、「普通の女の子として存在したくない」というのは、「自分らしく生きる」ことの同義なのか、是非、本書を手に取って、その答えを探してみて下さい。
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