まるで虎が横になってるようなずんぐりフォルム!あの超有名将軍もここから出た和歌山城の歴史

和歌山城はどこにあり、どの様な建物が残り、遠目に見るとどのような姿に見えるのでしょうか?また紀伊の国は安土桃山時代にはどの様な背景がありどんな人物によって征伐され、その後はどんな人物によって建てられ治められたのでしょうか?さらに関ヶ原の合戦の後は誰に支配され、御三家紀州徳川家とはどんな家で、ここからどんな人物が出てきてどう紀州を治めたのか?また実際に和歌山城に行ってみると、どんな楽しみがあるのか?それらについて説明していきたいと思います。

和歌山城はどんな城?どんな天守を持っている?

虎が臥した様に見える和歌山城はどんな城?

92750:虎が臥した様に見える和歌山城はどんな城?

撮影/カワタツ

和歌山城は和歌山市内の中心部の虎臥山(とらぶすやま)の上にそびえ立ち、その名の通り、海の上から見ると虎が寝そべっている様に見えるそうです。

大阪からのアクセスの場合、新幹線を新大阪駅で降り地下鉄御堂筋線で難波まで行き、南海電車の特急に乗り換えて(指定席もあります)和歌山市駅まで一時間半ほど。
もしくは新大阪から特急スーパーくろしおに乗って和歌山駅まで1時間20分です(紀州路快速に乗る場合は、関西国際空港に行く車両に乗らない様に気をつけてください)。

豊臣秀吉が紀州を平定したとき弟の秀長に築城させたのが始まりで、その築城を担当したのは築城の名人・藤堂高虎。
さらに秀長の城代・桑山重晴(くわやましげはる)が入り、関ヶ原の戦いで功をたてた、浅野長政の息子幸長(よしなが)が入城。
そして徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し紀州55万5千石の城となって以来、水戸・尾張と並ぶ徳川の御三家の城となり、江戸幕府の8代将軍・徳川吉宗を輩出しています。

和歌山城の石垣には、紀州の特産である青石(緑泥片岩)が多く使われ、天守閣に登ると和歌山の街なみが見渡せ、紀ノ川がゆったりと流れているのがよくわかります。
まずここで和歌山市の全体を頭に入れて観光を始めるのもいいかもしれません。

それでは、この和歌山城にはどんな建物が残っていて、どんな歴史があるのでしょうか?まずは天守をはじめとする城の建造物を見ていきましょう。

和歌山城にはどんな建物がある?

伏虎像と御橋廊下はどんなもの?

92751:伏虎像と御橋廊下はどんなもの?

撮影/カワタツ

それでは城にある建物を紹介していきましょう。
今日山上にそびえる建物群は昭和33年(1958年)に復元されたものです。
私が和歌山城に行った時は一の橋を渡って大手門をくぐって城に入ったのですが、そこから順番に説明していきます。

浅野・徳川時代を通して、和歌山城の表門の一の橋の南詰めに建つ大手門は、明治42年(1909)自然倒壊。
しかし昭和58年(1983)一の橋と共に再建工事され復元されました。

天然記念物の大楠の前を通るとT字路の奥に伏虎像があります。
江戸時代、和歌山城は「虎伏竹垣城」とも呼ばれ、これは和歌山城の建つ山が虎が伏した姿に似ていたため。
この和歌山城の別名にちなみ、伏虎像は昭和34年に作られました。
(現在の像は二代目にあたり、初代の像は銅製だったため、第二次大戦中に供出させられました)

ここでT字路を西に曲がり、二の丸庭園の方へ。
庭園の中にある御橋廊下(おはしろうか)は、江戸時代に藩の政庁や藩主の生活の場である二の丸と、紅葉渓庭園のある西の丸(私が行った時たまたま紅葉の時期だったのですが、綺麗な庭園でした)を、藩主とお付の者だけが行き来するために架けられた橋で、屋根を設けて外からは見られない様な造り。
全国的にも珍しい斜めに架かる橋で、角度が約11度あるため滑り止めの段差がつけられていますが、それでも危ないので気をつけて渡りましょう。
私も入ってみましたが、内部は小さい窓が付いている程度で外からはあまり見られない構造になっています。

和歌山城の門と石垣はどのようなものがある?

92752:和歌山城の門と石垣はどのようなものがある?

撮影/カワタツ

さらに、城を回る順番とは違ってしまうのですが、門や石垣について説明します。

和歌山公園は5か所の入口があり、昭和32年に重要文化財とされた南東の岡口門はその中でも堂々とした構えで、浅野幸長入城後に大手門(表門)として創建されますが、徳川頼宣入城のとき一の橋を大手門とされたため、搦手(からめて)門(裏門)にされて改修され、現在に至ります。

西側の追廻門は、冠木門(かぶきもん)とも呼ばれ、柱に本瓦葺きの屋根を乗せたもの。
櫓が左右にないのが特徴で、その昔、道の向かい側に馬術の稽古場があったので「追廻門」の名がついたのです。

城の石垣の石の積み方にも変化が見られます。
二の丸庭園前には一見乱雑な様に見える「野面積み」(のづらづみ)の石垣。
これは創建期のものと思われます。

そして大手門をくぐり城内へ入った所には「打ち込みハギ」。
これは大きな石の間に小さな石を詰めたもので、さらに歩くと江戸時代の「切り込みハギ」が美しく積み上げられており、また石垣には転用石や、刻印が約170種類2100個以上もされているのを見ることができます。

和歌山城天守はなぜ「ずんぐり」している?

92753:和歌山城天守はなぜ「ずんぐり」している?

撮影/カワタツ

そして、二の丸庭園から急な裏坂を通って天守の方へ登っていくことにしましょう。
裏坂は急な石段で、私は実は下りの時に通ったんですが、なかなか降りるのに時間がかかったのを覚えています。

坂を登って辿り着いた和歌山城の大天守は、三層三階作りで堂々としていますがずんぐりした印象で、これは天守台平面の一階が十間半に十間と大きいため。
この大きさなら五層の天守が建てられるのですが、実際に頼宣造営の天守は弘化3年(1846年)に落雷で焼失。
翌年に五層天守を造営する目的でその設計図が作られましたが、幕府の意向を配慮して五層天守の石垣台の上に三層天守を再築したわけで、大天守は横の広がりが大きいのです。

天守は虎伏山の頂上に位置し市街地を東西南北に見渡すことができ、大パノラマが広がり、現在の天守閣は終戦後に再建された物で内部には徳川家のゆかりの品の展示が多数あります。

天守曲輪には大天守のほか二層の小天守、乾櫓、二の門櫓、楠門(くすのきもん、二の門)がそれぞれ多聞櫓(たもんやぐら)で結ばれ、横広がりで安定感のある連立式天守を形成。
私が行った時も天守の中に入って廊下でぐるっと一周できる様になっていて楽しかったです。
なお、復元されている天守以下の建造群のある天守曲輪とは別に本丸が存在。
虎臥山の東側の丘上の、現在水道水貯水池のある辺りで、普通は天守曲輪は、姫路、伊予松山・津山城の様に本丸の奥に詰めの城的に置きますが、和歌山城は本丸と天守曲輪が並立する並郭式縄張りなのです。

和歌山城の歴史、紀州征伐に至る背景

一つの支配勢力を持たなかった紀伊の国

92754:一つの支配勢力を持たなかった紀伊の国

撮影/カワタツ

では次は和歌山城の歴史について説明していくのですが、まずは織田信長と豊臣秀吉の紀州征伐の背景から説明していきましょう。
仏教信仰の強い16世紀後半の紀伊では宗教勢力が「大いなる共和国的存在」であり、例えば高野山、粉河寺(こかわでら)、根来寺(ねごろじ)、雑賀衆(さいかしゅう)などがあります。

紀伊の武家勢力は守護畠山氏をはじめとする国人衆が挙げられ、室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官(上級武士に仕えた下級武士)になったものと畠山氏から独立した幕府直属の奉公衆に分かれていました。

室町時代を通じ、畠山氏は寺院勢力と妥協しながらも紀伊の領国化を進め、奉公衆らも応仁の乱前後から畠山氏の出兵の呼びかけに応じ、守護権力を支える立場に変化。
一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と長期間の抗争が大きく響き、また複数の寺院勢力の存在も強力で、武家勢力から紀伊一国を支配する戦国大名は出てこず、国人衆は、畠山氏が守護として出兵を呼びかける権限を認めながらも、所領経営においては自立した存在でした。

中世においての寺領は、朝廷も幕府も無断で立ち入れない聖域。
政治権力に寺院内部への警察権はなく、軍事力の介入も許されず、また政府の徴税権も及びませんでした。
このように寺院の境内は苦境にある人々の避難所で、境内には貧しい人も富裕な人も、さまざまな人々が流入し、文化的な先進性と結びつき都市的な発展を遂げ、有力寺社は政治的中立・軍事的不可侵に守られて強い経済力を持つようになり、高野山や根来寺は、典型的な「境内都市」となります。

信長と紀伊の勢力との戦い

92755:信長と紀伊の勢力との戦い

撮影/カワタツ

一方、元亀元年(1570年)に始まった石山合戦は本願寺優勢に進み、本願寺を攻めあぐねていた織田信長は戦局を打開すべく、本願寺の主力である雑賀衆の本拠で、兵員・物資の補給拠点である紀伊雑賀(現和歌山市を中心とする紀ノ川河口域)に狙いをつけました。
「雑賀を攻略すれば本願寺勢は食料や弾薬が尽き、苦しむ」と考えたのです。

天正4年(1576年)5月頃から織田方の寝返りへの工作が始まり、翌年2月までに社家郷・中郷・南郷の雑賀三組を寝返らせることに成功しました。
同年2月2日、信長は雑賀の残り二組を攻略すべく大動員をかけ、17日に雑賀衆の前衛拠点がある貝塚を攻撃しましたが守備兵は前夜のうちに海路紀伊へ退却していたので空振りに終わりました。

織田勢は中野城を包囲し中野城は開城。
3月1日、織田勢は平井の鈴木孫一(鉄砲の名手として有名)の居館を攻撃。
山手の織田勢は根来に進み、紀ノ川を渡って東側から雑賀に迫りましたが、大きな損害を受けた織田方は退却しました。

その戦局は膠着状態となりましたが、鈴木孫一ら7人の連署で信長に誓紙を出したことで、信長が大坂本願寺での事態の配慮を条件に降伏を誓ったため、信長はゆるしましたが、足利義昭や毛利輝元は「織田方は敗北した」と天下に言いふらしました。

しかし半年もせず再び雑賀衆が挙兵。
同年7月、雑賀荘・十ヶ郷が中心の雑賀衆が兵を動かし、先に信長方となった三組へ報復し、信長は佐久間信盛父子を大将に再び雑賀を攻めましたが、この時も制圧に失敗しました。

信長から秀吉に受け継がれた紀州攻め

大坂を焼かれるなど紀州勢に手を焼いた秀吉

大坂を焼かれるなど紀州勢に手を焼いた秀吉

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天正8年(1580年)に本願寺と信長が和睦し、雑賀では鈴木孫一と土橋若大夫が対立しますが、孫一が勝って決着。
信長の力を得た孫一が主導し、織田信孝の四国攻めで雑賀衆は船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていきます。
その後信長は高野山も攻めますが、その間に本能寺の変が起こり信長が死に、高野山は危機を脱しました。

室町時代、根来寺は紀伊・和泉において最盛期を迎えていて、根来衆と呼ばれる強力な僧兵武力と大量の鉄砲を持ち、信長とは友好を保っていましたが、秀吉には警戒され、秀吉側は根来寺を攻略する機会を伺っていました。

雑賀衆の内部の力関係も本能寺の変により一変。
親織田派の雑賀孫一が逃亡したため、これ以後雑賀は反織田派だった土橋氏らが主導し、領土の境界線などをめぐり関係の悪かった根来・雑賀の協力関係が生まれました。

天正11年(1583年)、これに対し秀吉は中村一氏を岸和田城に入れ紀伊に対する備えとし、以後、岸和田勢と紀州勢がたびたび小競り合いし、同年秋頃から紀州勢の動きが活発になり、秀吉の岸和田勢と紀州勢・泉南の地侍らが衝突し、岸和田勢が紀州勢を退けました。
紀州勢に淡路の菅達長の水軍も加わり水陸から岸和田・大津を脅かしますが、大津の地侍真鍋貞成が撃退。

さらに26日には紀州勢は住吉や天王寺に進出して大坂城留守居の蜂須賀家政・生駒親正・黒田長政らと戦い、この頃まだ未完成の大坂の町は全くの無防備で、紀州勢は大坂の街を破壊し焼き払いながら侵攻。
しかし大坂は最終的には守られ、堺・岸和田からも紀州勢は撤退。
この戦いを岸和田合戦といいます。
秀吉が小牧・長久手の戦いに出陣しようとした矢先に侵攻され、秀吉は一度は大坂を出立しますが、その後また大坂に戻る羽目になりました。

手こずらされた紀州勢に対し秀吉はどう処分した?

天正13年(1585年)2月、秀吉は小早川隆景に対し、毛利水軍の岸和田への派遣を命じ、隆景は3月1日に隆景自ら率いる毛利水軍が出陣。
秀吉は根来寺に和睦の使者を派遣しましたが、反対派が鉄砲を打ちかけ使者は京都に逃げ戻り、ついに秀吉の紀伊侵攻が開始。
秀吉自ら指揮する100,000人、先陣は甥の羽柴秀次、浦手と山手の二手から23段に布陣、さらに小西行長を水軍の将とし、海陸両面から根来・雑賀を攻めました。

3月20日、先陣の秀次勢は貝塚に到着。
21日、秀吉は大坂を出陣し、岸和田城へ。
まず防衛線の東端にあたる千石堀城(せんごくぼりじょう)で攻防が始まり、猛烈な射撃により、上方勢は多数の死傷者を出し、田中吉政・渡瀬繁詮(わたらせしげあき)が突撃するも多数が討ち死に。
この時、筒井勢の中坊秀行と伊賀衆が城内へ火矢を射込み、これが煙硝蔵に引火し爆発したため城は炎上し落城。
城内の人間は焼け死に、討って外に出た城兵はことごとく戦死し、さらに秀吉の命令で、城内の者は非戦闘員はだけでなく馬や犬猫まで全滅。
秀吉が怒り狂うほどに紀州勢に手を焼いていたのですね。

千石堀城が落ちた21日夜、畠中城では城兵が城を自焼して退却。
同じ日の夕刻、防衛線の中核たる積善寺城(しゃくぜんじじょう)でも戦闘が始まり、22日、貝塚御坊の住職である卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)の仲介により積善寺城は開城。
西端の沢城では中川秀政が自ら陣頭に立ち攻城に当たり、二の丸を破って本丸に迫りました。
追い詰められた城兵は投降を申し出て23日に開城。
沢城の開城により和泉の紀州側城砦群は全て陥落しました。

その後も紀伊で一揆が頻発したのはなぜ?

3月23日、和泉制圧を見届けた後秀吉は根来寺に向かい、ほぼ無抵抗で制圧。
その夜に根来寺は出火して炎上し、本堂、多宝塔(大塔)や南大門など一部を残して灰になりました。
雑賀荘も「雑賀も内輪散々に成て自滅」と評される最期を遂げ、高野山も降伏。

太田城の攻防戦では犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するため水攻めが行われ(備中高松城と忍城だけではなかったのですね)、しかし一度破堤したため籠城側は神威を信じて粘り強く抵抗。
小西行長の水軍が一時は城域の大半を占拠しこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し降伏。
主だったもの53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされ、また主な者の妻23人を磔(はりつけ)にかけられました。

その他の地域もおおむね上方勢により制圧され、紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じます。
羽柴秀長が紀伊一国の領主となり、秀長は藤堂高虎の奉行で和歌山城を築城させ、その城代に桑山重晴を任じました。
秀長の天正検地は天正13年閏8月に始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化します。

しかし4月末、湯河直春が反攻したため、四国征伐軍の一部が紀伊に向けられますが苦戦し、湯河氏らを制圧することはできず、和議を結んで湯河氏らが本領を安堵されました。
天正19年(1591年)に秀長が死ぬと、養子の秀保(ひでやす)が後を継ぎますが、秀保も文禄4年(1595年)に急死。
紀伊はその後秀吉の直轄地となり、増田長盛(ましたながもり)が代官として支配を行いました。

この戦いで紀伊の寺社・国人勢力はほぼ屈服・滅亡しますが各地の地侍はその後もしばしば蜂起。
守護の支配さえ名目だけだったのが豊臣秀長領、そして秀吉直轄領となって天正検地や刀狩が行われ、次の浅野氏の時も慶長検地が行われ、地侍たちは財産を削られ社会的地位も否定され、急速的な近世的支配の反動が土豪一揆として噴出しました。

和歌山城の築城に関わった三人の人物とは?

和歌山城築城を命じた羽柴秀長とはどんな人?

ここからは紀伊・和歌山を治めた羽柴秀長と家臣桑山重晴、藤堂高虎について見ていきましょう。

羽柴秀長は秀吉の異父弟として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれ、天正元年(1573年)、秀吉が長浜城主となると城代を務め、この少し後で藤堂高虎が秀長の元へ仕官。
天正2年(1574年)、秀吉の代理で長島一向一揆の討伐に出陣。
翌年、羽柴の名字を与えられます。

秀吉の中国攻めのときは山陰道と但馬国の平定を指揮、秀吉にとって最重要の人物となり、天正5年(1577年)に秀吉とともに播磨国に赴き、その後は但馬攻めに参戦。
竹田城の落城後は城代に任命され、三木合戦の後に山名氏が滅ぶと出石城主となり、また鳥取城攻め、備中高松城水攻めに参加。
山崎の戦いでは秀吉とともに中国大返しの軍に参加し黒田官兵衛とともに天王山を守備。
賤ヶ岳の戦いや小牧長久手の戦いにも参加し、紀州征伐の後に秀吉から紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられ、藤堂高虎を普請奉行に任命して和歌山城を築城します。

四国攻めでも秀吉の代理で10万を超える大軍勢の総大将とされ、長宗我部元親を降伏させた功績を賞され、播磨国、但馬に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入ります。

従二位、大納言の官位を得て、大和大納言と称されますが、この頃から体調が崩れやすくなり、天正15年(1587年)の九州平定では日向方面の総大将として出陣。
天正16年(1588年)、紀伊の雑賀で吉川平介が、秀長に命じられた熊野の材木2万本の売買の代金を着服し秀吉の耳に届き、吉川が処刑。
この責任を秀長も問われ、この頃から秀吉とは不和に。

天正18年(1590年)1月頃より病が悪化、小田原征伐には参加できず、天正19年1月22日(1591年2月15日)、大和郡山城で秀長は病死。
享年52。
家督は甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保が継承しますが4年後秀保が早世し、秀長の家系はこれにより断絶。
金子56,000余枚、銀子は2間四方の部屋を満杯にする程の金銀が、大和郡山城には備蓄されていたといいます。
秀長は節約してお金を貯めることが得意な人だったのですね。

秀長の家臣で和歌山城代となった桑山重晴とは?

桑山重晴は織田信長の家臣・丹羽長秀に与力として仕え、姉川の戦いなどで活躍し、羽柴秀吉は冷静沈着な戦いぶりを賞賛。
天正2年(1574年)に秀吉の要請で羽柴家へ移り、天正8年(1580年)には但馬国竹田城主となり1万石を与えられました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで武功を挙げ、2万石に加増、天正13年(1585年)には紀州征伐の後に秀吉の弟・秀長が紀伊の領主になると、同年5月に秀吉から秀長の家老となることを命ぜられ、3万石への加増を受けて和歌山城代に。

文禄4年(1595年)7月8日、謀反の疑いの釈明のために豊臣秀次が伏見城を訪れた際、伏見城大手門の守備を任されたことで、和泉国日根郡谷川の1万石を加増され、4万石となりました。

慶長元年(1596年)に出家した後は桑山治部卿法印を名乗り、同年5月11日、嫡孫の一晴に修理大夫の官位を譲り、一晴に2万石、次男の元晴には1万石を分与、重晴は1万石のみを治めた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、一晴から4000石、元晴から2000石を譲り受け、1万6000石を治めることに。

慶長11年(1606年)10月1日、死去。
享年83。
谷川の所領を次男元晴が6000石、その子で孫の清晴が1万石を相続しました。

和歌山城を築城した藤堂高虎とは?

和歌山城を築城した藤堂高虎とは?

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同じ秀長の家臣で和歌山城を築城した藤堂高虎は、はじめ近江の浅井長政に仕え、姉川の戦いで武功を挙げ、浅井氏が織田信長に滅ぼされると、浅井氏の旧臣の阿閉貞征(あつじさだゆき)、さらに磯野員昌(いそのかずまさ)の家臣として仕えました。
やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄(のぶずみ)の家臣として仕えるも長続きせず仕官先を転々。
流浪生活の間、無銭飲食の話も残っています。

天正4年(1576年)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長に300石で仕え、天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討ち3,000石を加増され鉄砲大将となりました。
中国攻めなどに従軍し、賤ヶ岳の戦いでは佐久間盛政を銃撃、敗走させこれが抜群の戦功となり1,300石を加増されました。

天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ、高虎の最初の築城となる猿岡山城、和歌山城の築城の普請奉行に。
同年の四国攻めでも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され1万石の大名となり、方広寺大仏殿建設の際、熊野からの材木調達を秀吉から命じられています。

天正14年(1586年)秀吉に聚楽第の邸内に、上洛する徳川家康の屋敷を作る作事奉行に高虎が指名されると、高虎は警備上の難点がある設計図に気づき、費用は自分で持ち出し独断で設計を変更。
家康に引見され設計図と違うことを尋ねられたとき「天下の武将・家康様に御不慮があれば、主人秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると思い、私が変更いたしました。
御不興ならば、ご容赦せずお手討ちにしてください」と返し、高虎の心遣い家康はに感謝したといいます。

天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで活躍し2万石に加増され、さらに秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任。
天正17年(1589年)、北山一揆鎮圧のため赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城し高虎によって多数の農民が斬首にされ、処罰の厳しさが歌となり残っているほど。

天正19年(1591年)に秀長が死去した後は甥で養子の秀保に仕え、翌年の文禄の役に代理として出征。
文禄4年(1595年)に秀保が早世し秀長の家系が断絶すると、高虎は出家して高野山に上るも、秀吉が将才を惜しんだため還俗することとなり5万石を加増され、伊予国板島(現在の宇和島市)7万石をさらに加増され、和歌山を離れます。

関ヶ原の戦いの後の和歌山はどのように治められた?

関ヶ原の後和歌山に入った浅野幸長とは?

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いの後、東軍に属した桑山重晴の孫の一晴は、正式に紀伊和歌山に2万石を与えられましたが、ほどなく大和新庄藩に転封。
その後、同じく東軍に属した浅野幸長(あさのよしなが)が37万6千石を与えられ紀州藩主となり入城しました。

浅野長政の長男である幸長は、父は秀吉の正室・ねね(高台院)の義弟で、天正18年(1590年)の小田原征伐で初陣し、父とともに岩槻城を攻め、文禄2年(1593年)の文禄の役では、朝鮮へ渡り西生浦(せいせいほ)を守り、同年父とともに甲斐国府中21万5千石(一説に長政に5万5千石、幸長に16万石)を与えられます。

しかし文禄4年(1595年)、関白秀次の失脚による連座で能登国津向に配流。
しかし前田利家・徳川家康がとりなして、まもなく復帰。
慶長2年(1597年)、慶長の役では再び渡海し西生浦に着陣後、蔚山城(うるさんじょう、現在の蔚山広域市内)にこもり明将・李如梅(りじょばい)の軍と戦いました。

慶長3年(1598年)、秀吉が死去し朝鮮より撤退、その後は黒田長政・加藤清正・福島正則らの武断派に与して五奉行の石田三成らと対立。
慶長4年(1599年)、前田利家の死後に他の武断派と共に石田三成を襲撃しました。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に属し、池田輝政らとともに岐阜城を攻略、9月15日の合戦の当日には南宮山の毛利秀元、長束正家(なつかまさいえ)などの西軍勢に備え、垂井一里塚付近に陣を構築。
戦後、紀伊国に和歌山37万6千石を与えられ、同年、従四位下・紀伊守に叙任。
慶長16年(1611年)、加藤清正とともに二条城での家康と豊臣秀頼の会談を実現させ、ともに警備しますが慶長18年(1613年)8月25日、和歌山で死去しました(ある小説では、清正とともに家康に暗殺されたというエピソードも)享年38。
幸長には男子がいなかったため、死後、次弟の長晟(ながあきら)が家督を継ぎました。

浅野家から紀州徳川家へ、和歌山はどの様に受け継がれた?

浅野長晟は近江滋賀郡坂本(現滋賀県大津市)に浅野長政の次男として生まれ、文禄3年(1594年)、秀吉に仕えて3,000石を与えられます。
関ヶ原の戦い以後は徳川家康に従い、徳川秀忠の小姓を務め、慶長15年(1610年)に備中足守(びっちゅうあしもり)に2万4,000石を与えられますが、慶長18年(1613年)、兄の幸長が後継ぎがおらずに病死したため、家督を相続して和歌山藩主となりました。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と翌年の夏の陣に参戦し、塙直之(ばんなおゆき)らを討つ功績を挙げますが、紀伊国内では北山一揆、紀州一揆と土着勢力の蜂起が相次いだため、すぐに領内に戻り一揆の鎮圧にあたりました。

元和5年(1619年)、福島正則が改易された後の安芸広島42万石に加増移封され和歌山を離れることになり、駿府藩主の徳川頼宣(よりのぶ、徳川家康の十男)が浅野領に南伊勢を加えた55万5千石で入部、紀州徳川家と親藩の紀州藩が成立したのです。

頼宣は1602年(慶長7年)、伏見城にて生まれ、1603年(慶長8年)、2歳で常陸水戸藩20万石を与えられますが水戸には入らず父家康の許で育てられ、1606年(慶長11年)家康に付き従って京都に上り元服、1609年(慶長14年)駿府藩50万石に転封されました。
1611年(慶長16年)、京都の二条城で家康と豊臣秀頼が会見を行った際には、兄の義直と共に東寺まで出迎え、(人質として)加藤清正に預けられた後、義直と共に大坂城の秀頼を返礼の名代として訪問。
1614年(慶長19年)、大坂冬の陣で天王寺付近に布陣し初陣を飾り、翌年の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰め(先陣に対する控えの軍隊)として活躍。

初代頼宣から4代目頼職まで和歌山はどう治められた?

慶安の変で疑われ和歌山に10年間帰れなかった頼宣

慶安の変で疑われ和歌山に10年間帰れなかった頼宣

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そして1619年(元和5年)に紀伊国和歌山55万5千石に転封となり、紀州徳川家の家祖となります。
家臣を入国前に派遣して、前領主の浅野家に対する領民の不満などを調査。
入国後は、和歌山城の改築、城下町の整備など、紀州藩の繁栄の基礎を築きました。
また、地元の国人を懐柔するために地士制度を実施し、さらに浪人問題を解消するために(大坂の陣が終わり世の中が平和になった分、戦いしかできない人が職を失ったのですね)多くの対策を打ち出しました。

しかし、1651年(慶安4年)に起きた慶安の変で、由井正雪の遺品から頼宣の書状が見つかり頼宣の事件への関係が疑われ、幕閣に謀反の疑いをかけられ10年間も紀州へ帰国できませんでした。
同時期、明の遺臣・鄭成功(ていせいこう、国姓爺)から日本に援軍要請がありましたが、頼宣はこれに積極的で、また将軍家光の叔父で、頼宣の兄でもある尾張の徳川義直が死去し、格上の将軍家綱が幼少であることから徳川一族の長老となり、戦国武将的な性格で幕閣には煙たい存在だった様です。
その後、慶安の変での疑いは晴れて無事帰国しましたが、いまだ拡張整備中だった和歌山城の増築を中止しなければならなかったとも言われています(和歌山市にはこの伝承に因む「堀止」という地名が)。

1667年(寛文7年)嫡男・光貞(みつさだ)に跡を譲り、隠居。
紀州藩主としては47年9か月の治世で、覇気に富む人柄であったと伝えられています。

農村法を作り水墨画も得意だった光貞と、短い藩主だった綱教と頼職

光貞は寛文7年(1667年)に父・頼宣から家督を継ぎ、元禄11年(1698年)まで31年間にわたり紀州藩の藩政を行い、法令27箇条を制定するなどの善政により、領民から慕われました。
文武両道の方針を貫き、明律学を学んで刑法の基礎を作ったり、狩野興益(かのうこうえき)や狩野探幽(かのうたんゆう)に師事して水墨画を描くなどしました。

農村法を延宝5年(1677年)に出し、家臣からの反発を受けたものの、以後は紀州藩の基本法となり、天和2年(1682年)には財政再建策として家中知行切地の合理化をすすめ、元禄10年(1697年)には検地と名寄帳(なよせちょう、年貢負担者ごとにその土地の種類・面積・年貢の額などを書いた帳簿)の整理、隠居後の元禄14年(1701年)には町人への間口税(家の間口に対して税をかける)を新設する等の政策を実施、これは後に吉宗の時代にも継承されました。

元禄11年(1698年)、光貞が隠居すると長男の綱教(つなのり)が家督を継ぎ、倹約を行い藩の財政を建て直そうとしましたが、わずか7年後の宝永2年(1705年)5月18日に志半ばの41歳で亡くなり、さらに光貞も綱教の後を追うように亡くなりました。
享年79(満78歳没)。

子がなく、跡を継いだ弟・頼職も藩主を継いですぐに26歳で卒去し、第5代藩主に就任した頼方が吉宗と名を改めて再び倹約を実行します。

将軍になった吉宗と「数寄の殿様」治宝

8代将軍になった吉宗は藩主の時どのように和歌山を治めた?

ここで跡を継いだのが、光貞の4男で江戸幕府の8代目将軍にもなった吉宗。
14歳の時越前葛野(かずらの)藩主となりましたが、家臣を和歌山から送って統治するだけで和歌山に留まっていたそうです。
父と二人の兄が死ぬと和歌山藩主となり、藩政改革に着手。
藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図り、木綿の服を着て自らも率先。
2人の兄と父の葬儀費用や、幕府から借りていた10万両の返済(3人分の大名の葬儀となると多額でしょうね)、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害(1707年宝永地震)の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮。
また、和歌山城の大手門前に訴訟箱を設置することで直接の訴願を募り、文武の奨励、孝行への褒章など、風紀改革にも努めています。

享保元年(1716年)に第7代将軍・徳川家継が8歳で早世し徳川将軍家の血筋(徳川家康の三男・徳川秀忠の男系男子)が絶えたため、御三家の中から家康との世代的に近かったため第8代将軍に就任。
吉宗は将軍就任の際、紀州藩は家康から拝領した聖地であるとして廃藩とせず、いとこの徳川宗直に家督を譲ることで存続(過去の綱吉や家宣の藩は廃藩となっています)。

吉宗は紀州藩主だった経験を活かし、財政再建を始め、公事方御定書(くじがたおさだめがき)の制定、享保の改革を行い、目安箱を設置し庶民の意見を政治へ反映、医療の向上のため小石川養生所を設置、洋書の輸入を一部解禁(のちの蘭学興隆の一因となる)といった改革も行いました。

「数寄の殿様」と呼ばれ、学問・文化・芸術に秀でた治宝(はるとみ)

和歌山に話を戻しましょう。
吉宗の後に和歌山藩主となった宗直は藩財政再建のため、藩札発行や銅銭鋳造などに尽力しましたが、あまり効果はありませんでした。
宝暦7年(1757年)7月2日、江戸中屋敷にて死去。
享年76(満74歳没)。

跡を継いだ宗直の長男宗将(むねのぶ)は藩政に対しては消極的で、仏教に帰依し、日蓮宗を激しく排撃。
明和2年(1765年)2月25日、江戸にて死去。
享年46(満45歳没)。

さらに跡を宗将の次男重倫が跡を継ぎ、明和2年(1765年)、20歳のときに藩主に就任。
伊勢参りが趣味で、性格は徳川御三家の当主とは思えない傍若無人ぶりで、家人などに刃を振り回したりすることもあり、そのために幕府から登城停止を命じられることもあったとのこと。
30歳のときに隠居。
文政12年(1829年)6月2日に死去。
享年84。

重倫の次男・治宝(はるとみ)が幼少だったため成長するまで伊予西条藩主だった重倫の叔父、治貞(はるさだ)が跡を継ぎ、将軍吉宗の享保の改革にならって藩政改革を行ない、紀州藩の財政再建に貢献。
主に倹約政策などを重視。
寛政元年(1789年)10月26日、死去。
享年62(満61歳没)。

成長し治貞の死去に伴い第10代目の藩主に就任した治宝は学問好きで知られ、紀州藩士の子弟への教育を義務化し、医学館を和歌山城下に、明教館を江戸赤坂の紀州藩邸に、学問所を松坂城下に開設。
史書を編纂させ、『紀伊続風土記』の新撰を命じ、文化・芸術面で非常に大きい功績を残し、『古事記伝』の題字も治宝が行なっており、治宝は「数寄の殿様」と呼ばれるに至りました。
吉宗が紀州藩主の時代に草した訓示『紀州政事鏡』は、治宝が吉宗の権威の下に、自らの藩政改革の正当付けを行うために著したものとされています。
絵画の面にも親しみ、『春日権現験記』(かすがごんげんげんき)の模本(東京国立博物館蔵)を藩の国学者である長沢伴雄や御用絵師・岩瀬広隆らに命じて作らせ、治宝も絵筆を取り、菩提寺である長保寺には、治宝筆と伝わる狩野派風、あるいは南蘋(なんびん)派風の作品が残っています。

隠居政治の治宝と将軍家茂、明治以降の和歌山城

隠居後も3代に渡り権力を持った治宝と、将軍になった家茂

文政6年(1823年)、「こぶち騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が紀ノ川流域で勃発、治宝は責任を取り藩主の座を清水家からの養子・斉順(なりゆき、将軍家斉の七男)に譲りました。
治宝は隠居後も藩政の実権を握り、藩の専売事業や、熊野三山の貸付所の利権を掌握し、影響力を藩に与え続け、11代斉順、12代斉彊、13代慶福の3代に渡って藩権力を保持したため、山高石見守などの斉順側近と山中俊信などの治宝側近による政争が勃発。
斉順は重倫と治宝の2人の隠居を抱えながら贅沢な生活を送り藩の財政は傾き、弘化3年(1846年)斉順の死去に際し、再び清水家から斉彊(なりかつ)を新藩主に迎えました。

斉彊のときに落雷で和歌山城の天守閣が焼失するなど多難を極め、嘉永2年(1849年)3月1日に30歳で死去、養嗣子で斉順の子・慶福(よしとみ)が跡を継ぎました。

慶福は就任当初は幼少だったため、治宝が補佐。
治宝の死後は付家老・水野忠央(ただなか)が実権を握り、伊達千広(だてちひろ、陸奥宗光の父)ら藩政改革派を弾圧。

安政5年(1858年)、第13代将軍家定が死去したため、慶福改め家茂(いえもち)は13歳でしたが、家定のいとこに当たり最近親ということから、一橋慶喜(後の15代将軍慶喜)を抑え、将軍に就任、家茂(いえもち)と改名。
慶応元年(1865年)、兵庫開港を決定した老中・阿部正外(まさとう)らが朝廷に処罰されると、将軍職を辞意する決意を朝廷に上申し、天皇は辞意を慌てて取り下げ、その後幕府人事へ干渉しない約束をしました。
慶応2年(1866年)、第2次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れ、7月20日に死去。
享年21。

家茂の後に紀州藩主になった茂承(もちつぐ)は、第2次征長軍先鋒の総督に任命され、内政においては津田出(つだいずる)に藩政改革を行わせました。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発した際、茂承は病を押して釈明し、藩兵1,500人と軍資金15万両を新政府軍に献上した上、勅命により京都警備を担当。
このため新政府軍は紀州藩を討伐するのを中止。
明治2年(1869年)の版籍奉還で和歌山藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で、東京府に移住しました。

戦後の和歌山城と私が和歌山城に行った時のこと

戦後の和歌山城と私が和歌山城に行った時のこと

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1871年(明治4年)、廃城令で廃城となり、多くの建造物が解体まは移築。
二の丸御殿は1885年(明治18年)に大坂城へ移築、1931年(昭和6年)から大阪市迎賓館(紀州御殿)として使われ、戦後米軍施設として使用中の1947年(昭和22年)失火により焼失。
1945年(昭和20年)7月9日の和歌山大空襲で天守などの指定建造物11棟すべてを焼失しました。
1958年(昭和33年)に東京工業大学名誉教授である藤岡通夫の指示を受け、天守群が鉄筋コンクリートで再建。
1983年(昭和58年)には老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元。
2006年(平成18年)4月、御橋廊下が復元され、また同年4月6日、日本城郭協会から日本100名城(62番)に認定されました。

最後に私が和歌山城に行った時のことを書いて終わろうと思うのですが、前日に大阪で音楽のライブを見て一泊し、翌朝に紀州路快速に乗って和歌山へ。
和歌山駅から歩いて虎臥山を登り、ずんぐりとした天守の中を見て回りましたが、内部は広くて見応えがあって、天守閣は御橋廊下と一緒に遠目から見た姿も立派で、紅葉の時期に行ったので、二の丸庭園が色づいて綺麗だったのも覚えています。
そして、和歌山といえばラーメン。
市内の山為食堂という店で食べたのですが、店もラーメンも昔ながらの雰囲気という感じだったのですが、スープがドロッとしてて濃厚で美味しかったです。
帰りは和歌山市駅まで歩き、南海電車の特急に乗って大阪まで戻りました(JRよりこちらの方が速かった気がします)

信長・秀吉により統一され、羽柴秀長らが治め、将軍も出した和歌山城

虎臥山の上に立ち、その名の通り虎が臥した様に見える和歌山城。
5つの門や伏虎像、二の丸庭園、御橋廊下などの建物を持っていて、紀伊の国は安土桃山時代には寺社や武家の勢力が点在し一つの統一勢力を持たず、信長と秀吉に征伐され秀吉の弟秀長が紀伊の国を支配し、藤堂高虎が和歌山城を築城し桑山重晴が治めます。
関ヶ原の合戦の後は浅野家に支配され、その後は御三家紀州徳川家の城に。
吉宗と家茂の二人の将軍を輩出。
和歌山はやはりラーメンが美味しくて私は好きですが、こってりしているので苦手な人は注意してください。
いつか南紀の方にも足を伸ばしてみたいもの。
それでは、読んでくれてありがとうございます!
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