武田信玄と上杉謙信の生涯が読み取れる「川中島の戦い」とは?

川中島の戦いとは武田信玄と上杉謙信が対決した戦いとして知られていますが、では、舞台となった川中島とはどの様な島なのでしょうか?また、川中島の戦いに至るまでに信玄・謙信両者はどの様に成長し、どの様に領地を広げ、どの様に両者は川中島で激突するに至ったのでしょうか?また5回に渡った川中島の戦いはどの様に展開し、どの様な他勢力と絡み合い、それがどの様に作用して、どの戦いが一番激しかったか?またその戦いはどう展開したか?それについて見ていきたいと思います。

川中島の戦いとは?

川中島の戦いとは?

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川中島と信玄・謙信それぞれの本拠地との距離は?

川中島の戦いとは、甲斐の国(山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と、越後の国の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)が北信濃の支配権を巡って数度に渡り衝突した戦いです。
最大の激戦である第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、他の場所で行われた戦いも総称して「川中島の戦い」と呼ばれています。
日本の歴史上に残る大きな戦いで、まず川中島の地形を説明してから、武田信玄・上杉謙信の川中島の戦いに至るまでの経緯を説明し、それから川中島の戦い一戦一戦について説明したいと思います。

まずは川中島の地理から。
川中島は今の長野県長野市にあり、武田信玄の本拠地躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた、山梨県甲府市)から138km、上杉謙信の本拠地春日山城(かすがやまじょう、新潟県上越市)から69kmの距離にあります。
地図上では謙信の方が大分近いと思えますが、川中島と春日山城の間には妙高山がそびえ立っており、険しい山道を越えて行軍せねばならず、冬は雪で閉ざされてしまうのです。
景虎にとって川中島は近くて遠い存在だったのですね。
ちなみに川中島古戦場は江戸時代に真田家の松代藩があった松代城からわずか3kmの距離にあります。

割と大きい扇状地だった川中島

川中島は地形的には、長野盆地へ流れ出した犀川(さいかわ)が盆地への出口を扇頂として形成した扇状地(河川が山地を流れる過程で土砂を削り、川の流れにより下流に運ばれ、その土砂が平地に流れて堆積した部分が扇の形になった土地)の扇端から千曲川(ちくまがわ)との合流点にかけての区域に当たり、扇頂部と扇端部との標高の差は南に約12m、東には約24mあります。
ここで地図のアプリを使って航空写真で確認してみたのですが、私は川中島とは本当に川で囲まれた小さな島の様な場所だと思っていましたが、実際は島と言ってもかなり広い区域を指すのですね。

この扇頂付近を水源としたかつては何本もに分かたれた枝川からは、昭和初期まで鮭や鱒などの漁獲量が豊かで、またそれら枝川だった用水網によって灌漑(農地に外部から人工的に水を供給すること)され、肥沃な耕地が開かれてきました。
千曲川はこの犀川により作られた扇状地によって東側の山際へ押し付けられ、避けるように南東の松代の方まで大きく曲流します。

長野冬季五輪の開閉会式場となった南長野運動公園建設に関しては、たびたび大洪水に流されたり、埋められたと見られる室町時代から弥生時代にまで遡る大集落跡が確認されるなど、古来から人々が暮す豊かな地であることを示していて、川中島へは両河川を渡るいくつもの橋が存在し現在では白桃の発祥の地としても知られています。

武田信玄ってどんな人?

武田信玄ってどんな人?

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晴信(信玄)は父信虎をなぜ追放した?

次に武田信玄について見ていきましょう。
武田信玄は大永元年(1521年)11月3日、甲斐の国の守護、武田信虎の長子として生まれました。

甲斐国では応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱(前関東管領である上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に対して起した反乱)を契機に守護武田氏の権威が下がり有力国衆が台頭していましたが、信玄の曾祖父にあたる信昌の時には守護代跡部氏の排斥、国衆勢力を服従させ国内統一が進みました。
信昌期から父の信直(後の信虎)期には武田宗家の内輪揉めに新たに台頭した有力国衆・対外勢力の争いが関係し甲斐は再び乱国状態となりますが、信玄の父信虎は駿河の今川氏と戦い滅亡に追い込まれながらもこれを甲斐から追放し、甲斐の豪族たちを国内を駆け巡って反乱分子をつぶし、河原辺の合戦で諏訪頼光を倒して甲斐の統一を達成しました。
永正16年(1519年)には甲府の躑躅ヶ崎館を本拠とした城下町(武田城下町)を開府し、家臣団の組織が整備され、戦国大名としての地位が確立されていきました。

信虎は諏訪の孫である頼重に娘を嫁がせ諏訪氏と和睦し、佐久口から平賀氏の城を攻め、佐久郡の全域を手に入れ躑躅ヶ崎に凱旋しましたが、ここで信虎は重臣たちの陰謀により国主の座から引きずり降ろされ、晴信(のちの信玄)が家督を相続することになりました。
追放の理由としては、信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁(のぶしげ)を偏愛し、ついには廃嫡(跡を継ぐものではなくすこと)を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、今川義元との共謀説、または度重なる外征による軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課した事などの説があります。
以後、信虎は今川氏の元で暮らし、晴信が跡を継ぎました。

晴信はどのように信濃(長野県)を制圧したか?

晴信が家督を継いだあと、若い晴信を侮るかの様に信濃の豪族(諏訪氏、小笠原氏など)が挑発し攻めてきて武田が制圧したばかりの佐久郡を攻めようとしましたが晴信が挑発に乗らなかったため大きな戦は起こりませんでしたが、諏訪・村上・小笠原・木曽などの豪族が甲斐に侵攻し晴信は迎え討ち、両軍は瀬沢で激突し晴信が勝利しました。

その勝利を契機に今度は武田が信濃に攻勢をしかけ、晴信は諏訪氏の一族である高遠頼継(たかとおよりつぐ)と手を結び、諏訪頼重を滅しました。
しかし領地の分割案に不満を持った高遠頼継が武田家の支配地に攻め込み、宮川の河畔で衝突しました(安国寺の合戦)。
武田軍は高遠軍を敗走させ、これを追って伊奈に攻め込み高遠頼継を滅ぼしました。

その後、父・信虎の時対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東の乱)を仲裁して、両家に大きな貸しを作りました。
それによって西方に安堵を得た北条氏康(ほうじょううじやす)は河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていきます。

村上義清に負わされた晴信の二度の大敗、そして長尾景虎との出会い

村上義清に負わされた晴信の二度の大敗、そして長尾景虎との出会い

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晴信の前半生最大の強敵、村上義清との戦い

南の今川・東の北条との関係が安定したことで武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原長時、小県領主村上義清らと敵対します。
天文16年(1547年)には関東管領の上杉憲政らに支援された志賀城の笠原清繁(きよしげ)を攻め、同年8月6日、小田井原の戦いで武田軍は上杉と笠原の連合軍に大勝。
また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい、信玄家法)を定めています。

天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主(かつらおじょうしゅ)・村上義清と上田原で激突します(上田原の戦い)。
村上義清は晴信の前半生における最大の強敵であり、上田原合戦で武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰など多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉で30日間の湯治をしたといいます。
この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来ますが、晴信は7月の塩尻峠の戦いで小笠原軍を撃破しました。

天文19年(1550年)7月、晴信は小笠原領に侵攻し、これに対して小笠原長時にはもう抵抗する力は無く、林城を捨てて村上義清のもとへ逃走し、中信は武田家の支配下となりました。

晴信はどのように長尾景虎(上杉謙信)と出会うのか?

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城(砥石城)を攻めましたが、この戦いで武田軍は後世に「砥石崩れ」と伝えられる大敗を喫しました。

「上田原の戦い」と「砥石崩れ」と呼ばれる二度の敗戦は信玄の生涯の中でも異例の惨敗となった戦いとして知られていて、どちらの戦いでも武田勢は村上勢より多くの兵を揃えていながら、どちらの戦いにも手痛く敗れ、多くの兵と優秀な武将を失うことになりました。

しかし、この様な局地的な敗北は信玄の足を止めることにはならず、天文20年(1551年)4月、真田幸隆(幸綱、真田昌幸の父で真田幸村の祖父)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄し、ついには信濃制圧と村上義清の追放を実現しました。
しかし、義清が越後へ逃亡し、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼ったことから、信玄は生涯のライバルとめぐり合うことになります。
信玄の前半生の最大の強敵だった村上義清が晴信と景虎を引き合わせるのですね。
私も書いていて熱くなってきます。

長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐまでにどんな経緯があった?

長尾景虎(上杉謙信)が家督を継ぐまでにどんな経緯があった?

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虎千代の長尾氏はどんな家だった?

越後の国(現在の新潟県)の守護を務めていたのは越後上杉氏でしたが、次第に守護代の長尾氏と対立していくようになり、長尾為景(ためかげ、謙信の父)が上杉房能を攻めて自殺させ、下克上を果たしたのです。

しかし、為景は房能の兄で山内上杉当主の関東管領・上杉顕定(あきさだ)に攻められて敗れ、佐渡に逃げざるを得なくなったり、(その後、再戦して顕定を敗死させている)越後国内の国人の反乱に手を焼いたりと、越後を平定するには至りませんでした。

その後為景は隠居し、為景の次男虎千代(後の長尾景虎、上杉謙信)は父から疎まれていたため、城下の林泉寺に預けられ、住職の天室光育(てんしつこういく)の教えを受け僧として修行を積んでいましたが、当主を継いだ兄の晴景に越後国をまとめる才覚はなく、さらに病弱であったため守護・上杉定実が復権し国政を牛耳り、天文12年(1543年)8月15日虎千代は元服し、長尾景虎(かげとら)と名乗り、9月には晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出発して三条城、そして栃尾城に入りました。
その目的は中郡(なかごおり)の反守護代勢力を討伐した上で長尾家領を統治し、さらに下郡(しもごおり)の揚北衆を制圧することでした。

景虎はどのような状況で初陣を飾った?

当時、越後では守護・上杉定実が伊達稙宗(だてたねむね)の子・時宗丸(伊達実元)を婿養子に迎える件で内乱が起こっており、越後の国人衆も養子縁組に賛成派と反対派に二分されていましたが、兄の晴景は病弱なこともあって内紛を治めることはできませんでした。
景虎が元服した翌年である天文13年(1544年)春、晴景を大したことはないと侮って越後の豪族が謀反を起こし、15歳の景虎を若輩と軽んじた近辺の豪族は栃尾城に攻めよせました。
しかし景虎はわずかな城兵を二手に分け、一隊に傘松に陣を張った敵本陣を背後から急襲させ、混乱する敵軍に対し、さらに本隊を城内から突撃させ、壊滅させることに成功。
謀反を鎮圧することで初陣を飾りました(栃尾城の戦い)。

天文14年(1545年)10月、守護上杉家の老臣だった黒滝城主の黒田秀忠が長尾氏に対して謀反を起こし、秀忠は守護代・晴景の居城の春日山城にまで攻め込み、景虎の兄である長尾景康らを殺害、その後黒滝城に立て籠もったため、景虎は兄に代わって上杉定実から討伐を命じられ、黒滝城の戦いで総大将となって攻撃を指揮し秀忠を降伏させましたが、翌年2月、秀忠が再び兵を挙げるのに対して再び攻め寄せて攻撃を加え、二度は許さず黒田氏を滅ぼしました。
するとかねてから晴景に不満を持っていた越後の国人の一部は景虎を擁立し晴景に退陣を迫るようになり、晴景と景虎との関係は険悪なものとなりました。

越後を統一し川中島の戦いに至るまでの景虎

越後を統一し川中島の戦いに至るまでの景虎

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景虎が家督を継ぎ越後を統一するまでどんな経緯があった?

天文17年(1548年)になると晴景の代わりに景虎を守護代に擁立しようという動きが盛んになり、その中心的役割を担ったのは揚北衆の鳥坂城主・中条藤資(なかじょうふじすけ)と、北信濃の豪族でかつ景虎の叔父でもある中野城主・高梨政頼でした。
さらに栃尾城にあって景虎を補佐する本庄実乃(ほんじょうさねより)、景虎の母・虎御前の実家である栖吉(すよし)城主の長尾景信(古志長尾家)、与板城主の直江実綱、三条城主の山吉行盛らが協調し、景虎派を形成。
これに対し、坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実(きよざね)らは晴景につきました。
しかし同年12月30日、守護・上杉定実が調停し、晴景は景虎を養子とした形にして家督を譲って隠退し、景虎は春日山城に入り、19歳で家督を相続し、守護代となりました。

2年後の天文19年(1550年)には、定実が死去し後継者を遺さなかったため、将軍・足利義輝は景虎の越後国主の地位を認めました。
同年12月、一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が、景虎が家督を相続したことに不満を持って反乱を起こしました。
不満の原因は景虎が越後国主となり晴景を助けていた政景の立場が苦しくなったこと。
そして上田長尾家と長い間対立関係にあった古志長尾家が、景虎を支持してきたために発言力が付けてきたことでありました。
しかし景虎は翌年の天文20年(1551年)1月、政景方の発智長芳(ほっち ながよし)の居城・板木城を攻撃し、これに勝利。
さらに同年8月、坂戸城を包囲することでこれを完全に鎮圧(坂戸城の戦い)。
降伏した政景は景虎の姉である仙桃院の夫であったことなどから助命され、以降は景虎の重臣となって重きをなします。
政景の反乱を鎮圧したことにより越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げたのです。
現在で言えば大学生くらいの年齢で一つの国を手に入れたのですね。

景虎はどのように晴信と戦うことになった?また謙信は女性だった?

天文21年(1552年)1月、関東管領の上杉憲政は相模の国の北条氏康に領国である上野国を攻められ、景虎を頼って越後国へ逃亡してきたため景虎は憲政を迎え、御館(おたて)に住まわせました。
これにより氏康と敵対関係となり、8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに憲政の平井城・平井金山城の奪還に成功しました。
北条軍を率いていた北条幻庵長綱は上野国から撤退し武蔵松山城へ逃れ、なおこの年の4月23日に景虎は従五位下弾正少弼に叙任されました。
同年、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時と村上義清が景虎に助けを請い、これに応えて信濃に兵を出したことにより、一回目の川中島の戦いが始まります。

余談になりますが「謙信は女性だった?」という説があり、その根拠は「毎月10日前後に腹痛を起こしている(=生理痛を起こしていたのではないか?)」、「当時の歌で男もおよばぬ怪力などと謳われている(=男にこんなことを言うはずがない)」などといろいろありますが、真相はわかっていません。
2017年1月現在の大河ドラマは女性の当主が主人公のドラマですが、謙信が女性と判明したら女性を主人公にした大河ドラマを見てみたいですね。

晴信と景虎の最初の衝突、川中島の戦い第一回戦

晴信と景虎の最初の衝突、川中島の戦い第一回戦

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第一次の川中島の戦いはなぜ起こった?

ここからは晴信(信玄)と景虎(謙信)の両者に起こった出来事を交えながら川中島の戦いを見ていきたいと思います。
川中島の戦いといえば、ふつうは永禄4年(1561年)9月10日(第四次合戦)の信玄と謙信の激突をさしていますが、信玄と謙信が信州(長野県)川中島を舞台に戦ったのは永禄4年の戦いだけのことではなく、すでに天文22年(1553年)の段階から両雄は川中島を舞台に何度か戦っており、今日では最大の激戦となった永禄4年9月10日の戦いも含めて前後5回戦ったのが通説になっていて、そのため「川中島五回戦」などとも表現されます。

川中島の戦いの第一次の合戦は、天文22年(1553年)に始まり、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言い、長尾景虎が村上義清など北信濃国人衆の要請を受け支援して、初めて武田晴信と戦いました。
天文22年9月1日、景虎は自らが兵を率いて北信濃へと出陣。
北信地域は越後に接しており、ここが晴信に取られると越後の安泰がおびやかされ、また関東出兵中に本拠地春日山城を攻められない様に事前に武田を叩く思惑。
当時武田の最前線である海津城には晴信の重臣高坂弾正昌信が常駐していたからです。

北信濃に出陣した景虎は布施の戦いで武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(あらとじょう)を落城させ、3日に青柳城も攻めました。
武田軍は援軍を派遣し長尾軍の退路を断つために荒砥城に夜襲を行ったため、景虎は八幡まで兵を退けました。
塩田城に入り籠った晴信が決戦を回避したため、景虎は一定の戦果を挙げたので9月20日に越後へと引き揚げ、晴信も10月17日に本拠地の甲府へ帰還しました。

長尾氏にとって北信濃の国人衆が一斉に武田氏になびく危険を防ぐ事には成功。
武田氏にとっても村上氏の本領を完全に掌握でき、両者ともそれなりの成果を得ました。

景虎はなぜ京へ行った?また晴信はどの様に景虎をおびやかした?

景虎は第一次合戦後に上洛、後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得ました。
これは「景虎と敵対する者は賊軍」とすることを朝廷から認定されるもので、戦いの大義名分を得ました。
しかし、わずか第一次合戦と第二次合戦の間のわずか2年ほどの間に景虎は京に行っているのですね。
この景虎の今日への旅費でたくさんのお金を使ったので民が疲弊したという話もありますが、一方、晴信は信濃国の佐久郡、下伊那郡、木曽郡などの制圧を進めています。

川中島の戦いの第二次の合戦は、天文24年(1555年)に始まり、犀川の戦いとも言います。
武田晴信と長尾景虎は、200余日にもおよぶ長期に渡り対陣し、天文23年(1554年)、晴信は東の相模国の後北条氏、南の駿河国の今川氏と三者で同盟を結び、特に北関東で上杉氏と対峙する北条氏と共同して上杉氏を叩くための甲相駿三国同盟を結びました。
その上で、長尾氏の有力家臣北条高広(きたじょうたかひろ)に反乱を起こさせ、景虎はその北条高広を倒しましたが、背後にいる晴信との対立は深まりました。
こういう謀略を使う賢い晴信と、速い行軍とまっすぐな戦闘法で戦う戦の天才、景虎。
両者はライバルといえど対称的ですね。

第二次、第三次の戦いはどの様に展開した?

第二次、第三次の戦いはどの様に展開した?

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第二次の戦いはどの様な結果に終わり、双方にどんな収穫があった?

天文24年(弘治元年、1555年)、信濃国善光寺の国衆の栗田永寿(えいじゅ)が武田方に寝返り、長野盆地の南の半分が武田氏の勢力の下に置かれ、善光寺より北の長尾方の諸豪族への圧力が高まりました。

晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺を奪回するため長野盆地北部に出陣し、栗田永寿と武田氏の援軍兵3000は栗田氏の旭山城(長野県長野市)に篭城し、景虎は前進拠点として葛山城(かつらやまじょう、長野県長野市)を築きました。

晴信も川中島へ出陣し、犀川を挟んで両軍は対峙。
7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけますが決着はつかず、両軍は200余日に渡って対陣することになり、兵站線(へいたんせん、前線と根拠地の間の道)が長い武田軍は、兵糧の調達に苦しみ、また長尾軍の中でも動揺が起こっていた様で、景虎は諸将に自分に対する忠誠を確認する誓紙を求めています。

一向一揆の抑えとして長尾軍に呼応して加賀に出兵していた朝倉宗滴(そうてき)が亡くなったことで、北陸方面に不安が生じたこともあり、 閏10月15日、今川義元が仲介することにより和睦が成立、両軍は撤兵しました。
和睦の条件として、晴信は北信国衆が旧領に復帰することを認め、旭山城を破却(壊す事)。
これにより長尾氏の勢力は長野盆地の北半分(犀川以北)を確保。

その後、晴信は木曾義康・義昌父子を降伏させることで南信濃平定を完成させました。

第三次の戦いはどの様に進んだ?また長尾勢に何が起こった?

第三次合戦は弘治3年(1557年)は上野原の戦いとも言われていて、武田晴信の北信への勢力伸張に反撃すべく長尾景虎は出陣しますが、晴信は決戦を避け、決着は付きませんでした。

弘治2年(1556年)6月28日、越後では景虎が出家隠遁を図る事件が起きていて、長尾政景らの諫言を景虎は聞き、さらに家臣団は忠誠を誓ってこれを引き止め、出家は取りやめになっています。
家臣団が一つにまとまっていなかったため景虎は出家隠遁し、ここで家臣が景虎に対し忠誠を誓ったため長尾家臣団は一つにまとまったと言われていますね。

また晴信は和睦した後も北信や川中島方面の国衆へ調略を進め、8月には埴科郡尼飾城(はにしなぐんあまかざりじょう、長野市松代町)を真田幸綱(幸隆)らが陥落、同年8月には景虎の家臣である大熊朝秀が武田方に内通し挙兵する事件が起きていますが、朝秀は景虎に敗れて武田方に亡命し武田家臣となっています。

同2月15日に晴信は長尾方の前進の拠点である水内郡葛山城(長野市)を落とし、高梨政頼の居城の飯山城に迫りました。
攻勢を長尾方も強め4月18日、景虎自らが出陣し、長野盆地に着陣。
4月から6月にかけて北信濃の武田側の諸城を落としましたが、同18日には北条氏康の加勢である北条綱成(つなしげ)勢が上田に到着し、同23日に景虎は飯山城(いいやまじょう)へ撤退しました。
長尾方では武田領の深くに侵攻し長野盆地奪回を図り7月には尼飾城を攻めますが武田軍は決戦を避け、景虎は飯山城(長野県飯山市)に引き揚げました。

信玄・政虎の関東への関わりとそれによる第四次の戦いの勃発

信玄・政虎の関東への関わりとそれによる第四次の戦いの勃発

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関東管領職は景虎にどんな力を持たせた?

武田方では7月5日に安積郡小谷城を攻略し、さらに北信・川中島へと侵攻し、8月下旬には「上野原」において武田・長尾方は合戦を行い、景虎は旭山城を再興しただけで大きな戦果もあげられず、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国しました。

このころ将軍足利義輝が三好長慶と松永久秀に京を追われる事件があったため義輝は景虎の上洛を熱望し、長尾氏と武田氏の和睦を要求。
晴信は代案として信濃守護職を要求し、永禄元年(1558年)、晴信は信濃守護、嫡男義信は三管領に補任。
晴信の信濃守護補任の条件には景虎との和睦が条件だったにも関わらず、信濃へ兵を出し続ける晴信に対し義輝は晴信を詰問、同年11月28日に晴信は正当性を主張、長尾方に撤兵することを求めています。

天文21年(1552年)、北条氏康に敗れた関東管領の上杉憲政は北条氏康に敗れて越後へ逃れ、上杉氏の家督と関東管領職の譲渡を景虎に申し入れました。
永禄2年(1559年)、景虎は関東管領職就任の許可を得るため二度目の上洛をし、景虎は将軍足利義輝から関東管領就任を正式に許され、永禄3年(1560年)その職で大義名分を得た景虎は関東へ出陣、関東の諸大名が多く景虎に付き、その軍勢は10万に膨れ上がり、北条氏康は小田原城に籠城。
永禄4年(1561年)3月、景虎は小田原城を包囲しますが、堅い守りに攻めあぐねました(小田原城の戦い)。

最大の激戦、第四次の戦いの始まり

北条氏康は、同盟者である武田信玄(晴信が永禄2年に出家して改名)に援助を要請したため信玄は北信濃へ侵攻。
川中島に海津城(長野県長野市松代町)を築いて景虎の背後を脅かしました。
やがて関東諸将の一部が勝手に撤兵したため景虎は小田原城の包囲をやめ、景虎は、相模国・鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉家の家督相続と関東管領職の就任の儀式を行い(上杉憲政の養子となって関東管領職を継ぐという形)、名を上杉政虎(まさとら)と改めて越後国へ引き揚げました。

関東制圧が目的の政虎にとって、背後にある信越の国境を固めることは急務のため、武田氏が前進拠点とする海津城を叩く必要がありました。
同年8月、政虎は越後国を出て善光寺を経由し妻女山に布陣。
これに対し武田方は茶臼山(雨宮の渡し、塩崎城、山布施城等諸説がある)へ対陣しました。

8月14日に政虎が突然1万8千の大軍を率いて春日山城を出陣すると海津城の高坂昌信は狼煙網(のろしもう)で政虎出陣を躑躅ヶ崎館の信玄に知らせ、信玄はすぐさま動員令を発し、越後勢に善光寺平制圧のための拠点である海津城が取られるのを防ぐために1万6千の兵を率いて出陣しました。

一方政虎は8月15日に善光寺に着陣、荷駄隊と兵5千を兵站基地とした善光寺に残し、自らは主力の兵1万3千を率いて更に南下を続け、犀川・千曲川を渡り長野盆地南部の妻女山に陣取りました。
妻女山は川中島より更に南にあり、川中島の東の海津城と相対、それまで3回の戦いで政虎が一度も取らなかった戦法であり、政虎の今回の戦にかける決意が伺えます。

第四次の戦いはどう展開し、どんな結果に終わった?

第四次の戦いはどう展開し、どんな結果に終わった?

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武田軍の啄木鳥(きつつき)戦法はどの様な結果に終わった?

一方信玄は、24日に兵2万を率いて長野盆地西方にある茶臼山に陣取り上杉軍と対峙。
妻女山を海津城ごと包囲する布陣となり、そのまま睨み合いが続き、武田軍は戦線が硬直するのを避けるためか、29日に川中島の八幡原を横断して全軍を海津城に集結させました。
信玄はその頃「啄木鳥戦法」を採用することに決めたものと思われます。

つまり信玄は妻女山の裏側から攻めさせ、驚いた政虎軍が前面に出てきたところを待ち構えていた主力で討ち取ろうと作戦を考えたのです。
その頃信玄の軍は2万になっていたのでそれを二手に分け、信玄自らは1万2千を率いて川中島に出て、残る8千の別働隊を高坂昌信らが率いて妻女山の裏側から攻める手はず。
その行動は9月9日の夜中に行われました。

ところがこの「啄木鳥戦法」は政虎側に完全に見破られていて、翌9月10日の明け方、朝もやが晴れて周囲が見えるようになったとき、信玄の前面には政虎の軍勢が群をなしていたのです。
ちょうどその頃妻女山に奇襲をかけ政虎軍を追い出そうとした高坂昌信ら武田の別働隊も、もぬけのからになった政虎の本陣に立ってあっけに取られている所でした。
完全に裏をかかれたのですね。

第四次の戦いはどんな結果に終わった?

こうして信玄は1万2千という軍勢で1万8千の政虎軍と正面衝突しなければならなくなり、これが八幡原の決戦です。
戦いは数で勝る政虎軍が有利で乱戦の中で「三太刀七太刀」と言われる信玄と政虎の一騎打ちが行われたのもこの時のこと。
ただ最近の研究では両雄の一騎打ちは後年の創作で、伝えられる様な一騎打ちがあったかどうかは疑問とされています。
それはともかくはじめは政虎の方が優勢でした。

ところが、妻女山攻めに向かった武田の別働隊が急いで引き返してきた所で状況が変わり、別働隊はまだ戦っていない新手で(戦っていないので元気ということです)両軍すでに壮絶な戦いを繰り広げていたところへの新手の加入により、一挙に武田有利の状況が作り出されました。

そのため今度は政虎軍が信玄軍に追い崩される結果となり犀川方面に撤退していき、第四次の戦いもまた引き分けという形で終止符が打たれたのです。
結果として前半は政虎の優勢勝ち、後半は信玄の優勢勝ちで総合すれば引き分けという様に今度も両雄の決着は付きませんでした。
なお前半の戦いで武田方におびただしい犠牲者が出ていて、信玄の軍師であった山本勘助もここで死亡しています。

第四次の戦いが終わったあとの武田・上杉の関係は?

第四次の戦いが終わったあとの武田・上杉の関係は?

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決戦を避けられた第五次の戦い、武田・上杉の戦いの終わり

最後の川中島の戦いである第五次合戦は、永禄7年(1564年)、塩崎の対陣とも言い、上杉輝虎(てるとら、上杉政虎が、永禄4年末に、将軍義輝の一字を賜り改名)は川中島に出陣しますが、信玄は決戦を避けにらみ合いで終わりました。
輝虎は、関東へたびたび出兵して北条氏康との戦いを続け、信玄は常に輝虎を背後から脅かしていました。

また飛騨国では国衆同志が争い武田・上杉氏の対立と相関し、輝虎が三木氏・江間輝盛を支援して介入します。
『甲陽軍鑑』によれば、同年6月に信玄は家臣である山県昌景(やまがたまさかげ)・甘利昌忠(信忠)を飛騨へ派遣し、これにより三木氏・江間輝盛は劣勢となります。
同年8月、輝虎は信玄が飛騨国に侵入するのを防ぐため、川中島に出陣し、信玄は長野盆地南端の塩崎城まで進出しますが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣し10月になって両軍は撤退。
以後、信玄は東海道や美濃や上野の方面に勢力を拡大し、輝虎は関東方面に力を注ぎ、もう川中島では大きな戦いは行われませんでした。
川中島をめぐる武田・上杉間の抗争は第四次合戦を契機に収束し、その後両者は直接の衝突を避けています。

川中島の戦いの後、武田・上杉はどの様に他勢力と関係していった?

武田氏は今川氏と敵対する織田氏と外交関係を深め、永禄8年(1565年)には信長の養女が信玄の四男・諏訪勝頼(武田勝頼)に嫁ぎました。
同年10月には、武田家中において今川氏真(うじざね)の妹を正室とする嫡男・義信の謀反が発覚した義信事件が発生し、義信は永禄10年10月19日に死去しました。
一方、氏真は上杉氏と秘密の外交を行い、信玄の今川家臣への内応(内部の者が密かに敵に通ずること)工作により、今川・上杉間の交渉が露見して武田と今川の関係は悪化し、永禄11年(1568年)に武田氏は駿河今川領国への侵攻を開始します(駿河侵攻)。

武田氏が駿河に侵攻したことにより相模の北条氏との甲相同盟が破綻し、対上杉の共闘体制も解消されます。
北条氏では越後上杉氏と同盟して武田領国への圧力を加え(越相同盟)、信玄は将軍足利義昭を要した尾張の織田信長と友好的な関係を築き、越後との和睦を模索しています(甲越和与)。

その後、武田氏では三河徳川家康の領国である遠江・三河方面への侵攻を開始しましたが(三方ヶ原の戦い)、元亀4年(1573年)その陣中にて信玄が死去した後、1575年に長篠の戦いで惨敗した武田勝頼は上杉謙信に救援を要請、上杉軍に守られて甲斐に無事帰国。
謙信死去(なお「謙信」という名前は亡くなる直前に少しだけ名乗っていただけの様です)により越後で後継をめぐる御館の乱が起こると、武田勝頼は越後に出兵、上杉景勝は勝頼の異母妹の菊姫と婚を通じて和睦し、甲越同盟が成立します。
上杉方では柴田勝家らの織田軍の攻勢を防備しますが、武田家は天正10年(1582年)に織田・徳川連合軍の本格的侵攻により滅亡します。
なお上杉は豊臣秀吉により越後から会津に所領を移され、さらに関ヶ原の戦いで徳川家康に反抗した罪で米沢の30万石に減移封されています。

川中島は島というには大分大きくて、第四次の戦いがもっとも激しかった

武田信玄・上杉謙信の生涯から、川中島の地形を含めて全5戦の川中島の戦いを説明し、武田・上杉の攻防と興亡を説明してきましたが、いかがでしたでしょうか?第四次の戦いが最も激しく両者に互いの戦死者が出ましたが、信玄が策を考え謙信がそれを見破る、レベルの高い展開に私は背筋がゾクゾクします。
また川中島とは思ったより大きな範囲を指すのですね。
私にもたくさんの発見がありました。
また大河ドラマの真田や松本城と絡めて長野県を旅行してみるのも面白いのではないでしょうか?それでは読んでいただき、ありがとうございます!
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