江戸時代の最悪の法「生類憐れみの令」ってなぜおきたの?真実は?

公開日:2020/3/6 更新日:2020/3/6

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生類憐れみの令は、本当のところなんなのでしょう?

前半の治世は大絶賛の綱吉ですが、後半の人気大暴落の原因は、この法令だといわれています。

そういうわりには、24年間に135回も出されたという記録が残っています。
そしてその数を総称して「生類憐れみの令」と呼ぶということは、時代劇などで見るように立札とか文章でドーン!と出されているのと違うということで、これは話が変わってきますね。

そして何度もというのも謎で、それは誰も守らなかったから?という疑問も出てきます。

もし、今まで言われてきたことが捏造だったとしたら? 

これは検証していかねばなりませんね。

親孝行も考えよう、お告げってウソ?本当?

通説から見ていきましょう。

綱吉の母である「桂昌院(けいしょういん)」は、お気に入りの真言僧「隆光(りゅうこう)」に、世継ぎの男子が生まれるようにと子授け祈願を頼みます。
しかしなかなかできません。

隆光は「将軍は前世で殺生した罪で男子にめぐまれません。
お世継ぎが欲しければ動物を大事にしなさい。
将軍は戌年生まれだから、特に大事にした方が良いですよ」とアドバイスしたために、桂昌院がビックリして「生類憐れみの令」を出すように綱吉に言います。

綱吉は頭の良い秀才でしたが、子供の頃から学んだ儒学の影響でとても親孝行でした。
泣きながら頼む母親のために法令を出します。

桂昌院は『徳川実紀』という記録では、父親は関白・二条光平の家司の小路太郎兵衛宗正とありますが、実は八百屋の娘で大奥に入るために養女になったとかいう噂が、まことしやかに流れたようですが、この法令のせいで悪女だということから捏造された可能性もあります。

しかし、この話も今の研究からいくと、実はこの時に隆光は江戸にはいなかったという話もあったり、『真言宗年表』という真言宗の記録に1686年10月3日に江戸城黒書院で祈祷をしていたから、生類憐れみの令以前より江戸城に出入りしていたというのもあります。
この法令に関わったかは不明ですが、京都と奈良の寺社の再建を桂昌院と綱吉に勧めたせいで、幕府の財政が傾いた原因といわれているのは事実なので、これも抱合せにされたという可能性もあるかもしれませんね。

生類憐れみの令の真実

なにか犬ばかり大事にしていた「犬公方」という仇名ばかりが有名ですが、この法律で本当に保護したかったのは「人間」だということがわかってきました。

この当時一番問題になっていたのは「捨て子」。
今のように避妊の知識があるわけでもなく、日が暮れたら寝てしまうような生活をしていたら、次々と子供が生まれてしまうわけです。
そうすると育てられないので捨てる。
「捨て子禁止令」としては何度も発令されて、全国の大名達にも徹底させたといわれています。
続いて問題になっていたのは「病人」。
病人を山に捨てたり、病気で倒れている人がいても放置して死なせることが多かったので、人をいたわる心を大切にしていた綱吉にとっては、どうにかしたい懸案だったのでしょう。

つまり、この法令は、弱者を助けるための「福祉」政策だったわけでした。

戦国以来の「人は死んでも当たり前」だった風潮が、実はこの法令のおかげで「人を殺してはいけない」ということになったというのが皮肉にも思えてなりません。

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