なぜ奈良の大仏さまをつくったの?「聖武天皇」の壮絶な人生とは

聖武天皇をご存知ですか?あの有名な「奈良の大仏さま」で知られる東大寺を建立した奈良時代の天皇です。聖武天皇は、なぜあのような巨大な大仏さまをつくったのでしょうか?聖武天皇の生涯と、その御世に起こった出来事と共に、その謎に迫っていきたいと思います。仏のご加護によって世の中に光を見出したいという願いを込めた悲しい聖武天皇の一生を見ていきましょう。

聖武天皇(しょうむてんのう)とは?

本来ならば天皇になる資格がなかった?

本来ならば天皇になる資格がなかった?

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第45代聖武天皇。
生没年701年〜749年。
即位前の名は首皇子(おびとのみこ)と言いました。
父・第42代文武天皇、母・藤原不比等の娘である藤原宮子です。

聖武天皇は、文武天皇の第一皇子として生まれました。
幼少期は孤独な少年でした。
7歳で父である文武天皇と死別、母である宮子(藤原不比等の娘)は、聖武天皇を出産してすぐに精神を病んでしまい、その後聖武天皇が37歳になるまで、親子の対面を果たすことができなかったからです。
そのため、聖武天皇は、外戚である藤原一族・祖父に当たる藤原不比等やその妻である橘三千代により養育されたと言われています。
父である文武天皇が長く存命であれば、聖武天皇の人生はまた違ったものになっていたかもしれません。
父が若くして亡くなってしまったため、外戚の政治介入や反乱・天災・国の飢饉など数多くの問題が聖武天皇一人に降り掛かってきてしまうのです。

ところで、父である第42代文武天皇と第44代聖武天皇には、2代ほど間があいています。
聖武天皇は、父が亡くなった後にスムーズに即位することができませんでした。
それは、母の宮子の血筋に問題があったのと、当時の皇族VS藤原一族の政権争いのためでした。
本来ならば聖武天皇は天皇となる資格がなかったのです。

天皇になるまでの長い道のり!

先に述べたように聖武天皇の即位までには、大変険しい道のりがありました。
母の血筋や当時の皇族VS藤原一族との政権争いなどが深く関係していました。

当時、天皇になる資格は当然ながら父が天皇(もしくは皇太子)であること。
これが大前提でしたが、母の血筋も大変重要でした。
本来ならば、母親も皇族出身でなければいけませんでした。
しかし、聖武天皇の母は、藤原不比等の娘。
皇族出身ではなく、臣下の娘でした。
そのため他の皇族から皇太子としてすんなりと容認されなかったのです。
また、父である文武天皇が亡くなったのは聖武天皇が7歳の時、幼い聖武天皇がすぐに即位はできず、祖母である元明天皇(天智天皇の娘)が中継ぎの女性天皇として即位することになります。

聖武天皇は、皇太子とはなりますが、病弱だったことや外戚である藤原一族が大きな権力を握る恐れがあったため、皇族側から反対もありなかなか即位はできませんでした。
聖武天皇が成人しても、文武天皇の姉で、聖武天皇の叔母にあたる元正天皇がまたも「中継ぎの中継ぎ」の女性天皇として即位することになります。
聖武天皇が即位するのには、父である文武天皇が亡くなってから、実に17年という長い歳月がかかりました。
そして、聖武天皇が24歳のときにやっと元正天皇より皇位を譲られて即位することとなります。

しかし、聖武天皇は実際に政治の中枢に立つことは出来ず、藤原不比等の娘である藤原安宿媛(後に皇族出身でないはじめての光明皇后となります。)を妻に迎え、外戚となった藤原一族が中心となり政治を行なうようになっていきます。
父に似て、生来病弱であり、政治は藤原一族が支配していたため、聖武天皇は、半ば逃げるように深く仏教に帰依し、巨大な東大寺大仏を造営することとなっていくのです。

聖武天皇の偉業

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

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聖武天皇は、743年に墾田永年私財法を発令します。
この法は、開墾した土地は、定められた面積にかぎって開墾した者が永久に私有することを認めるものでした。

”勅。
如聞。
墾田拠養老七年格。
限満之後、依例収穫。
由是農夫怠倦、開地復荒。
自今以後、任為私財無論三世一身。
悉咸永年莫取。
其国司在任之日。
墾田一依前格。
但人為開田占地者。
先就国有司申請。
然後開之。
不得回並申請百姓有妨之地。
若受地之後至于三年。
本主不開者、聴他人開墾。
天平十五年五月廿七日”(命令。
これまで墾田の取扱いにおいては、三世一身法(養老7年格)に基づき、期限が到来した後は収公していました。
しかし、そのために農民は怠け、開墾した土地が再び荒れることとなっていました。
今後は三世一身とは関係なく、全ての場合で、永年にわたり私財としてよいこととします。
国司の在任中の申請手続きは、三世一身法に準ずるものとします。
ただし、耕地を開墾してその土地を占有を希望する者は、まず国に申請することとします。
その後に開拓を認めます。
また、百姓に妨げのある可能性がある土地の場合は、占有の申請は認めません。
もし許可を受けて後、3年経っても開墾しない場合は、他の者へ開墾を許可してもよいこととします。
天平15年5月27日)

とあるように、養老7年(723年)に出された三世一身法により、墾田はその開墾した者から孫までの3代の間は、私財化が認められていました。
しかし、3代経った後は、墾田は国に返さなければならないことが見えていたので、農民の墾田意欲を増大させることができませんでした。
そのため、聖武天皇は、食料の生産を増やす為、この墾田永年私財法の施行をもって永年にわたり私財とすることを可能とし、墾田意欲をかき立てようとしました。
しかし、一方で、実際に土地を多く開墾できる貴族や寺院、地方豪族などの私有地拡大の動きを刺激することにもなり、公地公民の大原則が大きく崩れ,寺院・貴族による大土地所有が活発化し,荘園制成立の要因となりました。

国分寺・国分尼寺の設置

国分寺・国分尼寺の設置

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天平13年(741年)、聖武天皇は「国分寺建立の詔」を発令します。

その内容は、各国に七重塔を建立し、金光明最勝王経と妙法蓮華経を写経すること。
そして、国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ寺院を置き、僧寺の名は「金光明四天王護国之寺」・尼寺の名は「法華滅罪之寺」とすることと決めました。
寺の財源は、僧寺には封戸50戸と水田10町を尼寺には水田10町を施すことし、僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことと細かく制定しました。

国分寺の多くは、令制国の国司が政務を執る施設が置かれた都市である国府の周辺に建立され、国司が政務を執る施設である国庁とともにその国の最大の建築物となりました。
また、大和国にある東大寺は総国分寺・法華寺は総国分尼寺とされ、全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置付けられました。

この聖武天皇の命令を受け、この後各国では、長い年月をかけて国分寺と国分尼寺が作られることになります。
この時期、後ほど詳しくご紹介しますが、聖武天皇にとって、過酷とも言える出来事が立て続けに起き、仏教の力により国家に降りかかる様々な災いや試練を克服しようと試みた結果でした。

東大寺 大仏の造営

東大寺 大仏の造営

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やはり聖武天皇と言えば、東大寺大仏です。
聖武天皇は、743年に「大仏造立の詔」を発令し、東大寺に大仏を建立します。
全国の人々の力を結集して大仏を建立することで仏の恵みを受け、国家を安定させようと考えたのです。

その当時、都は「紫香楽宮」(現在の滋賀県)にあり、はじめ東大寺大仏さまは、この紫香楽宮で造られ始めました。
しかし、都を変える遷都が多くの民衆から反対され、平城京に都が戻ったことで、現在の東大寺が造営され、そのご本尊とされることになりました。
東大寺の大仏さまは、正式名称を「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)と言い、創建当時の大きさは15m80cm・重さ250トンと大変巨大でした。
現在でも世界最大のブロンズ像と言われています。

この東大寺大仏さまの開眼供養(仏像が出来たときにその仏の目を描き、仏の力を迎える儀式)が752年に盛大に行なわれました。
しかし、開眼供養の時点では、東大寺大仏殿は完成していたようですが、東大寺大仏さまはまだ出来上がっていなかったと言われています。
東大寺大仏さまの金メッキ加工が完了は、その5年後。
東大寺大仏さまの全体が完了するのが、開眼供養から20年近く経ってからでした。
ともあれ、この開眼供養の儀式は、聖武太上天皇(すでに譲位して天皇ではありませんでした。)・光明皇太后・孝謙天皇(聖武天皇の娘)を始め、要人や僧侶など関係者が約1万1千人参列しました。
当時の日本の人口が、数百万人と考えられるので、この儀式がいかに国家にとって重要で盛大であったかが窺い知れます。

大仏さまの眼を書き入れたのは、インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)でした。
書き入れるための筆には長い紐が付けられており、参列者たちはその紐の端をそれぞれが握ることにより仏と縁を結ぶことができたそうです。
この時に使用された筆や紐は、現代の東大寺にある宝物が眠る「正倉院」(しょうそういん)に残されています。
”民衆のすべてが、仏に見守られるように。
そして、多くの民衆がその仏の加護を実感できたら、社会は平和になるであろう。
”との考えから、少しでも多くの人々が拝めるようにあのように巨大な大仏を造ったと言われています。

聖武天皇は、仏教の加護によって様々な災いから逃れようとしたのでしょう。
当時は地震などの天災・天然痘などの流行病は、科学的なことが解明されていませんでした。
「災い」から「祈り」で逃れようと聖武天皇は考えたのでしょうね。
もっと詳しく後ほどご紹介します。

聖武天皇の御世 様々な出来事

聖武天皇の御世 様々な出来事

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聖武天皇の御世は、実に様々な出来事がありました。
そして、不幸な出来事が多くありました。
一人の治世の間に、これほどまで社会不安が続くのも珍しいことでした。
謀反、疫病、飢饉、反乱などさまざまなことが起こりました。
現代の考えでは、このような天災などは、誰が統治したところで防げるものではないと考えますが、当時の考え方は違いました。
天変地異は、天皇に「徳」があるかどうかで決まると考えられていました。
これが古代日本の一般的な考えだったのです。
「天災が起こるのは聖武天皇の御世の政治が悪いから。」このように、大いに社会不安を感じていた聖武天皇は、ますます世の中を静めようと仏の世界に救いを求めるようになってしまったのです。
聖武天皇の御世に起こった出来事を詳しく見ていきましょう。

長屋王の変

長屋王は、当時の皇族側の代表的存在でした。
長屋王の父は、天武天皇の長男・高市皇子、母は天智天皇の娘・御名部皇女(元明天皇の同母姉)、妻は文武天皇の妹・吉備内親王。
まわりの血縁がすべて皇族であり、嫡流に非常に近い血筋で皇位継承権に最も近い人物でした。
そのため当然、藤原一族はとても警戒していました。
天皇の娘を母に持ち、天皇の娘を妻に持っていたのです。
長屋王は、藤原一族にとって掌中の珠である聖武天皇を脅かす危険な存在でした。

聖武天皇は文武天皇の子であり、母親は皇族でない藤原氏(=臣下)出身でした。
そして、妻である皇后も藤原不比等の娘です。
本来ならば皇位継承権はありませんでした。
皇位を継げた唯一の理由は、持統天皇の息子である草壁皇子の血を引くという点と藤原一族の強い意志からでした。
臣下の娘を母に持ち、臣下の娘を妻に持つ。
聖武天皇は皇族出身でない臣下の娘を母に持つ初めての天皇です。

そういった情勢が緊迫していた中、後の光明皇后となる藤原不比等の娘・藤原安宿媛が待望の皇子を産みます。
この基皇子と名付けられた皇子は、すぐ皇太子となります。
しかし、わずか1年後病死してしまうのです。
聖武天皇の藤原一族も深い悲しみと落胆に襲われますが、藤原不比等の息子たちである藤原4兄弟はこれを政治に利用し長屋王の抹殺に使います。
皇太子・基皇子が死んだのは、長屋王が呪詛を行い、呪い殺したと聖武天皇に告げたのです。
当時、呪詛、呪いは深く信じられており、大きな罪に問われるものでした。
証拠が揃えば状況だけで犯人とされ、謀反の疑いをかけられてしまいます。
現に冤罪だろうが証明できず死んでいった者が多くいた時代でした。

729年に、長屋王の舎人であった者から、「長屋王は密かに左道(邪悪な呪い)を学び、国家を傾けんと欲す。」と密告がありそれをうけて4兄弟の一人である藤原宇合らの率いる軍勢が、広大な長屋王の邸宅を包囲し、長屋王はその妻である吉備内親王と子の膳夫王らと共に自害しました。
これで、聖武天皇の脅威となる天皇に一番近い血族が滅びました。
これが長屋王の変と言われる出来事です。

藤原4兄弟の死

藤原4兄弟の死

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藤原不比等亡き後に、藤原一族を率いたのは、不比等の息子たちでした。
四兄弟とは、藤原武智麻呂(藤原南家開祖)・藤原房前(藤原北家開祖)・藤原宇合(藤原式家開祖)・藤原麻呂(藤原京家開祖)の4人を言います。
元正天皇・聖武天皇の御世に、先に述べた長屋王と政権の座を争い、「長屋王の変」で長屋王一族を滅亡に追い落とした後、朝廷の中枢となり政権を握りました。

そして、妹の安宿媛を光明皇后として、はじめて臣下から皇后の位にし、天皇の外戚として確固たる地位を築き上げました。
しかし、九州地方で天然痘が流行し、藤原四兄弟はあっけなく相次いで死亡してしうのです。
人々は長屋王の祟りと噂し、聖武天皇もその祟りを恐れたと言われています。

この藤原4兄弟の死により、藤原一族は政治の中央から外れていきます。
藤原4兄弟の子がまだ幼かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟である橘諸兄が右大臣として担うことになりました。
その後は、4兄弟の一人であった宇合の息子・藤原広嗣が7反乱を起こし討伐されたこともあり、藤原仲麻呂が台頭するまで、藤原一族は政治の表舞台から遠ざかります。
しかし、藤原4兄弟の系統である南家・北家・式家・京家は、それぞれの家には栄枯盛衰はあったものの、その後も政治や学問、文化に大きな足跡を残していくこととなります。

藤原広嗣の乱

相次いで亡くなった藤原4兄弟。
しかし、その子供らは成長していきました。
その中に式家の宇合の息子に藤原広嗣という人物がいました。

藤原広嗣は、順調に出世街道を進んでいましたが、橘諸兄を中心として政権に反対し、739年に太宰府(現在の福岡県)に左遷されてしまいます。
その翌年、藤原広嗣は、「現在の天地の災いは,橘諸兄の側近である玄昉と吉備真備が政治の中枢にいるからで玄肪と吉備真備を政界から追放して下さい。」といった内容の上奏分を書き、聖武天皇に提出します。
しかし、聖武天皇はそれを受け入れず、国家転覆を企てた謀反とみなします。
そのことを知った藤原広嗣は、太宰府の手勢を率いて反乱を起こしてしまうのです。
弟の藤原綱手(つなて)とともに、1万余の兵を率いて、反乱を起こしましたが、聖武天皇率いる官軍に約2か月で敗れてしまい、斬首されたと言われています。

藤原広嗣は、日本ではじめての怨霊とも言われており、敗北した広嗣の首が大空に昇り、赤い鏡のようであったと言われています。
そして、その首を見た者は、恐怖のあまり亡くなってしまったそうです。
そして、反乱から5年後、大宰府に左遷された玄昉は、死去します。
その玄昉の身体がバラバラにされ、奈良の地に落ちてきたと言われこれも藤原広嗣の祟りだと伝えられています。
そのため、広嗣の怨霊を鎮める「鏡神社」(奈良市高畑町)が創建されたそうです。
鏡神社は、もと佐賀県の広嗣処刑地に創建されましたが、780年に弘法大師空海によりこの地に移されたと伝えられています。

最大の偉業 東大寺大仏

聖武天皇と東大寺大仏

聖武天皇と東大寺大仏

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聖武天皇はなぜ東大寺大仏を造営したのでしょうか?聖武天皇の人生に照らし合わせて詳しく見ていきましょう。

聖武天皇は、幼少期病弱で、しかも父とは死別。
実の母とも37歳になるまで一度も会うことが出来ず母の愛に触れることがありませんでした。
そして、妻である藤原安宿媛(後の光明皇后)との間に生まれた待望の皇太子・基皇子も生後1年もしないうちに病気で亡くなってしまいます。
聖武天皇の私生活は、孤独との戦いだったのです。

そして、政治的にも大変不安定でした。
母が皇族出身でなかったために皇太子の立場も不安定であり、藤原不比等を中心とする藤原一族と、長屋王を中心とする皇族との政権争いの板挟みにもあっていました。
聖武天皇の私生活を利用して様々な目論見がありました。
先に述べたように藤原不比等の息子たちである藤原4兄弟が皇太子・基皇子が亡くなったのは、時の権力者であり皇族の代表格であった長屋王が呪詛したのだと主張し、長屋王が自害し「長屋王の変」がおこりました。
そして、因果応報というべきが、藤原4兄弟は当時大流行していた「天然痘」により4人が相次いで亡くなります。
これは長屋王の祟りではないかと言われ聖武天皇も「祟り」を恐れていました。
その後、藤原広嗣の乱が起こり、聖武天皇の御世はますます混乱してしまいます。

それだけではありません。
天然痘の流行、大地震、飢饉などの天災も発生し、もはや聖武天皇は、平城京は災いであると考えてしまいます。
聖武天皇は、心機一転、このような災いから逃れるように都を変えることを決断し、山背国恭仁京・摂津国難波宮・近江国紫香楽宮と遷都を繰り返すことになります。
しかし、度重なる遷都は、逆に民衆にますます負担を与えることになり、不満はますます聞こえてきます。
思い詰めた聖武天皇は、743年に「大仏造立の詔」を発令し、東大寺に大仏を建立することします。
仏以外の救いの道がもはや聖武天皇には思いつかなかったのかもしれません。
仏のご加護によって世の中に光を見出したいという願い、すべての民衆が、仏に見守られるように。
そして、多くの民衆がその仏の加護を実感できたら、社会は平和になるであろう。
仏教によってさまざまな災い逃れたい。
と聖武天皇は考えたのでしょう。
そして、より大きければ大きいほど仏の力も強く、国を守ってくれる力も強いと考え東大寺大仏はつくられたのです。

東大寺大仏さまとは?

東大寺の大仏さまは、正式名称は「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)と言います。
毘盧遮那とは、サンスクリット語のヴァイローチャナの音訳で「太陽や光」という意味です。
「毘盧遮那仏」とは、太陽のような身光・知光の大光明で全宇宙を照らし、永遠不滅の宇宙真理を意味し表現した仏さまであり、仏教の教えそのものを神格化した仏さまといわれています。
左手で宇宙の知恵を表し、右手で慈悲を表しており、人々が思いやりの心で繋がり、絆を深めることを願っている姿なのです。

この毘盧遮那仏は、華厳宗の本尊とされています。
華厳宗は、奈良時代に特に栄えた宗派と言われており、この世は個別の事象が無限に重なり合って出来ており、すべてを自分本位に考えないで自我や偏見を捨てて、物事はありのままに見つめることが必要であるという宇宙的な教えを説いた宗派です。
「毘盧遮那仏」は、その中心にいる仏さまなので、宇宙の絶対的存在とされており、巨大なお姿に造られる傾向にあります。

また、毘盧遮那仏は 蓮華蔵世界という世界に鎮座しているとされています。
蓮華蔵世界は、巨大な蓮の中に存在している世界とされており、そこにいる仏様も巨大に作られるのです。
盧遮那仏は、1000枚もの蓮の台の上に鎮座しており、1000枚の蓮の花弁の1枚1枚の上に、大釈迦が鎮座しているとされています。
さらにその中にも、小釈迦が鎮座しているとされ、合計で100億もの仏の世界があると云われています。
以上のような途方もない仏の世界の頂点に立つ仏様が毘盧遮那仏こと東大寺の大仏さまなので、巨大なお姿でつくられたのです。

東大寺大仏の大きさとは?

東大寺大仏の大きさとは?

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実際の大きさはどのくらいあるのでしょうか?現代と創建当時は少し大きさが違います。

・高さは、14m98cm

・顔の大きさ(縦) 5m33cm

・顔の大きさ(横幅)3m20cm

・目の長さ 1m2cm

・鼻の幅 98cm

・耳の長さ 2m54cm

・口の長さ 1m33cm

・足の大きさ 3m74cm

・手のひらの長さ 1m48cm

・中指の長さ 1m8cm

・重さ 約250トン

中指の大きさが5歳児くらいの身長。
これほど巨大な大仏を1300年以上前につくったとは、本当に驚きです。

そして、この巨大な東大寺大仏に使われた材料は、

・銅:499トン (4トントラッ約125台分)

・すず:8.5トン (4トントラック 約4台分)

・水銀:2.5トン (4トントラック 約0.5台分)

・金 :440kg

・炭 :1194㎥

と莫大な量と伝えられています。
これらの材料が当時の日本の各産地から算出できたことにも驚きです。
そして、大仏の作業には260万人が関わったと記録に残っています。
聖武天皇の御世、当時の日本の全人口は600万〜700万人と伝えられています。
その中の260万人と言うと、実に日本の40%もの人口にあたる人々が東大寺大仏の建立に関わっている計算になります。
現代の私たちでは、想像もつかないほどの大規模な国家的政策だったことがわかります。

聖武天皇の晩年

聖武天皇の晩年

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日本史上初めて譲位した男性天皇

現代も天皇がその地位を生きているうちに後継者へ譲り渡す行為である「譲位」が話題になっています。
その譲位を日本で初めて行った男性天皇はこの聖武天皇なのをご存知でしょうか?

皇太子であった基皇子が亡くなって後、第2皇子であった安積親王(あさかしんのう)が唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補でした。
しかし、当時の権力者であった藤原一族出身でなかったため、738年に光明皇后を母に持つ女性である阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が異例の女性皇太子となりました。
女性天皇は、過去に存在しましたが、いずれも皇后や皇太子妃・天皇姉など中継ぎのために即位した女性が多く、女性の皇太子は日本で初めの試みでした。
そして、その後も女性皇太子は存在していないので、阿部内親王は日本史上唯一の女性皇太子でした。
これは、藤原一族による力が強かったためと推測されています。
そして、744年安積親王は17歳という若さで突如亡くなってしまいます。
当時の権力者であった藤原仲麻呂に毒殺されたという説も残っています。
本来ならば、聖武天皇が亡くなった後、阿部内親王は天皇に即位するはずでしたが、病がちとなり仏教にすがるようになった聖武天皇は、東大寺大仏さまの完成を待たずして出家して譲位してしまうのです。

749年に聖武天皇の譲位し阿部内親王が孝謙天皇っとして即位します。
孝謙天皇は、皇太后(光明皇后)が後見することになり、皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂が権力を握り政治の中枢にたつこととなるのです。
そして、この孝謙天皇を最期に天武天皇からの血統は途絶え、天智天皇の血統へと移り変わっていきます。

聖武天皇の最期

聖武天皇は、生来病弱だったと言われており、天756年に病死しました。
聖武天皇の死の要因に大仏さまが深く関係しているという説があります。
聖武天皇は、水銀中毒となり死期を早めたのではという説です。
聖武天皇は、自らが望んだ大仏さまが造られる工程を見るため、大仏建立の現場にも、足を運んだ可能性があります。
東大寺の大仏さまの最後の仕上げは金メッキを施しますが、金を鍍金するために、水銀に金を溶かし込んでアマルガムという物質を造り、これを大仏の表面に塗布します。
この工事過程では、水銀が蒸発するので水銀中毒になりやすく、実際に多くの作業に携わった民が命を落としています。
そのため、聖武天皇も水銀中毒になり、早くに亡くなったと言われています。
事実はもはや誰にもわかりませんが、大仏さまに救いを求めてその大仏さまが死期を早めたとしたら、聖武天皇の生涯は悲しいものとなってしまいますね。

聖武天皇は、佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)現在の奈良県奈良市法蓮町に眠っています。
もし、聖武天皇に興味を持たれた方がいましたら、一度訪れてみてはいかがでしょうか?

孤独で仏に救いを求めた聖武天皇の一生!

いかがでしたでしょうか?聖武天皇の生い立ちから、偉業、その当時の政治背景などを詳しく紹介させていただきました。
早くに父母と離れ、様々な陰謀や策謀に踊らされた一生を送った聖武天皇が仏に救いを求めるのも理解できると思いませんか?聖武天皇に興味を持たれたら、ぜひ彼のゆかりの品が納められている正倉院がある東大寺に足を運んでみてはいかがでしょうか?
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