【初心者向き】ざっくりわかる三国志と、中国旅行での観光スポット

およそ1800年前の中国大陸。魏(ぎ)、蜀(しょく)、呉(ご)という三つの国がしのぎを削る戦乱の時代がありました。後漢王朝という巨大な国が傾き始めた頃から次の統一王朝が誕生するまでのおよそ100年間。大陸は大きく揺らぎ、多くの英傑が知力を尽くして大陸を駆け巡りました。その興亡の記録が『三国志』。戦国武将たちの活躍は後の世まで長きに渡って語り継がれ、現代でも、小説や漫画や映画、ロールプレイングゲームのモデルにもなっています。なぜ三国志は、そこまで多くの人々の心をつかんでいるのでしょう。壮大で魅力溢れる三国志の世界をご紹介してまいります。

三国志・人気の秘密

三国志とは?

三国志とは?

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中国の正史のひとつ。
後漢末期から三国時代(180年頃~280年頃)の歴史の記録です。
三国時代が終わった後、蜀の陳寿という官僚がまとめたもので、魏書(志)、蜀書(志)、呉書(志)と三国それぞれに分かれた三部構成、65巻の膨大な書物。
陳寿は蜀が滅びた後、次の統一王朝となる西晋に仕えており、三つの書はそれぞれ対等に書かれてはいますが、言葉遣いなど細かいところに若干、蜀に対する思い入れが見え隠れしているようです。
魏書の中にはあの邪馬台国のことが書かれた「魏志倭人伝」が含まれていることで日本でもよく知られています。
つまり三国志とは元々は、お役人がまとめた歴史の記録なのです。

しかしながらこの時代、漢という約400年続いた大国が悪政や内紛によって傾きかけた後に中国大陸に三つの国(皇帝)が誕生したという、非常に特異な時代でありました。
そのため後々、この時代を舞台にしたお芝居や読み物などがたくさん作られます。
いつの時代も苦しい生活を強いられる庶民にとって、悪い奴らをバッタバッタと切り倒して正義を貫く英雄の姿は胸すくものだったに違いありません。
日本で大岡越前や遠山金四郎、水戸黄門などのお話に人気があるように、三国時代の武将たちの活躍は後の世の庶民の心をつかみました。
三国志が単なる歴史の記録に留まらず、広く知られるようになった理由は、こうしたところにあったのです。

『三国志』と『三国志演義』

三国志を題材とした読み物や芝居の代表格に『三国志演義』というものがあります。
三国時代から1000年以上後の明代に書かれた時代小説で、著者ははっきりとはわかっていません。
しかし、当時の中国で最も多く読まれた書物ではないかと言われているほどで、江戸時代には既に日本にも伝わっています。
正史が元になっていますが、かなりドラマチックに脚色されているようです。
正史では魏、蜀、呉それぞれ同じくらいの分量の書物が残っていて、起きた出来事が淡々と書かれています。
しかし『三国志演義』では蜀を創立した劉備玄徳(りゅうびげんとく)を主役に据え、魏の礎を築いた曹操孟徳(そうそうもうとく)との対峙の様子を描くことで大変な人気を博しました。
劉備は義理人情に厚く人徳があり多くの民に慕われる好人物であり、対する曹操は強大な武力に物を言わせて傍若無人に振舞う悪役として描かれています。
もちろん曹操は暴君ではありませんが、この対立関係を主軸としたストーリーが人気となり、『三国志演義』は広く知られるようになっていきました。

その後、この『三国志演義』の影響を受けた読み物や芝居が数多く作られたため、正史『三国志』と『三国志演義』が混同してしまうこともあるほど。
それほど『三国志演義』に人気があったという見方もできますが、逆に、三国時代という時代が、読み物や芝居と混同してしまうほど劇的な時代であった、と言えるのかもしれません。

「桃園の誓い」は創作?

「桃園の誓い」は創作?

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例えば、主人公の劉備と関羽雲長(かんううんちょう)、張飛益徳(ちょうひえきとく)とが義兄弟の契りを交わし生死を共にすることを誓い合う「桃園の誓い」は『三国志演義』の序盤に登場する人気の一場面ですが、正史『三国志』にはこのような記述はありません。
関羽も張飛も一騎当千の兵(つわもの)でありながら他の武将につくことはなく生涯劉備に尽くします。
劉備はというと、漢王朝の血をひいてはいますが貧乏で学問も剣術もそれほどではなく、稀代の英傑二人がなぜ劉備に従ったのか、劉備はなぜこの二人を信頼し大事にしたのか、その疑問の答えを埋めるべく作られてた逸話ではないかと考えられています。

全体的に、劉備本人や彼に従う者たちはかなりかっこよく描かれていて、特に劉備の軍師となった諸葛亮孔明が打ち出す奇策が次々的中する様などは「出来過ぎだろ」と思わず笑ってしまうほど。
史実かどうかは別にして、読んで胸すく物語であることは間違いありません。

『三国志演義』が作られた時代に限らず、中国は常に異国民族の攻撃に喘いでいました。
三国志の武将たちの活躍を通して、自分たちもこのように強くありたいと願っていたのでしょう。
ただ強いだけでなく、義理人情に厚く仲間を重んじる温かい登場人物たちに思いを重ねていたのかもしれません。

三人の武将と三つの山場

三国時代では100年ほどの間に数え切れないほど戦いが起き、中国の人口が二割以下に減少したと伝わるほど激しい時代でありました。
短い間に様々な出来事が次々と起きて、人の動きもめまぐるしいため、小説は大作ばかり。
日本の三国志小説の先駆けとして今も読み継がれている吉川英治「三国志」は文庫本でも全8巻。
横山光輝の漫画「三国志」は単行本で60巻にも及びます。
どちらも『三国志演義』がベースになっていますので読みやすく面白いのですが、とにかく長い。
三国志を題材にした小説や漫画はどれも長編なので、取り組む前にざっくりと要点を抑えておいたほうがよいでしょう。
キーワードは「3」。
劉備、曹操、孫権の3人の動きと、時代の転機となる三つの山場を大まかに頭に入れておくと、長編でも読み進めることができるはずです。

劉備は蜀の初代皇帝、曹操は魏の礎を築いた猛将(初代皇帝は息子の曹丕)、孫権は呉の初代皇帝。
孫権は劉備、曹操より一世代若いのですが、父親孫堅と兄孫策を相次いで亡くしたことで若くして一門を率いることとなります。
どうしても劉備と曹操が中心になりがちな三国志ですが、若い孫権の苦悩と活躍も見所のひとつなのです。

前半のキーパーソンは董卓(とうたく)。
絵に描いたような悪役です。
この男の悪政ぶりが多くの武将たちの奮起につながるのですが、この頃はまだ曹操も劉備も下っ端でした。
続いて中盤の山場は「赤壁の戦い」。
全国統一目前まできた曹操が劉備・孫権連合軍とぶつかる大戦です。
そして後半の山場は劉備の死。
彼の死後も時代は続きますが、徐々に新しい勢力が力をつけ始め、三国時代は終焉に向かいます。
中盤の赤壁の戦いの後に、三国(魏、蜀、呉)が建国されるのですが、物語としては、建国前のほうが人気があるようです。

では、三国時代とはどんな時代であったのか、3人の活躍と三つの山場を中心に見ていくことにいたしましょう。

三国時代・前夜

悪政の世と黄巾の乱

悪政の世と黄巾の乱

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今からおよそ2000年前。
中国大陸は漢という王朝によって統一されていました。
司馬遼太郎の「項羽と劉邦」という小説をご存知の方も多いのではないかと思いますが、あの劉邦が築いた国が漢です。
この王朝は紀元前後またいで足かけ400年ほど続いたのですが、末期は悪政が続いていました。
幼い皇帝が即位することが多くなり、皇帝の母や親戚、役人たちが私腹を肥やすようになっていたのです。
国庫は逼迫。
社会情勢は悪くなる一方。
割りを食うのは民衆です。

この頃、大陸の北の方に、張角という人物が指導する太平道という新興宗教がありました。
生活に困窮した民衆がこの宗教にすがるようになり、張角を首領として、腐敗した漢王朝を倒すために184年、ついに反乱を起こします。
太平道のシンボルである黄色の頭巾をトレードマークとしたため、この反乱は「黄巾の乱」と呼ばれるようになりました。
事態を重く見た漢は有力武将たちを次々送り込み、反乱の鎮圧に当たらせますが、その勢いはなかなかおさまりません。

反乱の鎮圧には、地方で募集した義勇軍の活躍も見られました。
このとき我らが劉備玄徳その人も、手柄を立てて一旗揚げようと、関羽、張飛らと共に義勇軍に加わり、戦いに身を投じています。
曹操も同様に、黄巾賊の鎮圧に当たっていました。
数か月の後、張角が病死し、張角の弟たちが漢の黄巾討伐軍に討ち取られ、黄巾の乱は終わりを迎えます。

乱は収束しましたが民衆の怒りは収まらず、残党がほうぼうで暴れるなど、火種はあちこちでくすぶったままでした。
また、これらの反乱を抑え込む戦いの中で地方の豪族たちがめきめきと頭角を現し始めます。
その中に、孫権の父孫堅(そんけん)もそのうちのひとりでした。

暴君・董卓

この頃登場するのが、三国時代序盤のキーパーソンでもある董卓です。

董卓は黄巾賊討伐軍に加わっていましたが大した成果を上げることもなく負け戦を繰り返していました。

反乱制圧後はしばらく静かにしていましたが、189年、時の皇帝崩御後の混乱に乗じて中央政治の場に躍り出ます。

どさくさにまぎれて皇帝周辺の有力武将たちを抱き込み、暴虐や暗殺を繰り返して抵抗勢力を封じ込めていく董卓。
とうとう相国にまで上りつめ、好き放題の専横を繰り返します。
転がり出したら止まりません。
ひとりの人間がここまで悪事を続けられるのかと目を疑いたくなるほど、横暴を続け私腹を肥やし続ける董卓の悪政のために民衆はますます苦しめられていきました。
とにかくひどい。
墓を荒らして宝物を奪い取ったという話まで伝わっているほどです。

翌年、董卓をよしとしない袁紹・袁術など有力武将たちが奮起し、反董卓連合軍を結成します。
この中に孫堅や曹操の名もありました。
特に孫堅の活躍はめざましく、破竹の勢いで力を増していきます。
人を育てるのがうまかったとも言われている孫堅は、戦いを繰り返す中で自軍を大きく成長させていきました。

しかし董卓はそんじょそこらの悪ではありません。
情勢不利と知るや否や、散々好き放題やってきた都、洛陽を焼き払って長安へ逃げていきます。
反董卓連合軍は目的を失い崩壊寸前。
リーダー格であった袁紹・袁術が争い合う事態へと陥っていきます。

悲劇の武将・呂布

悲劇の武将・呂布

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一方の董卓ですが、長安に逃げて大人しくなるのかと思いきやますます増長し、好き放題を続けていました。
若武者曹操は董卓を討とうと勝負に出ますがあえなく敗走。
孫堅も袁紹・袁術の対立の中で不遇の死を遂げます。
ますます調子づく董卓。
自分を憎む役人や武将たちから何度も命を狙われますが、逆に相手をねじ伏せ、捉えて釜茹でにしたり拷問にかけたりと暴虐を繰り返します。
また、銅貨を粗悪な素材のものに作り替えさせたため貨幣価値が下がって経済が混乱するなど、相変わらず悪政続き。
とどまるところを知りません。

このころの董卓のそばには常に、勇猛で非常に腕の立つ豪傑の姿がありました。
名は呂布。
前皇帝崩御のどさくさの中で頭角を現した武将のひとりでしたが、その力の強さを見込んだ董卓に抱き込まれて養子になります。
この男、人並み外れて強い。
董卓は呂布をそばに置いて身辺を警護させていたため、董卓を快く思わない者たちも迂闊には手を出せなかったのです。

呂布は強すぎたのかもしれません。
思慮が足りず、後先考えず行動する節がありました。
董卓を亡き者にしようとする王允(おういん)の策略に乗り、養父でもある董卓を殺してしまうのです。
董卓を殺したことはよかったのかもしれませんが、長安になだれ込んできた董卓配下の家臣たちを防ぎきれずに逃亡します。
長らく彷徨った挙句、徐州という土地を統治していた劉備のもとへ。
最初はかくまってもらうのですが隙をみて劉備を追い出してしまうのです。

なまじ強いのでこうなると手がつけられません。
哀れ劉備は呂布の手を逃れ、なりふり構わず曹操のもとに身を寄せます。
これを機と見た曹操が徐州に攻め込み、呂布は討ち取られてしまいます。
三国志最強とも言われる強い力を持ちながら、戦乱の世を渡り歩くことができなかった呂布将軍の命運もここまでとなりました。

このころの曹操と劉備

董卓が暴政が続く中、わが身可愛さに踏み出せない諸侯に業を煮やした曹操。
董卓討伐に名乗りを上げますがあえなく破れ、命からがら地方へ逃げのびます。
転んでもただでは起きないのがこの人。
頭がよく知力に長けており、地方で反乱の鎮圧などに当たりながら徐々に力をつけ、再び中央へ打って出る機会を虎視眈々と狙っていました。
そんな彼に機は訪れます。
董卓が死に、混乱する長安から逃げてきた幼い皇帝を保護。
自らの拠点である許昌という町に皇帝を迎え入れ、皇帝から大将軍を任されるなど、どんどん出世していきます。

一方の劉備。
黄巾の乱でかなりの功績を上げたのですが今ひとつ出世にはつながらず、なかなか名を上げることができません。
自分を慕ってついてきてくれる部下たちのためにも一旗上げたい。
しかし機に恵まれず、旧知の武将のところで傭兵のようなことをしていました。
しかしこの人、人柄だけはよかった模様。
世話になっていた土地の領主から「自分が死んだらこの土地を託したい」と頼まれます。
それで徐州という土地を任されることになるのですが、董卓を殺して逃亡中の呂布を向かえ入れたことで自分が追い出されてしまいます。
逃げた劉備は、のん気なのか他に手がなかったのか、徐州の傭兵時代に何度か小競り合いをした曹操を頼ったのです。
曹操にとってみたら目の上のたんこぶのような存在の劉備。
さぞ驚いたことでしょう。
しかしこれを追い払う曹操ではありません。
劉備を受け入れ、呂布を討ち取ります。

曹操のもとで働き始めた劉備ですが、やや押しに弱いタイプのよう。
曹操を脅威と見た役人たちに乗せられて、曹操討伐隊についつい名前を書いてしまいます。
曹操激怒。
劉備は曹操と敵対する武将たちのもとを渡り歩きながら、再び流浪の傭兵生活を続けることになるのです。

乱世の奸雄・曹操との戦い

曹操、華北を平定する

曹操が呂布を討った翌年の199年、もはや漢皇帝は名ばかりの存在となっていました。
各地で戦乱が続き、群雄たちは次第に淘汰されていきます。
最後まで勝ち残ったのが曹操と、漢王朝の有力武将であった袁紹でした。
袁紹といえば名門の家柄、エリート中のエリートです。
多くの武将が袁紹のもとに集まり、破竹の勢いの曹操との直接対決は目前に迫っていました。

決戦の場は官渡。
現在の河南省、黄河の南側。
200年、戦いの幕は切って落とされました。
エリート集団相手でも曹操がひるむことはありません。
しかも袁紹軍にはあの劉備の姿もあります。
ここでもなぜか劉備は人気で、彼が曹操の拠点周辺に攻め込むとこれに従おうとする者が続出。
曹操軍にかなりの痛手を負わせますが、結局打ち負かされてしまいます。
数ヶ月に及ぶ戦いの後、最後には曹操軍に軍配が上がりました。
袁紹はその後も何度か曹操討伐に動きますが志叶わず、201年に病に倒れ、翌年この世を去ります。

この後も曹操の躍進は続き、圧倒的な軍力の前に、中国大陸の北側はほぼ全て曹操の手に落ちました。
袁紹軍の残党まで抱きこんだ曹操にもはや敵なし。
しかし彼の勢いは止まりません。
目指すは南。
いくつかの群雄を制圧すれば全国統一を成し遂げることができます。
父亡き後、長江の東側に位置する揚州を統治していた孫権もそのひとり。
流浪生活を余儀なくされた劉備も曹操の標的となっていました。

三顧の礼と天下三分の計

袁紹軍大敗の後、劉備は荊州の劉表(りゅうひょう)という人物を頼って南へ移動します。
おそらく次に曹操が狙うであろう、南側の要となる土地。
東に孫権有する揚州、西に益州の劉璋(りゅうしょう)が控えています。
ここでも劉備は劉表に気に入られたようで、城をひとつ与えられて暮らしていました。

このとき劉備は、荊州で書生をしている諸葛亮という人物の評判を聞きます。
軍師として諸葛亮を迎えたいと考えた劉備は、山奥の庵に直接、諸葛亮を訪ねていきましたが、諸葛亮に会うことができなかったのです。
のん気なのか真剣なのか、ここであきらめる劉備ではありません。
一度引き返して出直すこと二度、三度目にようやく、諸葛亮との面会を果たします。
当時の劉備は既に40歳を過ぎており、今は故あって居候の身ではありますが、一応、武将として名の通った人物ではありました。
一方の諸葛亮はまだ20代の若者。
それほど有名でもありません。
目上の者が格下の者のところに三度出かけて願い事をすること。
これが、故事成語にもある「三顧の礼」です。
諸葛亮はこのことに大変感激したといいます。

曹操をどう討つか考えていた劉備に、諸葛亮は「天下三分の計」を説きました。
今、曹操を討つのは難しいので、劉備は荊州と益州を平定し、劉備、曹操、孫権で中国を大きく三分割して機会をうかがうべき、というのです。
そして孫権と手を組み、曹操の南征を封じます。
いずれは曹操を討つこともできるでしょう。
漢王朝の復興も叶うでしょう。
諸葛亮は劉備にそう話すのです。
なんと深いお考えだろうか。
劉備の目からうろこが落ちます。
こうして諸葛亮は山を降り、正式に劉備の軍師となったのです。

長坂の戦い

長坂の戦い

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208年、劉備が身を寄せていた荊州の劉表が死去。
後継の劉琮(りゅうそう)はすぐ、既に南下を始めていた曹操に降伏してしまいます。
諸葛亮はこれを機に劉琮を討って荊州の奪取を進言しますが、劉表への恩義から、劉備は踏み出すことができません。
結局、曹操から逃れるために南へ逃げることにしたのですが、劉琮の配下の役人や荊州の民衆が劉備についていくと言い出しました。
劉備の人柄か曹操が怖かったのか、とにかく劉備は、武器を持たない十数万人の民衆を従えて移動しなければなりません。
曹操軍はすぐそこまで迫っていますが、劉備は決して民を見捨てませんでした。

長坂(ちょうはん)という土地でついに、劉備は曹操に追いつかれてしまいます。
ここまでかと思ったそのときです。
義兄弟の三男張飛がわずか数騎を従えただけで、川にかかる橋を落とし、曹操軍数千騎の前に立ちはだかりました。
張飛の迫力に、曹操軍は誰一人動くことができなかったといいます。
あるいは、まさか数名で大軍に立ち向かうつもりはないだろう、何か策があるに違いない、と思わせることができたのかもしれません。

何にしても劉備は、いったんは曹操から逃れることができました。
今こそ孫権と手を結び、曹操を追い払うときです。
諸葛亮は孫権のもとへ向かい、同盟を進言します。
しかし、孫権の家臣たちの多くは曹操に対して及び腰でした。

赤壁の戦い

孫権は黄巾の乱で活躍した孫堅の息子。
孫堅亡き後は兄の孫策(そんさく)が後継となりましたが、孫策は200年に何者かに殺害されてしまいます。
19歳の若さで後を継いだ孫権は、懸命に父と兄の家臣たちをまとめて政策に奔走していました。
曹操はそんな孫権に対してたびたび、自分の下につくよう迫ってきます。
曹操は若い孫権を甘く見ていたのかもしれません。

戦か降伏か。
家臣の大半は降伏派です。
決断を迫られた孫権のもとに、兄の家臣であった周瑜(しゅうゆ)が魯粛(ろしゅく)と共に「抗戦すべき」と進言します。
諸葛亮の説得もあり、孫権は劉備と同盟を結んで曹操と戦う決意を固めました。

曹操は孫権に送った手紙の中で、自分には八十万の兵がいることを匂わせています。
数では圧倒的に不利な同盟軍ではありましたが、周瑜率いるは長江での戦いに長けた水軍。
勝機はこちらにあると周瑜たちは考えていました。
宣言どおり、曹操は見たこともないような大軍で長江を下ってきます。
二軍は深い渓谷が連なる”赤壁”という場所で激突。
水辺での戦いでは周瑜軍が一枚上手で、地形や風向きなどを味方につけ、最後は曹操軍の船に火をつけます。
さらに曹操軍では疫病が広まっていました。
大軍であったことが災いしたのです。
船から船へ火はどんどん燃え広がり、曹操軍は後退を余儀なくされました。

逃げた曹操を今度は劉備が追います。
あと一歩というところまで追い込みはしたのですが、曹操を討ち取ることはできませんでした。
悪運強し、曹操。
三者の均衡はまだまだ続きます。

三国争覇~次の時代へ

三国鼎立と争い再び

三国鼎立と争い再び

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赤壁の戦いの後、孫権との話し合いの後、劉備は荊州の大部分を手にいれ、長年の放浪生活にピリオドを打ちます。
のん気なのか運がないのか、とにかく長い下積み生活でしたが、草履売りから数々の苦難を乗り越えでどうにか、漢王朝の復興が現実のものとなってきました。
この後、劉備は益州も攻め落とし、中国大陸の南西部分を広く領有することになります。
これに意義を唱えたのが少し前まで盟友だったはずの孫権でした。
それなら荊州をよこせと言ってきた孫権と一触即発の状態になってしまいます。

一方、逃げ延びた曹操はいったん北に戻り、体制を立て直していました。
そして213年、形ばかりとなって久しい漢皇帝から国の一部を譲り受けるような形で魏を建国します。
曹操の目的は漢から王朝を奪うこと。
このとき曹操は既に六十歳近くになっていたと思われますたが、まだまだ元気。
気合十分。
劉備と孫権がいがみ合っている間に、曹操の動きが再び活発になります。
劉備は孫権に荊州の一部を渡すことで一応は和解を見せますが、緊張はなおも続きます。

219年、劉備は漢王朝ゆかりの地でもある漢中へ進軍。
奪取します。
曹操が魏を建て魏王と名乗ったことに抵抗を感じ、触発されて漢中王を主張したかったのかもしれません。
このとき荊州に残って領地を守っていたのが関羽でした。
これを機と見た曹操は、荊州の一件で劉備たちをよく思わない孫権に同盟の話を持ちかけ、劉備の留守を攻撃するようけしかけます。
孫権は荊州を占拠。
関羽は捕らえられ、処刑されてしまうのです。

義兄弟の契りを交わし、数十年に渡って苦楽を共にしてきた腹心、関羽。
その首をとったからには、劉備との対立は必至です。
関羽を失った劉備の怒りと悲しみは尋常ではありませんでした。

劉備の死

翌年220年。
曹操が病に倒れ、この世を去ります。
曹操には25人の子供がいたそうですが、後を継いだのは曹丕(そうひ)。
彼は形ばかりの漢皇帝から印を受け、魏の皇帝に即位します。
漢王朝に変わって魏王朝が誕生。
都を許昌から洛陽に移しました。
この翌年、劉備も皇帝に即位。
漢の後継者(蜀漢)と名乗ります。

皇帝になった劉備は、家臣たちの多くが反対する中、関羽の仇討ちを決意します。
劉備の決意は固く、張飛もこれに同意し出陣の準備に取りかかっていました。
ところがその矢先、今度は張飛が、厳しい調練に不満を抱いていた部下たちに殺されてしまいます。
その部下たちは張飛の首を持って孫権のもとへ逃げて行きました。
劉備の孫権への怒りがますます募ったことは言うまでもありません。

孫権が和平を求めてきましたが、劉備はこれに耳を貸しませんでした。
221年、劉備は義兄弟たちの報復戦のため進軍します。
劉備の最終目標は漢王朝の復興。
いくらく関羽、張飛のためとはいえ、私怨のために国の兵を動かすべきではありません。
しかし諸葛亮は劉備を静かに見守りました。
止めても劉備が歩みを止めることはないだろうとわかっていたのでしょう。
劉備は孫権の領地近くまで軍を進めますが陣営に火を放たれ、大敗します。
孫権軍は曹操に隙を突かれることを恐れて劉備の追走はしませんでした。
その後、蜀と孫権の間で再び和睦が成立しますが、劉備は病で伏せてしまいます。

関羽、張飛の仇討ちはかなわないまま、劉備は223年に永眠します。
息子の劉禅が二代目の皇帝となりました。

孫権は劉備との和睦の後も、蜀、魏からの攻撃を恐れて皇帝を名乗ることを敬遠していましたが、劉備の死後数年が経った229年、ついに呉の皇帝に即位します。
ついに、中国大陸に3人の皇帝が同時に存在することとなったのです。

諸葛亮の想いと三国のゆくえ

諸葛亮の想いと三国のゆくえ

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劉備の死の前後、蜀の国力は著しく衰えます。
国主の不安定な胸の内を見透かすように、異民族の侵攻や国内の反乱が頻発。
諸葛亮は劉備の意志を継ぎ、漢王朝の復興を目指して力を尽くします。
自ら出兵し、南を平定。
その後、魏を責めるべく北伐を開始します。
兵糧(食料)の確保に苦心しながら攻めること5回。
しかし魏を攻め落とすことは叶わず、遠征先で病に倒れてしまいます。
劉備という主に一筋従い続けた天才軍師は静かに54歳の生涯を閉じたのでした。

諸葛亮の死後、漢王朝の復興を望む者はいなくなります。
三国はそれぞれ、後継者争いや内紛を抑えきれず、力を弱めていきました。

魏では、諸葛亮の北伐を防ぎきった司馬懿(しばい)が国内でも次第に力をつけていきますが、皇帝の側近から疎まれ虐げられ、繰り返し衝突します。
司馬懿は虎視眈々と、魏を乗っ取る機会を狙っていたのです。

歴史は繰り返します。
かつて曹操が漢の皇帝から印を受けたように、司馬懿の孫にあたる司馬炎は265年、魏の最後の皇帝から印を譲り受け、晋という統一王朝を打ち立てました。
280年に呉が晋に滅ぼされ、三国時代は終焉を迎えます。
中国の歴史上初めて、3人の皇帝が存在した激動の時代は、司馬一族による晋(西晋)という統一王朝の誕生で幕を下ろすことになりました。

3人の英雄と三国志

三国志、三国時代といいますが、三国が建国され皇帝が誕生したのは100年のうち40年ほどの間。
前半はまだ三国の形すらなく、お飾りではありましたが漢王朝の皇帝が即位していました。
三国時代の半分くらいは漢王朝だったわけです。
中国大陸は再びひとつの王朝、ひとりの皇帝が統治する時代へと移り変わっていきました。
司馬一族が起こした晋王朝は後に都を南方へ移していますが、広大な領地を有したまま、420年に宋が建国されるまで続きます。
いずれ全国制覇を成し遂げるつもりで、あえて天下三分の道を選んだ劉備と、それに呼応するようにそれぞれの国を打ち立てた曹操、孫権。
結局、三国擁立の時代は長くは続きませんでした。
3人とも晋の建国より前に他界していますが、新しい王朝の誕生は、3人の目にはどのように映ったのでしょう。

劉備が呂布に追われて曹操のもとに身を寄せたとき、曹操は劉備を快く迎え入れ、対等に扱ったといいます。
あるとき曹操は劉備に「今、天下に英雄といえる者は、おまえとわたしの二人だけだ」と語ったのだそうです。
このとき劉備はまだ拠点も城も持たない居候の身。
でも曹操は既に、劉備の器を見抜いていたのでしょう。
電話もネットもない時代に、よくここまで人を見抜き、物事を見極めることができたものだとつくづく思います。

孫権も含めて3人とも、最終的には国の楚となりましたが、失敗も重ねてきました。
でも前に進む。
家臣のため、領民のため、己のプライドのため、野心のため。
失敗を恐れず駆け続けた3人の存在があったからこそ、三国志は今も多くの人から支持され、愛され続けているではないでしょうか。

一度は訪れてみたい「赤壁」

中国湖北省の赤壁市。
赤壁の戦いが繰り広げられた場所は武漢から100㎞以上離れており、交通の便の悪いところながら、三国志ファンが多く訪れるのだそうです。
揚子江のほとりから対岸を眺め、曹操軍の船が何百隻も現れたとしたら相当な威圧感だったに違いない、などと遠い昔に想いを馳せる人が多いのだとか。
2000年近い時が流れて時代は変わってしまいましたが、揚子江の流れは劉備や曹操、孫権が見つめていたときと同じはず。
ほとりに立てば、川はもっと多くの歴史を語ってくれるのかもしれません。
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