観光の前に知りたい!ドイツの近代史が詰まった「ベルリン」の歴史

統一ドイツの首都であり、ドイツ最大の都市・ベルリン。

人口は350万人、これはドイツで最大であることはもちろん、ヨーロッパではロンドンについで第2位。イギリスがEUを離脱するとEUで最大の都市になります。

旧ドイツ帝国、そしてナチス=ドイツの首都だったベルリンは2度の戦禍に見舞われ、その後の東西冷戦時代はそれを象徴する都市でした。ベルリンを東西に引き裂く「壁」が建設され、西ベルリンは「赤い海に浮かぶ自由の島」とも言われました。ベルリンはまさに、「冷戦の最前線」だったのです。

「壁」が壊され、再びひとつになったベルリン、その歴史を紐解いてみましょう。

都市ベルリンの姿

都市ベルリンの姿

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“ベルリン”の名前の由来は?

「ベルリン」という地名の語源ははっきりしていません。

ある説によれば、西スラブ人が現在のベルリン一帯に住み着いたときに彼らの言葉で「湿地」を意味する“berl(birl)”という言葉がもとになったと言われています。
ベルリンは、フランスからロシアまでつながる「北ヨーロッパ平野」のうち、土地の低い湿地帯にあるため、この一帯をこう呼んだのかもしれません。
もうひとつはドイツ語で「熊」を意味する“Bär”に結びつくとされるもので、根拠はないとされる一方で、今日のベルリンの紋章には熊が描かれています。

位置的にはドイツの東部、お隣のポーランドとの国境からは60㎞しか離れていません。
地名にもあらわされている通り、平坦な低い土地で周囲を森林に囲まれています。
ベルリンからポーランドのワルシャワの間は最終氷期に形成された谷となっており、シュプレー川がそこを流れています。
今のベルリンはこのシュプレー川の流域両岸に都市が広がっています。

ベルリン郊外に目を向けると森林と湖が多いのが特徴です。
ベルリンを流れるもうひとつの川、ハーフェル川の流れに沿って湖が点在しています。

夏は温暖で湿気があり、冬は寒冷な「西岸海洋性気候」に属し、降水量は年間を通じて平均しています。
冬は雪が降るときもありますが、積もった状態が長く続くことはありません。

今のベルリンの立ち位置

現在は統一ドイツの首都ですが、ドイツ国内でのベルリンは「立法・行政の中心」という立ち位置です。
ドイツは長い歴史を「分裂国家」として過ごした経緯もあってか、「地方分権」が進んでいます。
そういった事情もあって例えば経済の中心はフランクフルト、法律はカールスルーエといった具合に、それぞれの都市がそれぞれの役割、立ち位置を持っています。

とはいえ、ドイツの中心都市がベルリンであることに変わりはありません。
サービス産業を中心に経済も発達しており、交通の要衝でもあり、観光都市でもあります。
有名な大学や博物館もありますから学術都市の顔も持っています。
政治・文化・科学などの様々な分野でドイツ国内のみならず、世界的にも進んだ世界都市なのです。

ドイツは「連邦制」の国でいくつかの「連邦州」に分かれていますが、ベルリンは「ベルリン市」としてひとつの「連邦州」とされています。
つまりベルリンは一般の都市以上に行政の権限が認められているということです。
ドイツ国内にはベルリンのほかにあとふたつ、ハンブルクとブレーメンが連邦州とされています。

小さなベルリンの誕生

小さなベルリンの誕生

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ベルリンのはじまりから“スラブ人のベルリン”まで

ベルリンの周辺に人間が生活し始めた時期は紀元前6万年ごろと言われます。
この時期を含む紀元前7万年から紀元前8000年頃は「ヴェルム氷期(最終氷期)」にあたり、北部ドイツや東部ドイツではまだ氷が残っていましたが、氷が少なくなってきたベルリン周辺はシュプレー川に沿って形成された台地にシカやイノシシといった動物が定着、それを追って人間が住むようになっていました。
火打石や骨を細工した道具などが見つかっています。
さらに紀元前9000年頃には石斧などの道具も使っていたようで、狩猟を生業とする人類が定住していたということです。

紀元前3000年頃になると農耕や家畜飼育の痕跡も現れ、土器や備蓄のための倉庫などをつくるなど、この地域で農耕文化が定着し始めました。

紀元前6世紀ころにはこの地域に「ゲルマン民族」が定住していたようです。
タキトゥスの「ゲルマニア」に登場する“スエビ族”の一部と考えられる“ブルグンド族”などの名前がこの土地に定住した部族として勢力を拡大していました。

紀元4世紀以降ゲルマン民族の大移動が始まり、ハーフェル川やシュプレー川周辺からゲルマン系の部族は離れて行きます。
これに乗じてスラブ人が流入、720年頃のベルリン周辺はスラブ人の住む土地となっていました。

ドイツ人のベルリン奪還 アルプレヒト“熊公”の活躍

すべてのゲルマン系の人々がベルリン周辺から離れていったわけではもちろんありません。
この地域に残ったゲルマン人もいました。
しかしゲルマン人がローマ帝国領内に侵入し、定着したのと同じく、スラブ人も移住先に定着して独自の社会をつくります。
残されたゲルマン人はベルリンの奪還を試みますが失敗に終わることが長く続きました。

“ゲルマン人”、すなわちドイツ人の“ベルリン”奪還は1157年、アルプレヒト1世がスラブ人を撃退し「ブランデンブルク辺境伯」となる時まで待たなくてはなりませんでした。
アルプレヒト1世はドイツ人が現在の東部ドイツを含む地域に進出する足掛かりをつくった一人です。
スラブ人の土地となっていたベルリンを含むブランデンブルク辺境伯領を神聖ローマ帝国の一部としました。

アルプレヒト1世は別名を「アルプレヒト熊公」といいます。
なぜ「熊公」なのか、実ははっきりした説明は残されていません。
もしかすると、これはあくまで筆者の想像ですが、ベルリンの地名の由来のうちのひとつ、“Bär(熊)”に関係があるのかもしれませんね…。

諸侯のベルリンをめぐる争い

諸侯のベルリンをめぐる争い

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歴史の舞台に登場するベルリン

アルプレヒト1世の活躍によりドイツ人の住む地域となったベルリン。
最初に村落が形成されたのはシュプレー川沿いにできた台地のひとつテルトウ台地です。
アルプレヒト1世の子孫・アスカニア家により開拓が進められていきました。

12世紀の終わりころから13世紀にかけて、現在のベルリンを構成する地域の名前が古文書などに現れるようになります。
「シュパンダウ」、「ケーペニック」といったスラブ人が多く居住する地域に続いて、「ケルン」、「ベルリン」といった地域が文書に登場し始めます。
「ベルリン(アルト=ベルリン、古ベルリン)」はテルトウ台地とバルニム台地に挟まれた沼地でシュプレー川右岸の浅瀬に沿って建設されました。
また「ケルン」はシュプレー川の中州に形成された地域です。

考古学的な調査でもこれらの地域へのドイツ人の入植がはじまったのは12世紀末以降であることがわかっています。
発見された木材を年輪によってどの時代のものか判別する「年輪年代学」による研究が進んだ結果、ケルン地域やアルト=ベルリン地域でその時代のものと思われる木材が見つかっています。

アスカニア家とヴェッティン家のベルリンをめぐる抗争

13世紀以降、アルプレヒト1世の子孫・アスカニア家によるこの地域への入植と開発が盛んになったのには理由がありました。
有力諸侯でザクセンやテューリンゲンを支配していたヴェッティン家との勢力争い。
特にアルト=ベルリンとケルンは、テルトウ台地やバルニム台地に勢力を伸ばすヴェッティン家に対抗するために、重点的に開発がすすめられたのです。

当時の両家の境界線はちょうど現在のベルリンを東西に分ける位置にひかれ、緊張関係が続いていました。
1239年から1245年の間、両家は戦闘状態に入り、戦いに勝利したアスカニア家がテルトウ台地とバルニム台地(一部を除く)を確保、これによって現在のベルリンの市域が形成されるのです。

ベルリンにハンザ都市などのような「都市特権」が認められたのは1232年、現在はベルリン市域の一部となっているシュパンダウに認められたのが最初。
その後、1307年にはアルト=ベルリンとケルンが統合され、シュパンダウなどの地域に対して経済的に発展してゆきます。

こうして、現在のベルリンを構成する諸地域はアスカニア家の統治のもとで14世紀初頭にかけて発展して行きました。
しかし、1320年にアスカニア家は後継者がなく断絶してしまいます。

ブランデンブルク選帝侯とホーエンツォレルン家

ブランデンブルク選帝侯とホーエンツォレルン家

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神聖ローマ皇帝選挙とブランデンブルク

アスカニア家の断絶後、ベルリンを含むブランデンブルク辺境伯領は時の神聖ローマ皇帝・ルードヴィッヒ4世により息子に与えられ、ヴィッテルスバッハ家が統治することになりました。
ヴィッテルスバッハ家の統治は、皇帝に反抗的な態度を示したベルリンの司祭を焼き殺すなど強圧的なものでした。
これに対して教皇はベルリンに対して聖務を禁止するという対抗措置をとったのです。

その後もブランデンブルク辺境伯領の統治者は度々変わります。
その背景のひとつとして神聖ローマ帝国(ドイツ)の皇帝の立場をめぐる争いがあります。
当時の神聖ローマ皇帝は有力諸侯の選挙によってえらばれていました。
選挙に参加する諸侯はその領地で決まっており、「ブランデンブルク辺境伯」は選挙に参加できる「選帝侯」の地位だったのです。

ルクセンブルク家の皇帝カール4世は「金印勅書」と呼ばれる皇帝選挙に関する法律を定めた上で選帝侯を4人とします。
その中で巧妙にライバルを除外しつつ、ヴィッテルスバッハ家からブランデンブルクを買収し、彼の息子、ヴェンツェルに与えたのです。
その後同じカール4世の子、ジギスムントがブランデンブルクを治めることになりましたが、この頃にベルリンでは大火災が起こって市庁舎や教会などの建物に壊滅的な被害がありました。

神聖ローマ皇帝となったジギスムントは1415年にブランデンブルクをニュルンベルク城伯フリードリヒ6世に与えます。
このニュルンベルク城伯こそ、後にベルリンを中心にドイツ統一を果たす「ホーエンツォレルン家」出身の人物なのです。

ホーエンツォレルン家の登場とベルリンの変容

帝国内の諸侯の主導権争いの結果としてブランデンブルク選帝侯となり、ベルリンのあるじとなったホーエンツォレルン家に対してベルリンの市民はあまり「歓迎ムード」ではなかったようです。
1448年には新たな宮殿の建設に反対して反乱が起こっています。
ただしこの反乱は成功せず、ベルリンはホーエンツォレルン家の拠点となり、ベルリンの市民は政治・経済的な自由、さらには13世紀に獲得した都市特権を失うことになってしまいました。
経済活動もそれ以前の交易・通商を中心とする産業から、貴族階級向けのぜいたく品の生産が主になって行きます。

こうしてベルリンの都市としての「自由な空気」は次第に失われてゆきます。
17世紀に入るころには人口は増加して12,000人ほどまで急速に膨らみましたが、その一方で「貧困」も増えたのです。
さらに問題となったのは「ユダヤ人」。
ハンザなどの都市には多くのユダヤ人が暮らしていてその土地に定着し、商業などを営んでいました。
ベルリンも同様でユダヤ人は数多く暮らしていたのですが、「聖体を盗んだ」という、いわれもないような罪を着せられて多くが追放され、斬首されたり、焼き殺されたりしたのです。
その後、追放されたユダヤ人は30年を経て一度はベルリンに戻ることを許されましたが、再度追放されてその後100年、戻ることは許されませんでした。

近代の幕開け

近代の幕開け

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宗教改革の時代

ベルリンが変容しつつあった16世紀、ドイツのみならずヨーロッパ全土を包み込むような変化が起こります。
「宗教改革」です。
それまでのヨーロッパを「支配」してきたカトリック教会に対する批判が、宗教的な分裂にまで発展しました。

ベルリンは宗教改革を受け入れ、推し進めた都市。
ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世は教会が持っていた世俗的な領地を差し押さえます。
そこで得られた資金は公共事業に使われました。
ただしその事業は自分の狩猟場の宮殿とベルリンの宮殿とを結ぶ道路を建設するというものでしたが…。

話がそれますが、この時代にちょっと奇妙な「戦争」が起こっています。
戦ったのはベルリンとシュパンダウ。
1567年、もともと摸擬戦だったはずのものが、負ける役を与えられたシュパンダウの方が不満で「負け」を拒否、本当の戦闘になってしまったというもの。
3日間続いた戦闘の結果はベルリン側の大勝利だったとのことです。

そんなベルリンの人口が半減するような被害を受ける戦争の足音がすでに聞こえ始めていました。
各国の宗教対立と利害の対立が絡み合い、ヨーロッパの多くの国々が巻き込まれた「三十年戦争」です。

ベルリン文化の発展と三十年戦争

「三十年戦争」は元々、「カトリック対プロテスタント」といったキリスト教の新旧対立が発端ですが、そこにドイツの各諸侯、ヨーロッパ各国の王家の利害が複雑に絡み合った結果、30年という長期間にわたって断続的に戦闘が行われることとなりました。
ベルリンもこの戦争中に被害を受け、市内の家屋の3分の1が損壊、人口も半減してしまいます。

一方でこの時代はベルリンに新たな息吹を吹き込むことにもなります。
1640年、“大選帝侯”フリードリッヒ=ヴィルヘルムは宗教寛容策と移民の受け入れを打ち出します。
ベルリンの市域を拡張し、“フリードリッヒヴェルダー”や“フリードリッヒシュタット”といった周辺地区を築いていきました。

さらにフリードリッヒ=ヴィルヘルムは「ポツダム勅令」を発布し、フランスのカルヴァン派の新教徒「ユグノー」の移住を受け入れます。
この後、たくさんのフランス人がベルリンで暮らすようになり17世紀末には市の人口の20%ほどに増えて行きました。
このフランス人たちが後のベルリンの文化に大きな影響を与えるようになるのです。
また、彼はユダヤ人も受け入れました。
ユダヤ人はこの頃、カトリックの地域で迫害され、追放されることが多かったのです。
オーストリアを追放されたユダヤ人50人がベルリンで暮らすこととなりました。

他にもボヘミアやポーランド、ザルツブルクなど君主がカトリックを擁護する国や地域からベルリンに移民が集まるようになったのです。

王都・ベルリンの誕生

ベルリンのあるじ・ホーエンツォレルン家は次第に領土を拡大して行きます。
とりわけ、現在のポーランド・ロシア・バルト三国にあたる地域、「プロイセン」を支配下に置いてからは「プロイセン公」を名乗っていました。

1701年、ブランデンブルク選帝侯・フリードリッヒ3世が神聖ローマ皇帝から「プロイセン王」として認められると、フリードリッヒ1世としてそれまでバラバラだったホーエンツォレルン家の所領をまとめて支配するようになります。
シャルロッテンブルク宮殿を造営し、ベルリン王宮を拡張するなどベルリンを王都として整備しました。

さらにそれまではそれぞれが独立した区域であるベルリン・ケルン・フリードリッヒスヴェルダー・ドロテーエンシュタット・フリードリッヒシュタットを統合して「王都ベルリン」とします。
実はこの時までベルリンは小さな都市でしかありませんでした。
現在ベルリンの一部となっているそれぞれの地域は別々の都市でした。
ですから先ほどのような摸擬戦が実戦になってしまうような事件も起こったのです。
城門の周囲には新たに郊外地域の開発も進められます。
ようやく現在の「大ベルリン」が生まれつつありました。
人口も18世紀初頭には55,000人だったものが中頃には10万人を突破します。
時は「兵隊王」と渾名されたフリードリッヒ=ヴィルヘルム1世の時代、ベルリンの兵士の数は5,000人から2万6千人に増えていました…。

フリードリッヒ「大王」の意外な幼少時代

フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世の跡を継いだのはフリードリッヒ2世。
「大王」と呼ばれた国王です。

フリードリッヒ2世は在位中に2度にわたってオーストリアと争い勝利するなど、軍事的才能と国家経営に優れた力を発揮した国王である一方、「啓蒙専制君主」の典型とされ、芸術や文化にも造詣の深い人物でした。
これは母親の影響が非常に大きなものでした。
自らフルートの演奏をしたと言われます。
一時的とはいえ、フランスの哲学者・ヴォルテールとも親交を結び、「哲人王」とも称されました。

父・フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世は「兵隊王」と呼ばれた人物。
息子が芸術などに夢中になることを快く思うはずはありません。
それでも母の血を受け継いだ芸術家気質は如何ともしがたく、幼いフリードリッヒ2世は父親から虐待にも似た仕打ちを受けていました。

そんなフリードリヒ2世が父のもとから逃亡するという事件が起きます。
ほどなく彼は連れ戻されますが、フリードリヒ2世は幽閉され、逃亡を手引きしたとされた近衛騎兵隊少尉が捕らえられ、彼の目の前で処刑されました。

こういった事件があったからでしょうか?フリードリッヒ2世はベルリンの王宮よりはポツダムに造営された宮殿・サンスーシに好んで滞在することが多くなりました。
兵士に上下の隔てなく接し、人気も高く「大王」と呼ばれたフリードリッヒ2世にとってベルリンは、若き日の辛い思い出が詰まった街だったのかもしれません…。

「革命」と「ナポレオン」の時代のベルリン

「革命」と「ナポレオン」の時代のベルリン

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ナポレオンとベルリンの自由

フリードリッヒ2世の治世はベルリンが自由な空気に包まれ、啓蒙思想の中心地となりました。
しかしその後継者、フリードリッヒ=ヴィルヘルム2世の時代になると検閲が強化され、市民は抑圧されるようになります。
一方でこの時代はベルリンの景観が変化した時期でもあります。
それまで町の周囲を囲み某劇とされてきた城郭を廃し、新たな城郭を築きます。
さらに今やベルリンのランドマークとなっている「ブランデンブルク門」が建設されました。

この門の前でパレードを行い、ベルリンに再び自由な空気を送り込んだフランス人が登場します。
それは「フランス皇帝ナポレオン1世」。
1806年にベルリンはナポレオンに占領されました。

フランス占領下のベルリンは民主化がもたらされ、自治権も獲得。
1809年には制限選挙ではありましたが初の議会選挙が行われます。
ベルリン大学(後のベルリン・フンボルト大学)の創設や、初の日刊紙の登場など、停滞気味だった改革が進められて行きました。
また、ユダヤ人がベルリンに居住することも許されます。

しかし、こうした民主的な流れは長くは続きませんでした。
ナポレオンの敗北によりベルリンは再び市民が抑圧される時代に戻されるのです。

革命の世紀の中のベルリン

19世紀前半に入るとベルリンにも「産業革命」の波が押し寄せます。
プロイセン初の鉄道会社が設立され、ベルリンとポツダムを結ぶ路線が開業、ベルリンは鉄道の街として急速に発展しました。
人口も20万人から40万人に倍増、ヨーロッパでも指折りの大都市に急成長します。

同じく19世紀、ヨーロッパは「革命の時代」でした。
特に1848年2月フランスで起こった「2月革命」の影響は非常に大きく、翌3月にはベルリンで市民と軍隊の大規模な衝突(バリケード蜂起)が発生します。
これはほどなく鎮圧されますが、その際に国王・フリードリッヒ=ヴィルヘルム4世が行った約束を守らなかったために、6月に再び市民がベルリンの兵器庫を襲撃、これを契機としてベルリンの自治はさらに制限され、選挙もさらに参加の要件となる納税額を引き上げられるなど、反動的な政策が実施されました。

他方で、この自由主義の運動はこの後のドイツ統一の道筋をつけることとなります。
フランクフルト国民議会でプロイセンを中心とする「小ドイツ主義」でのドイツ統一が示されたのです。
この時はフリードリッヒ=ヴィルヘルム4世がドイツ皇帝となることを拒絶したため、この試みは失敗しました。
しかし、跡を継いだ弟のヴィルヘルム1世の時代、ベルリンはいよいよ「プロイセン王国の王都」から「ドイツ帝国の帝都」になる時がやってくるのです。

「帝都」から「共和国」の首都へ

「帝都」から「共和国」の首都へ

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帝都・ベルリンの誕生と都市域の拡大

ヴィルヘルム1世がプロイセン国王となると、市民は自由化を期待し、国王も自由主義的な大臣を起用しました。
現在のベルリンの市庁舎である「赤の市庁舎」もこの時期に建設されます。
都市としてのベルリンも急速に拡大、近隣を編入していきました。

鉄血宰相と言われるビスマルクの下で、普墺戦争でオーストリアを破りドイツ統一の路線から脱落させ、さらに普仏戦争でフランスの干渉を排除したプロイセン王国が中心となって「ドイツ帝国」が誕生します。
ベルリンはついに「帝都」となりました。

この頃のベルリンの急速な発展、特に急激な人口増加は都市のインフラに様々な問題を引き起こしていました。
ベルリンの人口は80万人を超え、それまでの施設・設備では追いつかない状況になったのです。
鉄道網や上下水道などが急ぎ整備されていきます。
途中、不況がベルリンを襲いますが、その間も都市開発は進められました。
19世紀末には地下鉄も登場、近郊を結ぶ鉄道と合わせて拡大する市域の輸送に対応を図ります。
低所得者用の集合住宅、中産階級向け住宅地、高級住宅街などが次々に整備され、ベルリンは帝都にふさわしい近代都市となって行きました。

「大ベルリン」の成立

第一次世界大戦でベルリンは深刻な食糧難に見舞われます。
特に1916年から翌17年にかけての冬期間は15万人が食糧支援を頼るような状況で、ストライキも発生します。

終戦と同時に時の皇帝ヴィルヘルム2世が退位、ドイツ帝国は崩壊します。
代わってヴァイマル共和国が成立、ベルリンは共和国の首都となりました。

20世紀に入ってもなお発展を続けるベルリンは、さらなるインフラ整備を迫られます。
第一次大戦前にインフラ政策の調整のために設置された「大ベルリン広域連合」は1920年に「大ベルリン」の設置として実を結びます。
ベルリンは、かつて摸擬戦が本当の戦争になってしまったあのシュパンダウを含む7つの市、59の村、そして27の区域を統合してほぼ現在の姿となりました。
人口は統合前の190万人にさらに190万人を加え、380万人を越えます。
これは当時、ロンドン、ニューヨークに次ぐ世界第3位の人口です。
さらにベルリンはひとつの行政管区として“州”に近い権限を与えられ(実際は1881年からこの地域を含むブランデンブルク州から独立的な地域でしたが)、これが現在まで続いています。

共和国の首都、そして黄金時代

このようにヴァイマル共和国の首都として発展を続けるベルリンでしたが、その一方で第一次大戦での敗戦の影響はこの街にも影を落とし続けていました。

敗戦国ドイツには莫大な賠償金の支払いが求められます。
政府はこれに対して大量の貨幣を発行することで対応しましたが、そこにさらに追い打ちをかけるようにハイパーインフレーションが起こり市民を苦しめました。
それでもアメリカなどの支援により立ち直りの気配を見せた時期もあります。
1920年代中盤から終りにかけて、ベルリンは経済的にも最高潮の時期を迎え、文化の面でも物理学者のアインシュタインや、俳優のマレーネ・ディートリッヒが活躍するなど、ヨーロッパにおける文化の中心のひとつでした。
インフラの整備も進み、国際空港としてテンペルホーフ空港が開港、市内を結ぶ鉄道の電化が進むなど、この時期のベルリンはある意味で「黄金期」を迎えたのです。

しかし、この黄金期は長くは続きませんでした。
立ち直りかけた経済が1929年の「世界恐慌」により再び危機に瀕します。
そしてそれはこの後のベルリンの歴史に暗い影を落とすことになるのです。

第二次世界大戦直前のベルリン

第二次世界大戦直前のベルリン

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左派勢力の牙城・ベルリン

ドイツ、そしてベルリンが敗戦後の経済的混乱を乗り越え、黄金期を迎えていた間にも、この後に訪れる暗い時代の足音は聞こえ続けていました。
ロシア革命に代表される共産主義革命の波と、後のナチスドイツにもつながる右派勢力の台頭がベルリンでいくつかの象徴的な事件となります。

ドイツ共産党は1918年12月にベルリンで誕生しました。
翌年の1月に「スパルタクス団の蜂起」としてロシア革命を再現しようと暴動を起こします。
しかしこの蜂起は失敗、首謀者とされるローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは捕らえられて処刑されました。
失敗はしましたが、ベルリンはこの後もドイツにおける社会主義・共産主義の牙城となります。

右派勢力の実力行使は政治家であったヴォルフガング・カップによる「カップ一揆」に象徴されます。
武力による政権転覆を試みましたが、準備不足の上に左派勢力による労働者のゼネストにも阻まれて失敗しました。

共和国外相・ラーテナウが極右勢力に暗殺される事件が起こります。
ラーテナウは当時誕生したばかりのソヴィエト連邦との国交を開くことに尽力しましたが、これに不満を持った極右勢力によって殺されたのです。
その葬儀に50万人のベルリン市民が参列しました。
ラーテナウは左派ではなかったのですが、右派の台頭に市民はショックを覚えたのです。
ベルリンは左派の中心であってナチズムの中心ではありませんでした。
しかし、後の歴史はベルリンをナチスドイツの盛衰を象徴する街にしてしまうのです。

ナチスの「世界首都計画」

1933年、ヒトラーが首相に就任、ドイツはナチス政権のものとなります。
ベルリンはナチスドイツと、かろうじて生きながらえていたヴァイマル共和国双方の首都となりました。
ベルリンのドイツ国会議事堂放火事件はヒトラーにヴァイマル共和制の憲法の基本権を停止するチャンスを与え、ナチスドイツは完全にベルリンを、そしてドイツを掌握してしまいます。

ヒトラーは、ベルリンを「世界の首都」としてそれにふさわしい姿に改造しようとしていました(「世界首都ゲルマニア計画」)。
実のところ当時のベルリンは人口などの面では世界的な大都市でしたが、建築物は地方的で見劣りのするものでした。
戦争に勝利した後に、ロンドンやパリに見劣りのしない「世界首都」とするという計画でしたが、一部の建物を除いてその計画のほとんどは未完成のままとなっています。

一方、1936年に開催された「ベルリンオリンピック」はナチスのプロパガンダに利用されました。
1937年の「ベルリン700周年」の祝賀行事でさえ、ナチスは自らのプロパガンダに利用したのです。
こうしたナチスの煽動による熱狂はベルリンを次第にナチスドイツの首都として完成させていきます。

ベルリンのユダヤ人迫害

ナチスによるベルリン支配はユダヤ人にも及びます。
その頃ベルリンには16万人のユダヤ人が暮らしていました。
これはベルリンの人口の4%にあたります。
ナチスはユダヤ人の経済活動を妨害、「ユダヤ人ボイコット運動」を展開して非ユダヤ系の市民がユダヤ系の商店から物を買わないようにするなど、ユダヤ系住民への迫害を強めていきました。
オリンピックの期間は参加各国に「普通の国」であることを印象付けるために迫害は緩みましたが、オリンピック後は再び強化されます。

1938年11月9日夜半に起こった「水晶の夜事件」はこうしたユダヤ人迫害の象徴的な事件のひとつです。
ベルリンでも12あったシナゴーグ(ユダヤ教の教会)のうち9つが焼き払われ、ユダヤ系の商店や家が破壊、多くのユダヤ人が拘束されました。

ベルリンに暮らすユダヤ人は鉄道でリッツマンシュタットにあるゲットーに送られます。
さらにはベルリン西部のヴァン湖畔で開かれた会議で「ホロコースト」の実施が決められ、この後多くのユダヤ人が殺害されることになりました。
ベルリンにも強制収容所がつくられ、そこでユダヤ人は強制労働に従事させられ、そして多くのユダヤ人が殺害されました。

第二次世界大戦と戦後のベルリン

第二次世界大戦と戦後のベルリン

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廃墟となったベルリン

第二次世界大戦が開戦しても、はじめのうちはベルリンが直接的な被害を受けることはありませんでした。
しかし、戦況が悪化するにつれてはじめはイギリスの、後にアメリカを加えたベルリンへの空襲が行われ、市域の5分の一が失われる被害を受けました。
鉄道などの交通機関も破壊され、壊滅的な被害を受けています。
ベルリンに投下された爆弾は45万トンにも上りました。

さらに1941年に始まっていたソ連との戦争(独ソ戦)も劣勢に立たされ、ソ連軍がベルリンに迫ってきます。
総統・ヒトラーの誕生日である1945年4月20日、ソ連軍はベルリンに対して砲撃を開始するとともにベルリンを包囲。
翌21日には市街戦が始まります。
侵攻したソ連軍は市街を徹底的に破壊し、ヒトラーは4月30日に総統官邸の地下で自殺。
5月2日にベルリンの防衛軍が降伏してベルリンは陥落しました。

戦いが終わった後のベルリンは60万戸の住宅が全壊、市街地のうち28.5㎢が廃墟と化してしまいました。
百貨店も2軒に1軒が崩壊、そこには世界首都の姿はおろか、戦前の姿さえありません。
人口も戦争が始まったころに比べると100万人が失われていたのです。

東西冷戦の象徴

戦禍で焦土と化したベルリンにさらなる不幸が訪れます。
ベルリン侵攻より以前にアメリカ・イギリス・フランス・ロシアの連合国間でドイツの分割占領は決まっていました。
さらにその中ではベルリンについても4か国で分割占領されることが定められていたのです。
ベルリン自体はソ連の占領区域にありましたが、その中のベルリンをさらに分割するといった取決めが、この後のベルリンの歴史をさらに複雑にします。

1945年夏、それまでベルリン全域に駐留を続けていたソ連軍は他の3か国の占領地区から撤兵、4か国による分割統治が始まりました。
しかしすでに始まっていた東西の政治的対立はベルリンをその象徴的存在として激しさを増して行きます。
共産主義の封じ込みを狙うアメリカとそれに同調する(せざるを得ない)イギリス・フランス、そして西側の一方的な通貨改革や復興プランに反発するソ連という構図は、米英仏の管理する西ベルリンの「封鎖」という事態に発展します。
これに対して西側は物資を空輸する「空の架け橋作戦」で対抗、失敗を認めたソ連は封鎖を解除します。

一方でソ連の管理下にある東ベルリンでは1953年6月に暴動が発生します。
発端は建設労働者のストライキでした。
当初300人程度だったストライキ参加者がデモ活動を行うと4万人に膨れ上がり、事態を収拾するために東ドイツ政府がソ連軍の介入を許したことから暴動となり、ソ連軍に鎮圧されます。

このような東西対立を象徴するような出来事が、この後もベルリンでは続いて行くのです。

ベルリンの壁

東西に分裂したドイツはそれぞれ、ベルリンを「首都」と考えていました。
どちらの「ドイツ」もかつての「大ベルリン」こそ、ドイツの首都であると認めていたのですが、東西の冷戦が激しくなる中ではその望みが叶うことはなく、むしろ分断の方向に向かってしまいます。

それを象徴するのが「ベルリンの壁」の建設。
東西に分割されたベルリンのうち西ベルリンは「自由世界へのショーウィンドウ」でした。
“東側世界よりも豊かな西側の暮らし”を目にするにつれ、東ベルリンの市民は西へと脱出を図るようになります。
先のベルリン暴動での東ドイツ、さらにソ連の態度も社会主義体制への疑問と不満を高める結果となっていました。
市民の流出を抑えきれなくなった東ドイツは1961年8月12日、東西ベルリンの境界の通行をすべて遮断、西ベルリンを有刺鉄線で囲んだのです。
有刺鉄線は後にコンクリートの「壁」となります。
「ベルリンの壁」はまさしく、東西冷戦の「象徴」でした。

ベルリンに壁が造られたことで、第二次世界大戦が終わってから度々、一触即発の状況となっていたドイツをめぐる東西の対立は安定化の時代に向かいます。
ソ連は壁の建設を認めることで西側との直接対決を回避し、社会主義世界を現状維持しました。
一方のアメリカも壁が建設されるのを黙認することで西ベルリンの存在を守り、東側との武力衝突の危険性を避けたのです。

そして「冷戦終結の象徴」へ

「壁」が鉄条網などで遮られた簡単なものであった当初は、「壁」を越えて西側に逃れる人々が後を絶ちませんでした。
さらにやがて「壁」がコンクリート製になり100mほどの無人地帯が作られ常に監視のもとにおかれるようになって、銃殺されるなど、被害にあう人もあったのですが、それでも西への脱出者がなくなることはありませんでした。

東ベルリンおよび東ドイツの経済状況は良くなることはありませんでしたが、政府は西側の情報を遮断し、社会主義国家を守ることに躍起になります。
どの社会主義国家もそうでしたが、ソ連という後ろ盾に頼ることでようやく体制を維持していたのでした。

しかし、そのソ連に新たな指導者、ミハイル・ゴルバチョフが登場、「ペレストロイカ」と呼ばれる改革政策を始めると状況は一変します。
東ヨーロッパの社会主義国が次々と民主化され、その流れは「東欧革命」と呼ばれました。

その中にあっても東ドイツは民主化を始めることなく、むしろさらに統制を強化していきます。
すると東ドイツの国民はすでに民主化の進んだハンガリーやチェコスロバキア経由で西ドイツへ出国しようとしたのです。
それをさらに締め付けようとする東ドイツ政府のやり方に、ゴルバチョフのソ連はもはや後押しをしてはくれませんでした。
東ドイツは東ベルリンの市民が西へ向かうことを圧し留めることはできませんでした。
1989年11月9日、ベルリンの壁を越えて東ベルリン市民が西ベルリンに大挙して向かいます。
当初、政府は「11月10日以降の出国制限の緩和」として考えていたのですが、記者会見での発表で「直ちに出国可能である」と聞いた市民が検問所に詰めかけ、検問所の警備隊はそれを抑えきれず検問所を解放してしまいます。
なかばイレギュラー的に事態が進み、長く東西を隔てていた「壁」は崩壊。
“冷戦の象徴”だったベルリンの壁は“冷戦の終り”をつげる「象徴」となったのです。

ひとつのベルリン、ひとつのドイツ

11月9日に解放された直後の10日未明、市民は金槌やつるはし、果ては重機など、思い思いの道具で壁を崩し始めます。
はじめは壁を元に戻そうとしていた東ドイツ側も後に壁を撤去。
今ではその一部が当時の記憶を忘れずに残して行くために残されるのみとなりました。

ベルリンの壁の崩壊から1年を待たずして、1990年10月に東西ドイツは再統一、ベルリンも再びひとつになります。
翌年には統一ドイツの首都となり、ドイツの政治の中心地としての確固たる立場を固めました。

ベルリンの歴史はすなわち、「ドイツ統一の歴史」と言ってもよいのかもしれません。

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