歴史漫画キングダムの前の話。「春秋時代」の歴史を簡単にチェック!

今から2500年以上も昔、紀元前の中国大陸は戦乱の時代でした。大陸には多くの国が存在していて、食うか食われるかの激しい争いを繰り返していました。その時代を人は「春秋時代」と呼びます。今人気の歴史漫画『キングダム』の舞台となる戦国時代へと続く、戦乱の幕開けの時代。戦いは数百年に渡って続けられていきました。いったいなぜ?その謎を紐解くべく、前王朝の崩壊から戦国時代に至るまでの諸国の動きにスポットをあててまいります。

神話と伝説の時代と聖王・暴君の誕生

神話・伝説の時代の帝

神話・伝説の時代の帝

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春秋時代に入る前、中国大陸ではどんなことが起きていたのでしょうか。

石器時代や黄河文明などの黎明期から、中国大陸には数多くの集落が点在しており、人々は狩猟や農耕などを行って生活していたと考えられています。
その後、三皇・五帝が現れて天下を治めたという神話・伝説の時代に入ると、農耕や漁業などの技術が徐々に発展し、人口が増えて集落の規模も大きくなっていきました。
薬の知識が増え、近くの集落との交易なども始まっています。
集落の人口が増えるに従って、人々は安定した生活のために強い指導者を求めるようになります。
耕作の効率が上がったとはいえ、干ばつや河の氾濫など天災には逆らえません。
食料が十分に確保できなかった年はどうするべきか。
時折、近くの集落を襲って食べ物を奪う、という行為が見られるようになっていきます。
兵法など集落を守るための技術も発達し、力の強い豪族たちが誕生していきました。

三皇五帝は神話や伝説の時代のものであり、残された書物や記録によって内容が異なり諸説存在していますが、三皇は神、五帝は聖人(理想の君主)であると考えられています。
五帝のひとりである舜(しゅん)は非常に徳の高い帝でしたが、息子があまり優秀ではなかったため、舜は禹(う)という優秀な人物に禅譲(ぜんじょう)します。
禅譲とは血縁に関係なく有能な人物に地位を譲ること。
禹も五帝の系列ではあったようですが、舜の直系ではありません。
三皇五帝の時代は(神話・伝説の域ではありますが)帝は世襲ではなく、国を治めるための能力のある人物に譲渡されていたと考えられています。

夏王朝と世襲統治

禹は即位の後、夏(か)という王朝を開きました。
紀元前1900年頃から紀元前1600年頃と考えられており、考古学的な発掘・発見がないため実在性に疑問の声もありますが、史書に記された最古の王朝と言われています。
禹は常に人民の声に耳を傾け、黄河の治水工事に心血を注ぎました。
城の増築よりも民衆の暮らしを注視し続け、後々、聖王とも呼ばれ良い君主の手本としてたびたび名前があがるような帝。
夏は大きく栄えたと考えられています。
豪族や有力者たちは何かしら手柄を立てた際、王朝から土地を分け与えられて(封国)領主となり(諸侯)、与えらた国を統治していました。
夏王朝の領域は黄河の中流一帯。
そのまわりに諸侯が治める土地が散らばっています。
夏の西と南、東側には異民族の領域が広がっていました。

禹は長く帝の位にいましたが、亡くなった後、禹の子供である啓(けい)が帝となりました。
禹は他の者を後継にしようと考えていたという説もありますが、実際に即位したのは息子。
ここに、初の世襲王朝が誕生したのです。
夏王朝は十七代に渡ってずっと世襲による即位が続けられてきました。

夏の最後の帝は名前を桀(けつ)といい、大酒飲みで女性に心を奪われ、暴君の代名詞としてその名を世に残しています。
彼と彼の取り巻きの悪政が続いたため、民衆の心はすっかり離れていってしまいました。
そしてとうとう、夏王朝の最期の時が訪れます。
紀元前1600年頃のこと。
代々夏王朝に仕えていた家臣の子孫で商という国の諸侯である湯(とう)が挙兵し、桀を追い払って400年以上続いた夏王朝を滅ぼしたのです。
桀に押さえつけられていたほかの諸侯も湯に従いました。

殷王朝と暴政の果て

殷王朝と暴政の果て

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商は夏の領域の少し東側に位置していた国。
湯の先祖は、禹の治水事業を支えた功績から商を封じられた(土地を分け与えられた)と言われています。
湯は商の諸侯でしたが、桀を追い出して夏を滅ぼし、商王朝を開きました。
商は何度も都を移動させていましたが、だいぶ経ってから殷という場所に遷都したようです。
そのため、商は殷とも呼ばれています。
初代帝となった湯は夏の禹と同じく聖王として後世に名を残しました。
近年の研究により、必ずしも直系による世襲統治ではなかったという説が有力で、どうやら、いくつかの氏族が集まって殷王室を形成していたようです。
暴政を敷いた帝が追放されたり国の力が衰えたり、そうすると次に即位した帝ががんばって国力を盛り返したり。
そのような記録が残されていて、殷王朝は脈々と三十代、700年ほど続いたと考えられています。

殷の時代も、国を与えられた諸侯は数多く存在していました。
南に楚、越。
北側に唐や蘇。
西側に周、さらに西方に蜀、巴。
そのほかにも数多くの群雄が統治に精を出し力をつけていました。
また、北方や西方、南方の異民族の存在も大きなものになっていきます。

殷王朝最後の皇帝は紂王(ちゅうおう)といい、夏の桀と並んで暴君の代名詞といわれるほどの悪政を続けました。
大変頭のよい人物だったとの記述もありますが、そのためか増長し、家臣たちの言うことを聞かず好き勝手な振る舞いを続けていたようです。
税も重くなり、民衆は苦しめられていました。
民衆も諸侯も紂王を恐れ、悲観して、当時、勢力を拡大しつつあった周という封国を頼るようになります。
国力が衰えきっているというのに紂王の悪政は変わりません。
ついに周の発(はつ)という人物が挙兵します。
兵力では殷の強大な軍隊が圧倒的多数で勝っていましたが、紂王に忠誠を誓うものは少なく、周が攻めてくると反旗を翻して殷に攻めかかる者もいました。
紂王は死に、殷はあっけなく落ちたといいます。

周王朝の没落と東周の誕生

周もまた、夏の禹の頃に業績を上げた諸侯を祖とする封国のひとつ。
周も700年以上続いた大国でありましたが、統一国家として威厳を持っていたのは前半の200年余。
中盤から後のおよそ500年間は権力を失い、飾りだけの王朝となってしまいます。
都も移しているため、前半と中盤以降で、前半を西周、中盤以降を東周と区別して呼ぶことが多いです。
この、東周の時代が別名「春秋戦国時代」。
さらにこの500年のうちの前半を「春秋時代」、後半を「戦国時代」と分けるのが一般的です。

では、なぜ周は途中で権力を失ったのでしょうか。
ここまでくれば容易に察しがつきそうなものですが、そうです。
この王朝にも暴君が現れます。
紀元前781年に即位した十二代幽王。
政治を顧みず、贅の限りを尽くし、お妾さんに入れ込んで奥さんと子供、つまり太子を宮殿から追い出したり、もうやりたい放題。
能力ある側近たちは絶望して次々と国を離れていき、機会を伺っていた北や西から異民族たちが侵攻するようになります。
夏、殷の末期がそうであったように、周の国力もどんどん衰えていきます。
しかし幽王の悪政は止まりませんでした。

宮殿から追い出された幽王の正室は、申という小さな封国の出身。
父親の申侯は西方の異民族である犬戎(けんじゅう)に応援を求めてついに挙兵。
周へ攻め込んでいきます。
当時の都は宗周(現在の西安のあたり)。
異民族の領地との距離も近く、

幽王と側室の息子は犬戎に殺され、それを聞きつけた晋、秦、衛、鄭(てい)といった有力諸侯が異民族を制圧。
功績を上げます。
特に鄭は周とはもともと血縁・同族であり、西周末期から東周復興のために大いに働いたことで力を持つようになっていきました。

紀元前771年、周に反発する諸侯たちに推挙され、平王が周の王となります。
幽王の元を追われてきたあの太子です。
平王は、宗周は犬戎と距離が近いことから、都を東方の洛邑(現在の洛陽のあたり)に移します。
これ以降が東周。
力のある諸侯が台頭し、戦乱の世が始まるのです。

春秋時代の幕開け

東周と諸侯の台頭

東周と諸侯の台頭

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夏から殷、周にかけて、中国大陸にはたくさんの国が存在していました。
国といっても君主がいるわけではなく、王朝はあくまでもひとつ。
前述の通り、王朝から土地を託され統治を行う諸侯という立場の者たちが収める都市のことです。
そのため、東周の時代に入っても諸侯は、一応は周王朝への礼節を示していました。
周の国力は弱まっていましたが、それでも、周辺の土地を諸侯に与えたり、諸侯が周の王にお伺いを立てたりといったやり取りはあったようです。
弱まった国など興味がなかったのか、取って代わるより利用したほうが価値があると考えたのか、諸侯の目は周王朝より他の強豪国に向けられていました。

春秋時代初期の頃、紀元前6世紀~7世紀頃の中国大陸で特に力を持っていた諸侯は、平王の即位や遷都に一役買った晋、秦、衛、鄭の他に、魯、曹、蔡、燕、呉、斉、陳、楚、宋。
このほかにも、小さな国が少なくとも100以上は存在していたと考えられています。
この後、晋が3つに分裂する紀元前403年までの間が春秋時代です。
数多くあった国は戦乱の後、強い国に吸収されるか滅びるかで淘汰されていきます。
春秋時代とは、夏、殷、周の悪政や暴政、内紛や異民族の侵略などを背景に力をつけた諸侯たちの、生き残りをかけた戦いの時代なのです。
もはや周(東周)には諸侯の争いを鎮める力はありません。

ところで、春秋時代の”春秋”とは、どのような意味を持つのでしょうか。
これは儒教の経書の中でも特に重要とされる「四書五経」のうちのひとつ、『春秋』に記された時代である、という意味と考えられています。
『春秋』とは歴史年鑑のようなもの。
紀元前722年から前481年までのおよそ240年間の間の魯を中心に各国の出来事を簡単な文章で記した書物の総称です。
作者は定かではありませんが、孔子が関わっているとも言われています。
”春秋”という表題の意味や由来には諸説あり、これもはっきりしていませんが、春と秋という季節を並べることで、”歳月”を表しているのではないか、とも考えられています。

春も秋も、一年中、戦いに明け暮れる。
中国大陸はそんな時代へと移っていくのです。

諸子百家と民衆

春秋時代には多くの学問が開花しました。
諸侯は争いに勝つため、富国強兵をはかるために、武力以外にも多くの有能な人材の登用を行うようになったのです。
また、衰退する周王朝や戦乱続きの世の中を憂いで独自の主張を持った思想家が数多く生まれました。
「諸子」とは思想家や学者など学問をする人々のこと。
「百家」は儒家、道家、墨家、名家、法家などの学問、学派のこと。
儒教の創始者でもある孔子、道家の基礎を作ったとされる老子、墨家の始祖である墨子などが挙げられます。

春秋時代から後の戦国時代にかけては戦乱の世ではありましたが、国々が互いにしのぎを削った時代ということもあって、学問の他にも、様々な分野の技術が向上していきました。
まず、農具に鉄が使われるようになったことで耕作面積が拡大し、農業の生産性が大幅に向上していきます。
川の氾濫に備えた土木工事も盛んに行われ、広大な平地でも農業が可能になっていったことも農業の生産性向上に一役買ったと言えるでしょう。
また、農具の発展によって集団で耕作する必要が少なくなったため、大きな共同体から家族など少人数による農業へと変わっていったと考えられています。
より自由に身軽に農業に取り組むことができるようになり、商業や工業などの商売もやりやすくなっていきました。
こうした動きは国力の向上につながる一方で格差を生み、民衆の中にも力を持つ者が現れるようになります。
同様に、それを抑えつけようとする政治の動きもありました。

学問にしても商売にしても、今まで地位も力も持たなかった者が知恵や知識を武器にのし上がっていく。
時はまさに「下剋上」。
身分に関係なく実力あるものを呼び寄せ、もてなしたり役職を与えたりして、政策や戦術など積極的に意見を聞く諸侯も多かったようです。
そうなると、世襲で役職についている昔からの家臣たちは気が気ではありません。
自分も努力して知識を身につければよいのに、出る釘を打つことばかり考える小役人も多かったようです。

鄭と周の対立

鄭と周の対立

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春秋時代の初め、まず権力を握ったのが周に近い場所に領地を持ち、東周の成立時に貢献した鄭でした。
鄭の武公(ぶこう)の父桓公(かんこう)はあの西周の暴君幽王が異民族に攻撃された際、幽王のそばに残っていた唯一の人物。
周の敗北も幽王の死も目に見えています。
桓公は周を守るべく民衆を他の国に避難させるなど力を尽くし、戦死。
鄭が周に攻め入って異民族を鎮圧したのは、桓公の弔いでもあったのです。

鄭武公と東周の初代帝となった平王は親戚同士ということになるのですが、平王はだんだん鄭を疎ましく思い始めます。
鄭が周を軽んじるようになったのか、強国となっていく鄭に周が警戒心を持ったのか、解釈が分かれるところですが、鄭と周の間がぎくしゃくしていたことは間違いありません。
平王が亡くなり、桓王の代になると鄭との関係はますます悪化。
ついに桓王は、蔡、衛、陳といった鄭の周辺の国と連なって鄭を攻撃。
両軍は繻葛という場所で激突します。
周軍は桓王自ら指揮をとったということですが、戦術では鄭のほうが上手だったようで連合軍を翻弄。
陳、衛、蔡は壊滅、周も撃退します。
桓王は負傷してしまい、周の威厳は完全に失墜してしまうのです。
このことがきっかけで、それまで何とか体面を保っていた周王朝ですが面目丸つぶれ。
諸侯同士の争いに介入する力も失ってしまいます。
このことがきっかけで、国同士の覇権争いは激化していくのです。
桓王は盛り返しに努めましたが周王朝の衰退は進む一方となってしまいました。

一方の鄭も、順風満帆とはいかなかったようです。
週王朝と血縁の封国とはいえ領地は狭く、国の規模としては小国の部類。
皮肉なことに自分たちが大勝した周との戦いによって、周王朝に力なしと周辺諸国に知らしめてしまったのです。
その頃、西方に秦、東側に斉、南に楚や呉、越、北方に燕など、周王朝とは直接の縁者ではない国が領土を広げており、力をつけていました。
もはや周王朝は何の頼りにもなりません。
鄭は大国同士の争いに巻き込まれて力を失い、衰退していきます。
何度か中央に返り咲こうとしますが叶わず、戦国時代に入って紀元前375年、韓に滅ぼされてしまうのです。

覇者の時代

斉・楚の争い

斉・楚の争い

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鄭の次に力を持ったのが東方の斉(せい)と南方の楚(そ)でした。

斉はもともとは、周王朝建国時に功績のあった太公望という軍師に与えられた領地で、まだまだ未開の土地でした。
もともとその地に住んでいた少数異民族を蹴散らして領土を広げ、強国になっていったのです。
海に面しているため他の国では手に入らない塩や海産物などが豊富で、鉄もとれたため、周から遠くても国内は大いに栄えていました。
前685年に即位した桓公(かんこう)は宰相の管仲(かんちゅう)と共に斉をより強大な国へと発展させていきます。

一方の楚については、起源がよくわかっていません。
長江付近にもともと住んでいた南方の民族による国か、華北に住んでいた者が移住したのか、様々な説があります。
中原の国々とは異なる独特の文明を持ち、古来より封建的な国家を形成していましたが、西周王朝からは異民族として蔑まれていたようです。
古い書物の中にも楚はたびたび登場しており、紀元前10世紀頃、西周の昭王の南方遠征の際に攻撃を受けますが撃退し昭王を死に追いやったことがありました。

斉が力をつける中、楚もまた、南方の小国を飲み込んで勢力を伸ばし続けます。
いよいよ楚が中原(黄河中下流域にある平原)に侵攻してくるのか、と、周辺の小国は気が気ではありません。
楚に抗う力などあるわけもなく、周王朝はあてにならないと悟った小国は、しぶしぶ楚に服従するか、楚を恐れて斉に助けを求めるか。
いずれかを迫られるようになります。
斉の桓公は弱化した周王朝の代わりに楚と対峙し、侵攻を止めさせ追い返しました。
このことにより、斉は諸侯のリーダーとなっていきます。

一度は退いた楚ですが、強大な国であることには変わりありません。
その後も斉をはじめ宋や晋といった大国との争いは続いていきました。

晋・楚の争い

周王朝に代わって諸侯を取りまとめる立場となった斉ですが、桓公が亡くなった後は後継者争いなど内紛が起きて徐々に力を弱めていきました。
ここで宋が斉に取って代わろうとします。
宋は殷王朝のあの暴君紂王の血縁の封国であったため、領地は広くありませんでしたが力は持っていました。
当時の君主、襄公(じょうこう)は、諸侯の先頭に立っていこうとしますが、宋の振る舞いを不快に思った楚が宋と激突。
楚は宋を蹴散らし、宋は惨敗してしまいます。

次に台頭するのが晋です。
晋は西周王朝の血縁による封国と言われている古い国。
東周に入った頃に周辺の小国を取り込んで大きく領地を広げましたが、後継者争いや内紛が起きて国が乱れてしまいます。
後継者のひとりであった文公は国外へ逃亡。
長年放浪生活を余儀なくされていました。
諸国を転々とした後、国内に戻る機会を得て君主となります。
文公は周の反乱を鎮めるなど諸侯としての実力を存分に発揮し、晋は急速に力を強めていきます。
周はすっかり衰退していましたが、それでもなお後継者争いや内乱を繰り返していたのです。

文公は放浪していた頃に宋に招かれ手厚くもてなしを受けていました。
宋は楚に大敗し、楚の影響下に入っていましたが、勢力を伸ばしていた晋に助けを求めてきます。
文公は逃亡の身である自分に礼を尽くして迎えてくれた宋に恩義を感じていたため、紀元前632年、楚を討つため挙兵。
晋は楚を打ち破り勝利します。
さらに、楚に攻められて付き従っていた宋・曹・衛・鄭も晋の配下に移り、晋は中原の諸侯のリーダーとしての地位を確固たるものにしたのです。
この後、楚が中原に上がってきては晋が押し返すという二国間の対立関係はしばらく続き、周辺の小国は翻弄されていきます。
紀元前597年、楚の荘王が鄭に攻め込んだ際、晋は援軍を出そうとしましたが軍の足並みが揃わず混乱。
楚はついに晋を打ち破り、この戦い以降、晋の力は下降していくのです。

秦と晋

秦と晋

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同じ頃、西の大国である秦(しん)も、西方の異民族を征伐するなど兵力を上げ、小国を吸収して力をつけていました。
その成り立ちは西周、紀元前900年頃の頃から。
周王から領地を貰って発展した国です。
西周が犬戎に討たれたとき平王を助けたことで、強豪諸侯として君臨することになります。
穆公(ぼくこう)は秦の九代目の君主で、国内外問わず優秀な人材を幅広く登用することで国を強くした名君でした。

秦は前述の晋の後継者争いに介入しています。
晋が混乱しているところに後継者のひとりであった恵公に肩入れし、彼を晋の君主にまつりあげたのです。
君主の側室が自分の子を世継にしようと暗躍しており、身の危険を感じた恵公が秦に、自分を守ってくれたら晋の土地を譲ると取引を持ちかけました。
穆公の目には、恵公より兄の文公のほうが好ましい人物に移ったようでしたが、結局穆公は恵公の後ろ盾となり、恵公は晋の君主となります。
しかし恵公の約束が果たされることはありませんでした。

それどころか、晋で飢饉が起きた際、恵公は穆公に食料をねだる始末。
秦の家臣たちは怒り心頭ですが、穆公は「飢えるのは民衆だ。
晋の民衆に罪はない」と言って晋に食料を送ります。
晋の死者は泣いて穆公に感謝したそうです。
そんなことがあった後、今度は秦が凶作に見舞われてしまいます。
秦はただちに晋に食料支援を要請しましたがなしのつぶて。
恵公が食料を送ってくることはなく、飢えている今こそ秦を潰すチャンスだとでも思ったのか、あろうことか大軍を率いて秦に攻め込んできたのです。
さすがの穆公の堪忍袋の緒も切れるというもの。
晋は奮起した秦軍の前に大敗。
恵公は自分の息子を秦に人質に差し出し、晋へ帰っていきます。

恵公が病に倒れると、秦の人質になっていた恵公の息子は脱走。
晋に戻り君主になってしまいます。
親にも子にも欺かれた穆公はいよいよ立ち上がり、逃亡して流浪の生活を送っていた文公を呼び戻して晋の君主に据えたのです。

こんなごたごたがあった後、晋の文公が生きている間は、両国の関係は概ね良好でしたが、晋の文公が死んだ後、秦は再び晋に侵攻して力を誇示します。
西方の異民族に対しても常に目を光らせていました。
しかし、穆公が亡くなった後、秦は急速に力を失っていきます。

晋、秦が大人しくなっていくと、力を伸ばしてくるのが楚です。
楚が晋を下し、周王朝に圧力をかけると、圧倒的な強さを持つ楚に周辺の小国は服従していきます。
また、荘王のときに東側の呉(ご)と同盟を結ぶなどして国力を高めていきました。

春秋末期から戦国時代へ

晋の滅亡と三晋の誕生

晋の滅亡と三晋の誕生

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春秋時代の後半に入ると、争いの矛先は国外から国内に向けられていきます。
国が力を持つようになると身内同士の争いは避けられないものなのでしょうか。
国内の有力者同士が実権を奪い合って争うという事態が各国で頻発。
国同士の戦いどころではなくなってしまいます。
こうした背景から紀元前546年、晋と楚は一時休戦の約束が取り交わされました。
楚でも王室と貴族との間で争いが起きており内政は混乱状態にあったようです。
大国同士の争いが下火になってきたことから、それまで翻弄されていた魯や鄭といった小国が息を吹き返し、動きが活発になっていきました。
孔子や老子が活躍したのもこの時期であると思われます。

その頃、晋では深刻な事態が起きていました。
楚に大敗し諸侯のリーダーとしての力を失うと、国内でも君主としての威厳も弱まっていきます。
ここで力を持ち始めたのが六卿と呼ばれる、軍を指揮していた将校たち。
范氏、智氏、中行氏、趙氏、韓氏、魏氏が台頭し、君主より力を持ち始めていました。
彼らは勝手に六卿を世襲化し、互いの領地を奪い合うようになります。
最終的に范氏・智氏・中行氏の3者は滅亡。
趙氏、韓氏、魏氏は晋の領地を三分割して晋から独立してしまいました。
紀元前403年、三氏はそれぞれ、形ばかり残っていた周王朝から諸侯として認められたため、晋は事実上崩壊。
その後しばらくして、韓魏連合軍に滅ぼされてしまいます。

こうして、一時は覇者として権勢を振るった大国がひとつ、姿を消しました。
晋が韓魏趙(三晋)の3つに分裂した紀元前403年。
この年を境にして春秋時代は終わり、これより戦国時代に入ります。

呉越の争い

話は少し前後しますが、中原の国々で内政の乱れが生じ始めた頃、南方でも大きな勢力が生まれていました。
長江の下流に領地を持つ呉と越(えつ)です。
どちらの国も、起源や成り立ちがはっきりしていないのですが、紀元前6世紀頃には成立していたものと思われ、互いに抗争を繰り返しながら力をつけていきました。
呉には闔閭(こうりょ)という君主の時代に最も力を増し、楚と何度も戦いを交えてついに紀元前506年、楚の都を落とします。
しかし、楚攻めにかかっている隙に、越の君主であった允常(いんじょう)に攻め込まれてしまい、楚を討ち取り切れず撤退。
勝負はそれぞれの息子たち、呉の夫差(ふさ)と越の勾践(こうせん)へと持ちこされます。
両社は激しくぶつかり合い、このときの軍配は呉に上がりました。
越は呉に屈し、夫差は諸侯の頂点に立つことを夢見るて中原へ討って出ます。
北上して斉を討ち、諸侯に自分の存在を認めさせようとしましたが、晋が抵抗。
晋との争いが始まります。

呉が晋と争っている間に、越が呉に攻め込みました。
夫差は家臣たちに説き伏せられて諸侯のリーダーの座を諦め、自分の領地へ戻っていきます。
その後も呉越の激しい争いは続きました。
夫差も勾践も、父親の思いを背負っています。
簡単にあきらめることはできなかったのでしょう。
特に夫差には、越への強い恨みと憎しみがあったようです。
これ以上の越との争いを避けるよう進言した者もありましたが、耳を貸しませんでした。
一方、越は巧みな戦略で一歩一歩、呉を追い詰めていきます。
小国のふりをして呉に服従したふりをして内情を探り、したたかに準備を進めていたのです。
強くあり続けようとした呉の夫差と、目的のために手段を選ばず時をかけた越の勾践。
どちらの英傑も目指すところは自国の繁栄であったはずなのに、歴史書に残る二人の姿は対照的でもありました。

紀元前473年、ついに呉の都が越によって落とされます。
勾践は夫差の命だけは救おうとしましたが、夫差はこれを辞退して自害。
南方を席巻し強国となった呉は最期の時を迎え、親子二代に渡る呉越の争いにも終止符が打たれたのです。

春秋時代の思想家、孫武(そんぶ)が書いたとされる兵法書『孫子』に、こんな一節があります。
”呉の人と越の人は互いに憎しみあっているが、もし同じ舟に乗っていて風が吹いてきたら助け合うだろう。
”「呉越同舟」という故事ことわざのもとになったもので、呉と越は、そんな例えに用いられるほど、誰にでもわかるほど強い敵対関係にあったということが伺えます。

春秋の五覇

春秋の五覇

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春秋時代、周王朝に代わって諸侯のトップに立った強国・人物を5人挙げて”五覇”と呼んでいます。
春秋時代のことを記した歴史書は数多く残っており、文献によって5人の顔ぶれは若干異なるのですが、斉の桓公、晋の文公、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王の5人を挙げる場合が多いようです。
呉王夫差や越王勾践の名が挙げられることもあります。
五覇とは、ただ強大な力を持つだけでなく、国々をまとめ、安寧に務めた人物という意味。
歴史を振り返れば5人以上いそうなものですが、五行説(自然界にあるものは全て木・火・土・金・水に当てはまるという学説)に従い、5人に絞って名前を挙げたのではないかと思われます。
五覇と呼ばれている諸侯の功績は大きく、歴史に名を残していますが、いずれの場合も安寧の時はそう長くは続きませんでした。

古代の頃は、争いといえば、まず食料を確保するためであったと考えられます。
それが徐々に、集落が大きくなり国としての体が整うにつれて、争いの理由にも変化が。
能力のあるなし関わらず帝を継がせ悪政が始まってしまったり、国が広い領土や強い力を持ったがために内紛や後継者争いが続いたり、女性に惑わされたり酒や贅沢に心奪われて民衆を顧みなくなったり。
世襲が何代か続くと必ずといっていいほど暴君が現れ、国を乱し、他の勢力にとって代わられる、ということが繰り返されてきました。
広い中国大陸をひとつにまとめるには、相当な力が必要だったに違いありません。
誰かが覇者となって諸侯をまとめ始めると、抗う力が現れて再び戦乱が始まります。
それでも諸侯は戦いを続けました。
覇者となるために、あるいは生き残るために。

戦国七雄

晋が3つに分裂した紀元前403年から、時代はいよいよ戦国時代へ入っていきます。
春秋時代初頭には大小100以上あったとされる国は戦乱の中で淘汰されて、戦国時代に入る頃には、ほぼ、7つに絞られていました。
春秋時代から大国として名を馳せた秦、楚、斉、北方の燕、そして晋から分裂した趙、魏、韓。
燕の名前は春秋時代の記録にはほとんど登場していないところを見ると、場所が場所だけに攻め込む諸侯は少なかったのかもしれません。

この7つの国のほかにも、衛・魯は小さいながらも続いており、宋や中山といった国にも多少の力は残っていました。
また、東周も洛陽の周辺にこじんまりと領地を構えて細々と続いています。
春秋時代はまだ、周王朝の威厳は多少は残ってたようで、晋が3つに分裂した際も周王に伺いを立てたり、大義名分に利用するだけの価値はありました。
しかし、戦国時代に入ると諸侯は周に伺いを立てることもなくなっていきます。
小さくなった国の中でも、まだ権力争いを起こしたり分裂したりしていたようですが、それが大きく取り上げられることもなくなりました。

また、春秋時代にはまだ曖昧だった、領地の境界線についても、各国とも強く意識するようになってきました。
中国大陸には古代より、数千にも及ぶ小さな集落が点在していたと考えられています。
諸侯が賜って統治を始めた土地に、もともと異民族の集落が存在していたり、あるいは知らないうちによそから移り住んでいたこともありました。
領地といっても境界線がはっきりしているわけではなく、人が住む邑を点々と統治するだけで、空いている土地に異民族が住んでいたとしても把握しきれなかったのです。
これが戦国時代に入ると、領地の境界線を意識し、領地内をくまなく統治する政策をとるようになっていきました。
これも、戦乱を激化させる要因のひとつと考えてよいかもしれません。

こうして、長い戦乱を勝ち抜いてきた大国、秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓が出そろいました。
紀元前221年に秦の始皇帝が統一王朝を打ち立てるまで、戦いは激しさを増していくのです。

歴史をもっと身近に

2000年以上も昔のことながら、春秋戦国時代を記した歴史書は『春秋』の他にも『史記』や『国語』『呂氏春秋』など数多く存在します。
それぞれ内容に若干の差異があることなどから研究対象として扱われることが多く、一般人には敷居の高い存在。
でも、歴史から学ぶことは多いはずです。
これらの歴史書を残した先人たちも、時代に危機感を覚えて後世に何か書き残したいと思ったのではないでしょうか。
歴史書を正確に読み説くのは難しい。
それでも残されたものを大切に読み説いて学んでいきたい。
春秋時代の歴史から、そんなことを感じました。
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