今も生き続ける「伝説」を残した英雄ナポレオン皇帝の歴史

ナポレオンというと、フランスの高級ブランデーの名前にもなっていますね。ナポレオンの人気はいまだに衰えをみせませんが、ナポレオンはもともとコルシカ島の出身で、本来のフランス人ではありません。ですから、フランスの政治の実権を握っても、フランス王にはなれません。そこで考えたのが、「フランス国民によって選ばれた皇帝」。ナポレオンは、戦争の天才でもありますが、ヨーロッパの政治体制を再編成した功績も大かったのですよ。セント・ヘレナ島に流刑になりそこで死んだナポレオンですが、死後200年になろうとする現在もナポレオンの「伝説」は生きています。いや、生きていたときからすでに「伝説」を残していたナポレオン。さあ、その「伝説」のルーツをたどってみることにしましょう。

コルシカ島に生まれたナポレオンはパリ士官学校を卒業

コルシカ島に生まれたナポレオンはパリ士官学校を卒業

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ナポレオンは1768年8月15日にコルシカ島で生まれました

地中海に浮かぶコルシカ島とサルデーニャ島。
現在、北のコルシカ島はフランス、南のサルデーニャ島はイタリアですが、もともとは地中海貿易でヴェネツィアと争った自由都市ジェノヴァが支配していたのですよ。
しかし、拡大政策をとりつづけてきたフランス王国はコルシカ島をジェノヴァから奪い、1768年に占領。
コルシカ島はフランス領になったのですが、そのちょうど3ヶ月後の8月15日に、コルシカ島の有力貴族ボナパルト家にナポレオンが誕生。
8月15日というのは、日本では「終戦記念日」ですが、カトリックでは「聖母マリアの被昇天の祝日」なのですよ。

ボナパルト家はもともとはイタリアの出身と言われていて、そもそも「ブオナパルテ」というイタリア語の名前。
ですからナポレオンは、「ナポレオーネ・ブオナパルテ」として生まれ育つところ、その直前に「フランス人」になったというわけです。
この時点ではまだ誰も、この赤ん坊が将来フランス皇帝になるとは想像していませんね。
ナポレオンには1歳年上の兄ジュゼッペ(フランス語ではジョゼフ)がいますが、この名前はキリスト教の聖人であるヨセフからきています。
子どもには聖人の名前をつけるのがふつうなのですが、ナポレオンという名前はいったいどこからとってきたのか。
さすがに伝説の英雄ということでしょうか。

パリ士官学校を卒業して砲兵将校になりました

コルシカの貴族とはいってもボナパルト家は、本国フランスでは取るに足らない存在。
その家に生まれた男の子は軍人になる道を選ぶしかありませんね。
1751年、科学技術にも精通した有能な軍人を養成するためにパリに士官学校が設立されましたが、この士官学校に入学するための初年次教育のための兵学校がその後12校新設。
1779年、ナポレオンは9歳のときにブリエンヌ兵学校に入学したのですが、コルシカ島の出身ということもあって、孤独な学校生活だったということですね。
「いじめ」もあったかもしれませんね。

1784年10月には無事にパリ士官学校に進学。
しかし、父親が急死したこともあって、わずか1年半で卒業して砲兵将校となり、ラ・フェール砲兵連隊に着任。
駐屯地ではとくに何もすることがないので、読書にふけったのですよ。
なかでも、フランスの啓蒙思想家として有名なルソーの思想には深く共感したのでした。
また、コルシカ島の独立を支持したレナールには熱狂し、自らも手記のなかで、フランスのコルシカ島占領を批判。
1786年には休暇をとってコルシカ島に帰ったのですが、パリの士官学校を卒業したナポレオンは、コルシカ島ではまさに「英雄」として歓迎されたのですね。

フランス革命が起こってナポレオンの人生も変化しました

フランス革命が起こってナポレオンの人生も変化しました

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「八月十日の革命」でフランスは共和国になりました

1789年7月14日、当時は牢獄だったバスティーユが市民たちによって襲撃され、フランス革命が始まりましたね。
8月に軍の将校たちは、新体制に忠誠を誓うことを宣誓したのです。
ナポレオン自身はフランス革命を支持していたのですが、故郷のことが気になり軍に休暇願を提出して、1789年9月から1791年1月までコルシカ島に滞在。
アンシャン・レジームと呼ばれる革命前の旧体制時代の支配層はフランス領のままでいることを主張したのですが、住民は革命派と王党派に別れて対立。
一方本土では、1789年11月の憲法制定国民議会がコルシカ島を「コルシカ県」と決定。

フランスに戻ったナポレオンは、1791年9月にまたコルシカ島に帰ってきたのですが、そのときはコルシカ島の反フランス感情が激しくなっていたのですね。
そして1792年、ナポレオンが副隊長を務める国民衛兵と群衆とのあいだで衝突が起こったのですよ。
その責任をとってナポレオンはフランスに帰還。
フランス陸軍に復帰したのですが、国王ルイ16世一家のいたチュイルリー宮殿をパリの民衆が襲撃。
これを「八月十日の革命」と呼んでいますが、9月21日には王権を廃して共和政府樹立の宣言がされたのです。

ナポレオンの最初の実戦体験は失敗でした

大量殺戮事件を起こしたパリの民衆に対して、ナポレオンは怒りの感情を隠しきれませんでしたが、10月にはまたコルシカ島に帰還。
翌1793年2月、コルシカ島の南にあるサルデーニャ島への遠征軍の砲兵将校として、ナポレオンははじめての実戦を経験したのですよ。
フランス共和国は、ピエモンテ=サルデーニャ王国と戦争をしていたのですが、その矛先はサルデーニャ島に向けられたのでした。
ナポレオンは、サルデーニャ島周辺の小さな島の攻略をしていたのですが、そのとき水兵たちが反乱を起こし、ナポレオンが加わっていた遠征軍は撤退。
戦いに負けたわけではないのに退却しなくてはならないことがあるという、実戦の苦い体験ですね。

実はこの遠征軍はコルシカ島の独立を画策するパオリに率いられていたのですが、そのことをナポレオンのすぐ下の弟リュシアンが告発。
1793年4月にパオリはパリに呼び戻されたのでしたが、独立を支持する島民たちはボナパルト家を襲撃したのですよ。
このためボナパルト一家はコルシカ島を脱出してトゥーロンへ逃亡。
1794年には、イギリスと同盟したパオリによってイギリス・コルシカ連合王国が誕生しましたが、1796年にコルシカ島はまたフランスに占領されてしまいます。
故郷を失ったナポレオンでしたが、1799年のエジプト遠征のときに立ち寄ったのを最後に、ナポレオンは二度ともうコルシカ島には足を踏み入れなかったのですよ。
「コルシカ人」ではなく「フランス人」になる以外に、ナポレオンの進むべき道はありませんね。

フランス革命は大きな転機を迎えていました

フランス革命は大きな転機を迎えていました

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ジャコバン派のロベスピエールのもとで将軍になりました

フランス革命というのは、1789年に起こった一度きりの事件などではありません。
1792年に王権が廃されて共和国になったフランスでしたが、この共和国はのちにジロンド派と呼ばれるブルジョワによって支配されていたのですね。
革命はその後さらに進行して、1793年5月にまた「革命」が起こり、ジャコバン派が権力を掌握。
ルイ16世はその年の1月にすでに処刑されていたのですが、王妃マリー=アントワネットはロベスピエールに率いられたこのジャコバン派によって10月に処刑されたのですよ。

9月にナポレオンはトゥローンで砲兵隊司令官に任命され、イギリス軍をトゥローンから追い払ったのですね。
水兵に反乱された苦い体験を生かして、今度は自分の乗っていた騎馬が死に、自分も脚に傷を負いながらも敵と戦う姿を見せて、自分が率いる兵士たちの士気を上げたのでした。
その戦功により、ナポレオンは24歳で准将に昇格。
軍人として順調な出世コースに乗ったかと思うと、ジャコバン派による恐怖政治が、1794年7月27日のテルミドールのクーデターで終了。
ロベスピエールもギロチンで処刑され、ナポレオンもその一味とみなされてしまったのですよ。

6歳年上のジョゼフィーヌと結婚しました

ジャコバン派を抹殺したテルミドール派は、今後のフランスの政治をどうするかでしばらくは迷走し、その一方で王党派の反乱がありました。
これをヴァンデミエールの反乱と呼んでいますが、この反乱を鎮圧するのに功績のあったのがナポレオンでした。
このときの軍の最高司令官がバラスで、テルミドール派による総裁政府が成立したときの5人の総裁のひとりがこのバラスですね。
ナポレオンより6歳年上のジョゼフィーヌはバラスの愛人のひとりでしたが、若いナポレオンはその魅力のとりこになったのですよ。
1796年3月2日にバラスはナポレオンをイタリア方面最高司令官に任命。
その数日後にバラスが立ち会ってこの2人は結婚。
結婚のときは聖職者が立ち会うのですが、フランス革命は宗教を否定していたのです。

結婚してすぐにナポレオンは第一次イタリア遠征をしたのですが、イギリスと同盟していたオーストリアの北イタリアの領土を攻撃。
ニースからミラノを目指し、ロンバルディア平原のロディ橋で数倍の軍勢のオーストリア軍と戦闘。
ナポレオンはこれに勝利して、5月15日にミラノを占領。
その後、ボローニャ、フェラーラなどを占領したあと、1797年1月のリヴォリの戦いで電撃的勝利をし、2月には北イタリアを占領したのですよ。
これはパリでもニュースになり、「英雄」ナポレオンが誕生したわけです。
6月29日にロンバルディア地方はチザルピーナ共和国となり、10月17日のオーストリアとのカンポ=フェルミオ条約で、オーストリアはヴェネチアを以外の北イタリアとネーデルラントを手放したのですね。

ナポレオンはクーデターの主役になりました

ナポレオンはクーデターの主役になりました

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イギリス上陸作戦をエジプト遠征に変えました

フランスの総裁政府は勢力圏を拡大し、そこに、フランス共和国の政治制度にならって共和国を建設。
その代表的な例は1795年のバタヴィア共和国で、これは現在のオランダですね。
ナポレオンがつくったチザルピーナ共和国もそのひとつではあるのですが、ナポレオンは総裁政府と相談せずに独断でしたために、総裁政府の不評を買ってしまいました。
しかし、北イタリアからの戦利品などのおかげで、総裁政府におけるナポレオンの地位は不動のものとなったのですよ。
1798年にナポレオンはイギリス侵攻作戦の責任者になったのですが、イギリス本土攻撃は無理だと判断。
外務大臣タレーランの提案したエジプト遠征に切り替えたのですね。

エジプトにはピラミッドやスフィンクスの像などがありますね。
古代オリエントの文明に対してフランスは一種の憧れを抱いていたので、この遠征に学者もたくさんついて行ったのですよ。
7月1日にアレクサンドリアを攻略。
7月21日のギザの戦いで勝利し、カイロを占領するところまでは順調だったのですが、なにしろエジプトの暑さはどうしようもなく、ネルソン提督の率いるイギリス艦隊によってフランス艦隊は壊滅。
9月にはオスマン帝国までがフランスに宣戦。
遠征軍を残してナポレオンはパリに逃げ帰ったのですが、勝利のニュースだけが伝わっていて、ナポレオンはエジプト遠征の「英雄」として迎えられたのですね。
この遠征で、古代エジプトの象形文字の解読に役立ったロゼッタ・ストーンをフランスが発見したものの、その後イギリス軍に奪われ現在は大英博物館に収蔵されています。

ブリュメール十八日のクーデターの主役になりました

エジプト遠征は結局のところ成功しなかったのですが、ナポレオンはここでもまた「英雄」のオーラを獲得することに成功したのですね。
しかし、国際関係はというと、イギリスとロシアとオスマン帝国が対仏大同盟を締結。
フランスは国際的に孤立する危機に直面したのでした。
総裁政府はジャコバン派と王党派を押さえつける力をなくしたので、軍隊の力を借りてクーデターを計画。
総裁のひとりだったシェイエスはタレーランや警察大臣フーシェらとともに、エジプト遠征の英雄ナポレオンを担ぎ上げたのですよ。

1799年11月9日、革命暦ではブリュメール十八日にクーデターが行われ、議会がパリからサン=クルーに移されて、ナポレオンがその議会を警護する部隊の司令官になったのでした。
この議会でナポレオンは議員たちを説得しようとしたのですが、議員たちの質問攻めにはさすがの「英雄」もその力を発揮できませんでした。
ナポレオンはやはり戦場での「英雄」なのでしょうね。
議会は元老会と五百人会の両院で構成されていて、五百人会の議長はナポレオンの弟リュシアンだったのですよ。
そのおかげで、ナポレオンは五百人会に部隊を引き入れ、このクーデターの主役になったのですね。

共和国第八年憲法でナポレオンは第一統領になりました

共和国第八年憲法でナポレオンは第一統領になりました

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第一統領の権力は「独裁者」のように大きなものでした

このクーデターで総裁政府は崩壊。
クーデターの首謀者であったシェイエスはナポレオンの影に隠れ、ナポレオンがフランスの「救世主」になったのですよ。
1799年12月15日、共和国第八年憲法が公布され、「革命は終わった」という宣言とともに、ナポレオンが第一統領に指名されたのですね。
この憲法によってフランスの今後の政治体制が決められるとともに、21歳以上の男子の普通選挙も規程されました。
ナポレオンを含めて3人の統領の合議によって政策などが決定されることになっていましたが、実質的には第一統領に権力が酋長していてあり、あとの2人の統領は相談役にすぎません。

立法府としては、元老院と護民院と立法院がありましたが、第一統領の権力の大きさに比べたらその権限は弱いものでした。
むしろ、法律や軍事などの専門家によって構成されている国務院のほうが、第一統領を補佐して法案などを作成していましたから、政府機関としては上位だったと考えていいですね。
日本で男子普通選挙が導入されたのは1925年、ドイツでも1848年の三月革命のときの国民議会で決定されたのですから、フランスの先進性がここにも表れていますね。
のちにこの制度を利用して、1804年にナポレオンは「フランス国民によって選ばれた皇帝」になったのですよ。

革命後10年間に起きた国内・国際問題の解決に取り組みました

フランス革命は、フランス国内で大きな変化を引き起こしたばかりではなく、対外的にも戦争状態を生じさせたのでした。
ナポレオン自身もフランスの軍人として、イタリアやエジプトに遠征しましたね。
フランス共和国もこの戦争で領土を拡大したのですが、この時点では国際的に孤立し、拡大した領土も失っていったのですよ。
ナポレオンは第一統領として、フランスの置かれていたこの危機的状況を克服しなくてはならなかったのですね。
国内問題としては、宗教問題で反乱をしていたヴァンデ地方に礼拝の自由を認め、1800年に講和。
また革命の騒動により国外に亡命していた人たちの帰国を促しました。

国内の不満を解消するために、1800年4月にナポレオンはアルプスの山を越えて第二次イタリア遠征をしたのですよ。
ルーブル美術館にある白馬にまたがった有名なナポレオンの絵はこれを描いたものですが、これももちろんナポレオン一流の脚色。
オーストリアとのマレンゴの戦いでは苦戦し、ドゼー将軍の活躍によりなんとか勝利したものの、ドゼー将軍は戦死。
そのため戦勝の立役者はナポレオンになったのですね。
ここにもナポレオンらしさが表れていますね。
国内では、1800年12月24日にナポレオン夫妻の暗殺未遂事件をきっかけにして、ジャコバン派をはじめとして反対派を徹底的に弾圧。
新聞や文学作品・演劇に対する検閲が行われ、言論や集会の自由も失われ、警察による監視体制が強化されたのですよ。
そのために、見かけ上は治安がよくなりましたね。

「フランス国民に選ばれた皇帝」になりました

「フランス国民に選ばれた皇帝」になりました

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国際問題と宗教問題と財政問題を解決しました

国際的に孤立していたフランスでしたが、マレンゴの戦いのあと、1801年にオーストリアと結んだリュネヴィルの和約で、北イタリアを取り戻しました。
その後、スペインを味方にして、ロシアやアメリカとも和解。
1802年にはイギリスとアミアンの和約が結ばれ、1792年から続いていた戦争は終結。
フランスはふたたびヨーロッパ大陸での覇権を手に入れ、第一統領のナポレオンはまたまた「英雄」になったのですね。
また、ナポレオンとジョゼフィーヌとの結婚のときに司祭が立ち会わなかったように、革命のときからカトリックなどの既成の宗教は排除されていたのですが、ここでナポレオンは宗教問題にも取り組んだのですよ。

1801年にはローマ教皇庁との協約であるコンコルダが結ばれ、8月15日に批准されました。
この日はナポレオンの誕生日でもあり、翌年からは盛大な祝典が催されたのですよ。
また、プロテスタントのカルヴァン派とルター派にもカトリックと平等の権利が与えられ、さらに1808年にはユダヤ教も公認宗教に。
また、相次ぐ戦争で疲弊した国家財政を、1800年にフランス銀行を設立するなどして健全化。
地方行政も、ナポレオンによって任命された県知事が行うようになったのでした。
こうして、ナポレオン個人に、国家のあらゆる権力が集中するようになり、そのためナポレオンはしばしば「独裁者」とも呼ばれています。

ローマ教皇をパリに呼んで皇帝の戴冠式を行いました

成年男子による普通選挙が1802年に行われ、そこで、10年の任期だった第一統領の終身制が認められました。
これでナポレオンは実質的にフランスの「王」ということになったのですが、この地位をどう呼ぶべきか、ナポレオンはまだ迷っていたようですね。
フランス革命の「自由・平等」の思想は、その後の法の基本になりましたが、これをまとたのが「ナポレオン法典」と呼ばれるフランス民法典です。
これは1804年3月21日に公布されましたが、その同じ日に、王党派の陰謀事件に関与したとして王族のアンギャン公が銃殺されたのですね。
王族を処刑したことで、共和派はナポレオンへの支持を強めたのですよ。

ナポレオンはこれを機に、古代ローマ帝国の鷲をシンボルにして、皇帝になることを決意。
9月にはカール大帝の宮廷があったアーヘンに行き、そして12月2日、パリのノートルダム大聖堂にローマ教皇ピウス7世を呼んで、戴冠式を行ったのでした。
ローマ教皇から帝冠を奪い自らの手で戴冠したのですよ。
このときの様子を描いた有名な絵では、ナポレオンが妻のジョゼフィーヌに戴冠していますね。
「フランス国民に選ばれた皇帝」ですから、ローマ教皇はあくまでも飾りに過ぎなかったということで、ナポレオンこそがこの世界の第一人者ということになったわけです。

ヨーロッパ大陸はナポレオンによって再編されました

ヨーロッパ大陸はナポレオンによって再編されました

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トラファルガーの戦いで敗北、アウステルリッツの戦いで勝利

1803年にはアミアンの講和が破れて、またイギリスとの戦争が始まりました。
その理由はいろいろ考えられますが、フランスとイギリスとの経済的利害が衝突したことが大きかったでしょう。
イギリスにもフランスにも海外に植民地があり、ナポレオンが皇帝の名を確実なものにするためには、これらの植民地も含めた支配地域が必要なのですね。
「王」はもともとはゲルマン民族の部族の長で、「フランス王」も本来は「フランク人の長」ということになりますね。
皇帝は、それらの王の上に君臨すべきもの。
イギリスとの戦争の次に、1805年にはロシアがまた対仏大同盟の主導して、イギリスのほかに、オーストリア、さらにはプロイセンとナポリ王国がこの同盟に加わったのですよ。

1805年10月21日、スペイン沖でフランスとスペインの連合艦隊とイギリス艦隊が海戦。
これをトラファルガーの海戦と呼んでいますが、ネルソン提督のイギリス艦隊は圧勝。
ナポレオンのイギリス上陸作戦の計画は消えてしまいました。
しかし大陸では、12月2日にロシアとオーストリアの連合軍に勝利。
このアウステルリッツの戦いを、フランス皇帝・オーストリア皇帝・ロシア皇帝の三帝会戦とも呼んでいますね。
これによって、ナポレオンはイギリスをあきらめて、ヨーロッパ大陸制覇を目指したのですよ。

神聖ローマ帝国の解体と再編と大陸封鎖

タレーランは昔ながらの勢力均衡政策を主張したのですが、ナポレオンはそれを無視して、大陸での勢力拡張に突き進んだのでした。
1806年にはナポリ王国を攻撃し、ナポリを陥落。
さらに、以前にフランス共和国にならって建国されたいくつかの共和国を王国にして、ボナパルト家の兄弟などをその王にしたのですね。
また、神聖ローマ帝国に属していたドイツの領邦を改変し、バイエルンやヴュルテンベルクは王国になったのですよ。
1806年にナポレオンの主導のもと、ドイツ諸侯によるライン連邦が結成されました。
これで有名無実だった神聖ローマ帝国も名実ともに消滅。
ドイツ諸侯のなかでナポレオンに敵対するのは、プロイセン王国とオーストリア帝国だけになったのです。

プロイセンもイエナ・アウエルシュテットの戦いで敗北。
これを機にプロイセンは内政改革に着手して、反撃の機会を模索。
1807年にナポレオンはポーランドに軍を進め、ロシア・プロイセンとティルジットの和約を結んで、その結果ワルシャワ公国が誕生。
ドイツ西部のプロイセン領だった地域をウェストファリア王国にして、ナポレオンは末の弟ジェロームをその国王にしたのですよ。
ヨーロッパ大陸の地図はすっかり塗り替えられたのですね。
1806年にナポレオンがプロイセン王国の首都ベルリンで出した大陸封鎖の勅令に、ロシアも加わり、ヨーロッパ大陸にはもうナポレオンの敵はいなくなったように見えました。

ナポレオンの結婚とロシア遠征の失敗

ナポレオンの結婚とロシア遠征の失敗

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ハプスブルク家のマリー=ルイーズと結婚しました

ナポレオンによってもっとも影響を受けたのは、やはり神聖ローマ帝国にあったドイツ諸侯の領邦ですね。
300あまりあった領邦が39の「国」としてまとめられたのですよ。
ライン連邦で最大のバイエルン王国でも、ナポレオンとの戦争で領土の半分を失ったプロイセン王国でも、近代化をめざす改革が行われました。
オーストリア皇帝フランツ1世も軍隊を近代化してナポレオンに対抗する姿勢。
1808年に起こったスペインでの反乱と戦っていたナポレオンは、1809年にはオーストリアに向かって軍を進めたのですよ。

フランツ1世の弟のカール大公が、アスペルンの戦いでナポレオンに勝ったのですが、そのすぐあとのアウステルリッツの戦いでオーストリア軍は敗北。
シェーンブルン宮殿もナポレオンに占領されてしまいました。
そこでハプスブルク家得意の政略結婚でしょうか、フランツ1世は娘のマリー=ルイーズをナポレオンと結婚させることにしたのですね。
ナポレオンにはジョゼフィーヌという妻がいたのですが、この女性とは離婚。
オーストリア皇帝の娘との結婚は、フランス皇帝にとってはその地位にふさわしいものでした。
1810年に結婚したこの2人のあいだにはナポレオン2世という男の子が生まれたのですよ。

ロシアでは「冬将軍」に敗北しました

ロシア皇帝の妹ではなく、オーストリア皇帝の娘と結婚したナポレオンでしたが、これによってロシアとの関係が悪化。
一方ナポレオンは、周辺地域をフランス帝国に併合する政策をとりはじめ、イタリア中部や教皇領の一部、さらにオランダとウェストファリア王国の北西部などをフランス帝国の一部にしたのですね。
1812年にはフランス帝国の版図は最大になり、ロシアとの関係はますます悪化したのですよ。
ロシア皇帝アレクサンドル1世は、オスマン帝国と講和して、ナポレオンとの戦争にそなえました。
1812年、ナポレオンは60万人以上の軍を率いてロシアに進軍。
6月24日にはついにロシアの国境を越えました。

ドイツとポーランドとイタリア兵を加えたこの大軍は、逆にそのために軍隊としての統一性がありませんでした。
ロシアの作戦は、ナポレオン軍をロシア内部に引き込むこと。
勝利しながら進軍しているように見えたナポレオン軍は、9月14日にモスクワに迫ったのですが、ロシアはモスクワを放火。
そのため食料も得られなくなったナポレオン軍は退却。
そのうえロシアの寒さはフランスとは違っていましたね。
「冬将軍」に敗北した「英雄」ナポレオンは、12月末にプロイセンにやっとたどり着くことができたのですよ。

ウィーン会議とナポレオンの百日天下

ウィーン会議とナポレオンの百日天下

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諸国民戦争に負けてエルバ島に去って行きました

これまでは、失敗してもそれを補ってあまりある幸運に恵まれてきたナポレオンでしたが、今度ばかりは残念ながらロシア遠征の大失敗は伝説の「英雄」を地にたたき落としたのですね。
かつて最後までナポレオンに抵抗したプロイセンとオーストリアはふたたび反ナポレオンとなり、イギリスの財政援助によりまた対仏大同盟が結成されたのですよ。
ライン連邦諸国も反ナポレオンに転じて、1813年10月のライプチヒの戦いでナポレオンに勝利。
この戦いを諸国民戦争とも呼んでいますが、それは「ドイツ人」の統一を目指す動きがこの戦争で明らかになったからです。

1814年1月に、対仏連合軍はフランスに侵入。
3月31日にはパリに入ったため、4月1日に元老院はあわてて皇帝を廃位し暫定政府をつくることを決議。
暫定政府を任されたのはタレーランでした。
4月4日にナポレオンはフォンテーヌブローで退位。
コルシカ島の近くにある小さな島、エルバ島に去って行ったのですよ。
5月3日には、ルイ16世の弟のプロヴァンス伯がルイ18世となり王政復古。
6月4日には憲章を公布したのですが、帝政時代の利権はほぼそのままだったものの、フランス革命が掲げた市民権は否定されたため、復古王政はフランス国民からは不人気でしたね。

ワーテルローの戦いに負けてセント・ヘレナ島に流刑

ナポレオンによって書き換えられたヨーロッパの地図をどうするかについて、オーストリアのメッテルニヒ外相の主導により、1814年9月にウィーン会議が開かれました。
「会議は踊る、されど進まず」と言われたように、華やかなウィーンに集まったヨーロッパ各国の首脳たちでしたが、ヨーロッパをフランス革命以前の状態に戻すことを目標としたこの会議は迷走。
意見の一致をみないまま、会議はただ夜の晩餐会や舞踏会のためにあるようなものと皮肉られたのでしたよ。
この情勢をみたナポレオンは、1815年2月26日にエルバ島を脱出、パリに戻って皇帝に復位したのですよ。

これをナポレオンの百日天下といいますが、ヨーロッパ諸国はナポレオンがふたたびフランス皇帝になることを望まなかったので、6月18日にワーテルローでナポレオン軍と戦闘。
この戦いで敗北したナポレオンは、今度は大西洋にあるイギリス領の孤島セント・ヘレナ島に流刑となったのでした。
7月8日にはルイ18世がパリに戻ってまた王政復古。
ウィーン会議そのものは、ナポレオンのエルバ島脱出を機に、6月9日にウィーン議定書を決めて閉幕。
セント・ヘレナ島に流されたナポレオンは、1821年5月5日に死去。
まだ51歳だったので、ナポレオン暗殺の「伝説」も生まれました。

ナポレオンは本当に「英雄」だったのでしょうか?

ナポレオンは本当に「英雄」だったのでしょうか?

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「英雄」ナポレオンは、ロシア遠征まではたとえ戦場で敗北しても幸運に恵まれていましたね。
自分を「英雄」として演出する才能もあったナポレオンでしたが、いろいろな要素がからみあいながらこの「英雄」像は形成されたのですよ。
パリのエトワール広場にある凱旋門が完成したのは1830年に始まる七月王政のとき。
1840年にナポレオンの遺骸が凱旋門を通過する式典が行われました。
「英雄」は死んでから本当の「英雄」になるのかもしれませんね。
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