鎖国時代の日本にとって「世界」の窓だったオランダの歴史

オランダとベルギーとルクセンブルクの3国を合わせて、「ベネルクス」と呼んでいるのを知っていますか。ヨーロッパ連合(EU)、それ以前のEEC(ヨーロッパ経済共同体)より前から、この3つの国は協力体制を構築していたのですよ。ところでこの「ベネルクス」の「ベ」はベルギー、「ルクス」はルクセンブルクだとすぐにわかるのですが、なぜ「オ」ではなく「ネ」なのでしょうか。またオランダは鎖国していた江戸時代の日本にとっても、ヨーロッパに向けて開かれた唯一の窓。そのオランダにはどんな歴史があるのでしょうか。

ローマ帝国の国境にあり、フランク王国の中心に

ローマ帝国の国境にあり、フランク王国の中心に

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オランダはライン川によって南部と北部に

スイスに水源のあるライン川は、ドイツとフランスとの国境を流れ、やがてドイツの川となり、そしてオランダで海に流れ出ます。
このライン川は、古代ローマ帝国とゲルマン民族の居住地域とを分ける自然の境界線。
ライン川の河口にあるオランダは、そのライン川でちょうど2つの地域に分かれているのですよ。
ですから、オランダの南部は紀元前50年からローマ帝国に編入され、ここには、ユトレヒトやマーストリヒトなどの都市が建設されたのですね。
それに対して北部は、ローマ帝国に編入されることなく、ゲルマン民族のなかのフリース人などが暮らしていました。

ローマ帝国の自然の国境であるライン川とドナウ川を越えて、ゲルマン民族のさまざまな部族が侵入するようになったのでしたが、290年頃からは、フランク人が南東からこの地域に入ってきたのですね。
ローマ人はこのフランク人を追い払おうとしたのですが、ローマ帝国においてこの地域は北の辺境。
なかなかうまくいきませんでした。
結局、355年には、ライン川南部のこの地域に、フランク人が居住することを認めたのですよ。
この地域は、現在のオランダ南部とオランダ・ベルギー・フランスまたがるフランドル地方、それにドイツの一部を含んだ、まさにヨーロッパを集約していた、と言っていいでしょう。

フランク王国の首都アーヘンが「ネーデルラント」に

395年にローマ帝国が東西に分裂し、475年に西ローマ帝国が滅亡。
その後、ゲルマン民族の部族が次々に王国を建国し、興亡を繰り返したことはよく知られていますね。
フランク王国のルーツは、まさにこの地域にあったのですね。
フリース人は海岸部に、ザクセン人は東部に、そしてフランク人は南部に居住していましたが、486年、フランク人は周囲の敵たちと戦い、領土を拡げたのですね。
クロードヴィヒの指揮のもと、フランク人の王国は、南に広がり、ロワール川のあたりにまで達したのですよ。
それになによりも、イベリア半島から侵入してきたイスラム教徒との戦いに勝利した功績は大きいですね。

これがフランク王国ですが、宮廷のあった都市はアーヘン。
アーヘンは現在ドイツの都市ですが、オランダとの国境にあります。
この当時は、ドイツもオランダもベルギーもなかったので、この地域は、「低地」を意味する「ネーデルラント」。
ライン川下流の低地に、さまざまな部族が定住していたのですが、そのなかで、フランク人が力を得て、海岸地域に住んでいたフリース人を従え、そしてついに、フランク王国のカール大帝はザクセン人に勝利。
西ローマ帝国を復活したということで、800年に、ローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を授けられたのでした。
これで、「ベネルクス」の「ネ」の意味がわかりましたね。

分裂したフランク王国のちょうど真ん中がネーデルラント

分裂したフランク王国のちょうど真ん中がネーデルラント

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フランク王国が分裂してネーデルラントは東フランクに

フランク王国はすでにキリスト教に改宗していましたが、フリース人もザクセン人も、相次いでキリスト教徒に改宗。
キリスト教、とりわけローマ=カトリックと西ヨーロッパとが一体化したと言っていいでしょうね。
そしてその中心が、ネーデルラントのアーヘンということになります。
カール大帝は、フランス語ではシャルル・マーニュといいますが、ドイツとフランスとをまとめたのが、当時のフランク王国ということですね。
そしてその中心にあったのが、まさに現在のオランダ。
なお、ザクセン人は、現在のドイツの連邦州であるザクセンではなく、同じ連邦州でもずっと西にあるニーダーザクセンあたりに居住していたようですね。

カール大帝が死に、その息子であるルートヴィヒ敬虔王が死んだあと、843年のヴェルダン条約で、フランク王国は分割され、ロタール1世がこの中央の部分を相続したのですね。
東フランクがのちのドイツ、西フランクがのちのフランス、というのはわかりますね。
ロタール1世が相続した部分をロタンギリアと呼び、ここが、分裂したフランク王国の中心だったのですが、その後870年のメルセン条約など、いくつかの条約を経て、880年にロタンギリアは東フランクに編入されてしまいました。

ネーデルラントは神聖ローマ帝国の重要な一部

ドイツ語を話す地域である東フランクは、当時はまだ統一されていなくて、いくつもの伯領や公領に分かれていたのですよ。
その支配下に入ったネーデルラントも、ホラント伯領やブラバント公領、さらにはユトレヒト司教領など、聖俗諸侯の領地に分かれていました。
ネーデルラントをオランダと呼ぶのは、このホラント伯領からきているのですね。
一方、ネーデルラント北部のフリース人が住んでいる地域は、諸侯よりは身分の低い貴族たちが地主として、狭い土地を分け合っていました。

9世紀から10世紀にかけて、北海に面したこの地域は、たびたびヴァイキングの侵略にさらされましたが、10世紀の後半になってようやく、東フランク王国の力も強くなりました。
ザクセン家が王となり、オットー大帝とも呼ばれるオットー1世が、962年にローマ教皇からローマ皇帝の帝冠を受けて、しばらく途絶えていた「西ローマ帝国」も復活しますね。
カール大帝のローマ皇帝と区別するために、オットー大帝からは神聖ローマ皇帝と言われます。
ネーデルラントも、この神聖ローマ帝国の重要な地域になったのですよ。

ブルゴーニュ公の時代にネーデルラントは文化が繁栄

ブルゴーニュ公の時代にネーデルラントは文化が繁栄

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ブルゴーニュ公がネーデルラントの領主に

フランス王国と神聖ローマ帝国、この2つの国にはさまれた地域に、ブルゴーニュがあります。
フランス王の弟筋にあたるブルゴーニュ公は、フランス王国と神聖ローマ帝国にそれぞれ地盤を持っていたのですよ。
豪胆公とも呼ばれるブルゴーニュ公フィリップ2世は、結婚によってフランドル地方と、アントウェルペンとメヒェルンを手に入れました。
1384年のことですね。
これがブルゴーニュ領ネーデルラントの最初の姿ですが、ブルゴーニュ公国とは飛び地になっていますね。
これは、封建領主の領地としては、よくあることですよ。

さらに、1428年にはホラント、1429年にはナミュール、1430年にはブラバントなど、この地域の都市や伯領・公領などを統合して、ネーデルラント全体が、ブルゴーニュ公の領土になったのでした。
これ以後、ブルゴーニュ家のネーデルラントと呼ばれるようになりますが、これまでの歴史を振り返ってみるとわかるように、この地域は各都市の自立性が強いのが特徴ですね。
善良公とも呼ばれるフィリップ3世は、中央集権化しようとして貴族や市民たちの抵抗にあい、彼らの特権を認めるほかありませんでした。
「善良公」などと呼ばれるのも、そのためでしょうね。

シャルル突進公が死んで一人娘のマリーが相続

ブルゴーニュ公の支配のなかで、ネーデルラントの都市は発展を遂げます。
ブルゴーニュ公も、本来の領地よりは、毛織物工業の発達したネーデルラントに宮廷を移しています。
1500年頃、ヘントやアントウェルペンは、すでに4万人の人口があったということですね。
現在はオランダではなくベルギーの都市、ブリュージュやブリュッセルも、3万人以上の人口。
それに対して、ライデンやアムステルダムなど、ホラント伯領の都市は、1万5千程度。
なお、公用語は、ブルゴーニュ公国の一部ということなので、フランス語でした。
「中世の秋」と呼ばれる華やかな宮廷文化は、ちょうどこの頃のネーデルラントですね。

フィリップ善良公の夢は、フランス王国と神聖ローマ帝国との間に、ブルゴーニュ王国をつくることだったのですが、その夢を、息子のシャルル突進公が継いだのですね。
突進公というあだ名は、まさに猪突猛進、無理にでも戦いを仕掛けていくシャルル公の性格からきています。
一人娘のマリーの結婚相手として、ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の息子マクシミリアンを選んだのも、その一環ですね。
しかし、シャルル突進公は、1476年にナンシーの戦いで戦死。
ネーデルラントは一人娘マリーが継ぐことになったのですよ。

ネーデルラントはハプスブルク家の支配に

ネーデルラントはハプスブルク家の支配に

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ネーデルラントはハプスブルク家の支配に

ネーデルラントの各都市の自治権は強くて、ブルゴーニュのマリーと結婚したハプスブルク家のマクシミリアンも、なかなかこの地域を自分の支配下に置くことができません。
1478年にこの二人の長男フィリップがブリュージュで、1480年に長女マルガレーテがブリュッセルで生まれましたが、肝心のマリーは1482年に落馬して死んでしまっていますから、ブルゴーニュ領ネーデルラントは、どうなってしまうのか。
夫のマクシミリアンは、一応マリーの共同統治者として認められていたのですが、ネーデルラント自体は、フィリップとマルガレーテが相続することになったのですね。
なお、ブリュージュもブリュッセルも現在はベルギーで、残念ながらオランダではありませんが。

一方、ブルゴーニュ公の領地をめぐって、1477年から1493年まで、ブルゴーニュ継承戦争があったのですよ。
フランス王国としては、ブルゴーニュ公国は自分のものという意識がありますね。
一方、ハプスブルク家としては、ブルゴーニュ領のネーデルラントだけではなく、ブルゴーニュ公国そのものが手に入れば、それに越したことはありません。
それに各地域や都市の有力者たちが自分たちの特権を守るとともに、その特権をさらに強いものにするために、この戦いに介入。
最終的に決着がついたのが、1493年のサンリスの和議。
これでネーデルラントの支配権は、ハプスブルク家のものとして確立したのですね。
もちろん、ブルゴーニュ公国はフランスのものになったということです。

ヘントで誕生したカール5世

ブルゴーニュのマリーの長男フィリップは、スペイン王女フアナと1496年に結婚したあと、しばらくはネーデルラントに住んでいましたね。
このふたりの長男カールは、のちにスペイン王カルロス1世かつ神聖ローマ皇帝カール5世となり、当時のスペインの海外植民地を含めて、「陽の沈まぬ帝国」の帝王となりますが、生まれたのは1500年。
現在はオランダになっているヘントですね。
ネーデルラントの都市のうち、ようやくオランダの都市が出てきました。
実はこの当時、フリースラントをはじめとして、ネーデルラントには、ハプスブルク家に従属しない都市や地域もあったのですよ。

カール5世の時代になってようやく、1521年にトゥルネー、1524年にフリースラント、1528年にユトレヒトというように、各都市や地域を支配下に入れ、1543年にようやく、17州を統一した形のネーデルラントができたのですね。
しかし、その一方で、1517年に、ルターの宗教改革が起こっていました。
カール5世も、その息子のスペイン王フェリペ2世も、信仰心の篤いカトリック。
ルター派やカルヴァン派など、宗教改革によるプロテスタントは、徹底的に弾圧され、ネーデルラントでも、1545年にカール5世は異端審問所を設置。
拷問や処刑が繰り返されたのですね。
それでも、ネーデルラントの商人たちのあいだに、カルヴァン派の信仰が広まったのですよ。

スペイン系ハプスブルク家との決戦

スペイン系ハプスブルク家との決戦

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フェリペ2世のときにネーデルラントは反乱

神聖ローマ帝国内でのプロテスタント諸侯との戦い、同じカトリックであるフランス王国との摩擦、それにイスラム教国であるオスマン・トルコの脅威など、カール5世の晩年は悩みの連続。
皇帝は死ぬまで皇帝でなくてはならないのに、カール5世は、1555年にネーデルラントの支配権を息子フェリペに譲り、1556年にはスペイン王位をさらにフェリペに、そして神聖ローマ皇帝位は弟フェルディナントに譲り、引退したのですね。
フェリペ2世は、父親であるカール5世より、さらに徹底的にプロテスタントを弾圧。
そのために、ネーデルラントは、スペイン王国の支配に対して反乱を起こすに至ったのですね。

プロテスタントのうち、フランスにいたカルヴァン派の人たちをユグノーといいますが、フランスのヴァロア家とオーストリアのハプスブルク家が和解したため、このユグノーが大勢ネーデルラントに逃亡してきたのですね。
そして、1566年には、ネーデルラントのフランドルやブラバントで、カトリックの教会や修道院を破壊。
これを聖像破壊運動と呼んでいますが、プロテスタントは、カトリックが信仰の対象にしていた聖母マリアや聖人たちの像を、偶像と考えていたのですよ。
プロテスタント側の反撃ですね。

ネーデルラントの北部の7州が独立

この聖像破壊運動により、フェリペ2世はアルバ公を指揮官にして、軍をネーデルラントに送り込んだのでした。
プロテスタントに対する迫害は、さらにひどいものに。
ネーデルラント総督のマルガレーテの取りなしは、もう通用しません。
この暴挙に対して、もちろんユグノーの側も黙っていませんね。
ネーデルラントの大商人などはユグノーでしたので、財力はありますね。
それに対して、フェリペ2世は、イギリスとの戦いなどで戦費を浪費。
破産宣告まで出す始末。
オラニエ公ウィレム1世を先頭に、オランダ独立戦争が続いたのですよ。
1576年にヘントの和平条約が結ばれたものの、すぐに決裂。
1577年にはフェリペ2世の異母兄弟のドン・フアンがネーデルラント総督に着任。
戦争は再開されましたが、一応、1579年にネーデルラントの北部7州が連合して独立を達成したのでした。

これまで、ブルゴーニュやスペインに支配されてきたネーデルラントでしたが、現在のオランダとベルギーに分裂したのは、ちょうどこの頃です。
北部はユグノー、南部はカトリック、つまり、ユグノーの多くいる地域が現在のオランダ、カトリックの多くいる地域がベルギーになったということになりますね。
言語も、オランダはドイツ語の方言であるオランダ語、ベルギーはブルゴーニュに支配されていた頃の公用語であるフランス語。
もちろん、ヨーロッパ諸国はすべて、そう簡単な線引きができないのが特徴ではありますが。

北部7州による連合共和国の完成

北部7州による連合共和国の完成

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ネーデルラントの八十年戦争集結

1581年に、ホラントやユトレヒトやフリースラントなど、ネーデルラント北部の7州が、共和国を建国。
一方、ネーデルラント南部は、アレッサンドロ・ファルネーゼが率いるスペイン軍に支配され、スペイン領ネーデルラントは1713年まで続きます。
なぜ1713年までだったかというと、スペイン王家が断絶して、1700年から1713年までスペイン継承戦争があったからですよ。
その後は、スペイン王家と同じハプスブルク家がこの南部ネーデルラントの支配を続け、オーストリア領ネーデルラントとして継続。
北部のオランダ共和国と南部のオーストリア領ネーデルラントが、それぞれ、現在のオランダとベルギーですね。

1618年から1648年まで、神聖ローマ帝国では三十年戦争が続きますが、ネーデルラントでは聖像破壊運動から始まるので、なんと八十年戦争と呼んでいるのですよ。
ウェストファリア条約で三十年戦争に決着がつきますが、ネーデルラントの八十年戦争も、ウェストファリア条約でとりあえず終了。
三十年戦争は、もともとはカトリックとプロテスタントとの争いだったので、この条約によって、信仰の自由が最終的に認められたのでしたね。
ちょうどこの時代のオランダは、「7つの州の連合共和国」というのが正式名称だったのですよ。

17世紀が連合共和国の黄金時代

16世紀の終わりにスペインからの独立をはたしたこの連合共和国は、17世紀が黄金時代と呼ばれていたのですね。
スペインとポルトガルが「新世界」に広大な植民地をもっていた時代がありましたが、オランダは、まずはバルト海での貿易で成功。
その後、当時は「香料の島」と呼ばれていたインドネシアに船を出し、香料の貿易で利益をあげたのですよ。
1609年には、イタリアを除くヨーロッパで最大の巨大銀行も設立。
1602年には東インド会社と契約していたのですが、1621年にはオランダ独自の西インド会社を設立。
鎖国時代の日本との交易は、ちょうどこの頃ですね。

しかし、黄金時代はそういつまでも続くものではありませんね。
イギリスとの戦争が、17世紀後半に何度も起こっています。
1652年から1654年が第一次英蘭戦争。
艦隊同士の海戦ですが、オランダは、この戦争での不利な和議に不満で、より強力な艦船を建造したのですよ。
そのため、1665年にイギリスはオランダに宣戦布告。
これが第二次英蘭戦争で、1667年まで続きます。
1672年には第三次英蘭戦争が起こりますが、このときにはフランスと、神聖ローマ帝国内の都市であるミュンスターとケルンが、大英帝国と呼ばれていたイギリスと同盟。
一方、フランスのルイ14世は、スペイン領ネーデルラントをねらって、1667年に宣戦。
これは1668年のアーヘンの和議で決着するのですが、ドイツとフランス、それにドーバー海峡の対岸のイギリスという大国に囲まれたネーデルラントの宿命ということかもしれませんね。

フランス革命とナポレオンによって地図が塗り替えられる

フランス革命とナポレオンによって地図が塗り替えられる

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フランス革命によりバタヴィア共和国が建国

1789年のフランス革命は、いろいろな意味で近代ヨーロッパほ決定する大事件でしたね。
この革命の原因のひとつとして、アメリカ独立戦争を入れることができるでしょう。
ついでに言っておくと、ニューヨークは、かつてオランダ人がつくたニューアムステルダムだったのですよ。
フランスはイギリスとアメリカとのこの戦争に加担して、戦費を使いすぎたため、財政難になったわけです。
フランスも、ルイ14世の黄金時代は昔のことになっていたのですね。
フランス革命が起こった混乱の時代、1780年から1784年まで、イギリスがオランダに仕掛けた第四次英蘭戦争。
オランダは当時は共和国ですが、総督だったオラニエ公ウィレム5世が、親戚のプロイセン王に援助を求めたのですね。
フランス革命は、フランスだけの問題ではなくなったわけです。

フランスの革命軍は、ネーデルラントにも進軍してきました。
現在ベルギーになっているオーストリア領ネーデルラントは、同じフランス語を話す地域でもありますから、フランス共和国に編入されてしまったのですよ。
ネーデルラント北部の連合共和国は、バタヴィア共和国になったのですね。
この共和国は、1795年から1806年までのほんの短い期間しか続きませんでした。
それは、革命後のフランスの二転三転する政治情勢と関係がありますね。
そして、ホラント州が中心になって、1806年から1810年までのほんの短い期間、ホラント王国も誕生したのですよ。

ナポレオンによりフランス帝国に編入

フランス革命のときの「自由・平等」という人権宣言は、現在も生きています。
人間はすべて自由であり平等であるとすれば、王や貴族などの身分制はそれに反するものになりますね。
革命当初は、ルイ16世もその家族も無事で、立憲王政のような形になった時期もあったのですが、革命はどんどん過激になり、ルイ16世もその王妃マリー=アントワネットもギロチンで処刑されたことは、よく知られていますね。
共和制から恐怖政治へ、そして統領政府へと革命が進行していくなかで、ナポレオンが終身統領となったあと、1804年にフランス皇帝になったのですね。
現在のオランダとベルギーの大部分は、1805年にフランス帝国に編入されたのですよ。

1384年にブルゴーニュ家によって統一され、1581年にスペイン領ネーデルラントと連合共和国に分かれたネーデルラントですが、ここでまた統一されたということになりますね。
ドイツ諸侯のほとんどが、ナポレオン皇帝のもとに身を寄せたため、1806年に、神聖ローマ皇帝フランツ2世は皇帝を退位。
神聖ローマ帝国は崩壊してしまいますが、その後、ナポレオンはロシア遠征で敗北。
1814年にフランス皇帝を退位しましたね。
ナポレオン後のヨーロッパをどうするかについて議論するために開かれたのがウィーン会議。
1815年に、オラニエ=ナッサウ家を王とするネーデルラント連合王国ができたのですよ。

ネーデルラント連合王国からベルギーが分離

ネーデルラント連合王国からベルギーが分離

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現在のベルギーを含むネーデルラント連合王国が建国

「ベネルクス」に話を戻してみると、ナポレオン皇帝の時代には、これら3国すべてがフランス帝国の一部だったのですね。
1815年に、ルクセンブルクがオラニエ=ナッサウ家によるルクセンブルク大公国となり、現在のオランダとベルギーを併せたものがネーデルラント連合王国となったわけです。
これが、ウィーン会議の結論ということですね。
しかしながら、そもそもウィーン会議によって決定されたヨーロッパの新体制は、フランス革命とナポレオンによって組み替えられたヨーロッパを、できるかぎり革命前の旧体制に戻す、という無理な試み。
思想統制や検閲などが日常的に行われたのですよ。

共和国時代に総督を務めたオラニエ=ナッサウ家のウィレム5世の息子ウィレム=フレデリックが、1813年にフランス帝国からの独立を叫んで立ち上がったのでしたが、1815年にネーデルラント連合王国ができたときに、国王ウィレム1世になったのですね。
ルクセンブルク大公国の大公も彼自身だったので、ネーデルラント連合王国とルクセンブルク大公国は同じ君主だったということになりますね。
ルクセンブルクはともかくとして、連合王国は、フランス語地域とドイツ語地域に分かれているし、カトリックとプロテスタントが多く居住する地域にも分かれていましたから、分裂は時間の問題ということになるでしょう。

1830年に連合王国からベルギー王国が独立

ウィーン体制のなかで、ブルボン家の復活したフランス王国では、1830年に市民により七月革命が起こり、ブルボン家の王が廃止され、オルレアン家の王ルイ=フィリップが選ばれましたね。
これを七月王政というのですが、ネーデルラント連合王国ても、この革命の余波を受け、南部ではベルギー革命が起こったのですね。
ウィレム1世は南部に軍を送り、革命を弾圧しようとしたのですが、ほんの数日で引き上げてしまったのですよ。
こうして、連合宇国は、ネーデルラント王国とベルギー王国に分かれ、それぞれ今日に至っています。

もっとも、ウィレム1世がこのベルギー王国を正式に認めたのは1839年。
ハプスブルク家のように、オーストリア皇帝やハンガリー王やボヘミア王などを兼ねていた貴族がいたのですから、オランダとベルギーも、同君連合という形になってもおかしくはなかったのですが、ベルギー王国は、ザクセン=コーブルク・ゴータ家が王になっていますね。
さらに、1848年に七月王政のフランスで二月革命が起こり、フランスはまた共和国になったのですよ。
これを受けて、ドイツやオーストリアでも三月革命が起こったのですが、ネーデルラントでも革命騒ぎが起こり、プロテスタントの国であるネーデルラント王国では、1853年に、カトリックの大司教領が復活します。
王政も、立憲君主制となり、1866年から88年にかけて、議会制ができたのですね。

二度の世界大戦を経てオランダはいま……

二度の世界大戦を経てオランダはいま……

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第一次世界大戦では中立国

19世紀末、ネーデルラント王国は、今日のインドネシアを植民地化します。
その一方で、内政改革が行われ、1884年にはまた憲法改正により、選挙権が拡大できることになったのですね。
第一次世界大戦中の1917年には、成年男子のすべてに選挙権が与えられ、その最初の選挙の行われたのが、皮肉なことに、第一次世界大戦が終わろうとする1918年7月3日。
女性にも選挙権が与えられたのは、1922年のことでした。
オランダ王国は、20世紀のはじめには、王政と民主主義とを併存させることに成功したのでしたね。

ところで、第一次世界大戦では、オランダ王国は中立の立場。
しかし、同じように中立だったベルギー王国にドイツ軍が侵入。
ベルギーから多数の難民がオランダに流入。
フランス語の国はドイツにとって敵だったけれども、ドイツ語の方言でもあるオランダ語の国は、必ずしも敵ということでなかったのかもしれませんね。
とはいえ、当初の予想とは違って、長引く戦争に、兵士たちは疲弊し、また食料も不足したのでしたよ。
1917年6月28日から7月5日にかけて、アムステルダムでも、ジャガイモをめぐって騒動が起こったのですよ。
1918年11月には、社会民主主義労働者党が革命を宣言。
ドイツのナチスと似た名前の政党ですが、オランダでは、この党は成功しませんでしたね。

第二次世界大戦のときにはユダヤ人が逃れてくる

ドイツでは、ナチ党のヒトラーが、1933年に政権を握るのですが、オランダでは、社会主義の政党が政権を握るのは1939年。
共産党やナチ党はオランダでは人気がなかったようですね。
そのため、ドイツから、ナチに追われたユダヤ人が、オランダに流入。
しばらくは難を逃れることができたのですが、1940年5月には、ドイツ軍がオランダに侵入。
オランダはたちまちナチス・ドイツの支配下に。
あの有名な『アンネの日記』のアンネ・フランクは、この時代のオランダに隠れ住んでいたのですよ。

ドイツに占領されたオランダの王家や政府は、国外に逃亡。
激化する戦争のために、アムステルダムも爆撃で破壊されたのですね。
戦後、ナチに協力したオランダ人たちは逮捕され、裁判にかけられました。
第二次世界大戦後は、ナチに抵抗した象徴として、ウィレミーナ女王が1948年まで在位して、娘のユリアナに王位を継がせたのですよ。
その後は、1975年までに植民地が独立し、オランダ王国はベルギー王国とならんで、小さいけれども、ヨーロッパの中心として、あるいは、ヨーロッパ連合の手本として、今日に至っているのですよ。
機会があれば、オランダの戦後に焦点を当ててみたいですね。

小さな国オランダ王国は難民の天国?

オランダ王国の歴史を、ローマ帝国の時代から現在まで、駆け足で眺めてみました。
そこで気付いたこと、それは、いろいろな理由で母国を離れた難民たちがオランダに流入したことが、いくつかの時代にあったことですね。
小さいけれども、海に面したオランダはの先には、広大な海があるということですね。
江戸時代に鎖国中の日本に来たドイツ人シーボルトは、幕府の役人に、あなたのオランダ語は変ですねと言われ、「高地オランダ語」ですと答えたとか。
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