聖地エルサレムだけではなかった!十字軍遠征の歴史

十字軍の「十字」とは、イエスが処刑された十字架のこと。その旗を掲げて「異教徒」と戦った騎士団が十字軍ということになります。1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じて、ヨーロッパ各地からエルサレムを目指した第1回十字軍は、高校の世界史の教科書にも載っていますね。キリスト教の聖地であるエルサレムがイスラム教徒に支配されたため、その聖地を奪還することが、十字軍の本来の目的のはずだったのに、その歴史をみていくと、理想と現実との食い違いがいろいろ見えてきますよ。さあ、十字軍遠征の旅に出かけることにしましょう。

3つの宗教の聖地エルサレム

エルサレムは3つの宗教の聖地なので

エルサレムは3つの宗教の聖地なので

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イエスが生まれた頃、エルサレムにはユダヤ教の神殿がありました。
その時代はちょうどローマ帝国が地中海全体を支配していて、エルサレムを首都とするユダヤ王国はローマ帝国の属国として繁栄していました。
ユダヤ教徒にとって、ダヴィデの神殿のあるエルサレムこそが聖地なのですよ。
ですから現在、ユダヤ人の国家であるイスラエル共和国の首都はエルサレムですね。
イエス自身もユダヤ教の世界で育ったのでしたが、エルサレムで十字架にかけられて処刑されましたね。
その3日後に復活して、弟子たちがイエスの教えを広めてキリスト教が成立したわけです。

その後ローマ帝国内でキリスト教は広まり最初は迫害されていたのでしたが、最終的にはローマ帝国の国教になりました。
その後ローマ帝国は東西に分裂し、475年に西ローマ帝国は滅亡。
東ローマ帝国はゲルマン人の侵入がほとんどなかったため西ローマ帝国のように滅亡することはなかったのですが、そのかわりイスラム教徒との戦いをすることになったのでした。
メッカに生まれたムハンマドが神の啓示を受けて開いたイスラム教は、中近東から北アフリカに急速に広まり、638年にはエルサレムがイスラム教徒の第3の聖地になったのですよ。

『賢者ナータン』の3つの指輪のたとえ話

話は飛んでしまいますが、18世紀啓蒙主義の時代にドイツにレッシングという劇作家がいました。
彼の劇作品に『賢者ナータン』(1779)というのがあります。
舞台は12世紀末、ちょうど第3回十字軍の頃のエルサレム。
イスラム教徒の長であるスルタンのサラディーンが、ユダヤ人であるナータンにユダヤ教とキリスト教とイスラム教のうち、どれが正しいのかと質問する場面があります。
では、ナータンはこの問いにどう答えたでしょうか。

ナータンは、こんなたとえ話をしたのでしたね。
これまでずっと父から息子に受け継がれてきた指輪がありました。
ある時代の父には同じように愛する3人の息子がいたので、父は職人に頼んで同じ指輪を2つ作ってもらい3人の息子に指輪を与えたのですが、この3つの指輪のうちどれが本物か、問題になりました。
そこでナータンは、こういう解釈を示したのですね。
父から同じように愛されていた3人の息子がそれぞれにもらった指輪は、すべて本物である、と。
このたとえ話の深い意味、わかりますか。
キリスト教、とくにローマ=カトリックは、ユダヤ教徒を迫害しただけではなくエルサレムにいるイスラム教徒に対して何度も十字軍を派遣したのですが、この3つの宗教はもともと同じ神を信仰しているのだから、そんな戦いを神がどう思うか、という啓蒙主義の思想になるのです。

第1回十字軍がエルサレムを目指しました

西ローマ帝国は形式的には復活します

637年まではイスラム教徒に占領されていたエルサレムでしたが、その後は1000年頃まで、東ローマ帝国の領土に戻っていましたね。
当時の東ローマ帝国をビザンツ帝国とも呼んでいましたが、イスラム教徒のなかのトルコ人がこのビザンツ帝国と争う状況になりました。
当時のトルコはセルジュク朝。
一方、西ローマ帝国はゲルマン人によって滅ぼされたのですがそのゲルマン民族がいくつかの王国を作り、やがてキリスト教にも改宗。
なかでもフランク王国が今日のヨーロッパの基礎を築いたのですよ。

一方、イスラム教の大国であるサラセン帝国がイベリア半島を占領したあと、ピレネー山脈を越えて攻めてきたのでした。
フランク王国のシャルル・マーニュがツール=ポワチエの戦いでこれを撃破。
これによってヨーロッパを守ったということで、ローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を受けたのでした。
こうして形式上は800年に西ローマ帝国の復活。
シャルル・マーニュの死後フランク王国は分裂するのですが、962年に東フランク王国のオットー大帝が帝冠を獲得。
これが神聖ローマ皇帝の帝冠として、なんと1918年まで受け継がれることになるのですよ。

1095年のクレルモン公会議で決定されました

1095年のクレルモン公会議で決定されました

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ビザンツ帝国から援軍の要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、クレルモン公会議で十字軍を派遣することを決定。
キリスト教の第一の聖地であるエルサレムを、イスラム教徒から取り戻す、という大義名分がありましたね。
ヨーロッパ各地の諸侯や騎士たちが、この呼びかけに賛同。
1096年にはエルサレムに向けて第1回十字軍が出発することになります。
ところで十字軍は全部で何回派遣されたか。
いろいろ学説があるようですね。
それはなぜかというと、ローマ教皇が神聖ローマ帝国やフランス王国の諸侯に呼びかけて聖地エルサレムを奪還するという大義名分と、十字軍を名乗る騎士団との間に、ズレが生じてくることがあったからでしょう。
そればかりではなく、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝とのあいだに権力闘争もあり、ローマ教皇を頂点とする「西ローマ帝国」がただ名目上の存在になっていったという、歴史過程もありましたね。

そのことについてはあとで述べていきたいと思いますが、ここでは諸侯や騎士たちがエルサレムに向けて旅立つより前に、ローマ教皇の呼びかけに感激した民衆が隠者ピエールに導かれ「民衆十字軍」としてエルサレムに向けて出発したことをあげておくことにしましょう。
それはもちろん、公式の十字軍ではないし、軍隊として統率の取れたものではありませんでしたから、その目的を果たすことなく壊滅したのですね。

エルサレムを奪還してエルサレム王国ができました

エルサレムには聖墳墓教会があります

エルサレムには聖墳墓教会があります

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日本では四国八十八カ所をはじめとして、あちこちに巡礼地がありますね。
キリスト教にも巡礼の習慣があるのですよ。
日本と違うのは何カ所かの巡礼地をめぐるのではなく、巡礼の目標が一カ所だということです。
なかでも最大の巡礼地は、イエスが死んで復活したエルサレム。
それ以外には、ペトロとパウロが殉教したローマがあります。
ローマ教皇のいるサン・ピエトロ大聖堂は、イエスから天国の扉の鍵をもらったペトロの名前からきているのですよ。

もうひとつ有名なのは、イベリア半島にあるサンティアゴ・デ・コンポステラです。
ここはイエスの弟子のヤコブの遺骸が流れ着いた場所。
イベリア半島はイスラム教徒に占領されましたが、聖ヤコブがこの戦いでキリスト教の軍団に力を貸したという伝説があります。
そのほかにもあちこちに巡礼教会がありますが、エルサレムにはイエスが葬られたと伝えれている場所に聖墳墓教会がありました。
もとはローマ皇帝コンスタンティヌスの母親が326年にこの地を訪れて、イエスが架けられた十字架と、手と足に打ち込まれた釘が発見とされているのですよ。

1099年にエルサレム王国が誕生しました

ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけに応じたのは、おもにフランスの諸侯や騎士たち。
1096年に出発した十字軍は、いまだ戦闘の準備ができていなかったイスラム教の領主たちを次々に撃破。
しかしまた各地で略奪や虐殺、それに強姦などがあったことも忘れてはいけないでしょう。
戦争は武器を持って行う戦闘だけではないのですね。
補給部隊などというものがなかった時代のことですし、相手は「異教徒」ということなので、ずいぶんひどいことも行われたようです。
2000年3月12日にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が、勇気をもってこのことを謝罪したことは忘れてはなりません。

十字軍はまだまだこれから続きますが、ともかくこの第1回十字軍ではブルゴーニュ伯ボードゥアンが、1098年にユーフラテス川の上流にエデッサ伯国を建国。
十字軍の本隊は1097年から1098年にアンティオキアを攻略し、アンティオキア公国を建国してポエモン1世が誕生。
1099年にはとうとうエルサレムを陥落させ、ここにエルサレム王国を樹立。
初代の王になったのは、ゴドフロワ・ド・ブイヨンでした。

さらなる十字軍が中近東に遠征しました

1101年の十字軍はエルサレムにたどり着けませんでした

第1回十字軍によりエルサレム王国のほかに、アンティオキア公国などいくつかのキリスト教徒の支配する「国」が生まれました。
そうするとこの地域を征服して自分の国をつくろうとする諸侯や騎士たちが次々と襲来。
聖地エルサレムを取り戻したことで本来の十字軍の目的は果たせたはずなのですが、これからが十字軍の歴史、ということになりますね。
1147年の第2回十字軍の前に1101年の十字軍があったのですよ。
今度はイスラム教徒の側でも防衛体制ができていたようで、第1回十字軍のようにうまくいきません。

この十字軍はかつての民衆十字軍と同じようにあまり統率のとれていなかったようで、イスラム教徒の抵抗にあって壊滅しまいました。
十字軍に参加した者たちは、戦死したり逃亡したり、さらには捕虜になって奴隷になった者もいたのですよ。
現在、シリアの内戦でアレッポという都市の名前をニュースで見たりすることがありますね。
このときにもやはりこのアレッポの周辺でも激しい戦闘が行われたようです。
「歴史は繰り返す」という有名な言葉がありますね。
悲しいことですが、それは本当かもしれません。

スウェーデンからも十字軍がエルサレムを目指しました

スウェーデンからも十字軍がエルサレムを目指しました

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バルト海をはさんで神聖ローマ帝国の対岸にあるスウェーデン王国。
この王国もキリスト教に改宗していたのですが、17歳の王ジークルドは1107年に船団を率いてエルサレムを目指したのですね。
なお、この「ジークルド」という名前は、北欧のゲルマン神話に由来していますね。
かつてのヴァイキングさながらにスウェーデンの船団はドーヴァー海峡を越え、イベリア半島を一周して、ジブラルタル海峡から地中海を横断。
イスラエル北部のアッコンに到着したのは、1110年のことだったのですよ。
1111年にはエルサレム王に迎えられ、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたヨルダン川で沐浴し、聖遺物である十字架の一部をもらったのでした。

途中で行われた戦いや略奪のことを考えなければ、この十字軍はまるで優雅な世界旅行のようですね。
もともと巡礼の道の安全を確保する目的をもっていた十字軍ですから、若いスウェーデン王のこの大旅行の成功は、その十字軍の成果とも言えますね。
ジークルド王は、1111年にコンスタンティノープルに立ち寄っています。
ローマ皇帝コンスタンティヌスに由来するこの都市は、もちろんビザンツ帝国の首都ですね。
その後、陸路を通って、スウェーデンに帰還。
こういう十字軍もあったわけです。

エデッサ伯国がイスラム教徒に占領されました

第2回十字軍は撤退してしまいました

第2回十字軍は撤退してしまいました

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こうしてしばらくは、中近東もキリスト教徒とイスラム教徒が共存する平和な時代が続いたのでした。
しかし残念ながらヨーロッパ人とアラブ人との平和が、そういつまでも続くことはなかったのですね。
それどころか、ビザンツ帝国と十字軍のつくった諸国との闘争も起こったのですよ。
同じキリスト教でも、ビザンツ帝国はギリシャ正教、十字軍はローマ=カトリック。
ローマ帝国が2つに分裂したのと連動して、キリスト教もこの2つが二大勢力になったのでした。
そもそも十字軍とはローマ=カトリックのローマ教皇が、ローマ=カトリックの領主や騎士たちに呼びかけて、もともとビザンツ帝国の領土だった中近東のイスラム教徒と戦った軍隊。

ビザンツ帝国と十字軍国家とのあいだには、同じキリスト教でも違いがあり、そのためにいろいろな争いが生じてしまいます。
これに乗じて1144年に、イスラム教徒のザンギーがエデッサ伯国を占領したのでした。
ローマ教皇エウゲニウス3世は、1147年に十字軍を呼びかけたのですね。
これが第2回十字軍。
フランス王ルイ7世と神聖ローマ皇帝コンラート3世が指揮をとったのですが、これがかえって裏目に。
つまりカトリック世界の軍事的第一人者が、フランス王なのか神聖ローマ皇帝なのか、という争いが生じたのですね。
結局、イスラム教徒からエデッサ伯国を取り戻すことができず、1149年に第2回十字軍は撤退してしまいました。

イスラム教徒の側からの反撃が始まりました

イスラム教徒の側も1169年にサラディンがアイユーブ朝を開き、アラビア半島西部から北アフリカを支配する国家になりました。
このサラディンが1187年に「ジハード」を宣言したのですが、「聖戦」を意味するこの言葉は、今も使われていますね。
アイユーブ朝からすれば、十字軍こそが自分たちの土地の侵略者。
ヒッティーンの戦いで、サラディンは現地にいる十字軍を壊滅させたのでした。
そして、エルサレムをキリスト教徒から取り戻したわけです。

もちろん、これに対してローマ教皇グレゴリウス8世は1189年にまた十字軍を呼びかけたのでした。
これが第3回十字軍。
今度はイングランド王国のリチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がこの呼びかけに応じたのですね。
第2回よりもさらに十字軍のリーダーが増えていますね。
なおリチャード一世は獅子心王、フリードリヒ1世はパルバロッサという呼び名がついています。
いかにも強そうな名前ですが、バルバロッサというのは「赤いひげ」という意味で、フリードリヒ1世は赤髭皇帝ということですね。

エルサレムを奪い返すことはできませんでした

フリードリヒ・バルバロッサは溺死しました

フリードリヒ・バルバロッサは溺死しました

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第1回十字軍がおもにフランスの諸侯と騎士たち、第2回十字軍がフランス王と神聖ローマ皇帝、そして第3回十字軍は、なんとそれにイングランド王を加えて、現在でいえば英独仏というヨーロッパの主要三カ国。
アイユーブ朝に占領されたエルサレムを、どうしても取り戻そうという勢いが感じられますね。
帝国議会が開かれるドナウ川の都市レーゲンスブルクからフリードリヒ1世は軍を進めたのですが、フランス王やイングランド王よりも、ずっと聖地に近い場所。
ドナウ川を下っていけば、ビザンツ帝国にたどり着くことができますから。

しかもドナウ川中流のハンガリー王ベラ3世、下流のビザンツ皇帝イサーク2世、さらにそのイサーク2世と親交のあるトルコのスルタンであるアルスラン2世と取引をしていたのですから、間違いなく聖地へは一番乗り。
神聖ローマ皇帝の面目を守れますね。
ハンガリーでは自分の息子とハンガリー王の娘とを結婚させることに成功。
ところが、小アジア半島南東部のサレフ川で思いがけず溺死。
1190年のことでした。
暗殺説もありますが、なんといってもバルバロッサは死んでいない、という伝説が生まれたのですよ。
アーサー王と同じですね。
ドイツが危機に陥ったとき、バルバロッサがドイツを助けるために隠れ住んでいる城から現れるという伝説ですね。

アッコンを奪い返したのち和平条約を結びました

神聖ローマ皇帝は突然の死を迎えてしまいましたが、十字軍そのものはイングランドの獅子心王リチャード1世とフランス王フィリップ2世に率いられて、聖地エルサレムを目指したのでした。
ただこの両軍は一度は一緒になったものの、結局はそれぞれ別のルートから聖地を目指すことになったのですよ。
リチャード1世はマルセイユに戻り、そこでイングランドから来た艦隊と合流。
さすがに海軍で有名なイギリスですね。
しかしそのままエルサレムに向かわず、シチリア島北部の都市メッシーナを占領。
ここで冬を越して1191年に聖地を目指すのですが、今度は嵐のために艦隊はバラバラに。
聖地を取り戻すという大義名分を、自分の領土拡大に利用した天罰でしょうか。

一方フィリップ2世の艦隊は、1191年にテュロスに上陸。
リチャード1世は遅れを取ってしまいましたね。
しかしここでは協力して戦い、アッコンを奪い返すことに成功。
次は聖地エルサレムということなのですが、ここでまたイギリス王とフランス王とのあいだに争いが生じたのです。
つまり、イスラム教徒に奪い返されたとはいえ、エルサレム王の名前はまだ残っていますから、それをいったい誰が継承するのか。
すでに見たように、十字軍は自分の領土拡大の方向に動いていますし、王の位は諸侯にとって領土以上に大事なこと。
ということで、フィリップ2世はフランスに帰ってしまったのですよ。
リチャード1世だけがエルサレムを目指したのですが、結局は1192年にサラディンと和平条約を結びパレスティナから退却。
これで第3回十字軍は終わったのですね。

100年がすぎて十字軍は迷走しました

なんとビザンツ帝国と十字軍は戦いました

なんとビザンツ帝国と十字軍は戦いました

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12世紀というのは騎士文学が栄えた時代。
文学が栄えたということは、逆に言えば騎士そのものが没落しつつあったということなのですよ。
13世紀になるとその傾向がますます強くなり、騎士に代わって大商人の時代になったわけです。
そういう時代の変化のなかにあって、ローマ教皇イノケンティウス3世は、1198年に十字軍を呼びかけたのですね。
第1回十字軍からほぼ100年ということで、あまり時代認識をしていなかったようです。
フランスの騎士たちのほか、なんとヴェネチアがこれに参加したのでした。
これが1202年の第4回十字軍。

ヴェネチアこそ、まさに大商人の都市。
今は世界有数の観光都市になっていますが、当時は世界各地に船を送り出して貿易を行っていたのですよ。
そのためにヨーロッパとアジアとの間にある海峡の都市、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルは、ヴェネチアにとっては「敵」のような都市。
第4回十字軍のもともとの目的は、聖地エルサレムというよりはイスラム教徒の本拠地のエジプト。
そこを攻撃することでイスラム教徒の勢力そのものを叩こうということなのですが、なんと攻撃の矛先はコンスタンティノープルに向けられ、1204年にコンスタンティノープルは十字軍によって占領されてしまったのですよ。

少年十字軍とアルビジョア十字軍

キリスト教の聖地エルサレムへの巡礼の道の安全を確保するという、十字軍の当初の理想はいったいどうなってしまったのでしょうか。
すでに述べましたように、第1回十字軍以来この理想とは別の十字軍による殺戮と略奪の現実がありましたね。
ディアスポラといって、各地に散らばって住んでいたユダヤ教徒もその対象になったのですよ。
もちろん、十字軍に参加したキリスト教徒たちも殺害されたり捕虜になったりしました。
そのなかでもかわいそうだったのは、1212年の少年十字軍でしたね。
この十字軍には青少年ばかりではなく大人も参加したのですが、理想に燃えて武器も持たずにドイツやフランスからエルサレムを目指した人たちは、地中海に出るあたりで消滅。
その後どうなってしまったのか、消息不明ですね。

ローマ教皇を頂点とするキリスト教のヨーロッパも、13世紀には動揺していたということでしょうね。
キリスト教内部でも異端に対する十字軍が起こったのですよ。
フランス南部のオック地方は、北フランスとは別の「オック語」と呼ばれるフランス語の方言を話す地域で、カタリ派あるいはアルビ派と呼ばれるキリスト教の異端の信仰が広まっていたのでした。
1209年にフランス王ルイ8世を中心にして、この地方を攻撃。
その攻撃はなんと20年も続いたのですが、これをアルビジョア十字軍と呼んでいます。
ローマ=カトリックの十字軍は、異教徒ではなく異端との戦いもしたということですね。

エルサレム王になった皇帝と聖人になったフランス王

破門された神聖ローマ皇帝がエルサレム王になりました

破門された神聖ローマ皇帝がエルサレム王になりました

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1217年にアイユーブ朝からエルサレムを取り戻すために、十字軍が出発しました。
しかしエルサレムから方向転換してエジプトがおもな戦場になり、1221年まで続いたのでした。
そのあいだに、ローマ教皇イノケンティウス3世は神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世にこの十字軍に加わることを要請するのですが、皇帝は教皇に従うことはしなかったのですね。
神聖ローマ皇帝はドイツ諸侯のなかから選ばれたあと、ローマ教皇の手から帝冠を授けられて即位するのですから、ローマ教皇のほうが上にいたわけです。
ところが、もうこの時代にはそれはたんなる形式になっていたのでしょう。

フリードリヒ二世が十字軍に参加しなかったために、結局この十字軍は敗北。
そのためフリードリヒ二世はローマ教皇から破門されてしまったのですよ。
1077年の「カノッサの屈辱」では、破門された皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇に許しを求めたのですが、もう時代が違っていたということですね。
しかし、破門された皇帝フリードリヒ2世は自ら十字軍を編成。
1228年にエルサレムを目指したのでした。
フリードリヒ2世はアイユーブ朝と巧みに取引をして、1229年にはエルサレム王となり、教皇も破門を取り消さなくてはなりませんでした。
これら一連の十字軍を、第5回十字軍と呼んでいます。

フランス王ルイ9世は聖人になりました

その後もいくつかの十字軍が聖地を目指すのですが、なかでもフランス王ルイ9世は十字軍で戦死してしまうので、ここで取り上げることにしましょう。
ドイツ諸侯を代表する神聖ローマ皇帝と、かつてのフランク王の直系を自負するフランス王。
ドイツとフランスとのあいだのこの敵対関係が、十字軍にも影響しましたね。
エルサレム王が神聖ローマ皇帝のものとなりましたが、この称号はなんと20世紀になっても、ハプスブルク家のオーストリア皇帝が持ち続けていたのですよ。
エルサレム王国自体は、1244年にふたたびイスラム教徒の手に落ちていました。
ここでフランス王の出番ということですね。

1248年、フランス王ルイ9世は家臣たちの反対を押し切って、十字軍を編成したのでした。
しかしエルサレムではなく、アイユーブ朝のエジプトを目指しました。
こちらを攻撃して勝利すれば、アイユーブ朝の支配するエルサレム奪還はむずかしくないのですから。
しかし、1254年、戦いに負けて捕虜となり、多額の身代金を支払って解放。
フランスでは、さきほどあげた十字軍を第5回と第6回のふたつに分けて、この十字軍を第7回十字軍と呼んでいます。
ルイ9世は帰りにエルサレムに巡礼したということですが、晩年になってルイ9世はなんとまた十字軍を編成。
第8回十字軍ということですが、1270年、チュニスで「エルサレム!」と叫んで病死。
これにより、ルイ9世は「聖ルイ」という聖人になったのですね。

テンプル騎士団とドイツ騎士団

エルサレムの神殿を守護するテンプル騎士団

エルサレムの神殿を守護するテンプル騎士団

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十字軍に参加したのは、王侯貴族や騎士たち、それに民衆や青少年、さらには下層階級の人々などさまざまでした。
なかにはどうせこのままではまともに生きられないから、十字軍に参加して、その途中に略奪をほしいままにした者もいたことでしょう。
ただし、あくまでもローマ教皇の呼びかけに応じて、聖地エルサレムの奪還を目指すのが十字軍ですから、そこにはローマ=カトリックの宗教的側面があったことは事実です。
ローマ=カトリックにはいくつもの修道会がありましたが、騎士団と呼ばれる団体も、それらの修道会のひとつと考えていいでしょう。
十字軍に関係の深い騎士団として、テンプル騎士団は忘れてはならないでしょう。
マルタ騎士団は「領土のない国家」として今も残っていますが、テンプル騎士団は1312年に滅ぼされました。

そもそもこの「テンプル」とは、エルサレムにあったダヴィデ王の神殿のこと。
神殿を守る騎士団ということですが、第1回十字軍でエルサレム王国がキリスト教徒によって建国されたとはいえ、ヨーロッパからはるかに遠い中近東。
巡礼者たちを守るために、1118年、すでに存在していたヨハネ騎士団の例にならって、テンプル騎士団がつくられたのですね。
その後の十字軍でも活躍しますね。
しかしフランス王は財政的な問題で、ヨハネ騎士団とテンプル騎士団との合併を提案するのですが、テンプル騎士団はこれを拒否。
そういうこともあって、騎士団は1312年に壊滅してしまいました。

ドイツ騎士団はプロイセンを目指しました

聖地エルサレムを守るという名目の騎士団のうち、現在も残っているドイツ騎士団は1198年に創設されました。
テンプル騎士団がフランス系なのに対して、ドイツ騎士団はその名前からもわかるようにドイツ系。
聖地エルサレム奪回という目的からすると、第1回十字軍は成功したのでしたが、その後の十字軍はさまざまな問題を抱えていましたね。
テンプル騎士団も、行き場をなくして結局は滅亡。
ドイツ騎士団は北ドイツ出身者が多かったので、神聖ローマ帝国の東、現在のポーランドやバルト三国に矛先が向けられたのですね。
十字軍の目的である、異教徒からキリスト教徒を守る、ということ拡大解釈すれば、ドイツ騎士団も十字軍ということになりますね。

国家としての力をもつイスラム教徒より、いまだ国家としての力をもっていないプロイセンの異教徒のほうが、攻撃しやすいわけです。
なんとも残酷な話ではありますが、ドイツ騎士団は13世紀の半ばから、この地域で戦いを繰り返し領土を拡大するとともに、ここに住んでいた人たちをキリスト教に改宗させたのですね。
やがてドイツ騎士団領からプロイセン公国ができたのですよ。
プロイセン王がドイツ皇帝になるのはずっとあとの話ですが、ドイツ騎士団長の称号は、20世紀初頭までハプスブルク家がもっていたのですね。

十字軍の歴史をどう理解すべきなのか

十字軍を、キリスト教徒とイスラム教をはじめとする異教徒との戦いと理解すると、わかりやすいですが、この戦いをしたのはキリスト教でもローマ=カトリックのみ。
すでに述べましたように、2000年になってローマ教皇は、十字軍の「罪」を謝罪。
歴史は、現在とは無関係の過去のこと、ではないのですね。
歴史を学ぶわれわれも、この歴史の重みというものを感じるはず。
とくに十字軍は、文化を創造する歴史ではなく、戦いの歴史ですからね。
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