クリスチャンでなくても知っておこう!イエスの生涯とキリスト教の歴史

キリスト教は世界最大の宗教で、およそ23億人、3人に1人が信仰しています。そしてカトリック、プロテスタント、正教会などいろいろな宗派に分かれていて、旅先でもさまざまな遺跡や教会を目にします。ではこうしたキリスト教はどういう歴史をたどってきたのでしょうか。そしてキリスト教を生んだイエスとは、どんな人物だったのでしょうか?ここではイエスの生涯と、その後のキリスト教の歴史を紹介していきます。

イエスの生い立ちと30歳での弟子入り

 

ナザレの地でユダヤ人のもとに生まれる

 

ナザレの地でユダヤ人のもとに生まれる

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地中海の東、いまのイスラエルがあるあたりは昔からパレスチナ地方と呼ばれていました。
このパレスチナの北部、ガリラヤ湖(別名ティベリアス湖)の西にナザレという土地があります。
イエスはこのナザレで生まれ育ちました。

イエスの誕生年は西暦1年か、もしくはその数年前だといわれています。
いずれにしても、イエスの生まれた時代は古代ローマ帝国が地中海を支配し、パレスチナもまたその支配下におかれた時代でした。

イエスの父はヨセフといい、現場をわたりあるく貧しい大工でした。
またイエスの母はマリアといいました。
『新約聖書』のなかには、マリアが処女のまま懐妊し、ベツレヘムという土地でイエスを生んだという記述もあります。
イエスがどちらの生まれだとしても、育ったのはナザレです。
また「イエス」という名前は当時ありふれたものだったので、彼はのちに「ナザレのイエス」と呼ばれました。

イエスの両親はユダヤ人でした。
パレスチナには古くからユダヤ人が多く住んでいて、かれらはユダヤ教を信仰していました。
ユダヤ教とはユダヤ人特有の民族宗教で、一神教、きびしい律法、ユダヤ人だけが救われるという選民思想、そして救世主を待望することなどが特徴です。
ユダヤ人たちは他の民族に支配されてきた歴史が長く、みずからのアイデンティティを守るために、こうした特徴的な宗教を生んだのでした。

荒野におもむき、洗礼者ヨハネの弟子になる

 

イエスの生まれた時代、ユダヤ教はいくつかの宗派に分かれていました。
祭祀階級であるサドカイ派は、聖地エルサレムの神殿で祭祀をとりおこなうとともに、ユダヤ社会の統治をローマから任されていました。
また律法というユダヤ教の決まりごとを重視するパリサイ派は、安息日に休んだり、食事の前には手を洗ったりといったこまかな規則を民衆に教えていました。
そしてエッセネ派とよばれた人々は、世俗社会から離れ、パレスチナの荒野で禁欲的な生活をおくっていました。

このエッセネ派の一人かどうかわかりませんが、西暦30年ごろ、ヨハネという人物がとつぜん荒野に現れて、「悔い改めよ、神の国は近づいた」と唱えます。
ユダヤ人のあいだでは、ユダヤ王国を再建する救世主(ヘブライ語で「メシア」、ギリシア語で「キリスト」)は荒野に現れるという言い伝えがあり、ヨハネのもとにはたくさんの弟子が集まりました。
またヨハネは洗礼という、当時としてはめずらしい儀式をおこなっていました。

このヨハネのもとに、イエスもおもむいたのです。
30歳前後の働きざかりの青年が、家族を置き去りにして、ひとり100キロも南にある荒野へ向かったのはなぜなのか、聖書にもどこにも書かれてはいません。
わかっているのは、イエスが洗礼者ヨハネの弟子になったこと、そしてやがてヨハネの教えにも満足できなくなり、独自の信仰をもつようになったことです。

イエスの教えはなかなか理解されなかった

 

イエスの宣教、その教えと弟子たち

 

イエスの宣教、その教えと弟子たち

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洗礼者ヨハネの教団のなかで、イエスの存在は日増しにおおきくなっていましたが、ある日イエスは教団を離れ、故郷近くのガリラヤ湖まで戻ります。
そしてひかえめに、すこしずつ、みずからの考えを周囲の住民たちに語っていきました。
いわゆる宣教のはじまりです。

イエスが語ったのは、神の絶対的な愛でした。
この時代、多くの民衆は貧しく飢えていました。
また徴税人や娼婦、病人や非ユダヤ教徒たちは卑しいものとされ、虐げられ、迫害されていました。
こうした弱い人たちこそ、神から愛され、そして天国に行くことができるとイエスは説いたのです。

またイエスは、この絶対的な愛をみずからも行うことを勧め、同時にユダヤ教の排他的できびしい教えを批判しました。
「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである、しかし、わたしはあなたがたに言う、敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ福音書5:43)。

こうした宣教によって、イエスのまわりにはしだいに弟子が増えていきました。
ガリラヤ湖で漁師をしていたペテロやヤコブ・ヨハネ兄弟、徴税人だったマタイ、そしてユダなどです。
かれらはイエスとともにガリラヤ湖周辺をまわり、ときにエルサレムまで足をのばしました。
そしてイエスが社会的弱者によりそったり、教えを説いたりするのを間近で見ていきました。

周囲はまとはずれな期待をし、ユダヤ指導者たちは危険視する

 

しかし、弟子をはじめまわりに集まった人たちは、イエスにたいして、救世主(キリスト)としての役割を期待しました。
ここでいうキリストとは、パレスチナからローマを追い払い、ふたたびユダヤの独立をとりもどすという現実的な意味で使われています。
イエスの新しい考え方、つまりユダヤ教という民族宗教から一歩ふみだした普遍的な考え方は、なかなか理解されなかったのです。
イエスとその集団は、イエス自身の意思とは関係なく、独立運動の過激派として見られるようになりました。

これに神経をとがらせたのが、ユダヤ教のサドカイ派とパリサイ派です。
どちらの宗派もローマ支配下で指導的立場にあったので、もし独立をもとめる反乱でもおきれば、ローマから責任をとらされて、指導的立場を追放されるかもしれません。
つまりかれらは、既得権益を失うのがこわかったのです。
反乱をふせぐには、集団のトップであるイエスを捕まえて、殺してしまう必要がありました。

おりしも、かつてイエスの師匠だった洗礼者ヨハネが、こうしたユダヤ社会の指導者の思惑によって捕えられ、殺されていました。
民衆の期待はますますイエスに集まり、サドカイ派などのユダヤ指導者たちはますますイエスを危険視します。
こうした状況のなかでイエスは、ユダヤ指導者の本拠地、聖地エルサレムに入るのです。

イエスはみずから悲惨な死を選んだ

 

イエスは自分の逮捕と死を予感していた

 

イエスは自分の逮捕と死を予感していた

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イエスはエルサレムの城内に入る前にも、入ってからも、自分の死を予感し、すすんで受け入れようとしていたようです。
エルサレム入城直前には、ある女のもてなしに対して「この女はあらかじめ葬儀をしてくれたのだ」と言い、入城後の晩餐では「このパンをわたしの肉、このワインをわたしの血と思え」と告げています。

そして同時にイエスは、弟子たちの裏切りも予想していました。
晩餐の際、ユダにたいして「お前のしたいことをするがいい」と言いはなち、ペテロにたいしては「3度『イエスなど知らない』と言うだろう」と予告します。
そしてじっさいそのとおりになりました。
なぜイエスは、エルサレムに入れば捕まって殺されることを知りながら、すすんでそれを受け入れたのか。
またなぜ弟子たちを突き放したのか。
この疑問はイエスの死後、弟子たちにトゲのように突き刺さることになります。

エルサレムのすぐ東、オリーブ山の麓で休んでいるイエスたちのもとに、ユダヤの警備隊が迫ります。
先導者はユダ。
彼はイエス一行をみつけると、「先生」と言ってイエスに駆けより、警備隊にだれがイエスかを示しました。
ほとんどの弟子が驚きあわてて逃げるなか、イエスはおとなしく捕まり、サドカイ派の祭司の自宅で裁判にかけられました。
あとをつけたペテロは祭司宅の女中から、イエスの弟子ではないかと疑われます。
「そんな人は知らない」、ペテロは3回ウソをつきました。

イエスのみじめな死と、復活

 

イエスは大衆を扇動した罪で死刑となりました。
当時のパレスチナでは、宗教上の罪の場合はユダヤの律法による石投げの刑でしたが、政治犯の場合は、ローマの刑法にしたがって十字架刑でした。
それでイエスはローマ法にもとづき、からだを鞭打たれたあと、重い十字架を背負ってエルサレム城内を歩かされました。
このイエスが歩いた道は「ヴィア=ドロローサ(苦難の道)」と呼ばれます。

ゴルゴタの丘という処刑場所までたどりつくと、イエスはみずからの運んだ十字架に釘で手足を打ちつけられ、はりつけにされました。
イエスはそこで約3時間、耐えがたい苦痛を味わいました。
民衆はイエスが救世主ではないと知った落胆から、彼に罵声をあびせました。
サドカイ派やパリサイ派の人々もイエスを嘲笑いました。
こうしてイエスは罵声と嘲笑のなかで、30数年の生涯を閉じました。

数日後、マグダラのマリアなど、イエスと関わりのふかかった女たちがイエスの墓を訪れると、墓の石が開いていました。
墓のなかには白衣を着たひとりの少年が座っており、「イエスはよみがえって、ここにはいない」と言いました。
これは「マルコ福音書」の記述ですが、他の福音書でもイエスの復活が書かれています。
ぞっとする話で、当時の人々も信じませんでしたが、弟子たちはしかし、このイエスの復活を確信するようになります。
イエスの死が、弟子たちを変えたのです。

キリスト教の誕生と拡大

 

イエスの死と復活の意味とは

 

イエスの死と復活の意味とは

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イエスの死を聞くと、弟子たちはふかい絶望とはげしい後悔の念に苛まれました。
われわれは罪深い、助かりたい一心で師を見捨て、裏切ってしまった……。
人間は罪深い、欲望のままに期待し、失望し、罵声をあびせ、捕まえ、嘲笑し、殺してしまう……。
すべての人はなんと心の貧しいことか……。

しかしイエスは言った、「幸いなるかな、心貧しき人。
天国はかれらのものである」と……。
なぜわれわれは天国に入れるのか、われわれの罪はどこへ行ったのか……。

イエスが引き受けたのだ!みずからすすんで十字架刑になることで、すべての人の罪を背負い、身代わりとなって死んでいったのだ……。
そして神はイエスを、すべての人間の罪を許された、だから3日後にイエスが復活した、イエスの復活は神の愛がたしかにあることの証拠だ!そしてイエスこそ、神の愛を説き、みずからの死と復活でその愛を示すために、神が遣わした本当のキリスト(救世主)なのだ……。

こんなドラマが、弟子たちの心の中で起こったのでしょう。
それから弟子たちは、神の愛と、それを示したイエスの生涯と死と復活を、まわりに語りはじめました。
いわゆる伝道です。
こうして、キリスト教が成立していきました。

弟子たちの伝道によって地中海各地に広まる

 

ペテロやヤコブなどの弟子たちは当初、エルサレムなどのパレスチナ地方で、ユダヤ人相手に伝道をしていました。
ところがある日、ペテロはローマ軍の百人隊長にお願いされて、かれに教えを伝えます。
百人隊長が回心したのをみて、「神は差別をせず、どんな国民も受け入れる」とペテロは悟ります。
ここからキリスト教は、ユダヤ人よりもむしろ非ユダヤ人(異邦人)のあいだで広まりました。

弟子たちはエルサレムにはじめての教会を建てていましたが、ユダヤ人の迫害により、やがて各地に散っていきます。
これもまた、キリスト教を地中海各地に広めるきっかけとなりました。
ちなみにエルサレム教会の責任者だったヤコブは捕えられ、殺されました。
伝説によれば、ヤコブの遺体はのちにスペインに運ばれて埋葬されたため、中世にはその墓のある街が「聖ヤコブにとって良い場所」という意味で「サンティアゴ=デ=コンポステーラ」と名づけられました。

またユダヤ教パリサイ派だったパウロという人は、はじめイエスの弟子たちを迫害していましたが、やがて回心してイエスの教えを伝える側になりました。
パウロはその後、いまのトルコやギリシアといった各地に旅行して、生涯かけて伝道しました。
こうしてキリスト教はローマ帝国内に浸透していきました。
西暦150年ごろにはイエスの生涯と弟子たちの言行録がまとめられて『新約聖書』となりました。
「新約」とは、イエスが神と新たに契約したという意味です。

キリスト教の迫害と公認、そして教義論争

 

ローマ皇帝からの迫害と公認

 

ローマ皇帝からの迫害と公認

こうしてユダヤ教から分かれたキリスト教は、地中海各地で信者を増やしていきます。
帝国の首都ローマや、地中海有数の都市であるアレクサンドリア、またパウロが拠点としたアンティオキア(現トルコの南端アンタキア)などに教会が建てられました。
キリスト教徒の組織化もすすみ、司祭や司教といった役職が生まれました。

しかし当時のローマは多神教でした。
基本的にローマは他の宗教に寛容でしたが、ときの皇帝の性格によって、弾圧や迫害を加えたりしました。
西暦64年には皇帝ネロによって、ローマのキリスト教徒が迫害され、ペテロやパウロも殺されたといわれています。
また303年にも多くのキリスト教徒が迫害されました。
信者たちは「カタコンベ」とよばれる地下の避難所に逃れ、ひそかに信仰を維持しました。

こうした迫害にも関わらず、キリスト教はローマ帝国全土に広がり、もはやその勢力を無視できなくなりました。
そこで313年、ときの皇帝コンスタンティヌスはミラノで勅令(皇帝の命令)を出し、キリスト教を公認します。
かれは崩壊しそうなローマ帝国の再統一に、キリスト教を利用しようとしたのです。

ここからキリスト教はさらに拡大します。
新しい首都コンスタンティノープルや、エルサレムにも教会が建てられました。
ちなみにコンスタンティヌスの母は熱心なキリスト教徒で、エルサレム巡礼の際にイエスの墓を見つけたといわれています。
この場所に建てられたのが「聖墳墓教会」です。

教義をめぐる論争、「公会議」

 

地中海中の広大なエリアでキリスト教が信じられるようになると、やがて信仰のこまかい部分でちがいが発生してきました。
とくにイエス=キリストは神なのか人間なのかという解釈のちがいで、各地の教会がはげしい論争をするようになりました。
ローマの再統一にキリスト教を利用したいコンスタンティヌス帝にとって、キリスト教自体が分裂していては困ります。
そこで皇帝は各地の教会の責任者をあつめて、会議をひらきました。
これが西暦325年の「ニケーア公会議」です。

会議のなかで、アリウス派とよばれる人たちは、キリストの人間的な部分を強調しました。
いっぽうアタナシウス派とよばれる人たちは、キリストは神と同じであると主張しました。
議論の結果、アタナシウス派が正統だとされて、アリウス派は異端とされました。
このアタナシウス派の主張はのちに三位一体説(神、キリスト、精霊は3つでありながら1つであるという説)として確立されていきます。

こうした教義論争はこのあともたびたび行われました。
キリスト教が国教となった後のエフェソス公会議では、キリストの神性と人間性をわけて考えるネストリウス派が、異端とされました。
このようにして「正統」と「異端」を分けていく姿勢は、正統とされたほうの教会の地位を安定させましたが、いっぽうでおおくの分裂を引き起こしていくことにもなります。

中世のキリスト教は東西に分裂する

 

西のローマ教会、東のコンスタンティノープル教会

 

西のローマ教会、東のコンスタンティノープル教会

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西暦395年にローマ帝国は東西に分裂し、476年にはゲルマン人の侵入によって西ローマ帝国がほろびます。
ヨーロッパは西のゲルマン人社会と東のビザンツ帝国(東ローマ帝国)に分かれたのでした。
そしてキリスト教もまた東西に分裂していきます。
西ヨーロッパではローマの教会がいちばん高い地位にあるとみなされ、ローマ教会の大司教は「教皇」と呼ばれるようになりました。
いっぽう東ヨーロッパではコンスタンティノープル教会が中心となり、ビザンツ皇帝と結びついて権力を高めました。

ローマ教会は、コンスタンティノープル教会のように政治的な後ろ盾がほしかったので、当時力をつけていたゲルマン人国家のフランク王国に近よります。
フランク王国としても、野蛮といわれてきた自分たちゲルマン人に権威を与えてくれる存在を求めていました。
こうしてローマ教会はフランク王国と結びついて、西ヨーロッパ全域に影響をおよぼすようになるのです。
800年ちょうどには、フランク国王カールが西ヨーロッパを制圧すると、ローマ教皇はカールに「皇帝」の冠を与えました。

おたがいの後ろ盾がちがうことで、ローマ教会とコンスタンティノープル教会はしだいに対立を深めます。
ローマ教会がゲルマン人への布教に際して聖像(キリストなどの彫刻や絵画)を使ったことも、コンスタンティノープル教会にとっては気にくわず、偶像崇拝だとして反対しました。

西のカトリック、東の正教会

 

そして西暦1054年、ローマ教会とコンスタンティノープル教会はおたがいを破門します。
ローマ側は「自分たちこそ普遍的だ」として「カトリック(普遍)」と名乗りはじめます。
いっぽうのコンスタンティノープル側は「自分たちこそ正しい教会だ」として「正教会」と名乗ります。
こうしてキリスト教は、カトリックと正教会に分裂しました。

カトリックは、フランク王国がフランスとドイツとイタリアに分裂したあとも、各国王や諸侯と結びついて権力を維持しました。
また各地に修道院がつくられて、清貧をモットーに民衆に教えを伝えました。
こうして西ヨーロッパの中世はキリスト教中心の時代となりました。
ローマのサン=ピエトロ大聖堂をはじめ、ドイツのケルン大聖堂、フランスのモン=サン=ミシェル修道院など、いまにのこる世界遺産の数々もこの時代に建てられました。

いっぽうの正教会は、カトリックのようなローマ教皇を頂点とするピラミッド型の組織ではなく、各地に総主教という責任者をおいてそれぞれに発展しました。
コンスタンティノープルでは総主教の座としてハギア=ソフィア聖堂が建てられ、アンティオキアやエルサレム、アレクサンドリアなどでもそれぞれ教会が建てられました。
またスラヴ人との文化交流も進み、ロシア正教会などに派生しました。

しかし正教会の後ろ盾だったビザンツ帝国はやがて、イスラム勢力に押されて衰退します。
このイスラムへの攻撃を企てたのが、カトリックの十字軍でした。

十字軍とはなんだったのか

 

十字軍が起こったワケ

 

西暦1000年ごろからの約300年間、西ヨーロッパは気候が安定し、農業の技術も改良されて、爆発的に人口が増えました。
それにつれて、西ヨーロッパ世界は拡大をはじめます。
イベリア半島での国土回復運動、修道院を中心とした開墾運動、巡礼の流行などがその例です。
十字軍もまた、こうした西欧世界の拡大をしめす事件のひとつでした。

また11世紀から13世紀の西ヨーロッパでは、ローマ教皇の権威が頂点に達しました。
神聖ローマ帝国(いまのドイツ)の皇帝を破門して屈服させたり、「教皇は太陽、皇帝は月」と言い放ったりしました。
十字軍の直接的なきっかけは、このローマ教皇にたいして、ビザンツ帝国が助けを求めたことからはじまります。

当時イスラム勢力はエルサレムを占領し、さらにビザンツ帝国に迫っていました。
助けを求められたローマ教皇ウルバヌス2世は、聖地エルサレムをとりもどそうと呼びかけます。
これにみんなが応えました。
1096年、各地の国王や諸侯、騎士団や修道院、一般の民衆までもが武器をとり、一路聖地をめざし、3年後にはエルサレムを占領しました。
なおこの占領の際、おおくのイスラム教徒が虐殺されました。

こののち、イスラム勢力が盛り返したため、十字軍は1270年までの約70年間で、計7回おこなわれることになります。

十字軍が失敗し、教皇の権威が低下する

 

十字軍には、いろんな人がいろんな目的で参加していました。
教皇はこれを機会に、東西の教会を統一しようと企んでいました。
国王や諸侯は領地や戦利品の獲得が目的でした。
またヴェネツィアなどのイタリア商人は、十字軍にからんで大儲けしようともくろんでいました。
十字軍はけっして、宗教的な熱意だけで起きたわけではなかったのです。

その証拠に、第2回十字軍では内部の対立がおきて失敗しています。
また第4回十字軍はなぜかコンスタンティノープルに向かい、一時占領しています。
これはヴェネツィア商人の要望によるもので、ライバルだったコンスタンティノープル商人を蹴落とすためでした。
こうして十字軍は足並みがそろわず、結局エルサレム奪回という目標を果たせませんでした。

十字軍の失敗によって、教皇の権威は低くなり、逆に国王の権威は高くなりました。
たとえば1303年、教皇とフランス国王が聖書者への課税で争った際には、教皇が負けて捕えられました。
また国王はその後、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに移して支配しました。
さらにその後、ローマとアヴィニョンにそれぞれ教皇が立ったので、カトリック教会は分裂しました(1417年に解消)。

こうした失態つづきに、教会への批判が強まります。
カトリック教会はこの批判をおさえるために、宗教裁判や魔女狩りをさかんにおこないました。
しかし教会への批判はおさまらず、やがてこれが宗教改革につながっていきます。

宗教改革によってプロテスタントが生まれた

 

ルターがはじめた宗教改革

 

ルターがはじめた宗教改革

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宗教改革は1517年、ドイツの神学者マルティン=ルターがカトリックへの批判を箇条書きにして、教会のドアに堂々とはりつけたことからはじまりました。
ルターの過激な行動がなぜ多くの人に支持されたのか、主に2つの理由があります。

ひとつはカトリックの腐敗がすすんでいたこと。
とくに当時の教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂の改修費用をかせぐため、「贖宥状(免罪符)」という札をつくり、これを買ったら罪が許されるとして売っていました。
ルターはじめ多くの人は、教皇とカトリックのこうした姿勢に腹を立てていたのでした。

もうひとつの理由は、ルターの唱える説が諸侯の利害と一致したことです。
ルターによると、カトリック教会の権威などなく、人は信仰によってのみ救われます。
そしてドイツの諸侯もまた、領内の政治に口を出したり、領内の住民から税を取り立てたりするカトリックを苦々しく思っていたのです。
つまり両者は、カトリックの権威を認めないという点で一致しました。

こうした理由によって、ルターはとくにドイツの諸侯から支持されました。
ルターが破門された後も諸侯はかれをかくまい、守り、やがてその勢力はおおきくなって、ついに1555年、諸侯はカトリックかルター派か自由に選んでよいという決まりができました。
こうしてドイツを中心に、ルターの新しい考えが広まっていきます。

カルヴァンの宗教改革と、イギリス国教会の誕生

 

ルターからすこし遅れて、スイスのカルヴァンも宗教改革をはじめました。
カルヴァンもまた、信仰によってのみ救われるとしてカトリックの権威を否定し、そして禁欲と勤労を人々に勧めました。
カルヴァンの考えでは、勤労の結果としての貯金はOKでしたので、主に商工業者のあいだで広まっていきました。
こうしたルター派やカルヴァン派など、カトリックに対抗する宗派を「プロテスタント(抗議する者)」とよびます。

おなじころ、イギリス国王のヘンリ8世は好きな女性ができたので、いまの妻との離婚を認めるよう教皇に頼みました。
ところが教皇がこの離婚を認めなかったため、ヘンリ8世はカトリックと対立します。
そして国王至上法という法律をつくり、イギリス国内の教会は国王が支配するとしました。
こうしてイギリスのキリスト教もまた、カトリックから分離して、イギリス国教会となったのでした。

このようにして西ヨーロッパ世界は、カトリックと、プロテスタントと、イギリス国教会に分かれました。
活版印刷術の改良によって聖書が普及し、人々が直接聖書を読めるようになったことも、カトリック教会の権威をさらに低下させました。
ただカトリックの側でも、だまって見ていたわけではありません。
教皇に忠誠をちかうイエズス会という若者のあつまりを取り立てて、布教をがんばらせました。
そしてイエズス会の若者たちは当時の大航海時代のながれにのって、海外へも羽ばたいてゆきます。

近代のキリスト教は世界に広まり、そして変化する

 

西欧諸国の海外進出によってキリスト教が広まった

 

西欧諸国の海外進出によってキリスト教が広まった

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大航海時代の先陣をきったのは、ポルトガルとスペインでした。
15世紀に国土回復運動によってイベリア半島からイスラムを追いだした勢いそのままに、海外に進出していきます。
ポルトガルはアフリカ沿岸やインド、東南アジア、またブラジルなどに進出しました。
スペインは主に南米やフィリピンなどを占領していきました。

こうした進出には、未開の地にキリスト教を伝えるという宗教的情熱もありました。
イエズス会のフランシスコ=ザビエルをはじめ、多くの宣教師が海外へ向かったのも、そうした情熱のためです。
スペインとポルトガルがともにカトリックの国だったため、両者の進出した土地、つまりアフリカ西海岸やインド沿岸、南米やフィリピンはいまでもカトリックの信者が多くいます。

17世紀になると新興国オランダが両者にとって代わり、海外に進出しました。
オランダはアフリカ南端に植民地をつくり、また現在のインドネシアを中心にアジア貿易をおこないました。
オランダはプロテスタントの国だったので、いまでも南アフリカにはプロテスタントが多く、またインドネシアにはプロテスタントが7パーセント、カトリック信者が3パーセントいます。

17世紀後半からはオランダに代わって、イギリスとフランスが覇権をあらそいました。
やがてイギリスが勝利して、世界でいちばん強い国となります。
イギリスが進出した植民地、つまり北米やオーストラリアもまた、キリスト教徒の多い国となりました。

政治と科学がキリスト教から分かれていく

 

西ヨーロッパの国々が海外進出をした時代に、キリスト教自体にも変化がおとずれました。
政治と科学がキリスト教から、つまり宗教から分かれていったのです。

16世紀から17世紀にかけて、西ヨーロッパは宗教と政治のからんだ戦争や内乱、虐殺をおおく経験しました。
教皇にはもはや、この混乱を収拾し、西ヨーロッパを統一的に治める力はありませんでした。
そこでヨーロッパの国々は、キリスト教という普遍的な価値よりも、自国の利益を優先した政治をおこなうようになります。
これが現代にいたる主権国家体制の誕生です。

また17世紀のイギリスやフランスの国王は、王の権威は神から授けられたものという説(王権神授説)を根拠に、政治をほしいままにしました。
これに反発した新興勢力が、王をしりぞけて議会中心の政治にしたり、王を打倒したりしました。
いわゆるイギリス革命やフランス革命です。
こうして徐々に、政治はキリスト教から分離していったのでした。

そして18世紀には、合理主義と理性を重んじる啓蒙思想が流行しました。
これは神の光でなく、理性の光で物事を照らせという主張です。
この啓蒙思想と、それにさきだつ科学革命によって、人々は聖書をとおしてではなく、実験と数学と合理的説明をとおして世界をみるようになりました。
こうして19世紀ごろには、科学もまた、キリスト教から分離したのです。

最後に教会建築の歴史をまとめました

 

バシリカ、ビザンツ、ロマネスク、ゴシック様式

 

バシリカ、ビザンツ、ロマネスク、ゴシック様式

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最後に、キリスト教には欠かせない教会の、建築の歴史をふりかえってみましょう。
海外旅行でたくさん目にする教会ですが、「○○様式」と言われてもあまりピンときませんよね。
そこでそれぞれの特徴と代表的な建築を、時代順にまとめました。

バシリカ様式(4~7世紀)……初期キリスト教建築を代表する様式。
中央のほそながい大広間が上からみると十字型になっていて、その大広間のまわりを廊下がとりまいているのが特徴です。
代表的な建築は、ローマにあるサン=ジョバンニ=イン=ラテラノ大聖堂などの「四大バシリカ」。

ビザンツ様式(5~15世紀)……ビザンツ帝国(東ローマ帝国)で発達した様式。
ドーム型の屋根と、壁面のモザイク画が特徴です。
代表的な建築は、イスタンブールのハギア=ソフィア大聖堂、ラヴェンナのサン=ヴィターレ霊堂、ギリシアのオシオス=ルカス修道院など。

ロマネスク様式(11~12世紀)……中世のフランスやドイツで発達した様式。
重厚な印象と、アーチを多用しているのが特徴です。
代表的な建築は、フランスのクリュニー修道院、ドイツのシュパイアー大聖堂、イタリアのピサ大聖堂など。

ゴシック様式(12~15世紀)……北フランスでおこり、ヨーロッパ全体に広まった様式。
高くて細い建築と、ステンドグラスのあざやかさが特徴です。
代表的な建築は、フランスのノートルダム大聖堂やシャルトル大聖堂、ドイツのケルン大聖堂、イギリスのウェストミンスター寺院など。

ルネサンス、バロック、ロココ様式

 

ルネサンス、バロック、ロココ様式

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つづけてルネサンス期以降の建築様式も紹介しましょう。

ルネサンス様式(15~17世紀)……イタリアのフィレンツェでおこった様式。
大きなドームや列柱、また均整のとれた見た目が特徴です。
代表的な建築は、フィレンツェのサンタ=マリア大聖堂、ローマのサン=ピエトロ=イン=モントリオ教会の中庭にある「テンピエット」など。

バロック様式(17~18世紀)……宗教改革後のヨーロッパで広まった様式。
過剰なまでの装飾と、劇的な演出が特徴です。
代表的な建築は、ロンドンのセント=ポール大聖堂、ローマのサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ教会など。

ロココ様式(18世紀)……フランスを中心に流行した様式。
繊細さが特徴で、名前の由来は貝がらをマネてつくった装飾「ロカイユ」から来ています。
代表的な建築は、ドイツのヴィース巡礼教会など。

以上、キリスト教会の建築の歴史をかんたんにまとめました。
ここまで見てきたように、キリスト教には2000年以上にわたる深く長く複雑な歴史があります。
旅先で、それぞれの時代の教会を見学しながら、その時代のキリスト教について思いをはせるのもまた、旅の楽しみのひとつかもしれません。

世界最大の宗教、その歴史をふまえて旅すれば……

 
いかがでしたか。
21世紀の現在、カトリック信者の数は11億4300万人、プロテスタントは4億1300万人、正教会が2億7300万人、その他も4億3500万人にのぼります。
クリスチャンもまたそうでない人も、イエスの生涯とキリスト教の歴史をふまえて旅すれば、観光先で目にするさまざまな遺跡がより味わい深く感じられることでしょう。

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