観光の前に知りたい!誰が何のために、ここに山城を造ったの?大野城の歴史

福岡県の中西部、筑紫地域にある四王寺山(しおうじやま)という山に、日本最古の山城と言われる「大野城(おおのじょう/おおののき)」という城の跡があります。城といっても、姫路城や松本城のような天守閣や堀をしつらえた城主が暮らす城ではなく、古代山城(こだいさんじょう)と呼ばれる防衛施設。標高410mほどの小高い山は一見、日本のどこにでもあるのどかな風景を作り出していますが、山のあちこちから石垣や土器などが見つかっています。誰が、何のために、ここに山城を造ったのか。日本の城と戦のあり方に大きな影響を与えた大野城の歴史と全容にせまります。

大野城とは

歴史は古く、日本書紀にも記述あり

歴史は古く、日本書紀にも記述あり

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『日本書紀』天智天皇四年(665年)八月の条に以下のような記述が残されています。

秋八月に 達率答本(実際の記述では火へんに本)春初を遣はして 城を長門国に築かしむ。
達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣はして 大野と椽、二城を築かしむ。

665年、7世紀半ば頃の日本というと、古墳時代が終わって飛鳥時代と呼ばれる時代に入っていました。
天智天皇とは歴史の教科書にも登場する大化の改新(645年)の中心人物、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)のこと。
ただし中大兄皇子は即位の式をあげないまま皇位を継承しているので、年号のみ天智となっていますが中大兄皇子は皇太子のままで政務をとりおこなっていました。
中大兄皇子が即位したのは668年(天智天皇七年)のことで、なぜ7年も即位せず皇太子のままだったのかは、未だ謎とされています。

さて、肝心の『日本書紀』の文章の内容はというと、まず長門国は現在の山口県のこと。
筑紫国は九州北部、今の福岡県のあたり。
達率~とは当時朝鮮半島にあった百済という国からやってきた人物の名前です。
大野とは大野城のこと、椽(き)とは現在の佐賀県にある基山(きざん)に残る基肄城(きいじょう / きいのき、椽城と書くこともあり)のことと考えられています。
つまり大野城は、大和政権が665年に百済人に命じて築かせた城なのです。

長門国に築いたとされる城の名前の記述はないので、残念ながらこの一文から現在の場所を特定することはできません。
しかし後者、筑紫国に築いた二つの城については、文中に記された場所(大城山、基山)から城跡が見つかっていて、場所は明確になっています。
また、この前の年の天智天皇三年(664年)には「筑紫に、大堤を築き水を貯へ、名けて水城と曰ふ」という記述も。
7世紀半ばに、大和政権はこのあたりに盛んに城や堤を築いていたようです。

日本最古の山城

大野城は日本最古の山城です。
山城とは山を利用した天然の要塞で、戦国時代末期あたりまでは全国各地に造られていました。
飛鳥時代、奈良時代に西日本を中心に造られていた山城を特に「古代山城(こだいさんじょう)」と呼んでいます。
大野城は記録上最も古い、日本で最初に築かれた古代山城なのです。

山城は居住するためのものではなく、防御専用の施設であったと考えられています。
城主は平地に住居を持っていて、戦いが始まったら山城に詰める。
そういうシステムだったようです。
つまり山城は、敵襲の恐れがある場所、敵の通り道となり得る場所に築いて、見張り台や砦の役割を担っていました。
中世以降の、力の象徴とも言うべき立派な天守閣を持つ城とは、見た目も役目も大きく異なります。

『日本書紀』の記述のとおり、大野城の跡は九州北部、四王寺山(しおうじやま)という、福岡県太宰府市と大野城市、糟屋郡宇美町にまたがる小高い山の中に残されていました。
四王寺山とは、最も高い大城山(おおきやま・大野山と表記することもあり)岩屋山・水瓶山・大原山の4つの山から成り立っていて、まわりは平地で住宅や水田。
大城山は標高410mとそれほど高い山ではありませんが、なかなかの存在感です。
大野城はこの大城山に築かれていたと考えられています。
その歴史的価値から、日本城郭協会による『日本100名城』にも選ばれており、ハイキングを兼ねて史跡めぐりを楽しむ近隣住人で日々賑わっています。

大野城の場所と地形

大野城の場所と地形

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大野城がある福岡県大野城市(おおのじょうし)の市の人口はおよそ10万人。
博多の市街地のある平野部から内陸方面に細長く伸びた平地部分の延長線上に市街地があります。
その平地部分にはJR鹿児島本線や高速道路などが通っていて、博多からの交通の便がよいことから、福岡市のベッドタウンとして近年人口が増えている街です。

九州は、標高の高い山こそありませんが、内陸部はほとんど山地で、平地は海沿いに限られています。
大野城市を縦断する鉄道や幹線道路は山間の縦長の平地部分を抜けて有明海側の平地部分へ。
東に三郡山地、西側は脊振山地が広がっています。
どちらの山地も最高点で標高1000m前後。
山を越えるのは一苦労です。
鉄道や道路のない時代から、狭間の平地は貴重な通行路であったことは容易に想像がつきます。
四王寺山は三郡山地の端に位置し、この平地部分に突き出すように盛り上がった山。
山頂から博多港や玄界灘を眺めることができ、天気のよい日は対馬まで見渡せて眺望は抜群。
地形を見ると、大城山が山城に適していることがよくわかります。

『日本書紀』では、大野と椽にそれぞれ城を築いたと書かれていました。
椽、つまり基肄城のある基山は、この縦長の平地部分の対角線上、反対側に位置しています。
基肄城も山を利用した強固な山城。
この二つの城は、あるものを守るために築かれたのです。
今からおよそ1300年前、この平地部分にはある重要な施設がありました。
大宰府(太宰府)です。

大宰府の存在

大宰府の存在

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大野城を語る上で、大宰府の存在は欠かせません。

大宰府というと、菅原道真を祀った太宰府天満宮を思い浮かべる人が多いと思いますが、もともとは、大和政権の地方行政機関のことで、朝廷にとって重要な拠点であった播磨・吉備・周防といった土地にも設けられていました。
主な目的は地方の有力豪族の国々の監視と統括。
大和政権にたてつくことがないよう、朝廷直轄の役所を設けて目を光らせていたのです。
その後、時代が進み、大和政権の力が強くなっていったことで、大宰府はその役目を終えていきます。
701年の大宝律令制定後、大宰府は廃止されましたが、その後も九州の大宰府だけはそのまま活動を続けていました。
九州の大宰府には、外交と防衛という大きな役目があったのです。
外交の先は、朝鮮半島及び中国大陸。
大変大きな使命を担っていました。

九州北部、玄界灘沿岸は、弥生時代や古墳時代から、アジア大陸との交通の要衝であり、重要な場所と考えられていました。
大和政権でも6世紀頃、那津官家(なのつのみやけ)という出先機関を置いていたと『日本書紀』にも記されています。
那津とは博多湾、宮家とは朝廷の直轄領のことです。
7世紀には、あの遣隋使小野妹子が隋の使者を連れて那津に着いているところからも、その重要性が伺えます。
おそらく、那津官家は九州の大宰府の前進であったろうと考えられていますが、那津官家がどこにあったのか、正確なところはわかっていません。
現在確認されている大宰府政庁跡は大野城の南側の麓。
那津という名称から海の近くであったと推察するなら、だいぶ内陸に移動してきたことになります。

地図を見ると、大野城から博多の入り組んだ海岸線まで距離にして10㎞あるかないかといったところ。
その先は玄界灘です。
海に出ればおよそ120㎞ほどで対馬、さらにその先50kmほどで朝鮮半島に達します。
大和政権は直轄の施設を内陸に移し、その両サイドの山に665年、山城を設けました。
その理由は?665年頃、何が起きたのか。
さかのぼってみましょう。

大野城の役割

朝鮮半島の情勢

朝鮮半島の情勢

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6世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島では高句麗(こうくり)、百済(くだら)、新羅(しらぎ/しんら)の3つの国が争いを繰り返していました。
拮抗していましたが、新羅がやや、二国に圧されるような状況だったようです。
同時期、隋の後に中国統一を成し遂げた唐という大国が誕生。
東西に勢力を伸ばしつつあったため、大陸は一触即発の状態でした。
この事態は日本にとっても他人事とは言えません。
大和政権もこの状況を重く受け止め警戒を強めていたようです。

7世紀半ば、百済から攻められた新羅は唐に援軍を求めます。
唐にとっては高句麗は討伐したい存在。
新羅と同盟を結びます。
この状況は日本にも伝えられていました。
7世紀半ばといえば、日本は大化の改新の真っ只中。
外交政策でも揺れていました。

百済と日本は4世紀頃から交流があったとされています。
百済を通じて、様々な大陸文化が日本に伝わっていて、人の行き来も多かったようです。
一方、中国大陸と間にも長年の友好関係が続いており、この頃数回、遣唐使を派遣するなど外交政策がとられていました。
現状、唐に味方するということは百済との敵対を意味し、百済との友好関係を保つなら唐に攻め込まれる可能性があります。
どちらにつくべきか。
そうこうしているうちに、唐・新羅連合軍が百済の王都に攻め込み、百済を滅ぼしてしまったのです。
660年のことでした。

白村江の戦い

唐の本来の目的は高句麗の討伐です。
主力部隊はすぐ百済を出て、高句麗へと移動を始めます。
百済は国を復興させるべく、日本に援軍を求めてきます。
その頃、百済の勢力争いに破れ国を追われた百済王の太子扶余豊璋(ふよほうしょう)が人質として日本にいたので、その太子を担ぎ上げて百済を復興しようとしたのです。

当時の斉明天皇(中大兄皇子の母)は百済へ援軍を送ることを決意。
かなりの大軍を編成し、中大兄皇子に指揮をとらせ、自らも九州まで出張っていきます。
前代未聞。
しかし戦への備えを整えている最中に斉明天皇が亡くなってしまいます。
中大兄皇子は即位せずにそのまま指揮を続行。
百済復興軍へ救援部隊を送るべく、朝鮮半島に大軍を送り込みます。

663年8月、日本勢は朝鮮半島南西部にある白村江(はくすきのえ/はくそんこう)というところで唐・新羅連合軍と衝突。
日本勢は総勢27000人の兵からなる大軍であったとされています。
数で圧倒した日本勢ではありましたがうまく立ち回ることができず、唐の水軍に挟み撃ちにされ、岸にたどり着くどころか海で船が次々に炎上。
数百艘の船が燃え上がり、唐の武将のひとりが「煙は天にまで登り、海は血で赤く染まった」と伝えています。
相当な激戦の末、日本は大敗。
百済は完全に滅びます。
百済の太子は高句麗へ亡命。
日本勢の生き残りは百済の亡命者を伴って退却していきました。

防衛体制の強化

白村江の戦いにおける敗退で、大和政権は朝鮮半島への足がかりを失っただけでなく、唐と新羅を完全に敵に回してしまうという窮地に陥ります。
何せ、朝鮮半島から対馬は120㎞ほど、対馬から博多までは50㎞程度。
日本も大軍で攻め入ったのですから、あちらが攻めてくる可能性は非常に高い。
上陸されたら那津の朝廷直轄地はすぐ制圧されてしまうでしょう。
もしかしたら日本は唐に滅ぼされてしまうかもしれません。
当時の中大兄皇子や側近たちの心の内を知る術はありませんが、相当慌てたのでしょう。
ここから怒涛の勢いで、筑紫国の防備を固めていくのです。

『日本書紀』によれば、白村江の戦いの翌年の664年、対馬、壱岐と筑紫国、つまり福岡に、防人(さきもり)と呼ばれる兵を配置し、さらに烽(ほう/とぶひ)というのろし台を整備します。
さらに同じ年、筑紫に水城(みずき)と呼ばれる大堤を築きました。
大城山の麓から平地を横切るように、長さ約1.2km、幅約80m、高さ13m、前代未聞の巨大堤です。
現在でも跡はしっかり残っていますが、あまりに巨大なため、近くで見ても木々が生い茂った山のように見えるだけ。
大城山など高所から見下ろすか、空撮でもしないかぎり全貌はわかりません。
離れてみると、緑が生い茂った土塁が東西にまっすぐのびている様子が確認でき、その巨大さは圧巻です。

現在では水のあとはありませんが、『日本書紀』には「水を貯えしむ」という記述があり、おそらくは、近くの川から水を引いて水を貯めた、巨大な壕のようなものだっと思われます。
このような水城が、他にも数カ所、築かれたのです。
どれほどの人員を割いて、どれほどの年月をかけたのか。
それほど、海の向こうの大国に脅威を感じていたのでしょう。
また、時期は定かではありませんが、この頃には那津官家を水城の内側に移動させ、大宰府の形ができあがっていったのではないかと思われます。

九州-瀬戸内防衛ライン

九州-瀬戸内防衛ライン

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朝廷直轄地を内陸に移動させ、防衛のための軍隊を配置し、のろし台という通信手段を配備。
大宰府へ続く山間の平地に大堤を設けて盤石の態勢をとりますが、まだ安心はできません。
翌年の665年、大和朝廷は百済からの亡命者たちを派遣して、各地に城を築かせました。
長門国、大野と椽の他にも、高安城(たかやすのき/たかやすじょう)、讃吉国(讃岐)の屋島城(やしまのき/やしまじょう)、対馬国の金田城(かねだのき/かねだじょう)の名前が『日本書紀』に記載があります。
高安城の場所は奈良と大阪の境、生駒山地の南側にある標高487メートルの高安山。
屋島城は香川県高松市の瀬戸内海を一望できる高台に築城しました。
どちらも、奈良へ進軍してくる敵を迎え撃つには絶好の場所です。
このほかにも、九州から瀬戸内にかけて、20以上もの山城を築いたと言われています。
そして、朝鮮半島に最も近い位置にある対馬の金田城は海に突き出した地形を活かして石垣が張り巡らされており、その規模は桁はずれ。
日本を守る最前線であることを伺わせる城壁は圧巻です。

こうして、国の守りは着々と進められていきました。
どの山城も巨大な石積みや土塁を備え、かなり強固なものであったようです。
山城の跡を見ただけでも、当時の大和政権が抱いた危機感、新羅・唐への警戒心の強さは相当なものであったと思われます。
そして築城には百済からの亡命者たちの力が注がれていました。
百済人の技術無くしてこれらの山城の建設は成し得なかったでしょう。

大野城の構造

現代に残る古代山城の跡

663年の白村江の戦い以降、西に四を中心にたくさんの山城が築かれ、後の世の学者たちによって研究されてきました。

665年の大野城築城に関する記述から数年の間に『日本書紀』『続日本紀』には大野城、基肄城、長門城、高安城、茨城、常城、屋嶋城、鞠智城、金田城、三野城、稲積城を築城に関する記述があります。
このうち、長門・茨・常・三野・稲積については、文献に記述はありますが所在地は明らかになっていません。
場所がはっきりしている城については発掘・研究調査が進められていて、石塁や土塁のほかに城門、水門跡、倉庫建物跡などが見つかっています。
建設にどれくらいの年月がかかったか、文献には詳しくは記されていませんが、築城の3~4年後に修繕を行ったという記述が残る城も多いのです。
どの城も短期間で急ピッチに建設されたのでしょう。
(百済人の技術による城ということで朝鮮式山城、百済式山城と呼ぶこともあり)

一方で、上記11の城跡以外でも、九州から瀬戸内、近畿地方にかけての一連の防衛ライン上で、石垣や土塁跡が発見されています。
おそらく7世紀半ばから後半に、国防目的で作られた山城の跡ではないかと考えられている遺構は16ヶ所。
『日本書紀』『続日本紀』に記載がないこれらの山城を神籠石山城(こうごいし)、または単に神籠石と表記することもあり、福岡県久留米市の高良山神籠石や山口県光市の石城山神籠石、太郎伝説が残る鬼ノ城(きのじょう)などがそれに当たります。
なぜ文献に記述がないのか、これらの遺構がすべて国防目的の山城であったかどうかについては様々な説がありますが、もし、全てが敵の襲来のために設けた山城だったとすると……。
当時の日本の緊迫した様子を伺い知ることができます。

天然の要塞・大野城

天然の要塞・大野城

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文献にない山城の築城年はわかりませんが、663年の敗走直後の665年という時期から考えて、おそらく、大野城は日本で最初に作られた古代山城ではないかと思われます。
水城の延長線上、大宰府のすぐ北側に位置しており、山頂から玄界灘や対馬を見ることができるという地理からも、大野城の建築は急務であったと考えてよいでしょう。

百済古代山城は自然の地形を利用しており、外からは城だとわかりにくく、守りに徹した形状をしています。
城の形よりまず地形的に守りやすいかどうか。
姿形を表して力を誇示するのではなく、あくまでも篭城、いざというときに立て篭って守るための、機能重視の要塞施設なのです。
大陸と陸続きの朝鮮半島の城だからこそ、このような城の技術が発展していったのかもしれません。
築城場所を百済人が決めたのか大和政権が定めたのかはわかりませんが、地図もなく、移動は徒歩のみであろう時代によくこの場所を見定めたものです。
ここに来て築城に心血を注いでいた百済人たちには、もう、帰る故郷はありません。

敵が攻め入ってくる可能性が高いのは、もちろん、玄界灘方面。
地形から見れば博多湾からの上陸が朝鮮半島からの距離も短く、最も警戒すべきルートであったはず。
しかし、弥生時代にさかのぼると、大陸からの文化や情報の伝来は博多湾方面だけでなく、南方の有明海側からの上陸もあったのではないか、と考えられています。
大野城よりやや南、大宰府を挟んで対角線上に基肄城を設けたのも、南からの侵攻に備えてのことだったのかもしれません。
さらに『続日本紀』にある鞠智城(きくちじょう/くくちのき)はさらに南、大宰府より60㎞ほど離れた、現在の熊本県、有明海沿岸の平地部分に築かれています。
城ひとつひとつ単体の防御策ではなく、九州北部全体の地形を活かし、大野、基肄、鞠智の三体制で、ありとあらゆるルートからの侵攻を防ぐつもりだったのでしょう。
まさに、天然の要塞。
大野城はその要だったのです。

土塁と石垣

土塁と石垣

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四王寺山は中心部が盆地のようにくぼんでいて、東の大原山山頂、西の大城山山頂、北側の屏風岩付近など周囲をぐるりと囲むように尾根が続いている、すり鉢のような形をしています。
この地形を活かして張り巡らせた土塁が大野城の城壁です。
土塁の長さは6km。
さらに守りを固めるべく北側と南側(大宰府側)はの土塁は二段構えになっていています。
また、四王寺山の中は川が流れていて起伏が激しいため、谷や窪地の補強として大きな石を積んで石垣が作られ、敵の侵入に備えていました。
土塁の総延長8kmにもなります。

平成15年の集中豪雨で土塁の一部が損壊した際、修復工事のための調査が行われました。
その際、土塁を詳しく調べたところ、版築という方法で作られていることがわかったそうです。
版築とは丸太などで作った外枠の中に異なる性質の土を盛り、叩き固めながら作っていくもので、古代中国の黄河流域でよく見られる工法。
日本でも古代より、古墳や、吉野ヶ里遺跡の墳墓などでも用いられています。
大野城の土塁は、一見すると遊歩道のようで、自然の中の山の畝のように見えますが、山の下から登ってきた敵からすれば、厄介な代物であったに違いありません。

一方の石垣はこれまでに、百間石垣、大石垣、北石垣、小石垣、水ノ手石垣、屯水石垣、原石垣の7箇所、見つかっています。
最も長いのが北側の百間石垣で、長さ180m、高さはだいたい4mほど、最も高いところでは9mにもなる巨大な石垣。
崖に沿ってうねるように続く巨石の石積みはまるで龍のようです。
現在では少し土が堆積している箇所もありますが、完成当時はもっと迫力があったのではないでしょうか。
どれだけの石が積まれているのでしょう。

戦の犠牲者はいつの時代も土地の農民です。
この城を築くために、多くの農民が駆り出され、過酷な労働を強いられていたに違いありません。
そして、戦が始まれば戦場に出なければならない。
ここで働いていた人々は、どんな思いでこの石を積んでいたのでしょうか。

城門と建物跡

城門と建物跡

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現在、大野城跡では、土塁に沿って山道が設けられていて、ハイキングを兼ねて周辺を散策することができるようになっています。
土塁の内側は東西におよそ1.5km、南北3km、面積は180ヘクタール。
東京ドーム38個分の広さで、川や谷、丘陵などが折り重なって複雑な地形。
山道づたいに遺跡を見学して回ることができます。

城はぐるりと城壁に囲まれていますので、どこかに出入り口が必要。
大野城でも何箇所か、城門跡が見つかっています。
当初は城門は4箇所と考えられていましたが、平成15年の集中豪雨の後に4箇所、その後さらに1箇所、城門の跡が見つかりました。
城門も残されているものは礎石や石積み、土塁の途切れ目のみで、門柱は残っていません。
南側の大宰府口城門が最も規模が大きいとされており、おそらく、ここが大野城の正門であったのだろうと考えられています。
築城当時は穴を掘って柱を立てる掘立柱形式であったようですが、後に礎石形式へと建替えた形跡があるとのこと。
より守りを固めるために、二階建ての楼門形式に変えたのではないか、とも考えられています。

大野城が敵の襲来の際に立てこもるための城と考えれば、まず必要になるのは食糧庫。
敷地内には平らな場所が数箇所あり、建物の跡と思われる礎石が多数見つかっています。
建物自体は残念ながら残っていませんが、地面に埋められた礎石は整然と並んでおり、そこに建っていた建物が目に映るようです。
石はどれも平で大きくしっかりとしており、高床式の建物を支えていたのではないかと思われます。
また、一部の礎石群のまわりから、焼けて炭化した米粒などが見つかっているため、食料などの備蓄倉庫があったという説が有力です。
また、井戸の跡と思われる石積みも見つかっています。
建物は数棟~十数棟ずつまとまっていた様子で、確認できているだけでも城跡全体で70棟ほど。
いざというときは食料を蓄えて立てこもり応戦する備えは万全だったようです。

大野城のその後

統一新羅と遣新羅使

統一新羅と遣新羅使

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大野城をはじめ、数多くの防衛施設を築いた大和政権でしたが、唐・新羅が攻めてくることはありませんでした。
少なくとも、残された文献にはそのような記述はありません。
理由についての考察も記述されていないため、詳細はわかりません。
しかし、白村江の戦いの後、大和政権が懸命に山城を築いていたのと並行して、唐から使者が派遣されてきます。
その際、書簡と品物を持参しており、日本側も使者を手厚くもてなし贈り物を渡したとの記録が残っていますが、具体的にどんなやり取りがあったのかは不明です。
唐からの使者は665年にも、対馬を経由して九州北部に上陸していますが、そのときは水城、大野城、基肄城の工事は始まっていました。
守りを固め侵攻を警戒しながらも粛々と外交を進める。
『日本書紀』の記録には出来事だけが書かれており、双方の意図はわかりません。
しかし、もしかしたら、現代の国際関係に通じるような駆け引きが行われていたのかもしれません。

最も、唐の目的は高句麗にあり、高句麗討伐のために日本とねんごろになっておいた方がいいだろう、という思惑があったとも考えられます。
日本を友好国と思ったか、強敵と考えたか、傘下におさめたつもりでいたのか。
推測はいろいろ可能ですが、668年、高句麗も滅亡し、唐が半島から撤退します。
同盟を組んで高句麗を追い込んだ新羅ではありましたが、いい関係は続かなかったようです。
新羅は朝鮮半島をほぼ統一し、唐の影響を受けつつも対立構図を見せ、半島は以前として緊張状態にありました。

そんな中、日本は新羅に何度も使者(遣新羅使)を出しています。
新羅からも同様に、何度も使いがやってきます。
日本からは『日本書紀』『続日本紀』に残るだけでも、9世紀に入るまでの間に20数回、贈り物を送ったり、朝廷に使者を招いたりといったやり取りを行っていたようです。

百済に味方したことで、唐・新羅から敵視されると警戒し築き上げた防衛ラインも、幸いにして使われることなく、月日が過ぎていきました。

四天王像と大野城

四天王像と大野城

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その後も大野城は戦場となることはなく、役目は終わったかと思われました。
しかしその後、奈良時代末期の774年に、大野城に四王院という寺が建立されたという記録が残っています。
内容としては、新羅が呪詛(災いがかかるよう祈ること、呪うこと)を頻繁に行っているので、これを振り払うために四天王像を造って安置せよという命令でした。
四天王とは東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の毘沙門天(多聞天)のことで、仏教の世界での守護神。
日本でも古来より四天王信仰というものがあったようで、東大寺や法隆寺にも四天王像が置かれています。
これを大野城に置いて日本を守れというのです。

当時、新羅は新しい政治の推進派と従来の体制に戻そうとする復帰派との間で国政が混乱。
日本との関係にもかげりが見えていました。
呪詛のくだりはその影響かもしれません。

城に寺を建立とは、あまり例のないことなのかもしれませんが、朝鮮半島と対峙する場所という意味では、大野城は最も適した場所だったのでしょう。
残念ながら大野城にこれらの寺の建物は残っていませんが、”四王寺山”という名前の由来になっています。

780年には遣新羅使は廃止され、遣唐使も894年には終了。
その後、脅威であった唐は907年に滅亡し、935年に新羅も高麗に滅ぼされて消滅。
朝鮮半島および中国大陸の様相も大きく変わっていきました。

中世のから近代へ

戦国時代に入ると、1586年、島津軍と大友軍による岩屋城の戦いが勃発。
四王寺山の中の岩屋山の中腹に岩屋城という山城が築かれました。
築城したのは大友の家臣の高橋紹運であると言われています。
大和朝廷が築いた大野城で戦が行われたわけではありませんが、奇しくも、およそ1000年の時を経て、同じ山に出城を築こうとした武将がいたのです。

大友は鎌倉から戦国時代にかけて九州北部を治めた一族。
一方の島津と言えば現在の鹿児島県、南九州で強大な力を誇った大国です。
九州平定を目論む島津軍が北上し、残り少ない抵抗勢力のひとつ、高橋紹運を討つために彼の出城であった岩屋城を20000の大軍で取り囲みました。
岩屋城に籠ったのは763名だったと言われています。
数の上ではまったく、勝負になりません。
しかし、高橋紹運の軍勢は城に籠り、島津軍を脅かします。
攻防は2週間に渡り、激しさは増すばかり。
ついに島津軍が総攻撃をかけ、高橋紹運は自害して果てたと伝わっています。
四王寺山の南側には高橋紹運の墓があり、大軍に抗い采配を振るい続けた名将は今もこの地に眠っているのです。
一方の島津軍も、勝ったには勝ったものの軍の疲弊著しく、持ち直しにはかなりの時間がかかったといいます。
結局、島津の九州制覇の夢は潰えました。
岩屋城の守りは、それほど強固なものだったのでしょう。

ところで大宰府はというと、戦国時代にはもう、なくなっていたものと思われます。
実は九州の大宰府がどのように終わりを迎えたのか、不明な部分が多いのです。
10世紀頃はかなり強い権力を持っており、平家が栄華を極めていた頃には中国(宋)との交易に忙しかったようですが、平清盛がもっと海側に移動させたという説もあります。
そして鎌倉幕府の成立の後、12世紀頃には終焉を迎えていました。
時代は豊臣による天下統一、江戸時代と移っていきます。
日本存亡の危機に誕生した日本最古の巨大山城は、静かに街を見下ろしながら、何を思うのでしょうか。

水がなくならない不思議な池

大野城の南の端に、鏡池(鏡ヶ池)という名の池があります。
深さは5mほど。
籠城の際の水の確保のために造られたものと考えられていますが、日照りが続いて渇水状態になっても、この池の水がなくなることはありませんでした。
山の上のほうにあるのにどうして水が枯れないのか、まだわかっていないのだとか。
大野城にはまだまだ、たくさんの謎がありそうです。
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